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音楽家の教育史的背景 ~ヨーロッパにおける「音楽家」とキリスト教的教養の関係に注目して~

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(1)Title. 音楽家の教育史的背景 ∼ヨーロッパにおける「音楽家」とキリスト教的 教養の関係に注目して∼. Author(s). 小野, 亮祐. Citation. 釧路論集 : 北海道教育大学釧路校研究紀要, 第49号: 117-121. Issue Date. 2017-12. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/9853. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) 釧路論集 -北海道教育大学釧路校研究紀要-第49号(平成29年度) Kushiro Ronshu, - Journal of Hokkaido University of Education at Kushiro - No.49(2017):117-122. 音楽家の教育史的背景 ~ヨーロッパにおける「音楽家」とキリスト教的教養の関係に注目して~ 小 野 亮 祐 北海道教育大学釧路校音楽教育教室. A Study on the educational-historic Background of Occidental Musician ONO Ryosuke Department of Music Education, Kushiro Campus, Hokkaido University of Education. 従来、音楽家についての研究として挙げられるのは、まずは作品そのものとその変遷の研究であったり、作品を中心と した伝記的研究、そして音楽を取り巻く社会との関連からの記述である。つまり、専門的な音楽家としての活動へと特化 した視点に基づくものである。本研究では少し視点を異にして、音楽家の「修行時代」に焦点を当てながら、音楽史上少 なからぬ音楽家が音楽的に専門化されていない学校に通い、一見関係のない教育を受けているかのように見える経歴を経 ていることに着目して、音楽家の教育史的背景について考察を行った。その結果、中世以来の西洋のキリスト教的教養に 基づく学校制度において、当初より音楽が必要不可欠とされ、少なくとも近世(18世紀頃)まではその制度の中で音楽教 育の機会があったこと、加えて18世紀まではおもに宮廷において音楽家にも大学レベルの学識を要求される可能性があっ たことが明らかになった。これらは西洋の学校制度の史的展開や学識・教養論の歴史ともパラレルでもあり、加えて19世 紀以降学校制度が教会を離れ、世俗化・国家化されていくにつれ、音楽教育も教会を離れて音楽技能へと専門職化してゆ く図式を得ることが出来た。. はじめに. ニヌスLeoninus(レオナン:1150-1201 ?)、ペロティヌス. 西洋音楽の通史を学ぶと、まず古代(ギリシア)および. Perotinus(ペロタン:1160-1230)だろう。両者とも詳し. 中世から学び始める。中世の音楽は、古代の音楽文化の理. い経歴は不明とされているが、パリのノートルダム大聖堂. 1. 論的な片鱗を受け継ぎながら 、キリスト教文化の中の音. とその修道院のMagisterと記録されており、何らかのキリ. 楽を中心にさらなる発展があるものとして記述されること. スト教的教育を受け教養を持った指導者、教師であったと. が多い。もちろん、ミンネゼンガー、トルバドール、トル. 考えられる。また、詳細については後述するが、中世は音. ヴェールなどの貴族的な世俗音楽についても記述され、あ. 楽が大学で学ぶべき学問の一つとして、ラテン語で書かれ. る程度はバランスが図られているものの、やはり宗教音楽. た音楽論が講じられ、学生はそれを学ぶことが必須とされ. が主要な記述対象である。その理由としては、後のいわゆ. た。つまり、当時音楽はキリスト教的な教養を背景とした. るハイカルチャーたるクラシック音楽に直接連なるものと. なかで学ばれる主要なディシプリンの一つだった。. して、実証的な違和感のない一連のストーリーとして記述. 次のルネサンスの時代以降になると、こうしたディシプ. 2. することが可能だからだろう 。. リンとして音楽が扱われなくなり、世俗の音楽の時代へと. その中世に活躍した人物として、まず現れるのはグレ. 向かうように記述される。だが、一気に時代は下って17・. ゴリウス聖歌にその名を残すローマ教皇グレゴリウスI世. 8世紀の音楽家たちを見てみても、少し違った形ではある. (540?-604)であるが、続いて外せないのはグレゴリウス. ものの、やはりキリスト教的な教養の伝統の中で育った. 聖歌の発展的様式たるオルガヌムの分野の第一人者、レオ. 音楽家像がみられる。たとえば、(ドイツ・プロテスタン ト系の音楽家に偏ってしまうが)テレマンGeorg Philipp. 多くの西洋の学問がギリシャ発、アラブ経由でまた中世. Telemann(1681-1767)やクーナウJohann Kunau(1660-. の中央ヨーロッパに流入する形で述べられるが、音楽もそ. 1722)、ヘンデルGeorg Friedrich Händel(1685-1759)があ. のような経過をたどるものと思われる。. げられる。彼らは音楽史ではペロティヌスやレオニヌス. 2. のように宗教音楽の文脈の中でのみではなく、宮廷などの. 1. 世俗音楽となると、オーソリティーが記述を残さないの. で、歴史の俎上には上がってきにくい。. 世俗的な音楽の場でも活躍した人物である。しかし彼らの. - 117 -.

(3) 小 野 亮 祐 通った中等教育学校は、ラテン語学校などといった様々な. はじめた。. 呼称で呼ばれる教会に付属した、キリスト教的な教養をも. それらの学校は今日のように統一された制度のもとでカ. とにした教育機関である。さらには、付属している教会の. リキュラムやクラスなどが定められたものではなく、その. 礼拝で演奏する目的のために、しばしば音楽が主要な教授. 教育水準や設備、人的資源も様々だったようである。しか. 科目となっている場合があった。なおかつ音楽活動に与す. し、そこで施された教育は、基本的には聖書を覚えること. る生徒については学費が援助される (免除されるなど)ケー. であり、またそれについて注釈することであった。 その為、. スもあり、いわゆる今日に想像されるような芸術教育とし. 今日的に言う初等教育の段階では、読み、書き、歌唱、算. てのそれではなく、教会、生徒双方にとって実利的な意味. 術(リシェ 2002; p.228)、ラテン語(リシェ 2002; p.334f.). 合いがあったようでもある。つまり、このような学校は音. であったという。特に初等段階では詩篇を暗記することが. 楽との結びつきが強いのだ。さらに指摘されるのは、先に. 念頭に置かれていて、読み、書き、ラテン語はそのために. 挙げた3人とも大学を経ていることである。当時は、大学. 必須のものとして教えられていた中心的な教育内容であ. がキリスト教的教養の最高学府であった中世以来の学問構. る。今日的な視点で当時の初等段階の教育内容を見れば、. 造をそのまま学部構成に温存しているほぼ最後の時代であ. この中で算術と歌唱は異質なものである。算術は正確には. る。. 暦の学習を指しており(リシェ 2002; p.232.) 、すなわちこ. このように、これら18世紀の3名と中世の2名は音楽史. れはキリスト教における重要な祭日の算定方法を学ぶもの. 記述の中では違った形で描かれることが多いものの、教育. であったという。そして、本論での主題となる歌唱である. 史的背景としてはおなじキリスト教的教養(の伝統)のな. が、これは先にあげた詩篇またはその他のラテン語で書か. 3. かで音楽家(と今日呼ばれうるものに)なったと言える。. れた文章を暗記するための手段として学ばれた。歌唱の目. そして、そのような教育機関においては音楽が密接に関連. 的が暗唱ではあるものの、そうして典礼(礼拝)に必要な. していることがわかる。そこで本論では、少なからぬ音楽. センテンスなりを歌として暗唱した生徒たちは、実際の教. 家が修行時代に過ごしたキリスト教的な教養を源流・背景. 会における聖務に参加し覚えたとおりに式次第に沿って. に持つ西洋の学校について、その歴史を整理し、従来あま. 歌ったという。詩篇の暗唱という目的であったとは言え、. り指摘されてこなかった教育史的な流れと音楽家との関係. 当初の音楽教育のリアルな姿がこのようなものであったと. を検討してゆきたい。. 言うことが、キリスト教的教養の背景から浮かび上がって くる。また、これらの学校の他に、更に専門的な教育を施. 1,中世における学校の成立、及び近世における学校と音. す学校があったという。その中には文字を書くことに特化. 楽の関係. した学校や、歌唱の学校があった。歌唱の学校はヨーロッ. 前項で述べたように、中世のヨーロッパの学校はキリス. パ各地に設立されたようで、特にローマのそれは各地から. ト教的教養を背景として成立したものであった。これは取. 学生をひきつけたという。その教育内容としては、先に述. りも直さず教育史や西洋中世史の中でよく言われているよ. べた初等学校と同様に、キリスト教的教養の基礎を学びつ. うに、学校が原則的には教会において職務を果たす人物を. つ、韻律やそこから生まれるリズムと音楽の関係を学んだ. 養成する目的で設立されたからにほかならない。ヨーロッ. という。生徒の中には歌うことだけ、すなわちただの技術. パ全土に広がっていた古代ローマの教育内容を持つ学校が. 教育と考えていたものもいたようだが、設置者・管理者は. 衰退し、キリスト教的な教養を背景するとする学校へと入. それを咎めている(リシェ 2002; p.247.)ことからは、や. れ替わって行くのは中世初期の6~7世紀頃とされる(リ. はりキリスト教的教養を背景にした歌唱が求められていた. シェ 2002:p.3f.) 。その後、フランク王国のカロリング王. ことが明らかである。. 朝の君主によってキリスト教を主軸とした教育制度が整備. 中等教育の段階では、自由七学芸を学ぶことが中心とな. され、また文化が花開いてゆくことで、 (カロリング・ル. る。文法(ラテン語) 、修辞、弁論の文系3科と、算術、幾. ネサンス)その後の西洋における学校教育の性格が基礎づ. 何、天文、音楽の理系4科である。自由7学芸はそもそも. けられていった。. 古代ギリシヤ、アリストテレースの時代にまで遡れるいわ. 10世紀ごろからは、それまでも学問やキリスト教的教養. ゆる一般教養であるが、古代ローマの学校に引き継がれ、. の集積地であった修道院が改革されて学校のような様相を. それがさらに中世のキリスト教的教養の中に流れ込んでい. 呈し4(リシェ 2002:p.193) 、また一方で各地の都市に学. る5。後に成立した高等教育(大学Universitas)の予備段. 校が設立され始め、いわゆる後の学校教育の形式が成立し. 階にもこれらの7科は食い込んでゆくが、中等段階でも理 系科目の一つとして音楽が教えられていた。ただし、中等. 3. ここまでの記述で暗示してきたように、 「音楽家」とい. う言葉の今日的な定義を単純に当てはめることができない. 4. が、便宜上そう呼ばざるを得ないので、そう呼ばれうるも. の教師を務めたものと想像される。. のとして「音楽家」という言葉を本論では使用する。. 5. 先に上げたペロティヌスやレオニヌスはこのような学校 ここでは詳述しないが、古代ギリシャとキリスト教との. - 118 -.

(4) 音楽家の教育史的背景 段階におけるそれは、前述の初等段階やその延長の専門教. いる。. 育としての歌唱学校とは異なり、古代の数比による音響理. その中で、大学成立当初の大卒者の官僚たる能力を担保. 論を出発点とした理論的な音楽の理解が中心であった。し. したのは文字の威力であったという(西村1998:p.25.)。. かし、その中には、ボエティウスの音楽論De Musicaのよ. 19世紀に至るまで、文字の読み書きができる人はそれほど. うな思弁的音楽でもありつつ、一方でMusica Enchiriadis. 多くなかったことはよく知られる。その上にラテン語の読. のような、種々のオルガヌムの作例を掲載したような、鳴. み書きができるというのは、ほんの一握りの人々であり、. り響く音楽を取り扱うものなどさまざまとあり、実践的な. それだけでも特権的であった事がわかる。前項で見たよう. 音楽が全く取り扱われなくなったわけではないようであ. に、文字を書くこと、読むことの教育を学校は独占してき. る。. たのであって、当初は読み書きの能力を持った人物は聖職. 以上のように、中世のキリスト教的な教養を基礎にして. 者にほぼ限られていた。世俗領主たちは、当初から読み書. 成立した学校においては、音楽は必須のものとして取り扱. きをする能力が必要とされる地位の高い役人には、大学を. われていたことがわかる。このようにして出発した学校に. 卒業した聖職者を使ってきたという(西村1998:p.23) 。. おける音楽の伝統は、ドイツの宗教改革においてとりわけ. その大学は、前項で見たような学校とは別に、12世紀~. ルター派地域で大きく変容し音楽史に影響を与えた。その. 13世紀にわたって徐々に自然発生的に成立したという。も. 中心人物であったルター Martin Luther(1483-1546)やメ. ちろん、教える人は教会関係者であったことから6キリス. ランヒトンPhilipp Melanchthon(1497-1560)により聖書. ト教会的な教養のあり方の延長上にあったことは間違いな. を理解するためのラテン語教育と、宗教的な見地から彼ら. いだろう。その例にもれず、古典のテクストを読む講義で. が重要視した音楽教育に力点がおかれた。その動きはとり. あったり、そのためのラテン語、ギリシア語の高度な文法. わけ中等学校において大きく影響し、先に述べた中世に成. が講じられた。後には、自由7学芸を教授内容とした入門. 立した中等学校における音楽教育の興隆を促したのだっ. 課程の学芸学部、そして上級課程である法学部、医学部、. た。以上のような史的展開の結果、いわゆる音楽活動を重. 神学部が設置され、一応の形が完成した。学芸学部で教え. 要視したプロテスタント地域のギムナジウムが成立し、そ. られた内容は、中等学校のそれと重複するものではなく、. れは18世紀終わりに至る学校の世俗化と国家化、それに伴. 更に高度な内容であったと言われる。そして音楽も当初は. う宗教音楽の衰退まで継続される。前項で挙げた3人のド. 大学の学芸学部で講じられたという。. イツ18世紀の音楽家はこのような背景を持った教育を受. 現在では学校制度として、初等教育→中等教育→高等教. けた人物たちであった。教育史の展開としてはドイツ、プ. 育という教育レベルごとの接続を考慮した流れが規定され. ロテスタント地域に限られた事項ではあるものの、その後. ていたが、18世紀までは学校ごとの接続を考えるというこ. の音楽史上の影響を勘案すると、ただの一地域の動きとし. とはほぼなかったので、制度としてはなかったと言ってよ. てのみ解釈したのでは過小評価との誹りを免れ得ないだろ. い。せいぜいのところ中等教育から高等教育の流れが習慣. う。. 的にできていた程度であった。とりわけ初等教育について. 本項では中世における学校の成立史に重点を起きなが. は、現在のような普通義務教育として行われるわけでもな. ら、近世に至るまでの初等・中等学校における音楽の位置. く、制度化された初等教育も17世紀から実験的に各地で局. を見てきた。次項では一旦初等・中等学校から離れて、キ. 所的に行われている程度である。ラテン語の読み書きがで. リスト教的教養の世俗的な影響力を確認し、その影響力の. きて、学費が工面できるのであれば、大学には入れるとい. 基礎となった大学の動向を整理して違った角度から音楽家. うことだったが、そのような予備教育はやはり教会に付設. と学識との関わりを考察したい。. された学校や、大卒者の家庭教師に独占されており、やは り教会的教養の背景を持った人々に限られていたと言って. 2,学識および大学と音楽家との関係. 良いだろう。はじめにで挙げた3人の音楽家は、卒業はし. 西村(1998)ではこの、キリスト教的教養を背景として. ていないものの大学で修学しており、こういった学識を背. 成立した大学(および、そこで得られた学識)と、官僚と. 景にして高い地位を持った、あるいは持つ可能性のある人. の関係を中世から19世紀に至るまで詳らかにしている。つ. 物であったといえるのだ。. まり、キリスト教的教養によって成立した大学の展開と、. ここで有名なヴォルフガングの父である、レオポール. 大卒者官僚の能力を保証してきたのが実学的な知識技能で. ト・モーツァルトLeopold Mozart(1719-87)を例に見て. はなく、むしろそこからかけ離れてさえあった学識であ. みよう。彼はアウクスブルクに製本職人の息子として生ま. り、それが教養へと変遷する歴史的様相をあきらかにして. れ、後に聖職者になるべく当地の聖ザルヴァートル神学院. 関係、その和解の結果としてのスコラ哲学の流れについて. 6. は多くの教育史や思想史で扱われている。音楽もその流れ. 度な学問を志した学生が集まり、教室が開かれたりするこ. に与していることだけ確認しておきたい。. となどから始まったという(眞壁ほか 2016:p.56) 。. 例えば、パリ大学の前身は教会参事会員の自宅などで高. - 119 -.

(5) 小 野 亮 祐 で学んだという。この学校は、初等から中等、一部は大学. たことから、音楽職と官職を兼ねることも特別なことでは. 教育を含むような非常に高度な教育が受けられる学校で. なかった。また、宮廷楽長は何よりマネージャーでもあっ. あった。先に述べたようなラテン語の知識をはじめ、キリ. た。先に挙げたモーツァルト(父)も最後は副楽長をつと. スト教的な教養を身に着けた。父が早くに亡くなったこと. めたが、単なるザルツブルク宮廷楽団の音楽家のナンバー. により、課程の最後までは修めることはできなかったもの. 2ということだけでなく、楽団のマネージメントを行う官. の、ザルツブルクの大学に入学する。そこで学業を修めた. 職でもあったと考えるほうが妥当であろう。そういう意味. 後に、まず就職したのが貴族の近侍であったという(久保. では、先に伯爵の近侍をつとめたことと(職務内容は異な. 田2014:p.51)。この職業は秘書のようなもので、家庭教. るかも知れないが)レオポルトの副楽長職は、同じ学識や. 師などと並び当時の大卒の人物がまず就く職業の一種で. 専門知識が要求される職業文化のなかに捉えることができ. ある。後に彼はよく知られるように、ザルツブルクの宮. る。. 廷楽団に入団(就職)し、最後に副楽長を勤めた。このよ. 音楽史では宮廷楽長というと、音楽的能力が他の音楽家. うな大卒で、音楽と全く別の職を経験する音楽家はしば. よりも優れ、作曲及び楽団の指導・指揮をする人物と、音. しば見られたものと思われる。その例として、少し時代. 楽能力に関わるところのみに注目されがちである。しか. は下るがワーグナーの音楽教師でもあったヴァインリッ. し、その演奏機会ごとの人員の手配や楽譜の手配など、い. ヒChristian Theodor Weinlig(1780-1842)が挙げられる。彼. わゆる事務的な職業でもあった。当時の国家化された大学. は、ライプツィヒ大学の法学部で学んだ後、しばらく弁護. のもとでは、経済学や官房学などが講じられ始めたのだが. 士活動を行ってから、音楽家としてドレスデン・聖十字架. (プラール1988:p.148)、更に想像をたくましくするなら. 教会カントールや、ライプツィヒのトーマスカントールを. ば、キリスト教的教養を背景とした学識以上に、宮廷楽長. つとめた。. にはそのようなマネージメントにつながるような専門的な. こうした大学での学識と音楽家との関係は、宮廷におい. 知識の要求が強くなっていたとも考えられる。. ても見られる。先に述べたように、中世の頃から世俗の宮 廷における官職は大学の学識を背景にしていた。宮廷にお. 3,音楽家の「音楽技能職」としての専門化. ける音楽を担うのは宮廷楽団であるが、ドイツ語圏ではも. 1で述べたように、学校においてはキリスト教的な教養. ともとは宮廷の礼拝堂Kapelleのための音楽家だった 。つ. を背景にして音楽が必ず何らかの形で組み込まれていた。. まり、宮廷の音楽家ではあったが教会の音楽家だったので. これは、学校には教員のポストに音楽を主ななりわいとす. ある。のちに、とりわけオペラなどを担うなど世俗化をた. る人物がいたことを意味する。実際、有名なバッハJohann. どり世俗音楽を主に担当するのだが、その経過の中で、. Sebastian Bach(1685-1750)は最終的にカントールとい. 17世紀以降は宮廷楽長は官職化(Hausoffizier)してゆく. う役割についたが、これは狭義にはラテン語と音楽を担当. (Salmen 1997)。つまり、聖職者的な音楽家の地位では. する学校の教師であった。中世以来、学校における音楽教. なく、大卒の学識的背景を持つ官職的な意味を持つように. 師はキリスト教の制度の中で音楽活動をしていたが、19世. なる。大学も折しも世俗化の流れをたどっており、17世紀. 紀を迎えて専門職化してゆく。つまり、キリスト教的教養. 以降は国家の組織とされてゆくようになっていく。15世紀. の中で必ずしも彼らが位置づけられなくなることを意味し. の宗教改革を境目に、宗教と世俗権力との権力バランスが. た。19世紀以降ドイツでは公的な学校はより国家の施設と. 崩れ、世俗権力の方が宗教を傘下に収めてゆきつつあった. しての意味合いが強くなり、教育内容に中世以来の内容が. からである。宗教的な背景を基礎にしていた大学も、いわ. 含まれていたとしても、その目的及び性格は異なってゆく. ゆる国家のための大学と化してゆかざるを得なくなってい. ことになる。それにともなって学校の教師は、国家の管理. た。これはつまり、学識を背景にするだけでなく、その目. の元に養成されるようになる。音楽教師も同様であった。. 的についても世俗の官僚を養成する教育機関となり代わっ. 初等教育が確立され、その中で音楽が教えられたが、その. てゆく。このような流れで、官職化された宮廷楽長も大学. 教師は教員養成所Lehrerseminarや、教会音楽学校で養成. レベルの学識や官職を全うするだけの専門知識を要するよ. された教師によって教えられるようになる(Bayreuther,. うになっていたとも推測される。カッセルの宮廷楽団で. 2015) 。音楽とキリスト教的教養との関係がますます乖離. は、1627年に大卒の宮廷楽長シンメルを迎えたが、彼の地. してゆき、世俗的な論理の中で専門化が進められてゆく。. 位は、 宮廷のOber Cammerdiener(上級近侍)でもあった。. それを如実に示しているのは、教会とは関係のない背景を. その他の楽団では、大臣や官職を本職とする人物がエキ. 持った音楽学校の設立である。その嚆矢が、現在のパリの. ストラのように宮廷楽団のリピエノに加わったこともあっ. コンセルヴァトワール(高等音楽学校)である。以前より. 7. 8. 7. 現在でもオーケストラをカペレ Kapelle、指揮者のこと. ナポリ、ヴェネツィアなどにあった。ヴェネツィアのそ. をカペルマイスター Kapellmeister と呼ぶオーケストラが. れは4つあり、ヴィヴァルディが指導していたことで有名. あるが、それはかつての名残である。. な女子孤児院でもあった。詳しくは Cafiero,(2005) (ナ. - 120 -.

(6) 音楽家の教育史的背景 イタリアにもコンセルヴァトーリオConservatorio8と呼ば. タスをおびるようになる(ボンズ, 2015)。これは、大学の. れる音楽教育を施す施設があったが、これは教会の慈善施. 学識論、教養論からの考察が近年なされてきている(宮本,. 設(孤児院)としての性格を持ったものである。パリのコ. 2006)が、これらとの接続関係についても視野に入れつ. ンセルヴァトワールはパリ・オペラ座との関わりを持って. つ、より西洋における教養や学識の在り方及び教育の史的. いたことから、オペラを上演する人材を育成するという観. 展開、そして音楽家の在り方との相互の関連を考察してゆ. 点から専門化された学校であった(岡田2008:p.153)。近. きたいと考える。. 代の専門的・組織的音楽教育の成立について、ほぼ唯一の 研究であるSowa(1973)では、ドイツ地域において18世. 参考・引用文献. 紀末以降、こうした学校の計画が30以上あり、その中では. Bayreuther, Rainer. (2015) Die professionalisierung der. 計画倒れに終わったものだけでも13もあることが明らかに. Kirchemusik im 19. und frühen 20. Jahrhundert.;. されている。Sowa(1973)はそれらを、音楽家による任. Kröndle, Franz und Kremer, Joachm(hrgs) Der. 意組織に基礎づけられた教育施設、国家的施設、国以外の. Kirchenmusiker. p.295-313. Laaber. 公的な施設、劇場などの音楽施設に付設された学校、個人. ボンズ、マーク・エヴァン(2015) 『「聴くこと」の革命: ベー. が独自の教授法をもって教えた学校、いわゆる近代的な音. トーヴェン時代の耳は「交響曲」をどう聴いたか (叢書. 楽大学に連なる音楽学校といったタイプにわけている。こ. ビブリオムジカ)』、アルテスパブリッシング. れらの学校もパリのコンセルヴァトワールのように専門的. Cafiero, Rosa. (2005) Conservatories and the Neapolitan. な目的に特化され、教会とは切り離されて設立されたもの. School: a European Model at the end of the eighteenth. であることがわかる。そして、これら全てが成功しその後. century? ; Musical Education in Europe(1770-1914) Vol.. に残ったわけではないものの、一部は現在もヨーロッパを. 1 Berlin, p.15-29. 代表する音楽大学として現存している。つまり、現在のい. Geyer, Helen. (2005) Die venezianischen Konservatorien. わゆる音楽家に専門化された教育及びそのための高等教育. im 18. Jahrhundert: beobachtungen zur Auflösung eines. の成立は、19世紀になってようやく始まったと考えて良い. Systems. ; Musical Education in Europe(1770-1914). だろう。. Vol. 1 , Berlin, p.31-47. 岩村清太(2007)『ヨーロッパ中世の自由学芸と教育』 、知. まとめ. 泉書房. 一般的に音楽の教育施設といえば、3で述べたような専. 久保田慶一(2014)『モーツァルト家のキャリア教育 18. 門化された教育施設が一般的であろう。しかし、そこまで. 世紀の教育パパ、天才音楽家を育てる』 、アルテスパブ. に至るまでの長い期間においては、今日の音楽専門の学校. リッシング. 組織とは意味は異なりつつも、教会及びキリスト教的教養. 眞壁宏幹編(2016)『西洋教育思想史』、慶應義塾出版. を背景とした学校施設が音楽教育の大きな位置を占めてい. 宮本直美(2006) 『共用の歴史社会学 ドイツ市民社会と. たと言える。そしてキリスト教的教養を背景に持った大学 での学識は、いわゆる宮廷音楽の担い手であった宮廷音楽. 音楽』、岩波書店 西村稔(1998)『文士と官僚 ドイツ教養官僚の淵源』 、木. 家にとってその職を官職として全うするのに要求されたも. 鐸社. のであったものと考えられた。. 岡田暁生(2008)『ピアニストになりたい』、春秋社. つまり、近世(18世紀あたり)までの文化や政治の基礎. プラール、ハンス=ヴェルナー(1988)『大学の社会史』 、. となるものが、様々な紆余曲折を経ながらもキリスト教的 な教養や学識を基本としていたことが、音楽家の修行時代. 法政大学出版局 リシェ、ピエール、岩村清太訳(2002)『ヨーロッパ成立. の過ごし方にも現れている。そして、宗教改革と啓蒙思想. 期の学校教育と教養』、知泉書房. の時代を経て、キリスト教会の威力が失われつつある時代. Sowa, Georg.(1973) Anfänge institutioneller Musikerzieung. に、音楽においても同様で、さらに音楽の技術へと焦点化. in Deutschland 1800-1843 (Studien zur Musikgeschichte. されて専門化されてゆくこととなった。. des 19. Jahrhunderts. Band 33), Regensburg. 今回はこのようなきわめて大雑把な図式を仮定的(仮設. Salmen, Walter. (1997) Musiker (Artikel), Die Musik. 的?)に描いてみたが、今後はそれぞれのフェーズについ. in Geschichte und gegenwalt (MGG2) Bd.6. Kassel.. て詳細な例とともに、現地で収集した資料を加えながら、. sp.1222-1251. より微細な検討を行ってゆきたいと考える。また、本論で は述べなかったが、音楽そのものが、中世の大卒生の権威 の源泉であった「文字」のように、 教養として一つのステー ポリ) 、Geyer,(2005) (ヴェネツィア)参照。. - 121 -.

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