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近代における山村住居の変容過程-五ヶ山ダム水没予定地区(福岡県分)を中心に- [ PDF

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Academic year: 2021

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(1)近代における山村住居の変容過程 ――五ケ山ダム水没予定地区(福岡県分)を中心に―― キーワード:山村住居、平面変化、社会構造、都市化、生業 空間システム専攻 張 磊 ドとザシキ及びナカエの. はじめに 本稿は、那珂川流域のダム建設計画によって住民の移住措置. 位置からみると、ナカエ. が進められている福岡県筑紫郡那珂川町の五ケ山地区の住民. と並列の B1A タイプと. 生活の記録を遺すため福岡県がから委託されて、2003 年 5 月か. ザシキと並列の B2B タ. ら 9 月まで九州大学山野研究室が実施した調査をもとに、急激. イプ、また中廊下を通じ. な近代化の波にさらされた山村住居の変貌過程を考察しよう. てナカエ及びザシキをつ. とするものである。. なぐ方式の B1C タイプ に分けられる。 聴き取りの結果、次の. 背景 五ケ山地区は、背振山地の東端にあたり、地理的には佐賀県. 諸点が明らかになった。. 神崎郡に隣接する一帯の溪谷に、いくつかの小集落を展開して. 戦前では当地区の各集落. いるが、歴史的には近世以前から肥前とは国境を接する地域と. は山間部であるため、畑. して明確な領域意識が確立していた地域である。住宅戸数は. が少なく、農産物は自給. 1880 年には 72 戸であったが、南畑ダムの建設による移住や、. 自足である。現金収入は. 近代の山村に通有の過疎化現象も手伝って、現在では 42 戸と. 主に炭焼きや材木伐りだ. なっている。このたびの調査では、そのうち 40 戸については. しなどの山仕事からであ. 移転補償交渉の際に作成された配置図、間取図などのデータを. 図1.平面型の分類. 得ており、また 35 戸に対しては聴き取り調査を実施し、及び 6. った。土間は平地農家より 小さい。牛小屋は別棟であ. る。外便所は大小に別けられ、フロは共同が一般的である。生. 棟の実測調査を行った。. 活空間は三室あるいは四室のB1B 型とB2B 型の平面形態が多 かった。当地区では大規模な屋敷が存在せず、二室しかない A. 研究目的と方法 本研究は、五ケ山地区の網取、桑河内、大野、東小河内の四. 型、あるいは B1A 型のような小さくて狭い家も少なくなかっ. つの集落の住居の調査に基づき、現在の居住形態をもたらした. た。しかも、そのような小規模の家の中には 1949 年に新築し. 諸要因を推定する。具体的には、移転保証交渉の際に作成され. たものもあった。. た配置図、間取図などのデータをもとに住居群を分析し、平. 戦後、日本の社会と経済の発展は、この地区の生活に大きな. 面・断面を推定復原する一方、伝統的な住居形式を下絵としな. 影響を与え、平面形態変化に変化をもたらしていった。第二次. がら、導入された各種改修のパターンを抽出する。さらに、対. 世界大戦前後の住宅の平面型を表 1 に示す。改築前の型で見る. 面式の聴き取り調査及び実測調査を実施し、戦後を中心にこれ. と、一番多いのが B1B 型で 50%強、次が B2B 型で 25%、あ. らの集落で起こった変化を具体的に把握し、考察の素材とする。. とは A 型、B1A 型と B2A 型に少々となっている。これをみる と、小さい家、狭い家が改築するとは限らないことが分かる。 改築する場合の傾向は、中廊下を持つ B1C 型にするものが一. 平面形態の分類 図1に掲げる平面の諸類型は、聞き取り調査により作成した. 番多く、あとは少々が B1B 型や B2A 型にしている。ところが. 復原図を整理してみたものである。それらの平面形態は家の室. 戦後住宅全体でみると、B1C 型は 20%に過ぎず、それと比べ. 構成から考えると 6 類型に分けられる。まず、ザシキを持って. B1B 型が 50%強、戦前と変わらないものが一番多い。さらに. いる B タイプと持っていない A タイプに分けられ、そしてザ. ザシキを持っていない A タイプがなくなった。. シキとナカエの位置関係によって、並列型の B1 タイプと食い 違い型の B2 タイプとに分けられる。さらにナン. 53-1.

(2) 済的状況を併せて、様々なプランを試行し、その中で一番優れ. 表1 戦前戦後の住宅の平面型    後 前 A B1A B1B B1C B2A B2B 合計 A 0 0 0 1 1 0 2 B1A 0 1 2 0 0 0 3 B1B 0 0 19 3 0 0 22 B1C 0 0 0 0 0 0 0 B2A 0 0 1 1 1 0 3 B2B 0 0 0 3 0 7 10 合計 0 1 22 8 2 7 40. たプランである B1C 型を選んだのではないだろうか。 例えば、6 番、16 番住宅は、1964 年に建てられた B1C 型で ある 38 番住宅と共通点がある。前述のような各室の独立性に 加え、3 棟とも屋根葺材として「かや」ではなく、コンクリー トの瓦を用いていた。それによって、建物の外観は大きく変化 した。しかし平面から見ると、便所と浴室を室内に取り込んだ 以外、全体の室構成は改築前と大差ない。土間の面積は昔のよ うに広く、食料品を生産する場所としての室機能も変わってい. 表2 戦後新築、建替えの平面型と原因. 年代 住宅番号 平面型 原因 S24 5 B1A 分家 S25 4 B1B 火事 S25 2 B1B 火事 S27 3 B1B 火事 S32 6 B1B 火事 S33 16 B1B 分家 S39 38 B1C 道路 S40 21 B1B 結婚 S41 35 B1C 道路 S42 40 B1C 道路 S42 32 B1C 道路 S42 12 B1C ダム S46 37 B1C 道路 S50 13 B1C 道路 S57 23 B1C その他. ない。 1965 年を境として、五ケ山地区ではダムが建設され、家庭 電気製品 TV をはじめとする、情報器械が普及し、新しい住要 求が芽生えたが、それが直ちに住宅平面に反映したわけではな い。では、居住形態の激変をもたらしたのは、住民の住要求以 外にどのような原因があるだろうか。次節では社会的側面から 考察を進める。 社会構造の変化 この地区では大地主がいないため、村社会結合の類型は講組 結合であったと考えられる。つまり、ほぼ同等の家によって構 成される横の連繋である。産土神の祭りオザも講組織の輪番制 によって行われ、宗教的社会的娯楽的行事も、同族的な結びつ. 表 2 は、戦後、新築及び建替えの平面型と原因を示す。一番. きを完全に離れて、地域的な組において各戸を順次に当番とし. 多くの理由は道路建設である。昔は分家や結婚などが主な理由 であったが、戦後ではこの理由による建替えは 3 戸しかない。 ここで興味深いのは、新築及び建替えの平面型の変化である。 表 2 をみて分かる通り昭和 40 年以前では、二室しかない B1A. て行われる。このよう講組結合は五ケ山地区では今でも存在し ている。しかしあくまでもこの存在は形だけである。それは、 以前この村の社会構造を支えていた炭焼き産業の衰退、及び屋 根を維持する「かや講」が戦後以来なくなったことが原因であ. 型があったが、全体的にみるとほとんど B1B 型であった。ま. る。. た、B1C 型は 1964 年に初めて五ケ山地区に導入された。以後. ① 生業の変化と都市化の進行. 21 番住宅を除き五ケ山地区では新築及び建替えの平面型はす. 燃料革命以後、炭焼き産業は漸次衰退し、現金収入を確保す. べて B1C 型であった。B1C 型は、ほぼ B1B 型に類似する平面. るため男たちは町に出かけ、勤め始めた。畑が少ないので土地. の中央に中廊下を通すことにより、各室の独立性を高めるプラ. を捨て、町に移住する人もいる。それは現在の戸数が明治より. ンである。. 少ない原因ともなる。さらに、南畑ダムの建設、国道 385 号線. 当地区では、B1C 型登場前に、室の独立性を求めるため、. の整備により、多くの仕事が可能となったので、男性だけでは. B1B 型に基づき、試行した例があった。それは、1957 年火事. なく、家事を離れ働いた女性もいる。1968 年、五ケ山にバス. のため建替えた 6 番住宅と 1958 年分家のため新築した 16 番. が開通し、その後炭焼きが生業として成り立たなくなり、勤め. 住宅の平面である。二つとも廊下を使って、ザシキとナカエの. が主たる生業になった。当地区の社会的環境が急激に変化し、. 外側を回って、ナンドと土間を直接つないでいた。それによっ. バスの運行によって、山間部の農村でも都市との距離が近くな. て、各室が直接土間に行ける。あるいは自由に家へ出入りでき. り、都市の影響も入りやすくなる。五ケ山地区の居住形態は社. る。さらに、6 番住宅ではザシキとナカエの間に廊下が設けら. 会と経済の発展と共に激変してきた。各住戸に共通して見られ. れ、各室の独立性を一層高く確保できたが、38 番住宅の B1C. る変化及び過程は次のようである。. 型平面のような洗練されたプランには及ばない。B1C プランを. ② 「かや講」の消減と屋根葺材の変化. 受け入れた背景には都市からの影響があったことを否定でき. 「かや講」は土地全体が同じ時期になくなったのではない。最. ないが、それだけではない。住民たちの新しい住要求に基づい. 初は東小河内であった。この集落は 1948 年火事で家四軒が焼. て、地元の大工たちは当地区の地域性、また当時の社会的、経. 失し、その後これらの家が建替えの時に瓦屋根にした。次は大. 53-2.

(3) 野であった。東小河内の影響で「かや講」が「瓦講」に変わり、. とは、定式化されたパターンとして当地区住民たちの居住意識. 1959 年から十数年かけですべての家が瓦屋根になった。網取. を規定しているのだろう。. では 1963 年に南畑ダム建設と同時に国道 385 号線の工事も始. ⑤ 社会変化と続きザシキの意義. まったので、道路建設の保証金で集落全体が一気に瓦屋根にな. 講組結合の社会体制の崩壊とともになくなるはずの続きザ. り、さらに 5 軒の家が建替えた。最後に、桑河内は 1965 年代. シキは、古い家に残っているだけではなく新築の家にもある。. から各家が自力で瓦屋根にした。全地区の一番最後の改造はこ. 昔は続きザシキは冠婚葬祭以外にも、日常的に老人と子供の寝. の集落の 29 番宅であり、1980 年のことであった。こうして、. るところであった。今では、冠婚葬祭が家では行われないし、. 五ケ山各地区の講組結合を不可欠のものとしていた「かや講」. 寄合いも昭和 30 年代から集合所で行う。ザシキは日常的に寝. は解消した。. るところとしては使わない。実際に、当地区ほとんどの家では. ③ 農業技術の革新と土間空間. お正月やお盆など家族が大勢集まる日以外ザシキとナカエを. 五ケ山地区各家の土間は山間部のため平地農家のように広. 続き間としては使わない状況である。つまり、続きザシキは日. くはなかったが、様々な農作業空間として重要な役割を果して. 常的な空間ではなく、非日常的な空間である。しかし特別な日. いた。しかし、1955 年ごろから急速に機械化や化学肥料の普. に家族が集まることは家の重要な機能として住民たちに強く. 及などによって農業生産のやり方が飛躍的に変化し、土間はそ. 意識されており、続きザシキはその家の本来的な機能を確保す. の本来の役割を失って、都市住宅の台所のような単な食物を調. るために重要な役割を果している。. 製するという機能をもつ生活空間に変わった。それに加えて、 結論. 高度経済成長政策は、都市と農村の格差拡大を激化させ、都市 中心に生活水準は向上するが、農業所得はそれに追いつかず、. 戦後、五ケ山地区の住居は住民の住要求の変化と社会の変化. 農家は農外収入に頼らざるをえなくなった。高度教育をうける. に対応するため、様々な増改築や新築を経て今日に至っている。. ほうが高い賃金がもらえるため、子供への教育熱が高まった。. その中で、中廊下型平面は必ずしもこの地区の居住形態の変化. 土間の一郭を改造し、子供に独立の空間を与える改築が五ケ山. に対応したわけではなく、むしろ、生業の変化、講組結合の消. 地区の多くの住宅に見られるようになる。さらに、中廊下や玄. 減、農業技術の革新、高齢化の進行といった事態に対応しつつ、. 関ホームなど新しい平面プランの要素を利用しながら、子供部. 伝統的な平面が漸進的に変革されていったことが推測できた。. 屋の独立性を確保している。. かや葺屋根は消え、土間は形を変え、便所と浴室は高齢者の近. ④ 高齢化と便所、浴室の屋内への取り込. くに屋内化され、続きザシキは残った。いま、山村住居の研究. 便所、浴室は、生理、衛生上の設備である以上に農肥の利用. に重要なのは、変化の方向を一般化するのではなく、その内実. に活用されるよう考えられ、屋外に配置されていたが、戦後、. に深く立ち入って、個別の変化を注意深く分析することであろ. 化学肥料普及に伴い一切の人肥が駆逐された。一般的には、こ. う。. れが便所、浴室が屋内に取り入れる重要な原因と見られている。 今後の課題. しかし内便所が初めて五ケ山地区の住宅にあらわれたのは 1926 年建筑の 7 番住宅である。便所はザシキの裏に付け、縁. 本研究では、平面形態の変化を中心に分析を行ったが、五ケ. を通ってザシキとつなぐ。江戸時代の武士住宅の客室専用便所. 山地区では多くの改造は「ゲ」の室内化( 「オモヤ」への取り. の造り方と似ていると言われるが、 当地区では同じ形式は1949. 込み)によって実現した。今後は、架構の変化およびその際の. 年分家で新築した5番住宅しかない。その後多くの場合、便所. 大工の役割について研究を進めたい。. と浴室の位置はと同じザシキの裏であったが、ザシキだけでは なく、ナンドからも使えるように廊下が設けられていた。さら. 『参考文献』. に、新しいプラン B1C 型から中廊下を利用して、便所、浴室. [1]太田静六 「福岡県の民家とその周辺」 九州大学工学部建築教室建築様式史研究室. の位置がどこにおいても各室から自由に使えるようになった。. 1973 年. しかし、その位置はどこでもよいという訳ではなく、ある原則. [2]福武直 「日本農村の社会的性格;日本の農村社会」 東京大学出版会 1976 年. で設置されている。それは高齢者の生活空間に近い位置で設置. [3]濱ロミホ 「日本住宅の封建性」 相模書房 1949 年. することである。夜になると、ザシキはその家の高齢者の寝室. [4]太田博太郎 「民家のみかた調べかた」 第一法規出版株式会社 1967 年. になるため、その裏の便所は客専用に限らないと言える。現在. [5]戦後日本教育史料集成第7 巻 「経済の高度成長と教育」 三一書房 1983 年. では、高齢者の寝室のそばに便所と浴室を設けることが多く見. [6]藤田元春 「増補日本民家史」 刀江書院 1932 年. られ、更に近年においては手すりを設け、和式便所から洋式に. [7]久武綾子、戒能民江、若尾典子、吉田あけみ 「年表と図表で読む戦後家族1945−96. 改造する例もある。便所、浴室と高齢者の寝室を近接させるこ. 家族データブック」 有斐閣 1997 年. 53-3.

(4) 6 番住宅の現状図. 6 番住宅の 1957 年建替え当時の復元図. 16 番住宅の現状図. 16 番住宅の 1958 年新築当時の復元図. 32 番住宅の現状図. 32 番住宅の 1964 年以前の復元図. 38 番住宅の現状図. 38 番住宅の 1967 年建替え当時の復元図. 53-4.

(5)

参照

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