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井上円了と清沢満之の共同研究 : 清沢満之の人と思想 利用統計を見る

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(1)

井上円了と清沢満之の共同研究 : 清沢満之の人と

思想

著者名(日)

安冨 信哉

雑誌名

井上円了センター年報

11

ページ

37-52

発行年

2002-07-20

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00002731/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

︿井上円了と清沢満之の共同研究﹀

清沢満之の人と思想

安冨信哉

ぎ﹂ミ§\§誌ミ はじめに  おはようございます。今回、この会に参加して、清沢満之について何か報告するようにということで、お邪魔 いたしました。私は大谷大学で、真宗学科という分野に所属しております。真宗学といっても、ほとんど世間的 には知られておりません。昔の友達などに会って、﹁大学で何をやっているんだ﹂と言われて﹁真宗学﹂と言う と﹁何、それ﹂と言われるようなことがあるぐらい、ほとんど知られていないわけです。要するに、浄土真宗に ついての学問、これが真宗学と言われものです。その真宗の教学思想について、私は研究しているのです。  昨日、東洋大学を訪問いたしまして、久しぶりにあの辺りを少し散策させてもらいました。学生時代、随分以 前になりますけれども、本郷の追分町に、今の向ケ丘でしょうか、東本願寺が建てた教学研究所があって、付属 施設に学生寮があり、そこで四年間生活していたんです。私の妹が東洋大学に学んでいたものですから、時々東 洋大学の方へ足を伸ばしたりしていたんです。昨日何十年かぶりであの辺りに行って散策したのですが、やはり 昔と随分感じが違うなあという印象を受けました。  私は、東本願寺の建てた学生寮にいたわけですが、かつてこの辺りには浩々洞がありました。浩々洞というの 37 ・井HJJゴと清沢満之の共同研究・清沢満之の人ヒnJ.想

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は、清沢満之を中心にして学生が生活した信仰の共同体みたいなものです。学生寮にいたときに、何人かの方々 と一緒に、その浩々洞の話を聞くとことがあったのですが、清沢満之については、名前を聞いてはいても実際に 清沢満之について関心を持って学ぶなどということはなかったわけです。一九六七︵昭和四十二︶年に大谷大学 の大学院に入ったのですが、明治後半期、真宗大学という名の学校が巣鴨にあって、それが現在の大谷大学にな っているわけです。清沢満之は、その真宗大学の初代の学監であるということで、清沢満之の名前を改めて大谷 大学に入って聞くことになったわけです。また同時に、私がこちらの大学に行っていたころ、住んでいた学生寮 は、大谷会館と言われていたんです。その大谷会館に法要などがあるときには、浩々洞の言ってみれば直門の 方々、例えば曽我量深という方や、金子大栄というような方々がまだご健在でありましたので、ご高齢ながらも 大谷会館においでになって話され、そのお話を聴く機会があったんです。  また、京都に参りましても、曽我先生がまだ大学で特殊講義という科目をもっておいでになって、ご講義をさ れておりました。それで、お話をうかがう機会がございました。そんなことで、大谷大学に来てから改めて清沢 満之の名前を聞くことになりました。清沢は、大谷大学の学祖であり、その信仰を学ぶことが、大切な意味を持 つということを授業で教えられたわけです。今日は、その信仰において大きな意味を持つという辺りを少し振り 返ってみたいと思います。一九八二年に東京書籍から出た﹃近代日本哲学思想家辞典﹄の清沢満之の項目を、古 いものなので不十分な点が多々ありますが、拙稿ですので、何らかのご参考になればと思って今日配布させてい ただきました。 38

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一、理性と信仰  清沢満之の信仰を振り返ってみますと、清沢満之において信仰というものが、彼自身主体として立っていくと いうか、そのために欠かせないものであったということがうかがわれるわけです。それにつきましては、彼自身 が告白しているわけでして、彼は明治二十七年くらいに信仰的な一つの展開を得るわけです。﹁臓扇時代﹂と言 われるところでございます。非常に厳しい禁欲生活を送って結核にかかり、養子で入ったお寺である西方寺に帰 るわけですが、喀血が襲ってきたり僧籍を剥奪されたり、それから周りから白眼視されたりということで、本当 に苦しめられるわけです。そのときに、自分で﹁黙忍堂臓扇﹂という号を付けます。つまり黙って忍んでいく、 臓扇というのは十二月の扇子という意味なんですが、無用者という号を付けるわけです。  後年彼は、この頃を振り返って、彼自身自分の信仰を﹁明治二十七・八年の養痢に人生に関する思想を一変し、 ほぼ自力の、迷情を翻転し得たり﹂と言っています。明治二十七、八年、彼がだいたい三十二歳のときに結核と 診断されるわけですが、そこで自分の自力が破れたと語っております。結核にかかったということは、彼にとっ ては、大変に大きいことであったわけです。当時、結核にかかって信仰的世界に入っていった人はいろいろいる と思います。昨日出た名前の中では、例えば高山樗牛とか、あるいは綱島梁川という人たちが結核の中で信仰的 世界に入っております。清沢は、結核の中で自分の無力ということを本当に心から悟って、そして改めて親驚の 信仰に入っていくわけです。  清沢において、信仰というものがどういう意味を持っていたのかということは、無能な人間、無用者である自 分がそういう中において一人、人間として立っていくためにおいて欠かせないものとして信仰があったわけで す。ですから、信仰ということと主体ということとは、かけ離れないということが言えるわけです。その場合の 39 〈拝1円了と清沢満之のJk同研究》清沢満之の人と思想

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信仰というのは、自分の思考、思いを停止してしまうということではなくて、非常に深い思索を展開していくと いうか、思惟を、理性をつくしていくということなのです。  最初彼においては、信仰というのはかなり理性的なものであったわけです。彼の初期の書物に﹁宗教哲学骸 骨﹄というものがあります。彼は、これをかなり早い時期に、二十九歳のころに書いているわけです。しかし、 それは骸骨という名前にありますように、骨組みだけを書きとどめたものなのですが、骨組みですから、彼はや がてそれに肉付けするつもりだったのかもしれません。しかし、哲学について特にこの後、大部の著作を書くと かいうことはないわけなんです。  それがたまたま、一八九三︵明治二十六︶年にアメリカのシカゴで万国博覧会の世界宗教会議があったのです が、そのときに野口善四郎という人が、﹃宗教哲学骸骨﹄を翻訳して持っていこうということがありまして、こ れを書いた翌年に﹃宗教哲学骸骨﹄が英訳されるわけです。その英訳を野口善四郎が一応やったのですけれど も、しかし清沢はそれが気に入らなくて、全部自分で翻訳し直して、それで持っていったわけです。そうする と、翻訳し直したときに、西洋人にわかるようにということで、ちょっと肉付けがされているんです。その英訳 が﹃清沢満之全集﹄にも載っております。  今回、今村仁司氏が﹃現代語訳 清沢満之語録﹄を岩波の現代文庫から出されたのですが、英訳されたものか ら逆に翻訳しているんです。これは、非常におもしろいことで意味のあることだと思います。そういうかたちで 英訳されて、ある程度肉付けがあるわけです。  清沢満之の信仰は、﹁もし道理と信仰と違背することあらば、むしろ信仰を棄てて、道理を取るべきなり﹂と ﹃宗教哲学骸骨﹄の中で語られております。それについて、自分自身も後から﹁余は初め理屈と信仰とを並行せ 40

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しめんと試みたり﹂と述懐しています。ところが、やがて理性に破れたところから、信仰へと向かっていくわけ です。逆に理性に破れたところから自殺に向かっていったのが、藤村操という青年ですけれども、清沢の場合に は、最後の彼の﹁我が信念﹂という告白にもありますように、﹁私の智慧や思案の有りったけを尽くして、その 頭の挙げようのないようになるということが必要である﹂と言っております。  彼は非常に理をつくしていった人でありますけれども、しかし理性の限界というものにぶつかって、逆に信仰 の中に入っていく。その信仰も、思惟のありったけをつくして破れたところからと﹁我が信念﹂で言っておりま す。理性をつくし思惟をつくして問うという姿勢の中に、彼の信仰がある。ですから、清沢満之の信仰が近代的 な信仰であるという名を与えられるとすれば、それは彼の情熱的な思惟そのものが近代性を持っているというこ とができるかと思います。あるいは、根元的な思惟が彼をして近代の信仰者たらしめたということができるかと 思います。その自己への問いというものを私たちは﹁自覚﹂という言葉で表現するわけでありますけれども、清 沢満之の場合には、自覚というものが、自己を自覚するというのではなくて、いわばダルマ︵法︶を鏡として自 己を自覚するということであります。そこにおいて彼の自覚というのは、宗教的な自覚になってくるわけです。 二.二種深信  ﹃臓扇記﹄という、彼の日記があります。これは彼の信仰の苦闘を示している一つのドキュメントです。その 中で﹁須からく自己を省察すべし。自己を省察して、天道を知見すべし﹂︵﹃臓扇記﹄明治三十二年二月二十五日︶ と言っております。ここで究極の帰依処を﹁天道﹂と言っている。また、﹁絶対他力の大道﹂という﹃臓扇記﹄ をさらに手直しした文章があるのですけれども、そこでは﹁須らく自己を省察すべし、大道を知見すべし﹂とい 41 〈井1円了と清沢満之の共同研究・清沢満之の人と思想

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うふうに﹁大道﹂といっております。天道とか大道という、仏教ではあまり使わない言葉で、彼は究極の帰依処 を表現するわけですが、その自己省察が、天道、大道への知見と結びついて進んでいくわけです。  彼は、それを省察と言いますし、またそれを内観という言葉で言います。内観していく。彼において信仰とい うことをみていくときに、内観的な信仰なんです。そして、その内観するところに何がみえてくるかというと、 ﹁しかして内観を盛にして、自己の立脚地を省察せば、我等の第一に感知する所は自己の闇愚無能、いわゆる罪 悪生死の凡夫であるということであります﹂と言います。  彼の信仰の背景にあるものとして、よく﹃歎異抄﹄が言われるわけです。﹃歎異抄﹄の信仰が一貫して伝える のは、二種深信と言われるものなんです。二種の信仰というのですが、これは﹃歎異抄﹄の信仰を考えるときに 基調になるのです。一つは法の深信、一つは機の深信といわれるわけです。清沢の場合には、法の深信は大道と か天道を知見すべし、そして機の深信は、すべからく自己を省察すべしとされるわけです。これが彼における宗 教的自覚の根本です。別の言葉で言うと内観です。  ﹃歎異抄﹄には、機の深信の言葉が出てくるわけですが、法の深信のことは直接言われない。﹃歎異抄﹄の↓番 最後に、いままた案ずるに、善導の、﹁自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、噴劫よりこのかた、つねにしづみつね に流転して﹂と、ここで﹁罪悪生死の凡夫﹂というふうに出てくるんです。これが、自己の闇愚無能という清沢 の自覚の言葉になるわけです。清沢の信仰の背景には、こういう二種深信の信仰があります。それは、一般的な 信ずるというのと違って、一面においてはこれを法、ダルマという。機というのは自己である。この法、ダルマ を彼は如来とも言っているのですが、如来を深く信ずるという。それと同時に自己の罪悪を深く信ずる。自己の 罪悪性、自己の凡夫性というか、そういうものを深く信ずる。そういう構造を持っているのが二種深信といわれ 42

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るものです。 ﹂二、自覚的信仰の回復  清沢満之の信仰を考えるときに、自己ということがとても大きいわけです。それが今言う﹁しかして内観を盛 にして自己の立脚地を省察せば、我等の第一に感知する所は自己の闇愚無能、いわゆる罪悪生死の凡夫である﹂ ということです。これは﹁精神主義︵その二︶﹂というところに説かれています。清沢満之における自覚は、一 般的な意味における自覚、つまり自己が自己を自覚するというものではなくて、ダルマ︵法︶によって自己を自 覚するというもので、一般的な自覚とは大きな違いがあります。  その背景に、機法二種の深信があり、二種深信に根ざすところの構造的自覚が清沢の自覚であるということが できます。そのような構造を持った自覚を、金子大栄は﹁有限と無限の対応﹂︵﹃光輪抄﹄︶と言っております。 これが近代教学の伝統になってきている。清沢満之自身は、﹁対応﹂という言葉そのものは使っておりません。 しかしコレスポンデンスという言葉によってこれを表現しているわけです。そしてコレスポンデンスは、機法の 対応になるわけです。これが、近代の清沢以来の一つの信仰の流れをつくったということが言われるわけです。  それぞれ宗教的な個性がありますので、受けとめ方は異なりますが、清沢満之については﹁対応﹂の思想があ ります。それに対して、曽我量深において機法の対応は﹁感応﹂になるし、金子大栄において機法の対応は﹁呼 応﹂なんだと言う。仏教のもともとの言葉で言えば、これは﹁相応﹂というものですが、この﹁相応﹂というも のが清沢においては、機法の対応というふうになる。仏教ではもともと﹁相応﹂ということは非常に重要な概念 なんですけれども、それが清沢においては﹁対応﹂というふうに受け止められて、曽我においては﹁感応﹂と、 43 〈井上円rと清沢満之の共同研究〉清沢満之の人と思想

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・ そして金子においては呼応と受け止められている。  つまり、近代教学の出発に機法の﹁対応﹂の思想がみられるというわけです。そういう意味において目覚めと いうものは、法に照らされて機に目覚める。そういう自覚の構造がある。仏教はもともと自覚の道であります。  自覚自証ということが言われますけれども、禅などと違って、浄土真宗は信心を強調するわけです。その信心 において自己を内観省察する、そういう機としての自己に目覚めるということが非常に大切なんだということで す。よく仏教は﹁覚﹂の宗教と言われるわけですけれども、中世・近世の浄土真宗はそういう意味からすると、 自らが覚の宗教であることを忘れていた、不覚の宗教に堕していた。そこにおいて、信心が民衆を眠らせるとい う役割を果たしていたわけですけれども、清沢は仏教を自覚道として再生させるわけです。  明治仏教の中で、仏教を自己として復興させるというのは、清沢満之の↓つの大きな特徴だと思います。安田 理深が明治の仏教について、  ﹁仏教を哲学として復興させるとか、あるいは文化として復興させるとか、こういういろいろな試みがあった と思うんです。その中で自己として復興させようという、そういう道を開いた。それが清沢満之先生の持つ意義 ではないかと思うのです﹂二信仰的実存﹄︶ と言っております。  清沢満之は、伝統的な教学用語というのをほとんど用いない、中世や近世教学の言葉によらなかった人です。 ところが、その中世や近世の教学、われわれは宗学と呼んでいるのですが、そこに最も欠けていた自己というも のを宗学の根本に置く契機をつくったわけです。中世や近世の教学というのは、いわゆる講録教学あるいは訓古 学です。どうして訓古学とか講録教学になっていくかといいますと、一つは中世や近世の教学は特に異安心とい 44

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うことを非常に恐れるのです。そこで異安心にならないためにどうするかというと、訓古注釈をやる。そうすれ ば異安心にならないということで、ものすごく注釈学が発達していくのです。信仰を説明していくという立場 で、教学というものが進んでいったわけです。それで結局、自己というものを忘れてしまった。  清沢の場合には自己というものの目覚め、これは、彼自身の結核ということが一つ大きな動機になるわけです が、当時は坊さんというのは説教するということはやるのですけれども、自覚するなどということは第一義的な 問題にならないんです。どうしたらうまく説教できるか、どうしたら教化できるかということを考える。それに 対して、清沢満之はそういうところをうち破って、信仰の一番の問題は自己の問題だというふうに考えた。  金子大栄は、﹁清沢先生が真宗大学で教えられたこと、それは自己を通してものを言えということであった﹂ (門 エ沢先生の世界﹄︶と述懐しております。そういう意味において、近代の真宗教学の出発となった金子大栄の ﹃真宗の歴史とその教義﹄という本は、没自己的な中世教学を破って、浄土真宗というものを自覚道として再生 させた、記念碑的な著述であるということができるかと思います。その契機をつくったのが、清沢満之であった わけです。清沢満之が浄土真宗にもった非常に大きな意味をそこにみることができると思います。 四、救済と自覚  浄土真宗はそれまでは救済教である、お助け信仰であるというふうにみられていた。そして、自覚の﹁自﹂と いうのは自力の﹁自﹂と一緒だということで、自覚という言葉を好まない。そんなことを言うのは、聖道門だと いうふうに言われたわけですが、自覚を離れて救済なしということを、清沢は自らの実験によって明らかにして いくわけです。 45 〈井i円了と清沢満之の共同研究〉清沢満之の人と思想

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 例えば、彼は﹁最も早く自己を知る人は最も早く救済の門に入るなり﹂という言葉を残しております。ここに 信仰というものが、お助け信仰から自覚的信仰、・王体的信仰へと見直されることになってきた。以後、清沢の立 場が、自覚の教学として大谷派の教学の起点になっているわけです。自覚という言葉は、なかなか英語にもなり にくい言葉で、リアリゼーションという言葉がよく使われます。それはリアリティーを知るということであるわ けです。リアライズする、目を覚ます、現実に眼をさますということです。ですから、法というのもリアリティ ーなんです。リアリティーに目を覚ますということになります。  以前に森口美都男という方が、こんなふうなことを言っています。﹁だから自己とは、もともと何か二心を抱 いているもののことである。真の実在に対して二心を抱き、真実在と真ならぬ実在との間に同意を貫く二股膏薬 であるものがこの現実の自分というものである。それはまだ真の自己ではない。では真の自己とは何か。言うま でもなく真実在に一致した自己のことである。だからまた現実アクチュアリティーも直ちに究極の実在リアリテ ィーではないわけである﹂︵﹃現実﹄︶と。  日常的現実というものをアクチュアリティーというふうに言うと、その奥にさらに深い本質的現実がある。こ れをリアリティーと言うんだ。この本質的現実、これを法とか如来というわけですが、清沢は、法とか如来とい う言葉は使わないで、絶対無限という言葉を使うわけです。昨日、四聖堂︵東京都中野区の哲学堂公園︶を訪れま したが、井上円了先生も南無絶対無限尊という表現をしております。これはある意味で仏教語によらないで仏教 を語るという、当時の明治の人たちの一つの考え方から出てきているのかもしれません。  今の森口氏と同じように、清沢は絶対無限と一致した上に真の自己をみていくわけです。したがって、清沢満 之の宗教的信仰ということは、自己を離れてはなかったわけです。自己への目覚めというものが、法によって自 46

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己に目覚めるという、それが清沢の信仰の一番基本になっていることです。そういうリアリティーに立って独立 するということが、大変に大きな意味があるわけです。清沢満之はそうやって法によって自己を自覚して、その 法において立った自分、これを独尊子という言葉で表現しています。﹁独尊子は無畏に住し、不動に安んずるも のなり﹂と。恐れないところに住し、そして不動に安んずるものなり、と日記の中に書いております。  独尊というのは、﹁天上天下唯我独尊﹂という釈尊の独立宣言です。その釈尊の独立精神を継承するものとし て、自分で独尊子と言っている。これは禅の語録などを通して彼はこういう言葉を言っているわけです。つまり 独立者ということです。結核にかかって、そして臓扇というふうに表現していますが、闇愚無能のものである自 分というものが、信仰において独立者として誕生していく。その信仰において、独立者として誕生したものを独 尊子と表現するわけです。  彼はそれについて同じ﹃臆扇記﹄の中で﹁独立者は常に生死厳頭に立在すべきなり。殺毅餓死固より覚悟の事 たるべきなり。既に殺裁餓死を覚悟す。もし衣食あればこれを受用すべし。尽くれば従容死に就くべきなり﹂と 言っております。そういう意味において、彼は一人の個として自立することができたわけです。そしてこの﹁従 容死に就くべきなり﹂という最後の言葉、これが一つの彼の述懐を想起させるわけです。  清沢満之のお弟子さんである安藤州一はこう言っております。  ﹁余、先生に侍すること久しからず、故に先生に就いては、多くを知る能はざりき。特に多面の先生は、容易 に捕捉するを得ざる人なり。然れども、余は唯だ先生について一事を知るを得たり。そはパン問題に関してな り。今の世、学士と称し、大家と称し、豪傑と称するもの頗る多し。然れども、若しその身より、礼服と、学位 と、妻子と、パンとを奪ひ去られて、猶ほ自若として動かざるもの、果して幾人かある。先生は、此の点に関し 47 く井[円rと清沢満之の共同研究\清沢満之の人と思想

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ては、最も確かなりき。先生の身より妻子を奪ひ、衣服を奪ひ、最後にパンの凡てを奪ひ去るとも、先生は毫も 動ぜざるなり。偏に如来の大命を感謝しOOoユ切oooコの語を低唱して、静に死の運命を待つべき人なり。是れ、 余が先生に就いて知り得たるの一事なり。﹂  そういうことを伝えています。 48 五、清沢満之と夏目漱石  清沢満之の信仰には﹃信仰座談﹄という記録が残っています。ちょっと余談になりますが、この﹃清沢先生信 仰座談﹄というのは、当時、非常によく読まれたものであります。例えば、夏目漱石の蔵書目録を見ていきます と、漱石は家は真宗だったと思うのですが、蔵書には禅の書物が多いんです。書籍は禅籍が多い。ところが不思 議なことに、﹁不思議なことに﹂というのは、これは家永三郎が﹃夏目漱石の思想﹄で言っているのですけれど も、﹃清沢先生信仰座談﹄と浩々洞の出版した﹃真宗聖典﹄が入っているんです。これは、本当に興味深いこと だと思います。  小宮豊隆が、漱石の本の買い方は、決して自分にとって関係のない本は。。貝わないんだ。つまり、今読まなくて もいつか読んでやろうという、そういう書物を必ず買った。それが漱石の本の買い方だということを言っていま す。ですから、漱石は何らかのかたちで清沢満之に関心を持ったと思うんです。それは例えば、﹃吾輩は猫であ る﹄という小説に、八木独仙という名前の四十前後の哲学者というのが出てくるんです。清沢満之は臆扇です。 当時、哲学者というと髭はやした仙人のような格好をしているというのが、哲学者だというふうにみられたとい う時代でしたから、八木独仙という男もそういうふうに描かれていますけれども、しかし独仙がそこで言ってい

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ることは、非常に興味深いことだと思います。  清沢満之は、﹁精神・王義と物質文明﹂の中で、﹁ここにおいてか吾人は現在の境遇に不満を感ぜずして、ひたす ら、自家修養の道に傾注するに至る。しかして弥々修養の道にして進達する所あらんか。吾人は彼の境遇に対し て、菅に不満を感ぜざるのみならず、いかなる所にも無限の妙致を発見して、いたる所に充分なる満足を獲得す べきなり。これすなわち、精神主義の客観的事象に対する活動の概観なり﹂と言っているんですが、﹃猫﹄をみ てみますと、  ﹁珍客が来た。⋮⋮四十前後の男と云えばよかろう。⋮⋮吾輩は此男を哲学者と呼ぶ積りである。﹂﹁君は始終 泰然として気楽な様だが、羨ましいな。﹂﹁西洋の文明は積極的、進取的かも知れないが、つまり不満足で一生を くらす人の作った文明さ。日本の文明は自分以外の状態を変化させて満足を求めるのじゃない。西洋と大に違う 所は、根本的に周囲の境遇は動かすべからざるものと云う↓大仮定の下に発達して居るのだ。﹂﹁心の修行をつん で消極の極に達するとこんな霊活な作用が出来るのじゃないかしらん。僕なんか、そんな六ずかしいことは分か らないが、とにかく西洋人風の積極主義許りがいいと思うのは少々誤まって居る様だ。﹂﹁最後の珍客は消極的の 修養で安心を得うと説法した﹂ というのです。これは﹃吾輩は猫である﹄の第八章に出てきます。  この四十前後の哲学者の言説を、﹁精神主義と物質文明﹂の一節と重ね合わせると、非常に内容が似ているん です。清沢満之は、消極主義ということを盛んに言っている。安藤州↓に対して、積極主義が沸騰点に達した東 京市中にあって、消極・王義を創造することは炎塵中の氷柱で、これほどの快事はないと言っているんです。これ に対して﹁西洋の文明は積極主義、進取的かもしれないが、つまり不満足で一生を暮らす人のつくった文明さ﹂ 49〈井旧了舗繊之眺r・・」研究・mw{ma之の人とM・

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というふうに、漱石が言っている。積極主義に対して消極・王義ということを、﹁消極の極に達するとこんな霊活 な作用ができる。﹂あるいは、不満足だというのについて、清沢は満足主義ということを盛んに言っているんで す。﹁彼の境遇に対して、菅に不満を感ぜざるのみならず、いかなる所にも無限の妙致を発見して、いたる所に 充分なる満足を獲得して﹂と言う。これに対して西洋の文明は﹃猫﹄では、﹁不満足で一生をくらす人の作った 文明さ﹂と言う。  そうすると、漱石は、﹃清沢先生信仰座談﹄を背景に発言しているということが思われるわけです。この八木 独仙の言っていることが﹃精神界﹄を背景にしているということを、今西順吉氏がすでに、﹃漱石文学の思想﹄ ︵筑摩書房︶の中で指摘しているわけです。しかし、八木独仙が清沢だと言っている人は、ちょっといないので はないかと思うのですが、私はそう思います。漱石も自己本位ということを言っていくわけですけれども、ある 意味において、何かの影響があるのではないかなと思うわけであります。 50 むすびー廿え社会の中て  雑談めいた話になってしまって恐縮ですが、清沢は安藤州一が言っておりますように、明治三十五年六月五日 に長男信一を失いました。そのとき、食堂で彼は食事していたようですけれども、﹁信一さんが亡くなられまし た﹂ということをお弟子さんに言われると、それに対して﹁そうか﹂と一言答えて食事を続けたと伝えられてい ます。苦悩の直中にあっても悠然としていた。それは、清沢という人の持つその大きな意味だったと思います。 清沢という人の姿を何か想像させます。  清沢満之における独立ということですが、これは明治人全体が独立ということは非常に大きい意味があるわけ

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ですけれども、清沢においては特に生死の厳頭において、独立者たらんとする。そして、そこにはやはり法によ って独立していく、信仰によって独立していくんだということがあります。これが内村などともちょっと違うの ではないかと思うんです。内村は、経済的な独立というのを独立の第一歩としております。﹁経済上の独立はす べての独立のはじめであってその基礎である。まずは経済的に独立ならずして思想的にも信仰的にも本当の意味 においては独立に達することはできない。独立のないところに自由はない。しかしすべての独立は経済的独立を もってあるがものである。﹂これは内村の立場です。  しかし清沢においては、経済的独立ということは、彼自身結核にかかってお金を得るなんてことできないわけ です。そして養子で入っていくわけです。養子で入って病気であって、人の世話になってばかりいるわけです が、卑屈にならないで、悠々として独立していく。そういうところが、清沢の独立の つの姿であるわけです。 明治の人にとっては、独立ということは非常に大きい。福澤諭吉は、西洋人にあって日本人にない二つの原理が ある。有形においては数理学だ、無形においては独立心だと﹃福翁自伝﹄の中で挙げているわけです。そこでは 独立ということが非常に大きい。﹃福翁百話﹄の中で、武士というものの独立精神が、非常に明治の独立心につ ながっていくということが言われております。それはやはり内村においても新渡戸においてもそうなんですが、 清沢においてもやはりそんな感じがいたします。  その独立のいろいろなスタイルの中で、清沢のスタイルというのは一つ独自なものがあるように思います。こ れは、信仰による独立と言ってもいいわけですけれども、しかし、そういう独立ということを彼は仏教の中で言 っていくということが非常に大きいと思います。仏教において独立、しかも他力の宗教において独立ということ を言っていく。これがおもしろいと思います。ですから、よく他力というのは、一つの依頼の宗教みたいに言わ 51 川L円、’こ清沢満之のk・同研究〉清沢満之の人ば恕想

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れるんですけれども、その依頼というのを離れなければいけないということを言っております。  二家の中において独立して主人公となりても、その外部へ対しては、大いに依頼的である。前に父母に依頼 していたるよりも幾十層倍も依頼的である。真個の独立をなすには、これらの依頼をしっかり解脱せねばなら ぬ。父母に依頼していたるとき、父母の擁護は有難く感じいたるも、しかし依頼だけは早く脱せねばならぬと念 じていたことである。それと同様に、今真個の独立を希望する以上は、現在四方八面の恩恵は有り難く感ずる も、それに対する依頼心を早くこれを脱却するよう努力せねばならぬ﹂と。私たちは父母から離れて一家の・王人 公になったからといって、周囲の事物に対する依頼心が残っている限り、それをもって真実の独立を達成したこ とにならないという意味です。  その依頼心というのは、日本人特有の甘えということになると思うんです。甘えというのは、日本人のメンタ リティーを示す重要な言葉だとされるわけでありまして、土居健郎の﹃甘えの構造﹄に示されるわけですが、そ ういう精神風土の中にあって、逆に清沢という人は、徹頭徹尾甘えということをしりぞけた人だと思います。日 本の甘え社会の中にあって、清沢の独立精神はまったく異質で目を見張るものがあるのではないかと思います。  そういう意味において、清沢という人をみていくときに、自覚ということと自立ということ、その二つがある わけです。それを支えたのが彼の信念、宗教的な信仰であった。それが一つの特徴であると思います。それを自 力につまずいた最悪の状態から、私たちにその姿をみせてくれた。逆境に押し流されないで立ち上がった。それ を自分で示すと同時に、自分はこういうふうにやっているんだということを、また﹃精神界﹄という雑誌の上で 示していくわけです。そこに、彼の持つ一つの大きな意味が見い出されるのではないかと思います。 52

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