日本のコーポレート・ガバナンスと従業員主権
― 伊丹敬之氏の所説 を中心 に一
I バ ブル崩壊 とともに 日本経 済 は長期 に渡 り低迷 を続 けてい る。それ に伴 い, 近年 コーポ レー ト ・ガナ ンスの議論 が喧 しい。長期低迷 を もた ら した張本 人が あ たか も日本 型経営 にあ るが ご と くに,日 本型 の従業員重視 の コーポ レー ト ・ ガバ ナ ンスか らアメ リカ型 の株 主重視 の コーポ レー ト ・ガバ ナ ンスヘ の転換 の 必 要性 が声高 に叫 ばれてい る。現実 に, 日本 の大企業 において執行役員制 の導 入 ,外 部取締役 の採用 ,監 査役 会 の強化 ,ス トックオプシ ョンの導入 な ど一連 の動 きが見 られ る。その基本 的 な方 向 はアメ リカ型 の株 主重視 の コーポ レー ト ・ガバナ ンスの実現 に向か っている ように見 える。 日本型 コーポ レー ト ・ガバ ナ ンス は もはや時代 にあ わないのであ ろ うか。 伊丹氏は新著 「日本型 コーポレー ト・ガバナンスー 従業員主権企業の論理 と改革一」 (日本経済新聞社,2000年)に おいて 「日本型ガバナンスは決 して 時代遅れではない。」「グローバル資本主義の不安定性の危機の時代になってき たからこそ,か えって従業員主権の意味が高まっていると思われる」(334頁) と力強 く主張する。 日本型コーポレー ト・ガバナンスの基本理念は 「従業員主権」にあるとする。 「主権論的にいえば, 日本企業のコーポレー ト・ガバナンスは,建 て前は株主 主権,本 音は従業員主権 (あるいはより正確には従業員メイン,株 主サブ)と いうものであったと思われる」 (49頁)。法制度はともかく 「慣行 としての従業 員主権」,そ れが日本型コーポレー ト・ガバナンスの特徴であるという (50頁)。 旧ソ連 ・東欧の社会主義企業システムを研究 してきたものとしては 「従業員 主権」企業システムという概念には関心がある。本稿の問題関心は,伊 丹氏の 行 延 脇7 6 冨 田光彦教授退官記念論文集 ( 第3 3 4 号) 言 うように,日 本企業が建て前は株主主権で も,現 実 に従業員主権 になってい るか,そ もそ も従業員主権 とは何か, どのように理解すべ きか,を 問 うことに ある。従業員主権の考 え方,つ ま り 「働 く人々の権利」 を重視する考え方その ものに異論があるわけではない。 これまで も日本企業は,ヒ トを大事 にする従 業員中心 (重視)の 企業であるといわれることはあった。 しか し,実 質的には 従業員主権の企業 ガバナ ンスが 日本企業の特徴である,と いい きれるであろう か。それが疑間である。 この問題 について考 えてみたい。 I まず,伊 丹氏の主張 に耳 を傾 けることか ら始めよう。伊丹氏は,「コーポレー トガバ ナ ンス を深 く議論 しようと思 った ら,株 主 と働 く人々 との関係 を議論す る必要がある。その上で,企 業 を所有するとはどうい うことか,企 業 を統治す るとは どうい うことか,抽 象的なことを深 く考 える必要がある」 (3頁 )と い うところから出発する。この問題関心 には共感で きる。このように考えるに至っ た原点の一つは,ポ ーラン ドにあった とい う。1989年9月 ,ベ ル リンの壁崩壊 直前のポーラン ドで深 く考 えさせ られたことの一つが,「『所有』 とい う概念の 歪みが社会 に与 える傷の深 さ」 であった。問題 の核心 は,「誰が何 を実質的に 所有 している と思 えるのか」 (4頁 )に ある。「所有 の意味 をゆがめたことが共 産主義の もた らした最大の病患 だ」 (5頁 )と い うポーラン ド人の言葉 も紹介 されている。 伊丹氏がポーラン ドで見た ものは,社 会主義の もとで,主 人公である筈の勤 労者が主権者 になっていない現実であったろう。社会主義的所有 といえども, 形式的に財産 を所有 しているだけが所有ではない。問題 は所有の中身である。 所有の実質化,機 能化 を図ることが必要だったのである。企業のマネジメン ト ヘ の勤労者の主体的な関わ りが必要であった。まさしく,社 会主義の問題は, 所有 の捉 え方 にあったのではないか,と い う伊丹氏の指摘 は的を射ていると考 える。所有はマネジメン トの場で実質化 されなければならない, と私 も考えると 1)拙 稿 「体制転換後 の新 しい コーポ レー ト ・ガバ ナ ンスの模索」 (林 昭 ・門脇延行 ・/
日本のコーポレー ト・ガバナンスと従業員主権 77 社 会主義 的所有 は結局法律 上 の形式 的所有 に終 わっていて,勤 労者が主人公 と して所有 を実質的 に機 能 させ る こ とがで きなか った。企業 レベルで言 えば,主 権 者 であ る勤 労者 が,い う ところの plan―d O ―s e e の マ ネジメ ン トの全過程 をわ が もの にで きなか った。つ ま り,社 会主義 は勤労者 国家 であ り,勤 労者が企業 の主権者 で 七rに もかか わ らず,実 際 には主権者 で はなか った。そ こに最大 の 問題 が あ った。 翻 つて,日 本 は どうか。わが 日本 は社会主義国ではない。資本主義国家であ る。「ポーラン ドで,『所有』 とい う一見抽象的な観念が経済の仕組みをおか し くしている根本原因の一つだ とすれば, じつはそれは日本 にとって も他人事で はないのだ。企業の F所有』の実際 と実感の問題 を,そ こで働 く人々か ら遠い ものに してはならない」 (6頁 )。この問題意識 も重要である。商法の規程 に基 づけば,株 主が主権者であ り,従 業員は主人公ではない。にもかかわらず,働 く人々の権利 は, 日本企業の方がポーラン ドなどより逢かに実質的に保証 され ているのではないか。 しか しなが ら,形 式上,制 度上の保証は何 もない。それ で も,実 際 にはかな りの権利が従業員 に委ねられているように見える。この現 実 を見 て,伊 丹氏 は, 日本の企業 は 「建 て前は株主主権,本 音は従業員主権」 であるとい う。 田
伊丹氏はコーポレー ト・ガバナンス概念を次のように定義する。「
企業が望
ましいパフォーマンスを発揮 し続けるための,企 業の 『
市民権者』による経営
に対する影響力の行使」であるという (10頁)。ここでは二つの問題領域が存
在する。一つは,「市民権者」は誰か,に 関する 「
主権論」であり, もう一つ
は 「
経営に対する影響力の行使」に関する 「メカニズム」論である。メカニズ
\酒井正亘郎編著 『体制転換 と企業 ・経営』 ミネルヴァ書房,2001年参照。) 2)社 会主義の所有の捉 え方の問題 は,か な り以前 に片岡信之氏のよってすでに指摘 されて い る ところで もある。詳 しくは片岡信之 F新しい社会主義』 (千倉書房,1979年)『集権的 社 会主義 の成立』 (千倉書房,1980年 )と F現代企業の所有 と支配』 (白桃書房,1992年 ) を是非参照 されたい。7 8 冨 田光彦教授退官記念論文集 (第334号) ムは主権のあ り方に規定 される。その意味ではまず主権者は誰かが問題である。 私 も主権論 の問題 にこだわ りたい と思 う。伊丹氏がい うように,「主権論 と は,企 業の主権 は誰が担 うのが もっとも適切か, とい う議論」であ り,「企業 の主権の問題 は,結 局,権 力の問題である。だれが企業 を統治する上でのより 大 きな力つ ま り権力 をもつか,と い う問題だか らである」 (25頁)。 まず,企 業の 『市民権者』 とは何 か。 ここで,伊 丹氏 は,国 の統治 とのアナ ロジーで コーポ レー ト・ガバナ ンスを論 じる。国の統治は誰 によって行われる か。現代 の民主主義国家では,国 の統治は主権在民で行 われている。その国の 市民権者が統治の主体 である とすれば,企 業の統治の主体 たるべ き市民権者 は 誰か。 それは,株 主 と従業員 (経営者 を含めている)で あるとい う。両者は,企 業 主権者 になるに相応 しい条件 を備 えているか らである。その条件 とは,一 つは, 企業が生 まれるのに不可欠な資源 を提供 していること,今 一つはその企業の盛 表 によって もっ とも大 きなリスクをこうむ り,コ ミッ トしていることである。 (著書 の後半ではコ ミッ トメ ン トとリス クをそれぞれ独立 させて三つの条件 と している。)こ の二つの条件 を満たすのは,「『逃 げない資本』 をリスクを負 っ て提供 している株主」 と,「その企業 に長期 的にコミッ トしている経営者や働 く人々 (この人たちをまとめて 「コア従業員」 という)」(28頁)で あるとい う。 つ ま り,株 主は 「逃げない資本」 を提供 し,コ ア従業員は 「逃げない労働」 を 提供す る。従 って,「企業のステークホルダー といわれる人々の中で,株 主 と 従業員 (厳密 にはコア従業員)だ けが,コ ーポ レー ト・ガバナ ンスの参加者 に なる市民権者 としての資格 を持 っている と思われる」 (28頁)と い うことにな る。 近年,企 業 との利害関係者 という意味でのステイクホルダーによるコーポレー ト ・ガバナ ンス論 も耳 にす る。株主 と従業員だけではな く,顧 客,取 引先,銀 行,地 域社会等 も企業 との間で,何 らかの利害関係 を有することは間違いない。 だ として も,彼 らを株主や従業員 と同 じ意味 において企業内部者 として取 り扱 うことにはやは り問題がある。株主 と従業員がいなければ,企 業がそ もそ も存
日本のコーポレー ト, ガバナンスと従業員主権 79 在 し得 ないが ,彼 らがい な くとも企業 は存在 し得 る。彼 らは主権者 とな り得 な い こ とは明 らかであ る。伊丹氏 も言 うように,ス テークホル ダー を企業 のマネ ジメ ン トの上 で大切 にす る とい う考 え方 は説得 的であ るが,ス テー クホル ダー 全体 を企業 の ガバ ナ ンス に参加 させ る こ とには無理 があ る (31頁)。「企業 の市 民権 者 ・内部者 と して はス テイ クホル ダー と呼 ばれ る人 々はふ さわ しくな く, 株 主 と従 業員 だけが市民権者 た りうる とい うことが理解 で きるであろ う」。 (22 23頁) 確 かに,企 業 を構成するのに必要な 「逃 げない資本」 と 「逃げない労働」 と い う本源的な資源の提供者 を企業の内部構成員 とみなすことはできる。 しか し, 株主 と従業員が もっ とも基本的な資源提供者であるとして も,そ のことが直ち にその提供者が主権者であることを保証す るものであろうか。企業の内部構成 員であ り,長 期 にわたって企業 にコミッ トし,リ スクを負 うか らといって,そ れだけで企業の主権者 になれるとは限 らない。かつての共産党支配下の旧社会 主義国では,共 産党は,決 して企業内部者ではない。所有者で もない。企業の 外部 にあって,労 働組合や青年同盟,婦 人同盟 などと同 じように社会組織の一 つ にす ぎない。にもかかわ らず,旧 ソ連 ・東欧の社会主義国では,共 産党 こそ が企業の支配者であったことは紛れ もない事実であろう。共産党が全ての組織 の トップの人事権 を掌握 していたか らに他 ならない。勤労者主権国家 とはいい なが ら,実 際 には勤労者は企業の主権者ではなかった。 また,企 業の内部構成員であ り,企 業 に長期 にコミッ トし, リスクを負 って いるのは,何 も日本の株主 と従業員 に固有ではない。アメリカやイギ リスで も 同 じことがいえる筈である。それ故,そ のことだけで,従 業員 を主権者 とする ことはで きない。 しか し,伊 丹氏 は, 日本の企業では,従 業員が主権者で, し か もメインであ り,株 主が主権者 としてサブであるとい う。従業員が主権者で あるような企業 を,伊 丹氏 は 「人本主義企業」3 ) と呼ぶ。では,な ぜ 日本の企業 3)こ こでの 「人本主義Jと い う概念 は,「 ヒ トが経済活動の もっ とも本源的かつ希少 な資 源であ ることを強調 し,そ の資源の提供者達のネ ッ トワークのあ り方 に企業 システムの編 成 のあ り方 を求め ようとす る考 え方である」 (71頁)。古典的な資本主義の企業 システムが カネのつなが り方 を基本 に経済組織 を編成 しているのに対 して,人 本主義 はヒ トのつな/
80 冨 田光彦教授退官記念論文集 (第334号) では,従 業員主権がメインで株主主権がサブとなるのか。 とりあえず,従 業員 もまた主権者候補 として,次 の問題 は,株 主 との どちら が メイ ンの主権者であるかである。「株主 と従業員 (特にコア従業員)を 主権 者候補 と考 えれば,コ ーポ レー ト・ガバナ ンスの主権論の問題の本質は,こ の 二つのグループが どの ような ミックスで主権 を持つか (どちらが よリメインの 存在 となるか)と い うこになる」 (30頁)。 結論的にいって,何 を根拠 に従業員がメインの主権者 になるのか,に ついて 説得力あ る答 えが用意 されている と思 われない。「日本企業の多 くの人々の暗 黙の うちの主権概念 は従業員主権であると,私 は考 えている」 (42頁)と い う。 ドイツでは,共 同決定法 とい う法制度の もとで,株 主 と従業員 とが形式的に主 権 を等分 に分かちあっているが, 日本では 「慣行 としての従業員主権」で しか ない。ただ, 日本 には, ドイツと同 じような共同体感覚が背後 にあって従業員 主権的な考 え方 に社会的親和性がある (49頁)。建て前 は株主主権,本 音 は従 業員主権 とい う捉 え方が,多 くの企業人の実感 と合 うと思われる し,日 本企業 の実態 を分析 しようとす る研究者 にも少 な くとも類似の観察が見 られるのが一 般 的である とい う (49-50頁)。例 えば,稲 上氏 らによる,現 代 日本の コーポ 4 ) 5 ) レー ト・ガバナ ンスの実態調査や,深 尾 ・森 田氏 らの調査か らも,伊 丹流の解 釈 として 「慣行 としての従業員主権」が読 み とれる, とい う。そ して,「さま ざまな証拠が,従 業員主権が暗黙の うちにせ よ日本企業の基本原理 になってい 6 ) ることを示 している」 ( 6 1 頁)と 主張する。結局, 株 主主権をメインとするよ \が り方 を基本 に据 える。カネのつなが りを基本 にす る 「資」本主義の企業 システムに対 し て,人 のつ なが りを基本 にす る 「人」本主義の企業 システム とい うわけである。 これは伊 丹氏 の造語である。 (参照 『人本主義企業』筑摩書房,1987年 )な お,人 本主義企業企業, 「それは古典 的 な資本主義企業 の進化 した一つの新種 と見 るこ ともで きる」。 また 「広 い 意味 での資本主義か らの一つの発展形態 としての人本主義,そ れが私の表現 したいことで あ る」 (69頁)と い う。 この概念 も興味深い ものがあるが,本 稿のテーマはコーポ レー ト ・ガバナ ンス と従業員主権であるので,日 本型 コーポレー ト・ガバナンスの基本理念 とし ての従業員主権が人本主義企業 システムの根幹 をなす原理である,と している点の紹介だ けに とどめて,こ こではこれ以上触れない。 4)稲 上毅 ・連合総合生活 開発研究所編 『現代 日本 の コーポ レー ト ・ガバ ナ ンス』東洋経済 新報社 ,2000年 。 5)深 尾光洋 ・森 田泰子 『企業 ガバナ ンス構造の国際比較』 日本経済新聞社,1997年 。
日本のコーポレー ト・ガバナンスと従業員主権 81 りも従 業員主権 の方が メイ ンとみ なす方が 日本企業 の現実 に沿 ってい る と感 じ られ る, と い うものであ る。 その ような実態 にはそれな りの理由があるとい う。伊丹氏のユニークさは, 慣行 としての従業員主権 に 「深い論理的支持」があ り得 ることを詳 しく説いて いる点 にある。伊丹氏 は,「企業主権の社会的受容の三つの論理」 を提起する。 それは 「企業の主権 のあ り方が社会的にどの ような論理で存在意義 を持 ち,人 々に受容 されてい くのか, という問題 を議論することが,コ ーポ レー ト・ガバ ナ ンスの主権論の主 たる内容 になる」か らである。その三つの論理 とは,「経 済合理性」,「制度的有効性」そ して 「社会的親和性」である。それぞれが また 二つずつの側面 を持 っている。経済合理性 は公正性 と効率性,制 度的有効性 は 現実的機能性 とチ ェ ック有効性,そ して社会的親和性 は歴史状況 と権力の正当 性である。 主権のあ り方の経済合理性が一番大切であることはい うまで もないが,社 会 的受容 を考 えると,よ り多面的な思考が要求 され,そ れが制度的有効性 と社会 的親和性であるとい う。社会の中で, どの ような主権で も制度的に有効性 を発 揮で きる条件がない と長 く機能 し得 なvヽし,常 識的な通念 との親和性があ り, 歴史的状況が許す ようなものでない と定着 しないか らである。結論的に言 うと, それぞれ三つの条件 について,株 主主権の場合 との比較 をした上で,制 度的有 効性のある部分 (特に経営者のチェック機能)に 弱点はあるものの,株 主主権 よ りも経済合理性があ り,社 会的親和性 もあるので,従 業員主権原理は総合的 な判断 として論理的にも支持で きるとい うわけである。 ここで,従 業員の方 に主たる主権があるといって も,あ くまで も 「実質的な 主権者,実 質的な所有者」 とい うほどの意味である。法律上は株主が会社の所 有者であることにかわ りが ないか ら,「 日本企業の従業員主権 とは,従 業員の 主権がメインで株主の主権 はサブ, とい う位置づけである」 と断っている (59 頁)。 6)例 えば,「株主へ の配当 を削 って も従業員の雇用 の確保 を優先す る企業行動,外 部か ら の乗 っ取 り的買収 に対する労資共同 しての反対運動」等がその例 である。
冨田光彦教授退官記念論文集 (第334号 ) Ⅳ そ もそ も 「従業員主権」 とは何 か。伊丹氏 による と,従 業員主権 とは,「企 業 はそ こにコ ミッ トして長期 間働 く人 々の もであ り,彼 らが企業 の メイ ンの 『主権者』である,と い う意味である」 (59頁)と い う。「会社 は働 く人々の も の」 とい う考 えが,従 業員主権の考 え方である。 カネとい う資本 をリス クを負いなが ら提供 している株主 を企業の主権者 と考 えるのが,株 主主権であ り,「会社 は株主の もの」 とみなされる。 この ような 考 え方が,ア メリカ企業 に代表 される典型的な資本主義の企業概念である。そ れに対 して, 日本では,企 業,特 に大企業 に働 く人々の潜在的な意識 とも思え る一般的な観念 は 「会社 は働 く人々の もの」 とい うものであるとい う。確かに, 「会社 は誰の ものか」 と問われた とき,「株主の もの」 と答 える日本の企業人 は少 ない ようである。 ここで,「会社で働 く人々」 とい う 「働 く人々」 には従 業員だけではな く経営者 も含 まれていることに注意 しなければな らない。 ここ に,伊 丹氏の仕掛 けがある。 それでは,次 に,従 業員が企業の主権者である, とはどの ようなことか。主 権 とは何 か,そ の中身を問わなければならない。再び国の市民権 になぞ らえて, 企業の主権 の内容 は,次 の三つの権利 か らなる とい う。それは,(1)基 本政 策の最終決定権,(2)経 済成果の優先分配権 ,そ して (3)経 営者の選任 ・ 罷免権である。 「ある国の市民権者 は,国 の政策 を最終的に決める権利 を持 ち (国会 による 決定であれ,国 民投票であれ),国 のサービスの優先的受益権 を持 ち (たとえ ば国防サー ビス),さ らに為政者の選挙権 を持 っているのである」 (p.23)。そ れ と同 じように,企 業の市民権者は上の三つの権利 を持つ とい うわけである。 この三つの権利 を何 らかの形で持 っている人々を企業の市民権者 ・主権者 と 定義する。コーポレー ト・ガバナンス とは企業の市民権者による望 ましいパフォー マ ンス を実現するための影響力の行使であった。望 ましいパ フォーマ ンス とは 付加価値が効率的 ・効果的に生み出 されることであ り,そ の様 な付加価値 を生
日本のコーポレー ト・ガバナンスと従業員主権 83 み 出す ための基本 政策 の決定 とその付 加価値 の分配 の決定 ,そ れが企業主権 で あ る ともい う。 さらに,そ の政策 の決定 ・遂行 ・果実 の分 配の全 ての プロセス は,経 営者層 にその任務 の多 くを委託 して行 われ る。従 って,そ の経営者 の選 任 と罷免 の権利 が主権 の第三 の要素 となる (23頁)。 しか も 「それ は,主 権 の 第三の要素 とい うよ り,実 質的には主権の もっとも大切 な内容 とい うべ きであ る。経営者への委託が実質的には じつ に広範で普遍的だか らである」 (23頁) とい う。 伊丹氏 は,国 の統治の類推か ら主権概念 を用いて説明 しているのであるが, その議論 には疑問な しとしない。国民が諸権利 を有するのは,主 権在民である が故ではないか。国民 は,主 権者であるが故 にそれに伴 う諸権利 を有すると考 えるべ きであろう。国民 に主権があるとい うのは,世 襲制の君主ではな く市民 が 自分で 自分の リーダーを選ぶ (罷免する)権 利 を有するとい うことを意味 し ている。伊丹氏 自身 も,民 主主義社会の統治者の正当性の議論 において,当 然 の ことなが ら,非 統治者が統治者の選出に参加 しているとい うことにその正当 性 の根拠があることを認めている (145頁)。主権者の主権者たる所以は,そ の 国の首長 (大統領や首相)を 選ぶ権利 を有することにこそあると考 えるべ きで はないか。それ と同 じで,企 業 についていえば, トップマネジメン トの人事権 を有する もの,そ れがその企業の主権者である。 ト ップの人事権 にこそ主権の エ ッセ ンスがあるとい うべ きである。主権者であるが故 に,そ の ものが基本政 策の最終的決定権や経済成果の優先的配分 を受けることがで きるのである。そ の ように考 えれば,上 記三つの権利 は同列であるのではない。 (1)と (2) の権利 は,マ ネジメン トに関する権利であ り,そ の多 くは経営者に委託 される。 三つ 目の経営者の任免権 こそ主権の問題,権 力の問題であ り,コ ーポ レー ト・ ガバナ ンスのエ ッセ ンスである。他 ならぬ,経 営者の任免権 を有するものこそ が他の二つの権利 を支配すると考 えるべ きである。 V
次に,コ ーポレー ト・ガバナンスのもう一つの問題領域である 「
経営に対す
84 冨 田光彦教授退官記念論文集 (第334号) る影響力の行使」 に関するメカニズムに移ろう。これは 「経営者のチェ ック」 の問題である。コーポレー ト・ガバナンスのメカニズム論の本質は 「権力のチェッ ク」,「経営者のチェック」 にある (35頁)。「私の コーポ レー ト ・ガバナ ンスの 定義の中で, もっとも本質的に重要なのは株主 と従業員 による経営者のチェッ ク,と いうことになる」 (24頁)。本来,主 権のあ り方をきちんと反映 したメカ ニズムが必要である。結論的に言えば,日 本の企業には,従 業員主権に相応 し いチェック ・メカニズムが待J度的に用意されていないという。 「従業員主権を機能させるためのチェックメカニズムが十分に用意されてい るわけでもない。そのため,経 営者のチェックメカニズムが空洞化 し,コ ーポ レー ト・ガバナンスのメカニズム論 としては機能不全が見 られる。 ・ ・・つま り, 日本では,主 権のあ り方 とチェックメカニズムが ミスマッチの状態にある のである。アメリカでは主権は株主主権,メ カニズムもそれにマッチしている」 (42頁)。日本のチェックメカニズムは,株 主主権 を前提にしたものなので従 業員主権の実態に合わないというわけである。 つ 経営者のチ ェ ックよ りももっ と本質的なことは経営者の選出である。経営者 の選任 についての 日本企業の現実 は,「多 くの企業で,日 本企業の トップの実 質的な選任者 は社長である。新 しい社長の選任 は先代の社長が行 うのが通例で ある。つ ま り,社 長は トップ人事の独裁者 になる。 これは企業内の権力構造 と して,極 めて強い構造である。 しか も社長 自身をチェックする機構が実質的に ほ とん どない。 したが って,一 種の独裁 になる」 (196頁)と い う。この現状認 識 については意見 を全 く同 じくす る。 しか し,次 期経営者の実質的な選任権が 現経営者 にあるような企業が,な ぜ実質的 に従業員主権企業 といえるのか,理 解 に苦 しむ とい うほかはない。 経営者の選出 とチェ ックとい う点では,日 本の コーポレー ト・ガバナンスは 大 きな欠陥 を持 ってい る。「従業員主権であれば,経 営者の選出に従業員たち が参加 しているということが,正 当性の大 きな源泉になるはずである。 したがっ 7)伊 丹氏 は,経 営者の 「選出」 と 「チェ ツク」 をそれほ ど厳密 に区別 していない。本来同 じではないが,こ こではそのことは問わない。
日本のコーポレート・ガバナンスと従業員主権 85 て,従 業員主権のチェックの有効性の大 きな部分 は,経 営者の任免 に従業員が どの ように参加で きるか,に 依存す ることになる。そこが制度化 されていない のが,日 本のコーポレー ト・ガバナンスの大 きな弱点なのである」 (1狙-145頁)。 もともと,従 業員主権が制度化 されていないのであるか ら,従 業員主権のた めに経営者のチェックメカニズムが制度化 されていないのは当然である。問題 は実質的な面 にあるのではなかったか。コア従業員が経営者 を実質的にチェッ クで きているか否か,そ れが問題の筈である。 経営者のチ ェ ックメカニズム としての,株 主総会 と取締役会はいずれ も株主 主権 を前提 とした ものである。 しか しなが ら,株 主総会は形骸化 し,取 締役会 は無機能化 して,制 度が現実 に機能不全 に陥っているのは周知の事実である。 なれば こそ,コ ア従業員が制度的にはなにも保証 されていないけれ ども,「実 質的に」経営者 をチェ ックす るために 「影響力 を行使」で きなければならない。 従業員がチェ ックで きて初めて従業員主権 と言 えるのではないか。それでなけ れば,従 業員主権が泣 くとい うものである。経営者のチェックにこそ主権の本 質がある とい うのが伊丹氏の主張だか らである。 従業員主権であるにもかかわ らず,誰 も経営者 をチェックで きず,経 営者独 裁が まか り通 つている とい うのは どうい うことであろうか。 ここで,伊 丹氏の 仕掛けが生 きて くるのか もしれない。経営者 をもコア従業員の中にに含めてい るか らである。現経営者 (コア従業員)が 次期経営者 を選ぶ ことが可能 となる 理屈である。 この限 りで,経 営者独裁 と従業員主権 は同居するとい う奇妙 なこ とになる。 なぜ一種 の経営者の独裁 になるのか。その本質的理由の一つは,「従業員主 権の原理が,制 度的な裏付 けを持 たないまま実質的に実行 されて きたことの副 作用 に求め られる と思 われる」 (196頁)と い う。はた してそ うか。制度的には もちろんの こと,実 質的にも従業員主権でないか ら経営者独裁 になっているの ではないか。一番大事 な人事, トップ人事 において経営者の独裁があるのは, 経営者主権 だか らではないか。経営者主権であれば経営者独裁 になるのは当然 とい うべ きである。
8 6 富 田光彦教授退官記念論文集 (第334号) 株式の持 ち合 い,株 主総会の形骸化,取 締役会の従業員か らの登用 など日本 の企業が株式会社の仕組みを骨抜 きに していると非難 される点の多 くは,経 営 側の試みであった とい う。その試みゆえに,形 式的にきちん と存在する株主 に よる経営者のチェックメカニズムが,機 能 しな くなっている。つ まり経営 に対 す る影響力の行使 のメカニズムが機能不全 に陥っている。 しか し,経 営者 に対 す るチェ ック機構が何 も働かない ように経営側が試みた とすれば,そ れこそが 支配のあ り様 を示 しているとい うべ きである。つ ま り,経 営者支配が行 われて お り,従 業員主権でないことを物語 っているのである。 しか も, 日本の経営者支配 は,バ ー リ=ミ ー ンズのいわゆる古典的な 「所有 と経営の分離」 に基づ く経営者支配 よりももっと徹底 した経営者支配 になって いると考 えられる。 日本の経営者の場合,通 常,大 株主か ら首 を切 られる心配 はあま りない。その ような大株主は殆 ど存在 しない。 日本の指導的な大企業の 多 くは,株 式 を相互 に持 ち合い,経 営者は互いに互いを信任 しあ う形 を取 って い る。経営者 はプ リンシパ ル (株主)一 エージェン ト (経営者)の 関係 でい う単 なるエージェン トではない。株主の支配か らかな り自由になっていた。労 働組合 か らのチ ェ ックもない。その ような意味 において,日 本の経営者 は逢か に徹底 した経営者支配 を行いえて きた。 上 に見たように, 日本の企業は,従 業員主権 とい うよりも日本型 ともい うベ きよ り徹底 した経営者支配 にあるといえる。ここで,私 の考 える従業員主権 と はどの ような状態 を指すのかを,伊 丹氏の枠組みを用いて,示 してお きたい。 先 にも触れたように,主 権の基本 は トップの人事権 にある。そこで,コ ア従業 員 だけではな く,ノ ンコアの普通の従業員,つ ま り平の従業員 も トップの人事 に直接 であれ,間 接であれ発言権があること,つ ま り制度的に主権が保証 され ること,そ の ことの上 に立 ってマネジメン トにおいて も主人公 になれる,つ ま りpla―do―seeの全過程 をわが ものにで きる状態 にある時,真 の従業員主権が存 在す る と考 える。基本 はなん といて も トップの人事権である。 これが保証 され
日本の コーポ レー ト ・ガバナ ンス と従業員主権 87 Vl そ もそ も,問 題 は,伊 丹氏 が経営者 を従業員 の 中に含 めてい る こ とにあ る。 その従業員 とい う場合厳密 には コア従業員 の こ とを指 してい る。 コア従業員 と は 「企業にコミッ トし,希 少 な資源 を提供 し,競 争力の源泉への もっとも本源 的な貢献 をし,リ スクを負担 している」 (102頁)従 業員のことである。主権 は その コア従業員のみが持つべ きであるとい う。具体的に,そ のコア従業員 とそ うでないノンコア従業員 とをどこで区別す るか。その線引はむつか しい。働 く ヒ トとしての企業への貢献 とコミッ トメン トの大 きさが鍵 となる。そこで,一 般論 としては,貢 献 は企業組織の人事評価で,コ ミッ トメン トは勤続年数で代 用する しかない として,例 えば,「管理職 とい う人事評価 を企業か ら受 けてい る人 と長期勤続者 をコア従業員 と定義する」 (295頁)と い う。 管理職以上 を広義の経営者 と考 えれば,企 業の主権者 となるべ きコア従業員 は,経 営者 と長期勤続従業員 とい うことになる。前者 と後者 を同 じ主権者 とし て位置づけることはで妥当であろうか。 企業のマネジメン トの レベルでは,株 主 に対 しては,確 かに,経 営者 と従業 員 はともに企業内部の構成員 として同 じ位置 に立つ。株主はマネジメ ン トに直 接 タッチ しない とい う意味では,こ の レベルでは今度は,株 主は外部者 となる。 企業の実際のマネジメン トにおいて,株 主 と外部のステイクホルダー との関係 においてのみ経営者 も従業員 も同 じ位置 に立つにす ぎない。それだけのことで ある。それ以外 に意味があるとすれば,本 来株主 にある主権 を,経 営者が従業 員 と"く`るになって"奪 取する, とい う位である。いずれに して も,経 営者 も, 従業員 と同 じく,企 業 に対 して逃げない労働 を提供 し,長 期 にコミッ トメン ト し,そ して リスクを負 っているとい う,そ のことは何 も経営者 を従業員 に含め る理由とはならない。 経営者 も,企 業内で働 く人々であ り,企 業の盛表 に運命 をともにするとい う 点で も従業員 と基本的に変 わ らない ことは事実であろう。 とりわけ 日本 の大企 働 業経営者の多 くが, 従 業員出身者か らな り, 内 部昇進の 「上が り」 として経営
88 冨 田光彦教授退官記念論文集 (第334号) 者 にな ってい る こ とを考 えれ ば,経 営者 を従業員 と同 じ隊列 に含 めた くなるの も判 らな くはない。 日本 の経営者 自身 も,欧 米 の経営者 に比べ て,従 業員意識 が強 い ように見 える。その こ とが,い わゆる リス トラよ りも,雇 用 を守 る姿勢 の強 さに現 れてい る とい えるか も しれない。 しか しなが ら,「企業 に働 く人々」 といつて も,そ の 「働 きの中身」が経営 者 と従業員 とでは異 なる。経営者 は,資 本の 自己増殖運動の もっとも忠実 な担 い手である。つ ま り,資 本の もっとも巧みな運用者,イ機能資本の人格的な担 い 手 なのである。そ こに,経 営者 は,他 の誰 にもで きない固有の機能 を果たす 自 己の存在理由を見い出す ことがで きる。経営者が支配権 を恣 にで きるの も,そ の ことの故である。それ故,仮 にコア従業員 として も経営者 を,従 業員概念 に 含めることはで きない。 ま してや,「働 く人々の権利」 とい うときには,そ こに経営者 を含めること はで きない。なぜ なら,従 業員の人事権 は,株 主ではな く,経 営者 にあるか ら である。それが長期勤続のコア従業員であって も,経 営者は,彼 を雇用するこ とも,昇 進 させ ることも,解 雇することもで きる。逆 に,従 業員は,た とえコ ア従業員であって も,経 営者 を雇 うことも,や め させ ることもで きない。両者 の権限は明 らかに非対称である。その様 な関係 にあるものを同 じ企業の主権者 として扱 うことがで きるであろうか。 トップの人事権 を持 たない ものが どうして企業の主権者 にな り得 ようか。経 営者 こそは,従 業員 に対 して主権者 として振 る舞い うる支配者である。この点 に関す る限 り従業員は決 して経営者 と同 じ主権者ではない。経営者 をコア従業 員 としてで も従業員の中に含めることは,企 業の実質的な主権者,つ ま り支配 者が誰であるかの問題 を混乱 させ るだけである。 経営者 を従業員 の 中に含 め る と,次 の ような疑間がでて くる。伊丹氏 は, 「コーポ レー ト ・ガバ ナ ンスは,企 業のマネジメン トとはちが う。企業のマネ ジメ ン トは,経 営者 をは じめ とす る経営管理職層 によって行 われる,事 業活動 8)従 業員出身者 は従業員代表 を意味す る ものではない。両者は必ず しも同 じではない。 こ の違いについては奥村宏氏が色 々な機会 につ とに強調 している点である。 さしあた り,奥 村 宏 『日本 の株式会社』 (東洋経済新報社,1988年 )を 参照のこと。
日本のコーポレート・ガバナンスと従業員主権 89 の制御行為である。その制御行為 を,企 業市民権者は経営管理職層 に託 してい る。その制御行為の担当者たる経営層,と くに経営者に対するチェックが,コ ー ポ レー ト・ガバナ ンスなのである」 (p.18)とい う。確かに,コ ーポ レー ト・ ガバナンス とマネジメン トとは,相 互に重なる部分はあるが,異 なった概念で ある。問題 は次の ところにある。伊丹氏 によると,マ ネジメン トは事業活動の 制御行為であ り,そ れは,「企業市民権者」 によって 「経営管理者層 に託 され る」 ものであるとい う。 この市民権者は,株 主 と,経 営者 を含むコア従業員 と か らなっているか ら,従 業員 も経営管理職層 に事業活動の制御行為 を託すこと になるが,一 体, どのような意味 においてであろうか。何 を根拠 に託せるのか。 株主が経営管理職層 に託すの と同 じ意味合いで従業員 も託せ るのであろうか。 さらに,経 営者 は自らも市民権者であるか ら,自 分で自分 に事業活動の制御行 為 を託すのであろうか。加 えて,マ ネジメン トは経営管理層 に託 されるとする と,一 体従業員 はどこで実質的に主権 を発揮するのか。 伊丹氏の議論の問題点は,結 局の ところ,次 の二つの点 に帰せ られる。一つ は,従 業員の範疇 に経営者 を含めていることである。一連の論理矛盾はここか ら生 じている。二つ 目は,主 権概念である。主権の問題は権力の問題であ り, その本質は経営者の選出 とチェックにあるとしなが ら,実 際はその とお りに展 開 されていない ことにある。 ト ップの人事権,こ れを誰が握 っているか,主 権 の本質はここにある。にもかかわ らずその点での一貫性が見 られない。 Ⅶ 最後 に,伊 丹氏 は,新 しい コーポ レー ト・ガバナ ンスのあ り方の構想 を大胆 に提示 していることにも触れておかねばならない。現状の株式会社制度の枠内 での もの と,そ の枠 その ものを越 えたまった く新 しい従業員主権 に基づ く企業 制度 を提案 している。「コーポ レー ト ・ガバナ ンスの本質 を考 えた新 しい企業 制度の構想 を練 るとい う思考実験 は,ぜ ひともあちこちで行 われるべ きである と私 は考 える」 とい う。私 も全 く同感である。将来的な課題 としての従業員主 権 の制度 を考 える作業 は重要である。伊丹氏 は極めて刺激的な構想 を展 開 して
9 0 冨 田光彦教授退官記念論文集 ( 第3 3 4 号) いる。それは,「企業総会」,「従業員総会」,「株主総会」,「役員会」 (あるいは 「取締役会」) と い う四つの機 関で, 三 つの権利 ( 政策決定権, 分 配決定権, 経営者任免権) を 分有す る, とい う考 え方」 (293頁)で ある。 とて もユニーク である。働 く人々の権利 を保障す る方向でのコーポ レー ト・ガバナ ンスの改革 の提言は大いに議論 されて しるべ きであると考 える。ただ,残 念 なが ら,紙 幅 の関係で ここでは触れ られない。改めて取 りあげたい課題である。 以上,日 本の コーポ レー ト・ガバナ ンス と従業員主権 について伊丹氏の所説 を中心 に見て きた。株主重視の企業ガバナ ンスが改革の主流 とな りつつある中 で,コ ーポ レー ト・ガバナ ンスの議論 は本質的に主権論,権 力の問題であるこ とを指摘 し,「働 く人々の権利」が しかるべ く評価 されるべ きであるとい う観 点か ら,コ ーポ レー ト・ガバナ ンスの基本理念 に従業員主権 をお こうとする同 氏 の議論 は多 くの示唆 に富 んでいる。 しか し,私 は,将 来的な課題 としてなら ともか くも, 日本企業が現実 に実質的に従業員主権企業である,と い うことに は同意で きない。すでに触 れたように,一 つはやは り経営者 を従業員概念 に, 仮 にコア従業員 にであって も,含 めることには無理があること,二 つ 目は主権 概念のエ ッセ ンスが トップの人事権 にあ り,そ れを握 るものこそが主権者,支 配者であることが一貫性 をもって展 開されていない と思われるか らである。