大島富朗
桃の 椿の も きまじり あたゝかき日をえらぶ移徙 「あたゝか」で春、穏やかな春景色が続く。 如何なる前句にも付く、言わば遺句の格。 「移徙」は ワタマシ 、新宅へ移る意。 「前途三千里のおもひ胸にふさがりて」 「離別の泪」注ぎつつ道の奥歌枕 探訪の行脚に出立ちし彼の翁と違い、鳴雪の送別壮行吟、 君行かば山 關の 開く を始め、友人や日本新聞社同僚らの首途の餞けのもと、 かへらしとちかふ心や梓弓 矢立たはさみ首 すわれは に託せる彌猛心、 武具携えし防人には及ばねど、 「軍 に從ひて大 の氣 力を養ひ異國の山川に草鞋の跡を殘さばや 注1 」の決意固く、弥生も初めの三 日、 「桃」 節句の佳日、 自ら志願せる従軍記者 正岡常 規 注2 勇躍新橋駅を 西下し広島へ、 彌来旅にあること二百四十三日目、 十月二十一日の夜、 「ひたと 骨痛みて」 「得動か」 ぬ身、 「 のつれ ゛ は自ら慰むる外にす べもなくて 注3 」独り運座の百韻も早四折裏六句目、満尾まで残すところ二句、 九十八句目である。 当年の子規、根岸の小庵出しより広島、松山、朝鮮金州、神戸、須磨、 松山に草枕を重ねし末の帰京途次、去るひと夏を過せし養 の地須磨独吟、 明けて二十二日満尾。その後大阪奈良に遊び、三十一日、鳴雪碧梧桐虚子 の出迎え受けて帰京帰庵 注4 、延べ二百五十三日に及ぶ長途の旅も形の上で無 事これ又満尾。 とはいえ、子規には過 酷 な日 々 。 ・ 帰 国 の 船中 で 喀血 ( 五月十 七 日 ) ・県 立神戸 病院入 院 注5 ( 同二十三日 ~七 月二十三日、 一 時 危篤状態 五月二十 八日 注 6 になるが 回復 ) ・ 須磨 保 養 院 へ移る ( 同二十三日 ~ 八月二十日 ) ・ 帰松 療 養 ( 同二十五日 ~ 十月十九日、二十 七 日 愚陀仏 庵に移り 漱石 と同 居 ) の事 実 が 物語 る如く、その三 分 の二 余 の日 々 を 闘 病 と 療 静 養に明け 暮 れす。 なかでも 死 の 淵 より 蘇 りし須磨に 抱 く 感慨 は一 入 であ っ たに 相 違なし。 喀 学 苑 日本 文 学 紀要 第 八四三 号 三 〇 ~ 四 七( 二 〇 一一 一 )子規
連
句
私解
獨
吟百
「
灯
ともさぬ」の
巻
其
三十二
四
ウ六句
~
揚
句
血こそなけれど腰部痛 (後日、 宿 脊椎カリエスと判 明 注7 29 3 17 に襲) われしも彼の地、 「藻塩たれつつわぶと答へよ」 と詠みし行平を引くまで もなく流離の土地柄、文学的風土でいえば貴種は流離を経て再生復権、言 い換えれば死と復活の土地である。 幸いにして奪衣婆居りし三途の川渡ることなきを得し子規、彼の心中何 辺に存るか否か傍からの忖度無用と思えど心情的にいえば正しく「移徙」 そのもの、根岸の草庵も黄 ・ 泉 ・ 帰 ・ り ・ の身には新宅に等し。 腰痛の身を蜑村須磨の「夜 」の床に独り労わりながら、せめて旅立つ 朝 あした こそ「あたゝかき日」なれかし、此の付句、発句に対応する一句といっ てよい。 些か子規の個人事情に拘り過ぎた「移徙」の解釈、ひとまず元に戻る。 御一新により旧幕藩体制が 「瓦解」 、 その結果一家一門 「家族」 もまた 「ちり ゛ 」、城下から田舎へ移り慣れぬ鍬鋤を手にする者、武家の商法に 手を染め財を失する者、賊軍の汚名着せられ塗炭の苦しみに喘ぐ者、開化 の波に乗じた者、乗り遅れた者等々、各々が各々の運不運の下で必死に活 たつ 計 き の道を模索する時節も次第に落ち着きを取り戻しつつある一方で、斯る 激動とは一歩距離を置いた平穏で静謐な時が流れ行く 「桃椿 ・ 郷」 、 即ち隠 れ里在るもこれ又世の常といえる。嘗て、杜甫五律「春 」首聯が「國破 山 河 在 春草 木 深 」と 示 した 如 く、 将 軍家「 川」を 頂点 とせる武家 社 会 、 政 事は破れしも、 山 河 即ち 「桃の 椿の 」の 咲 く「 春 は 」、 栄枯盛 衰 とい う 人 為 をその 大 いなる 懐 に 包 み 抱 き再 び廻 り 来 て「ちり ゛ に」な り居りし「家族」が各人各 様 の 夢 と 希望 を 胸 に、新 政 府 ならぬ新宅へ 陽 春 の 吉 日を「えら」 び 宿移りする。 思えば、 鳥羽伏見 の 戦 いに 始 まり 西南 戦 争 で 終息 した幕 末維 新の 戦 役 及 び 士 族の 反乱 注 8 、 諸 制度 改革 注 9 の 嵐 と 鹿鳴館 に 象徴さ れる文明開化の 狂騒 注 、 条 約改 正 交渉 の 挫折 、 自由民 権運動、日 清 戦 争 勝利 注 と三 国干 渉 、 閔妃暗殺 注 朝 鮮出兵 等々、 所謂近代国 家化して ゆ く歩みの中、 大 打越打越前 句付句が 紡 ぎ 出 した 某 「家」 二十八年間 の 物語 は無事「あたゝかき日」の「移徙」を もって静かに幕を下して ゆ く。 とこ ろ で、 前 句の 「桃の 」、 従 軍 記 者として首途の日、 三 月 三日を 回 想 しての 上 なりしこと 自 明。 「 陣 中日 記 注 」 ( 28 4 28付「日 本 」) 四 月十 日の 条 (傍 点 引用者) に、 ( 略 ) 晴 れて心よきに 疾 く 車 に 上 れば ( 略 ) 吾 を りて 宇品 に 來 る。 す ・・ が ・ ら ・ の 櫻 ・ 桃 ・・ 紅白 ・ に 亂 れて風流ならぬ 路 さ すがに心 ・ 殘 ・ る ・ ふ ・ し ・ なきにしもあら ね ど一た び 思ひ 定 めたる身のたとひ 銃把 る武 士 ならぬとも再 ・ び ・ 故 ・ 國 ・ の ・ 春 ・ に ・ は ・・ ん ・ 事 ・ の ・ 覺 ・ 束 ・ な ・ け ・ れ ・ ば ・ ( 略 ) とある。 必らずしも 広 島 宇品 間 での 嘱目 の 記 憶 と 限 定 せずともよいが、 「再 び 故 國の春に は ん 事の 覺束 なければ」 な る行文に 従 軍 記 者たる身の 覚 悟 の一 端 を 窺 い 知 る。斯る 覚 悟 なければ 車 窓 より 見 る 珍 らしからぬ「 櫻 桃 紅白 に 亂 れ」 咲 く風 景 も「心 殘 る ふ し」 たり得よ う 。「 櫻 」を 「椿の 」に 差 し 替 えれば 其儘 付句である。 序 でに、時事的「移徙」に些か 触 れて お く。 十 六 年十 一 月二十八 日 鹿鳴館 開 館 式 ( 七 月 七 日落 成 ) 二十 一 年十月二十 七 日 皇 居 造 営 落 成 注 (旧 江戸 城 西 ノ丸跡 ) 、 宮 城と 称 す 旨公布 二十二年 一 月十 一日 赤坂 離 宮 の 仮寓 から新 宮 城へ 十 五 年 振 りに 還 御 注
二十七年九月十三日 大本営、広島城内に移転 (戦時大本営条例に基 づき六月五日参謀本部内に開設、八月五日宮中移転) 同 九月十五日 天皇広島御幸、城内本丸跡に行在所設置 同 十月十四日 城内西練兵場に仮議事堂竣工 (翌十五日第七 回帝国議会 臨時 召集、十八日~二十一日) 二十八年三月十五日 平安遷都千百年紀念 注 に際し平安神宮創建、鎮 座祭挙行 (祭神桓武天皇、昭和十三年孝明天皇合祀) 同 四月一日 ( ~七月三十一日) 第四回内国勧業博覧会開 催 注 、於 京都岡崎 (第一~三回は東京上野公園にて開催) 同 四月二十七日 天皇京都還御、大本営も広島から京都へ移転 (~五月二十八日) 同 五月三十日 天皇東京還御 注 (二十九日京都発輦、同夜静岡泊) 等々が主なもの、しかしその新しき建築も大半が一時的な仮りの建て物に して非恒常的である。 鹿鳴館は所詮文明開化の徒花、井上馨の引責辞任 注 と共に社交場としての 役割が終焉し、大内裏太極殿を模した平安神宮建立鎮座祭も「移徙」とい うには非現実的であるなか、時候「あたゝかき日」から判断して付句の意 に叶うのが十五年の長きに及んだ仮住い、赤坂離宮から新しく造営なりし 宮城への「移徙」である。皇居焼亡の原因が失火という、或る意味最も人 間臭い不注意、子規にも三歳児の折失火全焼仮寓の体験あり 注 。 片や大元帥陛下、片や従軍記者、比較するさえ烏滸がましきことなれど、 旧暦明治二年十二月五日夜のこと、 父方の伯父佐伯政房 (半弥) 宅に暫し 仮寓、明 け て四月二十九日に「移徙」 、「五六 以 下の事は記 臆 ママ に 殘 る べ き 理無 し 注 」と 綴 る子規、しかも 陽 暦五月二十九日の転居、付句に 揺曳 する 体験とは 考 え 難 い。 強 いて 言 え ば 六年 前 の新宮城還御に際し「 宮へ 移 轉 あら せ給ふ を き 奉 る 注 」を 草 し ( 傍点 引 用 者) 、 明治 廿 年あまり二年の一月十一日にあらたに ら せ られし大 ・ 宮 ・ へ ・ わ ・・ た ・ ま ・ し ・ あ ・ ら ・ せ ・ ら ・ る ・ へき 詔 ありしかは、 わ れ等も 打つ れて 路 す ち に へ 奉 る。この日 ハ久 ・ 方 ・ の ・ も ・・ 晴 ・ れ ・ わ ・ た ・ り ・ て ・ 大 ・ 光 ・・ を ・ 隱 ・ す ・ へ ・ き ・ 雲 ・ も ・ な ・ く ・ 、 堀 の 松 ハ 大 君 が八千 代 の 色 をこ め 、 む れ つ と ふ 小鳧 は 浪靜 かにして 寐 の 梦 いと安かりなん。かゝる折しも 綾 に かしこき 我 天皇 ハ 錦 の 車 をし つ かに引か せ て 宮へ移ら せ たま ふ ( 略 ) 大 位 ハ 千 代 に八千 代 にさゝれ 石 の 巖 となりて ゆ るきな く、九 重 の八 雲 ハ 外國 まてかゝや ぎ (ママ ) わ たり、 科 の 風 に ハ き 處 の 夷 等 皆 な び かんことを ぎ 奉 りて、 い つ まても つ き せ ぬ 代 にくらへて ハ 千 代 の ミ とりの 松 もものか ハ と、 慶賀 奉 祝 の意を 綴 りし記 憶 ふ と 脳 裏 過 りしか。 孰 れにし ろ多 難 なりし八 ヶ 月に 渡 る 旅寝 の 末 なる 「移徙」 、 健 やかなる 身 であ っ ても移 動 日は天 気晴朗 を 願 うのは 自然 の 情 、 況 して大 患後 の 腰痛 に 苦 し む 子規であれ ば 尚更当然至 極なこと。 歩 行 困 難 なる ほ どの 痛 み を 薬 で 抑 え 奈良 に 遊 び 法 隆寺 の 茶店 で「 柿 くへ ば 鐘 が鳴るなり 注 」の 佳 句を 得 るのは 旬 日 出 で ざ る日のことである。 注 1 「 陣 中日記」 (『 全集 』 第十二 卷 所 収 、 77~ 78頁 ) その折の子規句。
雛もなし男ばかりの桃の酒 首 やきぬ ゛ をしむ雛もなし 右二句認めた後に「かへらしと」の詠、又一行置き福本日南の壮行詠一 首、 えひらにも弓にもかへてとる矢立 賴む心をわれはたのまん あり。 2 陸羯南連署の自筆従軍願 (『全集』 第十二卷、 補遺 581~ 582頁、 同写真 新潮日 本文学アルバム『正岡子規』 ( ・86 1 25)、 40頁) 、以下の如し 從軍願 愛媛縣伊豫國松山市 湊町四丁目十番地士族 正岡常規 慶應三年九月十七日生 右 此 衞師團出征ノ場合ニ於テ 聞日本 ヘ戰況 信ノ爲メ從軍仕 許可ノ上ハ一切 ノ 指揮確守仕候ハ勿論本人身上ノ事ハ 主 其責ニ任ズベク候此段以 願申上候也 右 正岡子規 印 明治廿八年三月六日 日本 聞 主 願之 陸實 印 明治廿八年三月廿一日 大本營副官部 印 中 3 本獨吟百 の前書 (拙稿 「子規連句私解 獨吟百 「灯ともさぬ」 の巻 以 下「私解」と略 其一」 「学苑」 745号、平 14 9 1 )参照 4 明治二十五年十月二十五日付河東秉五 宛書簡、十一月二日付大原恆 宛書簡 (『全集』第十八卷、 621~ 623頁) 、虚子「子規居士 懷談 十」 (「ホト トギス」 第十八卷第二號 子規居士十三回忌記念號二、 大 3 11 1 ) 等々参 照 因みに、大原宛書簡を引いておく。 (略) 其後私大阪出發 し汽車にて着京仕候 日電報致 候故鳴 河高二子 橋 來られ萬事好 合に行き申候 歸宅仕候へば母上樣變 りも 無 之 の 菊 きたきま ゝ に きて 面白 く 快 に 存 候 病氣 は 中の も 無 之候 處 只リウマチ 許りは い日に !り來り 相困 り候 今 日 抔 も 少 し き故か 多少烈 "樣 覺 候 (略) 「 い日に」 烈 しく 痛 む「 リウマチ 」、付句の「あた ゝ かき日」をとの 思 い、 改 めて切なるかな で ある。 5 七月六日付五百 木良 三宛書簡 (『全集』第十八卷、 557頁) 、 (略) 十四日大 灣ヨ リ 乘船 十七日 船 中ニテ 喀血ヲ始 メ候 處 何 の 手當 も 不 出來 且ツ # $とか コレラ患 とかの %きにて 漸和田 岬檢疫 &を 放 ' せ られたるは五月二十三日 午 後也( 船 をあ が りしは同日 () そ れ よ り 釣臺 にて )ち に * +病 院 に 入 り 今 日 已 に四十 餘 日に 相 ,候 (略) 此書簡 内容 を よ り 詳述 した 随 筆に 「 病 」 (「ホトトギス」 第三卷第三號、 明 32 12 10初 出、 『全集』第十二卷 352~ 357頁 所収 ) が ある。 6 「 病 床 日 誌 」 (『全集』第十四卷 357~ 400頁 所収 ) 参照 虚子 碧梧桐 等の筆になる子規 看護 日 誌 、 厳密 にいえば そ の日付は二十七 日から六月二十日 で ある。廿三、廿四 両 日の書き 入 れは子規自筆の 由 (解 題 本林勝夫執 筆 及び編者 代表 正岡 忠 三 郎 注 に よ る) 。 二十八日 条 よ り一部 抜萃す れば (『全集』 358~ 359頁) 、
モ少ナク一時ごろより安眠の模樣 三時咯血三四 蓋シ氷 ノ氷ヲ代ユル事ヲ怠リシニヨルカ 滋養浣腸を行ふべし 一江間氏云フ患部昨日以來 ヒロガル滋用 (ママ) 物ヲ セザル爲メ體カ リヲル萬一ノ事ナシトモ云ヒ シ東京家族ヲ郵 ニテ呼ブベシ併シ 車時間變 致居ル今日故電信ニテ呼ブ方可然注 ノ爲メ申 ク右家族 呼寄セニ付テハ患 へ 能申聞 經ヲ疾マヌ樣致スベシ 注意に從ひ 母子呼寄の電報を陸氏 出す (略) 母八重、碧梧桐と共に六月四日午後五時神戸病院着、以後虚子を加えた 三人病院近くの家の二階を借りて看病の日々、 一時帰松 (二十八~七月 六日) するが七月九日碧梧桐と東帰す (同卷、 397頁) 。 7 十月二十五日付河東秉五 宛書簡の中で (『全集』第十八卷、 622頁) 、 (略) あつまの秋もこひしく須 出稼候處僂 質斯にや左の 骨い たんで 行困 に相 候當 地 (大阪 稿者注) にては く動けぬ なりしを 藥の效によりて今日は大分心よく相 候 明日は少しある き得べきかと樂み居候 (略) と、自己診断ながら原因を「僂 質斯」によるものと疑っている。帰庵 後も「未だ好機無き故醫 の診察を乞はず候 日馴染の醫師に見せ可 申と存候」と伯父大原恆 に認めるが実現せず。実現するのが約五ヶ月 後の三月十七日、同日付同伯父宛及び虚子宛書簡別紙でリウマチに非ざ る旨報 告 。 伯父宛では (『全集』第十九卷、 15頁) 、 (略) は じ めより醫師病 名 を 然と 不 申候故自分もいくらか 推 察致居候 處今日 他 の醫師(リウマチ 專門 とか)來りて 普 !リウマチに非ること は略 承知 致候 今 は 只 行出來得る時機のみ 待ち こが れ 居候ひし か ど もリウマチにてもなけ れば 行出來得るや 否 やも分らず(醫師が 左樣申したるにはあらず) 依 て大 "あきらめをつけて ゆ つくりと #に 休 み居可申と存候 不 $の人ともしや れ 候はんか 呵 々 (略) と、事実を事実として報 告 するが、 「 不 $の人ともしや れ 候はんか 呵 々」 に 隠 しき れ ぬ心の動 揺 が 透 けて見える。 又 、虚子宛でも (同卷、 17~ 18頁) 、 (略) 僂 質斯にあらぬことは 僕 も 畧 假定 し居たり 今 驚 くべき わ けもなし たとひ地 裂 け 山摧 くとも 驚 かぬ 覺悟 を 極 め居たり 今 風 聲鶴 %に 驚 くべき わ けもなし 然 れど も 余 は 驚 きたり 驚 きたりとて 心 臓 の 皷 動を 感 ずる に 驚 きたるにはあらず 醫師に 對 していふべき 言 葉 の五 秒 間 お く れ たるなり 五 秒 間の後は &氣 に 復 りぬ 醫師の 歸 りたる後十分 許 り 何 もせず 只 枕 に 就 きぬ 其 間 何 を 考 へしか一 向 に 記臆 (ママ) せず (略) と 記 すが、 「 驚 く云々」とい う措辞 の 多弁さ が 却 って動 揺 の 強さ を 示 し、 「五 秒 間」 「十分 許 り」 「 記臆 (ママ) せず」 等 の 表 現 裡 にも 殊 更 なる 平静 さ を 装 わ んとする 年長 者の 強 がりが 垣 間見えよ う 補 注 1 。 補 注 1 拙 稿「 私解 」 其 二十八 (「 学苑 」 809号 '平 20 3 1 ()、注 24( 19~ 20 頁) 参照 8 拙 稿「 私解 」 其 二十九、三十 (「 学苑 」 819 828号 '平 21 1 1 、同 10 1 () 参照 9 拙 稿「 私解 」 其 二十三 (同、 795号 '平 19 1 1 (参照) 10 拙 稿「 私解 」 其 十七、 二十六 (同、 780 804号 '平 17 10 1 、同 19 10 1 () 参照 11 拙 稿「 私解 」 其 五 (同、 751号 '平 15 3 1 () 参照 12 拙 稿「 私解 」 其 二 (同、 747号 '平 14 11 1 (参照) 13 注 1 の『全集』に同、 80~ 81頁 尚 、 引 用 文 の後に、
行かば我れ筆の 散る處まで 出陣や櫻見ながら宇品まで の二句あり。 序でに三月五日条を引けば (傍点引用者) 、 夕暮 ・ に着く。夜十時 ・ 車に上る。月明須 ・ を ・ ぎて春夢婆娑た り。 兩三漁 渺春波。山下斷碑涕 多。 一去芳魂招不 。靑松烟月古須 。 立ち出でゝ蕎麥屋の門の朧月 只思ひやる許りになん。 往路車窓より見し月明の須磨、数ヶ月後に彼の地で保養の日々を送らん とは、夜寒の床に独り腰痛に苦しむなどとは此時子規夢想だにせず。 14 拙稿「私解」其十六 (同、 779号 平 17 9 1 )参照 15 拙稿「私解」其十五 (同、 773号 平 17 3 1 )参照 16「風俗畫報」 第五十九號 (明 26 10 10) 、第 百 四 號 (明 28 12 10) 復刻 版、国書刊行会 、拙稿「私解」其十 (同、 762号 平 16 3 1 参照) 17「 臨時 刊 風俗畫報」第九十四號 (明 28 6 18) 復刻版、同前 参照 同号、京都大博覧会特集を組む。 18「風俗畫報 征 圖會第十編」第九十六號 (明 28 7 25) 復刻版 同 前 参照 同号は 「 御 幸奉 新橋の圖」 を始め 「京 捷會の圖」 「大阪 捷會 の圖」等々数多くの石版密画、記事をもって凱旋還御の様子を特集して 興を引く。 19 注 10拙稿其十七、 『國 大辭典』 1 項目 「井上馨」 (大江志乃夫執筆、 752 頁) 、 同 『大辭典』 7 項目 「条約改正」 (臼井勝美執筆、 637~) 「条約改正 会議」 (大山梓執筆、~ 640頁) 等々参照 20 注 8 拙稿其二十九参照 21「吾幼時の美感」 (「ホトトギス」 第 二卷第三號 明 31 12 10 初出、 引 用は 『全集』第十二卷所収、 255頁) 22「手つくりの 」所収 (『全集』第九卷、 323~ 324頁) 23 拙稿「正岡子規を読む 「柿」の句をめぐって 」 一 ~ 四 (「若葉」 922~ 925) 平 18 8 ~ 11 、若葉社) 参照 あたゝかき日をえらぶ移徙 田樂の片がは く焦げ ぎて 「田樂」 は De ng ac u 、舞を舞う坊主 Bo zo s 、ま た 、 味 Mi so をつけて串に刺して 炙 った 豆 腐 To fu s の 意 注1 、 付 句は後者の 意 にして味 「田樂」であり、新らしく 家 移りした 家 の 厨 、もしくは 囲炉 裏端 で「田 樂」 を 焼 くが手 慣 れ ぬこ と ゆ えつ い 「 焦 」 が してしまう不 器 用な 男 ( ? ) の 図 である。 『 俳諧類舩 集』は見出し 語 として「田樂」を立項して、 田樂 豆 腐 山 王 まつり 奈郎 相模入 四条の橋 春日の御 祭 に出てつとめ 侍 るなり。 坂本 の 法師武 者の い まだ出 ぬ 内 にまかり出て 曲 をなし 侍 る。 棧 敷 のくつれたる ハ天狗 の 爲 かと 申 し事もあり。 と 説 明 す る 注2 が、 こ の 場合 は『 日 葡辞 書』 が い う田 楽 法師 ( 及び 彼らがな す
芸能) である。因みに「田樂」を付合語となすものに「法師」 「 」「天狗」 「味 」「獅子」を挙げる。また、 「火鉢」が、 「田楽豆腐」を付合とす。然 れば付句の景、新宅に移りて間も無き春暖のとある日の黄昏時、手焙り火 鉢の五徳に金網置きその上に「田樂」豆腐、味 が「焦げ」る匂いが何と も香ばしく、思わず生唾ゴクリと飲み込む、夕餉の菜より先は酒とばかり 一寸と目を離したその隙に 「片がは く焦げ ぎて」 、 誠に上戸とは斯く の如し。 という訳で子規と酒、 後日 「ホトトギス」 (第二卷第九號、 明 32 6 20) に神田一ツ橋外第一高等中学寄宿舎時代の酒と試験に纏る「酒 注3 」と題する 短い随筆掲載、叙して曰 (傍点引用者) 、 (略) 明日は三角 の試驗だといふので、ノートを廣げてサイン、 アルフア、タン、スイータ と讀んで居るけれど少しも分らぬ。 困つて居ると友 が酒 ・ 飮 ・ み ・ に ・ 行 ・ か ・ ん ・ か ・ といふから、 に一處に飛 び出した。い ・ つ ・ も ・ 行 ・ く ・ 保町の洋 ・ 酒 ・ 屋 ・ へ ・ 往つて、ラ ・ ツ ・ キ ・ ヨ ・ を ・ 肴 ・ で ・ 政 ・ 宗 ・ を ・ 飮 ・ ん ・ だ ・ 。自分は五 ・ 飮 ・・ む ・ の ・ が ・ き ・ ま ・ り ・ であるが、此日は一 ・ 合 ・ 傾 ・ け ・ た ・ 。此勢ひで歸つて三角を勉 せうといふ 氣 であつた。 ところが學 の門を 入る頃から、足が土地へつかぬやうになつ て、自分の室に歸つて來た時は最早醉 ・ が ・ ま ・ は ・ つ ・ て ・ 苦 ・ し ・ く ・ て ・ たまら ぬ。試驗の用 などは思ひもつかぬので、其晩はそれきり寐てし まつた。すると 日の試驗には滿點百のものをやう 十四點だ けもらつた。十四點とは餘り例の無い事だ。酒 ・ も ・ 惡 ・ い ・ が ・ 先 ・ 生 ・ も ・ ひ ・ ど ・ い ・ や ・ 。 予科生時代の思い出、 「酒も惡いが先生もひどいや」 の稚気や佳し。 子規 二十一、二歳の頃である。 「いつも行く」 「洋酒屋」 「ラツキヨを肴」 に 「 五 飮むのがきまり」 と 綴る文脈、 「五 」 という酒量問わねば流石父方の血筋、 善 哉 善 哉 、で あ る 曾 祖 父 常武 「酒を 好 んで飮み 給 ひし 注 4 」、父 常尚 「その 大 酒 家 なりし ことは 誰 もいふ處にて 日 一 升位 の酒を傾け 給 ひ、それが 爲 に 身 體 の を來し に 世 を早うし 給 へり 注 5 」、 伯 父政 房 も「 大 酒飮みであ っ た 注6 」、 更 に 養 ( 曾 ) 祖 母 ( 常武 後 妻 ) お久 も「 大 変 な酒 好 き 注7 」、 「酒の 爲 め に 家 政 も苦しく」 「 お 婆さ ん ( お久 稿 者注) と 隼 さ んとが 呑 んで お しまひた」 と の 評判 注 8 、その 揚 句 母 八重 と 常 規 留守 中に二 人 が「 心 を 許 して飮んだ 末 、早 風呂 ( 七輪 ) の火を すのを 忘 れて」 寝 入り出火、 全焼 の 憂 目を 見 た が、 当夜 の子規、 普段 の 倍 「一合傾けた」た め 「醉がまはつて苦しくてた まらぬ」 仕儀 、 共 に 寝 入 っ た 果 ての 全焼 と 「十四點」 、 結果 は 雲泥 の 差 な れど血は 争え ぬか。なれど「 病 人 でなか っ た 昔 から、の ぼ さ んは 下 戸だ っ た。酒の味、というものを 知 る 機会 なしだ っ た」とは 碧梧桐 の語るところ 注 9 にして、 若 き時は酒ものみしが春の ほ れられて ひし春の 夜 も 昔 と 戯 れ句 注 詠 むのも 愛敬 のう ち 。 父 常尚 の日 々斗 酒は少し 大 袈裟 、 身 に 過 ぎた酒量、なれど百 薬 の 長 とも いわれる酒、 仮 に 猪口 一、二 杯 であ っ たにしろ 嗜 むことありせば 鬱 々 とし た気分の 変 え ようもあ っ たのではと、子規のた め に 惜 しまれる。 ところで、 俳諧 用語 辞書『類舩集』 が 説 く「田樂」は神事芸能 注 のそれで あり、 『 日 葡辞書』 は芸能の 演じ 手 即 ち 田楽法師の 謂 であり、 現 行歳時 記 注
が春季題として採録する人事 (飲食) の「田樂」とは異なる。 子規の『分類俳句全集 注 』甲號分類春の部は「田樂」を季題立項せず、乙 號分類 ( 築飮食) でも素材としても立項せず、 かに「田樂串」を挙げ、 池西言水編『江戸辨慶 注 』 (延宝八年 1680) 秋紅葉之部から未幽の、 田樂串敷あへぬ や 錦 一句を数えるのみ。該句、 「 錦」即「紅葉」で秋、句意些か不明。 「田樂 串」は田楽豆腐に差す串のこと、 「林間酒煖紅葉燒」類の野趣に富む風流、 豆腐の白と紅葉の錦の取り合せの妙程度か。 一方、素材としての「田樂」も然りながら、語彙として「田樂」を句中 に詠む例 注 も極めて少なく、 でんがくに寄ス狂句の法師 の兒 李下 (『 栗』 ) 田樂やあふのく口になく雲雀 許 六 (『風俗文 』) 田樂に土焦したり春の庭 闌 更 (『半化坊発句集』 ) 田樂に身ははふれたり 團 時中 (『新類題發句集』 ) 田樂のみそにくつゝく桜哉 一 茶 (「八番日記」 ) 等々、其他が管見に入るくらいである。 各々「 」「雲雀」 「春の庭」 「 團 」「桜」が季題、 「田樂」は非季題、 許六一茶の 「田樂」 は豆腐 味 のそれであるが、 李下闌更時中の 「田樂」 は神事芸能である。 田楽法師 (大道芸化した軽業曲芸師か) と稚児、 春宵篝 火に照らされた田楽の庭、俄田楽の採り物か、順に冬、春、春、秋、春季。 芭蕉出座の連句でも二例 注 を数えるのみ。 延宝七年 1679秋 四 友亭興行 三吟百韻 「須磨ぞ 秋 注 」 三 裏折端、 四表折立 の、 帝 へ夜ばなしの秋 (似)春 錦かと田樂染る龍田川 (桃)靑 山は時雨てすり粉木の音 春 「夜ばなし」の馳走に「田樂」 、「すり粉木」で る味 が付筋。 「龍田の 錦」は紅葉で秋。桃靑の「田樂」は下拵えの豆腐田楽、その白さを紅葉が 彩る。 次いで元禄七年 1694閏五月二十二日 落 柿舎 乱 吟「 柳 小 折 注 」 歌仙 名残 表 の、 薄 の一 に 降渡 り( 支 ) 考 御前 はしんと次の田樂 蕉 の 綱 を 鼡 のならす音 ( 洒 ) 堂 芭蕉付句の「田樂」は神事芸能の田楽能、 「 御前 」は 社前 の 広 庭、 「一 」 は ひ と 通 りの意、裏に一 遍上 人 縁 りの 踊躍念仏 の 俤 があるか。 右 歌仙 の一年 前 、 岱 水亭に 招 かれ、 「 影待 」した折の芭蕉句 注 、 影待 や 菊 の 香 のする豆腐串 饗 ある じ 応 も うけ の酒 肴 に 供 された豆腐田楽、 その差し串とい うよ り 「田樂」 そのも のを詠む 唯 一の句、百韻の「龍田の錦」を「 菊 の 香 」に 執 り 成 した だけ の 同巣 (類 想 ) 句である。
斯くの如く連俳における 「田樂」 、 神事芸能と食物、 内包する意味全く もって非なるが共に無季扱いにして未だ季題として定位せず。然れどその 飾り気無き素朴な手軽さゆえか川 柳 注 では煮売屋 (居酒屋) の 「田樂」 が 々 詠まれ、 田樂て帰 ル が本の信 なり 柳 四 41 田樂を持 ツ て馬かたしかりに出 柳 五 11 田樂は田でたのしむのよみがあり 柳九 11 田樂を ふ内眉毛かぞへられ 柳 十 一 8 田樂は昔は目て見今は ひ拾 四 11 田樂の足手纏は女中 れ拾 七 2 田樂屋いざうつたてといふ 拾七 13 田樂を ふから知れし御事さ 傍 四 4 田樂で す小 はあてがあり 傍 三 40 田樂の落ちたではした を ひ玉 18 田樂は豊島牡丹 は吉原 傍 五 25 等々、様々な句があるものの、往時の風俗ならではの難しさあるのも川柳 である。 五句目、 「田樂」 の変貌を詠み判り易いが、 三句目の言葉遊びが示すよ うに多くが吉原通いを穿って詠む。付句の、片側が「焦げ ぎ」た自家料 理の類とは別の「田樂」 、なれど等しき「田樂」である。 一句目、浅草寺観音参詣後、所の煮売屋茶屋名代の「田樂」で小腹を満 たした善男善女、 心も腹も 「おちつきにけり 」、 観音裏の馬道、 吉原 田圃、日本堤は縁なき通い路、それでこそ「本の信 」の名に恥じず。二 句目、 中間小者馬方職人等 々 注 が主な相手の居酒屋、 「田樂」 を肴に一盃飲 んでいる最中の出来事、火事と喧嘩は何とやら、時の氏神も 気忘れず。 夜を昼の国となす不夜城、田圃の彼方に吉原の灯が霞んで見える宵の口、 せめて素見 ひやかし なりともが三句目。四句目は「田樂」が名物の橋場真崎稲荷の 茶屋甲子 屋 注 、「眉毛かぞへられ」 とは心中を見透かされるの意。 即ち吉原 行きの魂胆見破られ、 となる。 八句目も同様、 「御事」 とは房事。 九句目 の「あて」とは見当のこと、勿論揚げ代である。 気心知れた男同士、物見遊山の帰り道乃至墨堤四季行楽、事の成り行で つい登楼と相談 決 まり、なれど女子 衆 連れでは 勝 手が 悪 しくというのが 六 句目、 下 句 「はるめきにけり 」に 前 句付したのが七句目、 「や ゝ けし きと ゝ のふ」 昨 日今日、 予 て 用 意の真 新 しき「田樂」の 幟旗 を揚げる 図 、 「 水村 山 郭 酒 旗 風 注 」な ら ぬ 「墨堤真崎田楽風」 という風 情 。 吉原名物のひ とつに山屋 豆腐 あり、その 豆腐 で 造 った田楽を揚屋 妓 楼の 雇 女 下 女が 菜 と なすか、遊女 嫖客 にはさして 珍 らしから ぬ 田楽なれど 端 た女には日 頃 口に 出き ぬ 珍 味 佳 肴、多 少 の 賞 味 切 れ落し物もなんのその、 舌福舌福 。 十一句の 「豊島屋」 とは 鎌倉河岸 にあった酒見 世 、「 例年 二 月末鎌倉町 豊 嶋 屋の酒 店 に 於 て 雛祭 の 白 酒を 商 ふ 是 を 求 んとて 遠近 の 輩黎明 より 肆 前 に 市 をなして 賑 へり」と「 江戸 名所 図 会 」 ( 巻之 一 天枢之部 ) にあり 注 。 この豊島屋と「田樂」の 関係 を 『我衣 注 』( 加藤玄悦 曳尾庵 は) 次 のよう に 記 す。 ( 略 ) 爰 に 元文元 年 ( 1737 引 用 者注) 、 鎌倉河岸 に豊島屋と 云 酒屋、 見 世 を 大 にして、 外 々より 格 別 下 直 に売たり、 毎 日、 空 十、二 十を小売にて 明 る ほ どに、酒は 元直段 にて をまうけにしけり、
其頃は、 一匁より一匁二三分 に売たり、其仕方をみるに、片 見世に豆腐作り、酒店にて田楽をやく、豆腐一丁を十四に切る、 甚だ大きなり、豆腐外へは売らず、手前の田楽斗也、其頃豆腐一 丁にて二十八文也、是も元直段にて、味 も人も皆々外物なり、 されども酒の明くを肝要とするゆへ、田楽を大きく安くみせ、酒 も多くつぎて安く売ゆへ、当前には、荷商人、中間、小者、馬士、 駕籠の者、船頭、日傭、乞食の類多くして、門前に売物を下しを きて酒をのむ、これによつて、野菜等を求めんと思ふ人は、皆此 豊島屋が見世先へ行けば望の物あるゆへ、自ら見世先人立多きゆ へ、往来の人も立寄、内のていを見て繁昌なりと沙汰す (略) 「牡丹 」 は 四十九日忌明けの配り物、 忌明けを即ち年季明けとの見立 て、暗に遣り手を示すか。遊女の世話を万端すると同時に見張り、取り締 り役を兼ねる老女 注 、遊女上りの古手、海千山千が多かったという。一妓楼 に一人でありその人数必らずしも多からず、なれど遊女の身にすれば厳し き目付、 監督者、 歓迎されざる職分。 『吉原大 全 注 』(醉 散人 澤田東江 、 明和五年 1768三月刊) によれば、 やり手は倡家すべての事にあづかり、ことさら女郞のかしづきと して、太夫かうしのあげや入り、 は中の丁へしたがひいで、も らひ引 キ のさうだん、もつれたるくぜつのわけをつけ、いぶかし き初會の客にきをくばり、 外の事にいたるまで、萬端おやかた にかわりて、女郞禿の身持行儀のしつけ等、 事に心をつかひ手 をつかふ役ゆへ、やり手とよびならわしける (略) と説明、実に必要欠く可からざる役目、廓の名物そのものである。 豊島屋の 「田樂」 、 年季明けの遣手、 共に所の名物を詠むのが十一句目 である。 以上、 川柳が詠む 「田樂」 、 どうも子規が詠む手料理のそれとは微妙に 匂い風味が異なろう。 さて、豆腐と「田樂」の付筋、あるいは薄く長方 形 に切って 焼 いた豆腐 を 「田樂」 と 称 する 由 来であるが、 仮 名 草 子『 醒睡 笑 注 』(安楽 庵策伝 、 寛永 五年 1628三月十 七 日 奥 付) 巻之 一「 謂被謂 物 之由 來 」が 収 める 次 なる一話が 周 く 知 られるところであろう。 豆腐を 串 にさして 焙 るを、など田楽とはいふ。されば田楽の 姿 、 下には 白袴 を 着 、その上に 色 ある物をうちかけ、 鷺足 にのり 踊 る すがた、豆腐の 白 に味 を ぬ りたてたるは、かの 舞 ふ 体 に 似 たる ゆ ゑ 、田楽といふにや。 夢 庵 の 歌 に、 たか 足 を 蹈 みそこなへる 面 目を 灰 にまぶせる 冬 の田楽 即ち、 田 楽 芸 のひとつである 高 足 ( 竹 馬の一 種 ) 姿 に 似 るゆ え なり、 と 名 の 由 来を 述 べる。 更 に、 『 本朝 世事 談綺 注 』( 菊岡沾凉 、 享保 十九年 1734刊) 卷 之 一「 飮 食門」 中 に、 「豆腐田楽」を 項 目立てて、 田楽 法師 が 曲 の 形 に 似 たるゆへ名とせり。田楽 法師 は 七 尺 ばかり の 細 き 棒 に、下より三四 寸 上に、ちいさき 貫 を 通 し、此小 貫 を 足 が ゝ りにして、 両 足 をのせ 両 手にして 棒 のうへを 握 り、 棒 の先に
て飛ぶ曲あり。此姿ひとへに棒に身をつらぬけるがごとく、とう ふをくしにつらぬきたるかたちにひとし。此田楽法師は、南都春 日の御祭に、今以此曲あり。 と、具体的に曲芸の態 注 を語り類似を説明する。 たとえその説くところが俗説であろうと、 今 日では神事芸能 (散楽の中 の曲芸要素を摂取) 「田楽」を名の由縁とする理解が一般的といえる。 喜多川守貞もその著 注 で先きの『世事談綺』の説を用い、加えて、 (略) 今世、三都にこの名物なし。東海道目川を田楽の名とし、三 都にてもこれを製すもの、目川をもつて号とするあれども、近江 の目川、今は衰へてこれを食す人稀なり。はなはだ粗製故なり。 京坂の田楽串は股あるを二本用ふ。江戸は股なしを一本貫くな り。 京坂は白味 を用ひ、江戸は赤味 を用ふ。各砂糖を加へ る なり。 京坂にては山椒の若芽をみそに り入る。江戸は り入れず上 に置くなり。各木の芽田楽と云ふ。江戸、夏以後はからし粉を りて上に置く。 と、串の形状、塗り味 の違い、木の芽の利用法の相違に至るまで詳述、 併せて京坂江戸の田楽及び田楽筥の図を載せる丁寧さ。 「三都にこの名物 なし」 「近江の目川、今は衰へて云々」とあるが廣重の『東海道五拾三次 注 』 (保永堂版) 石部目川ノ里 は 「 いせや」 の 三文字を各々白抜きした紺暖 を軒下に掛け吊した目川の茶屋 (菜飯田楽か) を描く。 『東海道名所図 会 注 』『伊勢参宮名所図 所 注 』(共に寛政九年 1797) 共 目川 の 挿図を載せるが、特に前者の茶屋図は廣重描くそれであり、店構えも日覆 が葦 と布の違い、 描く視線の高低差ぐらいである。 図中の文は前者が 「目川とハ村の名なれど今は名物の菜飯に田楽豆腐の名に襲ひて何國にも 目川の店多し豆腐百珍の一種となるもかれが全盛なるべし」 、後 者 は 「 田 かくは田樂法師棒のさきに取付てとび廻る其形に似たるによりて号しなる べし」と記す。豆腐を田楽形に切る女、渋団扇左手に田楽を焼く女、上り 框の客に田楽筥を運ぶ女、店先の縁 台床 机 に 腰 を下ろして食べる者、 指 差 して店に 立 ち 寄 ら ん とする 旅 の 男 二人 連 れ、 挟箱 を 担 いだ下 男 を 従 えた 武 家夫婦 と 娘 の三人つい今しがた田楽で 昼 食を 済 ませたか、 孰 れにしろ田楽 茶屋 注 の 殷賑振 りが描かれているのが『参宮名所図会』である。 守貞の記事に先 立 つこと 四十 年の目川の 景 。 時 も所も違えど中世 末 の 連 歌 師 宗長 、 彼 の手記 注 大 永 六 年 臘月十 七 日の 条 に、伊勢 亀 山の 関民 部 大 輔隠居 して何似 斎 が 矢嶋少林寺滞在 の 宗長 を 訪ね た 折 「田楽だうふ」を 肴 に 盃 の 数 を重 ね 夜 の 更 くるを 忘 れて 久闊 を 叙 した ことが 見 え、 同じ く 『あつまのつ と 注 』 (永 正 六 年 1509) にも江戸川 辺 りの 養 善 寺 にて「 芦 を 折 焼、豆腐をやきて一 盃 す ゝめ しは、都の 柳 もいかで お よふ へから ん とそ 興 に入 侍 し」 ( 十 一 月 二 十四 日の 条 ) とある。 豆腐「田樂」と 連 歌 師、 鄙 びて 野趣 ある取り 合 せ、たとえ「 片 がは く 焦げ きて」いようとこれも 話 の種、 裃着 けて食するような 料 理茶屋の一 品 とは 別 な 気安 い食べ物である。 「 あら ば い ざ ちと食 わ ん 人 わ が 思 ふ ほ どは 有 りや 無 しやと」 と 舟 遊 びする都人に 打 ち 興 じ し 彼 の 「をかし 男 注 」、付 合 の 「田樂」 どうも食べ 損 ね たらしい。というのも 真崎 の田楽が所の名物になるのは「をかし 男 」
から百年余の後、宝暦六、七年頃のことであった。 式目の上でいえば名残裏七句目は花の定座、 なれど打越に 「桃の 」 ・ 「椿の 」 ・ が詠まれたために 「花」 文 字の観音開きを避け、 定座なれども 「花」を捨て、 花の句 の格ではないが 花 二文字用いた打越を敢えて 花の句 に見立て定座を二句引き上げたという破調の運びである。また、 季句 春 秋 は三句乃至五句続けるのが式目上の制約、従って「牛 の 春 ・ 」「桃の 椿の 」「あたゝか」と春が三句続けば当然付句も春を受けて 然り。 「焦げ ぎ」 たりといえど付句、 気分景色の上から考えて長閑な春 の気配を充分受けて居り、 「田樂」 を春季題として認知する現行歳時記に 依拠していえば春の四句目と見て問題なし。 しかし、 『俳句分類全集』 が 「田樂」 を季題立てせず、 他にも子規の選になる俳句選集 『二葉 集 注 』(明 27 5 30) 、『新俳句』 (同 31 3 14) 、『春夏秋冬』 (「春之部」 同 34 5 25) の孰れも立項せず。 『承露盤』にも季題「田樂」句なし。 田樂や庵あたゝかに笑ひ聲 田樂や春風渡る雜司ケ谷 管見に入った子規 句 注 、 古句同様、 「田樂」 は季題ならず、 「春風」 「あたゝ か」で春。後者の「雜司ケ谷」は鬼子母神堂で知られ、今境内で売られる 「芒の木兎」 は東京の郷土玩具であるが 『江戸名所図会』 には 「風車、 麦 藁細工の獅子、川口屋の をこの地の名産とす 注 」とあり「花の名所」とも。 江戸時代から安産子育ての流行神の信仰篤く参詣の人絶えずによって「門 前の左右には貨食店軒場を連ねた」 る有様であったという。 「 ニ寐タル ノミニテ身動キダニ出來」ず「四月初メ カニ立ツコト得テ 日 ヲ ス 快極マラズ」と記す 注 子規の二十九年春、 一冊 の 手帳 と 一 本 の 鉛筆 を 持ち近郊 を 散歩 した日 々 の記 憶 の 一 齣 か、あるいは 徒 然に 読み し 草双紙 の 類からの 発想 か、春風を受け 軽 く 回 る風車を 茶 店の 床几 から 眺 めている景 である。 勿論両 句 共 に「田樂 注 」は 豆腐 の そ れ。 付句の場 合 も敢えて「田樂」春季題とせずともよし、前句の春気分の 影 響 を受けた 雑 の句として お く。なれど三句の式目には 叶 う。 田樂の 片 がは く焦げ ぎて ひとり暮しの面白きかな 独吟 百 韻 の 揚 句、 自称 の 雑 。 花の定座たる前句の「 」二句引上げ打越句に、よって 雑 の句に 雑 の 揚 句は破格。 「 面白 き」百 韻巻尾 である。 最早贅言必要 なし。 注 1 『 邦訳 日 葡辞書 』( 岩波 書 店 刊 、 ・80 5 29) 、 184頁 2 近 世 文 藝叢刊第 一 巻 ( 般 庵 野間光辰先生華甲 記 念 会、 昭 44 11 7 ) 、 388頁 3 『全集』 第 十二 卷 所 収 、 298頁 4 『全集』 第 十 卷 所 収 、「 筆 まか 勢 」 第 一 編 、 148頁 5 同前当 該 卷 、 149頁 6 佐伯 徹也 「 正岡家 と 佐伯 家 のこと」 (『全集』 別 卷 一 月 報 18、 昭 52 3 ) 参 照 7 妹律 の 証 言 ( 昭 和八 年七月初 旬 頃) (「 家 庭 より観たる子規」 河東 碧梧 桐 『子 規を 語 る』 岩波 文 庫 本 、 ・02 6 14 所 収 附録 三、 324~ 325頁 )
更に律は、久の飲酒癖について、 いざ飲むとなると、お祭の時や、お客にでも往った時は、ずいぶん女 らしくもなく酔って騒ぐ人でした。酔うと、よく口癖のように、小島 家は、こんな正岡のような成上りもんじゃない、キンキンのお侍じゃ、 と言っていました。しまいには呂律もまわらないほどになって何か唄 でも謡う手拍子を打つのに、その手がチグハグに合わない位、前後正 体なかったこともあります。サアどの位飲みましたか、さほどでもな かったでしょうが……。 と語る。お久は子規、律にとって、 あのお婆さんには兄初め私まで、ただ世話になったという位でなく、 まア育ての親と言ってもいい位、可愛がられたものでした というほどの存在であった由 (文庫本、 323頁参照) 。 8 池内如翠「子規誕生の地」 (「ホトトギス」 第二十四卷第四號 大 10 1 1 ) 9 河東碧悟桐「のぼさんと食物」 (『子規を語る』 所収附録二、 注 7 該書、 309頁) 小説 「わが病」 (『全集』 第十三卷所収 347~ 370頁 ) 第二回の中で、 子規と 思しき「余」の記述 (傍線引用者) 、 「とよ子の酌で三 ・ 四 ・ 杯 ・ 傾けるとも ・ う ・ 醉 ・ ふ ・ て ・ 來 ・ た ・ 」 ( 354頁) 、 (五) 「酒の熱い のを一つ (余) 「最う澤山です。こ ・ の ・ り ・・ 醉 ・ ひ ・ ま ・ し ・ た ・ 。 ( 356頁) と描くのも、碧梧桐の子規下戸説を裏付けていよう。 但し、 葡 萄 酒 補注1 はこの限りにあらず、 「 ニ必ズ葡萄酒 (澁イノ) 一 杯 ム」 (『仰臥漫 』 十月廿七日 『全集』 第 十一卷、 482頁 )こと常としてい たようであるが恐らく薬効を期してのことと思われる。 補 注 1 『病牀六尺』 五月十五日、 上根岸三島 祭禮の折 「豆腐汁木の芽 あへの御馳走に一杯の葡萄酒を傾けたのはいつにない 快であつた」 由の記述 (『全集』同前、 243頁) 。 10 明治三十三年三月十六日付靑木新護 (月兎、 後に月斗 稿者注) 宛書簡に あり、句の後に「老境可憐ハハヽヽヽヽ」と添える。 高 浜虚 子『 柿 二つ』 第十二回 衰弱 一 ( 講談社 文 芸 文庫 版 ・09 8 10 147 頁) の 冒頭 「大 阪 の 或若 い 俳 人」 宛の手 紙 として同書簡を引用、 戯 れ句 を 認 めた「 彼 」に 長命寺 境内月 香楼 のお六とは 別 な女の 面 影 を 偲ばせ て いる。 11 詳 しくは、 『 演劇百科 大 事典 』第 4 巻 ( 平凡 社 刊 、 ・61 3 30) 当 該 項目 新井恒易執筆 、 90~ 92頁 参照。 尚 、同 項目 は『 春 日 若 宮 祭 礼図会 』か ら「 刀玉 の 曲 」「高 足曲 」二 図 を 載せ る。 12 虚 子 編 『新 時記 增訂 版 』 (三 省堂 刊 、 ・07 10 30增訂 七一 刷 ) を引く ( 138頁) 。 豆腐を 長 方形 に 切 り、 竹串 にさし、木の芽を 擂 り 込 んだ 味 をつけて 燒 いたもので木の芽 田樂 ともいふ。 野趣 もあり、またなか 風味 も ある。 昔 は 爐 に 串 を 立 てて 燒 いたものらしいが、 今 は 燠 の上に に 亙 して 燒 く。 田樂 に 串 の靑さ ぞ 好 もしき 秋蘿 田樂 の 味 落 しけり 衣 木 犀 田樂 もかたき豆腐にかたき 味 子 13『 類 分 俳 句大 観 』 別 巻 (日本 図 書 セ ン ター 刊 、 ・92 4 25) 参照 14 大 野 洒 竹 校 訂 『 芭 蕉以 前 俳 諧 集下 巻 』 ( 俳 諧 文庫第三 編 、 文 刊 、明 30 12 16) 所収、 258頁 15 各 句集の 出拠以 下の如し、 『 栗 』 (『 芭 蕉 全集』 日本 名著 全集第三卷所収 、 568頁) 『 風 俗 文 』(同前全集第二十七卷所収 、 273頁) 『 半化坊発 句集』 (『中 興 俳 諧 集』 古典 俳 文 学 大 系 13所収 、 484頁) 『新 類 題發 句集』 ( 尾崎紅 葉 校 訂 『 俳 諧 類 題 句集 後 編 』 俳諧 文庫第廿三 編 所 収 、 155頁) 『一 茶 集』 ( 古 典 俳 文 学 大 系 15、 180頁)
16 厳密にいえば三例であるが、 元 禄四年 1691冬三河新城菅沼耕月亭において 芭蕉の発句「京にあきて此木がらしや冬住ゐ」に亭主耕月が脇句を付け たその句中に「田樂の」とあるが虫 堪しきゆえ判読不可、加えて蕉句 ならざるため除く (『校本芭蕉全集』 第四巻 富士見書房刊 、 320~ 321頁参照) 。 17 同前全集第三巻、 167頁 18 同前全集第五巻、 203頁 19 同前全集第二巻、 76頁 田楽の素材「豆腐」句もまた稀少、 色付や豆腐に落ちて薄紅 葉 補注1 新豆腐少しかたきぞ遺恨なる 茶の花や裏門へ出る豆腐売 手拭も豆腐も氷る横川哉 順に芭蕉、 蕪 村三句、 「薄紅葉」 「茶の花」 「氷る」 が季題、 秋、 冬、 冬 である。二句目、大豆収穫が秋ゆえ「新豆腐」が季題か、珍らしい一句 である。 序でながら蕉句の 「薄紅葉」 は 「紅葉」 と掛けるが もみぢ 豆腐 補注2 のこと。 芭蕉の高弟其角にも、 きりしまに豆腐を切て捨ばやな (『五元集拾遺 補注3 』) の一句あり。 「きりしま」 は 躑躅 で春季、 また、 『類柑 子 補注4 』(宝永四年 1707冬) に「 悼之句」の前書を持つ中に在長の、 その時よやつこ豆腐も春の夢 がある。其角と豆腐の関連不詳なれど気になる。 補 注 1 延宝六年 1678「 芭蕉 杉風 兩吟百員」 の発句、 脇句は杉風の 「山をしぼりし 榧の下露」 (同前全集第三巻、 120頁参照) 2 曾谷学川 (醒狂道人) 『豆腐百珍續 』(天明三年 1783九月) よりその製 法を引く。 よく水をしぼり麦塵 うどんのこ よくすりませ 辣茄 とうからし のしんとたねとをさり酒 にて半日ばかり煮て細にはりに み又老姜 きざ しやうが のはり み少しと二品を 右のとうふにほどよくまぜ合せ壱挺大さの方 かく にとり全 まる 油 あ にして小 げ 口切にし蒸てふくさ未 み 曾 そ を水にてゆるめたるを温めしきみそにする 也 右の辣茄の煮汁を味曾すりまぜ一種の辣茄未曾にすべし 辣味 甚しからずして妙なり (略) (『 翻 江戸時 代料 理 本集 成 』第五巻 臨川書 店 刊、 昭 55 1 25 所 収、 45~ 46頁) 正続編 合せて二百三 十余 品の豆腐 料 理 を 紹介 、 宛 ら豆腐百 科 全書で ある 3 『 俳文俳 句集』 ( 名著 全集第二 十 七 巻) 所 収、 144頁 4 『元禄 名家 句 選 』(日本 俳 書大 系 第五巻) 所 収、 598頁 20 以 下、引 用 句の出 拠 と略 号 を 示 す。 山 沢英雄 校 訂 『 誹 風 柳多留 』 一 ~ 五 ( 岩波 文 庫版 、順 に 昭 44 12 30第 十 九 刷 、同 45 4 30第 十 一 刷 、同 42 7 10第 八刷 、同 43 2 20第 八刷 、 同 43 9 10第六 刷 ) 柳四 41 ↓柳 ・ 多留 四 ・ 編 四 ・ 十 ・ 一 ・ 丁 を 示 す。 以 下同 同『 誹 風 柳多留 拾遺』 上 下 (同前、 昭 41 5 16、同 42 11 16) 拾四 11 ↓柳多留 拾 ・ 遺四 編 ・ 十 ・ 一 ・ 丁 千 葉 治 校 訂 『 初 代 川 柳 選 句集』 上 下 (同前、 ・77 7 20第三 刷 、同 第二 刷 ) 傍四 4 ↓川 傍 ・ 柳 四 ・ 編 四 ・ 丁 、 玉 18 ↓玉 ・ 柳 十 ・ 八 ・ 丁 尚 、引 用 にあたり 適宜平仮 名 を 漢字 に 直 した。 21 手 軽 な 食 べ 物 田楽にも 作 法 次 第があ っ た。 『 萬 家 日 用 永 代 調 法 記 宝 庫 』( 文 政 六年 1823板 ) 巻第三 當 用 諸礼 之大方 食物 の 作 法に、 一てんがくをくしなから口へいる ゝ事 あしく 串 を ぬ きてくふへし
とあり、 『 補注1 小笠原 諸芸訓 諸礼調法記大全 増補絵入 児童躾方 』に も「 田楽 な ど 次第」 と題 し、 串ながら 事悪く串をバぬきて べし とあるのが可笑しい。 べかけの田楽を片手に駆け出す図は無作法の極 みである。 補注1 小笠原家は清和源氏の流れをくむ武家礼法の宗家、現当主は弓馬術 礼法小笠原流三十一世、流派その他については『國史大辭典』 2 、 各当該項目を参照されたし。 各々、 長友千代治編 『重宝記資料集成』 (臨川書店刊、 ・04 11 30、 ・05 1 30) 第二巻 「 日用事典 2 」 120頁 、第 十 四 巻「 礼 法 服飾 1 」 366頁 所 収 22 朋誠堂喜三二 『後はむかし物 語 補注1 』(享和三年 1803九月) から 「真崎のでんが く」条を引く。 真崎稲荷はやり出て、田楽茶やの出来たるは、我二十二三歳 宝暦 六七 の 頃なるべし、鳳岡先生の会日に、其はなしを初て聞けり、江戸町の名 主は先生の門人にて、其男が、別て甲子屋と申茶やの田楽はよしと申 也など、先生に語りしを聞けり、其後大に繁栄し、青楼の婦人をいざ なひて遊ぶ人も多かりき、向ふ島の秋葉は、今信仰薄くなりて淋しけ れど、茶やの賑ひは替らず、真崎は神威とともに茶屋もおとろへたり、 真崎は、手前の角若竹や 後袖す りや 又甲子屋、川口屋、玉屋、いね屋、仙 石屋、きり屋 を 隔て 八田屋など、いづれも繁昌なりき 『江戸名所図会 補注2 』巻之六 開陽之部は、真先稲荷明社神を形の如く説明し た後に、 こ の 社 前は、 名に し お ふ隅 田河の流れ溶 々と し て 昼 夜を捨て ず 、 食 店 りようりや 酒肆 さかや の軒端は河面に臨んで、四 時 の 風 光 を 貯 ふ。ことさら 夏 の日は、 杯 を流れに 洗 つて 炎暑 を 洒 そそ ぎ 、秋の夜は 中 流に 棹 さして月を 掬 す。 春 の 夕 、 妖艶 たる 須 田 堤 の 花盛 りより、 皚 々たる 白髭木母寺 の 雪 の 朝 の 眺望 も、ともに 奇 々として 実 に遊 宴 の 勝地 なり と、四 季折 々の 景気 を 述 べる 『武江年 表 補注 3 』巻 之 六 天 明年 間 ( 1781~ 1789) 記事によれ ば往 時 名代の料 理 茶 屋として真崎甲子屋の他に、 西太郎 ( 牛御 前の門前、 平岩 の所なり) 、大 黒 屋 孫 四 郎 ( 同 所秋葉社手前也) 、武 蔵 屋 権 三 郎 ( 同 所、 麦斗庵 といふ) 、四 季 菴 ( 中 州新 地 ) 、 二軒茶屋 ( 永 代 寺 山内 ) 、 百 川 (い せ 町 裏 川 岸 ) 、 升 屋宗 助 ( 深 川 洲 崎) を 挙げ 、 升 屋を江戸料 理 屋の 「 魁首 」と 記 す 。こ の う ち 舛 屋、 百 川、 西 、四 季 菴 、田子屋 五 軒は 既 に『 富貴 地 座 位 補注 4 』 (悪茶 利道 人、 安 永 四年 1777四月刊) 中 江戸名物 料 理 之部に 見え る。 因 みに 京 では 補注 5 「 新 南禅 寺 豆腐 」 ゆとうふよりでんがく日 本 一の 宮 川 丁 、北野 「 坂本 屋田楽」 みそでんがく ハ よく 仕立 る 衣棚 、浪 花 は店の名は 具体的 に記 さねど「田楽生玉を 専 とし」と記す。 心 中 道 行 の前日お初が三十三所 観 音廻 りに 託 けて 徳兵 衛 と 密 かに出会 っ たのも生玉社前の茶店であ っ た 補注 6 。 補注1 『 燕 石十 種 』第一巻 ( 中 央公論 社刊、 昭 54 5 20) 所収、 330頁 2 市古 夏 生、 鈴 木 健 一 校訂 該書 新 訂版 5 ( ち く ま学 芸 文庫 、 ・97 1 9 ) 、 403頁 3 今 井金吾 校訂 定 本 該書 中 ( 同 前 文庫 、 ・03 12 10) 、 113頁 4 中 野 三 敏 編『江戸名物 評判 記集成』 ( 岩 波 書店刊、 ・87 6 12) 所収、 183~ 213頁参照 5 黒 川 道 祐 『 雍 州 府志 』( 貞 享三年 1686九月刊) 卷 六「 土 門 上 」 釀 部 豆腐 の項に、 ( 略 ) 園樓 門 外東 西 兩 茶店 切 ・・ 二豆 ・ 腐 ・ 一竹 ・ 串 ・ 貫 ・ レ之 ・ 火 ・ 燒 ・ レ之 ・ 與 ・ 二 串 ・・ 燒 ・ 一 ・ 合 ・ 以 ・ 二味 ・ 稀 ・・ 汁 ・ 一煮 ・ レ 之 粉 ・コガシ 點 ・ 二 其 ・ 上 ・ 一而 ・ 食 ・ レ 之 ・ 其 ・ 風 ・ 味 ・ 淡 ・ 脆 ・ 非 ・ 二 他 ・ 之 ・ 一レ ・ 是稱 ・ 二 園 豆腐 一 自 二 方 一 來 食 レ 之 爲 二 口 實 一 園東 西 兩 店 北野 七軒茶屋 是 洛 陽茶店之 本 也 ( 略 )
とあり (傍点引用者) 。 (『續々群書類從』第八 國書刊行會編輯發行、明 39 8 25 、 169頁) 6 近松門左衛門 『 曽根崎心中』 (元禄十六年 1703五月七日大坂竹本座初演) 生玉社前の場参照 23 杜牧七絶「江南春」参照 24 注 22補注 2 当該新訂版 1 ( ・96 9 10)、 98~ 99頁挿絵参照 同店に関しては、 『わすれのこり』 (四壁庵茂蔦、安政元年 1854夏) におい て以下のごとく紹介。 豊島屋白酒 鎌倉河岸豊島屋の本店にて、毎年二月二十五日、一日の間白酒を売り 出す、家の前には矢来を結ひ、入口に木戸を開き、こゝにて切手を買 ひ、つぎ場にいたりて、白酒をうけ取り、裏の方へ通りぬけるやうに 構えたり、さしも広き往来も、とまるかと疑ふばかり、只一日の売高、 幾千両と云ふことをしらず (『続燕石十種』第二巻 中央公論社刊、昭 55 7 25 所収) 、 147頁 田樂も鎌倉河岸は他者なり 安 元 義 7 真崎で豊島屋をいふげびたこと 柳 十 五 9 豊島屋であはぬは のさいにされ 柳二十 20 川柳でも格好の材である。 25『燕石十種』第一巻 (中央公論社刊、昭 54 5 20) 所収、 188頁 26 武陽隠士『世事見聞録』 (文化十三年 1816) 六の巻 によれば、 さて一体売女を責め遣ふ事は、女ならでは行き届かずといふ。誠に 老婆をよしといふ。それゆゑ妻妾または遣手 回し女などいへる、年 丈けて意地の悪き女を抱へ置きて、それらに取扱ひを任せ置くなり。 女は骨髄手前勝手にて欲深く、またあくまで根生あしく、別して女の 意地強く、我が目下の女を責め遣ふなどは得手なるものなり。誠に年 丈けるに随ひ、右の欲と意地との道には際限もなく進み、好みて 夜寝 る間も 厭 はず、 食 事をいたす 隙 のなきも まず 甚だ身 を入るるなり。 依 つて 亡 八は、 己 が妻妾または 娘分 などいへるものを 養 ひ置きて、 姦 通などして手 て 懐 なず け置き、または 無頼 の老婆など 囲 ひ置きて 業 体を 励 ま すなり。これ 秘 事なり。 全 体 艶色 の道なれば、 客 の 送迎 を 始 めす べ て 取扱ひ 向 き、女ならでは 品 よく参りか ね 、 男交 はりてはかへつて 邪魔 になる ほ どの事なれば、 亡 八は家の 立 て 物 にて、 何 の所 業 もなく 昼 夜 遊 事に む ばかりなり と、 具 さに 廓内 における 役割 を 述 べ る。 遊 女にとり 正 に 負 の 名 物 、 存在 。 (本 庄栄治郎校 訂、 奈良 本 辰也 補訂該書 岩波 文 庫 版、 ・94 12 16 、 319~ 320頁) 27『近世文 藝叢 書』第十 (國書刊行會刊、昭 51 6 10復刻 ) 所収該書、 103頁 同大 全 巻四「 吉原名産 」の 項 に「あげや 丁山 や 市 右 衞 門 製 する 豆腐 いた つて 極 品 なり、世に 是 を 山 やとうふとて 賞 す」 ( 113頁) とあり。 尚 、 遊 里 全 般 の 歴史 、 風俗 その他に関しては 藤 本 箕 山 『 色 道大 鑑 』 ( 版 新 色 道大 鑑 刊行 会 編『 版 新 色 道大 鑑 』 八木書店刊、 ・06 7 14 ) が 詳 しい。 他に、 石 井 良 助 『 吉原 』(中公新書 141、昭 42 9 25、) 小野 武 雄 『 吉原 と島 原 』( 講 談 社 学術 文 庫 1559、 ・02 8 10) 、「川柳 吉原 風俗 絵 図 」 (國文 學 「 解釋 と 鑑 賞 」 473 昭 47 11 5 ) 等 々参照 28 鈴 木 棠 三 校 注該 書 ( 岩波 文 庫 版、 ・86 7 16) 、 28~ 29頁 29 日本随 筆 大 成 第二 期 第十二巻所収 該書 ( 吉 川 弘 文 館 刊、 昭 49 6 10新 装 版) 、 447~ 448頁 30『七十一 番職 人歌合 』 ( 岩波 新日本 古典 文 学 大 系 61所収) 五十 番 左 に田 楽 ( 能 ) 、『 和 三 才圖 會』 ( 東京美 術 刊、該書 〔上〕 ) 卷 第十六 藝 能 に高下 駄抜 刀弄 玉の田 楽 法師 の 図 あり。 注 11、『演 劇百科 大事 典 』 掲載 の 図 と 共 に 参照 31 宇佐 美 英機 校 訂『 近世 風俗 志 ( 守貞謾稿 )』 五 ( 岩波 文 庫 版、 ・02 12 13)、
115~ 116頁 32 浮世絵大系 14該書 (吉田漱担当、 座右宝刊行会、 昭 50 6 20) 五十二図 参照 因みに、広重「江戸百景」 (同大系 16 昭 50 12 20、百景之内第六十二 収 録 、同 17 昭 51 2 28、第六十三~百十八 収録 )に以下の景あり。 隅田川水神の森真崎 (第三十五景) 真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図 (第三十六景) 墨田河橋場の渡かわら竈 (第三十七景) よし原日本堤 (第百景) 浅草田甫酉の町詣 (第百一景) 第百景、俗に土手八丁ともいう吉原通いの堤上に軒を並べた葭簀掛けの 小屋台が描かれる。中には田楽売る店もあろう。 33『日本名所風俗図会』 17「諸国の巻Ⅱ」 (角川書店刊、昭 56 10 10) 所収、 70頁挿絵参照 34 注 33に同 『図会』 12「近畿の巻Ⅱ」 (同前、 昭 60 8 10) 所収、 42頁挿 絵参照 35 丹後滞在期 (宝暦三年 1753~同七年 1757) の蕪村の風俗画 風「 園 祭礼図 補注1 」 (田楽茶 屋 図 補注2 ) 六曲一隻中、 片肌脱ぎ片足胡座で店前の床几に腰掛け田楽 を楽しげに食べる又平似の男、右手に団扇持ち田楽を焼く茶屋女等々の 姿が描出される。 補注 1 『蕪村全集』第六巻 (講談社刊、 ・98 3 15) 、 34~ 35頁 2 新潮古典文学アルバム 21『与謝蕪村 小林一茶』 ( ・91 3 10) 、 39 頁。尚、当該図版は左二曲田楽茶屋の拡大図である。 36 島津忠夫校注 『宗長日記』 (岩波文庫版、 昭 50 4 16、 109頁) によれば (傍点引用者) 、 伊熱亀山、関の戸部、臘月十七日、矢嶋の旅宿尋来入。殊雪中、年の 暮無 二余日 一 に、さらばものゝたよりにもあらず、真 しん ケとぞおぼゆる。 此月のはじめ、飛 脚 書 状 。此あら ま し、 只 よの つね の な を ざ り 事 に や とおも へ ば、かく雪 ふ りは へ たる 事 、 こ との 葉 も な し。 則 旅宿のため 食 籠など饋 おく り 侍 つ ゐ で、 鈴鹿 山さぞ なふ り つ む 雪のうちいかに こ え ける 心 な るら む や が て返 し、 す ゞ か山 ふ りう づ もるゝ雪のうちも見 ま く ほ しさの 道 もとめ つ ゝ 夜 に入 て 来 臨 。雪より つ もるかたみの こ と 葉 夜 も ふ け、 炉 辺 ひ ざ を な らべ、田 ・ 楽 ・ だ ・ う ・ ふ ・ の 盃 た び かさ な り て 、旅宿か へ られ き 37 福 田 秀 一、 井 上 敏幸編 『 桑弧 』三 (古典文庫 658、平 13 9 20) 所収該書 ( 98頁) より (傍点引用者) 、 ( 略 ) 翌 日 市 川と 云 わたりの、おり ふ し雪風 吹 て しはし や す ら ふ あいた に、 む か ひ の里にい ひ あは す る 人有 て 、 馬 とものりも て 来 て 、 や か て 舟 わたりし て 、あしのかれはの雪を 打 はら ひ 、 善養寺 と 云 に 落 つ き ぬ 。 おもしろかりし 朝 な る へ し。此所は 炭薪 な とも ま れにし て 、 芦 を 折 焼、 豆腐 を や き て 一 盃 を す ゝめしは、 都 の 柳 もいか て およ ふへ からんと そ 興 に入 侍 し 『手記』同 様 こ れ又「雪」と「田楽」 、戸部 何 似 斎 といい「 む か ひ の里に い ひ あは す る 人 」といい、宗長との 交誼 のありよう、 石 川 丈 山と小 栗某 との 交流 ( 西鶴 『 武家義理物語 』 貞享 五年 1688二月刊 巻三 「 約束 は雪の 朝 食」 ) を 偲 ば せ る挿 話 エピソード とい え よう。 尤 も 丈 山 坊 と小 栗 、田楽 な ら ぬ 柚味 ば かりの 膳 であ っ た。 38 仮 名草 子 『 仁勢 物語 』( 作 者 未詳 、 寛永末 年 頃 刊) 上 卷 (岩波日本古典 學 大 系 90『 假 名草 子 集』所収、 172頁) 参照 39 以下の 俳句選 集、 『全集』第十六 卷 所収 40「 山 落 木 」 卷 五 明治 二十 九 年 俳句稿 (『全集』第二 卷 所収)
41 注 22補注 2 当該新訂版 4 ( ・96 12 10)、 223頁に挿絵、 227頁 42「 山落木」二十九年句稿冒頭の一文 (『全集』第二卷、 392頁) 43 既出 (注 19補注 2 ) 『豆腐百珍』 は 「木の芽田楽」 以下十四種の田楽を製 法とともに挙げ、 『豆腐百珍續 』 も 目川田楽以下太平田楽まで十四種 を挙げる。 現 代の料理書では、 林春隆 『 新 豆腐百珍』 (中公文庫、 昭 57 11 10) が正続百珍の田楽を紹介しつつ三十三種の田楽を挙げている (同書「田楽」の章 187~ 208頁 ) 。 醒狂道人に敬意表す意味で『豆腐百珍續 』豆腐雑話中から「田楽の名 義」を引く。 田楽といふ濫 はじ 觴 まり は相模入道の時代に田楽法師とて一種舞狂言の類あ り 新坐本坐の田楽とて世上に好みもてはやせしこと太平記 補注1 に見へた り 今も南 な 都 ら 春日の祭礼中に此曲あり 尤も高足の曲といふあり 炙 やき 豆腐の串にさしたるかたちそれに似たるとて田楽と名づけたるなり 加賀能登越中にては田楽をゐろりにたてつきさしやすくなり 補注2 六 に出た る今宮の沙 すな 田楽も亦同じ これ田楽の古製なり 右の文に続き、 「田楽法師高足曲」 と 「加賀能登越中にて/豆腐田楽の 図」 が並べ描かれ、 その類似性が比較できる。 (注 19の補注 2 に同 『集成』 同巻、 59~ 60頁) 補注1 『太平記』卷第五「相摸入 弄田樂 闘犬事」は次のように語る。 其比 (元弘二年 引用者注) 洛中ニ田樂ヲ弄事昌 サカン ニシテ、 貴賤 擧テ是ニ着セリ。相摸入 此事ヲ聞及ビ、新座 本座ノ田樂ヲ呼 下シテ、 日 夜 暮ニ弄事無 二 他事 一。入 ジユ 興 キヨウ ノ餘ニ、 宗 トノ大名 ニ 田樂法師ヲ一人ヅヽ預テ裝束ヲ ラセケル間、是ハ誰ガシ殿ノ田 樂、彼何ガシ殿ノ田樂ナンド云テ、金銀 珠玉 ヲ 逞 タクマ シ ク シ 綾羅錦 ヲ 妝 カ ザ レ リ。 宴 ニ 臨デ 一曲ヲ 奏スレバ 、相摸入 ヲ 始 トシテ一 族 大名 我 劣 ラジト 直垂 大 口 ヲ 解 ヌイ デ抛 出 ス 。是ヲ集テ 積 ニ山ノ 如 シ。其 ツヒ ヘ幾千萬 ト云 數 ヲ 不 レ 知 。(以下 略 ) この他にも卷第二十 七 「田樂事 付 長講 見 物 事」 が 貞和 五年 1349六 月 十 一日、四 條河原 田楽興 行 の 盛況 と 桟敷崩壊 の事を語る。その 様宛 ら 脩 シユ 羅 ノ 鬪諍 、 獄 ノ 呵責 、 眼 ノ ニ 有 ガ 如 シ であ っ たという。二 條關白 殿も田楽見 物 、その 折 の狂 歌 、 田樂ノ 將碁倒 ノ 棧 ニハ 王許コソ 登 ア ガ ラ ザ リケ レ とあり。 ( 岩波 日本古 典 學 大 系 34、 36該書一、三、本文引用は 順 に 161~ 162頁、 57 頁) 2 六 今宮の沙 すな 田楽 爐 ひば ち の 辺 ぐ るり に沙を 多 くつみ田楽を 斜 に沙へさし 火 を 盛 つよく して 常 の田楽よりは 遠火 にするなり ○京北 今宮の 門前 の 茶屋 に此 製を用 ゆ 。炙かげ ん 尤 もつとも 佳 よし ( 35頁) ( おお しま とみ お 日本語日本文 学科 )