教育令期における教員現職教育の展開 : 教員講習を中心として
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(2) . 佐竹道盛:教育令期における教員現職教育の展開. 教育令期における教員現職教育の展開 -- 教員講習を中 心として --. 佐. は. 盛. 道. 竹. じ. め. に. 明治5年の 「学制」 によっ て, わが国に近代的な教育制度が布かれて以来, その基礎的単位とし ての小学校の教員の養成は, 中央・地方を通じて最重点施策にとり あげられてきた,「学制」 の頒布 と同時に東京に官立の師範学校が開設されたのをはじめとし, 翌年以降各大学区本部を単位にその 増設がはかられ, 同時に府県でも養成校・講習所・伝習 所等さま ざまな名称で呼ばれる速成の教員. 養成機関や師範学校が設置されて, 小学校の増加に応ずる教員の養成がはかられたのである, 3年に至っ てもなお, 「教員ニシテ師範学科ヲ卒業シ しかし, 教員需給の実態は教育令期の明治 1 1 } ( ー ギズ 」という情 況にあっ た. しかも, このような有資格教 タルモノハ, 全国ニ通ジテ十中ノ ニ過. 員の不足は, おもに小学下等の課程を修了 しただけの少年を授業生もしくは助教に雇うことによっ 2 〉 また 「 扇境僻地ニ至テハ, 実ニ良師ニ乏キラ以テ, 大抵僧侶, 修験, 習 て補充されたのであり( , f , 字師ノ徒, 少シク字ヲ識り 書ヲ読ム者ノ僅 カニ 其員 ニ 充 ル」 よう な事実もあっ て, 「学事ノ振ハザ 3 } 」 と い う 指 摘 が なさ れて い た の であ る, ル 職 ト シテ 其 一 原因 タ ラ ス ン バ ア ラ ス(. 教員の量と質をめ ぐるこのような問題情況は, 一方 で教育行政に近代学校にふさわしい資質をそ. なえた教員を十分に供給しうるよう教員養成の 充実をうながすとともに, 他方現職教員の資質向上 対策を求めるものであった。 3年には, 就学率の低下に端的に現われた学校教育の弛緩 を, 教育制 度の面か 周知のとおり明治 1. ら引き締めることを目的に, いわゆる自由教育令の改正が断行されたのであるが, それは同時に教 員養成の拡充を期して法令が整備され, 教員現職教育施策が具体化される契機ともなっ た, とくに, 大幅に不足している有資ネ各教員を急速に充足することがのぞめない情況のなか で, 資質の低い現職 教員の再教育が政府によっ て熱心に推進され, 督励されることとなったのである.. 5年9月, 東京師範学校に府県の師範学校教員等を招集して開かれた師範学科取調員講習 明治1 は…, 「学制」 以来の教員に対して政府が実施したはじめての統一的な再教育方策であっ た, また, 6号達を発して督業訓導およ び教員講習所の設置によ 文部省は同講習の終了直後に府県あてに第1 5 ( ) る現職教員の 「改良」 を督励した , こうして, 現職教育施策としての教員講習が, 明治10年代後 期に盛行をみるに至ったのである, 本稿は, この教員講習について次の諸点から考察し, その教育史的意義を明らかにすること を企 図するものである, 2年の教育令制定以後さらに三度の制度改正をかさね, 模索をつづけ まず第一に同講習は, 明治1 2年-1 9年)の教育に, 単に不振の挽回にとどまらずより積極的に何 ていた広義の教育令期(明治1. をもたらそうとするものであったのか, その政策意図が何 であっ たのかを, 政策史的背景から明ら.
(3) . 佐竹道盛:教育令期における教員現職教育の展開 . . かにしていくこと, 第二に, 師範学科取調員講習がその後に組織された地方講習に対して有した原 型性を明らかにすること, 第三に, とくに従来の研究でとりあげられることのなかった, 講習の地. 方浸透の規模およ び地方講習の実態を明らかにし, 第四にそのことをとおして, 講習がこの期の教 育に実際に何をもたらしたのかその成果を解明し, あわせてその問題点を明らかにすることをめ ざ す も の であ る.. 工. 教育令期における教員講習の政策意図 1. 講習の政策史的背景と意図 10年代後期に盛行をみた地方の教員講習 文部省によ っ て督励され府県によっ て推進されて,明治‐. は, 教育不振の一因とみなされてきた教員の資質を, 米国伝来の開発主義教授法の伝達によっ て向 上させ, 教員に日常生活に役立つ実効ある教育を実践させ, それによっ て父兄の学校に対する信頼 を高めることを直接の目的とするもの であっ た. 全国でも有数の講習推進県となっ ていた兵庫県の. 学務課が発行した 「兵庫県教育雑報」 は, このような講習の目的を, 講習の背景およ び内容ととも に的確に要約提示している. 従来学校ノ教授宜シキラ得サルヨリ随テ活用ノカ鈍ク其甚シキニ至りテハ三四年モ小学ニ従事. セシ生徒ニシテ尚日常ノ請取文ヲ記スル能ハサルカ如キ実アリテ終ニハ延テ学校ノ益少ナキノ誹 りヲ来タスニ至レリ弦ニ於テカ此弊ヲ矯メントシ教員ノ注意ヲ喚フハ一般ノ輿論トナリ先ツ差当 り教授法ノ改良ヲ必要トシ教員講習ノ途ヲ開カサルノ府県ナク我県小学ノ如キモ夙ニ教員講習ノ 6 } 法ヲ設ケ勉メテ開発ノ法 ニ拠り着実悪到ノ教授ヲ施シ大ニ面目ヲ改メシメンコトラ企図シ( こうして父兄の教育に対する信頼を回復させ, それをてことして停滞しがちな教育の量的拡大を はかるのが講習の究極的な目的 であっ た. 兵庫県とともに意欲的に講習を組織し教育会雑誌によっ. て全国に紹介された群馬県の講習担当者の 報告がこのことを端的に物語っ ている. それは,「本会の. 目的とする所蓋し教育の普及上進を図るは先つ教員を改良するに在りと云 、に外ならざるなり」と, 7 } 講 習 の 目 的 を明 示 し て い る( .. 以下, このよう な意図と内容をもっ て地方に浸透した教員再教育の施策が, どのような事情のも. と で形 成さ れ た の か を 中 央 レ ベ ルに つ い て 検 討 し て い き た い.. 「学制」 期以来の教員に関して, その資質の不十分なることが, 政策担当者の意識にのぼり, 統 一的な改善 策が検討されるようになるのは, 明治1 0年代初期の小学校教育の不振を背景として, 不. 振の主要な原因と目されていた教育令の改正 が政策上の日程にのぼる明治1 3年頃からであっ た.教 育の停滞は, 教員資質の低さにも原因があるとみられるようになっ たため である. 13 年 6 月明治天皇の巡幸に供奉して山梨・長野・愛知・京都などの府県を巡視した河野敏 鎌文 部卿は, 巡視直後に教育令の改正構想をも1 )こんだ意見書を 「地方教育視察報告書」 として上奏し. たが, そのなかには統一的な教員改良方策もおりこまれていた.. 河野は無資格の授業生を多数かかえる小学校の不完全な実態を指摘し, それが,「其授業ノ態疎漏 ニシテ生徒畔習ノ便ヲ失」 わせている事実をあげ, これに対する現実的な対処策として 「其人ヲ更 メテー々良師ヲ得ントスレ バ給料乏ヲ告ルラ以テ此ヲ為スニ由ナ シ故ニ之ヲ改良セントセハ現ニ任 ズル所ノ教員授業生等ラシテ漸ヤク教授ニ慣熟シ学業ヲ進修セシムルニ如クハナシ」 という現職教 8 ) 育を提唱し, 師範学校教師の小学校巡回を含む具体策を示したの である{ . このような文部省首脳の提案を背景として,現職教育は明治15年にいよいよ現実化の段階を迎える 9 ’ こととなった.「小学校ノ改良ヲ計画 スルニハ先ヅ師範学校ヲ改良セザルベカラズ( 」 として, 文部 省によっ て府県の師範学校関係者等を対象として実施された師範学科取調員講習がその端初となっ.
(4) . 佐竹 道 盛: 教育 令期 に お け る 教員 現 職 教育 の 展開. た,. ここで, 全国規模の講習施策に着手した文部省が当時どのよう な現職教育の方針を立てていたの l o ) かを, 同省の 「示諭( 」によっ て検討していきたい. 文部省は師範学科取調員講習開設直後の15年 1 1月に,「府県学務課長府県立学校長ニ親ク地方学事ノ実況ヲ諮フカ為〆」に学事諮問会を開催した 1 1 ) そこには諮問事項のほかに文部省の施策全般にわたっ てその趣旨・ を説明した 「示論」 が提示 が( , された, この 「示論」 のなかに 「小学校教員ノ改良」 に関する 基本方針が明示されている,. 「示諭」 によれば, 地方の教員の実況は, 「現今教員其人ニ乏シク到ル処ノ小学校ノ・授業生等ヲ設 キ教授ノ事ヲ助ケシメサルモノナク其甚シキモノニ至テハ専ラ授業生ニ教授ノ事ヲ負担セシムルモ. ノアリ」 と, 河野文部卿の報告書以後, 事態がなんら改善されていないことを示していた. そのた めに「教授上ノ景況ヲ観察スレハ弊 風亦随テ砂ナカラス……且ツ其管理ノ方法ニ至テモ均シク拙劣」 な情況が現われていた, このような事態に対しては, 府県においてもす でに対処策がとられていた.「府県ニ於テモ夙ニ此 ニ着目シ……教育会ヲ常助スルモノアリ又巡回訓 導ヲ設キ或ノ・各小学校ニ出入シテ授業ノ得失ヲ考 察シ或ノ・講習 会ヲ開 テ授 業ノ方法ヲ伝習セシメ之 力改良ヲ計画スルモノアリ」 というのがそれで あった, 一方文部省は÷ このような府県の動向に対して 「教員ヲ改良シ 普通教育ノ 進歩ヲ計ランニ ハ此等ノ方法ヲ除テ将タ何ニ依ランヤ」 として, これを容 .認しつつ現職教育を次のように位置づけ た の であ る.. 教育漸ク民間ニ普及セントスルノ今日ニ当テ筒モ教員改良ノ方ヲ求ムルニ疎ナルトキノ ・所謂夫 .. ノ 人ノ 子 ヲ 賊フ ノ 議 ヲ 免 レ サ ル ノ ミ ナ ラ ス 遂 ニ ハ 父 兄 ノ 信用 ヲ 失 ヒ 之 ラ シ テ 学 校 ヲ 無 用 視 セ シ ム. ルニ至ラントス是し教育ニ従事スルモノ・深ク注意スヘキ所ナリ このように文部省の方針は, 父兄の信用を確保して, 教育の普及進歩をはかるために現職教育の 実施を企図するものであっ た. ところで, 教員改良施策を方向づけた文部省の基本方針としては, さらに小学校の学科教授の実. 用化をあげなければならない, いっ たい小学校の学科の実用化は, 12年に明治天皇の内意を元田永 学が筆記した 「教学聖旨」 のなかで特に強調されたものであり, ついで改正教育令や教育内容の準. 則である 「小学校教則綱領」 も, この方針を明示していたのである. 「示諭」 は, この 「小学校教則綱領」 の趣旨を敷僻して, 「読方ノ・略々普通ノ文ニ通セシメ民間日 用ノ文字ヲ知ラシムルラ旨トシ雅言華文ヲ修メシムルラ要セス作文ノ・主トシテ日用手簡ノ類ヲ栽シ 簡易ノ事実ヲ記述スルノカラ養フヘク習字ノ・民間其用最モ多キ行書草書ヨリ始メテ後楢書ニ及ホシ 其手本モ亦日用ノ文字ヲ撰フヘク算術ノ・専ラ日用緊切ノ問題ヲ撰ヒ施算ニ練熟セシム」 と各学科別 に具体的に実用化の方向を指示したが,それは同時に教員改良の向かうべき方向でもあっ た,「示諭」 は教員改良に関して,「説ク所学理ニ偏シ実用ニ疎ナルモノ等アリ……改良スルノ法ヲ設ケスシテ可 ナランヤ」(「小学校教員ノ改良」) と, 現状批判のなか で実用化の方向を指示していた.. このように師範学科取調員講習を実施した文部省の現職教育の基本方針は, 小学校の学科を実用 化する方向で教員を改良し, それによ っ て父兄の信頼をつなぎとめ, 教育の普及拡大をはかること. を意図するものであっ たといえる. この方針はまた小学校改良の前提として文部省の主催で実施さ れた師範学科取調員講習をも当然に支配していたとみてよいであろう, ところ で,「示諭」 には現職. 教育の教育内容についてはなんら具体的な提案はみられないが , 師範学科取調員講習を直接担当した 東京師範学校の校長高嶺秀夫が示した講習内容がその後の地方講習に大きな影響を与えていっ たと ころからみて, それが政府の方針にそうもの であっ たことが推測される. 高嶺は15年暮れに東京師 範学校の実況を参観した府県学務課長等に対して行なっ た演説のなかで,「師範学校ノ・他ノ学校と殊.
(5) . 佐竹道盛:教育令期における教員現職教育の展開. ニシテ唯ニ其学科ヲ講習スルノミナラ ス之 ヲ人ニ講習セシメ人ニ知 識ヲ与ルノ順序方法ヲ討究ス可 キニ在ル事既ニ明カナリ」 と教授法の討究という師範学校独自の使 命を強調しつつ, さらに同校の 教員養成の基本方針について,「学問ハ記議ニ流しス字句ニ泥マス実事実物ニ就テ其観念ヲ開発スヘ キニアル事亦既ニ明カナリ我師範学校ニ於テ教授スル所ノ趣旨ノ・皆コノ意ニ原キ経営スル所ノモノ ナリ」 と記詞注入の方法を去っ て実事実物にもとづく観念開発の方法を中心にすえていることを明 らかにしていた, これこそ ペスタロ ッ チ主義の開発主義教授法にほかならない. 高嶺が明治8年に. 政府派遣の留学生と して渡米し, ペ スタロ ッチ主義運動の中心となっ て いたニュ ーヨークのオス ウィ ー ゴウ師範学校において開発主義を学んだ後1 1年に帰朝し,東京師範学校においてその実践に. あたっ た ことは周知のとおり である. 高嶺はまた, 地方師範学校に対しても,「願ハクハ教育ニ従事. スル諸君ト共ニ先ツ師範学校教授法ヲ改良シ以テ全国ノ小学校ニ及ホシ天下ノ児童ラシテ学ヲ好ミ 1 2 ) した 道ヲ重スルノ良民タラシメン事ヲ」 と新教授法による教員養成の方向を指示したの である{ . がっ てこのよう な基本方針をとる東京師範学校においてす でに開始されていた師範学科取調員講習 が, この開発主義教授法の伝達を内容とするものであっ たことは明らか である. 以上, 要するに文部省の現職教育の方針は, 小学校の教員に実物に即して児童の観念を開 発する. 開発主義教授法を伝達し, 懇切に して日用適切 な教育をなさしめ, 父兄の信頼を高め教育の普及上 進をはかることを目 ざすもの であり, 師範学科取調員講習は, そのような小学校教員の改良の任に. あたる現職教育担当者の養成を期して実施されたものであるといえる. 6年8月には,いよいよ現職小学校教 このような使命をになった師範学科取調員講習の終了直後の1. 員の再教育のために 「教員ヲ益々 改良スルハ目下緊要ノ事ニ有之候条或ノ、教員講習所ヲ設ケ又ノ、督 業訓導ヲ設ク等適宜計画シ其施設ノ規則方法等取調可同出 此旨相達候事」という文部省第16号達が 府県あてに発せられて, 講習が各地 で組織されていっ たが, それらの講習は前述の群馬およ び兵庫 にみられるように, 中央の政策路線にそうものであっ た. 2. 講習の原型 師範学科取調員講習は,東京師範学校長高嶺秀夫の裏議を文部省が承認して 実現したもの である. 5年9月から16年7月までの1学年間に, 府県の 高嶺は, 東京師範学校の本科生に 欠員の生ずる1 教員経験者を対象に, 同校 で研究のす すん でいた新教授法を伝達し府県の教授法の 改良に役立てた いとして棄議におよんだもの であっ た. 高嶺は,「方今教育ノ理論法術共ニ漸次改良ニ 趣キ数年前本 校創業ノ際ニ於テ教授セルモノ大ニ今日教授スルモノ ト異ル所アリ地方ニ於テモ本校教授法ノ改良 アリシコトラ聴テ往々教員或ノ・学務吏員ヲ本校ニ派出シ探 究スル所アラントスルニ僅ニ二三週間ノ 時日ヲ以テ之ニ該テ来校スルノミナレハ其外形スラ猶之 ヲ察スルニ足ラス」 という事情を考慮して 1 3 } こ の 提 案 を な した の であ っ た{ .. 5年6月 7 日に 各府知事県令あてに師範学科取調員の派遣方を照会し, 同 こうして文部省 では, 1. 月中に派遣の有無を回答するよう促した.. この文部省の求めに応じて, 師範学科取調員を東京に派遣したのは, 第1表に示す1府24県であ. り, そ の 人 員 は 29名 で あ っ た. こ う し て 15 年 10 月 7 日には, これらの師範学科取調員 が神田の昌平館に招集され, 文部卿およ. び普通学務局長から, 教育の要旨について説示がなされた. 講習内容としては, 「師範学科中殊ニ重 要ノ学科即教育学心理学学校管理法諸科教授法」 と実地授業の練習が先に府県あてに通知されてい たが, この時さらに, 唱歌, 礼儀およ び本邦法令等師範学科に新たに加えられたもので, 従前実施 されていなかっ た学科を含めることと, 体操伝習所において体操法を兼習することが, 明らかにさ 1 4 } このような経過 で 同講習はほぼ予定どおりその前半を教育学等の理論の研究に 後半を れた( , , ..
(6) . 佐竹道盛:教育令期における教員現職教育の展開. 第1表 府県師範学科取調員 当 初 参 加 者. 府県名 山. 形. 千. 葉. 京. 都. 石. 川. 福. 井. 山. 口. 大. 分. 福. 島. 島. 根. 広. 島. 富. 山. 岩. 手. 静. 岡. (注). Q U. 左のうち体. 卒 業 者 操 兼習者 Q U. . ▲. I ◆ ▲. I ←. . ▲. . ふ. 1 ・. ・ 1. っ ”. り ”. つ ム. . ム. 1 1. ー 1. ー ム. 1 1. 1 1. ー ▲. 1 ▲. . ▲. っ ”. っ ”. n ム. . ←. . ▲. ー ▲. . ←. . ←. . ←. . ←. . ▲. . ←. . ▲. ・ 1. . ←. . ▲. 1 ←. 1 1. 府県名. 左のう ち体. 当 初 参 者 加. 高. 知. I. 山. 梨. I. 宮. 城. I. 福. 岡. I. 函. 館. I. 鹿 児島. I. 鳥. 取. I. 岡. 山. I. 秋. 田. I. 茨. 城. I. 岐. 阜. I. 愛. 媛. I. 計. 卒 業者 操 兼習者 1 1. 1. 一 1 1. 1. 29. 1. 一. - 一. 一. -. 一 , 一. 26. 22. 本表は, 官報第9号 (明治16年7月1 1日) および同第1 5号 (明治1 6年7月18日) 並びに 文部省第11年報によって作成した。. 第2表 講習学科別開講府県数 学. 科. 府県数. 学. 科. 学校管理. 25. 物. 理. 授. 業. 法. 25. 化. 学. 教. 育. 体 心. 理. 学. 23. 修 身礼法. 操. 20. 図. 画. 学. 12. 唱. 歌. 府県数. 学. 科. n X U. 幾. 何. 3. 博. 物. 2. 農. 業. 2. 兵式体操. 2. n X U r h U r U Q U. 府県数. そ. の. 他. 11. 「 (注) 1 . 本表は, 官報」および「文部省年報」 の講習関係の記録によって作成 した。. 2 6年から1 9年までであり, 府県の総数は開講学科の明ら . 期間は明治1 ら か な29府 県 であ る。. 実地授業にあてて, 1 6年7月に終了したの である, この師範学科取調員講習は, 地方講習に多大な影響を残していっ た,16号達は講習の具体的方法 についてはなんら指示していなかっ たため, 地方 では師範学科取調員講習に準じて, 講習を組織し. たものとみられる, その影響として第一にあげるべきことは, 取調員 が地方講習の担当者として活 動したことである,「福島県師範学校ニ於テハ小学教員講習会ヲ開設シ十月一日開会式ライテヒ翌二日 ヨリ之ヲ実施セリ其ノ目的タル曇ニ上京ヲ命シ置キタル師範学科取調員ノ今般卒業帰県セルヲ以テ 1 5 } 改正教授法ヲ一般ニ普及セシメ ントスルニ在り{ 」 という福島県のほかに, 京都・静岡・石川・岡 山・山梨・広島などの府県が代表的な事例としてあげられる.. 師範学科取調員講習が地方講習に与えた影響のなかでも特に重要と思われるのは, 教育内容に対 するそれである,「師範学校ノ・殊ニ教育学学校管理法授業法等ノ教授ヲ重 ズベキ所ナ ルニ此等の学科 ノ・却テ放棄セラル・ノ事実無キニアラズ且実地授業ノ・師範学科中尤モ要用ナルモノナ ルニ今ニ至ル 5.
(7) . 佐竹道盛:教育令期における教員現職教育の展開. 1 6 } 」 として, 師範学科取調員講習 で中心にすえられた学科が, 地方講習 マデ之ガ進歩ノ著キラ見ズ( にも踏襲されたことは, 第2表に明らか である. 地方講習の学科も, 教育学等の教職専門科目と体 操伝習所の開設によ っ てようやく地方 での実施が緒についたばかりの体操術の伝習が中心となっ て い た こ と が知 ら れ る.. 2名の者が, それを兼習したため, 体操伝習所卒業生の なお, 体操については師範学科取調員中2 1 7 ) こ のよ うに 取調員 は 草創 7県から 2 府 37 県 に 広 がる こ と と な っ た( 就職地はそれま での2府2 , . 期の体操術の普及にも貢献したの である,. 1 8 ) 」とし さらに,「諸君ノ・……在学中ノ・他事ヲ郷チ専勉学校規ヲ遵守スヘキハ生徒ト同 一タルヘシ{ たことも指摘しておかな 兵庫な どに影響を与え 理の方法が広島 た師範学科取調員講習の講習員管 , ければならない. たとえば広島 では, 講習員は 「皆準官等ヲ有スル人々 ナレトモ当校ニ於テ講習中 ノ・殊別 ノ取扱ラナ サス総テ校規 ヲ遵 守 ス ヘキ事 本校生徒同様タル ヘキ」 旨規 定 していたの であ 1 9 ) 兵 庫県に つ いては 後述に ゆずり た い る{ . .. 1 1 . 教員講習の地方浸透 1. 講習の地方浸透と実態 地方の教員講習は, 明治16年に府県レ ベルのものからその組織化がは じまり, 教育令の終期に至 9年までの間に全国で開催された府県レベ ル るま での間にほぼ全国に浸透 していっ た.ここに明治 1 の講習を 「文部省年報」 , 「官報」 およ び 「大日本教育会雑誌」 によ っ てまとめてみると 第3表のと お り と なる.. ここで, 第3表の府県のうち特にその講習が継続的組織的に実施され, しかも中央の方針が忠実 に踏襲され, それでいて種々の 工夫のみられる兵庫県をとりあげ, 講習の浸透と実態を詳細に検討 し て い き た い,. 6年8月の16号達の発 6年春に現職教育のため教員 伝習寄宿舎を発足させていたが,1 兵庫県は1 2 0 } ( 布にともない, 規則を定めあらためて教員講習所を発足させた . ところで, 兵庫県の教員講習方策の特 色をあげれば, その第一は, 当時各地 で講習実施をはばん でいた講習経費の負担方法に工夫を加えた点にあっ た, 府県立師範学校通則に よれば,「当師範学校 第3表 府県教員講習実施状況 年. 度. 明 治 16 17. 18. 19. 県. 府. 福島1回. 岡山1. 京都2. 山口1. 講. 合. 習. 府 県 数. 群 馬1. 兵庫3. 福井1. 静岡1. 長野1. 福島4. 京都2. 兵庫8. 広島2. 石川 2. 山形2. 函館1. 富山1. 宮城1. 山梨1. 札幌1. 新潟1. 群馬10 三重1. 島根1. 栃木2. 東京1. 静岡1. 鳥取1. 滋賀1. 長野1. 福 島1. 岡山1. 京都1. 兵庫1. 広島2. 石川 2. 山形2. 富山1. 三重2. 島根2. 栃木4. 東京4. 滋賀2. 岐 阜1. 長崎1. 秋田 2. 愛媛 2. 大分11 宮崎1. 埼玉1. 大阪1. 群馬9. ’1 長野. 福 島1. 兵庫3. 石川6. 山形2. 宮城 2. 長崎1. 大分11 大阪1. 宮崎1. 鹿児島2. 徳島1. 長野1. (注) 群馬県以外はすべて府県主催の講習である。. 岩手1. 計. 講習回数. 9. 12. 21. 45. 23. 55. 13. 33.
(8) . 佐竹道盛:教育令期における教員現職教育の展開. ニテハ二百余名ノ増員」 となるが,「一時増員ノ見込モ無之由りテ先当分ノ内百名ヲ募集シ残百余 2 1 ’ ニ当ルヘキ費用ヲ以テ今日必用ナル現在小学教員ヲ改良セン」 というものであった( , こうして, 講習員の食費およ び書籍・機械費一切を師範学校費 で支弁することが可能となっ たの ある,. 第二の特色は, 講習の主旨を, 徳育と国体維持のための教育を強調した文部卿福岡孝弟の師範学 取調員講習における演説によ っ て基礎づけた こと である しかも福岡の演説書は額面として講習 . 2 2 ) に掲 げる こ と が規 定 さ れ た の であ る( .. 第三の特色は, 講習学科目にあっ た, 教職専門科目と体操を正科と した点は全国的動向と一致す が, その他に予科として 「弘道館記述義」 と 「小学教員心得」 をとりあげ 「講習教員中一二名ヲ. 令シテニ三葉ヲ講読セシメ而シテ各教員ラシテ建国ノ体制 ニ基キ尊王愛国ノ志気ヲ養成 スルハ普 2 3 ) 教育ノ急務タル事ヲ知 ラシメ」 ようとした点, 他の府県と異なる特色 であっ た( . このように兵庫県は, 教育政策上のあらゆる要請に忠実にこたえようとするもの であっ た ただ . メでは城崎美含郡長の 「諸君モ厳寒講習ノ苦ヲ卒ヘテ梅花ノ綻ルラ楽ントス帰校ノ上ノ・果シテ彼ノ 発主義ニ依り活動可憐ノ花ヲ能ク噸笑セシメ」 という演説から明らかなとおり 開発主義教授法 , 29 重 点 を お い た 受 け と め 方 が なさ れ て い た の であ る( .. なお, 兵庫県学務課では独自に註釈を増補した『小学校教員講習用増註弘道 館記述義』を発行し , 売 し て い た.. 1月以降, 師範学校を会場に第4表に示すとおり数郡ずつ順次講習が実施され こうして, 16年1 表4表 兵庫県における県教員講習会 第1 回 第2 回. 明 治16年11月22日 -17年 2月2 3日 17年3月2 6日まで. 7名 摂津国, 有馬郡, 訓導3 神戸区2 4名. 第3 回. 17年 3月 1 日 -5月6 日. 第4 回. 17年4 月 1 日-6 月 6 日. 第5 回. 17年 5月 9 日か ら. 第6 回. 17年 6月 9 日一10月 8 日. 第7回. 17年 9月 2日-1 1月1 9日まで 宍粟郡; 美嚢郡, 多可郡, 武庫郡, 多紀郡26名 7年1. 第8回. 1 7年1 0月12日-1 2月24日. 第9回. 17年11月21日 -18年 2月1 3日. 第10回. 18年1 月10日- 3月3 1日. 飾東都、 佐用郡2 6名 神戸区, 加西郡2 6名. 加 古郡, 川 辺 郡, 飾西郡26名. 明石郡, 川辺郡, 武庫郡, 菟原郡2 6名. 加東郡, 印南郡, 赤穂郡, 津名郡、 三原郡2 5名 八部郡, 揖東部, 揖西都, 朝来郡、 と美郡, 二方郡1 5名 氷上郡, 出石郡, 気多郡、 城崎郡, 美含郡, 神東郡, 神西郡15名. (注) 資料は 「官報」 および 「兵庫県教育雑報」 による。. この講習はいずれも少人数で実施されており効果をあげたものと推測される. ところで, 講習員管理に ついては, 師範学科取調員講習のそれに通ずるよう な厳格な規則 が定め 2 5 } れていたが,「遊歩時間出中規則ノ門限ヲ犯シ帰校セシ段不都合ニ付諸責ノ上謹慎七日申付( 」ら 2 6 ) る者や 「校内ニ於テ窃カニ飲酒セシ段教員タルノ資格ニ対シ不都合何レモ詰責ノ上謹慎( 」 と, 分をうけるものが実際にあ らわれているところから, 規則のき びしい適用が知られる なかには . 学校長1名を含ん でいるだけに管理の厳正さがうかがえる .. こうして県講習が終ると, 郡区では直ちにその成果を各学校に浸透させるべく 伝達講習を実施し. い た.. このことは兵庫県下の各郡に共通するもの であるが, ここでは加古郡に例をとって講習の浸透の 相 を 明 ら か に し て い き た い. 同郡 では, 17 年 7 月 9 日付をもっ て同郡教員講習規則に対する県の ヮ 十.
(9) . 佐竹道盛:教育令期における教員現職教育の展開. 4小学校を4組に分ち講習を発足させた. 講 指令が出ると, 同月 20 日から 20 日間の日程で郡下の1 習員には弁当料を給し, 通学に不便な者は寄宿させるなどの方法をとっ た. 講習の科目は,「神戸師範学校ニ於テ伝習スルモノト同シ乃チ正科ニハ 教育学, 学校管理法, 教授 術, 実地授業トシ予科ニハ弘道館記述義トス」 るものであっ た.. なおまた 「講習委員ノ・本年六七月中神戸師範学校ニアリテ講習セシモノニシテ帰郡後直ニ委員ノ. 職ヲ命セラレ休養ノ隙モナカリシ」 というように講習の組織化が急がれた様子も明らか である. 今 20名について, その資格構成, 俸給の平均およ び年齢別構成を示すと第5表のとお 同郡の講習員1 2 7 ) り であ る( ,. われわれは, ここに河野文部卿や文部省 「示諭」 によっ て指摘された地方教員の実態と 全く同じ 情況を目のあたりに見ることができると同時に, 講習施策の有した意義をあらためて知らされるの であ る.. 加古郡 では, 講習の成果を永続させるためにさらに次のよう な方策をたてていた. すなわち,「教育管理ノ道至テ深ク授業ノ術至テ難シ而シテ僅々二十日間ニアッテ十分ノ結果ヲ望. ムヘキニ非サルナリ故ニー旦講習ヲ終レハ毎月講習会ヲ開キ各教員ヲ講習セシメ更ニ月末日曜日ヲ 期シテ訓導ヲ郡役所ニ召集シ曽テ講習セシ所ヲ切瑳講究セシムルノ法ヲ設」 けるなど, その定着が 2 8 } は か ら れ た の で あ る{ .. 9年ま での間に兵庫県下の各郡に 講習があいついで開かれたことを「兵庫県 7年から1 こうして,1 教育雑報」 が伝えている. 9年に至っ て大きな障害に逢着することになっ た. ところが, このよう な動きも明治1. 教員講習ノ・本年亦之ヲ開キ講習済ノ上其郡区ノ教員ニ再ヒ伝習セシメタリシモ経費少キカ為ニ 十分ノ神益ヲ与フル能ハス小学督業ノ・毎郡区一人ヲ配置セシカ今ノ・僅ニ九名ヲ存ス或′・全廃ニ至 ルモ知 ルヘカラス抑々教員 改良ノ・此二途ニョルノ計画ナリシモ民力困弊 ノ為ニ此障碍ニ遭ヒシハ 9 2 } 頗 ル 遺 憾 ト ス ル 所ナ リ( 第5表. 郡 区教員 講習会. 講 習 所 第 一 講 習 所. 第 二 講 習 所. 教員資格 月俸平均. 平均年齢. 人 員. 導. 8.00. 20年 7 月. 6人. 補助 員. 4,00. 21年. 訓. 導. 7,00. 25年1月. 補 助 員. 3.13. 18年 5月. 授 業 生. 1.43. 14年 4 月. 雇. 2,33. 16年 7月. 導. 7.87. 29年. 補 助 員. 4.03. 21年10月. 授 業 生. 2.00. 14年. 訓. 訓 第 三 講 習 所. 21 7. 7. 27人. 32. 3 8 17 2. 2.41. 16年10月. 11. 8.43. 34年 3月. 7. 補 助 員. 3.73. 24年 2月. 11. 授 業 生. 2.25. 15年 7月. 2. 2.87 3 1 7年 属 「 (注) 資料は 兵庫県教育雛報」 第17号 (明治17年9月5日) による。. 8. 合 計. 15. 導. 雇. 訓 第 四 講 習 所. (加古郡). 38. 23.
(10) . 佐竹道盛:教育令期における教員現職教育の展開. こうして, 文部省が督励した教員 「改良」 の方法がいずれも大きな壁につきあたることとなり , さらに2 0年には講習そのものの衰退すら伝えられるようになっ ていた . 抑本県ニ於テ明治十六年小学校教員講習規則ヲ達 セラレ爾来ーノ間隙ナク第一種即 教育学ニ授 業法ニ学校管理法ニ体操ニ予科ニ及第二種即 動物学ニ金石学画学等ヲ講習 セシメラレ此間 県下各 訓導ヲ召集シ定期ニ於テコレラ卒業セシメ更ニ郡学区ニ於テコレカ伝習ラナサシメラレ…… 熟々 当時ノ景況ヲ回想 スレハ何日ヲ以或ハ郡区内某ノ校舎ニ於テ何学区講習ノ表札ヲ揚ク杯我同職諸. 君ノ報道ニョリ或ノ・途キ テノ際ニ或ノ・教育雑報ニ稜々跡ヲ断タス実ニ開発主義ノ勢力 ノ非常ナリ シ ラ今日ニ於テ追 懐シテ止 マザルナリ 然レトモ物変り星移り曇ノ郡講習又ノ・学区講習ノ報道モ梢絶エ又教育雑報 ニ於テモ漸ク此レカ通 知ノ僅少ナルニ至りタルノ感ノ・余輩今日ニ於テ或ノ・無キニ シモ非ザルナリ夫し各区郡ニ於ケル教 育会設立等ノ事ノ・益盛ナルカ如キモ其成績タルヤ概 子開発的ノ教授法ニ 関スル事項ハ梢勢力ヲ失 3 0 )… … … セ ル モ ノ ノ如 シ{. 兵庫県の講習についてその衰退が指摘された明治2 0年前後の時期には,他の府県でも講習施策に 大きな変 容がみられるようになっ ていた , 講習をめ ぐる変化の一つは, 講習の先進地ともいうべき県のいく つかにみられる講習内容の変容 である, それは,「福島県ニ於テハ小学校教員擬択ノタメ臨時各郡ヨリ三名乃至四名宛ノノ J ・学教員ヲ 召集シ本月十日ヨリ凡五 週間兵式体操農業理科数学等ノ大意ヲ講習」 させるような動きに具体的に 3 1 ) 現 わ れ た も の で あ る( .. 特に森文政下のこの時期に教育政策の中心にすえられた兵式体操およ び実業に講習の重心が移る 傾向は,「教員講習ノ・本年六回之ヲ開ク内一回ノ・女教員ナリ毎回大略三十名三十日間トシ其科目′・農 業兵式 体操 教育 学音 楽編物 西洋洗濯法等ニシテ皆目下緊要ナルモノナリ」 という石川県の場合に 3 2 ) なおそのほかに県レベルの講習規則を廃止した埼玉県の動きも 端的にあらわれるものであっ た{ . 3 3 ( ) 注目される . もとより,20年に新たに師範学科取調員講習型の 講習を組織し実施する県も熊本・. 神奈川などいくつかあげられるが, 石川・兵庫・福島・埼玉など先進的な県での衰退ないし変容の 動向からみて開発主義を中心にすえる全国規模の統一的な施策という性格は変質しつつあっ たとみ 2年以降さらに多くの県に広がるの である. てよいように思われる. 講習内容の変化は2 2, 講習の成果と問題点. 明治1 0年代の後期を通じて, 講習は34の府県に浸透していっ たが, この講習の成果としてまず 第一にあげるべきことは, 「新主義新教授法の普通教育を風摩し寒村僻邑の村夫子と錐もペスタロ. 0年代後期の開発主義教授法の盛行で ジーの説を聴かんと欲する意を生じたろ事」といわれた明治1 3 4 ) あ る( .. 成果の第二は,講習が実地に即した授業研究の気運を高めるのに大きな役割を果したことである. たとえば宮城県登米郡 では, 明治1 9年6月に「一週間佐沼登米両学区ノ教員ヲ招集シテ大演習会ヲ. 執行セリ該会ノ・一般ノ演習会ニ一歩ヲ進メ平常演習 スル所ノ教育学授業法ヲ実地ニ照合シ其ノ可否 {ママi. 得失ヲ講究スルノ趣向ニシテ各校日用ノ表簿類各教育目ラ製作スル所/各学校近傍ノ地図地誌略並 ニ理学簡易器械等ノ発明品, 鉱動植物標本類ヲ出品セシメ以テ其ノ応用適否ヲ研究シ」 ており, 単 なる理論の考究からすすんで, 教員が日常の実践成果を持ち寄り相互に討究するところまで高まっ 3 5 ) て いた こ と が知 ら れ る( .. 授業研究の日常化の試みとしては, さらに小学批評会の組織化があげられる, 東京府南足立郡 では, 明治1 9年7月「教授草案及実地授業ニ就キ会員互ニ得失ヲ批評シ以テ教授. ノ改良ヲ謀ル」 ために小学批評会を発足させたが, それは, 郡内の小学校長およ び教員をもっ て会 9.
(11) . 佐竹道盛:教育令期における教員現職教育の展開. 員とし毎月 1回小批評会を開き, その成果を記録にと どめ, 毎年1回開催される大批評 会の際には 3 6 ) このように授業研究を地域 その記録を持ち寄り, 全郡の教員が検討し合うというもの であっ た( .. に定着させる試みが各地にみられたの である. 同じような批評会が, 実地授業批評会の呼称で広島 3 7 } いずれも組織的継続的に講習の推進に あたった府県 であるだけに注目 県下にも開設されていた{ . さ れ る と こ ろ で あ る.. このように, 教員講習は注目すべき成果を残していっ たが, そこには同時にいくつかの問題も露 呈していた. われわれは, それらの問題点をもあわせて講習の全体像の把握につとめなければなら ない. 以下講習の問題点を明らかにしていき たい, 講習をめ ぐる問題 点の第一は, 講習の効果に大きく影響する講習期間 がいずれの地にあっ ても短. 期に終り, その効果を疑問視する声が絶えなかった点である. 西村貞は, 第16号達によっ て講習が 6年10月に, 府県における講習開設の気運の高まりを指摘しつつ 「此気運ニヨ 督励された直後の1. リテ之ヲ観レハ種々ノ方法ニ拠りテ教員講習ノ目的ヲ達スヘキノ計画尚続々各所ニ起ルヘシト難其 講習期限ヲ問ヘハ数週間或ノ・数十週ニテ皆甚短キニ過 クルノ恐ナ キラ保セス是 余ノ憂慮スル所ナ 3 8 ’ この問題は 講習経費の負担や教員欠乏のなかの授業 リ」 という懸念を表明していたの であるが( , 0 時間の確保とも深いかかわり合いを有するもの であっただけに, 地方財政の逼迫がつ づいた明治1 年代後期にはその解決には大きな困難を伴なうもの であっ た.明治20年5月に一府六県の学事を視 察した黒田定治の報告は, その時期に至っ てもなお講習期間をめ ぐる問題点が解決されずその形骸 化が起っ ている事実を伝えていた. 地方諸府県ニ於テハ時々 各郡区ノ小学校教員 ヲ召集シテ教育 上必須ナル諸学科ノ 講習会ヲ開カ ル是し固ヨリ教育改良上ノ美挙ニシテ予等が賛成スル所ナレトモ又蔦ン ゾ此講習ヨリ起ル所ノ弊. 害ナシト云フヲ得ンヤ何トナレ バ此講習会ナルモノハ大抵師 範学校ニ於テ各郡区ヨリ各校長若ク ハ首座教員ヲ召集シ理化学教育学等ノ六ケ敷学科ヲ三週乃 至五週ノ僅少日子ニテ講習スルモノナ レ バ講師ノ説ク所モ自然疎略ニ 流し会員モ亦其深奥ヲ叩 ク能ハサルハ勿論 其大体ラモ知ル能ハ ズ. 而シテ此不消化ナ ル知識ヲ得テ各自郡 区ニ帰り更ニ之ヲ訓導若クハ授業生ニ伝習ス故ニ伝へ伝へ テ遂ニ一定不変鋳形通りノ方式ニ陥ルナキラ得ンヤ 諸君乞フ此僅少日数ヲ以テ開設スル講習会ノ 9 3 } 弊 害 如 何 ヲ 研 究 セ ラ レ ン コ ト ラ{. 問題点の第 二には講習の主要な目的 であった開発主義教授法の 定着をめ ぐる問題をあげなければ ならない, 先に講習の成果として開発主義の普及をあ げたの であるが, それは必ずしもすべての府. 県 で十分に長期的な定着をみせたということ ではなかっ た. 4 0 ) 同1 8年 明治1 6年にいち早く師 範学科取調員によっ て新教授法伝達を開始した静岡県下でも( , 理の尤 ざれば彼の人の子を賊ふは する所にして若之に依ら には 「彼の心ゞ性開発の教授法は輿論の帰. 見易きものなるに今日猶暗諦教授の法令の跡を絶た ざるは一には資金乏しくて教員 不足なるか為め 4 1 } 」 と, 教育費およ び教員の欠乏にわ ざわいされて, 新教授法 十分の教授を施すこと能はさること( が十分に定着せ ず一時的な流行に終ろうとしていたの である.これと全く 同 じこと が, 「開 発的の. 方法我が地方に輸 入せしや我か県令は 夙に其 必要なるを感し直に授業法講習所を設け県下各郡より 4 2 } 9 年に起っ 」 た鳥取県 でも明治1 講習員を師範学校に招集し同校教諭をして其教授を掌とらしめ( て い た.. 授業法は全く開発的の主義なく純然たる注 入的教授法なり然れとも熟考ふるに 其開発的を捨て 叩亦故あるなり 是れ全く教員の不充分にして一名を以て三四級の 生徒を 注入的を取る所以のものi 4 3 ) 教授する の致す所に外ならさるなり(. こうして, 教育の不振を挽回するための有力な方策として督励された新教授法も資金不 足による 10.
(12) . 佐竹道盛:教育令期における教員現職教育の展開. 教員欠乏には ばまれて長期の定着をなし得なかっ たことが知られる.. 講習のみならず教育全般についても, 当時先進県の一つとみなされていた群馬県にあっ ても, 明 0年に「授業法ノ・日ニ改良ヲ加フルト雌トモ注入ノ弊未タ全ク洗掃シ能ノ・サルヲ以テ開発的教授 治2. ラナサントスルトキノ・生徒ノ・荘然トシテ教師ノ顔ヲ眺テ答フル事ナ ク徒ニ時ヲ費 ス事往々コレア 4 4 } リ( 」 と, 意外な結果が伝えられていたの である, 開発主義の実施には器械器具や模型標本などの 整備が必要 であったが, 前述の静岡県にみられるとおり, 地方の財政事情はそれをゆるさなかっ た のである. また, 開発主義教授法は, 十分な準備があっ てはじめて効果をあげうるもの であったが, 前記鳥取県にみるとおり一人の教員が四級も担当するよう では, 十分な準備もととのわなかったこ とであろう. こうして, 講習施策を通じてその普及上進の期待された小学校教育も, 16年の就学率53,05%を. 5 4 } ピー ク に 23 年 ま で40% 台 を低 迷 し つ づ け て いく こ とに な っ た の であ る( , む. す. び. 教員講習は, 現職の小学校教員に, 開発主義教授法を中心とする教職専門科目を教授し, 教員を して懇切にして周到な教育をなさしめ,学校教育を日常生活に役立つ実効あるものとし,それによっ て父母の信頼をつなぎとめ, それを基盤に不振に陥りがちな学校教育の普及拡大をはかっ ていくこ とを目 ざすものであっ た,. このよう な意図をもっ て,教員講習は明治10年代後期を通じほぼ全国規模の浸透をみせることと なったの である. それに伴なっ て開発主義教授法も各地でいちじるしい活況をみせるに至っ た. しかし, 地方における資金や教員の不足にはばまれて, 開発主義教授法は長期的な定着をみるに. 至らず, 明治20年前後の時期に, その衰退や注入主義への逆転が現われ, 講習の重点が兵式体操や 実業科に移行する傾向もみられるようになっ ていっ た. こうして, 当初開発主義教授法の伝達によっ てその普及上進の期待された小学校教育も, 明治20. 年代 前半ま で低迷 をつ づけ たの であっ た. 教育の不振の一原因しての教員資質の低下を新教授法 によ っ て向上させ, 教育の量的拡大をはかろうとした行政上の施策が, 逆に現実の条件にはばまれ る と いう 悪 循 環 が 生 じた の であ っ た.. しかし, 教員講習は開発主義 の伝達を媒介として, 広範な教師に専門的自覚を促し, 実地に即し た授業研究の気運を高め, 教育方法に関する自覚を高めていっ た点にその成果が認められる, それ. は, 開発主義の衰退後,20年代半ばから盛んとなるヘルバルト派教育学を受け入れる素地となっ た と い え よ う,. 註 ( 1 ) ( 2 ) ( 3 ) 4 ( ) 5 ( ). 6 ( ) ( ) 7 ( 8 ) ( 9 ) I D ( ) ( u ). 文部省 「改正教育令制定理由」『明治文化全集』 第1 0巻 昭和3年 日本評論社 40 7頁 河野敏鎌 「地方教育視察報告書」『大隈文書』 第5巻 昭和3 7年 336 頁 早稲田大学 文部省 「改正教育令制定理由」『明治文化全集』 第1 0巻 昭和3年 日本評論社 407頁 「文部省第11年報」 附録 明治16年 872一87 5頁 同上 1 2頁 「兵庫県教育雑報」 第5 5号 明治19年4月 兵庫県学務課 39頁 「大日本教育会雑誌」 第1 7号 明治18年3月 5 0頁 河野敏鎌 「地方教育視察報告書」『大隈文書』 第5巻 3 3 6一33 7頁 「教育雑誌」 第1 7 0号 明治1 5年1 1月 文部省刊行 1 0頁 「文部卿代九鬼文部少輔口述相」 明治15年 文部省 「学事諮問会心得」 明治1 5年 文部省 1頁 11.
(13) . 佐竹道盛:教育令期における教員現職教育の展開 の 「東京若渓会雑誌」 第2号 明治1 6年 1 2一1 4頁 q ) 「文部省第1 1年報」 附録 明治16年 87 2一875頁 3 御 「教育雑誌」 第1 70号 明治15年1 1月 文部省 9-15頁 ◎ 「官報」 第90号 明治16年10月 7頁 5年11月 文部省 1 Q 6 ) 「教育雑誌」 第1 70号 明治1 0頁 節 「官報」 第9号 明治1 6年7月 4頁 側 ) 「教育雑誌」 第1 2頁 70号 1 ◎ 「東京著渓会雑誌」 第15号 明治17年 68一69頁 αの 「大日本教育会雑誌」 第1号 明治1 6年11月 10頁 ( 2 1 ) 「東京若渓会雑誌」 第1 3号 明治16年 5 4頁 ( 2 2 ) 「大日本教育会雑誌」 第1号 11頁 2 ( 3 ) 同上 1 2一1 3頁 ( 2 ) 「兵庫県教育雑報」 第55号 明治1 4 9年4月 35一36頁 5 偶 ) 「兵庫県教育雑報」 第2 1号 明治17年1 1月 45頁 ( 2 6 ) 「兵庫県教育雛報」 第1 8号 明治17年9月 29頁 ( 2 7 7号 明治17年9月 35一39頁 } 「兵庫県教育雛報」 第1 上 39頁 ( 2 め 同. ( 2 9 0 「兵庫県学事年報摘要」 明治1 9年 「官報」 第11 46号 28 2頁所載 3 ( の 「兵庫県教育雑報」 第8 5号 明治20年7月 26一2 8頁 1月 2 ( 3 0 「官報」 第1 021号 明治19年1 22頁 ( 3 2 9年 「官報」 第11 ) 「石川県学事年報摘要」 明治1 92号 229 頁 516号 明治21年7月 18 ( 3 3 ) 「官報」 第1 3頁 2号 明治18年8月 1 1一1 1 3 4 1 2頁 ( ) 「大日本教育会雑誌」 第2 ( 3 め 「官報」 第8 89号 明治1 9年6月 1 95一1 96頁 3 6 ) 「官報」 明治1 9年7月 29 日 ( ( 3 7 ) 「官報」 第1 37 9号 明治21年2月 64一65頁 8 0 「大日本教育会雑誌」 第1号 明治1 6年11月 2 ( 3 2頁 9 ( 3 り 「東京著撲会雑誌」 第5 9号 明治20年1 2月 8頁 ( の 『静岡県教育史』 昭和4 8年 静岡県教育委員会 2 4 47頁 4 1 ( ) 「大日本教育会雑誌」 第2 3号 明治18年9月 87頁 ( 4 2 ) 「大日本教育会雑誌」 第3 7号 明治19年8月 63頁 銀 ) 同上 65頁 ( 4 ) 「東京者渓会雑誌」 第5 4 8号 明治20年1 1月 1 6頁 ( 4 5 ) 「文部省第11一1 6年-23年 8 年報」 明治1 (本学講師・函館分校). 12.
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