『源氏物語』の赤と青の世界
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「二藍の帯」をめぐって
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松
岡
かな子
はじめに 河 添 房 江 が、 当 時 の 東 ア ジ ア 世 界 の 変 化 と 平 安 貴 族 社 会 に 注 目 し、 『 源 氏 物 語 』 の 唐 物 が 何 を 表 象 す る か を 述 べ て い る ( 1 ) 。 装 束 に つ い て は、 吉 野 誠 が 地 位 の 表 示 で あ る 定 型 の 装 束 表 現 を 意 識 し つ つ も、それを相対化してずらしたり、別の表現とかけあわせることで 定型を超える意味があると し ( 2 ) 、池田節子は『源氏物語』の中の装束 表現は意外なほど少なく、そのほとんどが喪服の色の濃淡であると 指摘す る ( 3 ) 。また、伊原昭は「服飾は人物を象徴す る ( 4 ) 」ことを示唆し ており、個々の登場人物に対する作者の評価が服飾に表現され、そ の色は赤と青といった二つの色で左右に分けられ、左尊観に従って 赤が上位であるという。しかしながら、このように「装束」と人物 造型に関連する研究はあまり多くない上に、作品主題と関連づける 考察はほとんどみることができないようだ。 『 源 氏 物 語 』 玉 鬘 巻 の い わ ゆ る「 衣 配 り 」 は、 光 源 氏 が 栄 華 の 象 徴とも言える六条院で、それぞれの女君たちに正月の衣装を選ぶ有 名 な 場 面 で あ る。 女 君 た ち の 装 束 が 一 度 に 描 写 さ れ る の は、 「 衣 配 り」の場面と若菜下巻の「女楽」である。装束は禄として与えられ ることもあったように、ここでは禄ではないが、光源氏が誰に何を 与えるかということは、紫上にとっても非常に関心の高いところで ある。光源氏の女性たちへの愛情や評価といったものが目に見える 形で表されるということで、光源氏からすれば最も気を遣うところ で も あ る。 紫 上 は、 「 い づ れ も 劣 り ま さ る け ぢ め も 見 え ぬ 物 ど も な め る を、 着 給 は ん 人 の 御 か た ち に 思 よ そ へ つ ゝ た て ま つ れ 給 へ か し。 着 た る 物 の さ ま に 似 ぬ は、 ひ が ひ が し く も あ り か し 」( 玉 鬘 二・三六八頁)と言い、光源氏がどのような衣装を選ぶかで、その 女 性 へ の 評 価 を 推 し 量 ろ う と し て い る。 装 束 に 容 貌 を「 思 よ そ へ 」 ながら選んでいくわけだが、紫上としてはやはり光源氏との子を成 した明石君の装束が一番気になるところであろう。光源氏は「つれ なくて、人の御かたちをしはからむの御心なめりな。さてはいづれ をとかおぼす」と言う。光源氏は紫上の装束を紫上自身に選ばせよ う と す る が、 紫 上 は、 「 そ れ も 鏡 に て は い か で か 」 と 選 択 は 光 源 氏 に委ねる。光源氏が紫上の装束を選ぶことで、それが女君たちの装 束の基準となり、紫上はまだ見ぬ女性たちの容貌や光源氏の気持ち を推測することが可能になる。紫上は、光源氏が選んだ明石君の装 束に「めざまし」と嫉妬する。着る物からその人物を想像し、また どのようなものを贈るかで相手に対する思いや評価が読み取れるこ とを装束は表している。『源氏物語』の中で作者は、 「着たまへるものどもをさへ言ひ立つ るも、もの言ひさがなきやうなれど、昔物語にも人の御装束をこそ まづ言ひためれ。 」(末摘花 二・二二五頁)と、古い物語でも登場 人物を描く時、まずはその装束から表現すると書いている。作者は 中宮彰子に仕え、人の出入りも多い場所で、数多くの華やかな装束 を 目 に し て き た。 『 紫 式 部 日 記 』 の 中 で も 女 房 装 束 の 色 や 文 様、 刺 繍に至るまで念入りに表現している。個々の登場人物に与えた装束 の持つ意味合いを考えることは、物語全体の構造を捉えることにも 繋がる。 そこで小稿では、改めて物語全体の装束と楽器を調査した資料に 基 づ い て、 光 源 氏 の 装 束 表 現 を 軸 と し て、 紫 上 の「 葡 萄 染 」「 今 様 色 」、 明 石 君 の「 高 麗 」「 唐 め く 」 に 代 表 さ れ る 装 束 表 現 に 注 目 し、 唐風文化から国風文化へと移行していった平安中期という時代を踏 ま え な が ら、 そ の 特 徴 や 傾 向 を 分 析 し、 紫 上 の 赤 と 明 石 君 の 青 が、 物語全体の構造にどう関わっているかを考察していきたい。個々の 人物造型を相互関係的にみることは、網の目のようにつながる赤と 青の二つの世界の持つ機能を明確にすることであり、ひいては作者 の 持 つ 問 題 意 識 を 浮 き 彫 り に す る こ と が で き る と 考 え る。 『 源 氏 物 語』は、作者の生きた時代よりも少し前の、理想的な治世といわれ た延喜の時代を桐壺帝の御代として描かれてい る ( 5 ) 。作者は、末法思 想が流行する中で、世に対して閉塞感を感じていたのではないだろ う か。 赤 と 青 の 二 つ の 世 界 を 拮 抗 さ せ、 新 し い 風 を 吹 か せ る こ と で、刷新させようとしたのではないか。また、明石君は、謙虚で忍 耐強いという理解が一般的だが、果たしてそう言い切れるのか。明 石君は色のみならず、 「高麗」 「琵琶」 「住吉信仰」 「龍宮」の観点か ら考察することにより、新たな人物造型の把握が期待できる。個々 の人物造型と与えられた物語世界での役割を明らかにし、赤と青の 二つの世界が持つ物語世界の中での機能と主題に迫っていきたい。 一、紫上の赤と明石君の青 六条院は春夏秋冬の町と名付けられ、光源氏は春の町には紫上と 明石女御、夏の町には花散里と玉鬘、秋の町には秋好中宮、そして 冬の町には明石君というように光源氏と深い縁のある女性たちを住 まわせた。光源氏が紫上を北山で垣間見したのは三月の末である。 光源氏との出会いの季節であった春の町に住んだ紫上は、まさに春 を象徴する人物である。春夏秋の三町は主たる季節以外のものを植 えたり、遣水で互いの庭をつないでいるなど、交流があることを示 しているようである。それとは異なり、どの町からも独立している ように感じられるのは冬の町である。この町には寝殿はなく、二つ の 対 屋 が あ る だ け で あ る。 北 面 は 築 地 で 隔 て、 御 倉 町 を 設 け て い る。 松 の 木 を 垣 根 と し て 植 え、 そ の 枝 に 降 っ た 雪 を 観 照 す る の に、 松は最適なものとして配置されている。一見簡素な造りのように思 えるが、御倉町があることから、六条院全体を管理しているとも考 え ら れ る。 出 自 の 低 い 明 石 君 の 住 む 冬 の 町 は、 寝 殿 が な い こ と で、 かえって他とは趣の異なる町として際立つのではないか。物語の中 でも四町の説明は春夏秋冬の順ではなく、春、秋、夏、冬の順で説 明されており、物語の主題を考察する上で重要な要素と考える。必
ずしも出自や身分、光源氏の愛情の深さと比例しているとは言えな い。表向き明石君は控えめに見受けられるが、最終的には六条院で の一番の幸せを手にいれる明石君を暗示するような形で描いている と思われる。 装束の色彩に関しては、伊原昭が、平安時代の左尊右卑の概念と 歌 合 な ど に 見 ら れ る 左 方 の 赤 系 統、 右 方 の 青 系 統 の 装 束 を ふ ま え て、 『 源 氏 物 語 』 で は 作 者 が 登 場 人 物 に 合 っ た 色 合 を 与 え て い る と 指 摘 し て い る ( 6 ) 。 し か し な が ら、 「 女 楽 」 で は 朱 雀 帝 の 皇 女 で あ る 女 三宮の童の装束は青系統で、紫上の童は赤系統の装束を着用してい ることから、必ずしも赤が上位で青が下位とは言えない。左の赤と 右の青は雅楽における舞楽の左舞(唐楽)の赤、右舞(高麗楽)の 青に見られる。唐楽は、唐、林邑、天竺から伝わった中国系の舞楽 で、高麗楽は新羅、百済、高句麗から伝来したものである。唐楽は 笙を用いるため融合された音色で流れるような印象があり、舞は大 らかで優雅である。高麗楽は笙を用いず、高麗笛や篳篥を用いるこ とで複音的に聞こえ、旋律の輪郭がはっきりしており、もの悲しい 雰囲気である。舞の動きは直線的で、舞の切れ目もはっきりとして い る ( 7 ) 。 次の文章は「衣配り」の場面である。光源氏にとって最も近しい 紫上を最初に描き、明石姫君、花散里、玉鬘、末摘花、明石君、空 蝉の順で描かれている。明石君は、六条院ではなく二条東院に住む 末摘花と空蝉の間に描かれる。これは冬の町と同様に、六条院の他 の女君とは異なる存在であることを意味するのではないか。 紅梅のいと紋浮きたるゑび染の御小袿、今様色のいとすぐれ たるとはかの御料 、桜の細長に、つやゝかなる掻練とり添へて は姫君の御料なり。 浅縹の海賦のをり物、をりざまなまめきたれどにほひやかな ら ぬ に、 い と 濃 き 掻 練 具 し て 夏 の 御 方 に、 く も り な く 赤 き に、 山吹の花の細長は、かの西の対にたてまつれ給を、上は見ぬや うにておぼしあはす。内のおとゞの、はなやかにあなきよげと は見えながら、なまめかしう見えたる方のまじらぬに似たるな めりと、げにをしはからるゝを、色には出だし給はねど、殿見 やり給へるに、たゞならず。 「 い で、 こ の か た ち の よ そ へ は、 人、 腹 立 ち ぬ べ き 事 な り。 よきとても物の色は限りあり、人のかたちは、をくれたるも又 な を 底 ひ あ る 物 を 」 と て、 か の 末 摘 花 の 御 料 に、 柳 の を り 物 の、よしある唐草を乱れをれるもいとなまめきたれば、人知れ ずほゝ笑まれ給。 梅のおり枝、てう、鳥飛び違ひ、唐めいたる白き小袿に、濃 きがつやゝかなる重ねて、明石の御方に、思やりけ高きを、上 はめざましと見給 。 空 蝉 の 尼 君 に 青 鈍 の を り も の、 い と 心 ば せ あ る を 見 つ け 給 て、御料にある梔子の御衣、聴し色なる添へ給て、おなじ日着 給べき御消息聞こえめぐらし給。げに似ついたる見むの御心な りけり。 み な、 御 返 ど も た ゞ な ら ず。 御 使 の 禄 心 〳 〵 な る に、 末 摘、 東の院におはすれば、いますこしさし離れ、艶なるべきを、う るはしくものし給人にて、あるべき事は違へ給はず、山吹の袿
の袖口いたくすゝけたるを、うつほにてうちかけ給へり。 (玉鬘 二・三六八、三六九頁) 七人の女君たちの装束を赤系統と青系統に分類してみると、赤系 統は紫上、明石姫君、玉鬘の三人で、青系統は花散里、末摘花、明 石君の三人である。空蝉のように青鈍の青と聴色の赤のようにどち らとも区分できないものもあるが、凡そ赤系統と青系統に大別でき る 。 こ こ で 、紫 上 と 明 石 君 の 装 束 に 絞 っ て そ の 特 徴 を 見 て い き た い 。 衣配りでの紫上の装束は、禁色の赤に近い色目の「今様色」を着 用しており、今をときめく高貴な紫上を表現するのにふさわしい。 また平安中期は大陸からの唐風文化から国風文化へ移行していった 時期とも重なり、紫上の「今様色」に象徴される当世風というのは 和 風 と も 考 え ら れ、 ま さ に 旬 の 人 と い え る。 「 今 様 色 」 は 高 価 な 紅 で 染 め た 薄 い 紅 色 で 当 世 風 の も の で あ り、 ま た 流 行 色 の 意 味 も あ り、光源氏にとっては紫上が常に新しい感動や驚きを与えてくれる 人物として表現されている。しかしながら紫上は一の人と言われな がらも、最終的には女三宮の降嫁によって光源氏の正妻としては扱 われなかった。父を兵部卿宮にもつ紫上であるが、母の身分の低さ もあったからか、光源氏は紫上を正妻の位置に置かなかった。出家 の希望すら光源氏には認めてもらえなかった。今様色を紫上の六条 院での立場に重ね合わせると、やはり確固たる後ろ見もなく、光源 氏の愛情だけを頼りに生きていくしかない不安定な立場を象徴して いると考えられる。当世風の色とは、時とともに移り変わっていく 流行色と捉えることもでき、六条院での華々しい正月を迎えた紫上 であるが、その移り行く将来を暗示している色とも考えられるので はないか。 次は、末摘花が光源氏に正月の衣装(通常は正妻が準備する)と して贈った「今様色」の装束である。 今様色 の、えゆるすまじく つやなう古めきたる ⌇⌇⌇⌇⌇⌇⌇⌇⌇ なおしの、裏 表ひとしうこまやかなる、いとなを〳〵しう、褄〴〵ぞ見えた る、あさましとおぼすに、…… (末摘花 一・二三〇頁) 本 来、 光 沢 の あ る 色 で あ る の に も か か わ ら ず「 つ や な し 」、 そ し て 当 世 風 で あ る は ず の も の が「 古 め く 」、 今 様 色 の よ さ を 悉 く 末 摘 花が台無しにしてしまった。せっかくの「今様色」の直衣は、許し がたいほどに艶もなく古めかしく、襲の色目も表と裏が同じような 色目のものであっ た ( 8 ) 。襲は通常、表と裏が異なる色を用いる。光源 氏が「あさまし」と思うほどにその本来のよさが打ち消されてしま う の で あ る。 言 い 換 え れ ば、 「 今 様 色 」 は 非 常 に つ や や か な 光 沢 の あ る 新 鮮 な 色 で あ る と 言 え る。 『 宇 治 拾 遺 物 語 』 の 説 話 に も そ の 魅 力 が 語 ら れ て い る ( 9 ) 。「 葡 萄 染 」 は、 紫 草 の 根 か ら 色 素 を 取 り 出 し て 染める色で、これは高貴な色であり、かつ貴重なものとして考えら れ て い た。 そ れ は 染 色 家 の 吉 岡 幸 雄 も『 「 源 氏 物 語 」 の 色 辞 典 )(1 ( 』 で 指摘している。物語中「葡萄染」が他に使用されるのは光源氏と内 大 臣 の 二 人 だ け で、 光 源 氏 と 近 し い 人 物 で あ る。 「 今 様 色 」「 葡 萄 染」に象徴されるように、紫上の装束は赤系統であることがうかが える。 一方、冬の町の明石君(二六歳)は、梅の折り枝に蝶や鳥の飛び 交っている模様が織られた「唐めく」異国風の白い小袿と濃い紫の つやのある袿を贈られている。梅は紫上の紅梅と区別され、白梅で
あ ろ う。 非 常 に 光 沢 の あ る 紫 の 袿 の 上 に 白 の 小 袿 を 着 用 す る こ と で、白と紫のコントラストが際立つ。とりわけ紫上はこの明石君の 装 束 を お も し ろ く な い 様 子 で 見 て お り、 「 け 高 し 」 と 嫉 妬 す る。 こ の 明 石 君 の 装 束 で 特 徴 と な る の は「 白 」 と「 唐 め く 」 で あ ろ う。 「 白 」 は 冬 の 町 の 象 徴 と な る 色 で あ る。 雪 景 色 を 最 高 の 状 態 で 観 照 できるように設計された冬の町で、白といえば雪を連想するのが自 然である。寒さ厳しい冬は、やがて訪れる春を迎えるための試練の 季節とでも言えようか。父明石入道の宿願を一身に背負い上京した 明石君の強い意志と忍耐を表す白とも考えられるのではないか。ま た白の装束である帛の衣(帛の御装束)は、天皇特有の白絹の斎服 で 神 事 の 場 合 の み 用 い ら れ た と あ る )(( ( 。 も と は 天 皇 の 正 服 で あ っ た が、嵯峨天皇の時に黄櫨染を用いてからは、神事にだけ用いられる よ う に な っ た よ う だ。 つ ま り、 「 白 」 は 神 々 の 世 界 を 表 し て い る と 思 わ れ る。 「 唐 め く 」 に つ い て は、 次 の「 女 楽 」 で の 明 石 君 の 装 束 で登場する「高麗」と併せて見ていきたい。 紅梅の御衣に、御髪のかゝりはら〳〵ときよらにて、火影の 御 姿 世 に な く う つ く し げ な る に、 紫 の 上 は、 葡 萄 染 に や あ ら む、 色濃き小袿 、 薄すわうの細長 に御髪のたまれるほど、こち たくゆるらかに大きさなどよきほどに様体あらまほしく、あた りににほひみちたる心ちして、花と言はば桜にたとへても、な を も の よ り す ぐ れ た る け は ひ こ と に 物 し 給。 か ゝ る 御 あ た り に、明石は、けをさるべきを、いとさしもあらず、もてなしな どけしきばみはづかしく、心の底ゆかしきさまして、そこはか となくあてになまめかしく見ゆ。 柳のをりものの細長 に、 萌黄 にやあらむ、小袿着て、羅の裳のはかなげなる引きかけて、こ とさら卑下したけれど、けはひ思ひなしも心にくゝ、あなづら は し か ら ず。 高 麗 の 青 地 の 錦 の 端 さ し た る 褥 に、 ま ほ に も ゐ で、 琵琶 をうちをきて、たゞけしき許弾きかけて、たをやかに 使ひなしたる撥のもてなし、音を聞くよりも、又ありがたくな つかしくて、五月まつ花橘の、花も実も具してをしおれるかほ りおぼゆ。 (若菜下 三・三三九、三四〇頁) 「唐めく」 「高麗」は、紫上の和風に対して異国風ということが言 え、先進性やぱっと目をひくような美しさが考えられる。河添房江 がいうように、やはり、明石君のエキゾチックな雰囲気は唐物によ るところが大きく、和風の紫上の魅力とは異なるものである。光源 氏 か ら 明 石 君 へ の 最 初 の 手 紙 も「 高 麗 の 胡 桃 の 紙 」( 明 石 ) を 使 用 し て お り、 こ こ で も 明 石 君 が 唐 物 派 の 女 君 で あ る こ と が 確 認 で き る。 「 高 麗 」 は 具 体 的 に は 渤 海 国 を 指 す。 渤 海 国( 六 九 八 〜 九 二 六 年 ) は『 唐 書 』 に「 海 東 盛 国 」 と 記 さ れ て お り、 そ の 文 化 は 高 句 麗、 靺 鞨 の 伝 統 文 化 に 唐 の 文 化 を 積 極 的 に 取 り 入 れ た も の で あ っ た。唐から冊封を受けながら独自の年号を使用していたことは非常 に自立の意識の強い国であることを物語る。渤海国は大国である唐 の影響を強く受けながらも、自国の伝統文化を守り、時には融合さ せながら発展させていった。言い換えれば、生き残るためにはあら ゆる手段を駆使し、時流に乗りながら自らの目的を達成しようとす る 国 と 言 え、 こ れ は 明 石 君 の 生 き 方 そ の も の と 重 な る の で は な い か。また、高麗楽の特徴である旋律のはっきりした曲調と直線的で も の 悲 し い 雰 囲 気 の 舞 は、 明 石 君 の 性 質 と 重 な る 部 分 が あ る。 「 唐
め く 」 は、 明 石 君、 光 源 氏、 桐 壺 更 衣( 明 石 君 の 父 と は 従 兄 妹 関 係)の三人だけに使用されている。 二、光源氏の装束 光源氏が正装である袍を着用するのは、葵上が亡くなった時の喪 服姿と朱雀院への行幸の際、帝と同じ赤色の袍を着用している場面 だけである。ほとんどが日常着である直衣や狩衣、また下着に近い 袿姿である。決められた色を纏う袍をあまり必要とせず、晴よりも 褻の装束の方が光源氏の魅力が引き立つのであろう。光源氏の装束 における「白」は、光源氏の生涯を通して見られる。色鮮やかなも の に 比 べ、 「 白 」 は 簡 素 で、 や や も す れ ば 質 素 な 印 象 す ら 受 け る 色 である。その「白」を着た光源氏の美しさは、やはり通常のもので はなく、特異な美として描かれているのである。むしろ、光源氏の 美 し さ を 際 立 た せ る 色 と し て 考 え ら れ る。 ま た、 光 源 氏 の「 や つ る」る姿を美しいというのも特異な美と言えよう。物語の中で「や つる」が使用されるのは、身元がわからないようにするための意図 的な「やつる」と、人が亡くなり喪に服している際でである。光源 氏においては、須磨へ退去する謹慎中の場面でも見られる。いずれ の場合も光源氏の「やつる」はその美しさをさらに強調するために 使用されている。 ① 白き 御衣どもの なよゝかなる ⌇⌇⌇⌇⌇⌇ に、なをしばかりを しどけな ⌇⌇⌇⌇ く ⌇ 着なし給て、紐などもうち捨てて添ひ臥し給へる御火影い とめでたく、 女にて ⌇⌇⌇ 見たてまつらまほし。 (帚木 一・三八頁) ② 桜 の 唐 の 綺 の 御 な を し、 葡 萄 染 の 下 襲、 裾 い と 長 く 引 き て、みな人は袍なるに、 あざれたる大君姿 ⌇⌇⌇⌇⌇⌇⌇⌇ の なまめきたる ⌇⌇⌇⌇⌇⌇ に て、いつかれ入りたまへる御さま、げにいとことなり。 (花 宴 一・二八二頁) ③ 白き 綾の なよゝかなる ⌇⌇⌇⌇⌇⌇ 、 紫苑色 などたてまつりて、こまや か な る 御 な を し、 帯 し ど け な く ⌇ ⌇ ⌇ ⌇ ⌇ う ち 乱 れ 給 へ る 御 さ ま に て …… (須磨 二・三二頁) ④ ゑび染の御指貫、桜の下襲、いと長うはしり引きて、ゆる 〳〵とことさらびたる御もてなし、あなきらぎらしと見えた まへるに、六条殿は、 桜の唐の綺 の御なをし、 今様色 の御衣 ひき重ねて、 しどけなき大君姿 ⌇⌇⌇⌇⌇⌇⌇⌇ 、いよ〳〵たとへん物なし。 (行幸 三・七〇頁) ⑤ 無 紋 の 上 の 御 衣 に 鈍 色 の 御 下 襲、 䋝 巻 た ま へ る や つ れ 姿 ⌇ ⌇ ⌇ ⌇ 、 華やかなる御装ひよりもなまめかしさ ⌇⌇⌇⌇⌇⌇⌇⌇⌇⌇⌇⌇⌇⌇⌇⌇⌇ まさり給へり。 (葵 一・三二七頁) ⑥ 藤の御衣に やつれ ⌇⌇⌇ 給へるにつけても、限りなく きよらに ⌇⌇⌇⌇ 心 ぐるしげなり。 (賢木 一・三五三頁) ⑦ 山がつめきて、 聴し色の黄がちなるに、 青鈍の狩衣、 指貫、 うちやつれ ⌇⌇⌇⌇⌇ て、ことさらにゐなかびもてなし給へる しも ⌇⌇ 、い みじう見るに笑まれて きよらなり ⌇⌇⌇⌇⌇ 。 (須磨 二・四二頁) 傍 線 は、 実 際 に 光 源 氏 が 着 用 し て い る 装 束 や そ の 色 を、 波 線 は、 光 源 氏 の 特 異 な 美 を 形 容 す る 表 現 を 示 す。 ① は 宮 中 で の 宿 直 の 夜、 頭中将らと女の品定めをしている場面での光源氏である。紐も解い
て寛いだ感じで着ている白の袿姿は、まるで女のように美しいとい う。③は須磨での蟄居中の白の袿姿である。袿は本来下着にあたる もので、その白のやわらかな袿に、帯も緩め直衣をゆったりと着て いる姿がよいという。つまり、隙のない整った美しさではなく、寛 いだ、さりげない様子の中にこそ優美さが際立って美しいというの である。②は他の人が正装している中で、光源氏だけが平常服の大 君姿になっており、④も同じく内大臣は下襲を着用して正装に準ず る格好をしているのに対して、光源氏はくだけた余裕のある大君姿 をしている。光源氏の美しさは、寛いだゆったりとしたさりげない 美しさであると言える。それは④の内大臣の美しさと比較するとよ く分かる。内大臣の美しさは、造り上げたような華美な美しさであ るのに対して、光源氏は「しどけなき大君姿」が譬えようもなく美 し い と い っ て い る。 色 に お い て は 紫 上 を 象 徴 す る 高 貴 な「 葡 萄 染 」 と当世風の「今様色」も着用しており、その色の持つ意味合いだけ ではなく、紫上との深いつながりも色によって表現している。⑤は 妻である葵上が亡くなり、鈍色の喪服姿の光源氏である。華やかな 装束よりも優美だという。⑥も同じく父桐壺院の崩御により喪服を 着用している場面であるが、それがこの上なく「きよらなり」とあ る。いずれも、近親者の死にともない、鈍色の喪服を着用している 「 や つ る 」 る 光 源 氏 で あ る。 ⑦ は 須 磨 で の 謹 慎 中 の 描 写 で、 袿・ 狩 衣姿は「須磨」以降若干多く見られる。自ら官位を返上し、謹慎生 活を送るために須磨へ下っていくため、狩衣を着用しているのは自 然であろう。その狩衣姿の光源氏は「うちやつれ」ていて、それが か え っ て「 き よ ら な り 」 と あ る。 美 し さ を 表 現 す る「 き よ ら な り 」 が「やつる」とともに用いられていることに注目したい。通常の美 意識において負と捉えられるものも、光源氏においては負の要因に な ら ず、 む し ろ そ の 美 し さ を 際 立 た せ る。 「 や つ る 」 る 光 源 氏 で あ ればあるほど、その「きよら」な美しさは増し、通常では考えられ ないような究極の美に達するのである。光源氏の美しさは、陽より も陰、晴よりも褻の中でより美しさが際立つことを表しているので はないか。須磨を訪れた頭中将の目を通して見た光源氏の美しさの 表現であり、憂いの中でより一層美しさが輝き、頭中将自身の心も 慰められたのである。その美しさは生まれながらにして持ち合わせ ていたことも次の文章からも分かる。 先の世にも御契りや深かりけむ、世になく きよらなる ⌇⌇⌇⌇⌇ 玉のお の子御子さへ生まれ給ひぬ。……一の御子は右大臣の女御の御 腹にて、寄せ重く、疑ひなき儲の君と世にもてかしづききこゆ れど、この御にほひには並びたまふべくもあらざりければ、お ほかたのやむごとなき御思ひにて、この君をばわたくし物に思 ほしかしづき給ふこと限りなし。 (桐壺 一・五頁) 「 き よ ら な る 」 玉 の よ う な 御 子 が 光 源 氏 で あ る。 一 の 御 子( の ち 朱雀帝)は光源氏の美しさには到底かなわないのである。その美し さを「いとゞこの世の物ならず、 きよらに ⌇⌇⌇⌇ およすげたまへれば、い とゆゝしうおぼえたり。 」(桐壺 一・一八頁)と、美しすぎるが故 に 不 吉 で あ る と の 表 現 も あ る。 光 源 氏 の 美 し さ は 負 の 印 象 を 持 つ 「やつる」と用いられるのは、やはり、晴れやかな美しさではなく、 どこか影のある、陰の要素を持った美しさであろう。 光 源 氏 の「 光 」 は、 「 光 君 と 言 名 は 高 麗 人 の め で き こ え て つ け た
てまつりける、とぞ言ひ伝へたるとなむ。 」(桐壺 一・二八頁)と あ る よ う に、 高 麗 人 が 名 付 け て い る。 「 光 」 は、 明 る く 光 を 放 つ、 闇を照らす、美しい、またその周辺を視覚的に明るくするだけでは なく、人の心をも明るくすることができるなどの意味を持つ。光源 氏 の 容 貌 が 美 し い の は 言 う ま で も な い が、 「 光 」 が ど の よ う な 光 を 指すのか。高麗人が「光君」と名付けたという内容は、桐壺巻の最 後 の 一 文 に 見 ら れ る が、 そ れ よ り も 以 前 に 光 源 氏 を「 光 君 」、 藤 壺 中 宮 を「 か ゝ や く 日 の 宮 」 と 世 の 中 の 人 々 は 呼 ん だ と 書 か れ て い る。藤壺中宮を日の宮、光源氏を光君、どちらも明るい輝くという 意味を持つが、藤壺中宮の日を太陽の「陽」とするならば、光源氏 の 光 は「 陰 」 と な る。 暗 い 夜 に 輝 く 月 の 光、 「 陰 」 の 光 と な る。 晴 よりも褻の装束表現が多いのも、これらに起因しているのかもしれ ない。 三、二藍の帯 光源氏の須磨への退去は物語の展開上大きな意味を持つが、装束 描写についても、その前後で大きな変化があった。須磨へ退去する までは、鈍色の喪服を除くと「白」 「今様色」 「葡萄染」の描写が見 られる。これは「白」を除いて赤系統の色であり、紫上の装束も同 系統で表現されている。注目すべきは、須磨への退去の直接の原因 となった朧月夜との密会が露見する場面である。 か む の 君、 い と わ び し う お ぼ さ れ て、 や を ら い ざ り 出 で 給 に、面のいたう赤みたるを、猶なやましうおぼさるゝにや、と 見 た ま て、 「 な ど 御 け し き の 例 な ら ぬ。 も の ゝ け な ど の む つ か しきを、修ほう延べさすべかりけり」との給ふに、 薄ふたあひ な る 帯 の 御 衣 に ま つ は れ て 引 き 出 で ら れ た る を、 見 つ け 給 て、 あやしとおぼすに、又畳紙の手習などしたる、御几てうのもと に 落 ち た り。 こ れ は い か な る も の ど も ぞ、 と 御 心 お ど ろ か れ て、 「 か れ は 誰 が ぞ。 け し き こ と な る も の の さ ま か な。 た ま へ。それ取りて誰がぞと見侍らむ」との給ふにぞ、うち見かへ り て、 わ れ も 見 つ け 給 へ る、 紛 ら は す べ き 方 も な け れ ば、 い かゞはいらへきこえ給はむ。 (賢木 一・三八七・三八八頁) 「 薄 ふ た あ ひ な る 帯 の 御 衣 に ま つ は れ て 」 と あ り、 帯 は 直 衣 と 同 じ色にすることが多く、この時光源氏は薄二藍の装束を着用してい たと考えられる。 『花鳥余 情 )(1 ( 』には「源氏の御帯夏の直衣の色なり」 と あ る。 「 二 藍 」 は 藍 で 染 め た 上 に 紅 花 で 染 め た も の で、 二 つ で 染 め る こ と か ら「 二 藍 」 と 呼 ば れ る。 そ の 比 率 は 若 年 ほ ど 藍 を 淡 く、 壮年ほど紅を淡くする。よってその色は様々で紫に近いものや青に 近いものまで、かなりの幅がある。赤と青が直接交わる「二藍」の 帯を右大臣に見つけられ、二人の仲は世間の知るところとなる。光 源氏の装束描写から青系統の色が見られるようになるのは、この密 会の場面以降である。明石の君は雅楽の右方である高麗楽の青系統 の装束で描かれている。須磨への退去がなければ、明石君との間に 明 石 姫 君( 明 石 女 御 ) を 授 か る こ と は な い。 こ の 朧 月 夜 と の 関 係 は、明石君との関係を成立させるためには不可欠なものであった。 「 薄 ふ た あ ひ な る 帯 」 が 描 か れ る の は、 明 石 君 が 登 場 す る こ と を 暗 示し、赤の世界の中に新しく青の世界が現れたことを示す。まさに
青の世界が誕生した瞬間がこの時である。この件により朧月夜は朱 雀帝の女御として入内予定であったが、女御としてではなく尚侍と して入内することになる。 宮中に温明殿という三種の神器のひとつである神鏡(天照大神を 象徴する)を安置した賢所がある。温明殿は天皇の日常の住まいで あ る 清 涼 殿 と は 離 れ た 東 の 宣 揚 門 の 近 く に あ る。 『 古 今 著 聞 集 )(1 ( 』 に は、 「 内 侍 所 は、 昔 は 清 涼 殿 に 定 め 置 か れ ま ゐ ら せ け る を、 お の づ から無禮の事もあらば、その恐あるべしとて、温明殿に遷されにけ り。この事いづれの御時のことにか、覚束なし。 」(巻第一 神祇第 一「 内 侍 所 焼 亡 の 事 」) と あ り、 も と も と 神 鏡 は 清 涼 殿 に 置 か れ て いたようである。しかしながら、帝の側近くに置いておくのは無礼 の恐れがあるということで遠ざけた。 賢所には光源氏よりも三十歳以上も年上になる源内侍という者が 仕 え て い た( 紅 葉 賀 )。 琵 琶 を 得 意 と し て い た 源 内 侍 は 非 常 に 若 作 りで、好色な女性として描かれている。その源内侍と一夜を過ごし ていた光源氏であるが、そこへ頭中将が踏み込んできたのである。 光源氏は慌てて屏風の後ろへ隠れたが、その太刀を抜いた男が頭中 将と分かった途端、光源氏は頭中将の腕を掴み、揉み合いになる。 互いの衣服は乱れ、袖は引きちぎれ、帯は解け、そのまま二人は源 内侍を置いたまま帰って行ったのである。翌朝、源内侍から光源氏 のもとへ、昨夜の揉み合いの際に落としていった指貫と帯が届けら れる。 朧月夜君との密会でも「二藍帯」を右大臣に発見されたことで二 人の仲は露見したが、この事件の前にすでに「帯」をめぐってこの ような珍事が起きていた。珍事といっても、場所は賢所のある「温 明殿のわたり」であるため見過ごすことはできない。神鏡を安置し ている場所であり、また内侍は天皇に仕える女人である。これは王 権を揺るがす事態と考えられよう。この頭中将の忘れていった帯の 色は「縹色」である。朧月夜との事件での光源氏の帯の色と同じ青 系統の帯である。源内侍との逢瀬を頭中将に踏み込まれたのは、こ の朧月夜君との関係を導く伏線となり、それは後々、光源氏を明石 へいざなうのではないか。青系統の「帯」は事件の起因となるよう である。光源氏の装束に青系統が出現してまもなく、自ら京を離れ 須磨へ旅立って行く光源氏である。青系統の装束は明石君の色であ り、光源氏の世界に新たな青の世界の明石君が登場する。 な お、 『 源 氏 物 語 』 中、 多 く の 楽 器 が 登 場 し、 そ れ ぞ れ に 得 意 と する楽器が与えられているが、明石君と源内侍はともに琵琶を得意 とする人物として登場する。紫上は和琴を与えられている。 「 琵 琶 こ そ、 女 の し た る に に く き や う な れ ど、 ら う 〳 〵 じ き ものに侍れ 。……」 「…… 他 事 よ り は、 遊 び の 方 の 才 は な を 広 う 合 は せ、 か れ こ れ に通はし侍こそかしこけれ、 ひとりごとにて上手となりけん こ そ、めづらしきことなれ」 (少女 二・二九一頁) 内大臣は、女性が琵琶を弾いているとかわいげのなさそうなもの だが、明石君は巧みであると褒めている。音楽の技能は合奏し合っ てこそ上達するものだが、合奏する相手もいなかったであろう明石 で、独りで弾いて名手になったということは、明石君の資質の高さ も認めている。力強い音を出す琵琶はややもすれば、男性的に捉え
られてしまうが、明石君は他の女性とは全く異なった魅力で描かれ る。大陸の力強さや異国情緒漂う明石君は、紫上が光源氏の意のま まにしか生きていけない女性であるのに対し、凜とした美しさや信 念を持った女性として描かれており、それは紫上の和琴に対し、西 域から伝わった琵琶によっても表現される。女楽では「すぐれて 上 手めき 、 神さびたる てづかひ」とあり、非常に貴人のような風情が あって、神々しい手遣いであると書かれている。これは明石一族の 信仰する住吉信仰と関係していると思われる。 四、明石君と六条御息所 紫上の「今様色」は、当世風の聴色である艶のある薄紅色である が、 そ こ に は「 新 鮮 さ 」「 純 粋 さ 」「 初 々 し さ 」「 高 貴 」 な ど の 美 的 意 味 も 含 ま れ る。 そ れ と は 異 な る 美 を 持 っ た 明 石 君 の 装 束 は、 「 今 様色」に対して「唐めく」と表現されている。これは具体的な色彩 を表しているわけではないが、明石君の装束や人物造型を考える時 のキーワードになる。それは、紫上の美しさとは異なり、ぱっと映 えるような、際立つ鮮やかな美をさすと思われる。また、異国風か ら、先進性や斬新さといった意味も含まれ、その美は、時には奇抜 な 美 し さ を も 表 す の か も し れ な い。 明 石 君 は 非 常 に 自 尊 心 が 高 く、 高貴な雰囲気を醸し出している人物として描かれており、正月の衣 配りでは紫上が嫉妬するほどの衣装を与えられている。光源氏が明 石 君 と 初 め て 対 面 し た 場 面 で は、 「 ほ の か な る け は ひ、 伊 勢 の 御 息 所 にいとようおぼえたり。 」(明石 二・七七頁)と、六条御息所に 似通った雰囲気があると感じている。伊勢の御息所とは六条御息所 のことであり、明石君の高貴な雰囲気と気位の高さは六条御息所と 重なる部分がある。明石君が初めて物語に登場するのが、次の文章 である。 ……「 海竜はう の后になるべき いつきむすめ なり。心高さ苦し や」とて笑ふ。 (若紫 一・一五五頁) この「いつきむすめ」が明石君と明確になるのはもっと後である が、ここで初めて明石君が登場する。 「海竜王」とは海の中に住み、 海 や 雨 を つ か さ ど る と い う 龍 宮 浄 土 の 王 と さ れ て い る。 龍 神、 龍 王、海龍、海龍神ともいわれる。父の入道は娘の明石君に「将来の 運 命 が 外 れ る な ら、 海 に 入 っ て し ま え。 」 と 言 い き か せ て お り、 海 に 入 る こ と は、 す な わ ち 海 竜 王 の 后 と な る と い う 意 味 で あ ろ う。 「 海 竜 は う の 后 」 に な る べ く 大 切 に 育 て ら れ た 明 石 君 は、 海 と の 関 係も大変深い。光源氏が須磨から明石へ移る契機となった場面でも 「 海 竜 王 」 が 登 場 す る。 明 石 一 族 が 信 仰 す る 住 吉 信 仰 は、 光 源 氏 に と っ て も 無 縁 の も の で な い。 「 故 母 御 息 所 は、 を の が を ぢ に も の し 給ひし按察大納言のむすめなり。 」(須磨 二・四〇頁)とあるよう に、光源氏の母である桐壺更衣と明石君の父入道とは従兄妹関係に あ る。 ま た、 都 へ 回 帰 す る 際 に も 父 桐 壺 帝 が 現 わ れ、 「 住 吉 の 神 の 導 き 給 ま ゝ に は、 は や 舟 出 し て、 こ の 浦 を 去 り ね 」 と の 給 は す。 」 ( 明 石 二・ 五 六 頁 ) と あ る よ う に、 光 源 氏 の 再 起 に も 大 い に 関 わっている。光源氏は、明石姫君が生まれた時も「住吉の神のしる べ 」( 澪 標 二・ 一 〇 一 頁 ) と、 住 吉 の 神 と の 深 い 縁 を 匂 わ せ て い る。一方、明石一族の住吉信仰も、明石入道が年に二度、住吉詣を
して願掛けをしていることからも分かる。 明石君と六条御息所は、人物の醸し出す雰囲気や気質だけではな く信仰においても接点があると考える。六条御息所の娘が伊勢の斎 宮に卜定され、娘とともに伊勢へ下向することを決意した。そこで 六条御息所は、 「伊勢の六条御息所」 (明石 二・七七頁) ・(若菜上 三・二六八頁)と呼ばれるようになる。また光源氏と明石入道の琴 談義の場面では、 「伊勢の海ならねど、 「清き渚に貝や拾はむ」など 声 よ き 人 に う た わ せ て、 ……」 ( 明 石 二・ 六 七 頁 ) と、 こ こ は 明 石の海であるが催馬楽の「伊勢の海」を歌わせている。明石一族の 住吉信仰と伊勢の天照大神のつながりを示唆していると考える。 住吉の神に祈り続け、明石入道の願いは最終的に成就する。住吉 の神とは、伊弉諾が黄泉の国から帰って来た際、その穢れを落とし た時に生まれた子供である底筒男命、中筒男命、表筒男命を指す。 そ し て 伊 弉 諾 の 子 供 の う ち 最 後 に 生 ま れ た の が、 天 照 大 神、 月 読 命、素戔嗚尊である。住吉の神と伊勢の天照大神は同じ親から生ま れ て お り、 こ の こ と か ら も 住 吉 と 伊 勢 の 関 係 は 密 接 で あ る と 言 え る。住吉の神は神功皇后の新羅遠征の際の守り神としても有名であ る。 神 功 皇 后 が 三 韓 征 伐 に 向 か う 船 を 守 護 し た の が 住 吉 の 神 で あ る。それは、 『古事 記 )(1 ( 』中巻に記されており、 「爾具請之、今如此言 教 之 大 神 者、 欲 知 其 御 名。 卽 答 詔、 是 天 照 大 神 之 御 心 者。 亦 底 筒 男 ・ 中筒男 ・ 上筒男 三柱大神者也。 〔此時其三柱大神之御名者顕也〕 」 とある。住吉の神に護られ、征韓後、懐妊していた神功皇后は、筑 紫 で 応 神 天 皇 を 生 む。 そ れ を 知 っ た 仲 哀 天 皇 の 子( 異 腹 の 兄 た ち ) が反乱を起こすが、それを制圧し、応神天皇即位まで皇后のまま摂 政をしたとされる。応神天皇の即位は、この住吉の神の力なくして は成立しなかった。応神天皇は胎内にいる時に都から遠い朝鮮半島 に渡り、そして九州の地で生まれた。都へ戻る際には、兄たちが反 乱を起こしたため、その目を避けるために死亡したことにされ、流 浪を余儀なくされた。住吉の神の加護で復権した光源氏も、畿内の 須磨から畿外である明石へ移り、力を増して京へ戻った。また娘の 明石姫君は、応神天皇と同様に畿外で生まれ、上京後すぐに洛中へ 入らず、しばらくは郊外の大堰で過ごした。これは、応神天皇の生 い立ちと重なる部分がある。強固な力を持つためには、一度都から 遠く離れた異境の地に赴くことが必要不可欠の要素のようだ。後に 明石姫君は中宮になることから、性別こそ違えど、王権に大きく関 わっていることは間違いない。都から離れた伊勢の天照大神と住吉 の三神との関係は、そのまま伊勢の斎宮の母である六条御息所と明 石君との深い関係となる。 六条御息所は生き霊となって多くの女性に取り憑いた。しかし明 石君と明石姫君には取り憑かない。天つ神と海つ神とが手を携えた ことにより光源氏の栄華は保障され、よって明石一族には祟らな い )(1 ( と久富木原玲はいう。光源氏は天つ神と海つ神の二つの神の加護を 受け、そして、それぞれの娘は中宮となる。明石姫君の裳着の儀式 の際、秋好中宮が腰結いを行う。腰結いは親族中、徳望のある人が 選ばれるようだ。秋好中宮と明石姫君が親族関係にあったかどうか は、物語の中で明らかにされていないが、伊勢の天照大神と住吉の 神との縁から、親族関係と同等、もしくはそれ以上の深い縁がある と 思 わ れ る。 六 条 御 息 所 の 娘 へ の 思 い を 明 石 君 に 背 負 わ せ る 形 で、
物語は展開している。六条御息所の娘は、光源氏に庇護され、冷泉 帝の中宮となる。そして明石姫君の裳着の腰結いも任され、秋好中 宮の立場はさらに安定したものとなった。また、明石一族は六条御 息所の思いだけではなく、桐壺更衣の遺志も受け継ぐ。桐壺更衣は 志 半 ば で こ の 世 を 去 る こ と に な る。 桐 壺 帝 と の 別 れ の 場 面 で も、 「 生 」 に 対 す る 執 着 は 非 常 に 強 い。 父 大 納 言 の 遺 言 が あ り、 実 家 の 期待を一身に受けて入内した桐壺更衣である。命が尽きようという その時、その無念の思いはひとしおであったろう。その無念の思い を桐壺更衣はこの明石一族に託したのである。桐壺更衣と明石入道 は従兄妹関係にあることから、同族である。また、明石君に象徴さ れ る「 唐 め く 」 が 使 用 さ れ る 人 物 は、 光 源 氏 と 桐 壺 更 衣 だ け で あ る。明石君と桐壺更衣は控えめでありながら、自らの意志は非常に 強いという点でも共通している。このように見ると、明石一族を代 表する明石君は、桐壺更衣と六条御息所という亡き人の執を背負っ て明石から上洛したことになる。次の文章からも、最終的に六条院 の女性の中で最も安定した幸福を手に入れたのは、明石君といえる のではなかろうか。 二 条 院 と て 造 り み が き、 六 条 院 の 院 の 春 の お と ゞ と て 世 に のゝしる玉の台も、 たゞ一人の御末のため成けりと見えて、明 石の御方は、あまたの宮たちの御後見をしつゝ 、あつかひきこ え給へり。 (匂宮 四・二一四頁) 『 竹 取 物 語 』 で は 大 伴 御 行 が 龍 の 首 の 玉 を 求 め て 筑 紫 へ 向 か う が 暴風雨に遭い、船が数日後に明石に流れ着いたとある。風によって 戻ってきた場所が明石であり、明石は都へ戻る起点になる。光源氏 が須磨から明石へ移ったのも、都へ回帰するためのものであった。 光源氏の復権は住吉の神の力によるものであり、京へ戻る途中にも 住吉詣をしている。そして、帰京して翌年の秋、そのお礼参りとし て住吉詣をする。光源氏を復権させ、明石一族を政治の中心へ導い た の は 紛 れ も な く、 住 吉 の 神 に よ る も の で あ る。 明 石 一 族 の 繁 栄 は、その住吉の神と同じ親から生まれた天照大神も抜きにしては語 れない。 おわりに 「 二 藍 の 帯 」 を 境 に、 赤 の 世 界 に 青 の 世 界 が 目 に 見 え る 形 で 登 場 することになるが、実は、それ以前に青の世界が見え隠れする場面 がある。 光源氏と頭中将が舞う「青海波」は、紅葉巻で登場する。この舞 楽 は、 青 色 の 袍 に 葡 萄 染 の 赤 系 統 の 下 襲 を 着 用 し て 舞 う が、 『 教 訓 抄 )(1 ( 』 で は「 青 海 波 ハ 竜 宮 ノ 楽 也 」( 巻 三 ) と あ る。 こ の「 青 海 波 」 を舞う(光源氏十九歳)少し前に、わらは病みを患っていた光源氏 が加持祈祷をするため北山に行く場面がある。その際(光源氏十八 歳 )、 播 磨 の 明 石 に 住 む 入 道 と そ の 娘( い つ き む す め ) の 話 を 供 人 か ら 聞 く の で あ る。 そ れ は 紫 上 と の 出 会 い の 場 面 で も あ る。 作 者 が、光源氏にとって重要な人物を同時期に物語上に登場させたのは 深い意味があろう。つまり、紫上の赤と明石君の青はどちらかが先 に現われたのではなく、最初から物語の中に登場し、赤と青がその 時々に応じて前に出たり後ろに下がったり、また赤と青が同時に現
われることを示唆しているのではないか。登場の順番としては、明 石 君 が 紫 上 よ り も 先 に 登 場 し て い る こ と に な る。 や は り「 青 海 波 」 を 舞 っ た 時 に は、 す で に 二 人 は 物 語 中 に 登 場 し て い た こ と に な り、 赤の世界を主としながらも、青の世界がその裏で存在していたと考 えられるのではないか。 平 安 京 を 守 護 す る 賀 茂 神 の 系 列 に あ る 葵 上、 紫 上、 女 三 宮 な ど は、 六 条 御 息 所 の 怨 霊 に よ っ て 死、 病、 出 家 な ど を 強 い ら れ た。 神々の世界が女性たちの背後にあり、それらが『源氏物語』の最初 から存在しており、時には前へ出、時には後ろへ下がり、または競 い合うという構図をとっている。赤系統の賀茂神の女たちと青系統 の住吉の神の明石君に伊勢の天照大神(六条御息所)が寄り添う形 で、 二 つ の 赤 と 青 の 世 界 が 拮 抗 す る 形 で 物 語 は 展 開 す る。 「 二 藍 の 帯」は見方を変えれば、赤の世界に青の世界が新たに誕生した瞬間 ではなく、むしろ、最初から赤と青の世界が混在していることの象 徴 な の か も し れ な い。 「 二 藍 の 帯 」 は 赤 と 青 の 二 つ の 色 を 混 ぜ 合 わ せることでその色を作り出す。よって、紫に近いものから青に近い ものまで幅があるが、その「二藍の帯」の中には必ず赤と青の二つ の世界が存在しているということを表しているのかもしれない。 赤系統の賀茂神の女たちの中へ、畿外である明石から上洛した青 系統の明石君が新しい風を吹き込んだ。六条院の冬の町が他の町と 異なる趣向で造られているのは、そのような意味があり、従来ある ものの中へ異国の雰囲気を持った明石君を存在させることで、刷新 させようとしたのではなかろうか。そして宇治十帖に移り、色なき 世界となる。正編は赤と青の神々の世界、宇治十帖は仏教の世界と 言えるのではないか。また、重要な人物でありながら、装束表現が あえてなされない人物がいる。描かれないことによって何らかの意 味が込められているものと考えられるのであった。装束表現がある こと、ないこと、それ自体に何らかの意味があり、物語の構造を掴 む大きな手掛かりとなる。 注 (1)河添房江『源氏物語と東アジア世界』 (NHKブックス 二〇 〇 七 ) に は、 「『 源 氏 物 語 』 に あ っ て、 唐 土・ 高 麗 の 文 化 的 ジ ェ ン ダ ー が 浮 か び あ が る 唐 物 の 所 有 と 授 受 は、 贈 る 側 と 贈 ら れ る 側 の 関 係 性 の な か で、 光 源 氏 の 魅 力 や 権 力、 そ の ゆ ら ぎ や 解 体 の 表 徴 と し て 作 用 し た。 ま た、 光 源 氏 に か か わ る 女 君 た ち の 差 異 の 体 系、 さ ら に は そ の 変 容 の 喩 と し て も よ み が え り、 物 語 世 界に陰翳をあたえていた。 」とある。 (2)吉野誠「 『源氏物語』第一部の服飾表現」 (『王朝文学と服飾・ 容飾』 竹林舎 二〇一〇) (3)池田節子「 『源氏物語』第二部の服飾」 (『王朝文学と服飾・容 飾』 竹林舎 二〇一〇) (4)伊原昭『平安朝の文学と色彩』 (中公新書 中央公論新社一九 八二) ( 5) 玉 上 琢 彌 編『 紫 明 抄 河 海 抄 』( 角 川 書 店 一 九 六 八 ) に は、 「一 物語の時代は醍醐朱雀村上三代に准スル歟桐壺御門は延喜 朱 雀 院 は 天 慶 冷 泉 院 は 天 暦 光 源 氏 は 西 宮 左 大 臣 如 此 相 當 ス ル 也
桐 壺 巻 に 最 初 に 両 所 ま て と り わ き て 亭 子 院 の 御 事 を 載 せ た り 是 御 遺 誡 也〈 こ の こ ろ か け く れ 御 ら ん す る 長 恨 哥 の 御 絵 亭 子 院 の か ゝ せ 給 へ る を そ 枕 こ と に せ さ せ 給 云 々 又 こ ま う と を 宮 の う ち にめさんことは宇多の御門の御誡めあれはと云々〉 」とある。 ( 6) 伊 原 昭『 源 氏 物 語 の 色 い ろ な き も の の 世 界 へ 』( 笠 間 書 院 二〇一四) (7) 『日本歴史大事典』 (小学館 二〇〇〇) (8) 『日本国語大辞典』 (第一版 小学館 一九九二) (9) 「今は昔、小野宮殿の大饗に、九条殿の御贈物にし給たりける 女 の 装 束 に そ へ ら れ た り け る 紅 の 打 た る ほ そ な が を、 心 な か り け る 御 前 の 取 は づ し て、 遣 水 に 落 し 入 り た り け る を、 則 取 あ げ て、 う ち ふ る ひ け れ ば、 水 は は し り て、 か は き に け り 。 そ の ぬ れ た る か た の 袖 の、 つ ゆ 水 に ぬ れ た る と も 見 え で 、 同 じ や う に 打 目 な ど も あ り け る。 む か し は 打 た る 物 は か や う に な ん あ り ける。 」( 『宇治拾遺物語』九七「小野宮大饗事 付 西宮殿 冨 小 路 大 臣 等 大 饗 事 」 新 日 本 古 典 文 学 大 系 ) と あ り、 水 に 落 ち た 紅( 今 様 色 ) の 細 長 で あ る が、 砧 で 打 つ と 艶 が 出 る だ け で は な く、 繊 維 が 締 ま る こ と で 水 に 落 ち て も 水 を 弾 い て 濡 れ な く な る よ う だ。 そ の 意 味 で も 非 常 に 貴 重 な も の と し て 扱 わ れ て い た の ではないか。 ( 10)吉岡幸雄『 「源氏物語」の色辞典』 (紫紅社 二〇〇八)には、 「 紫 草 は ム ラ サ キ 科 の 多 年 草 で、 日 当 た り の よ い 草 地 に 生 育 し、 五 月 末 か ら 六 月 に か け て 白 い 花 を さ か せ る。 染 色 に は 赤 み を 帯 びた根の外皮を使う根を掘り起こし、石臼で搗いて砕いたのち、 麻 袋 に 入 れ、 湯 に つ け な が ら 表 面 に 凹 凸 の あ る 板 の う え で 揉 み 込 ん で 色 素 を 取 り だ す。 染 め た 糸 や 布 は、 椿 の 生 木 を 燃 や し て つ く っ た 灰 汁 で 媒 染 す る。 紫 草 は、 環 境 の 変 化 に た い へ ん 脆 弱 な 植 物 で あ る た め、 現 在 で は 自 生 す る 紫 草 を 見 る こ と は 極 め て 稀 で あ る。 王 朝 の 昔 で も 希 少 か つ 高 価 な 植 物 染 料 で、 そ れ だ け に権力財力ともに超一流であったと想像していい。 」とある。 ( 11) 木 谷 眞 理 子「 源 氏 絵 の 服 飾 表 現 」( 『 王 朝 文 学 と 服 飾・ 容 飾 』 竹林舎 二〇一〇) ( 12)『 源 氏 物 語 古 注 釈 集 成 1 松 永 本 花 鳥 余 情 』( 桜 風 社 一 九 七八) ( 13)『日本古典文学大系 古今著聞集』 (岩波書店 一九六六) ( 14)『日本古典文学全集 古事記』 (小学館 一九七三) ( 15)久富木原玲『源氏物語 歌と呪性』 (若草書房 一九九七)に は、 「……このように、明石の君もまた明らかに神のイメージを 背 負 っ て い る。 そ れ は、 斎 宮 が 伊 勢 神 宮 と い う 天 つ 神 に 仕 え る の に 対 し、 明 石 の 君 は 住 吉 明 神 と い う 海 つ 神 に 関 与 す る か ら で あ ろ う。 源 氏 は 明 石 の 君 と 六 条 御 息 所 の ふ た り を 妻 に す る こ と に よ っ て 天 つ 神 と 海 つ 神 の 加 護 を 得 る こ と に な っ た の だ。 こ の こ と は、 ふ た り の 娘 が と も に 中 宮 に な り、 源 氏 の 栄 華 を 支 え る 点 に 端 的 に 示 さ れ て い る。 明 石 一 族 が 六 条 御 息 所 に 祟 ら れ る こ と な く、 御 息 所 の 故 地 に 建 て ら れ た 六 条 院 で 繁 栄 す る の も 当 然 のことといえよう。 」とある。 ( 16)『日本思想大系 23 古代中世芸術論』 (岩波書店 一九七三)
* 『 源 氏 物 語 』 の 本 文 引 用 は 新 日 本 古 典 文 学 大 系( 岩 波 書 店 ) に よった。巻名・冊数・頁数を表記した。 *傍線・波線を施し、省略を……によって示した。 *旧字体で表記できない場合は、新字体によって表記した。 (まつおか かなこ・兵庫県立加古川北高等学校)