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博士(文学)学位請求論文審査報告要旨
論文提出者氏名 瀧 陽 子
論 文 題 目 安部公房の研究――満洲・共産党・演劇を中心に――
審査要旨
本論文は、戦後文学の作家・安部公房の出発期から1950年代に至る前半期の年譜的事実、および小説や戯曲について、実証的 な観点から詳細な検証を試みたもので、全三部、約一二〇〇枚からなる労作である。安部公房は、1924年に東京で生れ、医師であ った父の勤務先である中国東北部・旧満洲で青少年時代を過ごし、引揚げて戦後に文学活動を開始するとともに、思想的にマルクス 主義に接近し、共産党員としても活動した。この間、「壁――S・カルマ氏の犯罪」で芥川賞を受賞したほか、戯曲や映画のシナリオな ども手がけて、多面的な活動を展開した。論者は、その経緯を「第一部 安部公房と奉天」、「第二部 安部公房と日本共産党」、「第三 部 〈大衆〉との邂逅」の三部にわたって考察し、安部公房の実生活と文学テクストの両面から、前半期の活動の足跡を綿密に調査・分 析し、多くの新事実を発掘することで、安部公房研究に新しい収穫をもたらしたと評価できる。
まず「第一部 安部公房と奉天」においては、全五章にわたって彼の育った中国東北部・旧満洲奉天の生活環境を、近親者や同級 生からの聞き取り調査などを積み重ねて詳らかにし、安部公房文学の基盤を明らかにすることに努めている。「第一章 瀋陽の安部公 房-作家誕生までの前史-」では、作家誕生までの前史を確認しつつ、奉天の小学校・中学校時代から敗戦にいたる安部公房の足 跡を追尋。また「第二章 父と満洲-安部公房と衛藤瀋吉-」「第三章 引揚げ船内でなにが起こったのか-安部公房と清岡卓行-」
では、同じく植民地統治下の満洲で少年期を過ごし、引揚げを経験した衛藤瀋吉、清岡卓行の満洲体験と比較することで、当時の日 本人居留者としての共通性と差異にも注目している。そして、「第四章 安部公房と実験学校-満洲教育専門学校付属小学校・宮武 学級の事例-」「第五章 敗戦後、瀋陽(旧奉天)の日僑学校の状況について-大連の日僑学校との比較考察-」においては、奉天 という都市の特質とともに、彼が受けた学校教育、特に先進的な自由教育の実践者であった宮武城吉の読書指導をはじめとする学級 運営と、旧満洲における日本人子弟の学校教育の実態が、多くの新資料をまじえて詳しく辿られている。
ここにおいて特筆されるのは、第一にいわゆる活字資料のみならず、実妹・実弟などの肉親、小学校・中学校時代の同級生や関係 者ら延べ90人を超える聞き書きやインタビューを通して貴重な証言を引き出し、その過程で提供された書簡や日記などをも通して、安 部公房の自筆年譜を含む従来の年譜や伝記的事実に修正を加え、また大幅に加筆増補すべき新しい事実を数多く掘り起こしている 点である。そして同時に、こうした安部公房の年譜的事実を追求する過程で得られた旧奉天在住経験者らの証言や各種の関連資料 が、安部公房の個人史にとどまらず、独立したコミュニティとしての旧満洲の特質をも浮かび上がらせ、アジア地域史や教育史など、文 学以外の研究分野に大きく寄与している点も、見逃すことができない。上記の論考のいくつかは、旧満洲をめぐる研究会で報告され、
関連の研究誌等に発表されたもので、これらの分野においても本論文が高い評価を受けていることにも言及しておきたい。
続く「第二部 安部公房と日本共産党」では、全五章にわたって戦後の共産党入党の経緯を論証するとともに、埋もれていたシナリ オの発掘などを通して、初期の作品を同時代の現実や政治との関わりで新たに読み解いている。「第一章 安部公房のポジショニング 変動-〈天才〉から〈貧乏作家〉への転回-」では、戦後の言説空間において観念的作風の知識人作家として出発をとげた安部公房 が、メディアとの関わりを通して大衆読者との間の通路を切り拓いていく過程とともに、諸説ある共産党入党の経緯や時期についても 綿密に論証。 「第二章 「壁」の眼の獲得-敗戦体験と「S・カルマ氏の犯罪」-」では、安部公房文学のキーワードとして知られてい る「壁」の問題をめぐって、文字通り「壁の町」であった旧満洲奉天に生い育った安部公房の敗戦体験を確認することで、彼がその後ど のように「壁」を方法論にまで昇華させたかを論証し、出発期の安部公房の方法的模索を明らかにした。また、 「第三章 引き裂かれ る〈鳩〉の象徴性-安部公房「手」の同時代的読みの可能性-」 「第四章 文学の冷戦と安部公房-「R62号の発明」試論-」 にお いては、「手」「R62号の発明」という二つの小説をとりあげ、これらが米ソのいわゆる冷戦体制のなかで書かれたことに着目しつつ、そ れらの作品がもっていた同時代の文脈における政治的意味を読み解いている。そして「第五章 罪責の行方-「壁あつき部屋」試論
-」 では、巣鴨刑務所のBC級戦犯たちの手記集を翻案して安部公房が執筆したシナリオの第一作「壁あつき部屋」について、松竹 大谷図書館所蔵の社内審査用台本を新たに発掘し、数次にわたる改稿の過程とその意味するところを、具体的に論証した。
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氏名 瀧 陽子
これらの論考において論者は、従来、安部公房の文学が「無国籍的」「コスモポリタン」などと評されたように、特定の具体的な時代 や場所に還元されず、それらの要素をそぎ落して抽象性を志向し続けたとする理解に対して、同時代的な文脈に基づいた読みの可 能性を提唱・実践している。すなわち、1950年代当時の安部公房自身が、自らの方法論として「事実」ないしは「現実」の凝視から出 発すべきであると繰り返し述べ、その「現実」を認識しようとする衝迫が創作の契機になると主張していたことを確認しつつ、戦後の言説 空間および米ソの冷戦構造のなかでアクチュアルな文学活動を展開していた安部公房の足跡と、その文学テクストの同時代との関わ りに新しい光があてられている点に、これらの論考の大きな特色が存する。
そして「第三部 〈大衆〉との邂逅」では、全七章にわたって1950年代の演劇活動を取り上げ、上演記録やテクストの改稿を詳しく辿 りながら、大衆との接点を見出し、戦争体験を思想化していく過程が追尋されている。「第一章 安部公房の劇界進出-共産党・映 画・演劇-」では、1950年代半ばから安部公房が劇界に進出する経緯を確認し、この時期における新劇界の状況や、千田是也ら演 劇人との関わりを明らかにするとともに、映画「飢餓同盟」の企画から頓挫にいたるまでの過程についても、新資料に基づく新説を提示 している。「第二章 戯曲「どれい狩り」論-「主役」としての肖像画-」 「第三章 安部公房と大阪労演-初演「どれい狩り」の評価を 中心に-」 「第四章 「境界」者たちの加害者論争-戯曲「制服」の改稿問題を中心に-」 「第五章 安部公房と朝鮮人-「壁あつき 部屋」から「制服」へ-」 は、この時期に執筆・上演された戯曲「どれい狩り」「制服」を中心に、その執筆・改稿過程の詳しい検討を通 して、戯曲そのものの内容を丁寧に分析し、また公演形態の実状とその反響や同時代評の問題などにも注目しながら、安部公房の戯 曲を同時代の文脈に即して多角的に論じることを試みている。そして、 「第六章 死者は死んでいる-「幽霊はここにいる」に至るまで
-」では、1950年代後半のこの戯曲にいたって彼が自らの戦争体験の思想化をなしとげるまでの道程を跡づけているが、これら195 0年代の安部演劇については、映像資料が十分に残されていないこともあって、先行研究ではほとんど積極的に論じられてこなかった 分野であるだけに、上記の諸論考は安部公房研究の未開拓の分野に鋤を入れた果敢な試みとして評価されるものである。終章の
「第七章 『砂の女』を読み替える-「死と性病」の再考から-」では、1962年に刊行された小説『砂の女』を取り上げて従来の解釈と は異なる新たな読みを提示し、1950 年代から 60 年代へ、戯曲から小説への転回に眼を向けた。
もとより、これまで辿ってきたように、本論文は「第一部 安部公房と奉天」における伝記的研究、「第二部 安部公房と日本共産党」
における同時代との関わりを中心とした作家論的研究、「第三部 〈大衆〉との邂逅」における戯曲の内容分析を中心としたテクスト論的 研究と、いくつかの方法論が混在し、論者の積極的な試みが評価される半面、不統一の観を呈していることも否めない。また、事実に 主眼をおいた実証的研究であれば特に、安部公房自身の発言を含めて、引用されている資料や証言の信頼性を今後も検証していく 作業が不可欠であろう。さらに同時代的な関連や作家の政治的立場を読み込むことで、新たな解釈を導き出した本論文の成果をふま えて、一義的で排他的な解釈に陥ることなく、もういちど自律した文学テクストとしての小説や戯曲を多様に読み解いていく可能性につ いても、あらたな模索が求められる。本論文では取り上げなかった1960年代以降の安部公房の後半期を今後どのように論じ、たとえ ば前半期の「戦争」や「罪」の問題から、「都市」の問題へと転回していく彼の文学テクストをどのように読み解いていくことができるか が、本論文「安部公房の研究」を「安部公房の総合的研究」として発展させていく大きな課題であることは、いうまでもない。
しかし、そのような問題点や課題を含みながら、本論文は安部公房の前半期についてのこれまででもっとも詳細・綿密な研究成果で あり、丹念な資料調査と多くの証言を通して安部公房の生い立ちと旧満洲奉天の生育環境をめぐって多くの新しい知見を提出してい る点、戦後の文学活動の出発期の様相について同時代的な関わりのなかで綿密に考察を加えている点、そしてこれまで十分に論じら れてこなかった安部公房の演劇活動の実態とその戯曲の内容について詳細な検討を加えている点において、質量ともに充実した研 究としての意義が認められる。よって審査委員会は、本論文が「博士(文学)」の学位を授与するに値する業績であると判定する。
公開審査会開催日 2011年 8月 2日
審査委員資格 所属機関名称・資格 博士学位名称 氏 名
主任審査委員 早稲田大学・教授 宗像 和重
審査委員 早稲田大学・教授 博士(文学) 十重田 裕一
審査委員 東京学芸大学・教授 関谷 一郎
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