川田俊昭川田俊昭
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(2) フィクションとしての経済学一一ケインズとマルクス. (1). 3 9. 「……何よりも先ず我々が気をつけなければならないのは,ある, f時代』 の『精神的動向』なるものに,何かフィクション以上の意味を認めるとい う,およそ思想史の理解にとって致命的な誤謬に陥ってはならないという ( 1 ). ことで、ある d. ( 1 ) シュムベーター『社会科学の過去と未来.J].訳(講談社学術文庫社会科学の未. 来像.J]) 9 3頁 。. 経済学(社会科学)は経験科学であり,常に経験的事実(現実)を対象と するものである一ーとは,その表現に種々差はあれ,我国における大抵の経 済学(社会科学)の教科書冒頭にある決まり文句,気障な台詞である。 その実,考える必要のない,誰にも容易に受入れ易いところの……。それ 自体,一見自明ということに便乗するところの……科学(学問)にあるまじ き便乗主義,大衆迎合主義。…・口下手な猿芝居,大向うをうならせんとする その大根役者ぶりに,筆者など愛想、を尽かし果てているところの。……「また か」と,そっぽを向かざるを得ないところの…・・。 経済学(社会科学)は,そのように経験的=外的で、あり実証的であるより, 体験的=内的で、あり理論的な(誤解きえなければ一一一フィクショナルな)科 学である。 世間常識的に言えば一一経済学(社会科学)は,物理学より,むしろ,文 学(或は,哲学)に近い。 人々が斯かる真の自明に気付かないのは,何より,彼等が科学(というよ り,科学的アプローチ,科学的体験)に無縁の衆生であるからに他ならない 0. 1まなき衆生は度し難し¥. とか。. 彼等は,その全部か,或はその殆どが,単なる亜流の徒である。真実に気 付いているどちらか懐疑的な気弱な人々も,結局は,先のような彼等(及ぴ その政治的結社,団体一一派閥)に右へ倣えの姿勢をとる点,やはり,亜流 (換言すれば,奴球)といつの他,仕様のない人々である。 敢て,むつかしいことは言わぬ 一寸,考えてもみたまえ!. 1.
(3) 40. それ自体独立して,経済と称すべき如何なる存在もありゃしない. 1. 我々は,最小,我々の五感(一一一我々の経済人の経験)においてさえ,最 初,経済(社会)を直接確実なものとして経験するのではない。我々はイメ ージとして(或は,アイデアとして),然り! かなりの繰返し,反努によって(所謂. 把握するのである。それも,. 天才的直感"を認めるに苔かではな. いが,但し天才者に限つての)一一場合によっては,我々の恋意,思考,或 は理性(抽象力,理論的に考える能力一一それは我々における第二の天性. s e c o n dn a t u r e であろうか)によって,事柄を把握するのである。 たち. 人間という此世界の小さい神様は同じ性に出来ていて, あめっち. それこそ天地のなりいでし日と同じ気まぐれを保っています。. 人間はあれを理性と謂ってどうそれを使うかと言うと, どの獣よりも獣らしく振舞う為めに使うのです。 (ゲーテ『ファウスト.ll) 『驚くべきことに,人間は余りに長く一人でものを考えていると,一時的 には,どんな馬鹿げたことでも信じてしまうものである。人間の考えを形 式的又は実験的にはっきりと検証することが屡々不可能である経済学(他 ( 2 ). の道徳科学と並んで)においては,特にそうである。」 ( 2 ) ケインズ「雇用・利子及び、貨幣の一般理論Jj,序。. 「経済的諸形態の分析では,顕微鏡も化学的試薬も用いるわけにいかぬ。 ( 3 ). 抽象力なるものがこの両者に代らなければならぬU ( 3 ) マルクス「資本論Jj,第 1版序。. 「社会の経済状態に関するあらゆる包括的な『理論」は,相互補足的な, しかし本質的には異った二つの要素から構成されている。第ーには,社会 のその状態の基礎的特徴に関する一一与えられた時における社会の生活を 理解するためには,何が重要で、あって何が重要で、ないかということに関す る理論家の見解〔むしろ,見識〕がある。それを我々は彼のヴイジョン. v i s i o n 直観的洞察一一訳者〕と呼ぶことにしょう。そして,第二に,理 論家の技術一一一彼が彼のヴィジョンを概念化し,それを具体的な諸命題又.
(4) フィクションとしての桁作1=‑‑ケインズとマルクス. (1). 41. w. は「諸理論」にまで転化せしめるための装置ーーである d ( 4 ) シュムベーター「十大経出学者.Il (ケインズ),訳 377頁 。. 「社会事象は一つの統一的現象である。その大きな流れから経済的事実を 無理矢理に採り出すのは,研究者の秩序を立てる腕である. O. 我々がある事. 実を経済的と名づけることは既に一つの抽象であって,それは現実を思考 の の上に再現する技術的必要から止むを得ず行われる数多くの抽象の最初J ものである。……この権利は更に,一国民の文学がその国民の存在のあら ゆる他の要素と不可分に結合しているにも拘らず,尚我々が一つの文学史 、 ( : i ). を書き得る権利にも比較することが出来るであろっ d. ( 5 ) シュムベーター「経消発展の ~flLi~ùl I ., J J {(岩波文時,上) 25fL. 科学:が経験的(実証的)なものに直接に即しているという命題(l , 、 わ ば , 悲しき実証主義,唯物主義としての)は,物理学(者)の世界において,既 ( ( i ). に自明でなくなっているのが現状である。. ( 6 ) 拙杭「アジア概念,へーゲル「粘神現象学』に拠って ( r l l h 立)一一科学官学批判l 一一 J, 長 崎 大 学 京 市 ア ジ ア 研 究 年 批 抗 2 6集,参。 その他,本 f i : . i全 体 に つ い て は 経 i 庁学説史の方法一一続出学の現状についての 批判と展望のための(1), ( 2 ),( 3 ),( 4 ), ( 制i j 立)Jー 続 甘 と 経 i 九 第 61巻 抗 4-~;.,. 6 2巻第 1号‑ 3号,第 6 3巻第 2号 ,. ~1. m :参。. 経済学(社会科学)としての科学的成果が,仮に,経験的なものに直接に 即しているとすれば,そして又,そのような考え方に我々が同意するとなれ ば,我々は,経済学が一義的,たった一つのものであることを,否応なしに 承知せねばならない。 何故ならば,唯一絶対のものとして,真実は常に一つしかないと考えられ るからである。 にも折1Jらず,現今に至る経済学の歴史(無数の,. しかも問題にならない程. の末流に至るまでの)を回顧する時,そのような独断的な主張(ドク"マ)に 決してあってはならないところの無限ともいうべき数多くの真実(真理)に,.
(5) 42. 我々は逢着する。 「如何なる時代においても,必ずしも相互に併存し得るとは限らない無数 の植物が同時に芽生えてくることがあるし,時としては相互に対立し合う ような思潮が無数に共存していることさえある。そればかりか,個々の思 潮についても,上げ潮の時と引き潮の時とでは全く違った様相を呈するこ とさえある。広範囲に宣る全般的な精神的動向なるものは,常にこれら種 々雑多の思潮を要因として成り立つものであり,. しかも必ずといっていい ( i ). ぐらいに専ら最低線を基盤として成り立つものであるり ( 7 ) シュムベーター『社会科学の過去と未来 J J . 訳9 3頁 。. どだい,頭初の命題には,最初から予想、さるべき困難(というより,無理) があったのである。 勿論,斯かる命題の主張(者)には,事後的にではあるが,若干の予防的 な措置が用意されていた。 たとえば,その一つが,所謂. マルクス主義経済学者.における(科学の). イデオロギー論,他の一つが,所謂 近代経済学者"における論理実証主義, これである。 前者は,我々における階級的利害(それが,一つの物的実在であることを 根拠としての)の立場より,経済(学)の多様性を説明し得る,と自信する。 が,ために,一見,もっともらしい説明を装いつつ,実際には,現実的に 到底考えられぬよつな,むしろ形而上(学)的な階級の存在一一人類の峻別 がなされ, (と共に,論理上の)コジツケが,常套化される。 この方の大学者であるか,或は小学者であるかの差異は,単に,斯かるコ ジツケの巧妙か否かにのみ関わっている。 それに対し,後者,論理実証主義における特徴は,論理における悪しきシ ーソー・ゲームである。真実一一一真理の存在は,常に回避さるべく,九条大橋 上の我々の牛若丸よろしく一一. ここと思えば,又あちら"という風に,我. 々の耳目をひたすら混乱させるのみである。 そこには,皮相な,虚無主義(ニヒリズム)が,不体裁極まる諸議論の残 痕として結果する。.
(6) フィクションとしての経済学一一ケインズとマルクス. (1). 43. 何れにせよ,経済学(社会科学)の本質(認識上の)についての以上二つ の見解が,今日では最早,古典(古臭い,陳腐という意味での)として,既 に過去のものとなっていることは確かである。 殊に,新しきことを自称する後者一一論理実証主義が て),たとえば. (前者と共に併せ. K ポ ノ fーによって葬り去られたことは,確かである。 ( 8 ). 「論理実証主義が死んでしまったことを,今日では誰もが知っている。」 ( 8 ) ポ ノ fー「果てしなき探求一一知的自伝 J. 訳 120頁 。. 就中,経済学における論理実証主義の主張は,おそらく,我国理論経済学 界の自称. オーソリティ"のみにおける固有のーーというより,特有の奇現. 象(今様の浦島太郎というべき),或は珍現象(. 南洋の土人"を喋々する如. き)であるとさえ言ってよい。 況して,経済学(の本質)はその時代,環境と共に変化するものである ーーというところの(環境が決定的因子であるというところの),経済学の 歴史についての通有の(所謂 社会思想史家¥ 経済学史家"に随分多いとこ ろの)常識的,凡庸極まる(その実,形而上学的な)歴史主義的主張は,最 早,俗悪 v u l g a r な歴史主義的環境論(たとえば,大哲へーゲルの歴史主義 ( 9 ). とは似て非なるところの) , という他ない。少くとも, (単純・稚拙な頭脳 の持主である一一大学のジュニア課程にある学生諸君一般の場合はともかく として). 研究者¥. 学者"を自称する人々の抱懐する考え方であってはな. らないこと,勿日命である。 ( 9 ) ボ ノ fーの「歴史主義の貧困』は,へーゲルの歴史主義についての故立の誤解があ. る。むしろ,拾いの批難は,へーゲルの亜流ーーたとえば,マルクス主義者(マ ルクス本人でなく)の歴史主義批判を主目的としたものであると解釈することが出 来る。. ケインズ「雇用・利子及び、貨幣の一般理論n . (以下. 一般理論』と略す). r r. 9 4 1年)を手にした一人の の第二次大戦後初めての訳書(但し,本邦初訳は 1 高校生(新制)にとって,それを理解することは,途轍もないことのように 考えられた。その内容は,彼(即ち,筆者)が, (教義のーっとして)それ.
(7) 4 4. までl I !iリなりにも学問してきたところの経済学(たとえば,. リカアド,マル. クス,……ワルラス,パレート)とは全く別のもののように感じられたから で、ある。 今のようにケインズについての解説書の矧は,全くなかった一一一あっても 手に入らなかった。鬼頭仁三郎「ケインズ研究」が発刊されたのも半年以上 後のことであった. O. 結局は,五里霧中のままに読み進むより他なかった。とんでもない誤解も 生まれたーーが,他方,解説舎の知では到底得られぬところの力強l". . . 理 解 , 読み方の指針も生まれた。 「第十八章. 雇用の一般理論再説」を,手初めに読むことが,この斬新な. 若書を理解するのに極めて便利であることを発見したのは,読み初めて数ケ ( ] O ). 月後のことである。. ( 1 0 ) シ ュ ム ベ ー タ ー が 一 位 里I U 6 u.uの此み J iとして!日jーの ‑ ' 1什i りを指摘している。一一一. が ,. u J平を f (先に読むことは奨めな L。 、 何故な しかし,筆者は,初心の学生諸君に [. ならば, f出柏崎から lî)f1 ~Li6ûへの移行の理論的必然性を説く大事な要である it 金 dí命の 同所の理解(その理解が凶矧;であるため,大抵のケインズ粍 i 舟学者がこの前所の取 扱いを好 JJIJilú~ にしている)を,等 I~J にするおそれがあるからである。丁皮,それは.. マルクス『資本 I ; j むの価値形態品に匹越する紅の理解の l 封矧:さがある O その凶維の ち,彼の一人よがりのジョン・ブル気1'(, 責任の一半は,ケインズ白身にもある。問l. K i n g s 'E n g l i s hの流暢な,H!し吃音調(血友病 [ u J桜,イギリス民族の近親結婚のも たらす災禍のーっか)にそのまま去われている如き, (イキリスの経 i 舟学者に通有の). 4 付I iの半分も説明しないという悪叫が,それである。 ' ケインズの主要関心事が,従来の価値論や価格論(自由競争を前提とした 所謂. ミクロ"の理論)におけるそれでなく,全体としての産出高 output. の理論であること(筆者は,ケインズを読む前に 知っていた),著しく全体主義的. ( 1 1 ). I産 出 高 」 と い う 言 葉 を. (その後用いられた言葉でいえば,. 所謂. マクロ")であること,……等々を含め,一冊のノート,題して「ケインズ 1 () 2. 1 () 3. 理論は心理(学)的である」に祖述し,二人一緒に訳書を読んだ高校の先 輩である大学講師に読んでもらったのも,これ又,一つの忘れ難い想い出で.
(8) フィクションとしての経済学. (1). ケインズとマルクス. 45. ある。 (II)本書が提供しようとしている全体としての産出足の理二諭は, 自由競争と大叫な 自由放任の条件の下で生産される一定の産出高に閲する生産及び分配の理論と比べ た場合,全体主義国家〔即ち,当時のナチス〕の条件に対して這かに容易に迎介さ せることが出来る o J (ケインズ「一般理論J],. ドイツ語版への序。). 我々が関わるのは,ただ純正の仮説のみである。それを〔本 ' l l r~命的に〕心理法. 1 (2 ). 則と呼ぶのは,名称の誤用であるという点に a立されねばならぬ。経消学における 心理的法則は,せいぜいのところ怪しげなお容さんである o J (シュムベーター「資. 2 5頁。) 本主義・社会主義.f(主主義 h 訳(下) 7 l 1 (3 ) 尚,同ノートに,筆者は,金本位制は金の発 i l tが粍消発展と偶然歩調をーにして. いたから維持されたに過ぎないと意見を開陳していたが,. これ又偶然,. ケインズと. 意見を同じくしていたことを何年も杭った後,知ることが出来た。. ケインズの「経済体系」は 学 j J ,. o ディラードが,. ~ J.M.ケ イ ン ズ の 経 済. I雇 用 の 一 般 理 論 の 梗 概 」 に お い て 巧 妙 に 図 示 せ る 如 く ー 一 一. {消費性向 消費 ( C) ~ {所得の大きさ tL¥. υ ベ ノ. 資. 本. 資. 'hM. 六 メ. m. ︐ ︑ ︑ ︐ ︐ ノ. nIL. 日以. tO. ﹄. 一方に,. ¥/斗. L︐ 出 d抗 告 ︐ s n 7'' ・ 好の↓ T' 価 選 の用仇一向 性量り費供 動幣回墳の 流行一利補産 iltitil‑‑│1. め界. 7. 率の. ri. 資 投. JtIBI‑‑14y︑﹄Ell‑﹄IE1︑. 長岡. 子本んげ 利資率. 雇 用 (N),所 得 (Y), 及び有効需要 ( D )の 理. リ ア ル ・ タ ー ム , 即 ち 「 所 得 の 大 き さ J, I利子半」……「貨幣 i i t , 」. ‑ D1'{1(用」を控えさせると同時に,他方に, 「補 j. ヨリ主要な役割を,夫々対照. 的に, fantastic な(所前“心理的"な)ターム,即ち I~百貨性 [(l]J ,. I資 本. ( 14 ) の限界効率」・…・・ l流動性選好 J, 利 廻 り の 予 怨 」 に 担 わ せ て い る 。. 1 (4 ) シュムベーターによれば,立地の必い見 j jではあるが一一ケインズの. Ii げ. ' d ' l :I I ' J J,. 「資本の限界交!斤~ J, Ii J ! [ 1 ) r l tj 'iii好」は,すべて過去, J~ 王位の日1j立の杭 i庁..;:;;)~から.
(9) 4 6 の借り物であると言う。 「特異な用語は若者の狙いを適確に訴え,読者の注意;を焦点に集める助けとなる。 このことこそが(そしてそれ以外の何ものでもなく)アーヴイング・フィッシャ ーの限界費用超過収益率を改称したり〔資本の限界効率がそれである一一訳者〕 一一フィッシャーの方が先にもっていた概念を継承したものであるということは ケインズも完全に認めている一一,普通に使われる保蔵という言葉の代りに流動 性選好という言葉を使用したりすることを正当化するのである。消費函数の方が, ケインズの豆、図を盛るのには,マルサス流の有効需要という言葉一一それを彼も 又使っては L、るがーーよりは,確かに勝れた殻である。何故なれば,需要とか供 給とかとし寸概念を,それらが厳格に定義され得る意味を担う領域(部分〔均衡) 分析)以外において使用することからは . il~ 乱以外の何ものも出て来ないから である。ケインズが消費及び流動性選好函数の諸形態に関する彼の想定を心理的 諸法則と呼んでいることを注意することは,興味がなくはな ~'o これは勿論,. 今一つの強調のための工夫であった。しかし,それに抗し難い意味を一一『欲望. 飽出jの法則」について認め得る程度の意味をすら一一認めることは出来ない o J( シ. 9 7頁。) ュムベーター『十大経済学者山訳 3 が,しかし,このことは,ケインズの学問的名挙を些かも傷つけるものではない。 強い磁力があってこそ屑鉄(ルンペン)も集められ,有効に再生,利用され得るの である。. 然して,後者一一「三つの基本的な心理的要因,即ち心理的消費性向,流 動性に対する心理的態度,及び資本資産から生ずる将来収益に関する心理的 J (5 ). 期待」こそは,ケインズの理論を特色づけるものである,彼のロマンの主人 公である一一と同時に,以上のシステム,構成に見られる限りにおいても, ケインズの経済学が,如何にフィクショナルなものであるか(極めて優越し た意味において一一天才的優越において,時に,悪い意味においても)を, 我々に啓示する。 1 (5 ) ケインズ『前掲書J).訳 2 45頁 。. ケインズ理論のシステム,構成の単純さそのものに,フィクショナルなも の(時には,ごくつまらないところの), 乃 至 は 非 現 実 性 を 指 摘 し 且 つ 批 判するのが,シュムベーターの場合である。.
(10) 4 7. (1). フィクションとしての経済学一一ケインズとマルクス q r ‑. HHHJ. 止す. ︐. 'VBU EVE. 4寸 J. 何故ならば,何より, ケインズの場合, 理論(分析)即政策(と さム. j. ( ] 6 ). ・. 言うより, 彼の場合, 理論は政策のための理珊である. )であるが,. それが. 如何に天才的な着想、に基づくにせよ, フィクションは飽迄フィクションであ. ︐. ︑ . l ' t. そのまま直接には, 現実に適用出来ないからである。. ( 16 ). 「我々の最終的な課題は,我々の実際に生活している種類の経済体系において,. 中央当局が裁量的に操作したり管理したりすることの出来る変数を選び出すことに あると言ってよいであろう o J (ケインズ『前拘書.1,訳2 45頁。). その特徴的な指摘,批判の若干(とりわけ,基本的なもの)を, シュムペ 1 () 7. ーターの叙述の順序に従って,拾ってみょっ。 )mda‑ ‑ (. シュムベーター『前拍書.1,訳3 9 6頁以下。. 先づ, シュムベーターによる『一般理論』の梗概(筆者の註釈つきでの). " [ Ii'平和の経済的帰結』において初めて顕示された社会的ヴィジョン〔理 論以前の),即ち投資機会は衰えてゆくにも拘らず貯蓄習慣は依然として存続 する経済過程に関するヴィジョンは, 「雇用,利子及び貨幣の一般理論』 ‑・・・において, 三つの函数概念によって理論的に完成されている。消費函 数 , 資本の限界効率函数及ぴ流動性函数が, それである。 これらは,与え られた賃金単位(雇用量ニ所得を可能とする一一実質としての産出高を介 在して〕並びにそれと同じように与えられた貨幣数量と相侠って所得を r決定」し, そしてまさにその事実それ自体が雇用(もし後者が前者によ. って一義的に決定される 〔と仮定される〕ならば, 且つその限りにおいて) を決定する。 この二つのもの〔所得, 雇用量一一「従属変数は,雇用量と 1 (8 ). ‑ ')こそ Iられた国民所得(又は国民分配分) とである J 賃金単位によって担J 『説明さる』べき重要な従属変数である。〔以上は, 上述のディラードの 図示の要を得た説明ともなっている。〕 このように僅かな材料をもってこ のような立派なソースをつくるとは何という勝れた腕前の料理人であろう か. 1. 〔一つには, これはシュムベーターの皮肉である。〕……[(精神)現. 象学乃至現象学的還元の在所,即ち 学研究,我々の場合の. ヴイジョン. 刊 ( 1 的. を忘れた通常の経済. ケインズ研究"における如く一一〕 ケインズの業.
(11) 48. 績をその論理杭造の l l I lも肉もない骨格だけにしてしまい,その骨格〔外面 的な〕についてそれだけがすべてであるかの如く論議することは,確か. t を正しく評価する所以ではない。〔ケインズ研究一一殊に数学 に彼の業ifi' 的・低次元での j 比百しと不毛を極める我国のそれ!j……絞型 model ( 理 論,論理〕の単純のための第ーの条件は,勿論, t~ミ型にっくり上げらる べきウ、イジョン〔直感〕の単純性である。そして,ヴィジョンの単純性は 一部分は天賦の才〔天才〕の問題であり,又一部分は考察の外に拾てら. l ! i Jられた代住t 'を支払う心 れなければならない諸要因〔一一後述〕によって i 構え〔見識〕があるかどうかの問題である。しかし,. もし我々が正統ケイ. ンズ、派の立場に立って(唯我独尊的に j,現代の経済過程に対する彼のヴ イジョンを,瞥見しただけで外面の沿沌たる現象を通してその下に横た わる単純な本質的諸要素を見抜く眼力をもった天才の賜物〔直観=天才的 直観〕として,承認しようとするならば,彼の示したような諸結果を生み 出した彼の総体分析に反対する理由は殆んどあり得ない。〔その限りにお いては,ケインズの天才を認める我々とても決して吾かであってはならな lJ. ︒. 1lJ. l v. ︑.. ( ] S ) ケインズ『一般王里 J A U,訳 943頁 。. ( ] 9 ) シュムベーターは,. 自らの創造の時代,彼の所謂「聖なる多産の時期J (i'前拍書,. 訳1 2 7頁)の体験(彼の「新機軸 J )う至「経出発展」の概念は,研究者としての彼 白身の個人的体験の延長線上にあるが)に徴して. 書いている。. 「我々は平和の経済的帰結」……の中には一般理論」の理論的装置の何も のをも発見しない。しかし,我々は,その装置がそれの技術的補完物となる社会 il i i j拍 書 下 訳 3 7 7Y iJ 的並びに経済的事象に関するヴイジョンの全部を発見する oJ(' 同じ事態を, (社会的)真理ではなし(音楽)芙の世界に求めれば,こうなる。 「多産の時期j における器楽形式に関する幾多の問題の, どれを取り上げてみても, 次のような巧‑えに活着かざるを得ない o 1![Jち,円熟し発展した形で後の作品に現 れる殆どすべての新機軸は, 1 7 7 2 年の作品に,. : r生えとして存する,と。彼にし. てみれば,これは,不思議な深さと広さとを持った精神の危機である. O. 彼は,生. まれて初めて,自分の作品の審美上の大問題に,はっきり立識してぶつかったと 忠われる oJ (ウィゼワi'W.A.モーツアルト」一一小林芳雄「モーツアルト」よ.
(12) フィクションとしての経済学一一一ケインズとマルクス. (I). 49. I)J. さるが故に,天才は努力し得る才能である。 何れにせよ,天才は,一つの共通をもつかの如くである。. 然して,以上のケインズ「一般理論』の梗概全体についてのシュムベータ ーの批判は,彼自身の理論を直接パックとした場合,更に次の如く続く。 「……ケインズは……経過分析において起るあらゆる複雑な問題を,出来 るだけ多く排除することによって,彼の理論構造を単純化した。ケインズ の正確な骨組は,ラグナー・フリッシュによって提示された言葉を用いる ならば,巨視的動学にではなく,巨視的静学に属する。……更に,彼は彼の模 型 m odel を一一彼の議論は常に必ずしもそっではないが一一短期の現象. の範囲に限っている。……枢要な制約は, (たとえば,シュムベーターの動 学において不可欠・枢要の一一〕生産函数のみならず,従って生産方法の みならず,工場や設備の量及び質も又変化することが許されていないこと にあるのであって〔即ち,それらは与件一一「経済体系の中の……与えら れたもの……与えられたものと肴倣すものは,利用可能な労働の現存の熟 練と量,利用可能な設備の現存の質と量,現存の技術,……国民所得の分 ( 2 0 ). 配を決定する諸力……を含む社会構造 s o c i a ls t r u c t u r eである」……ケイ ンズにあって投資は投資支出としてのみ意味がある),. それは,ケインズ. が彼の論述の重要な転換点において常に倦むことなく読者に印象づけょっ とした一つの制約であった・・・・・・。……このことは,然らざれば認め難い多 くの単純化を許している。たとえば,それは,雇用を,所得(産出高)に 対して近似的に比例的なものであって〔一一前述),一方が決定されれば 直ちに他方も決定されるような関係にあるものとして,取扱うことを許し ている。しかし,そのことは,この分析の適用可能性を高々二,三年の期 間〔短期〕……に,……限定している。……設備の創造と変化に附随して起る 現象のすべては〔シュムベーターの所謂「革新」……「動態 J,r経済発展 J), 言い換えれば,資本主義過程を支配する現象のすべては,斯くて考察から 除外されることとなっている ω ( 2 0 ) ケインズi')j i j 1 l ¥ ; ' } j , ; 1 {943Y l 。.
(13) 50. ケインズ理論が,梗概自体においてさえ 殊理論"たる所以を(一一理論の. i一般理論」でなく,むしろ. 特. 理論"たる所以は,それが一般的である. ことに拠るが),シュムベーターは更に続けて,次の如く批判的に説く。 「……現実の描写としては,この模型は,不況の時期において正当化され るに最も近いものとなるーーその不況期においては流動性選好も又それ自 体の権利をもった一つの作用因たるに最も近いものとなっている。従って, ヒックス教授がケインズの経済学を不況の経済学と呼んだのは正しかった。 ・・ケインズの『崩壊の理論」はマルクスのそれとは全く異ったものであ るけれども,前者は後者と共通な一つの重要な特色をもっている。この二 つの理論においては共に,崩壊は経済という機械の運動に外在的な諸原因 によってではなしそれに内在的な諸原因〔たとえばケインズの場合,ヨ リ大きなプラスの流動性選好,その他〕によって誘発される。この特色こ そが,ケインズの理論に反資本主義的意識を『合理化するもの」としての 役割を呆すに適当なものであるという性質を与えているのである。……全 く意識的に,ケインズは所得(従って雇用)の直接的決定因たる諸要因を 超えて進むことを拒んだ。彼は自ら,これら直接的決定因は時々は」 「究極的独立変数」として見倣され得るけれどもIi……又更に分析し得 るものであって,いわば,我々の究極的な原子的独立要素ではない」とい うことを腹蔵なく認めている。……もし,我々が. A, 8, C……が与え. えれるならば Dは Eに依存するであろうというような形の議論〔所謂. 決. 定論")で満足するならば,勿論,我々の経済世界に関する描写を著しく 単純化して,極めて単純な諸命題に到達することが出来る。もし, A, 8,. C……が観察の対象たる分野(即ち,経済〕の外にある事柄であるならば, それ以上にいわるべきことではない。しかしながら,. もしそれらが説明さ. るべき現象〔経済内的・純経済的現象〕であるならば,その結果として生 ずる何が何を決定するかに関する命題は,容易に否定し難いものとなり 〔結果的には, 総全部が総全部を決定する"といった自明・凡庸な議論, 乃至命題に堕すこととなり),新奇の構想、に似た外観を得るであろうけれ ども,そのことは大した意味をもたないであろう。〔たとえば,. シュムペ.
(14) フィクションとしての経済学一一ケインズとマルクス. (1). 5 1. ーターによれば,過剰貯蓄は不況の結果であって,原因ではない。〕 しかし,ケインズにとっては,. リカアド〔純粋経済学者リカアド〕にとっ. てと同じように,この型の議論は単に強調するための工夫であった。(シ ( 2 1 ). ユムベーターの所謂 R i c a r d i a nV i c e : ‑ ' J……リカアドは「私の見るような ものとして現在のイギリスの状態のもとにおいては,食糧及ぴ原料に関す る自由貿易は,あらゆる事柄を考察した場合,利潤率を高めるであろう』 とは言わなかった。そうは言わないで,. リカアドは〔出来得る限りでの省. 略語法をもって JIi利潤率は小麦の価格に依存する」と言ったのである。. J 〔結果は,彼の理論を特殊的なもの一一 特殊理論"とならしめた。 J ( 2) 1 シュムベーター「経済分析の歴史 J J . 訳 ( 7 )2 462頁 。. その他,シュムベーターは,ケインズ『一般理論」の梗概に関わる限りに おいてさえ,尚,幾つかの批判を行っている。 シュムベーターのケインズ評は,一言にしていえば,不信である。 同時代人としてのライバル意識は当然あったであろうーーが,何より,シ ュムベーターはマクロの理論に不信を抱いていた。「集計に用心せよ. J,と。. 加えて,ケインズ『一般理論』は,その実「一般理論」でなく,. 特殊理. 論"として,文字通り特殊化される。 換言すれば,シュムベーターにとって,ドイツ語の所謂 A llzusammenhang に相当し得る資格の唯一の一般的経済学は,少くとも静学に関する限り,ワ ルラスのそれ,即ち,ワルラスの一般均衡理論のみであった。 ワルラス体系一ーそのエッセンスの祖述は,僅か 1頁も要しない程の(単純 な)ものである一ーの讃歎者であったシュムベーターが,一転,何故に,斯 くも,ケインズ(ワルラス同様,単純な体系をもっ)に苛酷,批判的で、あっ たか。 那辺の事情は,シュムベーター「理論経済学の本質と主要内容.0 (の内容) が,その全部とは言わないまでも,その大いなる一半を,我々に物語ってく れるであろう。 シュムベーターは,同若において,単純きわまるワルラス体系の,むしろ 理論(論理)以前というべき複雑きわまる諸問題,諸条件(精神……技術,.
(15) 5 2. 社会構造……自然……その他),所謂. 背後の事情"を,従って又,その体. 系のもつ限界をも,我々に示してくれている。(批宇iJ‑消極としての。) それは,彼以前の何人もがなし得なかった独自の仕事である。何故なら, 彼以前の何人もがワルラス体系(の本質と価値)を真に理解し得なかったか らである。 そのことによって,彼は,ワルラス或は同様の数学的体系のもつエレガン スに酔いしれている時の知ったかぶり,模倣者,亜流の若僧共(亜流は所詮 亜流なるが故に,. 自己の理論の本質と限界を真に弁え得ない)の脳天に,ザ. ブリと冷水をひっかぶせたのである。 と同時に,彼は真の理解者に相応ししワルラス体系より大きく一歩踏み 出し得たのである。彼の『経済発展の理論」こそは,その証明である。(批 判一一積極としての。) ワルラス自身,. 自己の体系の本質と内容について,厳格で、あり,. 自己の本. 来の領分を超えて地歩を拡大する如きことは,全くやらなかった。 批判一一一方における理論の徹底した精般化,他方における自己の理論の もつ限界の厳しい認識。 では,その限界とは何か。理論(科学)が所詮,仮定(フィクション)に 基づく一つの模型(簡単・単純な)に過ぎないこと,現実(複雑な)とは甚 しく大きな隔絶をもつことの自覚,これである。 安易な人気取り(イデオロギーを含む)と実践への拒絶。 斯かる点,少くとも,シュムベーターにとって,ケインズは余りにも鏡舌 であり,余りにも逸脱が過ぎている,. と見られたのである。. ケインズが,彼の仮説(それは彼独自の直感とか信念とかに拠るものであ るが)を,恰も,それが,極めて現実的信活性に富むかの如く我々に示唆す るやり方には,. まさに独特のものがある。むしろ,我々は,催眠術にかかっ. たものの如く,彼の主張(といっより,作為,フィクション)を,実際問題 として,自明とさえ思い込んでしまうのである。 その典型的な一例が一般理論」第二章第二節一一.
(16) フィクションとしての経済学一一ケインズとマルクス. (1). 5 3. 「実質賃金及び貨幣賃金の夫々に対する労働者の実際の態度に関するも ( 2 2 ). の 」 である. O. ( 2 2 ) ケ イ ン ズ 「 前 掲 吉 山 訳 8頁以下。. 加 え て , そ れ が 理 論 的 に は 基 本 的 な も の で は な い J,即ち,現実的,帰 納的なもの,. と ま で 賛 言 し 理 論 的 に J,換言すれば、,演拝的に「基本的な. もの」として,そのあとに所謂「有効需要の原理 J (大略は, ち出し,オーバーラップ。する周到! その演出の巧妙. 前述の)を持. 1. 先づ,彼の言い分を聞こう。 ),労働者はヨリ低い貨幣賃金では ff~ こうとは欲せず,そして貨 ①「今差当 1. 幣i l ‑金の現行水iV二の引下げ、は,ストライキやその他の方法を通じて,現在 雇用される労働の労働市場からの撤退をもたらす,. ssume ( a s ‑ と仮定 a. s u m p t i o n ] しよう。果してこのことから,実質託金の現行水準が正確に労 働の限界不効用を示しているということになるだろうか。必ずしもそうで はない。何故なふ現行貨幣賃金の引下げ、が労働の撤退をもたらすとして も ,. i t金財によって i l ! Jられた貨幣行金の価値の下落が,賃金財の価格上昇. によるものであるなら,同じ結果をもたらすことにならないからである。 言い換えれば,ある範囲内においては,労働者の要求するものは最低賃幣. a s e であろう。古典派は,このことは, 託金ではないというのが事実 c 彼等の理論に重大な変更をもたらすのではないと暗黙のうちに想定してい た。しかし,これは正しくな L、。何故なら,. もし労働の供給が唯一の変数. としての実質託金の函数ていないなら,彼等の議論は完全に崩壊し,現実の 雇用量がどうなるかという問題を全く不決定なものにしてしまうからであ る。彼等は,. もし労働の供給が実質 1 T金のみの函数でないなら,彼等の労. 働供給 [Hl*J~ は価絡が変動するたび、 41j: に全面的に移動するということを,理. 解していなかったように見える。このように,彼等の方法は,彼等の極め て特殊な想定と結びついており,一層一散的な場合を取扱うように改訂す ることは出来ない d ( 2 3 ). ケインズによれば¥古典派の雇用理論(1't金 l論)は,次の二つの基本公準.
(17) 5 4. に基礎を置いている。 間. ヨリ正確には,ピグー『失業の理論」。マーシャル『経済学原理」にまで遡っても. よい。. ( 1 ) 賃金は労働の限界生産物〔の価値〕に等しい。. n一定の労働量が雇用されている場合,賃金の効用はその雇用量の限界. ( I. ( 2 4 ). 不効用に等しい。. 似) ケインズ r 前掲書.1,訳 5頁 。. 「第一公準は雇用に対する需要表を与え,第二公準はその供給表を与え,雇用 ( 2 5 ). 量は限界生産物の効用が限界雇用の不効用と均衡する点において決定されるり ( 2 5 ) ケインズ『前掲書.1,訳 7頁 。. ケインズは. r第一公準を従来と同じように,古典派理論におけると同じ ( 2 6 ). 留保条件のみをつけて支持する……り. 。 。. ケインズ『前掲書.1,訳 1 7頁 。. 彼が問題にするのは,第二公準である。 何より,彼は第二公準,即ち労働の供給が実質賃金の函数でなく. rある. ( 2 7 ). 範囲内においては " J(たとえば,労働の供給を中止せざるを得ない程の低額 である場合を除いて)貨幣賃金の函数である,と言つ。「何故なら,現行貨 幣賃金の引下げ〔たとえば,会社のボスの御達によるところの,直接の)が 労働の撤退をもたらすとしても,賃金財によって測られた現行貨幣賃金〔即 ち,実質賃金のこと〕の価値の下落が,賃金財の価格上昇〔たとえば,イン フレなどによるところの,間接の〕によるものであるなら,同じ結果をもた らすことにならない」と。 ( 2 7 ) ケインズ『前掲書.1,. 8頁 。. 筆者は,この箇所を読む度毎に,列子・寅帝篇の所謂「朝三暮四」の挿話 を想、い起す。 ケインズは労働者を目して. rあの b r u t e (野卑)なプロレタリアート」. と評したというが(われらの漫画の主人公,ポパイの敵役,ブルートの個性 を想起せよ!),彼は中産階級独自の観点から,カネはあるが無能な有産階 級と共に,無産階級をも軽蔑し,見下げていたということが出来ょう。.
(18) フィクションとしての経済学一一ケインズとマルクス. わが総評の諸君,或はその. 5 5. (1). ダラ幹"の諸君が,春闘において引上げを目. 論むのは,たとえ,その指標(メルクマール)が貨幣賃金であるとはいえ, 実質賃金であって,貨幣賃金ではない。結果的には,愚かしくも,物価との イタチ・ゴッコをやってきたが。 ともあれ,この箇所は,労働者についての御伽話以上のものは,意味しな い一一それがケインズにおいて御伽話以上の役割を果すのは,次の命題のた めである。 即ち. r 労働者の要求するものは最低貨幣賃金であって,最低実質賃金で. はないというのが事実」一ーという,その実,虚構(フィクション) という 非事実……。「もし労働の供給が唯一の変数としての実質賃金の函数でない なら,. c 労働の需要は実質賃金の函数,労働の供給は貨幣賃金の函数という. こととなり,両者は同一座標(ディメンション)に描けず,従って又,両者 は交点をもたないことになる。結果,賃金の高さ,殊に雇用量の大きさを不 定として残す一一〕彼等の議論は完全に崩壊し,現実の雇用量がどうなるか ( 2 8 ). という問題を全く不決定なものにしてしまうからであるり ( 2 8 ) ケインズ『前掲書.JJ,訳 8‑9頁 。. その空所に一一このあとに,このドラマの主人公. r有効需要の原理」が,. シャナリ,シャナリと(第一公準の傍に)登場という筋書……。イヨ,待っ てました! ②「ところで,. 日常経験 o r d i n a r ye x p e r i e n c eが 我 々 に 示 す と こ ろ に よ れ. ば,疑いもなく,労働者が契約に当って要求するものは(限度はあるとし ても)実質賃金であるよりもむしろ貨幣賃金であるという事態は,単にあ り得ることどころか,正常な場合である。労働者は通常貨幣賃金の引下げ には抵抗するけれども,賃金財の価格が上昇する度毎に労働を撤回すると いうのは,彼等の慣行ではない。労働者が貨幣賃金の引下げ. には抵抗する. が,実質賃金の引下げ.には抵抗しないのは非論理的で、あると屡々言われる。 後に(14‑5頁)述べる理由からすれば,これは一見したほど非論理的で、 はなし後になって見るように,幸いにもそれが論理的なのである。しか し,論理的で、あろっと非論理的で、あろうと,経験はそのことが労働者の実.
(19) 5 6. 際 f a c t の行動であることを示している d 本節のロジック (論理)そのものは,前の繰返しに過ぎない。. 14‑5頁)の箇所とは, 次の如きである。 文中, ( 「……貨幣賃金に関する闘争は, 主として実質賃金総額の各労働者集団間 への分配を左右するものであって, 雇用 1単位当りのその平均額を左右す るものではない。後者は, 後に見るように,別個の一組の力〔主として,. J に依存している 有効需要の大きさを決定する諸力一一「有効需要の原理J. O. 労働者集団の側における団結の効果は, 彼等の相対的実質賃金を擁護する ことにある。実質賃金の一般水準は, 経済体系の他の力〔前述に同じ〕に 依存しているのである……。 このようにして幸いにも, 労働者達は,無意 識にではあるが,本能的に古典派よりも一層合理的な経済学者である。 と 言うのは, 彼等は, たとえ現行の貨幣賃金を実質のタームで表した値が, 現行雇用量の限界不効用を超過しているとしても, 普遍的な性質を殆ど或 は全くもたないような貨幣賃金の引下げには抵抗し,他方, 総雇用の増大 と結びつき, 相対的貨幣賃金を不変のままに残すような実質賃金の引下げ に対しては, その引下げが, 実質賃金を現行雇用量の限界不効用以下に引 下げるおそれの生ずる程度まで進まない限り抵抗しないからである u 恰も,. J .s . ミルの賃金基金説の(素朴な) 論理そのままの説明が,. 戸L. 7J. 働者の行動原理として, ここで用いられている。 労働者自身が実際にそのように行動しているとすれば, 労働者は, 白痴, 低能以外の何ものでもないであろう。 ここでいも, ケインズは, 労働者を愚弄 する以外の何ものをも述べていない。 その説明は,常識的に言ってさえ. 説得力を持たず(非論理的), 且 つ 全. く非現実的で、ある。 ③「そればかりでなく,不況の特徴をなす失業は, 労働者が貨幣賃金の引下 げ、を受入れないことによるとし E う主張も, 明らかに事実 t h ef a c t s (歴史 的事実〕によって支持されていない。 1932年〔世界大恐慌〕の合衆国にお ける失業は, 労働者が貨幣賃金の引下げを受入れるのを強硬に拒否したこ とか, 或は彼等が経済機構の生産力が提供し得る以上の実質賃金を強硬に.
(20) フィクションとしての経済学一一ケインズとマルクス. (1). 5 7. 要求したことか,その何れかによるものであったという主張は,余り納得 出来るものではない。労働者の最低の実質的要求にもその生産力にも何ら 明白な変化がないのに,雇用量の大幅な変動が実際に起っている。労働者 は好況よりも不況において一層強硬で、あるとし、うことはないーーそのよう なことは決してない。又彼等の物的生産力が不況においてヨリ低いという. a c t sfrome x p e r i e n c eは,古典派の分 こともない。これらの経験的事実 f 析の妥当性を疑うに足る明白な根拠である d ここでの若干の問題は. I労働者は好況よりも不況において一層強硬で、あ. るということはないーーそのようなことは決してない。又彼等の物的生産力 が不況においてヨリ低いということもない」が,敢て言えば,問題にされよ. つ 。 労働者一一彼等が不況において,. ヨリ自衛的,閉鎖的(保守的)となり,. 彼等自身の賃金を一一従って,彼等自身の生活を,擁護することに極めて敏 感となることの方が,筆者にはヨリもっともらしく見える。と共に,後半の 物的生産力云々に関しでも,資源(それは同時に,技術その他の函数でもあ. o tt 1e ‑ n e c k ) が物的生産力を停滞乃至低下に追い る)の融通の逼迫(所謂 b 込むであろうことが,むしろ一般的ではあるまいか。 もっとも,この後半の点に関しては,ケインズが,議論の進め方に好都合 のように我々に印象づけようとしていることが,臆 i W J出来る。. c t u a l の関係について,統計 ④「貨幣賃金の変動と実質賃金との問の現実 a 的研究 s t a t i s t i c a le n q u i r y の結果を調べてみることは興味深いであろう。. t金の変動は貨幣託金の変動と 特定の産業に固有な変動の場合には,実質 i 同じ方向にあることが期待されよう。しかし, 合には,. i t金の一般水準の変動の場. i t幣託金の変動に伴う実質 n 金の変動は,私の考えでは,通常同. じ方向にあるどころか,殆んど常に反対の方向にあることが見出されるで. t金が上昇しつつある時には実質 あろう。即ち,貨幣 i り ,. n金は下落しつつあ. i T幣託金が下落しつつある時には実質行金は上昇しつつあることが見. t金の下混と実質託 出されるであろう。何故なら,短期においては,貨幣 i 金の上昇とが夫々,相互に独立な理由から,原用の il<Í~ 少に伴って生ずる傾.
(21) 5 8. 向があるからである。その理由というのは,労働者は,雇用が減少しつつ ある時には, 1 '1:金の切下げに容易に応ずるものであり,. しかも産出量が減. 少する時には一定の資本設備に対する限界収穫が増大するために,実質賃 金は同じ事情のもとで不可避的に上昇するということである d 本節に関しては,前節に続くものとして,労働の需要表が暗に提示されて いる。 我々は,労働の需要表,即ち労働の需要山中J~ ‑‑労働の限界生産力曲線. (資本設備一定を前提としての)をのみ,頭にイメージすれば¥ケインズの. ' j ・し得ることが可能で、ある。 議論をそのまま首 1 では,それでは,本節は演綜的に,しかもケインズに都合のよいように, 導き出されたものであるか一一一「統計的研究」とはマッカな偽りであるのか。 (この問題に関しては,後述。) ともあれ,以上. ①,②,③,④と辿ってきた際,我々は次の事に気付か. ねばならない。 即ち,①において単なる「仮定」より出発したものが,②においては「日 常経験」に,③において深刻な. I (歴史的〕事実」に,そして,. ④におい. て客観的実証そのものたる「統計的研究」へと,全く同一問題についての叙 述が,仮説より現実へと一一実証のテンポを次第に強めていったことである。 それは,恰も,ラウ、、エルの『ボレロ」の演奏を, ,しきり しかも,ケインズは,その間j. 1 方御させる。. I事実 J, I実際」……「現実」…. と,強調して止まない一一近傍の他の章節においても「事実 J, I実際」…… 「現実」の語は,多用,頻用されている。 換言すれば,以上のケインズの言い分について,限定した限りでも,我々 は彼の意に沿ったー篇のロマン(フィクション)を聞かされているに過ぎな いのである。 以上の問題を,更に④について,ヨリ小さく限定してみよう. O. 「貨幣賃金の変動と実質賃金の変動との間の現実の関係について……貨幣 賃金の変動に伴う実質賃金の変動は,私の考えでは,通常同じ方向にある どころか,殆ど常に反対の方向にあることが見出される……。……産出量.
(22) Ti. ). ケインズとマルクス. (. フィクションとしての経済学. 59. が減少する時には一定の資本設備に対する限界収穫が増大するため, 実 質 賃金は同じ事情のもとで不可避的に上昇する…… d 筆者と全く同じ方向で,. この箇所の真実(即ち,偽目前) を看破したものに, ( 2 9 ). 宮崎義一・伊東光晴「ケインズ一般理論.n (54‑5頁)がある。 ( 2 9 ) 同者は,ケインズ『一般理論』についての下手な解答(俗書に多い)でなく,勝 j. A ん. 一 ︑ 一 ︐. れて問題を与えさせる点,学生の参与吉として特に傑出している。来者は常に, 生諸君に推奨して止まない. o nち ,. 次の如くである。(傍点筆者。). 宮崎レジュメにも書いてあるし,ケインズもそう言っていますが,統計的研 究の結果,. W幣 i t金の変動と実質賃金の変動は,反対の方向に動いている. 8 6 0年から 1 9 3 7 筈だというのは, 一寸問題のある点ですね。 ダンロップが 1 年までのイギリスについて,今の統計を調査しましたところが,実際には ケインズのようになっていないということです。そこてでで、や、. 統計的に実証さ. れないとすると' 一体, 何故ケインズはこういうことを言ったかというこ とが問題になると思うのですがい 伊東有名な夕、ンロップの批判で、すね。結果においてケインズはそれに屈しま したが。 宮崎ケインズは, ただちに「エコノミック・ジャーナル」誌でこのダンロッ ( 3 0 ). プの調査に答えて,. 自らの推論の基礎を示していますね。. 伊東マーシャルは, この現象は統計的にあまねく観察することが出来るもの. 8 8 0年から 8 鉛6 年 ま て で で 、 許 、 の 統i 計 j 計 汁 i 十 . て で 、 帆 、 だと言っていますけれども, マーシャルのは 1 夕ダやンロ、ツソフブ。によりますと, それ以外は実証出来ません。 ところが, ケイン ズの場合は統計的実証ではなしこれはある特殊な仮定のもとでが{持され た論理的結論です。 ( 3 1 ). 3 . 1 ) 式をみて下さい。仮定は, 古典派の公iV~と 原書1 2頁 , レジュメの (. Jて1 収践活減の法¥lIJ が妥当し, して,前講において述べたと全く同じ知 W 競争状態が一般的であるという状態です。 このような仮定から, 企業者の Jを前提して, 利潤極大化法J!i. ( 3 .1)式が i ! }られます。 ここで J 元気上昇乃. r r . ‑ (ω) が , 寺 たとえ貨幣1t{ 至経済活動:;'1::の明大の H. J , 1 i kりましでも, 収股 j.
(23) 凡U. ρ0. d l. , 貨幣託金が上昇 減の法 M iJが働いてーァが大となるために, 物価 (ρ) は αq するよりももっと急に上昇してしまいます。従って,. 1 lJ:幣賃金が上昇して. も , 実質賃金は低下してくる。 これが, ~寅得的に出てくるところの結論で す 。 ところカヘ 現実はここでいう幾つかの仮定が必ずしも妥当しません。 たとえば不完全競争の状態で、は,収穫逓減の法則は働かず,従って結果は このようになりません。寡占の場合もそう簡単にはし、きません。 宮崎結局,ケインズは. r r 一般理論」では,実証的に論証出来るかのように. 述べていますが,正しくはそうではなくて,飽迄もケインズの命題は,. 1 i i {. 鐸的に成立するものだということになったわけですね。 ) ハu (qtυ. 同z論文は,訳書としての. T一般理品.J(lIケインズ、全集」. 7) に 付 録 二. 実質 l : i '. 金と産出 : f i ;の相対的変動」として. -t~.j主されている。 ) ‑ 1d (. d l. d l. u : ; : . dq ニ ρ‑( ¥ . .十, w " d q )ニ O I I. ρニ. d l. … … (3.1). l t十 1U‑,‑‑‑. dq. w 託金 ' [ ' iJfJなど不比例的可変貸出. 原料,[~など比例的可変 '{~m. f 労働時 I H J 物 価 ρと限界生産官 ( u十. d l¥. ~~ )とのがJ d q/ ' ‑ /‑‑J.#j'という辿常の利 ìl'~J 極大条件. 1 u. V. では, ケインズの経済学における業績,. とりわけ『一般理論」は,結局は,. ケインズの(人々への)虚偽・偽捕か, 或は,せいぜい彼自身の個人的モノ ローグ(集)に過ぎなかった,. と (悪しざまに,否定的に) 言えるのであろ. うか。 「経済進歩の諸条件』の著者,. コーリン・クラークは, 現代の経済学にお. いて支配するものは,嘗ての如き思弁や理論的推論でなく,事実(実証)で ( 3 2 ). あると述べている。一一ーが,. しかし,他面,創造的努力によって時代の先端. をいく (仮説, i 寅緯を手段として)のが, ごく少数の天才者達であり,. 自分. 達はその傍証(検証)を固めるに過ぎない一ーとも,謙虚の言葉を述べている。 円︿d. OF'︼. ) (. 「本書の初版は 1935‑39年の時期に書かれたものであり. 1939年 の 初 め 頃 に 書 か. れたその版の序文は,イギリスの大学経消学者が,依然として,経済界の現実の諸 事実の蒐集と日今日本に立脚する科学としての経消学よりも. むしろ, 思弁と理論的推 理に立脚する研究としての経済学を好んでいることを, おそらくは必要以J:の激し.
(24) YEA. (. ケインズとマルクス. ). フィクションとしての経済学. 6 1. い言葉で慨嘆した。……ここでそのように言うのは奇妙に聞こえるかもしれないが, 現在においては,我々は事実的経済学に没頭するあまり,必要な理論的研究を軽視 J( W経 済 進 歩 の 諸 条 件 h 第 2版 するかもしれないという危険さえもあるのである o. 序。). 我々は, たとえば,. ドイツ歴史学派の有力な一派, 泰斗シュモラーの狭義. の後継者達(即ち, 亜流)が, 歴史的事実の資料蒐集の中に彼等自身の立場 と方法を見失っていったことを知っている。そして, 代リ, (マルクス同様) 歴史の理論化の方向, 歴史=理論派たる. M .ウェーパー,. ゾムバルト等ユニ. ークにして卓抜な個性(天才)が, 以後のこの学派をヨリ強力なものに盛り 上 げ て い っ た 経 過 ふ 併せて,我々は知っている。 「・・・…社会科学という大河を流れる水量が増せば増すほど, 資料的事実の 蒐集そのもの,即ち特定の理論的目標を顧慮することのない資料的事実の 蒐集や, 現に歴史叙述がやっているような自己目的としての資料的事実の 構成は, 社会科学からはますます離脱していくこととなり, むしろ, すべ ての科学が目指している分析的な目的,即ち普遍的真理を求めるという本 来的=科学的関心の方が,我々経済学の分野においても又, ますますはっ きりとその姿を現してくる。社会科学は何れもみな一一勿論, その応用は 別だが一一言葉の極めて広い意味での「理論」に転化する。もっと正確に 言えば,……思考を社会の諸要素の隅々にまで惨透させようとするー述の試 ( 3 3 ). みの集合体に転化するり 内︿. )qtυ (d. シュムベーター「社会科学の過去と未来 J. 訳 1 6 8頁 。. 剰え, 現代は,経済学(社会科学)にとっても, 第一流の時代でなく, 流 , 三流の,即ち凡庸の時代である。 ……結局,. どこへ行っても二流以上に出られない. 0. ・・・・・・およそ体大. , そ れ が 初 め て 企 て ら れ る 時 極 端 」 と思われないよう な行芸3で 主に可能 なものがあろうか。それが成し遂げられてはじめて,俗人 j なことカ fわかってくる。 (スタンダール「亦とN.¥jJ) マルクス,・・・・・・シュムベーター, そしてケインズ,彼等とその後の諸グループ.
(25) 6 2. との聞には,余りにも大きい懸隔,質的断絶(人格,学説上の)がある。 (況して,我国の場合は,論外で、ある。) 一群の天才者達,その一人としてのケインズ(彼は. I勝れた経済学者と. いうのは珍中の珍である」と述べたというが)一一彼にとって,何より大切 なのは(マルクスやシュムベーターにおけると同様),経済(の本質)につ いての独自の社会的ウ イジョン……思想…… 見識" (独自の,独自の一つの 世界としての)であって, せいぜい 更に,. 知識" (4J~実についての片々たる知識,それらは. 概論"の素材にしかならぬところの)ではない。 とりわけ. 1一般理論」においては,ケインズが事実とか統計とか. を喋々するのは(1一般理論」の実質的業績そのものに窺う限り),その実, 単に彼の口先だけの御愛想,彼の単なるポーズ,ショーマン・シップにしか 過ぎないとさえ,極言して差支えない程である。 I一般理論」における一般の語すら,形式的意味において,即. そこでは. ( 3 4 ). ち古典派批判の論理的帰結として充分に説明せられ得るのである一一事実, 筆者は,講義において,そのような解釈にのみ徹している。 ( 3 4 ). ……新たな問題は, n i jの問題の論理的な帰結である……。……新たな問題は,. 既に解決された問題に対して,それを精練し,専門化し,具体化するという関係に. 立つ…… o J (シュムベーター『前掲書山訳 1 7 1頁。). 従って,それらによる証明の失敗は,彼の理論(の基本,本質)を些かも 傷つけるものではない。 それは,恰仏教場における教師の講義における全体としての結構,構成 に似ている。部分的個々の二,三の論証,証明の欠陥乃至矛盾は(下司で恐 かな学生に限ってそのょっな部分に目をつける),大抵の場合,その基本を 侵すものではない。 むしろ,ケインズにとっては,理論,更には,理論の理論一一ー方法(認識 ~, ( 3 5 ). 方法)の哲学. こそ,重大事である。. 問ケインズ……彼は,哲学者的な,或は認議論的なところのある人であった。…. 我々は業品切通ら人物へ押し流されつつある〔がい(シュムベーター『十大経出学者山 訳 378‑80頁。).
(26) フィクションとしての経済学一一ケインズとマルクス. (1). 6 3. 「哲学及び経済学の文献が彼を最もひきつけた J (同,訳 3 8 4頁。). 単なる事実とか統計とか(人間不在の,理論を欠いた)の薄弱な根拠に よるのではなし古典派経済学の論理の,更には論理の基礎,前提(仮説) そのものについての内在的批判こそ,彼の主なる目的とするところである。 「本書の主要な目的は難解な理論上の問題を取扱うことであって,この理 論の実践への適用は副次的に取扱われるに過ぎない。何故なら,. もし正統. 派経済学が誤っているとすれば,その誤りは,論理的整合性に著しく留意 して構成された上部構造の中に見出されるべきではなく,前提が明確性と 一般性に欠けている点に見出されるべきだからである。従って,私は経済 学者達の基礎的な想定の幾つかを批判的に再検討するように彼等を説得し たいと思うが,私のそのような目的は,高度に抽象的な議論と,そして又 ( 3 6 ). 多くの論争による以外には達成することが出来ないり ( 3 6 ) ケインズ「前 J 白書 J,) 子 。. 新しき天才者,新しい仮設・仮説(理論)の登場一一古きパラダイムの破 壊,……闘争,相充1 ・・ ‑ ・ 。 h. 「古代の文化であれ近代の文化であれ,その絶頂の見せ場といわれるもの. 。. は,必ずや強固な統一性をもった前代の文化形態を破って個人的なもの・. 7 ). 主観的なものが躍り出てくるという筋書によって特徴づけられている……d ( 3 i ) シ ュ ム ベ ー タ ー 「 社 会 科 学 の 過 去 と 未 来 J,訳 182頁 。. 従って又,今日時,巷間の経済学雑誌を賑わしている業績なるもの,所謂 ( 3 8 ). 計量経済学" (的成果[""経済白書」の如きを含む)……或は 数理経済学" 一. (数理それ自体のロジック,数値の片々をやたら重要視するところの,. 囲碁. よろしくただそれらを出発点とし到達点とするに過ぎない機能論的・無思想、 の)など,斯かるケインズからすれば,それ自体(の価値)としては(既に, 『一般理論』の中で榔1ÍJ-~ している如く一一後述) .まさしく噴飯物,笑止に耐. えぬ代物であるに違いない。 ( 3 8 ). ……し、かなる統計的資料をもってしでも, 1日々がもっと JP.~"li でヨリ)た本的な 'J~. 実によって伝じている命題を立証したり,否認することは出来ない。それが斯様な 命題を立正し仰ないというのは,一つの,同じ時糸列の動きが,分析的には無数と.
(27) 64. いえる紅の仕方で説明され得るからであり,それが斯様な命題を否認し得ないとい. [の関係が,今研究している統計資料に作用する他の諸要囚によってぼか うのは , l され得ると同様に,数字的図式の中では全く見失われてしまっ(それによってその ケースを理解せんとする際の主要性は凡夫われないとしても)ことがあり得るから に他ならない。従って,統計的帰納や立証に対して通常主張されていることは,制 約づきで言われなければならない。我々のもっている資料のように極めて多くの撹 乱にさらされているものは,帰納過位に必要な論理的条件を j 前していないのである。」 (シュムベーター『対気循環. d u .訳. ( 1 )4 6tU. ケインズにとって,そのようなものは,二義的或はそれ以下の副次的にの. a r t,小手先仕事),せいぜいのところ, み重要な,非学問的工芸品 (. ドイツ. u n s t l e h r e にしか過ぎないのである。 人の所謂 K 従って,それらのすべてを一一悪魔が(しかも,三流の悪魔の一人が), 仮に,みな引き擢っていったとしても,彼一一我々は,些かの痛律も感じ得 ないですむのである。 「 最近の r 数理」経済学の余りにも多くの部分は,それが立脚している最 a. a. 初の想定と同じように不正確な,単なるっくり事であって,著者はもった いぶった,役に立たない記号の迷宮の中で,. ともすれば現実世界の錯綜関 ( 3 9 ). 係と相互依存関係を見失ってしまうのであるり ( 3 9 ) ケインズ『前掲書.11.訳 2 9 7 : n。. 凡庸にとって,たとえば. I理性批判 J. (カント),或は「精神現象学J ( へ. ーゲル)の如き知的高度のプロセスは,所詮,無縁である。 ( 4 0 ). 天才者(凡庸の到底窺い知ることの出来ない深層に到し得る知性の持主); その仮説,或は思想、の背後にあるもの,それは,彼等の直観(ヴイジョン) とか,信念とか言われるものであろう。 ( 4 0 ). 11"一般理論』は,我々の時代に関するそのヴ、イジョンを分析的に役立つものたら. しめようとする長し、苦闘の最後の結果である o J (シュムベーター「十大経消学者.11.. 7 7頁。) 訳3. そして,更にその奥にあるもの,その奥で統べているのは何か,……神か 悪魔か。そのような形而上学的な考察は,少くとも我々の直接の問題ではな.
(28) フィクションとしての経済学一一ケインズとマルクス. 6 5. (1). 4 (1 ). 削. ri"科学的な』型の経済学者にとっては,ケインズというのは,勿論一般理論』. のケインズである。「平和の経済的帰結』からそこに至る直線的な発展……をいく らかでも正当に取扱おうとするためには,記録しないで済ましてはならない多くの 事柄を無慈悲に掃き拾てなければならないであろうり. (シュムベータ̲ Ii前掲書山. 同頁。). が ,. しかし,それが我々にとって一つの与件であるにせよ,一つの思想に. とって,不可欠な要素なのである。. 現代(近代)の低俗・卑俗に対して理想主義の旗を掲げ得るのも又,天才 だけの午寺十在である, か 。 が,近代の標語に謂う. r 特に,天才を排す!. 凡庸なれ. J . と。(ヴイ. リエ・ド・リラダン「残酷物語.0) J (映画「アマデウ 「この世の凡庸なる人々……凡庸な者よ,罪を許そう o. ス』より) r <アマデウス〉とは,その人が〈神の寵愛を受けて〉いたということで J( A .グライター「モーツアルト.0) ある o ダ 》. 「……彼は洗礼名の一つをイタリア風に,アマデオ(神の愛でし人の意) と署名した。J (アンリ・ゲオン『モーツアルトとの散歩.0) 然、して,ケインズについて言い得ることは,やはり同じく,マルクスにつ ( 4 2 ). いても(或はシュムベーターについても)主張し得られるというのが,本稿 での筆者固有の試論の立場である。 ( 4 2 ). マルクスにおけると同じように,人がケインズの社会的ヴィジョンは間違って. おり,且つ彼の命題の何れもが人を誤り導くものであると考え得るとしても,. なお. 彼を賞讃することは可能である o J (シュムベーターIiHi I 拘書.!).訳413頁。) 教師が学生の答案を採点する場合にも,同様なことが言える。得点を与え得る規 i ¥ f ;は.内容そのもの(正解か否か)より,問題についてその学生が彼なりによく(深. く)巧ーえている(か百か)ということ自体への評価である。他の教師の場合は知ら ず一一少くとも来者の場合はーそうである。.
(29) 6 6. 『資本論』一一「この著作によって,マルクスは,最も重要な分析的な思想 家の一人となっているり 「本来の理論が取扱われる限りでは,マルクスの方法は全イギリス学派の 演緯的方法である。その欠陥と長所とは,最良の理論経済学者に共通なも ( 4 3 ). のである d. ( 4 3 ) マルクス『前掲書.Jj,第 2版後書より。. 経済学は,フィクションとして在る。 「経済の空箱 J. それ又,結構. 1. 経済学はモデノレに即して考える科学(学問)"である。 フィクションーーその実,フィクションならざる,むしろノン・フィクシ ョン以上のものとしての経済学…. 。. 一体,本稿におけるような斯かる試論自体,果して如何なる意義があるの か 。. OECDのレポートによれば,少くとも社会科学に関する限り(筆者自身 は,社会科学のみとは考えないが),創造による我国の対世界貢献度はゼロ, 或はゼロに近いと言われる。(我国の経済,社会,或は文化における場合も 又,同じ。ソヴイェトの学者速に日朝笑された一一夜郎自大的なマルクス主義 研究のレベルに至っては,論外。) このことは,同時に,批判. その限界(欠陥)の我々による確認と,そ. の由ってくる誤麻化しのない理由の冷厳な解明とを(消極的乍ら),. 却って. 価値あるものとする。 何故ならば,斯から現状否定の態度は,それが同時に,明日への創造の期 待と,我々自身のための些かなりともの改善の努力を,招来するものと考え られるからである。 即ち,本稿に些少なりとも意義ありとすれば,筆者の強調は,そこ(即ち, 否定)に置かざるを得ないというのが,今回の一ーと言うより従前からの, 筆者の一貫した基本姿勢である。 では,肯定・創造の契機とは一一社会(社会科学)における天才(新しき.
(30) フィクションとしての経済学. ケインズとマルクス. (I). 67. 人間)の出自,その主体性の発揮,これである。 勿論,そのチャンスは,一個人の小賢しい智慧によるのではなく,我々人 類(全部)の危機についての使命(或は責任)一ーというよりは,我々の宇 宙全体が,一つの集約として,我々に,就中その天才を通しでもたらすとこ ろの,かの運命に拠る。 ともあれ,我々(凡庸)は,我々(の天才)における思想の力,そのダイ ナミックな働きを(たとえ,それが文字通り単なるフィクションとして終る ものであるにせよ),忌仰なし認めるべきである。 あらゆる議論(勿論,科学的議論を含めて)は,そこにこそ,固有の出発 点を持つ。 「経済学者や政治哲学者の思想、は,それが正しい場合にも間違っている場 合にも,一般に考えられているよりも遥かに強力である。事実,世界を支 ( 4 4 ). 配するものは,それ以外にはないのであるり ( 4 4 ) ケインズ『前拍手? J,訳 386兵。(傍点筆者。). 〔未完〕. ' 8 5 . 7 . 2 9. 本稿に関わる筆者の社会哲学(の試み).認識論的背景については,拙稿「アジア 概念,へーゲル「精神現象学』に拠って(2)一一カント,へーゲル,フッサール J. 東南アジア研究年報第 2 7集,併参。.
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