Title
人間存在の基盤としての家族
Author(s)
下村, 英視
Citation
宮崎産業経営大学法学論集 = Miyazaki Sangyo-Keiei
University law review, 19(2): 13-47
Issue Date
2010
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/10105
人間存在の基盤としての家族
下村英視
A family is the base of the existence of human beings.
Hidemi SHIMOMURA 目次 1.はじめに 2.家族を問うスタンス 3.家族は子どもの福祉を追求する 4.情緒的融合体としての家族は謬見か 5.「自然な」家族とは何か 6.生物社会学から家族を考える 7.家族は子どもをどのように受け入れるか 8.合理性の水準とは異なる次元にある家族 9.「自己実現」の観念をとらえなおす 10.結び
1.はじめに 「「家族の崩壊」と合理主義の精神(1)」において、私は、人間を抑圧するイデオロギーと対 決しつつ、人間の生き方を支えてくれる基礎理論の提供が研究者の使命だと述べた。そして、 同稿において、家族の崩壊の根底には、自己実現の正当性を肯定する思想としての合理主義 の精神があることを説き、人と人とが関係を織りなして生きている社会にこの論理が敷く合 理性の秩序の中で、自分の他者に対するふるまいが――たとえそれが暴力であっても、家族 への虐待であっても――合理化されてしまう 虞おそれがあることを述べた。さらに、そのような人 間の傾性に対抗し、存在肯定の思想を手にするために、このことの原体験の場としての家族 の重要性を示唆した。これを受けて、本稿は、人が生きてゆくことの原理=存在の肯定の思 想は、利他的行為に現われ、この行為が営まれる家族においてよりよく学ばれ得るものであ ることを、積極的に説く。それは、現実に存在する実体としての家族に、人間が人間になる ための学び、人間が人間として生きることを支えている原理の学びがあることを説こうとす るものである。 2.家族を問うスタンス 畠中宗一は、「家族の一義的な定義は困難であるばかりか無意味である」こと、したがっ て、「家族が複数の意味をもっていることを理解し、その分析を通じて家族の原型ともいう べきものを析出するのが得策(2)」という山根常男の見解を、かなりの紙数を割いて紹介し、 「個人化」と「多様化」が促されている近年の家族について、山根の主張を、「家族の本質 的理解に近づく手掛かりを与えてくれる」ものとして、評価する(3)。 畠中自身が言うように、畠中や山根の考えの中には、従来家族社会学のテキストにおいて 一定の影響力を与えていた森岡清美の考え方がある。畠中や山根とは異なって、「家族はあ る特定の機能を果たすために合目的的に作られた集団ではない。したがって、家族が果たす 機能は、あれこれと限定的に挙げることはできない。感情融合から成った集団にふさわしく、 家族は多面的で包括的な機能を果たしている。この包括的な機能を一言でいえば福祉の追求 ということになる(4)」と述べられるように、森岡には、家族の機能を個別限定的に取りあげ ることは、家族の全体的な理解を歪めてしまうことに他ならず、それでは家族の存在をその ままの姿でとらえることができないという考え方がある。そこで、まず全体的な定義を与え、 その中で家族を仔細に検討して行くことになる。 両者の立場は、一見対立するように見えて、実はそうではない。家族をよりよく理解する ための工夫として、それぞれのスタンスの取り方があるのであり、家族の意味を理解しよう
として、家族の機能や役割を丁寧に検討することにおいては、両者は一致している。 畠中によって紹介される森岡の定義は、「家族とは、夫婦、親子、きょうだい、など少数 の近親者を主要な構成員として、成員相互の深い感情的包絡emotional involvementで結ばれ た、第一次的な福祉追求集団である」と表現され、この定義に含まれる二つの要素は、「夫 婦、親子、きょうだい、など少数の近親者を主要な構成員」とすること、そして、「成員相 互の深い感情的包絡で結ばれた、第一次的な福祉追求集団」であることの二点であると指摘 される(5)。 森岡は、「福祉」という語を用いることについて、「幸福とは個人が主体的に感ずるもの、 つまり幸福感である。他者が好意をもって本人のために取り計らっても、本人は幸福と感じ るとは限らない。そこで、幸福とは個々人が求めるものであり、家族が追求するものは福祉 である」と述べている(6)。また、ある時期、「福祉追求」を「福祉志向」と改めているが、その 点について、「家族の個人化傾向が強まってきた現在では、集団としての家族の機能の強度 を「追求」から「志向」へと一ランク下げるのが妥当と見るがゆえである」と述べる(7)。 ところが、このような森岡の用語法について、森岡自身がかつて「福祉志向集団」として いた定義を「幸福追求集団」と定義しなおしている点を柏木惠子は指摘し、最初のものが、「病 人や、高齢者のケアが家族に期待されかつてそうであった現実が反映」されているのに対し て、後のものは、「ケアを家族機能と認め難くした現実の変化と、介護、養育といった道具 的な行為ではなく、幸福という主観的情緒的なものを家族に期待するようになった家族観の 変化がみてとれる」としている(8)。 確かに、「幸福とは欲求が満たされて幸せと感ずる状態をいう(9)」と表現されたりもする から、柏木のようにとらえる者も多いかもしれない。また、「福祉」という語に与えられる森 岡の考え方を重視するならば、このような指摘も妥当かと思われる。しかし同時に、森岡は、 「幸福」とは「心身の欲求の充足」とし、これに説明を加えて、充足されるべき欲求とは、 経済欲求(生活財や所得の確保など経済的安定を求める欲求)、身体欲求(身体の自由、安全、 健康を保つこと、休養介護を受けることへの欲求)、関係欲求(他者との関わりの中で、謝意 や尊敬を受けたいという欲求)、価値欲求(自身の向上、自己実現、生きがいを求める欲求) とするから(10)、「幸福」という語の使われ方は、従来森岡が用いてきた「福祉」という語に一致 する。つまり、用語の変化はあったが、そこに込められている意味に基本的な変化はないと 考えるべきである。 それでは、なぜ用語の変更がなされたのであろうか。それは、その曖昧さを指摘されるこ とのあった「福祉」という語に、人が生きる場のリアリティを与えようとするものと理解さ
れるべきだろう。家族社会学を研究してきた森岡が、その研究の意味とは、人間 human being のよき在り方 well-being を探究することにあるとの思いを明確にしようとしたものである と、私には思われる。 そこには、森岡の学問に対する姿勢が現われている。学問自体を自己目的化するのではな く、人間存在のよき在り方の研究、よき在り方の実現に貢献するものとして学問を位置づけ ようとするとき、家族の定義として、「福祉追求(志向)集団」という表現から「幸福追求集団」 という表現への変更が行われたものと考えられる。ただし、本稿では、幸福という言葉が日 常的に個人の主観的感情を充たす意味に用いられていることを配慮して、これと混同されな いようにするために、福祉という語を用いる。 3.家族は子どもの福祉を追求する このようにして、家族は家族の構成員の福祉を追求する。福祉という語が持つ多様性ゆえ に、自ずと多元的な表現になりがちであるが、そこを簡潔に述べた森岡の言葉を再び借りる ならば、福祉とは、「消極的には貧困・病気・がんからの解放、積極的には豊かさ・健康・ 精神的安らぎの達成(11)」と表現されてよいだろう。とりわけ、ひとりで生きることのできな い子どもに注目すれば、子どもを外的な阻害要因から守りつつ、心身の健康とその成長の実 現に向かって努力すべき責任を負うものとして、言い換えれば、子どもの福祉を担う主体と して家族がとらえられていることには、大いに賛同できる。 また、家族の福祉ということにおいて、親は子どもの扶養(養育)の義務を持つが、同時に 一般に「しつけ」と呼ばれる社会化の育成の義務を持つ。「しつけ」について、森岡清美は、 「望ましい価値の内面化、望ましい行動の型の習慣化をはかる意図的な行為」という定義を 与えている(12)。「望ましい行動の型の習慣化」の実現のために、懲罰が必要になることもあ れば、称賛がその手段になることもある。そして、子どもに望ましい価値観や行動の習慣化 を図るということにおいて、社会化=しつけは、子どもへの福祉である。 なるほど、社会化という点については、子どもは、学校生活(教師やクラスメイトとの交流)、 遊び友達との活動、読書や多様なメディア(新聞、テレビ、インターネット等)からの情報摂 取によって、行動の規範や価値観を身につけ「社会化」を実現してゆく。しかし、子どもの 社会化について、森岡は、家族の果たしている役割が極めて大きいことを指摘する。その理 由として、①家族が他の何ものによっても代行されがたい独特の機能をもつ集団であること、 ②子どもにとってパーソナリティー(人格)形成の最も重要な時期をこの集団の中で過ごすこ と、の二点が挙げられている。そして、「扶養と社会化が情緒的に融合している点に、家族
における社会化の特徴がある」と述べられる(13)。この「情緒的融合」を可能にしているのが 家族の独自性であり、①で言われた「他の何ものによっても代行されがたい独特の機能」で ある。そして、その機能が向かうべきは、子どもの福祉の追求なのである。 4.情緒的融合体としての家族は謬見か ところで、このような見解に対して、上野千鶴子は批判的な立場から尖鋭な論を展開する。 家族について、その機能を最小限に表現したものとして、「子どもの社会化機能」と「成人 の情緒安定機能」が挙げられるが(14)、ここには「三歳までの第一次社会化過程にきりつめら れた「子ども社会化機能」がもっぱら女性に担われていること」、また、「「成人の情緒安定(お よび性的満足(15))機能」ももっぱら夫の側の「満足」を基準に測定される傾向がある」というよ うに、ジェンダー非対称性(性差別性)が見られると述べる(16)。 さらに、「家族を「愛の共同体」とみる見方が、家族をそれ以上立ち入って分析することが 不可能な融合した実体として捉えさせ、個人を分析単位として析出することや、その間の非 対称性や権力関係を対象化しにくくさせてきた」のであり、加えて、「「友愛家族」の「制度家 族」に対する倫理的優位が含意」されたこの立場から、「「友愛家族」こそがもっとも純化され た家族、家族の発達の最高形態である、したがって「友愛」を伴わない「制度家族」は単に抑圧 的であるばかりか、不道徳でもある」という誤った規範がつくりだされてしまったと、上野 は指摘する(17)。 同様に、「ゲゼルシャフト」に対応するものとして語られる「ゲマインシャフト」は、実 体のない観念であって、「テンニースが近代社会を記述するために「ゲゼルシャフト」という 概念をつくり出したとき、彼はその残余概念を「ゲマインシャフト」と名づけ、ありもしない 過去に投影するという「伝統の創造」」を行ったに他ならないとする(18)。つまり、人間社会の 在り様を表現するために「ゲゼルシャフト」という概念を考えてこれを適応した時、「ゲゼルシ ャフト」の対概念としてつくりだされた「ゲマインシャフト」の概念は、その名指す存在がない にもかかわらず、あたかも何か実体があるかのごとく機能し、そのような意味だけが人の心 に宿り、人々が何かを考えるときに有効な力として作用し、それが慣習として定着したとき に、新たな伝統となってしまい、そのようにして、人は観念に支配されてきたというわけだ。 また、このようなことは、「「人工」に対する「自然」、「都市」に対する「田園」が、ありもし ない「過去」を捏造するノスタルジーの産物であることと対応している」と上野は言う(19)。上 野によれば、「ノスタルジー」とは、「反動的な reactionary 想像力」に他ならない(20)。「い ったん「家族感情」が「人倫の基礎」として聖化されると、それに対抗することは非常にむずか
しくなる。「家族」は主体性とアイデンティティーの基礎、道徳の源泉、個人主義の砦である とともに個人を超越する価値の基礎となる」(21)のである。 こうしてみると、子どもの福祉を追求することが家族の大切な機能だと考えることも、ノ スタルジックな謬見だということになるのであろう。つまり、子どもの養育(世話やしつけ) がもっぱら女性の役割とされてきたという事実こそが、そのような考え方によってもたらさ れており、そこでは、そのように考えることがイデオロギーとして機能していることになる。 したがって、上野によれば、それは女性を抑圧してきた誤ったイデオロギーに他ならないか ら、それからの解放がなされなければならないということになるのだろう。確かに、女性を 抑圧してきたイデオロギーから女性を解放することは、女性のみならず男性にとっても望ま しいことである。無意識のうちに抑圧者として生きてきたとすれば、その真実に気づいて、 自分の生き方を問いなおすことは、男性自身の解放にもつながる。 このように、確かに、上野の論には学ぶべき多くのものがある。しかし、その点は評価す るにしても、どうしても同意できないことがある。家族を、「アイデンティティーの基礎」、 「道徳の基礎」、「個人を超越する価値の基礎」などとしたのは、まさしく勝手なでっち上 げであり、それにもかかわらず、近代がそれを信じ、価値概念として固定してしまったとこ ろに抑圧的なイデオロギーが誕生し、これが多くの人々を苦しめた。したがって、それは、 正されねばならない。その結果として、近代の家族が崩壊することは、止むを得ないし、そ れは歴史的必然だ、という論理である。 しかし、抑圧的なイデオロギーから解放されることは、家族を否定することではないはず だ。別稿で、私は、自分の本質をつくって生きてゆくのが人間だと書いたが(22)、それは、人 間が自由な意志の主体として生きるということを表している。意志の主体としての人格の陶 冶以前、あるいは陶冶がなされるべき場においては、子どもは守られねばならない。守られ て、その能力を発揮すべき時期を待たねばならない。それまでの期間、子どもを守る場が必 要である。 もちろん、この場は、家族とは限らないであろう。様々な事情(病気や事故によって親が死 亡している場合もあれば、経済的問題や心身の障害によって子どもと一緒に暮らせない、育 てられない人もいる)から、公的なあるいは私的な施設が、その場となることもある。しかし ながら、家族に代わる形(施設)があれば、家族はなくてもよいということにはならない。家 族を得られない人たちが生きてゆくことができるようにするためには、そして、その人たち に家族がもたらすはずであったものを家族に代わって提供することができるためには、家族 がもたらすはずであった何かを私たちに教えてくれるものがなければならず、それが家族だ
からだ。 5.「自然な」家族とは何か これまで私は、森岡の論を多数引用した。その中で、2で引いた箇所を再度見ておきたい。 家族が果たす機能を個別限定的に取りあげることはできないとされ、その理由を「家族はあ る特定の機能を果たすために合目的的に作られた集団ではない」からだと説明される部分で ある。ここで語られた「合目的的に作られた集団ではない」という点に、私は注目したい。 合目的的につくられたわけではないということは、人間の意志的な判断を越えて存在してい るという面が家族にはある、ということが言われているのである。 自由な意志を超えるもの、それは必然的な決定であり、その中には、世界の存在そして私 の存在、私が在るということそのものが含まれる(23)。私たちの誰一人として、自分の意志で 生まれてきた者はいない。生まれてくることを、自分の判断で決定した者はいない。気がつ けば、この時代に、この場所で生きるように命を与えられていた。生かされていた。そして、 時が経てば、必ず死ぬ。なるほど、私たちのなかには、信仰を持ち、魂の不死を信じる人が いる。それは自由だ。しかし、心身を伴った今の生、目に見える世界、耳に聞こえる世界、 触れ、香り、味わうことのできるこの世界から切り離され、愛すべき者と別れなければなら ない時が、必ず来る。これは確実だ。そうすると、一方的に命を与えられた私たちは、また、 一方的に命を奪われる。意に反してもそうなのだ。これは必然なのである。そのような必然 の総体を、「意志」という概念に対立するものとして、「自然」としておこう。 私は、社会や自然の概念をカテゴリックに定義することは大切ではないと考えているが、 問題を順序良く考えて行くために、ルソー『社会契約論』から、「自然な」家族についてル ソーが語るところを検討してみたい(24)。 ルソーによれば、「家族は政治社会の最初の雛形」と言われるが、その場合の家族とは、 各人の意志によって結びついた家族と理解されるべきである(25)。ある夫婦のもとに生まれた 子どもは、成長し、やがて親元を離れ、ひとりで生きて行くことができる時がやってくる。 このとき、子どもが親から独立することは自由である。あるいはまた、自分の意志で親のも とにとどまることもできる。自立して生きる力を身につけた人間は、自分が家族とともに生 きることにするかどうかについて、自由な判断を下すことができる。一緒に暮らすという決 断によって維持されている家族は、意志によって成り立っており、このことは、意志という 人為的なはたらきによってつくられる社会の誕生を意味する。したがって、人が身体的及び 精神的に成熟を迎え、家族のもとに留まるかどうかを自分で判断することができる段階に達
し、その時、家族とともに生きることを選択した場合に形づくられる社会、すなわち、家族 が最初の社会だということになる。 それならば、それ以前の家族はどのように考えられるべきか。子どもはひとりで生きて行 くことができない間は、親に結び付けられている。生きて行くための結び付きが家族を形成 している。ルソーはこれを、「自然な社会」と呼ぶ(26)。ここでは、「自然」という概念は、 生命を守る生物的な本能に結びついた必然性(生きるためにはどうしても必要な)といったこ とほどの意味である。生命を守ること、ルソーの言葉では「自己保存」は、生物が等しく持 つ本能である(27)。したがって、ここには人間の自由な意志が働く余地はない。ひとりで生き て行くことのできない子どもが生き延びるためには、家族という在り方を受け入れるしかな いのである。このように、「意志」が、自分の生をどのように導くべきであるのかを判断す る「自由」を意味する概念であるのに対し、ここでは、「自然」とは、意志的な判断を超え たところにある「必然性」を意味する概念であり(28)、これまでの私の考え方と一致する。 したがって、その必然性の次元において、自然な家族とは、子どもを一方的に庇護するこ とが親の役割として決定されている家族だということになる。子どもとしてその家族のもと に生まれてきた者は、無条件にその家族に受け入れられ、無条件に守られる。もちろんその 義務者は親である。親は無条件に子どもを受け入れ、その子どもの成長を見守り、これを阻 害する要因から子どもを守らなければならない。 ところがここでひとつ、困ったことがある。このように、親は子どもを守らなければなら ないとした場合、これを親の義務と考えることである。義務だとすると、それは意志の命令 である。自分自身による自分への命令である。たとえ自分の意に反しても、例えば、今日は 食事の支度をしたくないと思っても、子どものために用意しなければならない。なぜなら、 私が食事の支度を怠けることは、子どもに対して不都合な行為をしようとすること(子どもの 不利益)に他ならないからであり、したがって、このことを理解している私は、子どものため に意に反しても努力する。このようにして義務をやり遂げる。 そうすると、義務の遂行は、子どもに対するよさという価値の実現すなわち福祉として現 われる。そこでは、義務を遂行する自分は、合理性の秩序においてよさを実現した者として 位置づけられることになる。この時、自然な家族として考えられてきたことが、直ちに人間 の意志の世界、自由が認められると同時に責任が問われる世界に滑り込んでしまう。 人間は意味の世界を生きる(29)。たとえそれが自分の自由にならないものであっても、そこ に意味を見いだそうとする。むしろ、自由にならないからこそ、そのものに含まれる必然性 の理由や根拠をとらえようとする。眼の前にある物理的世界(物体としての自然、地球、宇宙)
について、それらの背後にあってそれらの運動、変化を司っている法則性(構造や機能)を認 識しようとする。なるほどそれらの存在は私を超えたものであるが、その法則性を認識する ことによって、それらを意志の統御のもとに置くことができるのではないかという世界観を、 人間は打ち立てようとする。すなわち、人間は世界を必然性の様相において認識し、そのよ うにしたことによって、その必然的なメカニズムに介入できるようであれば、それを行うと いう道が人間に開かれる(30)。自分を超えたものへの意志の浸透はこのようにして起こる。 ところが、このような考え方は、世界を統御可能なものとして人間の下に置こうとするこ と、あるいは、そのような理想を掲げて努力すれば、いつかそれは実現するはずだという漠 然とした期待をもって生きる生き方を人々にもたらす。産業の繁栄と医療技術の進歩によっ て、子どもは「授かるもの」から「つくるもの」へと変わって行ったというのは、柏田惠子 の指摘であるが(31)、今日、生活全般にわたっての諸条件(食糧事情、衛生環境、医療の充実、 生殖についての知識等)が整ったことにより、子どもの誕生までもが親の意志の統御のもとに 置かれるようになったことは、認められてよいだろう。このように、生活環境の変化に伴っ て意識にも変化が生じることは事実だが、しかし、もしその意識に誤った側面があるのであ れば、それを指摘し、正す努力をすることも、学問の役割ではないかと思われる。 ここで、与えられた命を生きるという点に注目したとき、人間の意志が及ばない領域をき ちんと認めておくことは、大切なことだ。家族において、子どもを育てるということを義務 の観念のもとに理解するのではなく、そのような意志を超えたところにあるもの、生きると いうことにかかわるもっと根源的な次元にあるものとして、とらえる必要があると私は考え る。そして、「自然な」家族とは、この次元を開く概念である。 6.生物社会学から家族を考える このような考え方は、生物としてのヒトについて考える視点に立つとき、よりよく合意で きるのではないかと思われる。哺乳類としての人間は、乳児、幼児の期間が長い生物である。 哺乳類である限り、いずれの生物も誕生後は母乳によって育てられる。親の保護によらなけ れば、生きて行けない。人間は、その期間が他の哺乳類に比べて格段に長い。自分で食べ物 を摂取したり、身の回りのこと(被服によって寒暖から身を守ること、衛生面の配慮をするこ と)を整えたり、危険から身を守ったりする能力は、親の保護と本人の学習によって獲得され る。個人差があるとは言え、これらの獲得を就学以前の子どもに期待することは、困難だろ う。加えて、社会生活において不利益を被らないために行われる義務教育の修業期間は、全 て保護を受けるべき期間とみなされるべきであろう。さらに、文化的な要因を考えると、例
えば日本のように大学進学率が五割を超えているような国(32)においては、その保護期間はさ らに延長されてとらえられるべきであるかもしれない。ネオテニー(幼態成熟)という生物学 の概念があるが、これを用いれば、人間はネオテニーの期間が異常に長い生物だと言える。 それは、子どもが家族のもとに留まる、あるいは家族の保護を受ける期間がとても長いこと を意味する。そこで、生物社会学の立場からヒトと家族を考えてみたい。 河合雅雄は、①二足直立歩行、②言葉を話すこと、③家族という社会単位を持つこと、以 上の三つが複合してヒト(霊長類としてのヒト)が成立したと考えたいと言う(33)。この考え方 は大変示唆に富んでいる。河合は言語使用の問題については触れないが(34)、①と③の関係に ついて河合が説くところは、「ヒトがどのように家族をつくったか」という思考を逆転して、 「家族がヒトをつくった」ことを主張しようとするものである。 河合は、二足直立歩行の原因や起原については不明だとしながらも、有力な説として運搬 説を紹介している。ヒトは、狩猟によって得た獲物や動物の死体を運搬するために、二本足 で立って歩くようになったというのである。ニホンザル、チンパンジー、ゴリラも、ものを 持てば二本足で歩くので、この説はうなずけるところが多いと河合は記す(35)。そして、運搬 が行われるにあたっては、どこへ運ぶのかという目的があり、それが家族だと考えられると いうのである(36)。家族のもとへ、家族のために食物を運ぶ(37)。 河合は、「直立二足歩行を促した動因は家族の存在だ」、「家族を持った霊長類、それが ヒトである」と主張する(38)。河合は、それでは、直立二足歩行の前に家族がすでに成立して いたのか、という疑問が投げかけられることが予測されると言いながら、この問いのように どちらが先かというような仕方で問題をとらえることからは、決して有意義な議論は生まれ ないと考える。先の三つの条件が、相互に影響を及ぼし合いながら複合的に進化したと考え るべきだ、と河合は述べるが(39)、私はこれに同意できる。 そうすると、家族の成立がヒトをヒトたらしめていると言うことができる。そうであるな らば、今日、見られる家族の崩壊現象は、ヒトがヒトであることを自ら放棄することに他な らないことになる。そして、家族を崩壊させてしまうことは、「生物的存在としてのヒトを 否定すること」であり、「その際は、もはやホモ・サピエンスではなくなったわけだから、 完全な反自然的存在としての新しい名を名乗るべきであろう」とまで河合は言う(40)。 河合の説を紹介したのは、生物学的な意味でのヒトが、これほどまでに家族という生活形 態を前提として成り立っているということを示しておきたかったからだ。生物としてのヒト、 その自然本性に家族がある。だから、人は家族を失うと、「反自然的存在」になる。
7.家族は子どもをどのように受け入れるか このように、人間を人間として成り立たせている自然というものがある。そして、それは、 5で見たように、必然性の様相を伴うものであった。これらの概念をさらに明確にすること によって、人間と家族をよりよく理解するために、子どもが家族に受け入れられる仕方を問 題にして考えてみたい。その際、あえて特殊な例を取りあげる。その特殊さの中に見いださ れる大切な事実が、共有されるべき価値を持つと、考えるからである。 クローン羊ドリーの誕生に端を発し、クローン人間を作成したと発表したクローンエイド 社(41)などの動きに合わせて、クローン技術を含めた生殖医療についての議論が盛んに行われ た時期もあったが、最近では、iPs 細胞の話題を除いては、報道されることがほとんどなく なっている。ここでは、家族は子どもをどのように受け入れようとするのかを、クローン技 術というテクノロジーから考えてみよう。 遺伝子操作テクノロジーについて、楽観的な意見を持つグレゴリー・ストック Gregory Stock によれば、将来テクノロジーの進歩によって、クローン人間のみならず、親の好みの 遺伝形質を取り入れた胚の作成による「デザイナーチャイルド」の誕生が実現するが、その ようにして誕生した子が、自分に寄せられた期待に悩んだり苦しんだりするということは単 なる憶測にすぎないと言われる(42)。今でも、特定の目標に向かって自分の子を強引に押しや る親がいるではないかというように、現状の否定的な分析によりかかって将来の不安を相対 化するという手法によって――そのような論の展開を、ストックは多用する――その不安を 根拠のないものだとして斥ける。 そういう心配とは反対に、「幼いころに養子となった私の友人は、養い親が、まだ幼い少 女だった彼女に、自分たちが見た赤ん坊のなかから特にあなたを選んだのだと話してくれた とき、幸せに感じたと言っていた」ということを根拠にして、「恐らく将来の「デザイナーチ ャイルド」は生まれたときから勝利者のように感じているだろう」とストックは述べる(43)。 自分は、選ばれて生まれてきたのだという意識(誇り)が、良好な親子関係をつくるだろうと いうのが、ストックの考え方だ。この論理によると、クローンの場合も、自分が選ばれて生 まれてきたと考えることができるから、その個人の誕生を何かの目的のための手段としてと らえることには決してならず、心配は「憶測」にすぎないということになるのだろう。 このような楽観的な見方も、意見としてはあるのかもしれない。しかし、「自分は選ばれ て生まれてきた」という意識も、少しばかり反省してみれば、そこにはいくつかの問題があ ることが明らかになる。仮に何らかの性質や形質を備えた者として選ばれたのだとしても、 育つ過程での環境(時代や社会の状況)の変化によっては、遺伝子が予測とは違った発現の仕
方をすることは大いにあり得ることだ。そのような時にもなお、「自分は選ばれて生まれて きた」という幸せを持ち続けることができるだろうか。性質や形質ゆえに愛されているとい う認識は、それらが実現しなかったり、実現したとしても事故や病気によって失われてしま った時には、自分の存在の意味をとらえられなくなってしまうことをもたらす可能性がある。 自分は親から選ばれて生まれてきたという意識が良好な親子関係をつくることがあること を否定するものではないが、しかし、このような考え方が、社会の中にデザイナーチャイル ドを受け入れることを許容する根拠となるとは考えられない。いかなる子も、親に自分の存 在を無条件に受け入れてもらっている(自分が愛されている)ことを感じる時、幸福な感情で 充たされるのであって、それは決して、自分が親の好みの性質や形質を備えているから愛さ れて当然なのだという意識によって、得られるわけではない(44)。 さらに、ストックの議論にはもうひとつの大きな誤りを見いだすことができる。「自分た ちが見た赤ん坊のなかから特にあなたを選んだ」と子どもに語る養父母は、なるほど、元気 のよさそうな子だとか、表情が豊かだとか、瞳や髪の毛の色が自分たちの好みだというよう な性質や特性を評価したかもしれないが、しかし、そのようなことは、多くの赤ん坊の中か ら自分たちが育てるひとりの赤ん坊を選ばなければならないから、そうしたに過ぎない。そ こにいるすべての赤ん坊を譲り受けることができないから、何か違いを見いだして、その子 にしたということであって、その子が優れた特性を持っていたからという理由で、その子の 養父母になることにしたわけではない。 彼らにとって、最大の決意は、赤ん坊を受け入れることにしたことである。彼らにとって、 赤ん坊の親になるという決意がまずあって、この決意に導かれて赤ん坊を譲り受けるという 行為が成立するが、その時、多くの赤ん坊の中から「あなたを選んだ」のである。先に述べ たように、選ばなければならないから、赤ん坊の特徴を観察したということはあったであろ う。しかし、そのようなことは、赤ん坊の親になるという決意に比べられるようなものでは ない。その赤ん坊の親になるという決意が、「特にあなたを選んだ」という表現をとらせたの である。 そして、もうひとつ。「特にあなたを選んだ」という親の言葉は、子どもに投げかけられた 愛情表現としてとらえられるべきものである。「あなたと家族になれてよかった」、これが その言葉の意味である。共に生きるとは、時間を分かち合うことである。時間を分かち合う ことは、各人の生きられる時間を分かち合うことであり、人生を分かち合うことであり、命 を分かち合うことだ。そういうことがあなたと共にできて、本当によかった。これ以上の存 在肯定の言葉はない。この言葉にこめられたそのような思いが、子どもの心を幸せで充たす
のである。 この特殊な例から分かるように、人は、自分の好みの特性が実現するからという理由で、 子どもを育てるのではない。家族が子どもを受け入れるということは、与えられた命を受け 入れるということ、命を預かるということである。私たちの誰もが、その存在を無条件に与 えられているのと同様に、あるいは正しくはその反対に、子どもを受け入れるということは、 こちらが無条件に果たす努力をその子どもに対して約束することである。 ただし、ここで意志の自由が語られることは適切ではない。子どもを受け入れることを決 断すると表現されると、そこに意志決定の自由が重要視されるように思われるかもしれない が、それは違う。決意した者(親になろうとする者)は、確かに自分の本質をそのようなもの として形づくってゆくことに決めたのであるが、その決断は、自然(必然性の様相)へと自ら が入ってゆくことへの決断であり、与えられた子どもと共に生きてゆくという決断である。 確かに、そのような決断をする意志は、私の自由な意志だ。しかし、その意志によってもた らされるものは、私の意志を超えたものを受け入れることである。生きること、存在するこ とという自分の意志を超えた自然(必然性の様相)の受容である。 8.合理性の水準とは異なる次元にある家族 5で人間の子育ては自然(必然性の様相)の中にあると述べた。本人の意志のおよばないと ころで命を与えられた子どもを守り育むことは、生物としての自然の中にあった。そのよう な利他的行為が行われる場としての家族が、生物としてのヒトをつくったということが、6 の河合から学んだことであった。 5と6のいずれにおいても、自然(必然性の様相)の概念がそれらを支配している。しかし、 その家族の中で生きる親たちの意識に注目したとき、彼らの生を規定しているものも自然(必 然性の様相)だと言って済ますわけにはいかない。親たちは自分の意志を持ち、独自の判断を 下すことのできる自由な主体なのだから。別稿「「家族の崩壊」と合理主義の精神」で見たよ うに、自己実現への意欲、願望が問題となるのも、人間とはそのような主体だからだ。 これを動物たちと対比して考えてみたい。動物でも哺乳類であれば、子育ては必ずする。 鳥類だってする。さらに、私の知らないある種の動物たちは、多様な仕方で子育てにかかわ っていることだろう。 一方で、動物たちは適者生存の厳しさの中で生きている。適応できないもの、適応できな くなったものは、生命を保つことができない。盲目に生まれついた肉食獣は、生きてゆけな い。ここには厳しいルールがある。環境に適応して生きる能力をもつもののみが生き残り、
その結果その種を維持し、そのようにして維持された個々の生命が秩序を保って生きてゆく 生命世界が存在する。ここを貫く秩序には、合理性がある。 適者生存という合理性の次元に生きる動物たちには、自分の生存のために合目的的に行動 するということが遺伝情報にプログラムされている。ところが、その動物が子育てをすると いうこと、すなわち利他的行為をするということは、その次元に生きる動物たちにとって矛 盾しているように見えはしないだろうか。他を利する行為は、自分には不利にはたらくこと があるはずだ。しかし、これも種の存続という目的が同じくプログラムされているからだと 説明されることによって、納得される。種の保存という原理(仮説)が、自分の生存のための 合目的的行為(個別事象)と子育てという利他行為(個別事象)とを、ともによく説明すると考 えられるからである(45)。 したがって、自分以外の個体を守る行為、これを利他的行為とした場合、動物にもそのよ うな利他的行為はあるが、しかし、それは遺伝情報(本能)の枠の中にあるものとして理解さ れるべきである。子どもが一定程度成長した時には、親子の絆は完全に断たれ、以降親子と しての関係を持ち得ないという事実は、このことをよく表している。 ところが人間は、生物の枠(遺伝情報の枠)を逸脱して、自分の意志によって人生を導き、 その本質を自分の責任によって形づくる。種の保存という遺伝情報によって決定されている 原理の枠から自由になっている人間にとって、その枠をすでに脱ぎ捨てている以上、動物た ちならただ粛々とこなしてゆく行為についても、その行為を導く別の原理が必要になる。 長期に渡ってネオテニー状態を維持する人間(の子ども)は、それだけ長期の親の保護や世 話を必要とする。そして、意志的な主体として生きる人間(親)にとって、これは、他者=子 どものために無償の努力をすることであり、利他的行為である。意に反しても、例えば、何 もしたくないと思う時にも、また社会的な活動によって自分の能力を発揮したいと思う時に も、そのような願望を抑えてまでも、なさなければならないことがある。 これは、人間の場合、適者生存の論理、合理性の論理から導かれることはない。それなの に、合理性の論理に慣れ親しんできた人間は、つい、そこを勘違いしてしまい、それらの行 為を、合理性の論理水準の中で処理しようとする。自分の願望を抑えて子どものために尽く したことに対して、そのような自分の努力に対して、正当な(公正な)報酬(成果)を期待して しまう。ところが、それが充たされないと、自分の努力が正当に評価されないことに憤りを 感じ、これが子どもへの虐待の原因になることは、同じく別稿「「家族の崩壊」と合理主義の 精神」で述べた。利他的行為である限り、合理性の論理を超えるもの、それを超えて人間の生 を導く思想が、人間には必要になった。その思想の原体験の場としてあるのが、家族だとい
うことをも、その同じ稿で述べた。 森岡の言う「情緒的融合体としての家族」に重要な意味が見いだされるのは、このような 理由からである。もちろん、人間にとって「情緒的融合体としての家族」が遺伝情報にプロ グラムされているなどというようなことを、言おうとするのでは決してない。恐らく、上野 が言うように、近代主義のイデオロギーの中で「情緒的融合体としての家族」が都合よく説 明され、落ち着き場所が与えられたということは、事実であろう。そして抑圧されていた女 性たちが、家族についてのこのような言説を信じたのは、女性の社会進出の機が(一部の女性 を除いて)まだ到来していなかったが故に、それを信じることによって人生の支えとしたから ではないかと考えられる。もちろん、これは私の推測だ。論証するためには、当時の女性た ちの生き方、考え方を表すような随筆、日記、手紙等の資料によってこれを確かめなければ ならない。この検討はなされねばならないと考えるが、しかし、今これをしなかったとして も、私の論旨に変更が加えられねばならないことはない。 大切なことは、実際に、女性の社会活動、自己実現を阻害するイデオロギーがかつてあり、 そのもとに女性たちは被抑圧者としての生を余儀なくされたが、そのイデオロギーを克服し つつある現在、女性たちは自己実現の道を大きく歩み始め、その結果、家族の崩壊が進むと しても、それは自然な成り行きだと説明される時、改めて「情緒的融合体としての家族」も また、つくられものの観念とか抑圧的なイデオロギーの所産だとして斥けられてしかるべき なのか、さらに、家族も崩壊するがままにされておいてよいのか、という問題を正面から見 据えることである。 9.「自己実現」の観念をとらえなおす 意志の主体である人間は、自分の本質を探究し、それを実現しようと努力する。どのよう なものとして自分を形づくるか、どのような仕方で社会にかかわって(貢献して)生きるか、 それを意志の統御のもとに置き、主体的な生を営むことこそ人間に相応しい、そこに人間の 尊厳がある、と考える。このような考え方は間違ってはいない。そして意欲に導かれて生き る意志的、主体的な生を阻害する要因となるものからの解放は、このような人間の本来の在 り方を肯定することであり、それゆえ、それは積極的に受け入れられねばならない。近代家 族のイデオロギーが女性をして本来の生き方を阻害していたのであれば、それは斥けられる べきものである。このような考え方は、これまでも紹介してきた。 しかし、ここで大切なことは、①抑圧的なイデオロギーからの解放が肯定されるべきであ るとしても、そのことが家族の存在そのものを否定するものではないこと、②女性の自己実
現を阻むがゆえに、そのイデオロギーが抑圧的だとされるが、その場合の自己実現とはそも そも何を意味するのか、この二点について確認しておくことである。 もっとも、①について、家族を積極的に否定しようとする者はいない。ただ、抑圧的なイ デオロギーからの解放の結果として、家族が崩壊しつつあるのはやむを得ないことだと言わ れるのであろうから、これについては問題とする必要はない。したがって、問題は②である。 はたして「自己実現」の観念は、家族の崩壊を結果的にもたらすこともやむを得ないような価 値(実現させるべき価値)をもつものであるのだろうか。そうだとすると、それはどのような 意味(人間をそのように導く根拠となる意味)において、そうなのであろうか。 このことに答えないでおくことは、「自己実現」という語に含まれるなにか積極的な意味 ありげな空気に取り巻かれて、それを助長することに漠然と与くみすることになる。そこでは、「自 己実現」に向かって歩まないことは、人間としてどこか欠けているかのようにみなされ、それ ゆえに自分が欠落した人間ではないことを表すために、「自己実現」に向かって駆り立てられ るということが起こる。それでは、「自己実現」そのものがイデオロギーとなって、人間を縛 ってしまっているということになる。そうすると、ここに生じる新たな問題を克服するため に、今後、多大な努力が求められねばならないことになるだろう。 意志的な生を実現すること、どのように生きたいのか、何をしたいのか、これを考えて、 そのもとに自分の人生を導くこと=実現すること、これを「自己実現」と言うことについて は、これまで見られてきた通りである。意志的な努力によって、人は何にでもなれるし、社 会に貢献できる。無限な可能性を展望し、その中から自分の生の形(職業、役割等、現実を生 きる様々な形)を実現してゆくことは、人間に相応しい。そのように人々が「自己実現」を語 るとき、しかも「自己実現を阻害するもの」というように否定的な仕方で語るとき、確かに そこには無限の可能性を阻害する要因が語られようとしており、その要因を取り除くことは 正しいとして、当然のごとく肯定される傾向がある。 しかし、現実の場面でこの語が用いられる文脈において見れば、その内実は、願望であり、 欲望である。「こうしたい」、「このようになりたい」、「あのように生きたい」という願 望である。もちろん、これらは持たれてよいし、そのような強い願いに導かれて、人はそれ ぞれの人生を導いて生きているという面がある。目標達成のために努力を続ける姿は尊い。 目標が達成されると、人はそれに相応しい評価を受け、価値の高い者として称賛される。 ここには、これまで私が述べ続けてきた、価値の秩序がある。価値の秩序に身を置くこと によって、その秩序に支えられて生きている。そして、ここに合理主義の精神の発露がある。 世界に秩序を敷くことは合理主義の精神のなし得たことであり、このように秩序づけられた
世界を意志の統御のもとに生きることこそ、合理主義の精神に充たされた生の実現に他なら ない。 しかし、それだけでよいのだろうか。世界には、ハンディキャップを伴った人が多くいる。 健常者に備わっている能力(特性)を欠く人、様々なチャンスに恵まれない人はたくさんいる。 そういう人たちにとって、自己実現は限られた中での営為となる。もちろん、そのような人 たちなりになされている意志的な努力こそが尊いのであって、結果は重要ではないとする考 え方がある。それはそうだ。しかし、そのように言われても、現実の社会は価値の高い者(価 値のあることをなしとげることができる人、できた人)を評価する。人間の世界には、能力(価 値を産み出す力)を評価し、称賛する秩序がある(46)。 語られている「自己実現」とは、強い意志の主体が自分の望むところに従って力強く生き ることである。あるいはそのような価値を称える観念である。この観念に縛られてしまうと ころに、自他の間に優劣の壁を設けながらも、それを当然と考えることがおこる。なぜなら、 それは合理的だ(理に適っている)からだ。秩序に則っているからだ。そこには、常に自分を 有能な者として立ててゆく考え方がある。一方でハンディキャップを伴った人々に同情は寄 せるが、他方、自分を強いものとして立てることを放棄することはない。「自己実現」の観念 が浸透しているからだ。そして、このことは、健常者同士の間にも、同じような優劣の壁が 設けられ、僅かな能力の違いが、あたかもその人全体の価値を表しているかのごとく、各人 を価値の秩序の中に位置づけてしまっている。 ところが、人間には、意志的な努力によって敷かれた合理的な秩序とは別に、自由になら ないことが多くある。厳密に考えてみれば、人間には本質的に決定されていることが多くあ る。私の意志によらず命を与えられて生かされていること、時が経てば必ず死ぬこと、この 時代、この地域に生まれたこと、性別、運動能力、遺伝的病気の継承、病気やけがに対する 体質、知的能力(学校教科の学習、業務の学習と遂行)、共感能力、感覚能力等、いずれも決 定されている。もちろん、努力によってそれらの能力や体質は向上したり改善されたりする。 しかし、誰もが同じ素質を持っているわけではないし、努力の結果が同じになるわけでもな い。 なるほど、努力して何かができるようになる(勉強して成績が上がる、創意工夫して産業界 や地域に貢献する、スポーツの練習をして特定の競技に秀でる)ことは、本人の努力である。 しかし、努力してできるようになることは、そのような能力が与えられているからである。 その能力は私がつくったものではない。また、その能力が発揮されるのは、発揮される状況(機 会)が与えられているからである。ところが、この状況(機会)にしても、私がつくったもので
はない。このことに気がつけば、私たちは、いつだって与えられた命を生きていることがわ かる。 この点を語らないでおくと、「自己実現」を価値あるものとすること、つまり、本人の努 力の賜物として個人を称賛する観念としてのみとらえることは、実に偏ったものの見方にな るのではないだろうか。健常な者、優れた者にのみ価値のある観念として「自己実現」は都 合よく使いまわされているだけなのではないのか。 人間には、自由にならないこと、意志の統御をはずれたものやことが多くある。しかし、 この有限性の中で、命を育み、慈しみ、肯定してゆくこともまた人間の学びの中にある。こ れらは、人間においては、遺伝情報としてプログラムされているものではない。私たちはこ れを学ばなければならないのである。本来の「自己実現」とは、本質に先立って存在を与え られた人間が、その本質を形づくろうとして生きるときに求められる深い省察に基礎を持つ 営みである。与えられた存在者として自分はどのように在るのか、また在り得るのかという 認識を求めようとする努力に支えられていなければならない。 ここには、決定されていてもなおかつ自由を語り得る人間の可能性の考察が含まれる。人 を支えている、その意味で人を決定しているすべての状況を捨て去っても、例えば合理性の 論理水準にあって人間社会の公正さを支える観念(公正、公平、正義等)を捨て去ったとして も、それでもなおかつ人間存在を肯定する言葉を語ることができる(47)。真の「自己実現」は、 人間が考えた小賢しい論理水準を超えたところにあることを指摘しておかねばならない。こ のような厳しい思索を抜きにして「自己実現」という語が使われていることが、家族の問題、 女性の問題を狭隘なものにしている原因になっているのではないかと思われるのである。 10.結び 私は、4で、家族についてそれを「合目的的でない」とする森岡の認識を評価すると書い た。また、家族には、「目的を達成するために合理的に図られた論理的な思考=合理性」を超 える論理があることを、別稿「「家族の崩壊」と合理主義の精神」以来、述べてきた。人間が 遺伝情報の枠を超えて生きるがゆえに、学ばなければ生きてゆけないものがあるとするなら ば、学ぶべきその第一のものはここにある。意外に思われるかもしれないが、それは合理性 ではない。合理性なら動物たちだって実現している。冷静に獲物を狙い、危険から身を遠ざ ける。これだけなら動物たちからでも、人間は学べる。 人間が人間になるために学ばなければならないもの、それが「存在の肯定」の思想である。 無条件に他者を受け入れ、その存在を肯定する。利他的行為によって、人と人とが関係を織
りなして生きる社会を形づくってゆく。ここに適者生存の論理を超えて生きる人間の原理が ある。そして、福祉の思想はこの原理に支えられている。この原理は人間共通の価値として 学ばれるべきものなのである。 そして、この学びを、最もよく与えてくれるものが家族なのである。当然のことだが、親 になる前に、人はみな子どもである。子どもとして家族に受け入れられる。無条件に受け入 れられるという経験によって、人は学ぶ。この学びは、子どもの時には、はっきりと自覚さ れることはない。しかし、成長した時、自分が無条件に受け入れられ、全面的にその存在を 肯定されていたことが分かる。ここに人間存在の原理がある。それは、人と人とが関係を織 りなして生きる社会の原理でもある。そして、その原理が最もよく学ばれる場として家族が あるのであれば、私たちはこれを守って生きてゆく価値がある。 参考文献 上野千鶴子「「家族」の世紀」『岩波講座 現代社会学 第 19 巻 <家族>の社会学』岩波書店 1996 年 岡ノ谷一夫『鳥の歌からヒトの言葉へ』岩波書店 2003 年 柏木惠子『家族心理学 社会変動・発達・ジェンダーの視点』東京大学出版会 2003 年 河合雅雄『子どもと自然』岩波書店 1990 年 畠中宗一『家族支援論 なぜ家族は支援を必要とするのか』世界思想社 2003 年 森岡清美『現代家族変動論』ミネルヴァ書房 1993 年 森岡清美「家族をどうとらえるか」森岡清美、望月崇共著『新しい家族社会学 四訂版』培 風館 1997 年、同三訂版 1993 年 森岡清美「老親の扶養」森岡清美、望月嵩共著『新しい家族社会学 四訂版』培風館 1997 年 山根常男「人間にとって家族とは」山根常男、玉井美知子、石川雅信編著『わかりやすい家 族関係学』ミネルヴァ書房 1998 年
Jean-Jacques Rousseau, Du contract social; ou, principes du droit politique, Jean-Jacques Rousseau Œuvres complètes, Bibliothèque du pléiade, Gallimard, tomeⅢ, 1991 (翻訳 ルソー『社会契約論/ジュネーヴ草稿』中山始訳 光文社(光文社古典新訳文庫) 2008 年が新しい。)
Gregory Stock, Redesigning Humans:Our Inevitable Genetic Future, Houghton Mifflin Company, 2002 (翻訳 グレゴリー・ストック『それでも人は人体を改変する 遺伝子工学の
最前線から』垂水雄二訳 早川書房 2003 年) 註 (1)「宮崎産業経営大学法学論集」第 19 巻 第 1 号 2009 年 (2) 山根常男「二一世紀の家族」日本プライマリ・ケア学会誌『プライマリ・ケア』Vol.11, No3, 1988 年 p.224 (畠中宗一『家族支援論 なぜ家族は支援を必要とするのか』世界思想社 2003 年 p.27) 畠中は、引用箇所において山根論文掲載誌の発行を 1998 年としているが、正しく は 1988 年である。なお、山根は、「人間にとって家族とは」(山根常男、玉井美知子、石川 雅信編著『わかりやすい家族関係学』ミネルヴァ書房 1998 年)において、前者の論文とほぼ 同じ見解を述べている。文献入手のしやすさを考えると、一般読者にとって山根の趣旨を理 解するのには、後者の論文で足りると思われる。 (3)畠中宗一『家族支援論 なぜ家族は支援を必要とするのか』世界思想社 2003 年 p.27~ p.30 (4)森岡清美『家族社会学』有斐閣 1990 年 p.2~p.3 (5)畠中宗一 同 p.27 畠中が示している出典は、森岡清美「家族をどうとらえるか」(森岡 清美、望月崇共著『新しい家族社会学 四訂版』培風館 1997 年 p.4)であるが、引用には多 少不正確さがあり、そこには、次のように記されている。「家族とは、夫婦・親子・きょう だいなど少数の近親者を主要な構成員とし、成員相互の深い感情的かかわりあいで結ばれた、 幸福(well-being)追求の集団である。」また、この四訂版では、「福祉」にかわって「幸福」と いう語が用いられている。ただし、森岡自身、別の著書(『現代家族変動論』ミネルヴァ書房 1993 年 p.3)で、家族の定義を「少数の近親者を主要な成員とする第一次的な福祉追求の集 団」としてきたと述べているから、畠中の表記に問題はない。あえてこのような註を入れた のは、本文で、森岡の用語の変更をめぐって議論を行っていることに配慮したためである。 (6)森岡清美『現代家族変動論』ミネルヴァ書房 1993 年 p.15 (7)森岡清美『現代家族変動論』p.16 「追求」と「志向」の用語について、森岡は、『新しい家 族社会学 三訂版』(1993 年)では、いったん「追求」を「志向」に改めているが、註(5)に明ら かなように、『新しい家族社会学 四訂版』(1997 年)では、再びもとに戻して「福祉追求」と している。 (8)柏木惠子『家族心理学 社会変動・発達・ジェンダーの視点』東京大学出版会 2003 年 p.13 (9)森岡清美「家族をどうとらえるか」森岡清美、望月嵩共著『新しい家族社会学 四訂版』 培風館 1997 年 p.5
(10)森岡清美「老親の扶養」森岡清美、望月嵩共著『新しい家族社会学 四訂版』培風館 1997 年 p.136~p.137 (11)森岡清美『現代家族変動論』ミネルバ書房 1993 年 p.4 (12)森岡清美『家族社会学』有斐閣 1990 年 p.106 (13)森岡清美『家族社会学』有斐閣 1990 年 p.106 (14)上野千鶴子「「家族」の世紀」『岩波講座 現代社会学 第 19 巻 <家族>の社会学』岩 波書店 1996 年 p.10 (15)上野は、「成人の情緒的安定」は「性的満足」の婉曲語法 euphemism だとしている。同 p.11 (16)上野千鶴子 同 p.14 (17)上野千鶴子 同 p.15 (18)上野千鶴子 同 p.16 (19)上野千鶴子 同 p.16 (20)上野千鶴子 同 p.16 (21)上野千鶴子 同 p.17 (22)「「家族の崩壊」と合理主義の精神」(宮崎産業経営大学法学論集」第 19 巻 第 1 号 2009 年)の「6.人間は本質を求める」参照。 (23)なぜ私がここに在るのかという問いには誰も答えられない。私は、たまたま、この場所 に、この時代に生きるように命を与えられた。その意味では「偶然的な存在」だと考えるこ とができる。しかし、そのような偶然性という性質を備えながら、私はその存在を拒むこと ができない仕方で与えられており、そのように決定されているという限りにおいて、必然性 の次元にある。必然性の枠の中で、個々の諸特性が人間の合理的な論理を超えた仕方で生起 することを、偶然性と呼ぶ。「偶然」と「必然」については、稿を改めて検討する必要があ ると考えている。 (24)ルソーについては、とりわけ『エミール』の記述にたいして「ロマンチックな謬見」と いった批判が寄せられる。また、ルソーが正式な結婚をしなかったり、生まれてくる子ども を次々に孤児院の前に置き去りにした事実ゆえに、その人格が厳しく非難されることがある。 しかし、家族をもたなかった、子どもを育てなかったから、その人には家族や子どものこと がわからないと考えることは、あまりに思慮不足であると思われる。望んでも得られなかっ たものは、希求の対象としてその人の人生に意味を持ち、意味をもつということにおいてそ の人の人生に大きな価値をしめることがある。このことは、稿を改めて展開したいと思って いる。
(25)Du contract social; ou, principes du droit politique, Jean-Jacques Rousseau Œuvres complètes, Bibliothèque du pléiade, Gallimard, tomeⅢ, 1991, p.352
(26)自然な社会 la société naturelle 同 tomeⅢ, p.352 (27)自己保存 sa propre conservation 同 tomeⅢ, p.352
(28)「自然」、「社会」の語は、ルソーの著作に数多く現れる重要な概念である。これにつ いては、拙稿「ルソーにおける社会と自然―『社会契約論』についての一考察―」宮崎産業 経営大学法学論集 第 8 巻 第 1・2 号 1996 年参照。 (29)拙著『言葉を持つことの意味 秩序をつくる言葉 それを乗り越える言葉』(鉱脈社)「第 三章 生活の中にある知」の「第一節 知の起源をめぐる考察」と「第二 知の根拠」節参 照。 (30)これがデカルトの二元論の帰結であることは、意外と理解されていない。物心の峻別を 説いたのは、もちろん二元論であるが、その本当の意味するところは、世界を二つに分け、 一方に世界を認識する精神が樹立され、他方に認識される対象としての物体(機械運動をし続 ける物理世界)が置かれた、ということである。そして、人間は、必然性の様相において生起 し運動する世界に、意志的に介入する。「自然の所有者にして支配者」として人間をとらえる ことができるという『方法序説』第六部の言葉は、デカルトの確信と情熱に充たされた言葉 である。拙著『言葉を持つことの意味 秩序をつくる言葉 それを乗り越える言葉』(鉱脈社) 「第二章 二元論と科学の知」の「第四節 三つの本性」参照。 (31)「「家族の崩壊」と合理主義の精神」(「宮崎産業経営大学法学論集」第 19 巻 第 1 号 2009 年)の「3.虐待はなぜ起こるのか」の「c.「子どもをつくる」という考え方」参照。 (32)短期大学、専門学校を含んだ大学進学率は、五割を超えている。この資料は、文部科学 省のホーム・ページから閲覧することができる。「大学・短期大学等の入学者数及び進学率 の推移」 http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo4/gijiroku/03090201/003/002.pdf (33)河合雅雄『子どもと自然』岩波書店 1990 年 p.165 (34)言語使用の問題については、理科学研究所の岡ノ谷一夫の研究が興味を引く。理科学研 究所生物言語研究チームのリーダーを務める岡ノ谷は、人間の音声知覚と発声の発達過程を 測定し、それらのデータと動物から得られたデータを統合して、言語の生物学的起源を解明 しようとする。小鳥の囀り(歌)に文法があることが確認されたことにより、さらにこの文法 がある種の目的のために発達し、脳神経もそれに伴って複雑化したことが明らかにされるの であれば、それによって、人間言語の起源も生物学的に明らかにされる道筋が得られるので
はないかという展望が開かれる。 動物との連続性に立って人間を理解する地平が開かれている岡ノ谷の研究が進むことによ って、やがて人間知性の仕組みがどのように動物たちと連続しており、逆に、どの点で異な っているのかが、生物学的に解き明かされることが期待される。例えば、次のようにいわれ る。「小鳥の歌には、うたうこと自体により伝える意味がある。しかし、歌の内容により意 味を伝えることはできない。(中略) 鳥の歌には「伝達意図」はあるが、「伝達内容」は欠如 しているのだ。したがって、小鳥の歌は、その形式においてのみ、ヒトの言葉と比較するこ とができるのである。」(岡ノ谷一夫『鳥の歌からヒトの言葉へ』岩波書店 2003 年 p.14) 「地 鳴きは音声と意味との結合をもつが、その結合が生まれつき(生得的)である点でヒトの言葉 とは比較できない。いっぽう、歌は、その学習様式や神経制御においてヒトの言葉の優秀な モデルであると言えるが、形式しか持たない点で、機能的なモデルとは言えない。」(同 p.15) しかしまた、うたうことには目的がある。繁殖のため、パートナー獲得のために、歌をう たうということがある。人間もうたう。そして、人間の場合は、パートナー獲得のために小 鳥と同じようにただうたうことに加えて、歌に意味を載せてうたうことができるようになる、 という仮説ができあがる。もちろん、これは、論証されることができるかどうかまだわから ない仮説だ。しかし、人類の祖先が、生殖を目的として、パートナーもしくは未来のパート ナーの前で一所懸命に歌をうたっている姿を想像することは、なんともほほえましくもある が、その重要な意味において、家族の大切さを教えてくれる。家族をもつことが、言語をつ くった、言語を使うという独自の性質を人間に与え、これによって人間は人間になったと考 えることができるからである。 (35)河合雅雄 同 p.166 (36)河合雅雄 同 p.166 (37)もちろん、これは仮説だ。しかし、私たちの知には仮説によらない原理などない。いか なる原理も、いくつもの個別事象の観察から帰納法的に導かれる。個別事象のどれかに原理 に反する事実が現れない限り、それは原理として受け入れられる。一方、そのようにして承 認された原理は、個別事象の各々を、よりよく説明することになる。二足直立歩行という事 象は、食物の運搬に有利であり、その運搬先は家族であったという個別の事象と相俟って、 「家族がヒトをつくった」という原理を仮説として導く。このように導かれた仮説は、原理 として、それらの事象を説明することになる。そして、個別の事象をよりよく説明するもの が、信頼されるに値する原理として残り続けることになる。遺伝情報に拘束されない生き方 を営む生物である私たち人間は、その原理の「よさ」に、すなわち、それがどれほど多くの