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「旅立ちの日」を迎えて : 「いてふの実」の「お日様」と〈母〉と〈子供たち〉

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「旅立ちの日」を迎えて

遠藤



はじめに 「「おきなぐさ」 (第6巻所収) の原稿表紙裏に《花鳥童話集》として十 一 の童話題名が列記されている中にこの「いてふの実」も見出される」 ことを、 『宮沢賢治全集 5 (1) 』の「 解 説 (2) 」 に指摘した天沢退二郎は、 その 「十一 の童話題名」 を同全集第六 巻 (3) の「 解 説 (4) 」 に 、 紹介している。 それ を参照すると、 わたしも心惹かれて読み解きを試みた 「めくらぶだうと 虹 (5) 」 や「まなづるとダアリヤ」などもそこに含まれており、もしも宮澤賢治の 生前に、ふさわしい装釘 挿画とともに『花鳥童話集』が刊行されていた ら、世の読者はすばらしい一冊を手にすることができたのに  と、悔や まれてならない。だが、作者の遺志の実現はい 、 ま からでも可能なのであっ て、わたしは、それを志す〈誰〉かが現われてくれることを、ひたすらに 希う。 賢治童話の世界にそのように位置づけられる「いてふの実」について、 前記 「解説」 は 「果実や種子の散乱というモチーフ」 における、 「おきな ぐさ」との共通性を説く。なるほどと思う。たしかに 実 たちは 母  なる 「銀 杏 いてふ の木」 を離れて散らばっていくのだし、 おきなぐさ=うずの しゅげ の実は「丁度星が砕けて散るときのやうにからだがばらばらにな って」 しまうのだから。 としても、 それらの 「果実や種子の散乱」 に 、 「 死 の主題」 をありありと 「認め」 る (6) のは、 どうだろうか。 「いてふの 実」 に、 「種子として未来へと散乱していく幼い生命たちの不安と希望が みごとに表現されてい る (7) 」 と する見方にわたしは共感するけれども、 「そ れと同時に、かれらの旅立ちがあたかも死出の旅ででもあるかのような不 吉さと悲哀もまた行文にまとわりついている (8) 」との読みに接すると、果た してそうなのかと戸惑いを覚えずにはいられない。それほどの暗い陰 か 影 げ を 「行文」に認めるのは、ひとり残される母樹 ははぎ の深く悲しみに沈む、 「まるで 死 し んだやうに」凝然と立ち尽くす姿に眼を奪われるゆえかと思われるのだ が、物語のはこびはわたしに、どうしても陰 か 影 げ を感じさせない。 1 物語の とき と ひと  ある語り手の伝える 「いてふの実」 は、 テクストで四ページと、 「めく らぶだうと虹」とひとしく、短い。のみならず、物語空間が一個所に限ら 学苑 第八二一号 二五~三四(二〇〇九 三)



「いてふの実」の「お日様」と〈母〉と〈子供たち





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れて、他に移らない点も、変わらない。具体的には「一本 いつぽん いてふの木 き 」の 立つ「丘 おか 」で、そこは、虹と出会った めくらぶだう がわが「実」を輝 かせる「城あとのまん中」にある「四 し つ角山 かくやま 」とともに、宮澤賢治の「ド リームランドとしての日本岩手県」すなわちイーハトヴの一角であると見 られよう。 なお「お きなぐさ」 もまた、 「二本のうずのしゅげ」 の風に揺 れる「丘」での情況をひたすらに追う物語なのだが、ただ最後の場面で、 地上の 死 を迎えた主人公たちの行方をたずねる語り手 私 の眼ざし が新たな空間に注がれるところに、他の二 とは異なる特色の見いだせる ことにも、触れておきたい。 さて、短くそして物語空間の移らない「いてふの実」で、動くのはほか ならぬ物語の とき 、というよりこちらの語り手は、 登場人物たちの身 の上に大事な意味をもつでき事の具現する瞬間までのなりゆきを、 時々刻々 の推移をきっちりと踏まえてたどっていく姿勢を示して、読者の関心を喚 起するのである。その意味で「いてふの実」は、それぞれの 人生 への 「旅立ちの日」を迎えた 実 たちをめぐる 時間の物語 と言えようか。 それを伝える語り手は、 「おきなぐさ」 の 私 と違って、 おのれの存在 を語りの表てに出さず、もっぱら物語情況を読者に伝達する 声 の役割 を果たすことに努めているはずだ。はじめの方に「さうです。この銀杏 いてふ の 木 き はお母 かあ さんでした。/今年 こと し は千人 せんにん の黄金色 きんい ろ の子供 こど も が生 うま れたのです。/そ して今日 けふ こそ子供 こど も らがみんな一 いつ (ママ) 諸 しよ に旅 たび に発 た つのです」 と いう、説き聞かす 口調の語りがあるけれども、それは読者ではなく自身に向けられた確認の 語りであるだろう。 「幾組もの対話で成立っているこの童 話 (9) 」 と指摘され るとおり、 一 の三分の 二  は「 子 供 こど ら」 すなわち いてふの実 たちの 「対話」 で占められていることが、 何よりもよく、 伝達を旨とする語り手 の姿勢を示している。換言すれば、物語情況を登場人物に反映させて伝え る語りの手法が、多く採られているわけだ。 そこで、語り手が注目する いてふの実 たちとともに、物語には誰が 登場するのか  を押さえておこう。 「いてふの実」 の 「 丘 おか 」 に語りのう えで姿を見せるのは、あらためて確かめると、複数の 実 たち、新たに 生まれた数多い幼い生命たちのうちの何人かと、 「子供 こど も ら」の「お母 かあ さん」 の「銀杏 いてふ の木 き 」と「北 きた 風 かぜ 」と「お日様 ひさ ま 」の三人  都合四 、 者 であることが、 記憶されていい。 のちほど詳しく触れたいが、 「いてふの実」 の語りの仕 組みを支える基数 四 と、それはかかわりをもつ。登場人物四者のうち、 おそらく太くて丈高い 「銀 杏 いてふ の木」 、こ の マーテル ドロロサ ( Ma te r Do lo ro sa ) ( ) 、 悲しみの母 の姿は、 最初の場面に、 子供らの旅立ちを 「あんまり悲 かな しんで扇 形 あふぎがた の黄 金 きん の髪 かみ の毛 け を昨 日 きのふ までにみんな落 おと してしまひ ました」 と、 また 先 にも 少 しく見たように最後の場面に、 「まるで死 し んだ やうになってじっと立 た って ゐ ます」と、語られている。 彼女 の悲しみの 程 は 察 せられるけれども、 しかし 「銀 杏 いてふ の木 き 」は 、「悲 かな し む 母 親 はゝ おや の木 き 」と し てそこに 打 ち 棄 てられたままで 終 わってしまうのか …… といえば、そうで はあるまい。 はじめに 「 銀 杏 いてふ 」に 言 及 したとき、 語 り手が 「 、、 今年 こと し は 千人 せんにん の黄 金 きん 色 いろ の 子供 こど も が生 うま れたのです」と、語っていた。そして物語の 終 わりに姿を見せた 「北 きた 風 かぜ 」が、 「 、、 今年 こと し も これでま づ さよならさよならって 云 い ふわけだ」と、 別 れを 告 げて「 雨 あめ のやうに 枝 えだ から 飛 と び 下 お り」た「子供 こど も ら」を見ながら、 呟 く。 傍 点の語りを意 識 すると、二人の言 葉 は 実 たちを生み、 彼 らが自立で きるト キ まではぐくみ 育 てて、やがて 世 に 送 りだすという、大いなる 自 然 の 母なるもの に 与 えた役割が、 季節 のめぐりとともに、 「今 年 こと

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も例年のようにとどこおりなく 成し遂げられた ことを、暗に告げてい るとわたしには聞こえる。 ことの成就は次のプロセスのはじまりを導く  という。 だから、 「つめたいガラスのマントをひらめかして」 去る 「北 きた 風 かぜ 」に代わって、 「お日様 ひさ ま 」がそのなりゆきを保証し、期待をこめて、 「悲 かな しむ母 親 はゝおや の木 き 」に 明 光を注ぐのである。 そ の励ましによっ て、 「死 し んだやうになって」 いる彼女は、 生命力の豊饒を回復し、 活き活 きと「丘 おか 」に立ち続けられるだろう、実際の枯死が身に訪れるまで。 「北 きた から氷 こほり のやうに冷 つめ たい透 す きとほった風 かぜ がゴーッと吹 ふ いて来 き ました」 と語られる 「北 きた 風 かぜ 」の 俄 登場、 「 、、 突 とつ 然 ぜん 光 ひかり の束 たば が黄 金 きん の矢 や のやうに一 いち 度 ど に飛 と んで来 き ました」と語られる「お日様 ひさ ま 」の登場をみる最後の場面こそ、 物語に重要な意味をもつと、 わたしは読む。 「いてふの実」 の役者たちが そこに顔を えるからだが、一 のはこびを見直すと、両者の出現はかな らずしも不 、 意 ことに気づく。 「お日 様 ひさ 」 については、 「東 ひがし の空 そら 」 の在り様の推移を踏まえた語り手の四 、 度 が、ものを言う。ただしそ れをたずねる作業は「いてふの実」の語りの仕組みそのものを問う営みに がるので、 あとにまわしたい。 「北 きた 風 かぜ 」 については、 子供らの対話のな かの次のせりふがわたしの注意を促す  「あたしどんなめにあってもいゝ からお母 つか さん所 とこ に居 ゐ たいわ」 「だっていけないんですって。 風 かぜ が毎 日 まいにち さう 云 い ったわ」 、 および 「そら、 もう明 あか るくなったぞ。 嬉 うれ しいなあ。 僕 ぼく はきっ と黄 金 きん 色 いろ のお星 ほし さまになるんだよ」 「僕 ぼく もなるよ。 き っとこゝから落 お ちれ ばすぐ 、、 北 きた 風 かぜ が空 そら へ連 つ れてって呉 く れるだらうね」 「僕 ぼく は北 きた 風 かぜ ぢゃないと思 おも ふ んだよ。北 きた 風 かぜ は親切 しんせつ ぢゃないんだよ。僕 ぼく はきっと烏 からす さんだらうと思 おも ふね」 とが。 いつまでも母の許にはいられないと「いてふの女 おんな の子 こ 」に告げたという 「風 かぜ 」 は 、 最 後の場面で別れのトキの 「丘 おか 」 の有り様を見届けた 「 北 きた 風 かぜ 」 にほかならぬことが、以上のせりふで明らかになるだろう。実際に  で はなく、 対話のなかで吹くこの 「 風 かぜ 」は 、「いてふの男 おとこ の子 こ 」の 言 「北 きた 風 かぜ 」とともに、物語のはこびに即して、終わりに「北 きた から」音をたてて吹 いてきた「冷 つめ たい透 す きとほった風 かぜ 」の存在を予告する標識 しるし とみられよう。 しかもその「北 きた 風 かぜ 」は「男 おとこ の子 こ 」のせりふによれば「親切 しんせつ ぢゃない」のだ が、 それは、 自然 の定めたなりゆきが季節のめぐりに合わせて完了し たかどうかを確認する審判員としての冷徹さのもたらした印象なのだろう。 同時に、 「北 きた 風 かぜ 」が親樹に「ゴーッと」吹きつけると、 実 たちは「一 いち 度 ど に」枝を離れたとあるゆえ、彼は、旅立ちを目前に控えた子供らに向かっ て、出発の号砲を鳴らす役をも受け持つと見なされる。なるほどスタータ ーが特定の選手に力をかすことはあり得まい。 登場人物については、なお語り手が具体的に 触 れる子供らの 数 が気にな る。彼らの在り様は 二 の対話によって 伝 えられるわけだが、彼らの 対話は 中 に 五個 所あって、 順 に、 a どちらも男の子の 「一 ひと つの実 み 」と 「も一 ひと つ」 のそれ、 b 「一 人 ひとり のいてふの女 おんな の子 こ 」 と 「も一 人 ひとり 」 のそれ、 c  「木 き の一 番 一 番 いちばんいちばん 高 たか い 処 ところ に居 ゐ た 二 人 ふたり のいてふの男 おとこ の子 こ 」 のそれ、 d 「その 少 すこ し 下 した 」の「もう 二 人 ふたり 」の男の子のそれ  と続き、最後に四組一連のそれ、 e 男の子 二 人 f 女の子 二 人 g 男の子 二 人 h 女の子 二 人の対話が、 示 されている。したがって 単純 に 延べ の人 数 でかぞえれば、 全部 で 十六 人と なるけれども、それで 果 たしていいのかどうか。 a から d の子供らがみな 異 なる 実 たちであることは確かだから、そこに登場するのは 八 人にほ かならない。 問 題 は最後の 個 所にあって、 「僕 ぼく 、 靴 くつ が 小 ちい さいや。 面 倒 めんだう くさ い。 はだしで 行 い かう」 にはじまり、 「わたしと 二 人 ふたり で 行 い きませうよ。 わた

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しのを時々 ときどき 貸 か してあげるわ。凍 こゞ えたら一 いつ (ママ) 諸 しよ に死 し にませうよ」 にいたる十一 のせりふを吟味すると、f の女の子たちの「おっかさんに貰 もら った新 あたら しい外 がい 套 たう 」をめぐる話題は、明らかにh にひき継がれているゆえ、この場面での 女の子たちは二 、 人 とわかる。e とg の男の子たちにしても、話題はどちら も、 足に合う靴の交換 持ち分の食料の分与という、 「一 いつ (ママ) 諸 しよ に」 旅する相 手を思い遣る心情を表わすものゆえ、彼らもやはり二 、 人 とみられよう。 すると、前の八人と合わせて十二人となるが、なお注意すべきは、e ~ h の子供らには、それまでの「一 ひと つの実 み 」とか「いてふの女 おんな の子 こ 」などの ような注記の附されていない点だろう。そのことは、こ 、 の が、すで に登場した「いてふの女 おんな の子 こ 」と「も一人 ひとり 」であり、六人の男の子たちの 誰かであるのを、 さりげなく告げているのだと思う。 「もう出 発 しゆつぱつ に間 ま もな い」 トキ に「 一 いつ (ママ) 諸 しよ に行 い かうね」 と約束しているのをみると、 二人は、 最初に触れられた「一 ひと つの実 み 」と「も一 ひと つ」  「僕 ぼく なんか落 お ちる途中 とちゆう で 眼 め がまはらないだらうか。 」/「よく目 め をつぶって行 い けばいゝさ。 」/「さ うだ。 忘 わす れてゐた。 僕 ぼく 水筒 すゐとう に水 みづ をつめて置 お くんだった。 」/「 僕 ぼく はね、 水 すゐ 筒 とう の外 ほか に薄荷水 はつか すゐ を用意 ようい したよ。少 すこ しやらうか。旅 たび へ出 で てあんまり心持 こゝろも ちの 悪 わる い時 とき は一 寸 ちよつと 飲 の むといゝっておっかさんが云 い ったぜ。 」 / 「 なぜおっかさ んは僕 ぼく へは呉 く れないんだらう。 」/「 だ か ら 、 僕 ぼく あげるよ。 お母 つか さんを悪 わる く思 おも っちゃすまないよ」と対話を交わす男の子たちかと、見当がつく。こ うして物語の必要とする いてふの実 たちの数は、結局八 、 人 に絞ら れていく。どうしてこの数なのかを問うなら、それはやはり 四 を基数 にもつ「いてふの実」そのものの要請にもとづく、という答えが返ってく るはずである。 2 物語の仕組み 年に一度、 「丘 おか 」の「 銀 杏 いてふ 」 の親樹と子供らの身に重要なことの起こる 瞬間を見据えつつ、 語り手は語りを進めていく。 その意味で 「いてふの実」 は 空間 ではなく 時間の物語 にほかならない、と先に記したけれど も、 そういう物語の仕組みを支えているのが、 「東 ひがし の空 そら 」 の在り様につい ての語り手の言及であることをも、再度確認しておきたい。そのことは、 「いてふの実」 が次の語りからはじまっているところに、 何よりもよく現 われていよう。すなわち冒頭に語り手が言う  「そらのてっぺんなんか 冷 つめ たくて冷 つめ たくてまるでカチカチの きをかけた鋼 や はがね です。 / そして星 ほし が 一杯 いつぱい です。け 、 れ 東 ひがし の空 そら はもう優 やさ しい桔梗 ききやう の花 はな びらのやうにあやしい底 光 ひか りをはじめました」と。まだ夜の気配の失せない天をまず仰いだ彼は、 「けれども」 と姿勢を転じて 「東 ひがし の空 そら 」 に眼を移す。 そこに、 語りの最初 から 日の出 の方角に心を向ける語り手の姿が見出だせるのではなかろ うか。物語のはこびは、冒頭のこの一節と、おなじく「東 ひがし の空 そら 」はどうか を告げる以後の三節によって、大きく四場に分かれるのである。物語情況 が移る標識 しるし となる他の語りを、それぞれの場に触れるに先立って、ここに 掲 げておこう。 東 ひがし の空 そら の桔 梗 ききやう の花 はな びらはもういつかしぼんだやうに 力 ちから なくなり、 朝 あさ の 白 しろ 光 びか りがあらはれはじめました。星 ほし が一 ひと つづつ 消 き えて行 ゆ きます。 ( 第 二場) 星 ほし がすっかり 消 き えました。 東 ひがし のそらは 白 しろ く 燃 も えてゐるやうです。 木 き が 俄 にわ か に ざ わ ざ わしました。もう出 しゆつ 発 ぱつ に間 ま もないのです。 ( 第 三場)

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東 ひがし の空 そら が白く燃 も え、 ユラリユラリと揺 ゆ れはじめました。 おっかさんの木 き は まるで死 し んだやうになってじっと立 た ってゐます。 (第四場) こうして並べてみると、ひとつひとつの語りは、ばらばらにではなく、必 ずおのれのすぐ前の情況を受け留めながら語られているのに、読者は誰し も気づく。 「桔梗 ききやう の花 はな びら」の空模様は、 「星 ほし 」たちは、そしてまた「白 しろ く 燃 も え」る東 ひがし の空 そら の様子は、どうなったかが触れられている、という具合に。 それゆえ、冒頭の一節と合わせて、これら四個所の語りを、語 、 り 語り手の姿勢が、 「いてふの実」 に求められていい。 この語り口は、 物 語情況の時々刻々の移りゆきに眼を凝らしつつ、機の熟するのを固唾をの んで待ち受ける人物のものであって、おのずから読者に緊迫感を与えずに はおかない。のみならず四つの語りにおける語り手の視線の行方も、読者 の注意を誘う。 天頂から 「東 ひがし の空 そら 」 に移り、 「東 ひがし の空 そら 」 そ のものをみたの ち、 「東 ひがし の空 そら 」 と地上の 「 木 き 」 に向き、 そして 「 東 ひがし の空 そら 」 の もとに在る 「おっかさんの木 き 」へ  というその動きは、 や はり事態の切迫を告げて いるだろう。 語りのなかで「東 ひがし の空 そら 」の「白 しろ 光 びか り」が輝きを強めて「白 しろ く燃 も え」るよ うになったとき、 「木 、 が俄 にわ かにざわざわしました」と語られている一節が、 なりゆきに即して微妙な意味合いを含む。 「木 き 」がさわがしくなったのは、 「出 しゆつ 発 ぱつ 」の「 間 ま もない」 ことを知った子供らのせいだから、 実 たちが…… と語ってもいいはずだけれども、そうすると、決定的な瞬間が眼の前に迫 りながらだがまだその トキ ではない  というこの場の情況を、うま く伝えることができないとみたために、語り手は、子供らが住処 すみか としてき たところの意で、たんに「木 き 」という表示をしたのだ、と思う。そうして、 具体的な伝達は 実 たち四人の対話に委ねたのである。 それにしても、 「いてふの実」 の最初から 「 東 ひがし の空 そら 」 に 想いを馳せて、 「優 やさ しい桔 梗 ききやう の花 はな びらのやうに」 淡 い青紫色の、 不思議な魅力を漂わせた 妖 「底光 ひか り」を、 「朝 あさ の白 しろ 光 びか り」を、 「白 しろ く燃 も えてゐる」空をみつめる 語り手は、そこに何かを求めているに違いない。何かとは言うまでもなく 太陽であって、 「東 ひがし の空 そら が白く燃 も え、 ユラリユラリと揺 ゆ れはじめ」 たとこ ろに、それは姿を現わして、 旅立ちの日 のはじまりを告げるのである。 先にみたように、 「いてふの実」 において語り手自身の語るところは、 一 の三分の一と思いのほかに少ない。しかも彼は「東 ひがし の空 そら 」の変化を語る のに、その三分の一を費やす。とともに、登場すべき四者が一堂に会する 第四場に、 「お日 様 ひさ 」 がいかに在るかを示して、 自身の語りに幕を引くの である。 いてふの実 たちのなりゆきを、 母 なる「銀杏 いてふ の木 き 」の在り 様を交えながらたどってきた語り手の裡に、実は「燃 も える宝石 ほうせき のやうに東 ひがし の空 そら にかかり、あらんかぎりのかゞやきを悲 かな しむ母親 はゝおや の木 き と旅 たび に出 で た子供 こど も らとに投 な げておやりなさいました」という太陽の貴重なイメジが、生き続 けていたに違いない。それはとりもなおさず、この無名の人物を語り手に 選んだ物語自体のヴェクトルが、 「悲 かな しむ母 親 はゝおや の木 き 」 に慰めと励ましの、 「旅 たび に出 で た子 供 こど ら」 に祝福と 希望 の光を与えて彼らの生 命 いのち を輝かす 「 お日 ひ 様 さま 」 に向けられている、 ということにほかなるまい。 してみると、 「旅 たび 立 だ ちの日 ひ 」を 迎 えた いてふの母と子 の物語である「いてふの実」は、ま た空 そら から 温 かく親子を 見守 る「お日様 ひさ ま 」の物語と読まれるべきなのだ、と 思う。 最 終 節の語り手の口上が 「お日 様 ひさ は……投 な げておやりなさいました」 と、 敬 意をこめて 閉 じられている 点 に注 目 すれば、 一 は、 「 鹿 しし 踊 をど りのは じまり」の 鹿 たちの 吟詠 とひとしく、 太陽 讃歌 であるともみられよう。

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そういう 「いてふの実」 、 四 場構成の物語の仕組みをさらに詳しくみて みたい。 まず気づくのは、 それぞれの場面が二つの語り  先に掲げた 「東 ひがし の空 そら 」 への言及と、 そのときどきに地上で何が起きたかを伝える言説 とによって成り立っている、ということ。次に、各場面のでき事もまた二 つずつ在る、ということ。それらについては具体的に触れておこう。第一 場には、語り手の語る「桔梗 ききやう 」いろの「その明 あ け方 がた の空 そら の下 した 」でのでき事 が、二つの 実 たちの対話を挟みながら前半に、 「「ね、あたしどんな所 とこ へ行 い くのかしら。 」一 人 ひとり のいてふの女 おんな の子 こ が空 そら を見 み あげて呟 つぶや くやうに云 い ひ ました。 / 「あたしだってわからないわ、 どこへも行 い きたくないわね。 」 も一人 ひとり が云 い ひました」と語り手の短い紹介をともなってはじまる対話が後 半に、 伝えられている。 なお、 前半で語り手は、 「明 あ け方 がた 」 の地上の様子 と「いてふの実」たちの眼覚めと対話と「お母 つか さん」の在り様との四 、 つ の 事象を挙げていることも、わたしの眼をひく。第二場には、銀杏の木のて っぺんにいる男の子たちと、少し下の男の子たちとの、二 、 組 の対話が並ぶ。 ここでも語り手の口にするのは、必要最小限の紹介の辞にとどまっている。 語り手は何も言葉を添えず、 実 たちの対話だけが伝えられる第三場で も、 その十一のせりふを吟味すると、 対話のはこびは、 「出 しゆつ 発 ぱつ 」 のトキを 身近に感じた彼らの、装備の点検に追われる様 さま を表わす前半の七個と、ど こまでも 「一 いつ (ママ) 諸 しよ に」 「二 人 ふたり で」 行こうとの思いを表わす後半の四個とに分 かれている情況が確かめられよう。 ところで、第四場すなわち最後の場面は、もっぱら語り手の語りに終始 する点が、 それまでと異なるけれども、 旅立ち の朝のなりゆきと、 そ して「東 ひがし の空 そら 」にのぼった「お日様 ひさ ま 」の在り様との二つのことが語られる 点に、変わりはない。しかも朝のなりゆきが、第 、 一 四 つの事象  太陽の出現にともなう 実 たちの姿と 「北 きた 風 かぜ 」の 来 訪 と 「子 供 こど ら」 の動きと 旅立ち の完了を確認した 「北 きた 風 かぜ 」 の退場とによっ て示されているのを、興味深く思う。物語のはこびに即して、第一場と第 四場とは対応の関係に在ることが、そこに知られるからである。だからこ そ、語り手の「今日 けふ こそはたしかに旅立 たびだ ちの日 ひ でした」との確認に、また 「お母 かあ さんはそれ」 すなわち子供らとの訣れを 「あんまり悲 かな しんで扇 形 あふぎがた の 黄 き 金 ん の髪 かみ の毛 け を昨日 きのふ までにみんな落 おと してしまひました」との注目に呼 、 応 、 最後の場面に 旅立ち の情況がきっちりと語られるのであり、 「お っかさんの木 き 」の「悲 かな しみ」に凍りついた様が告げられるのではないか。 対応の関係にたつこと  それは、第一場=物語の はじまり がそれ となく最後の情況=物語の 結末 を予告している、ということでもあろ う。だが読者には、すぐにそうと解るのではない。第四場まで読み進んで はじめて対応に気づき、 はじまり に戻ってもう一度 「明 あ け方 がた 」 の情況 を見直すことになる。そのことによって読者と物語との距離がぐっと縮ま るわけで、そこに語りの戦略がめぐらされているのかもしれない。第二場 と第三場とは、どちらも 実 たちの対話で占められているのだから、物 語のはこびとしては連 をたもつとみられよう。ただし対話は第二場にい きなり示されるのではなく、すでに第一場の後半がそれであるゆえ、読者 は場面の移り行きに違和感を覚えることはない。こうして第一場はまた次 の場面へと がっていく。連 にせよ対応にせよ、以後とそういう関わり をもつところに、語り手の言葉と 実 たちの対話の双方から成りたつ第 一場の含む、 「いてふの実」 の語 、 り としての重みを、 わたしは見い だす。ところが、第三場から第四場への移り行きは、前とは趣きが違う。 実 たちの対話のあとに、 「東 ひがし の空 そら 」 の在り様を挟んで、 「 、、 突然 とつぜん 光 ひかり の束 たば が

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黄金 きん の矢 や のやうに一度 いちど に飛 と んで来 き ました」と、それこそ「突然 とつぜん 」その場の でき事を語り手は読者の前に差し出す。いまの語りに出会うと、あたかも 「光 ひかり の束 たば 」 がわたし自身に向けて飛んでくるような印象を抱くのだが、 ど うだろう。その唐突感がここではものを言う。それで最後の場面が読者に 大きく迫ってくるのである。 3 物語に問うべきこと それぞれの場面の問題点をとり上げてみよう。といっても第一場につい ては、すでにあれこれと触れたので、気づくことはあまりないけれども、 「明 あ け方 がた 」 の 空の高みを 「風 かぜ に流 なが されて」 いく 「鋭 するど い霜 しも のかけら」 の立て る「 微 かす かな音 おと 」で 、「いてふの実 み はみ 、 ん 、、 一度 いちど に 目 め をさましました」 とい う語りが、最後の「ゴーッと吹 ふ いて来 き 」た「北 きた 風 かぜ 」の合図で「子供 こど も らはみ 、 ん 、、 一度 いちど に 雨 あめ のやうに枝 えだ から飛 と び下 お りました」 と 語られる条 くだ りとの関連 で、 眼をひく。 実 たちに目覚めの音をもたらした 「風 かぜ 」は「 霜 しも のかけ ら」を運ぶゆえに冷たく、 「南 みなみ の方 ほう へ」流れていくゆえ、北風だとわかる。 すると、 もう一度 「 明 あ け方 がた 」 の 情況を見直す 読者に、 それは最後の 「北 きた 風 かぜ 」と お 「風 かぜ 」 ではないかとの思 、 い が兆すはずだ。 いまひとつ、 「今 け 日 ふ こそはたしかに旅 立 たびだ ちの日 ひ でした」 と 「そして今 日 けふ こそ子 供 こど らがみ んな一 いつ (ママ) 諸 しよ に旅 たび に発 た つのです」 との語りに、 物語はいかなる日を迎えたか をしっかりと確認する語り手の姿勢がうかがわれることにも、注意してお こう。 第二場はどうか。 「東 ひがし の空 そら 」に「 朝 あさ の白 しろ 光 びか りがあらはれはじめ」 たとき に話を交わす男の子の二組には、 母 から離れる不安や寂しさは微塵も みられない。というより、彼らは多少とも 母 のことを気にするにして も、 むしろ想いを自分の前途に傾け、 さまざまな夢を描いて、 旅立ち  のときを楽しみに待つ。そこに第一場の 実 たちとの違いがあるわけだ が、男の子というものはそうした無邪気なエゴイズムを発揮するのが普通 なのかもしれない。 「木 き の一 番 いちばん 一番 いちばん 高 たか い処 ところ に居 ゐ た」 二人はつぎのようなやりとりをする  「そら、 もう明 あか るくなったぞ。 嬉 うれ しいなあ。 僕 ぼく はきっと黄 金 きん 色 いろ のお星 ほし さま になるんだよ。 」/「 僕 ぼく もなるよ。 きっとこゝから落 お ちればすぐ北 きた 風 かぜ が空 そら へ連 つ れてって呉 く れるだらうね。 」/「 僕 ぼく は北 きた 風 かぜ ぢゃないと思 おも ふんだよ。 北 きた 風 かぜ は親 切 しんせつ ぢゃないんだよ。 僕 ぼく はきっと烏 からす さんだらうと思 おも ふね。 」 / 「さう だ。きっと烏 からす さんだ。烏 からす さんは偉 えら いんだよ。こゝから遠 とほ くてまるで見 み えな くなるまで一息 ひといき に飛 と んで行 ゆ くんだからね。頼 たの んだら僕 ぼく ら二人位 ふたりぐらゐ きっと一遍 いつぺん に青 あを ぞら 連 までつ れて行 い って呉 く れるぜ。 」/「 頼 たの んで見 み やうか。 早 はや く来 く るといゝ な」 。生 涯 の 旅 に出て 「 お星 ほし さまになるんだ」 と想うこの二人は、 以 前から夜空の星に強く憧れていたのだ、と思う。あるいはおなじく「黄金 きん 色 いろ 」の いてふの実 が、あたかも「よだか星」のように、ついに星とな る物語があって、それに心をひかれていたのでもあろうか。もしそういう 物語がこの世のどこかに在るのならば、わたしも是非読んでみたい。とは いえ、 「落 お ちればすぐ」に「北 きた 風 かぜ 」、いや「烏 からす さん」が「連 つ れて行って呉 く れ る」 と言うところに、 旅 に生きることへの認識の甘さが、 顔をだす。 やはりまだ子供なのだ、仕方ないさ  と、読者は誰しも思うだろうが、 ひとり立ちしたときの彼らが苦労するだろうことも、眼に見えていよう。 では、 もう一組の方はどうだろう。 「その少 すこ し下 した で」 交わされた二人の 対話が、 「僕 ぼく は一 番 いちばん はじめに杏 あんず の王 様 わうさま のお城 しろ をたづねるよ。 そ してお姫 ひめ 様 さま

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をさらって行 い ったばけ物 もの を退治 たいじ するんだ。そんなばけ物 もの がきっとどこかに あるね」とはじまり、それに「うん。あるだらう。けれどもあぶないじゃ ないか。ばけ物 もの は大 おほ きいんだよ。僕 ぼく たちなんか鼻 はな でふっと吹 ふ き飛 と ばされち まうよ」 と応じた相手に対して、 話の口火を切った子供が、 「お母 つか さん」 からもらった、 その 「髪 かみ でこさへた網 あみ 」 を見せて、 「さうだよ。 お母 つか さん が下 くだ すったんだよ。何 なに か恐 おそ ろしいことのあったときは此 こ の中 なか にかくれるん だって。僕 ぼく ね、この網 あみ をふところに入 い れてばけ物 もの に行 い ってね。もしもし。 今日は、僕 ぼく を呑 の めますか呑 の めないでせう。とかう云 い ふんだよ。ばけ物 もの は怒 おこ ってすぐ呑 の むだらう。僕 ぼく はその時 とき ばけ物 もの の胃袋 ゐぶくろ の中 なか でこの網 あみ を出 だ してね、 すっかり被 かぶ っちまふんだ。それからおなか中 ぢう をめっちゃめちゃにこわしち まふんだよ。そら、ばけ物 もの はチブスになって死 し ぬだらう。そこで僕 ぼく は出 で て 来 き て杏 あんず のお姫様 ひめさま を連 つ れてお城 しろ に帰 かへ るんだ。そしてお姫様 ひめさま を貰 もら ふんだよ」と、 熱をこめて説く。腹のなかで暴れるのと腸チフスとが結びつくのは、激し い腹痛を介しての発想と思えるけれども、 いてふの実 が腸チフスを知 っているという設定は意外性を含んでいて、おもしろい。 しかし、これからのなりゆきをめぐって彼の想い描くのは、まさしくひ とつの冒険物語のヒーローとして生きていこうとする自分のイメジにほか ならない。それは、夜空の星になることを夢みる男の子とおなじく、ロマ ンティックな夢想に酔う在り方というべきであって、大丈夫なのかという 危惧を読者に抱かせずにはおかない。この子の話に続くせりふ  「本統 ほんたう にいゝね。 そんならその時 とき 僕 ぼく はお客 きやく 様 さま になって行 い ってもいゝだらう。 」「いゝ ともさ。僕 ぼく 、国 くに を半分 はんぶん わけてあげるよ。それからお母 つか さんへは毎日 まいにち お菓子 くわし やなんか沢山 たくさん あげるんだ」に接すると、こちらの二人こそ 英雄譚 に夢 中になり過ぎて、物語の世界と現 、 実 の区別がつけられないのだ、と苦言を 呈したくなるけれども、そう思うのは読み手のわたしの方がおかしいので、 折角のおもしろい物語に向かって教訓意識を振りかざす必要はない、とも 思う。それこそ子供らのように、夢中になって読み、彼らの無邪気な発想 を一緒に楽しめばいいわけだ。自戒のついでに、対話の終わりの「お母 つか さ んへは……」に行き着いて、ほっとするとともに、この言葉が「死 し んだや うに」立つ「母親 はゝおや の木 き 」に届いていたら、どんなによかったか、との想い に駆られることを、つけ加えておく。 「星 ほし がすっかり消 き えました」 と 語りだされ、 靴とパンをめぐる男の子た ちの、 「おっかさんに貰 もら った新 あたら しい外 套 がいたう 」 の 行く方をめぐる女の子たちの 対話を伝える第三場については、 すでに充分に触れたので、 彼らの二人 「一 いつ (ママ) 諸 しよ 」 に行動する姿勢がはっきりと示されている点を、 再確認するだけ でいい。 いよいよ来るべき トキ の来たことが告げられる第 四 すなわち 最 終の 場 面 では、 熱の「 東 ひがし の空 そら 」が「 ユラリユラリ と 揺 ゆ れはじめました」とあ って、立て続けにではなく、一 、 拍 「 突然 とつ ぜ ん 」と日の出に言 及 すること で、 語り手は、 読者に 臨 場 感 を 与 え、 そのトキ に立ち 会 う 緊迫 した 印 象 をもたらす。 絶妙 に 間合 いの 測 られた語りの手 際 のよさが、あらためて わたしの 注 意をひく。 次 に、 飛んで来た 「 光 ひかり の 束 たば 」が 当 たって、 「子 供 こど ら はまるで飛 と びあがる 位 くらゐ 輝 かが やきました」と語られるところにも、 眼 を向けて おく。 直 接には 北風 の 促 しによって親 樹 から 離 れる 直前 の、 「子 供 こど ら」 の 輝   それは 陽 ひ に 照 り 映 えた 実 たちの 金 いろの 肌 の 輝 きである とともに、子供らの 内 なる生 命 いのち の 輝 きでもあるに 違 いない。それらに 包 ま れた「 丘 おか の 上 うへ の一本 いつ ぽ ん いてふの木 き 」が「まるで死 し んだやうに」しかし 白 燃 えて 真 っ 直 ぐに立つ。 その姿はまたわたしの想 像 の 裡 うち に、 旅立ち 

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の機の熟したことを告げる表徴 しるし として、鮮やかにたつ。かくて、輝かせら れそしてみずからも輝いて、 旅の衣 をととのえた ( ) 子供らの許に、 「北 きた か ら氷 こほり のやうに冷 つめ たい透 す きとほった風 かぜ が」 、 自 分の出番とばかりに 「吹 ふ いて 来 き 」て、まずスターターの役割を果たしてから、 「さよなら、おっかさん」 と口々に叫んで「枝 えだ から飛 と び下 お り」た、旅立つ「みんな」の動きを「笑 わら っ て」見ながら、 「今年 こと し もこれでまづさよならさよならって云 い ふわけだ」と、 確認者の呟きを口にして、自分もこの場を去っていく。 そういう第四場前半の諸情況を伝える語り手は、 「……飛 と んで来 き ました」  「……輝 かが やきました」 「……吹 ふ いて来 き ました」 「……飛 と び下 お りました」 「…… 行 い ってしまひました」と、単純におなじ完了形の口調を繰り返す。そのた めに語りは軽やかなテムポで進行して、緊迫感を抱く読者に重苦しさを感 じさせないところが、 記憶されていい。 さらに、 「つめたいガラスのマン トをひらめかして」 去っていく 「 北 きた 風 かぜ 」 のイメジが 宮澤賢治の物語たち  の読み手の想いをおのずから、 「風の又三郎」 の物語空間にいざなうこと も、忘れられてはなるまい。いざなわれた想いはテクスト ( ) のページを繰 く っ て、次の個所を見いだすはずだ  「もう又三郎がすぐ眼の前に足を投げ だしてだまって空を見あげてゐるのです。い 、 つ いつもの鼠いろの上着の 上にガラスのマントを着てゐるのです。それから光るガラスの靴をはいて ゐるのです。 」(傍点引用者) 「いきなり又三郎はひらっとそらへ飛びあが りました。ガラスのマントがギラギラ光りました。ふと嘉助は眼をひらき ました。 灰いろの霧が速く速く飛んでゐます」 。 大人の 「北 きた 風 かぜ 」 と違って 「又三郎」 は少年だが、 どちらも 「ガラスのマント」 を着て、 宮澤賢治の 物語世界に姿を現わす。すると「又三郎」もまた北風なのかと思われる。 引用個所の終わりの語りが示すように嘉助少年の 夢 に登場する人物、 より正確には曠野で霧に迷い、道を失って「草の中に」倒れた彼の無意識 裡に現われた幻影にほかならない 風の又三郎 の原型、実在する高田三 郎は、最後に「やっぱりあいづは風の又三郎だったな」と叫ぶ嘉助の通う 学校に、 「北海道」 か ら転校してきた、 と いう。 そ れも 北風又三郎 の イメジ形成に役立っているだろう。しかも「又三郎」は、倒れて意識を喪 い、 危い目に遭おうとしていた嘉助のそばに腰を下ろして、 しばらく 「たゞ 小さな唇を強さうにきっと結んだまゝ黙ってそらを見て」 いたのち、 「い きなり」マントをひるがえして、 「そらへ飛びあが」った、という。彼は、 嘉助のなりゆきに心を留めて、大丈夫と見極めがついたので、その許を離 れたのに違いない。その在り様は、 「いてふの実」の「北 きた 風 かぜ 」、この確認者 に通じるところがあると言えるだろう。 おわりに 「風の又三郎」 そのものをたず ね る 旅 は、 別 の機 会 に 譲 って、 第四 場の後半、 「いてふの実」 の最終情 景 にひと言 触 れておきたい。 そこで、 「 東 ひがし の空 そら 」 か ら 「あらんか ぎ りのかゞやき」 を 母 と 子供たち に 恵 む 「お 日 様 ひさ 」 の姿はわたしに、 玉座 ぎ よくざ に 座 すわ っておられる 方 かた 、「 ヨハネ の黙 示 録 」に 「事 こと は成 就 じようじゆ した。 わたしは アルファ であり、 オ メガである。 初 はじ めであり、終 お わりである。 渇 かわ いている者 もの には、 命 いのち の 水 みず の 泉 いずみ から 価 あたい なしに 飲 の ませよう」 と告げる 唯一 の 神 かみ を ( ) 、想い 起 こさせる  ということを。 〔注〕 ( 1 ) ちくま 文庫版 。 一九八六 年三 月 第 一刷 。 本論 の「いてふの実」のテクス

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トは 『新校本 宮澤賢治全集 第八巻』 (筑摩書房、 一九九五年 五初 版第一刷)所収のものを使用した。引用中の傍点は筆者の付したもの。 ( 2 )「いてふの実」の項。 ( 3 ) 一九八六年五月 第一刷。 ( 4 )「おきなぐさ」の項。 ( 5 )「解説」では「虹とめくらぶだう」となっている。 ( 6 ) 前注の「解説」参照。 ( 7 )( 8 )( 9 )注 ( 2 ) に おなじく、 ち くま文庫版全集 5 の 「 解説」 の 「いてふの実」の項。 ( 10) テクストの総行数八四行のうち、対話が五三行を、語り手の語りが三一行 を占めている。 ( 11) 柳 宗玄/中森義宗編 『キリスト教美術図典』 (吉川弘文館、 一九九〇 九 第1刷) に 悲しみの聖母 L .Ma te rD olo ro sa . の項があって、 「頭を 垂れて落涙する聖母の頭首像、合掌する半身像がそれで、シメオンの預言 「あなた自身も剣で刺し貫かれます」 (ルカ2 : 35) に もとづき、 時には1 本から7本( 15世紀以後、七つの悲しみを示すために)におよぶ剣がその 胸を貫いたり、 剣 が光背のように描写されることがある。 」と 、解 説 さ れ ている。その用語と、あまりにも深い悲嘆のイメジとを、借りた。ちなみ にシメオンの預言は、 「ルカによる福音書」 (『聖書新共同訳』 )第二章二二 ~三五節に拠れば、主の律法に定められた 聖別 せいべつ を受けるため、両親に エルサレムの神殿に連れてこられた 幼子 おさなご イエスを 腕 うで に抱 だ き ながら、 伝えられたもので、彼は 神 かみ をたたえて まず 「主 しゆ よ、今 いま こそあなたは、 お言 葉 ことば どおり/この僕 しもべ を安 やす らかに去 さ らせてくださいます……」 と唱え、 両親と 幼子 おさなご に祝福を与えたのち、 母親 ははおや のマリアに 次のように告げ たという  「御 覧 ごら なさい。 この子 こ は、 イスラエルの多 おお くの人 ひと を倒 たお した り立 た ち上 あ がらせたりするためにと定 さだ められ、また、反対 はんたい を受 う けるしるしと して 定 さだ められています 。  あ 、 、 、、、 、 自身 じし ん も 剣 つるぎ で 心 こころ を 刺 さ し 貫 つらぬ か  多 くの人の心にある思いがあらわにされるためです」 (傍点引用者) 。す る と、 マリアは 母 になった直後から、 悲しみの母 たるべく定められ ていたことがわかる。その点からも、丘の「銀杏の木」を マーテル ド ロロサ に 比 して 差 し 支 えないのではなかろうか。 ( 12)『 若菜 集』 ( 島村藤村 )中の 詩 「 高楼 」の、よく 知 られた一節を、参照し た。その第一連に「かなし む なかれ/わがあ ね よ/た び のころもを/とと のえよ」 とある。 引 用は 『 現 代日 本文 学 全集 8 島 崎 藤村 集』 (筑摩書房、 昭和 二八年八月 発 行)に拠った。 ( 13)『新校本 宮澤賢治全集 第 十 一巻』 (一九九六 一 初版第一刷)所収の 「 風 の 又 三 郎 」の一九二 ペ ージ。 ( 14) 第二一章五~六節。 (えんどう たすく 元 本 学 教 授 )

参照

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