中学校作文教育についての研究 : 短作文指導の理論・実践を中心に
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(2) はじめに. 作文の授業が成功したかどうかの判断は、でき上がった作品に対してではなく、その活動を通して、生徒に書. く喜びを味わわせることができたかどうかによると考える。そして、この書く喜びこそが原動力となって書く意 欲を起こさせ、書く機会が増えることで、結果として文章表現力は向上するのである。. とは言いながらも、書かなければ、書く喜びを味わうことはできない。しかし、書くことは容易なことではな. い。気軽に思いつくことを書く場合であっても、ちょっと気の利いた文章を書こうとすれば、もうそこで停滞し. てしまう経験は誰にもあるだろう。では、書くことに対する抵抗を少なくするにはどうすればよいのであろうか。. そのような思いの中で出会ったのが短作文であった。短作文はそれまでの作文︵いわゆる長作文︶と異なり、生. 徒には取り組みやすく、彼らの学習する表情にも生き生きとしたものが感じられた。しかも、短作文は指導者に とっても手軽に取り組むことができた。. また、私が勤務する滋賀県では一九九四年度の公立高校の国語の入試問題に一〇〇字以上一四〇字以内・二段. 落構成の課題作文が出題されるようになった。その後、形式に若干の変更は見られるものの、短い文章を書かせ. る出題は現在も続いている。そして、それに合わせるように、国語のワークブックにも、様々な短作文のアイデ. アが盛り込まれはじめた。確かに、ある条件を踏まえての短い課題作文は、書くことに対する抵抗感を持たせに. くい。そこで私自身は、一層、短作文に興味を持つようになった。しかし、よく考えてみると、ワレクブックの. 活用は、自分の指導と言えるものではなく、単にアイデアを調達しただけの安易なものであった。短作文教育の本 来持つ指導のねらいをつかんでいないのが実情であった。. そこで、この短作文教育の理論と実践に関する論考に考察を加えることで、これからの作文の授業に生かした いと考えたことが、本研究を進めるに至った動機である。.
(3) はじめに. 目. 序章研究の目的と内容⋮⋮・. 第一節 文章表現活動の日常化⋮⋮⋮−⋮⋮⋮. ⋮⋮一一. 三. 次. 第二節 短作文教育の意義と方法・⋮・. ⋮−−一九. 第一章 作文教育の現状と短作文教育. 第三節 作文教育における短作文の位置・・. 第一節 作文教育の原理⋮・⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮. ・三三. ・二五. 第二章 短作文教育の評価と処理. 第二節 評価と処理の方法⋮・⋮⋮・.
(4) 第三節 実践上の留意点と課題⋮⋮・・. 四二. 五一. 第三章 短作文授業実践の実際 第一節 短作文関連の作文指導法とその比較・. 五九. 七九. ⊥ハ. ワ. 第二節 授業展開の類型化⋮⋮・・⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮. 第三節 授業実践の分析と考察⋮・⋮ 終 章 研究の成果と課題⋮⋮⋮⋮・. おわりに. ︽資料編︾. ※引用資料中の仮名遣いは、すべて原文通りとした。. ※引用資料中の︵中略︶は、すべて執筆者によるものである。.
(5) 序章 研究の目的と内容. 近年、短作文関連の実践書や研究書が数多く見られ、国語教育雑誌にも特集が組まれている。これらのことか らも、短作文教育が、広く関心を持たれていることがうかがえる。. これは、従来の作文教育の問題点を補う役割を短作文が担っている、あるいは期待されている証拠ととらえる こともできる. しかし、多くの実践が繰り広げられれば、新たな問題が生じることも常理である。当然、生じた問題をそのま. まにしていたのでは、文字通り大問題である。大切なことは、問題をそのまま放置するのではなく、検討を加え. ながら、改善していこうとする姿勢である。そして、この姿勢は、あくまでも具体的な活動のともなうものでな. ければならない。もちろん、活動するためには明確な理論の裏付けが必要になってくる。. そこで、短作文教育提唱の原点に立ち戻りながら、現在の短作文教育の実情を見つめ直すことで、今後の作文 教育における望ましい指導のあり方を求めたい。. まず、原点として藤原与一︹一九〇九︿明治四二﹀年∼ ︺の論考に焦点を当てる。藤原与一は、 ﹁負担感の. 小さい小作業・小課題の教育を便宜上、 ﹃短作文教育﹄とよんでおく。﹂︿注︸Vと述べていることから、 ﹁短. 作文教育﹂が、それ以前には認知されていたものではないことがうかがえる。また、短作文に関する研究書や論. 文を数多くまとめている大西道雄︹一九三一︿昭和六﹀年∼ ︺も、 ﹁短作文ということばを作文指導用語とし. て用いられたのは、管見によると、藤原与一博士の﹃毎日の国語教育﹄ ︵昭和三〇年四月 福村書店︶が最初で. はないかと思う。﹂︿注二﹀と述べている。つまり、短作文教育は藤原与一によって最初に提唱されたと見るこ. とができる。この提唱の背景を探ることで、短作文教育の本質が明確になるものと考える。なお、藤原与一は方. 言研究者であるため、方言と短作文とのつながりについても論及しており、私もそのことを取り上げる。. . [. ︻.
(6) また、現在の短作文教育の理論と実践に関しては、先の理由から大西道雄の論考を中心に検討を加える。. まず、第一章では、﹁作文教育の現状と短作文教育の有効性﹂について考える。作文に対する苦手意識や作文. 嫌いを生んでいる原因の所在を把握する。その上で、作文教育の課題解決のための一つの指導形態としての短作. 文教育について、その目的・意義・方法を明らかにする。さらに、短作文教育と長作文教育との関連性について も述べる。. 次に、第二章では、﹁短作文教育の評価と処理﹂について考える。ここで、従来の作文の評価観を再考する。. そして、作文教育の一環としての評価と処理の目的を明確にする。評価と処理は、学習者だけでなく、指導者に. おいても重要な課題である。そこで、評価と処理の具体的な方法、および短作文教育を進める上で陥る可能性の ある問題点についても論及する。. さらに、第三章では、 ﹁短作文授業実践の実際﹂について考える。短作文の特質を明らかにするために、短作. 文関連の作文指導法についての検討とその比較を行う。次いで、短作文の指導形態を明確にするたあに授業展開. の類型化を試みる。最後に、授業展開の類型別に実践事例を取り上げて、分析と考察を加えることで、これから の短作文教育の構築を目指すものとする。. ﹃国語教育の技術と精神﹄ ︵ 新光閣書店 一九六五︿昭和四〇﹀年七月 一〇六ページ ︶. ︶. 以上の構成によって、短作文指導の理論・実践を中心に据えた中学校作文教育の研究を進めていき、これから の作文の授業が確かなものとなるように努めたい。. 一藤原与﹁. ﹃短隻指導の方苧隻の護力の完成−﹄︵明治図書﹂九八○︿昭和五五﹀年四月二三∼一網→ジ. ︿注v序章 二大西轟. 一. ト.
(7) 第一章 作文教育の現状と短作文教育の有効牲. 第一節 文章表現活動の日常化. 文章表現力は身に付けるものではなく、すでに誰もが持ち合わせているものである。作文教育は、そのあるも. のを見つけ出す方法、表現する方法を習得させる場であると考える。それが、文章表現力を高めることになるの. である。そのためには、書く活動が何よりも大切なものとして位置付けられる。そして、この書く活動を活発に するためには、書く意欲を持たせることが重要である。. 藤原与一は、作文教育は自己表現を導く指導であり、決して一部の人のために存在するのではなく、すべての 人のために存在するものであるとして、次のように述べている。. 人はだれしも表現者ではないか。人それぞれに思うことがあり、思うことは言いたいはずである。話すこ. と・書くこと、つまり表現のいとなみは、だれにもあるのがふつうである。一生活しているということが、. すなわち、表現の欲求を持っているということである。本来は、だれしもあらわしたいのだ。つづりたいの だ。作文は、万人にそなわった自然のものである。 ︵中略︶. そういえば、反省をしいられる曲線図表がある。小学校低学年のころは、教師が、書きあらわさせようと. すると、かれらは、あんなによく活動する。まことにすなおに、書きあらわしたがる。その人たちが、学年. がすすみ、やがて上級の学校にはいるにつれて、一つまり年の長ずるにつれて、 ﹁作文﹂の時間となると、. おっくうがるようになる。先生の作文の用意を見ると、もう気をおとしてノまたか。ノと思う。書きあらわ. すことの興味を、こんなにも失うのはなぜであろう。 ︵中略︶ほうってはおけない。やるべきことはかんた. んである。指導者が、みんな本来は書きあらわしたいのだとの基準の考えに立てばよい。表現者のすなおな. ﹁. 一. 3.
(8) 生活表現をみちびくのが、根底的なつづりかた教育である。. すべての人にあたたかくふれていき、親切にはいっていくのがつづりかた指導である。作文の表現にすきき. らいのかたよりがあってはならないのとともに、作文の指導に、すくすかないがあってはならない。︿注一V. 作文を特殊なものとしてとらえる必要はなく、誰もが表現すべき内容を持ち合わせていると言うのである。誰. もが表現したいのである。ただ、その表現の仕方がわからないだけなのである。作文を個人の才能の問題として. 片付けてはいけない。確かに文才の持ち主もいる。しかし、書く力は才能ではなく、技術によって身に着くもの. なのである。技術は訓練によつで磨かれる。理屈だけを理解しても、実際に書かなければ文章表現力は向上しな い。向上のためには、書かなければならない。. ところが、作文に対する苦手意識が存在することも事実である。そのため、作文を﹁おっくうがる﹂ことにな. る。しかし、ここでは作文を﹁おっくうがる﹂生徒に対してよりも、そうさせる側の指導者に目が向けられてい. る。もちろん指導者自らが作文の指導を好き嫌いしていたのでは、生徒に書く喜びを味わわせることなどとても. 無理である。また、ここで注意しなければならないことは、作文指導において﹁あたたかくふれ﹂、 ﹁親切には. いっていく﹂という言葉を上っ面で解釈してしまうことである。作文指導を精神論で進めることはできない。し. ばしば﹁気軽に思いつくこと、感じたことをそのまま書けばいいよ。﹂と指導者は口にする。しかしこれも、そ. の感じたことをどのように表現すればいいのか、その表現方法を指導しなくてはならないのである。 ﹁よく感じ. たままを書けばいいのだと言われるが、ほんとうは、感じたことを、考えて書くことが必要である。﹂︿注二V. と言うように、考えなければ書くことはできない。また、詳しく書きなさいという言葉も口にする。しかし、こ. の言葉をいくら丁寧な言葉使いで繰り返し言ったところで、生徒には響かない。どうずれば詳しくなるのか、そ の点を﹁詳しく﹂指導者が語らなければならない。. 次に、人は本来表現者であることを受け、藤原与一は、作文の位置付けを、次のように述べている。. る. 一. 一.
(9) おたがいに、じつは、いつも、作文をしているのである。書いて作文。話して作文である。大作文、小作. 文、つねに作文をしている。この意味では、本来、作文は日常のものなのである。それが、妙に特殊視され. て、学校の”作文“乏なる。だから、この特殊視の打破のために、あらためて、日常化のくふうをしなくて はならないと思う。︿注三﹀. 書くことだけでなく話すことも、文章表現活動としての作文と見なしている。また、分量にかかわりなく表現. することが作文であるとも位置付けている。これは、特殊視された従来の﹁学校の.作文κ﹂を脱皮する必要が. あることを視野に入れての表現であると考えられる。つまり、作文に対する意識の変容を求めているのである。. また、日常化を図るためのこれまでの問題点は﹁﹃書くことはよいことだ。﹄との﹃観念﹄教育が、 ﹃話すこ. と﹄の﹃観念﹄教育に対して、いちじるしく不均衡な状態﹂︿注四Vにあったとして、﹁話すこと﹂と同様﹁書. くこと﹂も重要であるという観念を根付かせなければならないとしている。書くことを日常化することで、書き. 慣れ、﹁。さくぶん“にまつわるゆううつ観念﹂︿八五Vを打破することができると言うのである。. そして、藤原与一は、徹底的に書かせる指導が重要であるとして、次のように述べている。. 生活を深めさせるためには、なにかと書く仕事を多くしていくのがよいのではないでしょうか。なにかに. つけ、書くことにうったえる、あるいは、何ごとも書く仕事に結びつける、つまり、徹底的に書かせること. が、よくはないかと思うのであります。 ︵このばあい、書かせると言っても、単なる作文教育を考えている. のではありません。︶生活を深めさせるのは、ことばとともに、1ことばに即応して、深めさせるのがよ. いのだと思います。書けば、生活全体が深まります。一生活全体ということのなかに、当然、考えること. もふくまれています。︿注六V. 国語教育には、書くこと・話すこと・聞くこと・読むことなどがある。この中で、藤原与一はとりわけ書くこ とが﹁生活を深めさせるために﹂ 一番効果があると述べている。. . ﹁. 一.
(10) 話すことや聞くことは、ふだんの日常会話において一般化している。また、読むことに対しても文芸書や雑誌 に限らず新聞などを通して、比較的難なく身近に触れることができる。. それに対して、書くことは何らかの意図を働かせなければその機会が少ない。そして、この少ないことが作文. を何か特別なものとして肩肘張らせる原因になっていると言うのである。そのため、機会を見ては、というより. むしろ意識的に機会を見つけ出しては﹁徹底的に書かせること﹂が必要になってくるのである。. また、 ﹁このばあい、書かせると言っても、単なる作文教育を考えているのではありません。﹂にある﹁単な. る作文教育﹂は、いわゆる長い文章をつづることや、 ﹁美文﹂をめざすことをさしているものと思われる。ここ. に、藤原与一の﹁書く生活﹂のとらえかたがあらわれている。つまり、日常生活のあらゆる場面でこまめに書か. せることが、それまでの作文教育の枠を越えた﹁書きあらわすことの教育﹂として重要視されねばならないと言 うのである。. また、日常の言葉を大切にする点において、方言研究者である藤原与一は、方言を軽視してはならないとして、 次のように述べている。. 私の国語教育を研究するたちばは、すでに表明していますとおり、方言研究のたちばであります。方言を 研究して、私は、国語教育に関心を持つようになりました。 ︵中略︶. 方言を研究するうちに、人びとの日常の方言生活こそ、現実の国語生活ではないかと考えるようになりま. した。国語教育の仕事は、相手のこういう現実の国語生活に対してなされるべきものだと知ったのでありま. す。いわゆる児童・生徒は、通常、地方地方の方言生活面として、私どもの前にあらわれてきます。つまり、. 私どもの教育対象は方言人なのであります。国語教育は、方言入相手の、方言生活指導の国語教育であると. 言わなくてはなりません。私は、方言の研究にたずさわって、方言入に、生きた生活のことば、すなわち生. 活語を聴くにつけ、方言の言語学的研究とともに、方言の教育論的な研究をも、あわせ考えざるをえなくな. . 一. 一.
(11) りました。︿注七V. ここでいう﹁方言﹂とは、人が生活を営んでいる地域社会で交わされる独自の言葉を指すものととらえること. ができる。また、この﹁日常の方言生活こそ、現実の国語生活ではないかと考える﹂に至った背景には、従来の. 国語教育が、共通語を用いることに重点を置きがちであったことの反省に立っていたからではないかと考えられ. る。もちろん、国語教育に限らず、物事の共通理解をはかるためには言語が重要な位置を占める。. しかし、言語はその地域その地域に根付いたものであり、そこには、その言葉が使われるに至った歴史がある。. 風土や気候も違えば、生活習慣・社会習慣も違う。そのため、そこで使われる言葉も違って当然である。例えば、. 北海道や東北地方で生活している人が、冬の厳しい寒さを﹁しばれる﹂という言葉で表現する。この言葉は、近. 畿地方でいくら寒さが厳しくても、寒さの表現には適さない。その地方独特の状況はその地方独特の言葉でしか 表現できない。. つまり、その地方での生きた言葉が方言なのであり、この方言こそが、日本語であり、国語なのである。その. 意味で言えば、いわゆる国語辞典は共通語辞典であり、真の国語辞典は方言辞典を指すのではないかと思われる。. そして、この方言を使って生活している﹁方言人﹂を対象とした教育こそが国語教育であるととらえているの である。. しかし、全てを方言にしてしまうと、社会生活の上で能率的ではない。なぜなら、伝達手段であるべき言葉が、 充分その用をなさないということが起こり得るからである。. 共通語を用いることは、広い範囲での共通理解をはかる上で便利であることは間違いない。ただし、共通語で. は表現しきれない方言は必ずある。全ての方言を共通語に置き換えることはできない。ここに、方言の独自性が. あり、存在価値がある。そして、このような方言の有効性は、あいさつ言葉にその顕著さがあらわれているとし て、藤原与一は次の例を挙げている。. 一. 一. 7.
(12) 別れのあいさつに、 ○おもえ。. という言いかたがあります。八丈島の属島の青ヶ島の児童の作文を見ますと、売られていく牛を送って、. なごりを惜しみながら、﹁牛さん、さようなら。﹂というような意味あいで、 ノ牛さん、おもえよ一。ノ. という言いかたをしています。別れる双方が、たがいにさきのことを思うと、相手に、 ﹁おもえ。﹂と呼. びかけないではいられないでしょう。理の当然であります。そして、この、理の当然と言えることが、じ つは、深い情味をあらわしているのであります。︿注八﹀. この﹁おもえ。﹂の言葉の背景にも、やはり、そこでの生活がある。つまり、与えられた状況からそのときの. 心情を一番よくあらわす言葉が、この場合﹁おもえ。﹂なのである。ここで、この﹁おもえ。﹂は﹁なごりを惜. しみながら、﹃牛さん、さようなら。﹄というような意味あい﹂.として使われた言葉と説明されている。しかし、. それはあくまで、そのような﹁意味あい﹂であって、その意味に近づくことはあっても、そのものとの合致は見. られない。ここに、この﹁おもえ。﹂を使う必然がある。しかも、このわずかな一語に深い思いが込められてい る。つまり、凝縮された表現の言葉として受け取ることができる。. ただ、このような方言は、やはりその地域社会でしか通じ合えないという問題点もある。この通じ合いに幅を もたせるために表現を豊かにする必要が生まれてくる。. そして、この表現を豊かにするための指導として、作文教育が存在する。. そこで、方言を生活語としてとらえ、生活語指導の作文教育が重要であるとして、藤原与一は、次のように述 べている。. 生活語とは、その人々の、生活のことばである。その生活の初期では、かれらは、方言色のこい生活語に. 立っている。しかし、これももとより生活のことばである。やがて、教育されるとともに、いろいろのこと. . 一. ﹁.
(13) ばを身につけていく。表現法を得ていく。これはすなわち、生活語の向上発展である。生活の進歩とともに、. 生活語も無限に進展していく。相手の生活を改善し、相手の人間を陶冶する教育は、生活語指導の教育とし. て実践されなくてはならない。相手の生活と人間のことばに表現せしめる作文教育は、もとより、生活語の 教育でなくてはならない。. 生活語指導の精神に立つ時、肝要な注意は、どの段階での作文も、 自然なことば、自分自身のことばで発表させる. ということである。たとえば、方言生活のいちじるしい段階では、こだわりなくそのことばで発表させる。. 発表してくれなくては、みちびきようはない。だのに単純に、方言はいけないなどと言えば、これは、もの. を言うなということになる。大いに言わせ、書かせなければならない。自由に表現させて、教師がそれを共. 通語の方向に持っていく。一広め高めしていく一べきことについては、すでにいくたびか述べた。. ︵中略︶生活のことばは、生活の進歩とともに、高まっていくのでなくてはならない。生活がことばをひき. い、ことばが生活をひきいる。作文教育は、このことばの表現を指導するのである。︿注九v. 人が言葉を覚えていくのは、初期の段階において、聞くことによってであり、それは、近しい人たちの会話や. 語りかけからである。そして、その言葉はその地域の生活語である。生活語は、日常使っている言葉であり、ど. のようなときにどのような言葉を使えばよいのかを体験によって身につけている実感のこもった言葉である。だ からこそ、この言葉は﹁自然なことば﹂なのである。. ふだん使わない言葉を、無理に駆使し、飾り立てれば、不自然さが目立ち、自分の思いを充分に伝えることは、. 不可能である。それよりも自分の使い慣れた言葉で表現することの方がはるかに的を射たものとなる。この使い 慣れた言葉こそが方言なのであり、生活語なのである。. ただ、ここで注意しなければならないのは、共通語にこだわるあまり、方言を一々共通語に改めなければなら. . ﹁. 一.
(14) ないという気持ちを持たせる必要はないということである。方言を用いることは決していけないことではないと. いうことを、学習者である子どもたちに思わせなければならない。もちろん、その根底には指導者が、方言こそ、 その地域の文化なのであるという意識を持ち合わせていなければならない。. つまり、共通語に固執することなく、方言での表現を認めながら徐々に共通語の世界も知らせていけばよいと. 言うのである。そして、その手だてとして、作文による共通語指導が必要になってくるのである。. 以上のことから、書くことを日常生活の中に取り入れるためには、まず、従来の作文に対する、困難なもので. あるという意識を変える必要がある。そのためには、書く機会と場を意図的・積極的に設ける必要が生まれる。. ﹃誓の国語警﹄︵福村出版﹁九五五︿昭和三〇﹀年四月七九∼八一ぺ←︶. 藤原呈. 藤原与↓. 藤原与一. 藤原皇. ﹃理の国語教育と情の国語教育﹄ ︵ 新光閣書店 [九七〇︿昭和四五﹀年=月 一〇∼二ページ ︶. ﹃理の器警と情の国語警﹄︿新光閣書店一九七〇︿昭和四五﹀年=月三六∼三七ぺ←. ﹃私の国語警学﹄︵新光響店一九七四︿昭和四九﹀年六月一9一〒ジ︶. ﹃国語警の技術と篇﹄︵新詣書店一九六五︿昭和四〇﹀年七月九九ぺ←︶. ﹃私の国語警議︵新光響店一九七四︿昭和四九﹀年育二七ぺ←﹀. ﹃国語警の技術と緯﹄︵新光馨店一九六五︿昭和四〇﹀年七月九五ページ︶. 四. 藤原与[. ﹃理の国語警と情の国語警﹄︵新光馨店一九七〇︿昭和四五﹀年=月四一ぺ←︶. ︶. また、日常の言葉を重視する点においては、方言をも大切にする作文教育が求められるのである。. 藤原呈. ︿注﹀第一章第一節 ﹁. 五. 藤原与一.. ﹃管の国語警﹄︵福村出版死五五︿昭和三〇﹀茜月≡ハ∼=七→ジ︶. 二藤⋮. 七. 藤原与﹁. 三. 八. 六. 九. ︻. 一. 10.
(15) 第二節 短作文教育の目的・意義・方法. 第一節では、藤原与一が、書く生活を日常の中に定着させることこそ、作文教育であるとの考えに立っている. ことを取り上げた。そこで、本節では、藤原与一が短作文教育の提唱に至った背景を探ることで、その目的・意 義・方法を明らかにしたい。. 藤原与一は、短作文教育の有効な点を、次のように述べている。. 理にしたがって書くことをまっとうさせるためには、あるいは、理をとおさせるためには、なるべく短く. 書かせるという作文教育がだいじである、有意義であると考えます。簡潔に書き終えることは、理を重んじ. ることではないでしょうか。ところで、人はなかなか、簡潔には書き上げられないようでもあります。もと. より、書くことがなくて、理のとおらないことをすこしだけ書いてやめる短作文もありまずけれども、それ. は、ほんとうは、簡潔という部類にはいりません。理をとおす、簡潔の作文の指導が、重要かと思います。. 簡潔に書いたからといって、情が出ないというものではありません。簡潔の極に情がにじむ、というよう. なものではないかと思います。五、七、五の一俳句が、深遠な美の世界を表徴するなどは、その、わかりや すい例でありましょう。 ︵中略︶. 要するに、理によって書かせ、理をとおすように書かせるためには、短い文章を、大いに奨励してみたい. と思います。その短いもののうえで、理も情も整うことを経験させたいものです。︿注一V. ここでいう﹁理﹂とは、ものごとの筋道、あるいは文章の論理的整合性と受け止めることができる。そして、. 読み手にわかりゃすく、また、誤解を生まないようにするには、要点をとらえて、﹁なるべく短く書﹂こうとす. る意識を持たせなければならないと言うのである。ここでの﹁短く書かせる﹂とは、一文を短くすることでもあ. る。長い一文が悪いのではなく、長くても読み手にとってわかりゃすければ問題はない。しかし、長ければ往々. ﹂﹁. ヨ.
(16) にして筋が乱れやすくなる。それを避けるためには余分なものを削り、 ﹁簡潔に書き終えること﹂が望ましいの. である。つまり、短い文を作ろうとすることは、わかりやすく整理された文に近付こうとすることであり、より 的確な表現をめざすことになるのである。. また、 ﹁情﹂とは、伝えたい心の動き、あるいは内面の思いと受け止めることができる。何らかの表現をしょ. うとする欲求である。書きたい、書かずには﹁いられない、などの書くことに対する原動力とでも呼べる表現意欲. である。この内在する原動力を言葉として表出するためには、短作文は、一見制約があって困難であるかのよう. にも思われる。しかし、制約があるからこそ、 一番伝えたいことを焦点化することができるのである。自由にど. れだけ書いてもいいのであれば、却って強調したいことが薄まってしまうことにもなる。だから、 ﹁簡潔の極に. 情がにじむ﹂とは、書きたい内容を短い言葉でまとめることによって、長い言葉の説明以上の味わいが生まれると. いうことである。つまり、そこにあらわれた言葉の背後には、数倍のあらわれなかった言葉が存在するのである。. そして、この﹁理﹂と﹁情﹂が絡み合いながら、文章は構築されていくと言うのである。しかも、この﹁理﹂. を身につけ、﹁情﹂のあらわれた文章にするために、短作文教育が重要な位置を占めるとするのである。 そこで、藤原与一は、この短作文の重要性について、次のようにも述べている。. もし作文というあたまで言うなら、毎日、あるいは毎度、なんらかの作文をするようにすすめるのです。. 毎日毎時の作文教育ということが、ここで言えま七よう。それにつけても、短作文指導の重要性が痛感され. ます。徹底的に書かせる生活のだいじさに正比例して、短作文指導の重要性が、大きくうかびあがってきま. す。徹底的に書く生活のためには、短作文の形式が、じつにだいじだと言わなくてはなりません。そして、. その短作文という形式が、また、さまざまであってよいわけです。このさい、短いほどよいのだという指導. も、重要だと思ヶのです。メモなどは、生きた作文の代表形式かもしれません。︿注二V. ここでの﹁毎B毎時の作文﹂とは、それまでの作文とは区別する意味で、 ﹁書く生活﹂として、日常生活の中. 一. 一. 12.
(17) に様々な形で取り入れることが可能な、書く活動であると理解できる。つまり、この﹁書く生活﹂を奨励するこ. とによって、いわゆる苦手意識をなくすることができると言うのである。これは、書かせることが原因ではなく、 十分に書かせなかったことが苦手意識を生んだととらえているのである。. また、 ﹁短いほどよいのだという指導も、重要﹂と言うことは、それまでの指導が、長くなければならないと する形式にとらわれていたことに対する指摘として、とらえることもできる。. そして、十分に書かせるために短作文の多作を行い、日常の中での﹁書く生活﹂をすることが重要であると言. うのである。また、この多作を行うために、﹁短作文という形式が、また、さまざまであってよい﹂としている。. これは、書くことに対する興味や新鮮さを失わせないためには同じ型にばかり当てはめてはならないと言うこと である。. このことは、短作文の種別を次のように、七項目挙げていることからも明らかである。 a. 一語作文︵一語づくり︶. 一語をつくることも作文である。. 一語をつくるのは、自分なりに一語を思い出すということであってよい。 一語の新語を自分が創作する. ことだけを一語作文と言う、とはしなくてよい。場に合った一ことばを見つけたら、それ.が自己の新作 の語であろうとなかろうと、一語作文である。. b.一文作文 一センテンスの作文である。. c.二文作文 d.三文作文 e.四文作文. 一. 一. 13.
(18) f. コ章﹂作文 g.二百字限定作文 ︿注三﹀. ここでは、この七項目の中で、特に短作文として特徴的な﹁一語作文﹂と﹁二百字限定作文﹂について取り上. げる。これは文字数に関して最小と最大のものとみなすことができ、この二つの特徴をつかむことで、それまで の作文との違いを示すことができると考えるからである。. なお、大西道雄も短作文の記述量にかかわっては、 ﹁基本的には藤原博士の所説にしたがいたい﹂︿注意﹀と して、この一語から二〇〇字程度がその範囲であると定義している。. まず、 ﹁一語作文﹂の具体例として、 ﹁名づけ﹂と﹁題目づけ﹂について次のように述べている。. 一語作文. 一語作文は一口作文と言ってもよい。 一語作文、一口作文のしごとの一つとして、私はよく、 ﹁名づけ﹂ をやらせてみる。. ○名づけ. 第一には人名である。父おやは四郎、母おやは道子。この両親の間に男の子︵女の子︶が出来ました。両. 親の名をそれこそ公平にとって、男の子︵女の子︶にょいなまえをつけて下さい、とさそう。 ︵中略︶. これにいきおいを得た私は、つぎに、用紙の左半分にめいめいの両親の名を書いてもらい、その下に、自. 分の名を書いてもらった。ここで、自分の名が、両親の名とどんな関係にあるかを考えてもらったのである。. その考えの発表をすすめると、当人たちは、にこにこして、たのしげにその考えを述べたのである。︵中略︶. ○題目づけ. 文章に題目をつける作業も、一口作文になることが多い。題目を、一語でつけさせることにすれば、これ は一語作文である。 ︿中略︶. 一. ﹁. 14.
(19) たとえば夏にみんなで水泳に行ったとする。あとで、水泳一語作文にかかる。 ノ何でもいいから、思いつ. いた一語を書きなさい。ノと書かせる。つぎに、 ノその一語から思いおこすことのできるほかの一語を書き. つけなさい。ノと、連鎖反応の一語を書かせる。 ︵中略︶たとえば、︵大きい生徒・学生などの場合だとV、. 語数の多い人たちに、そのとりあげたすべての語を発表してもらう。それをみんなで聞く。聞いていると、. 人ごとに思考の傾向のちがうのがよくわかる。このちがいを見て、人びとの思考のタイプをA類B類などと. みんなで分類する。こうするうちに、しぜんと、自分というものがわかり、自分の思考のタイプがわかって. くる。︿注五V. ここに見られる二語作文﹂においては、こ淑までの作文とは異なり、でき上がった作品よりも、そこに至る. 過程が重要視されている。つまり﹁名づけ﹂であれば、その名に至るまでの思考が大切なのであり、その思いや. 考えを経てでき上がったものは一語であろうと作文なのである。この一語をも文章と見なす根拠として、文章論. の立場から文章規定の条件に市川孝が述べている﹁文章における全体性﹂︿川里﹀を挙げることもできる。. また、与えられた不特定な名前から、自分の名前について考えることで、思考が焦点化し、興味をもって作業. にかかっている姿をうかがい知ることもできる。もちろん、親の名前とのつながりが見つけ出せなくても、そこ. に祖父母とのつながりや、名前に託された親の願いなどを想像することで、やはりこの作業も思考を深めること になるのである。. 一方、 ﹁題目づけ﹂においては、一語の言葉が一見単なる思いつきであったとしても、そこには何らかの理由. があるはずである。すなわち、その一語が出てきた理由を考えることで、﹁名づけ﹂とは順序を逆にした形での 思考の深まりをたどることができるのである。. また、他の人の発表を聞くことで、自分とは違う発想に驚いたり、その人に対する印象が変わり、新しい発見. が生まれることも興味を引く。そして、他の人の発想と自分の発想を比べることで、それまで意識しなかった﹁自. 一. 一. 15.
(20) 分の思考のタイプ﹂を知ることができるのである。. 例に挙げた﹁名づけ﹂や﹁題目づけ﹂などの一語作文に取り組むことで、言葉のもつ力の大きさを意識するこ. とになり、ふだん使っている言葉を見直すことになる。しかも、このような取り組みは様々な形で発展可能であ る。. そして、この延長線上に二百字限定作文があるとして、藤原与一は、次のように述べている。 二百字限定作文. 短作文の一種として、こういうものを立てる。二百字は百五十字でもよい。要するに、テン・マルをも含. めて、字数一定の︵さしひきなしの、その数きっかりの︶作文をやらせるのである。 ︵中略︶. やってみると、なかなか、所定の字数には収まらない。あと二格︵二文字︶というところで、どうしても. マルを打たなくてはならなくなったりする。iすると、・一格、空欄がのこる。さてその時に、﹁である。﹂. のむすびを﹁であろう。﹂に変えることなど、できるものではない。やはり、はじめから読み直してみて、. 文章全体のすじを追って、改訂の筆をとらねばならぬ。字数限定作文は、このように、余儀ない読みかえし. を、すすめにすすめる。︿注七V. ここで注目すべきは、 ﹁二百字限定﹂の﹁限定﹂である。これは一語を大切にすることであり、句読点をもお. ろそかにはしない厳しさでもある。また、一方これは、二百字ぴったりにする、ある意味でゲーム感覚とでも呼. ぶべき学習でもある。しかも、結果として、字数をぴったりに収めようとすることで、言葉の見直しや表現の工. 夫など文章を吟味する必要も生まれてくる。つまり、このような、言葉を見つめる行為によって、思考力・認識. 力を身につけることになるのである。このことについては、前節で考察した藤原与一の﹁書くことは考えること﹂. という観点に立って、大内善一も、﹁﹃書く生活の教育﹄では、日常生活のあらゆる機会と場を生かして書き、 書くことで思考を鍛えていくことが目指されていた﹂︿二八﹀と述べている。. 一. ﹁. 16.
(21) 以上、 二語作文﹂と﹁二百字限定作文﹂についてふれた。いずれにせよこのような様々な短作文の種別に取. り組むことによって、書き慣れ、そのことで表現力を高めることをねらいとしているのである。. ただ、この﹁一語作文﹂と﹁二百字限定作文﹂との違いは、旦里的なことだけではなく、文字数が増えることで、. 取材・構想・記述・推敲・批正が、学習者にとって、より複雑になることである。つまり﹁一語作文﹂から﹁二. 百字限定作文﹂への各段階を踏みながら、基礎力を徐々に身につけていくことが必要なのである。もちろん、こ れらの種別を様々に組み合わせることも有効である。. 以上のことから、藤原与一の提唱する短作文教育の目的・意義・方法を整理すると、それぞれ次のようにとら え る こ と ができる。. 目的については次の三点を挙げることができる。 第一に、作文に対する苦手意識をなくすこと。 第二に、表現力を高めること。 第三に、思考力・認識力を身につけること。. このうち、第一に挙げた苦手意識をなくすことは短作文教育特有のものであり、短作文発想の原点とも言うべ. きものである。 一方、他の二つは、長作文にも共通するものとしてとらえることができる。. 次に、意義については次の四点を挙げることができる。. 第一に、字数が短くてもよいために、書くことに対する抵抗感を持ちにくいということ。 第二に、多作が可能であるため㌔書き慣れることができるということ。. 第三に、字数を短くしょうとすることで、簡潔・的確な表現をめざすことになるということ。. 第四に、評価と処理が指導者にとっても学習者にとっても行いやすい︵負担が少ない︶ということ。. これらの意義は短作文教育特有のものであり、ここに、短く書くという﹁短作文の形態的特質﹂︿注九vが見. 一. 一. 17.
(22) られる。 [なお、評価・処理についての考察は、第二章で詳しく述べる。]. そして、方法については次の三点を挙げることができる。 第一に、字数や分量を規定して表現する方法。. 第二に、内容にかかわっての条件を満たす形で表現する方法。. 第三に、授業としての作文の時間や国語の他の時間だけでなく、様々な機会や場を使って表現する方法。. これらの方法は、どれか一つの条件で設定される場合もあれば、複合される場合も考えられる。そして、ここ には、短作文の﹁形態的特質から生じる機能的特質﹂︿注δVが認められる。 ド ヒ. 藤原⋮. 藤原呈. 藤原与一. ﹃短隻の難﹄︵明薗書五九ス叢一=﹀年三月初版扁一九九一く平三一▽年九月二刷護←. ﹃国語警の技術と精神﹄︵新光閣慧一九七〇︿昭和四五凶年=月δ七十○八→ジ︶. ﹃理の国語教育と情の国語教育﹄ ︵ 新光閣書店 ﹁九六五︿昭和四〇﹀年七月 =二九ページ ︶. ﹃理の国語教育と情の国語教育﹄ ︿ 新光閣書店 一九六五︿昭和四〇﹀年七月 四三∼四四ページ ︶. 大内董. ﹃短隻の塁﹄︵明治羅一九九ス平成三﹀年三月初版扁呪九天叢三﹀年九月二刷+八ぺ←. ﹃思憲鍛える隻塁づくり﹄︵明治図書一九九四︿平成六﹀年育二二〇ぺ←︶. ︶. ︶. ︶. なお、大西道雄の考える短作文の目的については、次節の短作文と長作文との関連において述べる。. 大西道雄. 大西道雄. ﹃短隻の婁﹄︵明治図書﹁九九ス護三﹀年三月初堅丁霊九天平成三﹀年九月二二夫ページ. ﹃国語警の器と精神﹄︿新光閣鳶一九七〇︿昭和四五﹀年=月≡○∼⋮ぺ・ジ︶. 園語警のための文章論概説﹄︵警出版一九七八︿昭和五三﹀年九二︻二ぺ←︶. ﹃国語警の技術と精神﹄︵新光馨店兄七〇︿昭和四五﹀年=月δ八・≡→ジ︶. 市川孝. 藤原長. ︿注V第一章第二節 . 二 三 四. 五. 六. 大西道雄. 七藤量. 八 九 δ. 一. [. 18.
(23) 第三節 作文教育における短作文の位置. 本節では、短作文と従来の作文︵いわゆる長作文︶との関連性について、検討を加える。. 前節においては、短作文教育の提唱者である藤原与一のとらえる目的・意義・方法を考察し、整理した。 一方、. 大西道雄は、基本的に同様の考え方に立ちながらも、目的については、その著書﹃短作文指導の方法−作文の基 礎力の完成i﹄において、次のように述べている。. 短作文の指導は、作文の基礎力の指導であると同時に、目的と必要と場に応じた短い文章を書く力の指導. でもある。前者が、作文の基礎力の習得過程であるとするならば、後者は、作文の応用力の演習過程である. と言うことができよう。しかも、この二つの過程は、それぞれに独立性をもちながら、実際の指導の場では、. 関連的に、融合的につながりあうものである。︿注一V. ここで大西道雄は、 ﹁短作文の指導﹂を﹁作文の基礎力の指導﹂の側面と﹁目的と必要と場に応じた短い文章. を書く力の指導﹂の側面の二つに分けてとらえている。このことから前者を、短作文を作文指導の導入段階とし. て位置付け、後者を、短い文章そのものを書くことをめざす到達段階として位置付けていると見なすことができ. る。つまり、長作文をつくるための準備としてのとらえ方と、短作文自体を目的とするとらえ方である。. もちろん、作文の基礎力を養うためには、短作文が長作文に比べて有効な方法であることは、その量的な短さ. から認めることができる。中心とする話題がない・書くための材料を見つけることができない・どう書いたらよ. いかわからない、といったことを克服するための手だてとなる。なぜなら、短いことで、まず、書くことに対す る負担感が減少し、何を書くか・どうずれば書けるか、の指導も焦点化しやすい。. しかし、短作文は作文の導入段階のためにのみ存在するのではないとも言うのである。このことは﹁目的と必. 要と場に応じた短い文章を書く力﹂から﹁短い﹂という条件を取り除けば、そのまま、作文としての目的になる. 一. ﹁. 19.
(24) こ と か ら も分かる。. また、大西道雄は短作文の目的を、その著書﹃作文の基礎力を完成させる短作文指導﹄においては、次のよう に述べている。. 短作文指導の目的は、大きくは、. ①目的と必要に応じて、それ自体で自律的に機能する短い文章を書く力を育成すること。 ②長くまとまった文章を書くための基礎的な力を錬成すること。. の二つにまとめてとらえることができる。この二つのことは、短作文指導の意義づけの角度が異なるだけで、. 指導に際しての基本的な方法上の考え方は、同じでなければならないと考えている。すなわち、①と②のい. ずれの場合も、短い文章の制作・小さな書くことを、書き手にとっての切実なリアリティのある書く場とし て設定し、その実践過程を指導の対象とするということである。︿雨落V. 大西道雄は、短作文指導の目的として、ここでも①と②の二つを述べている。このことについて大熊徹は、大. 西道雄の考える短作文指導の二つの目的の順序が入れ替わっていることを指摘している。そして、その理由を近. 年の短作文指導に対する多くの受け止め方である﹁本格的な長い作文を書く基礎・基本技能を育成するための短. 作文から、それ自体が目的としての短作文への変化﹂︿注三Vによるものであると述べている。[引用者注−﹃短. 作文指導の方法一作文の基礎力の完成1﹄は一九八○年、 ﹃作文の基礎力を完成させる短作文指導﹄は一九九一 年に発行されている。]. これに対して、大西道雄自身も﹁順序の優先性についての解釈は、氏[引用者注−大熊徹氏のこと]の指摘の 通りである。﹂︿三四Vと認めている。. しかし、先の﹃短作文指導の方法−作文の基礎力の完成1﹄において、二つの目的を﹁同時に﹂という言葉で. つなげている。このことから、②の目的を一般的な解釈としており、すでに①としての目的を大西道雄自身は重. ﹁. [. 20.
(25) 探していたと見なす方が妥当である。そのことを﹃作文の基礎力を完成させる短作文指導﹄において、明確にし ただけととらえることができる。. ところが、大西道雄は、大照⋮徹の指摘を受けて、﹁この両者[引用者注−目的①と②]の関係は、短作文は、. それ自体としての自立姓をもつと同時に、それが長作文の基礎に培う働きをもつ、という考え方に立ってとらえ. ている。﹂とも述べており、この二つの目的は優先性の問題ではなく、同位に扱われるべきものであると考えら. れる。このような問題は短作文の﹁短﹂の解釈によるものである。 一つは文字通り﹁短い文章﹂のことであり、 もう一つは﹁基礎力﹂としての受け止めである。. 大西道雄は、作文の基礎力について、次のように述べている。. ※長くまとまった文章︵以下、長作文という︶を書くための基礎的な力には、二つの場合が考えられる。 一. つは、段落レベルの短い文章を書き、それを展開させたり、構成したりして長くまとまった文章を制作する. ときに働く力である。つまり、短作文を発展させて長作文にする力である。この場合は、小さく短いもので. あっても主題をもち、文章としての要件をそなえたものである必要がある。それは、文章の直接的構成単位. を段落︵小主題による複数の文の統合体Vレベルの小文章とする考えにもとづいている。 ︵中略︶. 今一つは、文章としての要件をそなえてはいないけれども、作文の基礎力としては重要な働きをしている. 知識や技能が取りあげられる。読解活動の過程において、疑問におもったことを書き込んだり、大切な部分. を書き抜いたり、気づいたことをノートにメモしたりすること、また、話し合い学習の過程で考えたことを. メモしたり、他の人の発言を記録したり、︵中略︶このような小さな書く技能を演練する場を発見して指導. の対象とすることが可能である。︿注六V [引用者注・。※は文の途中からの引用を示す。]. 文章作成に当たっての高度化は、短いものから長いものへと移っていくのが自然な流れである。その意味では. ﹁短作文を発展させて長作文にする﹂ことは道理にかなっている。しかし、短いものの中にも高度化されたもの、. ﹁. 一. 21.
(26) 完成されたものは存在する。すなわち、主題を持ち独立性を持った短い作品としての、発展した段階での短作文. である。また、 ﹁知識や技能﹂を習得するための方法としての位置付けも認められる。 [なお、このことについ ては、 ﹁学習作文﹂として第三章で詳しく述べる。]. いずれにせよ、 ﹃短作文指導の方法−作文の基礎力の完成一﹄の書名からも、 ﹁作文の基礎力﹂の﹁作文﹂は. 明らかに長作文のことを指しており、長作文の基礎力の完成をめざすための手だてとして短作文指導の存在価値 があるように受け止められる。. これは﹃作文の基礎力を完成させる短作文指導﹄の書名からも同様の結論が導き出せる。. このことから、大西道雄は、短作文自体に独立性があると認めながらも、あくまで、長作文を支える基礎の比 重が大きいという考えに立っていることが分かる。. 一方、藤原与一は、短作文と長作文との関連について、次のように述べている。. 機械的に長作文をやらせることは効がない。長い文章を書かせるからには、長く書く必要感をじゅうぶん. 味わわせるようにしなくてはならない。 ノどうしても長く書かなくてはならぬ。ノと本人が緊張するのでな ければ、目のつんだ長作文はできない。 長く書くのがよいのではない。長くも書けるのがよいのである。 ︵中略︶. また、長作文は、短作文がしぜんに気がるくっくられるのに応じて、同様に、しぜんに気がるくっくられ. るのでなくてはならない。長作文のために言うなら、長作文が、特別の書きづらいしごととは思われないよ. うにするために、短作文の教育にほねをおるのである。短作文教育が成功するならば、大きい文章、こみいっ. た文章も、人びとに、気がるくたのしく書かれるようになろう。︿注七V. 書くことに対して、まず量を提示するのではなく、書きたい衝動を起こさせることが肝要である。短い文章で. は十分に伝わらないと感じたとき、自ずと文章が長くなっていくのがよいと言うのである。. 一. 一. 22.
(27) ただし、長く書くこともできるようにするためには、短作文だけをやっていてもいけない。つまり、短作文が. できれば、自然と長作文ができるようになるものではない。そこで、﹁長くも書ける﹂ようにするためには、 ﹁は. じめは、﹃長いのがよい。﹄.として、ひとえに長くつづけさせることにする。﹂︿直心Vとも述べている。当然、. これは冗長な文を奨励しているのではない。あくまで、あってもなくてもどちらでもよい言葉は、ないほうがよ. いとする考えに立っているはずである。しかし、いったんは、そのあってもなくても構わないと思われる文をも. 書かせてみるのである。これも短作文と同様の書き慣れることをねらいにしたものと考えられる。. そして、 ﹁短作文がしぜんに気がるくっくられる﹂ようにして、文章表現力を向上させることが、長作文を書. く場合にもつながるのである。このことは短作文が長作文の基礎力を養うのではなく、短作文によって、書くこ. とに対する苦手意識を克服して、その克服したことで長作文に対する苦手意識も乗り越えることができるように なるのである。. しかも、長い文を書くことだけでは引き締まった文にはならない。 ﹁目のつんだ長作文﹂にするためには、 ﹁短作文の精神﹂を生かすのがよいとして、藤原与一は、次のように述べている。. 内容がわいてわいてしかたがない、というような時に、しぜんに、長い文章1︵長作文︶1が書かれ るのがよいのだと思います。. 長いものを、むりなく、すじめ正しくしあげていくのには、短作文をつみ上げていくここちで書いていけ ばよいと思います。長い文章の一段落一段落は、まさに短作文にあたります。. 短作文の精神は、長作文に持っていってよいのだと思います。短作文の力が、長作文の力になります。i. その短作文も、一文作文を骨子とするわけですね。 一文作文は一語作文を骨子とします。︿注置V. 作文の長さは、表現したいことがたくさん起こったときに、結果的に長くなることが望ましい姿であり、その. 長作文も短作文のつながりによって構成されていると言うのである。ただ、長ければ、筋の通らない文に陥りや. ﹁. 一. 23.
(28) すい。分かりにくさも生じる。そもそも、それらを防ぐための短作文の形態である。また、長い文を書くことに. 対する苦手意識を持たせないための短作文でもある。 ﹁短作文の精神﹂とは、これらの表現上の留意点や気軽さ を 生 か す ことである。. 短作文はそれ自体、独立した作文としての価値がある。つまり、長作文のために短作文が存在するのではない。 短作文教育の結果として、長作文も書けるようになるのである。 このように藤原与一は、短作文の統合されたものが長作文であるととらえている。. 四. 二. 一. 大西道雄. 大西道雄. 大西道雄. 大穣. 大西道雄. 大西道雄. ﹃国語警の技術と篇﹄︵新光閣喜一九七〇︿昭和四五﹀年=月≡四∼三五→ジ︶. ﹃隻の学力を完成させる短甲糞﹄︵明治図書一九九ス平成三﹀年育初版一九九四︿畿六﹀年三月緩. ﹁短隻の罷筐︵肩刊国語警研究﹂翫二八六呆国語並等二九空曇︿叢八﹀年二月五→ジ︶. ﹁短隻の可能性﹂︵﹁月刊国語警研究﹂M二八六某国証阻警学会一九九六︿平成八﹀年二月五ぺ←︶. ﹁ここ+葦間の短隻の留﹂︵﹁教育科耳語警﹂歯九一明治図寒九九四︿叢六﹀年五月八二→ジ︶. ﹃隻の入力を完成させる短甲糞﹄︵明吉書﹁九九λ平成三﹀年六月初版一九九四︿平成六﹀年≡月四海. ﹃短隻指導の方塗隻の護力の完成−﹄︵明治図書﹁九八○︿昭和五五﹀年四月≡ぺ志ソ︶. ﹃管の国語警﹄︵福村出版兄五五く昭和三〇V茜月δ五ページ︶. 蓋∼ニハ→ジ︶. 西→ジ︶. また、長作文の評価においても、短作文的に重点主義指導を行っている。このような評価については、次章で 詳しく述べる。. 五. 藤原与︸. ︿注V第一章第三節. 六. 八 藤原呈. ﹃ことばの竃のために裏現と理解への手裂⊥︵官社一九六七︿昭和四二﹀年頁二七∼=八→ジ︶. 三. 七. 九 藤原葺. ﹁. 一. 24.
(29) 第二章 短作文教育の評価と処理. 第一節 作文教育の原理. 本節では、作文教育を進める上での指導者が持つべき評価観について考察を加える。なぜなら﹁教育にとって. 評価ということは不可欠の要素﹂︿注一Vであり、このことは、作文教育にもあてはまるからである。もちろん. 評価と処理の方法を検討することも重要なことである。しかし、その評価と処理を単なる技術としてのみとらえ. ても、指導の基盤となるものが確立されていなければ学習者に的確に対応することはできない。. そこで、指導者としての作文の見方を明確にする。指導者の評価観が確立されてこそ、その具体的な方法も生 きて働くと考えるからである。. 藤原与一は、指導者の評価の姿勢を、次のように述べている。. ※今までの作文教育では、時に、熱心な指導が、かぎられた人々へのかたよった教育にならないではなかっ. た。 ノだれそれは文芸的な才能がある。ノなどと言われて、かぎられた人が脚光をあびたのである。そうし. てまた、そこへ別の先生が指導に見えると、今まで発見されないでいた﹁文芸的な才能の人﹂が俄然見いだ. されたりもした。これらの場合、他の多くの者は、自分らは文芸的な才能がないのだと、観念したり卑下し. たりしたのである。 ノ作文がへただ。ノということが、ごくふつうに考えられたのである。はて、作文がへ. ただということが、あってよかろうか。︿注二V n引用者注:※は文の途中からの引用を示す。]. ここではまず、 ﹁今までの作文教育では、時に、熱心な指導が、かぎられた確々へのかたよった教育﹂になっ. ていたことの反省が述べられている。さらに言えば、これは、従来の作文教育の指導のあり方に対する批判とも. 受け取れる。つまり、それまでの作文教育は全ての生徒に作文の力を付けるのではなく、場合によっては、一部. 一. 一. 25.
(30) の生徒しか対象となっていなかったと言うのである。. 当然、 ﹁熱心な指導﹂に問題があるのではない。 ﹁かぎられた人々へのかたよった教育﹂が問題なのである。. 作文教育は一部の人のために存在するのではない。仮に﹁文芸的な才能﹂があってもなくても、そのことに関 係なく存在するのである。. ﹁熱心な指導﹂が、結果として、多くの学習者に自分は﹁作文がへただ﹂と思わせていたのであれば、作文嫌. いが生まれてもしかたがない。厳密に言えば、作文嫌いが生まれていたのではなく、作文教育によって、作文嫌. いを生んでいたことになる。作文嫌いを作文好きにしょうとする指導者の評価の姿勢が問われるのである。. つまり、指導者の批評の言葉によって、学習者に、次も作文を書いてみようと思わせることができたかどうか を念頭に置かなければならないのである。. また、藤原与一は﹁その人︵個性︶に書かせ、その人を伸ばすのが、 ﹃作文教育﹄のしごとである。﹂︿注三V. と明言し、その根底にあるのが﹁個性尊重﹂であるとして、次のように述べている。. 作文することは、本人の責任行為である。私どもは、これを尊重せざるを得ない。. 作文することは︵表現することはV、その人の理解の生活の総量を、どのようにか運営することによって、. なされるものゆえ、私どもは、作文を見ることによって、当人の全生活内容一または、その反映一に対. 面することができる。そこには、その人なりの生活者としての厳粛な存在がある。作文指導上、その生活者 を、そのままに尊重することは当然である。. 私どもは、相手に作文させることによって、その人のものを産みださせるのであるから、その人の個性を 尊重しつつ、その生産の過程を助成しなくてはならない。︿注四V. 作文の指導を受けることによって、自分自身すら気付かなかった、意識の底に眠っていたものを発見すること. が、学習者の喜びである。突き詰めて言えば、それに気付かせることが指導者の重要な行為となる。もちろん、. ﹁. [. 26.
(31) このことは作文特有のものではない。話すことでも可能である。しかし、話すことも、自分を表現することでは 作文と同質なのである。. しかも、その前提にあるのが﹁個性を尊重﹂することであるなら、書かれてある内容が仮に問題のある内容で. あったとしても、それでその人の人格を判断してしまうのではなく、その内容自体を問題にすることが大切にな. る。あの人はああいう人という、人を固定化してしまうようなことを指導者は厳に戒めなければならない。あく. まで一事が万事というような判断をすることなく、よりょく生きようとする姿勢が見られれば、その姿勢こそが 大切であるということを強調しなければならないのである。. また、指導者として銘記しなければならないのは、学習者に書くことの﹁責任行為﹂があるのと同等に、もし. くはそれ以上に書かせた側にも﹁責任行為﹂が生まれるということである。しかし、そのことを恐れる必要はな い。仮に問題が生じても、そこで終わらせない前向きな姿勢が問われるのである。. そして、藤原与一は二文池中の、 文でもよい。一語でもよい。そこで私どもは、指導者として、おどろく のである。﹂︿注五﹀として、次のように述べている。. 専門の詩人が、この詩におどろくかおどろかないかは、私の知るところではない。私は、この詩におどろ. く。私は,詩‘のしろうとであるけれども、児童・生徒のこのような作品に対面して、私なりにおどろくこ. とができたら、私は、それで無上のさいわいである。さいわいを感じ、作者に共鳴して、私は私なりの作文 教育を実践していきたいと、こう考えるのである。 ︵中略︶. 相手が書いたものについては、それを打ち消すべきでないことはもちろんとして、それを、できればより. よいものへと、高めていくことが、私どもにゆだねられた、作文教育の指導である。そこに見られるものを、. よりどころにして、相手をさらにべんたつ︵鞭捲︶することが、肝心である。奨励の作文教育が、ひとえに 考えられる。︿注六﹀. 一. 一. 27.
(32) 名のある知らない他人の評価よりも、無名であっても自分を一番理解してくれる存在こそが、今、目の前にい. る指導者であると認めさせる指導がここには存在する。そして、 ﹁おどろ﹂きを学習者に知らせるためには、そ. の場での意図的な働きかけも時には必要になる。もちろん﹁おどろ﹂くためには、指導者の肥えたものの見方が 求 め ら れ るのである。. そして、 ﹁書いたもの﹂を、まず認める姿勢が指導者には望まれる。しかし、認めることは、学習者を受け入. れることであって、内容の全てを許容することではない。 ﹁打ち消す﹂のではなくでも、指摘をすることは必要. である。例えば、いじめはないほうがよいという学習者に対しては、それは角度を変えて言うと、いじめがあっ. ても別に構わないという意識のあらわれではないかと指摘することもできる。また、いじめをする側・しない側. の二つに分けた見方の学習者に対しては、なくす側のとらえ方もあるのではないかと指摘することもできる。こ. のように対話を続けることで、自分のものの見方・考え方を深めることに気付くと考える。そして、この対話が、 作文を﹁奨励﹂することになるのである。. このように、藤原与一は、指導者が学習者の﹁個性を尊重﹂し、作品に﹁おどろ﹂けば、 ﹁しぜん、心の底か. ら書くたのしみを自覚してくるはず﹂︿注七Vだとして、そのための手だてとして、次のように述べている。. 私は、 ﹁かれらの書いたもので、わるいものはない。﹂という受けとりかたをしたい。無批判にほめそや. すのでもなく、まずい文章をそのまま是認するのでもないけれども、原本の態度としては、書けたのだから、. それは尊いと考えてかかりたいのである。こうすることによって、すくなくとも、相手がたの書く生活に、. たのしみの感情を、どれほどかは、かならずかきたてることができると考えるのである。︿注八﹀. 何よりも、指導者の受け入れの姿勢を学習者に示すことが大切であると言うのである。文章の上手下手にかか. わらず、 ﹁書きあらわ﹂そうとしたことを、まず﹁尊い﹂として認めるのである。その上で、ほめることを考え. ればよいのである。しかし、ほめることは簡単なことではない。それが、いやみになってはいけない。いちばん. [. 一. 28.
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