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平安貴族社会の「童」についての研究

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(1)平成十九︵二〇〇七︶年度 兵庫教育大学大学院学位論文. 平安貴族社会の﹁童﹂についての研究. 教科・領域教育学専攻. 言語系コース 国語分野. MO61781.       大塚江利子.

(2) 目次. はじめに ・:・:::・:::・・::・:・::::・:・:・::::・::::・::・:・:::::::::. 第一章 貴人に従う童. 第一節 小舎人童の意味と役割 ::・:・::・:::::・::・:::::::・:・:・:::::・:・. 第二節 小舎人童と主 ::・:・:・::・:・:::・:・:::::・::::・:::::::::::・. 第二章 宮中の童. 第︼節 殿上童の意味と役割 :::・:・:・:::::::・:・:・::::::・:・:::・::::・. 第二節 殿上童に求められたもの ・:・:::・::・:::・::::・::::・:・:・:・:::・::・. 第三章 宮廷行事の中の童. 第一節 歌合における童とその役割 ・:::::::・::::・:::::・:::::・::・::・:・. 第二節 殿上童と芸能 ::::・:::・:・::::::::::::::・::::・:・::::・:・. おわりに ::・:::::・::・:::::::::・:::・:・:・:::・:::::::::・:・::. 引用・参考文献一覧 ・::・:・:::::::・:・:::::・:::・::・:・:・::::・::::.:. 1. 6. 16. 25. 32. 45. 60. 72. 76.

(3) はじめに.  ﹁童﹂は説話や物語、記録や史料等、多くの文献にその姿を見出すことができ、研究も多くなされている。し. かし、平安時代の﹁童﹂に関する研究は、十分なものであるとは言い難い状況にある。例えば、服藤早苗氏は﹃平. 安王朝の子どもたち 一﹁王権と家・童﹂1﹄︵吉川弘文館、二〇〇四年六月︶において、平安時代の子どもた. ちの実態を、ジェンダー視点から詳細に論じている︵注一︶。しかしこれも、ほとんどが史料から導き出された. ものであり、物語に現れる﹁童﹂は本格的に扱われてはいない。物語に現れる﹁童﹂を取り上げた他論文におい. ても、対象とした物語に登場する﹁童﹂のみを扱ったものが多く、﹁童﹂の働きや存在意義等について、冒頭に. あげた様々な資料を見通した上で論じたものは少ない︵注二︶。そのため本論では、平安時代の﹁童﹂の姿を、. 主に説話や物語、補足的に記録や史料類から拾い上げ、働きや存在意義等について論じていくことを第一の課題. としている。本来であれば、それぞれの資料に登場する総ての﹁童﹂について論じるべきであろうが、紙面の都. 合上、ここでは対象を﹁貴族社会で働く童﹂に限定しておくものとする。また、﹁貴族社会に働く童﹂としたこ とから、寺院に務めた﹁上童子﹂︵注三︶は除外した。.  まずは本論の構成や概要について記しておきたい。.  第一章では﹁貴人に従う童﹂として、平安時代に宮中の外で貴人に従う童に着眼している。第一節﹁小舎人童. の意味と役割﹂では、貴人に従う﹁童﹂として現れる、﹁小舎人童﹂の意味と役割を考える。この﹁小舎人童﹂. は﹃枕草子﹄のような随筆、﹃今昔物語集﹄や﹃宇治拾遺物語﹄といった説話、﹃源氏物語﹄や﹃堤中納言物語﹄. を代表とする物語等、広く用いられる。﹁小舎人童﹂として登場する﹁童﹂は多くの場合において共通した役割. を与えられており、それに相応しい行動をしている。﹁小舎人童﹂に関する論文は多くはなく、またそのほとん. どが筋節で扱う物語に登場するものに集中している。論文名や内容については後に記す。第二節﹁小舎人童と主﹂. 一. レ.

(4) では、﹁小舎人童﹂の中でも特徴的な働きをするものを扱う。﹃和泉式部日記﹄の帥宮︵敦道親王︶と故宮︵為尊. 親王︶に使えていた﹁小舎人童﹂との関係を中心として、﹃源氏物語﹄の光源氏と夕顔の弟、小君との関係にも. 言及したい。﹃和泉式部日記﹄は寛弘四年︵一〇〇七︶頃成立したとされる日記文学である。三十六歌仙の一人で. あり、百人一首にも入如した和泉式部によって記されたとされているが、他曲説もある︵注四︶。ここに登場す. る、故宮に仕えていた小舎人童については既に論文があり、大谷裕昭氏は﹁︿小舎人童﹀の出現 一﹃和泉式部. 日記﹄を中心に一﹂︵﹃日本文日誌要﹄四十五号、一九九二年三月︶において、﹁︿小舎人童﹀が主役として貴族た. ちの筆に上せられ、ついには虚構の語り手として登場するにいたる﹂﹁貴族層内部の批評的視点は、逆に下人世. 界に生き生きとした︿はり﹀を見いだしていったということであろうか。︵中略︶貴族たちを﹁反平安的な﹂﹁こ. ころ魂﹂の高く激しい人物として造り出していく目は、むしろ下人世界への関心の深さ、説話世界への好奇の飽. くことのなさ、下人世界のエネルギーをまともに受けとめた言語意識の自由闊達さが養ってきたと言えないだろ. うか。﹂と記している︵注五︶。これは﹁小舎人童﹂を記した貴族側の視点に立った論であり、﹁小舎人童﹂の性. 質や扱われかたを示すには不十分であろう。本節では、故宮の小舎人童が示す可能性について論じていきたい。. また、﹃源氏物語﹄光源氏と夕顔の弟、小君との関係からは、早宮と故宮の小舎人童との関係に類似したものを. 感じ取ることができる。そのため、小君の小舎人童としての働きについても、ここで触れるものとする。.  第二章は﹁宮中の童﹂とし、宮中で働く﹁童﹂について考察することを目的としている。第一節﹁殿上童の意. 味と役割﹂では、説話や物語を主にして、補足的に記録・史料を用いている。ここで扱うのは宮中に上がること. を許された﹁殿上童﹂である。﹁殿上童﹂も﹁小舎人童﹂と同様、多くの文献にその姿を現す。しかし、﹁殿上童﹂. に関する論文も、﹁小舎人童﹂に関する論文同様、多いものではない。既に先にあげた服藤早苗氏の﹃平安王朝. の子どもたち 一﹁王権と家・童﹂1﹄の他、古谷紋子氏の﹁平安時代の童殿上 −小舎人・蔭孫・殿上簡1﹂. 賰 史学﹄五十一号、 一九九人年三月︶も﹁殿上童﹂に関する論文であるのだが、氏が着目するのは﹁殿上 ︵﹃. ■. ㍗.

(5) 童﹂の制度や成立過程である︵陰影︶。そういった性質上、扱われた文献もほぼ総てが史料・記録類であり、説. 話や物語についてはほぼ手つかずであるといっても過言ではない。本節では、これまで本格的に扱われてこなか. った説話や物語に登場する﹁殿上童﹂の姿を取り上げ、与えられた位置や役割についてみていく。第二節﹁殿上. 童に求められたもの﹂では、殿上するだけに留まらず、帝から多大なる寵愛を受け、宮中において特殊な扱われ. かたをした﹁殿上童﹂についてみていく。﹃うつほ物語﹄の忠こそは物語に登場する﹁殿上童﹂の中でも、帝か. らの寵愛という点において、特に存在が際だっているものである。また、史実の人物である藤原公主も特殊な状. 況の下、帝からの寵愛を受けた﹁童﹂であった。﹁殿上童﹂ではないが、元服しないうちに宮中に引き取られた. 光源氏も、深い寵愛を帝から受けた﹁童﹂である。忠こそは臣下の子が殿上童になったものであり、同じく藤原. 公署は臣下の子が宮中に引き取られたものであるのに対して、光源氏は皇子が宮中に引き取られたものであるの. で、それぞれ立場に違いがある。しかし、立場としては、最も低い位置にあると思われる忠こそが、皇子であっ. た光源氏に勝るとも劣らない扱いを受けていたことが、﹃うつほ物語﹄では確認できる。臣下の子であり、﹁殿上. 童﹂として宮中に上がっているにもかかわらず、何故忠こそは光源氏と同様の扱いを受けることになったのか、. 寵愛される﹁殿上童﹂の条件とは何であったのかというところがら、殿上童に求められたものについて考えてい きたい。.  第三章は﹁宮廷行事の中の童﹂である。ここまで、説話・物語文献を中心に﹁童﹂を扱ってきたのは、特徴的. な動きをみせる﹁童﹂がそれに現れるからであった。しかし、史料・記録類に登場する﹁童﹂にも、特徴的な動. きをみせるものがいる。それが、第二章でも扱った﹁殿上童﹂である。第三章では、宮廷行事に現れる﹁殿上童﹂. を中心にみていくものとする。第一節﹁歌合における童とその役割﹂は、歌合に登場する﹁殿上童﹂について考. 察を加えたものである。歌合とは﹁歌の作者を左右に分け、その詠んだ歌を各一首ずつ組み合わせて、判者が批. 評、優劣を比較して勝負を判定した一種の文学的遊戯﹂であり︵注七︶、その場は参加する者にとって非常に晴. ,. 餌.

(6) れがましいものであった。﹁殿上童﹂はこの歌合において、多くの場合に﹁員指﹂として登場し、中には笛を所. 望される者もいた。第一節では、﹁殿上童﹂と同様の意であると思われる﹁小舎人﹂と合わせ、主に史料・記録. 類を参考にしながら、歌合において﹁殿上童﹂、﹁小舎人﹂が果たした役割について論を述べる。前掲した服藤早. 苗氏の﹃平安王朝の子どもたち 一﹁王権と家・童﹂1﹄には、﹁童殿上の成立と変容 −王権と家と子ども一﹂. として、史料・記録類に現れる﹁殿上童﹂の意味と役割が詳しく論じられている。そのため本節では、服藤早苗. 氏の論を参考に、比較・検討することが必要になってくるだろう。第二節﹁殿上童と芸能﹂では、歌合に侍した. 殿上童の中でも特に芸能に秀でていた﹁童﹂に着目することで、﹁殿上童﹂の性質や歌合でのありかたを確かめ. ることを目的としている。平間章は﹁賀陽院水閣歌合﹂に員指として名が残る﹁殿上童﹂である。経章は後に﹃後. 拾遺和歌集﹄に歌が採られ、複数の資料に歌の上手として記されてもいる。また、源政長は﹁永承四年内裏歌合﹂. に殿上童として記されている。ただし、政長はこれまでの殿上童とは異なり、歌合後の御遊で笛を所望されてい. る。そればかりか、同歌合の記録には﹁右方小舎人源政長給御蓋奏妙曲、侍座之者皆嘉歎日、情聞童稚之新曲不. 吾子野之平調﹂と記され、政長の笛は列席した者たちから絶賛されている。そもそも政長は、代々郵曲、三等の. 名手として名高い家系に生まれた人物であり、歌合以外の資料にも特に笛の名手として登場することが多い。そ. のような人物が歌合に登場することの意味を、晶質通との関係や芸能における父子の関係を考慮しながら探って いきたい。.  以上のような手順で平安時代の貴族社会で働く﹁童﹂について論じた後、本論のまとめと課題を最後に示す。.  なお、引用文については適宜、傍線・破線・点線等を付し、中略を行い、必要があるものについては各章末に 注を施した。. ■. 恥.

(7) [注]. ︵一︶服藤早苗﹃平安王朝の子どもたち i﹁王権と家・童﹂1﹄︵吉川弘文館、二〇〇四年六月目. ︵二︶蟹江希世子﹁物語の﹁殿上童﹂ 1平安朝社会史と文学⊥︵﹃日本語日本文学﹄十一号、一九九九年十月︶.   蟹江希世子﹁平安朝﹁童﹂考 −物語の方法として一﹂︵﹃古代文学研究﹄第二次六号、一九九七年十月︶   がそれにあたる。共に、平安文学に現れる﹁童﹂についての研究である。. ︵三︶﹃日本国語大辞典﹄︵小学館︶以下、特に記載がなければ注における引用は総てここから。﹁寺で、門跡・   院主などに仕え、雑役にあたる者。﹂. ︵四︶﹃日本古典文学大辞典 第一巻﹄︵岩波書店、一九八三年十月︶﹁一巻。目前文学。作者は、和泉式部乏す.   るのが通説であるが、一部に藤原俊成など空々説もある。写本には多く﹁和泉式部物語﹂とある。成立は、.   和泉式部自身の作とすれば十一世紀前半を下ることはない。家集﹃和泉式部集﹄に目黒所収歌の過半が収.   められているので、その成立上の先後関係について諸家に説があるが、なお定説を見ない。﹂. ︵五︶大谷裕昭﹃︿小舎人童﹀の出現 1﹃和泉式部日記﹄を中心に一﹄︵﹃日本文學必要﹄、一九九二年三月︶. ︵六︶古谷紋子﹃平安時代の童殿上 一小舎人・王孫・殿上簡1﹄︵﹃駒沢史学﹄、一九九八年三月︶. ︵七︶﹁歌の作者を左右に分け、その詠んだ歌を各一首ずつ組み合わせて、判者︵はんじゃ︶が批評、優劣を比.   較して勝負を判定した一種の文学的遊戯。平安初期以来宮廷や貴族の間で流行した。歌競べ。歌結び。﹂.   うたガルタ︵歌骨牌︶の意もあるが、本論文には不適と判断し、引用を省略した。. 一. 畠.

(8) 第一章 貴人に従う童 第一節 小舎人童の意味と役割.  小舎人童は広く雑用の少年を指す。﹃日本国肥大辞典﹄によれば、﹁公家や武家につかわれて、身辺の雑用をつ. とめた召使いの少年﹂や、﹁特に平安時代、近衛の中将、少将などが召し使った童子。牛車の先などに立つ﹂者. を指す語であるようだ︵注一︶。﹃禁秘抄﹄︵注二︶の﹁随身、雑色等窯業也﹂という記述によれば、出自はそう. 高いものではなかったようだ。﹃枕草子﹄五一段の﹁小舎人童 ちいさくて、髪いとうるはしきが、筋さはらか. に、すこし色なるが、声おかしうて、かしこまりて物などいひたるぞ、らうくじき。﹂という記述によると、 髪や声の美しさ、その容姿に関わるところに関心を寄せているようでもある。.  ここでは、小舎人童の姿や働きから、彼らの性質や特徴的なありかたについて考えてみたい。.  ①⋮⋮其レニ、此ノ若君ミ、東ノ京二愛念スル女有ケレバ、常二行キケルヲ、父母、夜行ヲ恐テ、強二制シ.   給ヒケレバ、籍二、人ニモ不令知ズシテ、侍ノ馬ヲ召テ、小舎人童・馬ノ舎人許ヲ具シテ、大宮登リニ出デ、.   東ザマニ行キケルニ、美福門ノ前ノ程ヲ行クニ、東ノ大宮ノ方ヨリ多ノ人、火ヲ燃シテノノシリテ来。若君、.   此レヲ見テ云ク、﹁彼レ、何人ノ来ルナルラム。何口証可隠キ﹂ト。小舎人童ノ云ク、﹁書ル見候ツレバ、神.   泉ノ北ノ門コソ開テ候ヒツレ。其レ心入テ、戸ヲ閑テ、暫ク御マシテ令過メ給へ﹂ト。:.                 ︵﹃今昔物語集﹄巻十四本煮付仏法﹁依尊勝陀羅尼験力遁鬼難語第四十二﹂︶.  ②⋮⋮夜漸ク深更ヌレバ、少将、北檬へ行ヌ、共口回小舎人童、只一人ゾ有ケル。⋮︵中略︶⋮侍、此レヲ.   見テ、小舎人童二野テ、﹁例モ此クや礼拝シ給フ﹂ト問ケレバ、童、﹁人ノ不見ヌ時ハ、例モ必ズ此クナム礼   拝シ給フゾ﹂ト答ヘケル。・.                          ︵同、巻十五本朝付仏法﹁義孝少将、往生語第四十二﹂︶. 一. ひ.

(9) ③⋮−内ノ宿所ヨリ忍テ女ノ許へ行ケルニ、夜漸ク深更ル戸畑、太刀許ヲ提テ、丑日テ、小舎人童一人許ヲ.  具シテ、⋮⋮︵中略︶小舎人童ハ何ガシツラムト待タルニ、童、大宮ノ上二泣クく行ケルヲ呼ケレバ、走  リ来ケリ。⋮⋮.                        ︵同、巻二十三仏法﹁陸奥前司橘則光、切殺人語第十五﹂︶. ④⋮−殿居所より女のもとへ行とて、太刀ばかりをはきて、小舎人童たゴ一人具して⋮⋮.                             ︵﹃宇治拾遺物語﹄一三二﹁則光盗人ヲ切事﹂︶. ⑤・:﹁此ノ殿ノ人ニモ非ヌ者ノ、宵暁二殿内ヨリ出入スル、極テ元愛也。去来、此レ立篭テ罰ム﹂ト集テ.  云合セケルヲ、指診、然ル事ヲモ不知シテ、前々ノ如ク小舎人童一人許ヲ具シテ、歩ヨリ行テ、忍テ局二入.  ニケリ。⋮︵中略︶⋮、﹁但シ此童ノ心モ不得デ、暁勿来テ石叩カバ、﹃我が小舎人童ゾ﹄ト心得テ、捕テ被  縛ヤセムズラム﹂⋮︵中略︶⋮童部ナレドモ此ク賢ク奴古名有キ者也。⋮⋮.                    ︵﹃今昔物語集﹄巻二十三仏法﹁駿河前司橘季通、構 語第十六﹂︶. ⑥⋮⋮か︸ることもしらで、例の事なれば、小舎人童一人具して、⋮⋮.                              ︵﹃宇治拾遺物語﹄二七﹁季通、欲逢事〃﹂︶. ⑦⋮⋮極テ惟ク思ヘバ、﹁若シ、僻耳力﹂ト思テ、吉ク聞クニ、正シク玄象ノ音也。博雅、此ヲ可聞誤キ事.  二重バ、益々驚キ惟ムデ、人ニモ不告シテ、欄姿ニテ、只一人沓許ヲ履テ、小舎人童一人ヲ具シテ、衛門ノ  陣ヲ出テ、南檬二行クニ、尚南二此音有リ⋮⋮.                 ︵﹃今昔物語集﹄巻二十四本鼻付世俗﹁玄象琵琶、為鬼被取語第二十四﹂︶. ⑧⋮⋮女ノ顔ノ不憎ラ見エタリケレバ、業平ノ中将、小舎人童ヲ以テ、此云遣タリケリ、⋮.                     ︵同、巻二十三仏法﹁在原業平中将、行東方讃和歌語第三十五﹂︶. ⑨⋮⋮万ヅ不思エズ心移リ畢テ、女ノ御堂ヨリ出ルヲ見テ、中将小舎人童ヲ呼テ、﹁彼ノ女ノ入ラム所確二. 一. ㍗.

(10)   見テ来レ﹂ト云テ、遣ツ。⋮︵中略︶⋮小舎人童言来テ云ク、﹁確二見入レ候ヒヌ⋮︵中略︶⋮後二人走テ.   来ル。﹁人ノ追テ来ル也ケリレト思フニ、物モ不思デ見返テ見レバ、此ノ我が小舎人童也ケリ⋮⋮.                  ︵同 巻二十九本朝付悪行﹁住清水南邊乞食、以女謀入人殺語第二十八﹂︶.  ⑩⋮⋮守小舎人童ヲ召テ、忍テ、﹁彼ノ女ハ何ナル者ゾ。尋テタサリ参ラセヨ﹂ト云ケレバ、小舎人童尋ヌ   ルニ、﹁然々ノ郡司ノ徒者也﹂聞テ、⋮⋮.                         ︵同、巻三十本朝付雑事﹁近江守娘、通浄蔵大徳語第三﹂︶.  ⑪⋮⋮小舎人童ヲ呼テ、﹁此ノ人ノ入ラム所確二見テ来﹂トテ遣タレバ、⋮︵中略︶⋮﹁然云テム所へ行カ.   ムバヤ﹂ト思フ心深ク付テ、使也シ小舎人童ト大和ノ辺知タリケル侍一人、舎人男一人許シテ、馬二乗テ忍   テ出立テ⋮⋮.                                   ︵同、﹁大和国人、得人娘語第六﹂︶. ⑫⋮:小舎人童ノ然様ニゼ一心得テ仕ケルヲ以テ・﹁此レ・髄景一汚行テ彼二奉レ・﹁此レが興有ル物ナレふ   バ見セ奉ラムトテナム﹂ト申セ﹂ト云テ遣ケレバ、⋮⋮.                                ︵同﹁品不賎人、去妻後返棲語第十一﹂︶.  以上が一般的な小舎人童の姿である。ここにあげたものをみていくと、小舎人童が何らかの理由で登場する場. 合、破線部にあるように﹁小舎人童一人ばかり﹂という表現やそれに類する表現が多く使われているのが目につ. く。これは小舎人童自身ではなく、その付き従っている主の状況を表すものである。では、その主はどのような. 理由で小舎人童のみを供として連れているのだろうか。﹁小舎人童一人ばかり﹂という表現がある①∼⑦の例の. うち、②⑦以外の内容に﹁小舎人童の仕える男主とその相手となる女性とのやりとり﹂が含まれている。つまり、. 半数以上の例は、本筋ではないにしても、結果として恋愛を含む内容になるということになる。このことを考慮. すると、どうやら﹁小舎人童一人ばかり﹂は、単に主が供を少なくして出かけたことを指す表現ではないようだ。.

(11) ②⑦の小舎人童が仕える主は、何らかの理由で忍んで外出する必要があった者である。﹁小舎人童一人ばかり﹂. は、小舎人童が仕える主が忍んで外出したこと、この先の話の展開が恋愛の雰囲気を持つ可能性が大いにあるこ とを指す表現であったのだろう。.  また、﹁小舎人童一人ばかり﹂という表現がなくとも、小舎人童は男女関係が描かれる話に登場することが多. い。⑧以下、総ての例において小舎人童は男主と女性との問を取り持つ役目を担っている。ここにあげた例を見. る限りでは、恋愛に直接関係するところで主の命を受けた彼らは、命じられた通りに行動し、命の範疇を超える ことはない。.  基本的には主に命じられたことをそのまま行う彼らではあるのだが、例外もみられる。③④⑤⑥︵③と④、⑤. と⑥はそれぞれ思恋︶の例である。③④に登場する小舎人童ははじめ、女の元に通う橘則光の供として現れる。. この小舎人童は、警手が途中で盗賊に襲われることで一度主とはぐれてしまうのだが、再会したときには泣きな. がら西之の名を呼んでいる。⑤と⑥の例では、小舎人童が主である並幅通の危機を咄嵯の機転で救っている。﹁童. 部ナレドモ此ク賢ク奴ハ難有キ者也﹂︵⑤︶という話末評語からは、この小舎人童の行動は良いものだと判断さ. れたことが分かる。これら以外の、主の命に従うのみであった小舎人童の姿からすれば、己の職分を外れた行動. を責められそうなものだが、主の危機を救った功績からか、﹁賢ク奴ハ難有キ﹂ということからなのか、高い評. 価を得ているようだ。小舎人童が受けるべき評価が正反対の例ではあるが、これら二つの話に共通するのは、小. 舎人童が男主と女との仲介の役目から外れた位置にいるということだ。彼らの行動が常と異なっているのは、特. 殊な状況に置かれたためだと考えても良いのではないか。通常であれば、やはり恋仲を取り持つ役目を担うべき 者であったのだろう。. ⑬−−長月の有明の月にさそはれて、蔵人の少将、指貫つきぐしく引きあげて、たΣ人、小舎人童ばか   り具して、やがて朝霧もよく立ちかくしつべく⋮⋮. 一. 91.

(12)                                    ︵﹃堤中納言物語﹄﹁貝あはせ﹂︶.  ⑭⋮⋮賎しからぬすきものの、いたらぬ斜なく人に許されたる、やむごとなき所にて、物いひ懸想せし人は、.   このごろ里にまかり出でてあなれば、まことかと往きてけしき見むと思ひて、いみじく忍びで、たゴ小舎人   童一人して来にけり。⋮⋮.                                        ︵同、﹁はなだの女御﹂︶.  ⑬﹁貝あはせ﹂⑭﹁はなだの女御﹂にも﹁小舎人童一人ばかり﹂に類した表現が冒頭に配されている。この二. 話の内容に男女のやりとりが含まれていることからも、﹁小舎人童一人ばかり﹂には、恋愛を示唆する働きがあ. ることが確認できる。しかし、⑬の例についてはこれまでの例とは様子が異なっている。  以下、冒頭に続く場面である。.    ⋮⋮﹁いかなる人のかく弾き居たるならむ﹂と、わりなくゆかしけれど、すべき方もおぼえで、例の声出                                                   ぴ.   ださせて、随身にうたはせ給ふ。⋮⋮                             d.  ﹁たゴ一人、小舎人童ばかり﹂を連れて外出したはずの蔵人の少将が、いざ女性の家に呼びかけるときには随. 身を用いている。随身とは、平安時代、貴人の外出の時、警護のために、勅宣によってつけられた近衛府の官人. をいう︵前世︶。このときになって突如として随身が現れるはずがなく、出立時から連れていた供であることは. 明らかである。これまでの例についても、近衛中将・少将であれば、随身を伴っていることが自然なことである. 筈だ。それにも関わらず、﹁小舎人童一人ばかり﹂と本文中では述べられている例がほとんどであるのだが、現. 実的に夜の京に出歩くことを考えれば、供が小舎人童一人というのは警備の面だけを考えてもいかにも心細く、. 危うい。このことを考えても、本当に﹁小舎人童一人ばかり﹂が供であったかどうかということは疑わしい。﹁貝. あはせ﹂の例のように、実際には随身も伴っていることが自然であっただろう。それにも関わらず﹁小舎人童一. 人ばかり﹂とするのは、やはり何らかの理由があったためであるだろう。推測に過ぎないが、ここにはやはり小.

(13) 舎人童の持つ独特の雰囲気が関わってくるのではないだろうかと考えられる。おそらく実態として、小舎人童は. 恋文の仲介を行うことが多かったのだろう。物語内で小舎人童が恋の仲介を行っていることからも、それが珍し. いことでなかったことが分かる。そのような例が多くなる中で、小舎人童と恋の雰囲気とが切り離せないものに. なっていったのではないか。結果、恋の雰囲気を強調、または示唆するために、﹁小舎人童一人ばかり﹂という 表現が多用されるようになっていったのだろう。  ﹃堤中納言物語﹄︵注四︶には、これ以外にも小舎人童の出現例がある。. ⑮わらはべの、柏・曳きよげにて、さまぐの物忌などつけ、化粧して、我も劣らじといどみたるけしきど.   もにて行きちがふは、おかしく見ゆるを、ましてその際の小舎人・随身などは、殊に思ひとがむるもことわ.   りなり.とりぐに思ひわけつもの言ひたはぶる毫、何ばかりはかばかしき事ならじかしと、あまた見.   ゆる中に、いつくのにかあらむ、薄色着たる、髪はきばかりある、頭つき、やうだいなにもいとをかしげな                                                   レ   るを、頭の中将の御小舎人わらは、思ふさまなりとて、いみじくなりたる梅の枝に、葵をかざして取らすと d   て、.     梅が枝にふかくそたのむおしなべてかざす葵のねも見てしがな   と言へば、.     しめのなかの葵にか﹄るゆふかづらくれどねながきものと知らなむ.   と、おし放ちていらふもざれたり。﹁あな聞きにくや﹂とて、笏して走り打ちたれば、﹁そよ、そのなげきの.   もりのもどかしければぞかし﹂など、ほどぐにつけては、かたみにいたしなど思ふべかめり。その後、常   に行きあひつΣも語らふ。⋮⋮.                                  ︵﹃堤中納言物語﹄﹁ほどぐの懸想﹂︶. ⑮﹁ほどぐの懸想﹂では小舎人童自身と女童との戯れが描かれる.この話のように、﹃堤中納言物語﹄の短.

(14) 編においては、小舎人童と近衛中将・少将とが主従として設定されていることもおさえておきたい。近衛中将・. 少将といえば在原業平や光源氏を代表として、いわゆる﹁すきもの﹂として描かれることが多く、今回取り上げ. た説話の中にもそのような姿がみえる。小舎人童が恋愛の雰囲気をまとうものとして描かれている以上、近衛中. 将・少将と小舎人童の主従による恋愛話を多く収録している﹃堤中納言物語﹄は、そのような慣例的な立場を取 ってい・るといえるだろう。.  しかし、慣例的な例だけではなく、近衛中将・少将と小舎人童が現れながらも、恋愛の雰囲気が感じ取り難い ものもある。.  ⑯⋮⋮礼の便ながめれば、中納言殿の御車遅れんとて立てれば、中将殿、後にも思ひあはせよ、むげにしる.   しなくはかひなしとや思しけん、小舎人童を呼びて、﹁かの車の柄の方によりて、﹁懲りぬや﹂といひて来﹂.   との給ひて、たゴ寄りに寄りて、かくいへば、﹁誰がの給︵ふ︶ぞ﹂といふ。たゴ、﹁かの御車より﹂といふ.   に、﹁さればよ、思ふ事ありてするにこそありけれ﹂と、さ、めき怪しがりて、北︵の︶方の、﹁まだし﹂と.   言ひて出したりければ、わらは、かくなんと申せば、﹁さがな物、ねたういらへたなり。かくておはすると.   も知らじかし﹂と笑ひ給ひて、﹁まだ死にせぬ御身なれば、またや見給はん﹂といはせたれば、北︵の︶か.   た、﹁いらへなせそ。めざまし﹂と制せられて、せさせねば、帰り給ひぬ。女君、﹁いと心うく、けしからず.   はおはせしと、おとゴ後に聞︵き︶給はん事もぞある。かくなの給ひそ﹂ち制し給ひけれど、﹁是にはおと.   ゴやは乗り給へる﹂との給へば、﹁君達おはすれば、同じ事﹂との給ふを、﹁今、うちかへし仕うまつらんに、.   御心はゆきなん。思ひおきし違へじ﹂との給ふ。⋮⋮.                                        ︵﹃落窪物語﹄巻之二︶.  ⑯では、小舎人童が近衛中将と落窪姫の継母である北の方︵以下、北の方とする︶とのやりとりを代行してい. る。引用部以前には中将が北の方に対し嫌がらせをしている場面があり、当然のことながらこの中将の行動は公. ㍗. d.

(15) 的なものではない。それどころか、落窪姫に﹁いと心うく、けしからずはおはせしと、おとゴ後に聞︵き︶給は. ん事もぞある。かくなの給ひそ﹂と誉められるような行動である。ここで小舎人童を使いに出したのは﹁公的な. やりとりではなかったから﹂だけであろうか。大勢連れていたであろうと思われる供の中から小舎人童を選んだ. 理由があったのだろうか。ここにはやはり、﹁小舎人童は恋愛の雰囲気を持っている﹂ことが関わっているので. はないかと考える。男から女の元へ小舎人童が運ぶ伝言は、通常であれば恋愛の要素を含むものであっただろう. し、受け取った側も恋文やそれに類するものであることを予想しただろう。だからこそ、﹁懲りぬや﹂という中. 将からの伝言を受け取った北の方はどなたが仰ったのかと尋ね、﹁さればよ、思ふ事ありてするにこそありけれ﹂. と感じたのではないか。﹁懲りぬや﹂という伝言はいかにも短い。指すところも詳しい内容も不明である。しか. し北の方は、小舎人童がこの伝言を運んできたという一点において恋の誘いの可能性を思い、﹁まだし﹂という、. どのようにも取れる答えを返したのではないか。これはおそらく相手︵中将︶の様子見であったのだろう。北の. 方の返事を受け取り、﹁ここに︵落窪姫が︶いらっしゃるとも知らないで﹂と笑う中将の態度からは、もちろん. 恋愛の気分などは感じられない。他の誰かでなく﹁恋の雰囲気を持つ小舎人童﹂が伝達役であったことに、北の. 方は侮辱されたという気持ちを強くしただろう。﹃落窪物語﹄︵注五︶は十世紀頃に成立したとされている。おそ らく、この頃には小舎人童と恋愛の雰囲気の繋がりとが生まれていたのだろう。.  ⑰⋮⋮この人は、供に人多くはなくて、昔より見なれたる小舎人童ひとりを具して往ぬ。男の二つるほどこ.   そ隠して念じつれ、門引き出つるよりいみじく泣きてゆくに、この童、いみじくあはれに思ひて、この使ふ.   女をしるべにて、はるばるとさして行けば、﹁たゴこンもととおほせられて、人も具せさせ給はで、かく遠   くはいかに﹂と言ふ。⋮⋮.                                    ︵﹃堤中納言物語﹄﹁はいずみ﹂︶.  ﹃堤中納言物語﹄の短編に登場する小舎人童に関しては、例外もある。前に挙げた﹁はいずみ﹂がそれだ。こ. 鋲. d.

(16) の場面での小舎人童の主は男ではなく女である。近衛中将・少将が小舎人童を連れている姿が慣例的であると述. べたが、実際には近衛中将・少将以外の男も小舎人童を連れている。元は広い意味を持っていた小舎人童が近衛. 中将・少将に連れられるイメージを強く持つようになったのか、本来的には近衛中将・少将に連れられる者のみ. を小舎人童と呼んでいたものが次第に広い意味を持つようになったのかは現段階では判断できない。しかしなが. らこれに関連するものとして、冒頭にあげた﹃枕草子﹄に続く記述に興味深いものがある。.  ⑱⋮⋮雑色、随身はすこしやせて、ほそやかなるそよき。男は猶、わかき程は、さっかたなるそよき。い   たくこゑたるは、ねぶたからんと見ゆ。⋮⋮.                                         ︵﹃枕草子﹄五〇段︶.  随身は舎人と共に、近衛府の下級官人であった。この段に続いて小舎人童について述べられていることからは、. 随身と小舎人童との近しい関係を感じることができる。ここまで確認した物語や日記などでは、小舎人童は近衛. 中将や少将に仕えていることが圧倒的に多かった。また、近衛府の下級官人である舎人や随身は、近衛中将・少. 将に賜られる者であった。あくまで推論の域を出ないのだが、小舎人童はこれらの舎人、随身と無関係でなかっ. たのではないだろうか。中将や少将に仕えるという共通点を持っていたからこそ、舎人の小型版であるかのよう な名前を冠されたのではないだろうかとも感じられる。.  ⑲⋮⋮この女の親、少将に饗応すべきかたなかりければ、小舎人童ばかりとゴめたりけるに、堅い盤さかな.   にして酒をのませて、少将には、ひろき庭に生ひたる菜を摘みて、蒸し物といふものにして⋮︵中略︶⋮少.   将起きて、小舎人童を走らせて、すはなち車にてまめなるもののさまぐにもてきたり..                                      ︵﹃大和物語﹄百七十三段︶.  ここに現れる小舎人童は、女のもとにいる男主と位置的に近い場所に控えているようだ。﹁少将起きて、小舎. 人童を走らせて﹂とあるから、遠くに控えていた小舎人童を呼び寄せて走らせたと考えるよりは、近くにいた者. 塩. d.

(17) を走らせたと考えるほうが自然だろう。また、女の親が﹁少将に饗応すべきかたなかりければ﹂という理由によ. り小舎人童をもてなしたという点からもそれが推測できる。また、ここからは主と小舎人童との密接な関係を感. じとることも可能であろう。心理的・物理的に小舎人童が主と近い場所にあったからこそ、女の親はこのような 対応をとったのではないか。.  主と小舎人童の関係については、次で述べたい。. d. 5.

(18) 第二飾 小舎人童と主.  小舎人童の登場は男主︵多くの場合近衛中将・少将︶の恋愛の遊びを示唆し、彼ら自身はその相手となる女性. との間を取り持つ役割を果たしていた。しかしながら、中将・少将という立場であれば、前節で述べたように外. 出時には随身がつくことが自然である。また、乳母子︵いわゆる乳兄弟︶が従っていることも多く、実際に﹃源. 氏物語﹄では多くの場合、乳母子が光源氏と女性との仲介役を担っている。随身、乳母子でなく小舎人童を女性. との仲介役とすることに意味はあるのか、主と小舎人はどのような関係であったのか、ひとりの小舎人童に注目 して、以下考えてみたい。.  次に引くのは、﹃和泉式部日記﹄の冒頭部である。.    夢よりもはかなき世の中を、嘆きわびつつ明かし暮らすほどに、四月十余日にもなりぬれば、木の下くら.   がりもてゆく。築土の上の草あをやかなるも、人はことに目もとどめぬを、あはれとながむるほどに、近き.   透垣のもとに人のけはひすれば、あれならむと思ふほどに、故宮にさぶらひし小舎人童なりけり。⋮⋮.  ここに登場する﹁小舎人童﹂は故宮︵為尊親王︶に仕えていたが、その死後は弟である帥宮︵算道親王︶を主. としている。﹁小舎人童﹂の名前は明らかにならないが、和泉式部との文のやりとりを実際に行っていることか. らは、﹁小舎人童﹂としての信頼が厚く、有能であったものと推測できる。この小舎人童の出現で和泉式部が感. じるのは﹁故宮﹂の名残である。そのことは、小舎人童がいることに気づいた和泉式部が﹁などか久しく見えざ. りつる。遠ざかる昔のなごりにも思ふを﹂と語りかけることからも明らかであろう。和泉式部の親しげな様子か. らも、この小舎人童こそが故宮の伝言や手紙を幾度となく運んできていた者であることは間違いない。.  問題はここにある。和泉式部は故宮に仕えていた小舎人童を目にして、懐かしさを覚えている。つまり、和泉. 式部は小舎人童の顔を知っていたということになり、現に和泉式部は一目見ただけで﹁故宮にさぶらひし小舎人. ひ. d.

(19) 童なりけり﹂と断じている。和泉式部と小舎人童が直接面会し、何度も故宮からの手紙や贈り物などをやりとり. していなければ、このような反応をすることは不可能であろう。当時の常識から考えれば、成人したひとりの男. が女性と顔を付き合わせてやりとりをすることは考えにくい。これは、小舎人童が﹁童﹂であったからこそ成し. 得たことだろう。戯れに歌をやりとりするときでさえも何かを介して行うことが一般的であった当時において、. 成人として扱われない童だからこそ直接面会することができたのだ。故宮、すなわち為尊親王とのやりとりを直. 接顔を合わせて行っていた小舎人童が、和泉式部にとって為尊親王その人を強く意識させる人物であったことは 間違いなく、親王が没した今、小舎人童からその人を思い起こすことは必然である。  しかし、対する﹁小舎人童﹂の返事は和泉式部ほどストレートなものではない。.    ⋮⋮そのこととさぶらはでは、なれなれしきさまにやと、つつましうさぶらふうちに、日ごろは山寺にま.   かり歩きてなむ。いとたよりなく、つれづれに思ひたまうらるれば、御かはりにも見たてまつらむとてなむ、.   帥宮に参りてさぶらふ。⋮⋮.  このとき、為尊親王が没してから一年ほどの時が流れていたとされている。 一年ほどの間、姿を見せなかった. 小舎人童は、﹁何事もないのにお訪ねするのは馴れ馴れしいような気がして﹂と和泉式部の呼びかけに応えてい. る。更に、服喪の意味もあったのか、山寺詣でをしていたことを合わせて述べる様子には、うまく話題を受け流. している風すら感じられ、童であるということを差し引いてもかなりしっかりとした対応をしている。小舎人童. が姿を見せなかった理由については、これまでの例を参考にすると、童自身の意志で和泉式部の元に顔を出さな. かったのではなく、これといった用事もなしに小舎人童が貴人の元を訪れることが異常な事態であったのではな. いかと考えられる。小舎人童は、私的に主の相手である女性の元を訪れるものではなく、主の命をうけて行動す. ることが常であるからだ。小舎人童はごく軽く﹁乱書に参りてさぶらふ﹂と言い、和泉式部も﹁いとよきことに. こそあなれ﹂と軽く応じているが、小舎人童が今は敦道親王に仕えているというこのことは、彼の行動理由やそ. ㍗. d.

(20) の立場を考える上で、大きなポイントになる。小舎人童の主は既に営為尊親王から多子親王に移っている。そう. であるならば、和泉式部の元を訪れるということは、主︵11敦道親王︶の何らかの命を受けてのものであると考. えるべきであろう。事実、このときの小舎人童は、敦道親王から和泉式部へのアプローチのきっかけを携えてき. ている。和泉式部が小舎人童に至尊親王の影を感じているのに対し、小舎人童は新しい主︵展望道親王︶の使い. として振舞っており、為尊親王との関係は切れてしまっている。ここでの彼の役割はまさしく新しい主の文使い であり、女との仲介役であるのだ。.    ⋮⋮しかおはしませど、いとけちかくおはしまして、﹁つねに参るや﹂と問はせおはしまして、﹁参りは.   べり﹂と申しさぶらひつれば、﹁これもて参りて、いかが見たまふとてたてまつらせよ﹂とのたまはせつる。.  挨拶に続く彼の言葉は敦道親王の命を伝えるためのものであり、おそらく当初、和泉式部が望んでいたと思わ. れる為尊親王の名残ではない。和泉式部は﹁さらば参りてなむ。いかが聞こえさすべき﹂という童の催促により、. ﹁はかなきこと﹂︵翻言葉のあや、言葉遊びとしての歌︶を宮への返事とする。何でもないことのようだが、和. 泉式部がここまで簡単に宮への歌を詠んだのは、その使いが他でもない﹁為尊親王に仕えた小舎人童﹂だったか. らではないだろうか。このときの小舎人童は、彼女にとって為尊親王の名残・影として捉えたい者であり、恋歌. やそれに類する応酬を仲介するというその役目は、まだ色濃いものではなかった。﹃和泉式部日記﹄には﹁もと. も心深からぬ人にて、ならはぬつれづれのわりなくおぼゆるに、はかなきことも目とどまりて﹂とかなり遠慮の ない様子で綴られてはいるのだが、そのことだけが原因ではないようにも思われる。.  この後、為尊親王の名残・影を負っていた小舎人童は、完全に声道親王の影として扱われるようになっていく。.    ⋮⋮故宮のさばかりの給はせしものをとかなしくて、おもひみだる︸ほどにれいの童来たり。御文やあら.   んと思︵ふ︶ほどに、さもあらぬを心うしとおもふほども、すきぐしや.−⋮. 4. 8.

(21)                           ︵引用部の﹁御文﹂は、敦道親王からのものを指す︶.  和泉式部の意識の中で小舎人童の扱いが為尊親王の影から敦道親王の影へと完全に移り行く過程が確認できる. 記述であり、興味深い。しかしこれは和泉式部の意識の上での問題であり、これまでの例からも、小舎人童自身. の中では主の変化と同時に意識の変化も起こっていると考えるのが自然であろう。ともあれ、小舎人童自身より. も、周囲の人間がその主との一体的である密接な関係を意識していたようだ。小舎人童自身に関しては、主が敦. 道親王に移った時点で、完全に新しい主に属するものとして振る舞っているようではある。前の主である為尊親. 王と恋仲にあった和泉式部に関しては、そう簡単に割り切れるものではなかったのだろうか。冒頭部付近に関し. ていえば、元の為尊親王の小舎人童から、為尊親王の影を感じ取ろうとする記述が続く。しかしながら、和泉式. 部の為尊親王の影に託ろうとしているような態度も、どこまで本気のものかはかりかねる部分もある。前述した. ように、小舎人童は主の影として捉えられるほどに、主の命に従い、忠実に行動する者であった。そのことは、. 当の和泉式部も十分に分かっていたはずだ。だからこそ、冒頭に引いた﹁などか久しく見えざりつる。遠ざかる. 昔のなごりにも思ふを﹂という言葉を小舎人童にかけることになるのだが、このとき既に小舎人童は新しい主で. ある敦道親王に仕える身である。この時点では為尊親王の小舎人童であったこの童が、現時点でどういう立場に. なっているのかは、和泉式部の関知しないことであったから、単純に為尊親王の名残としてみることも可能であ. っただろう。しかし、直後に小舎人童が﹁いとたよりなく、つれづれに思ひたまうらるれば、御かはりにも見た. てまつらむとてなむ、直宮に参りてさぶらふ。﹂と和泉式部に告げた時点で、状況は一変する。小舎人童が主を. 変えるということが、当時どれほどの頻度であったのかということについては推測するほかないのだが、和泉式. 部の、﹁いとよきことにこそあなれ﹂という反応をみる限りでは、そう珍しいものでもなかったのだろう。特に. 驚くこともなく、むしろ良い主に仕えることができたことを喜んでいる風にも捉えられるからである。しかしそ. うなると、小舎人童から感じる為尊親王の影のみが、町道親王の文に応える要因であったと考えることが難しく. 傷. 01.

(22) なってくる。 一年ほどの間、小舎人童は和泉式部の元を訪れてはいない。主からの命もなく、その相手の元を訪. ねることが常ではなかったからであろうと前述した。しかし今、小舎人童は敦道親王に仕える者として和泉式部. の元を訪れている。古い主から新しい主へと小舎人童の主が移ることが珍しいことではなかったのならば、和泉. 式部にも目の前にいる者が誰の命を受けて自分の元を訪れたのかということが、小舎人童の新しい主の名を聞い. た時点で分かったのではないだろうか。和泉式部からすれば、帥宮である敦道親王は高貴の人であり、そこに仕. える小舎人童からの催促があれば、文の返事を断ることは難しかったのかもしれない。しかしながら、訪れた小. 舎人童が恋仲であった故人に仕える者であったことにより、それだけの要因であったとは考え難い状況になって. いる。このとき、和泉式部が敦道親王に送った文は﹁はかなきこと﹂を書いたものであった。﹁はかなきこと﹂. ではあっても小舎人童に歌を託すということは、これまでの例をみても、恋愛の雰囲気をまとっていないとは言. い難い。三道親王からの初めての文への返歌を書いた時点で、和泉式部と黄道親王の関係が、おぼろげながらに. でも始まっていると考えるほうが自然であるだろう。﹁もともと心深からぬ人にて、ならはぬつれづれのわりな. くおぼゆるに、はかなきことも目とどまりて﹂と、和泉式部が評されることも、仕方のないことであったのかも しれない。.  為尊親王に仕えた他の立場の者ではなく、小舎人童に文の使いをさせるということで、そこには恋の雰囲気が. 漂うことになる。また、為尊親王に仕えた小舎人童が文の使いであったことは、形式的なものであったにしろ、. 和泉式部の、敦道親王に対する後ろめたいような意識を軽減させるものであっただろう。和泉式部の元へ文を運. んでくる者が、他の誰ではなく声息親王に仕えた小舎人童であったということには、敦道親王のしたたかさを感 じずにはいられない。.  ここまで小舎人童の性質・ありかた・その扱われかたについてみてきた。特に強く感じられるのは、主と小舎. 人童との密接な関係である。他者が入り込むことが難しいような主のプライベートや忍ぶべき場面にも、小舎人. 匹. 2.

(23) 童は連れられてきている。﹃大和物語﹄︵注六︶の例のように、目的とする女性の邸内で控えているような記述さ. えある。まさしく主の影のようにして付き従っていたのだろう。いずれにしても、主と小舎人童との距離は非常. に近いものである。そのような密接な関係にあったにも関わらず、﹃和泉式部日記﹄に登場する故宮の小舎人童. は、新しい主である敦道親王の命のままに行動している。これほどまでに密接な関係にあるのならば、主の死後、. 殉じるという行動に出ても不思議はないのだが、小舎人童は﹁御かはりにも見たてまつらむ﹂と、敦道親王へと. 仕える先をかえてしまう。仕える先をかえることに、抵抗感やとまどいがあったのかということを、﹃和泉式部. 日記﹄から読み取ることはできないが、どのようなとまどいがあったにしろ、小舎人童にとって、学道親王の権. 威の方が上であったことは間違いない。ここから読み取れるのは、小舎人童の、職能をまっとうする姿である。.  ﹃和泉式部日記﹄の君道親王と小舎人童の例は、小舎人童が職能をしっかりとまつとうしたものである。しか. し、反対に職能をまっとうできなかった例もある。それが、﹃源氏物語﹄の光源氏と夕顔の弟である小君との例 である。.    ⋮⋮あるじの子どもをかしげにてあり。単なる、殿上のほどに御覧じ馴れたるもあり。伊予の介の子もあ.   り。あまたあるなかに、いとけはひあてはかにて十二三ばかりなるもあり。﹁いつれかいつれ﹂など問ひ給.   ふに、﹁これは故衛門督の末の子にていとかなしくし侍けるを、をさなきほどにおくれ射て、姉なる人のよ.   すがにかくて侍也。才などもつきぬべく、けしうは侍らぬを、殿上なども思ふ給へかげながら、すがくし   うはえまじらひ侍らざめる﹂と申。    ︵中略︶.    さて、五六日ありてこの子率てまみれり。こまやかにをかしとはなけれど、なまめきたるさましてあて人.   と見えたり。召し入れていとなつかしく語らひ給ふ。童心ちにいとめでたくうれしと思ふ。いもうとの君の.   事もくはしく問ひ給ふ。さるべきことはいらへ聞こえなどして、はっかしげに静まりたれば、うち出でにく. レ. 2.

(24)   し。されどいとよく言ひ知らせ給。か㌧る事ことはとほの心得るも思ひのほかなれど、をさな心ちに深くし   もたどらず。.    御文を持て来たれば、女、あさましきに涙も出で来ぬ。この子の思ふらん事もはしたなくて、さすがに御   文を面隠しにひろげたり。⋮⋮.                                         ︵﹃源氏物語﹄帯木︶.  ﹁あまたあるなかに、いとけはひあてはかにて十二ばかりなる﹂﹁故衛門督の末の子﹂﹁姉なる人︵夕顔︶のよ. すが﹂とされるのが小君である。源氏はこの小君を引き取り、内裏にも連れて行こうと申し出るのだが、これに. は姉の夕顔と親密になろうとする気持ちも関わっているようだ。はっきりと記されてはいないが、仕える主と通. おうとする女性を取り持つ童といえば想起させられるのは小舎人童である。源氏はこの後、文使いとして小君を. 用い、その点では小舎人童そのものであるのだが、微妙に異なる点もある。その点を確認しておきたい。.  これまでみてきた小舎人童は主やその通おうとする女との関わりが不明であり、主従という関係しか見いだせ. ないものだった。しかし、夕顔と小君は姉弟であるため、従来の女性と小舎人童とは異なる関係がそこに生じて. いる。この特殊な関係により、夕顔との仲を取り持つことを期待する源氏と、源氏との仲を取り持とうとするこ. とを諌める夕顔との間に、小君は立たされることになる。男主︵源氏︶との主従の関係もどこかまだぎごちなく、. 男主が通おうとする女は姉であるという小君の状況は、﹁小舎人童﹂としては無理があるといわざるをえない。. 事実、小君は関係の取り持ちに失敗し、源氏から恨み言を告げられることになる。﹃和泉式部日記﹄においては、. 小舎人童が和泉式部と顔見知りであったということが、敦道親王との仲を取り持つ重要な要因となっていた。し. かし、ここでの小君は、主が関係を持とうとする女がよく見知った姉であったということにより、小舎人童にな りきることができず、その職能をまっとうできていない。.  右のような姿だけでも特異な小舎人童として捉えられるのだが、小君の小舎人童としての特異性はそれだけで. し 12.

(25) はない。源氏が小君を内裏につれていくことによって、小舎人童であった小君は宮中への殿上が許された童、す なわち﹁殿上童﹂となるのだ。.    ⋮⋮又の目、小君召したれば、まみるとて御返り乞ふ。⋮⋮︵中略︶⋮⋮﹁あごは知らじな。その伊予の.   翁よりは先に斉し人ぞ。⋮⋮さりとも、あごはわが子にてをあれよ。この頼もし人は行く先みじかΣりなん﹂.   との給へば、さもやありけん、いみじかりけることかな、と思へる、をかしとおぼす。この子をまっはし給.   て、内にも率てまみりなどし給ふ。わが御斎殿にの給ひて装束などもせさせ、まことに警めきてあっかひ給   ふ。⋮⋮.  ﹁まことに親めきてあっかひ給ふ﹂という記述からは、内裏へ連れて行き装束を整えさせるという源氏の行動. が、実際の親も行うものであることが分かる。﹁いとけはひあてはか﹂とされた小君は、殿上童としての素質は どうであったのか。興味が引かれるところである。. [注]. ︵一︶﹃日本国語大辞典﹄︵小学館︶より抜粋。時代や扱いにより、関係が薄いと判断したものについては省略し   た。. ︵二︶﹃日本古典文学大辞典 第二巻﹄︵岩波書店、一九八四年一月目﹁二巻。有職故実。王徳天皇著。﹁禁秘御抄﹂.    ﹁禁中抄﹂﹁十徳出御抄﹂﹁建暦御記﹂ともいう。和田英松によれば、承久元年︵一二一九︶起稿、同三年   三、四月完成したと推定される。﹂. ︵三︶﹁平安時代、貴人の外出の時、警護のために、勅宣によってつけられた近衛府の官人。弓矢を持ち剣を帯. 鋲. 2.

(26) ︵四︶. ︵五︶. び、近衛は徒歩、その他は騎馬で、前駆は番長がつとめた。﹁弘安礼節﹂によれば、上皇には将曹・府生. ﹃目本古典文学大辞典 第六巻﹄︵岩波書店、一九八五年二月︶二冊。物語。作者については、古来、花. 年未詳。題号は﹁落窪の君についての物語﹂の意。三冊や六冊にした本もあるが、もとは四冊と見られる。﹂. ﹃目本古典文学大辞典 第一巻﹄より抜粋。︵岩波書店、一九八三年十月︶﹁四巻四冊。物語。作者・成立. きさし未完の断片がついている。﹂. と﹂の十編。最後に﹁冬ごもる空のけしきに、時雨︵しぐれ︶るだびにかき曇る袖の晴れ間は⋮﹂の、書. 坂越えぬ権中納言﹂﹁貝あはせ﹂﹁思はぬ方にとまりする少将﹂﹁はなだの女御﹂﹁はいずみ﹂﹁よしなしご. 時代後期の成立か。所収の短編は﹁花蕊折る少将﹂﹁このついで﹂﹁虫めつる姫君﹂﹁ほどほどの懸想﹂﹁逢. ﹃日本古典文学大辞典 第四巻﹄︵岩波書店、一九八四年七月︶﹁十巻十冊。物語。作者・編者未詳。平安. 備にあたることもあった。また、中・少将、諸衛督・佐の随身を小随身という。玉杖。御随身。﹂. ように、大臣・大将には八人、納言・参議には六人、佐には二人である。上皇の随身は、夜間、御所の警. ・番長各二人、近衛八人で総計一四人、摂政・関白には府生・番長各二人、近衛六人で総計一〇人という. ︵六︶. 山天皇説、女房大和説などあったが、宇多天皇周辺の女房圏に該当者を求める意見が有力で、大和のほか、. 伊勢、あるいは伊勢・中務︵なかつかさ︶の母子黒作説、としこ・一条の君の周辺説、兵衛の君説などが. あるが、特定の一人に確定すべき条件は整っていない。書名の由来は、唐に対する日本の物語とする説、. ﹁伊勢物語﹂に対する﹁大和の物語﹂とする説などあるが、未詳。天暦五年︵九五一︶ごろに成立、一条 朝初年︵ほぼ一〇〇〇年ごろ︶に増補されて現形となったか。﹂. 塩. 4.

(27) 第二章 宮中の童. 第一節 殿上童の意味と役割.  殿上童とは、その名の通り、清涼殿の間に殿上することを許された童を指す︵面一︶。ここでは、殿上童に関 する資料を概観し、その意味と役割について考えてみたい。.  ﹃狭衣物語﹄︵注二︶では、帝となった狭衣の文を斎宮︵源氏宮︶に届ける役目を、殿上童が担っている。.     ⋮村雲晴れ果つめるを、﹁いかやうにてか、た∼今、かく、御覧ずらむ﹂と、ゆかしうなどやうにて、.   近う候ふ殿上童を、たてまつらせ給へれば、﹁げに、雲の上は、まいていかに﹂と、思しやらせ給へる秋の.   月影なれば、おかしき御消息なれば、待ち実親はんけしき、恥しう思しやらせ給へど、今は、人づてに聞え.   させ給はんも、あるまじき事なれば、                                                   51     あはれ添ふ秋の月影袖馴れておほかたとのみながめやはする                    2.   とばかり、ほのかなり。御使に、菊の二重織物の桂、給はせたるを、かづきながら、まみりたる頭つきなど、.   月に映へて美しきに、⋮⋮.                                         ︵﹃狭衣物語﹄巻四︶.  ﹁近う候ふ殿上童を、︵文の使いに︶たてまつらせ給へれば﹂ということであるので、この場合の殿上童は帝. である狭衣の傍近くに控えていたことになる。﹁秋の月影なれば﹂、﹁月に映へて美しきに﹂、﹁あはれ添ふ秋の月. 影袖馴れておほかたとのみながめやはする﹂と、繰り返し月の描写が現れるので、傍近くに控えていたのが夜で. あったと確認できる。昼のみならず夜までも帝の傍近くに控えているという姿は、前章の小舎人童を彷彿とさせ. るものでもあり、いわば殿上童が﹁宮中における小舎人童﹂として機能していたことも思わせる。殿上童が﹁宮. 中における小舎人童﹂であった可能性を示唆する資料はこれだけではない。﹃うつほ物語﹄の登場人物である忠.

(28) こそは、﹁近く使ひ給ひける痛して、宮す所の御許へ﹂と、傍近く仕える童を使いとして、文を梅壺に届けさせ. る。梅壺が宮中であるということを考えれば、これは﹁殿上童﹂﹁上童﹂の類であろう。忠こそと梅壺とは、何. らかの関係があるものとして作中に示される。そのことを合わせて考えれば、恋仲である相手に文を届ける役目. としての小舎人童との類似性を意識させられる用例である。ただし、文を届けさせている忠こそ自身も殿上童で. あることに注意すべきだろう。それは、忠こその特殊性、もしくは、同じ殿上童であっても使う側と使われる側 とに分かれていた可能性を考えさせられるものでもあり、興味深い。.    ⋮⋮上﹁これがひかりに物は見えぬべかめり﹂とおぼして、立ち走りで、皆捕へて御冠につ玉みて御覧ず.   るに、数多あらんはよかりぬぺければ、やがて﹁童部や候ふ。蛍多く求めよや。かの夏野ひ出でむ﹂と仰せ   らる。殿上童、夜更けぬれば、候はぬうちにも、⋮⋮.                                        ︵﹃うつほ物語﹄初秋︶.  夜、蛍を集めさせようとした帝が呼び出そうとしたのは﹁童部﹂であった。この﹁童部﹂は以下に続く記述か. ら殿上童そのものであると知れる。夜が更けていたため、殿上童がまだ帝の傍に参上していない間に⋮⋮と続け. られているため、夜更けになれば少なくとも帝のすぐ傍に控えていたというわけではないようである。しかし、. 文を書く灯りとするための蛍を集めさせる役として殿上童を指名することからは、帝と殿上童との近しい関係を. 感じ取るのは難しいことではない。このことからはやはり、近衛中将・少将等の主と小舎人童との近しい関係と の類似性を意識させられる。.  また、この﹃うつほ物語﹄や﹃枕草子﹄の記述からは、好ましい殿上童像が浮かび上がるようだ。.    ⋮⋮又、死にたる吉零のひとり子に、花園といふ殿上童使ひ給ヒける、年十歳ばかりなる、かたち清らに、.   心かしこし。御門﹁生ひ出デぬべき物﹂と御覧ずるに、父が供に筑紫に下りて、:.                                       ︵﹃うつほ物語﹄藤原の君︶. ひ. 2.

(29) 童はさるべき人に仰せ給ひて﹁よくいたはり物せよ﹂. きらうくしき事、殿上童ともいひつべし。. とて、やがて殿にとゴめさせ給ふ。顔の清げに愛敬づ.                                      ︵﹃うつほ物語﹄櫻上 下︶.    うつくしきもの。⋮⋮おほきにはあらぬ殿上わらはの、装束きたてられてありくも、うつくし。.                                        ︵﹃枕草子﹄一四四段︶.  ﹃うつほ物語﹄で繰り返し述べられるのは、﹁かたち清らに、心かしこし﹂や﹁顔の雪げに愛敬づきらうく. しき﹂という、内面・外面に渡る美しさである。ただし、後者の例に関しては殿上童そのものではなく、﹁顔の. 清げに愛敬づきらうくしき﹂ことが殿上童のようだという童の形容である。しかしながら、童への褒め言葉と. して﹁殿上童のようだ﹂という文句が通用していることから考えても、好ましい殿上童は美しいものであるとさ. れていたのが分かる。﹃枕草子﹄において﹁うつくしきもの﹂の項に殿上童があげられているという例をみても、. ﹁うつくしいもの﹂という目で殿上童が見られていたと想像するのは難しいことではなく、いずれにしても、姿 の良いことは、大きな評価基準となったようである。  ﹃うつほ物語﹄には以下のような用例もある。.    ⋮⋮大将のおとゴ、唯殿上童を一人御供にて先づ陣毎に﹁宰相中将や、まかでつる﹂と問はせ、⋮⋮.                                        ︵﹃うつほ物語﹄初秋︶.  帝のお召しに応えないばかりか姿が見えない息子を探す父﹁大将のおとゴ﹂が供に連れているのが﹁殿上童﹂. である。ここでは、﹁唯殿上童を一人御供にて﹂という、小舎人童の用例であれば恋愛の雰囲気や主が忍びの用. であることを示唆する文脈が用いられている。しかし、殿上童がいることから考えても場が宮中であるのは確か. であり、恋愛の雰囲気を示そうとしているものでない。ここでは単に、﹁大将のおとゴ﹂がほぼ単身で、息子を. 捜していたことを示すための文脈であると考えられる。小舎人童の用いられたかたと完全に重なる例ではないが、. ㍗. 4.

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