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ネーデルラント反乱をめぐる西ヨーロッパ国際関係、1559~1572年

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ネーデルラント反乱をめぐる西ヨーロッパ国際関係、

1559~1572年

山 田 慎 人

はじめに

16世紀後半のヨーロッパは、しばしば「宗教戦争の時代」1と呼ばれる。た しかに、この時期には、フランス、ネーデルラント、イングランド、スコット ランドなど西ヨーロッパの各地で宗教を大きな理由とする内戦や反乱が頻発し、 西ヨーロッパの国際関係もこれらの国内的混乱に反応する形で動いていく。あ る国や地域におけるカトリック派とプロテスタント派の争いの結果が、他の国 や地域における宗派や党派の間の争いに大きな影響を与えることは明らかで あったから、当然西ヨーロッパ諸国は他国の内部での争いに強い関心を持ち、 紛争は多かれ少なかれ国際化した。 しかしながら、一口に宗教戦争と言っても、宗教と内戦の関係がすべての国 において一様であったとは考えられない。一方で、すでに他の機会に検討した フランスの内戦に関して言えば、宗教は、カトリック派及びユグノー派の指導 者が政治的野心を達するための隠れ蓑にすぎず、この内戦を宗教戦争と呼ぶこ とは相応しくないという見方は、最近では力を失った。むしろ、共同体に秩序 を与える宗教の社会的機能に着目し、この機能を破壊したからこそ異端への憎 悪が生まれ残虐な殺し合いが発生したことを指摘して、この意味で内戦はあく までも宗教戦争であったとする見解が主流となっている。つまり、フランスの 宗教的内戦には、個々の人間の特定の宗派への信仰とそれを広めたいという個 人的な宗教的願望や、異端を共同体と社会秩序への敵であり撲滅されるべき存 在であると見做す大衆の心理、そして、異なる宗派間で教義上の妥協に達する ことの難しさなどの宗教的要因と、戦争に自分達の存在意義を見出す騎士階級 のメンタリティー、宗教対立を利用して自らの政治的地位を高めようとするカ

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トリック及びユグノー派の貴族の野心など非宗教的な要因が、複雑に絡み合っ ていたと言えよう2 しかし、他方で、この時期に発生したもう一つの重要な内戦であるネーデル ラントの反乱については、それが、北部ネーデルラントのカルヴァン派のオラ ンダ人が、カトリック教徒のスペイン人の支配から逃れるための、民族独立戦 争であり宗教戦争であったという、19世紀には主流であった「ホイッグ主義 的」な解釈は、現在では全く受け入れられていない。そして、特に宗教に関し ては、カルヴァン派及びそれに対抗する反宗教改革の支持者は共にごく少数で あり、大多数の人々は宗教的妥協を望んだのであって、内戦の原因、そして後 のネーデルラントの南北分離の原因として、宗教はそれほど重要でないと言う 見方が強くなっている3。後に見るように、むしろ重視されているのは、ハプ スブルク家の支配者が、中世的な地域の特権を無視したことであり、異端審問 に関しても、それが地域の伝統的自由を侵害する中央集権化の体制の一端を担 うと見做されたからこそ反対を受けたと説明される。本稿は、当時の西ヨー ロッパ各国の国内情勢に関して独自の視点を提示することは目的としない。し かしながら、当時の西ヨーロッパ国際関係を分析する前提として、それに大き な影響を与えたネーデルラントの反乱について、その概要を理解しておくこと は重要であろう。本稿の前半では、1572年に第 2 次反乱が勃発するまでのネー デルラントの反乱の経緯を概観する。 ここでネーデルラントの反乱が重要なのは、すでに述べたように、それが、 フランスの宗教戦争と並んで、16世紀後半の西ヨーロッパ国際関係に最も大き な影響を与えた出来事だからに他ならない。スペイン系ハプスブルク家にとっ て、ネーデルラントは経済的に重要であったのみならず、その南部国境とパリ の間の距離は短く自然の障壁もほとんど存在しなかったから、フランスを脅か しその行動を抑制する役割を持ち、自らの安全に不可欠なものだと考えられた。 逆にフランスの立場から見れば、ハプスブルク家によるネーデルラントの支配 は深刻な脅威であり、そこでの情勢にフランス国内の様々な勢力が強い関心を 持つことは当然であった。さらに、イングランドにとっても、海峡の対岸を誰 が支配するのかは、最大の安全保障上の関心事であった。ネーデルラントの将 来は、当時の西ヨーロッパ諸国の指導者達によって、地域の国際関係を決定づ ける最も重要な要因だと考えられていたと言ってよい。本稿の後半では、ネー

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デルラントの情勢を軸に、そこにフランスの宗教戦争やイングランドの王位継 承の問題などが絡み合った、当時の複雑な西ヨーロッパ国際関係を分析する。

第 1 章 ネーデルラント、1559年まで

1566年の反乱に至る数十年間のネーデルラントの状況を観察すれば、そこに 三つの大きな不安定要因が存在したことは明らかである。第一に、ハプスブル ク家による集権的支配の試みに対する地元貴族の反発、第二に、16世紀の前半 から半ばにかけて殆ど絶えまなく続いたハプスブルク家とヴァロワ家の戦いが 引き起こした財政的困窮、第三に、カトリック教会への不満である。 第一の点については、1515年以降40年にわたってネーデルラントを支配した ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール 5 世は、それまで各地の州の統治を任 せてきた地元貴族に代わって、大学で人文主義教育を受けた法律家を行政官と して重用した4。この動きは、ネーデルラント貴族のハプスブルク支配への不 満を生んだ。 次に、ハプスブルク = ヴァロワ戦争に関しては、初期の主戦場であるイタ リア半島においてハプスブルク家は1530年までに支配的地位をほぼ確立し、 1540~50年代の戦争では、北フランスやネーデルラントを舞台としイングラン ドも交えた、西ヨーロッパ北部での戦いが重要性を増した。この地域でのハプ スブルク側の最大の関心はネーデルラントの防衛であり、1554年のカールの長 男フェリペとイングランド女王メアリ 1 世の結婚も、ハプスブルク家の側では、 イングランドとネーデルラントの連合により、後者の防衛を高める意図を持っ た5。しかし、この戦争によって地域の財政負担は増大した。実際には、ネー デルラントからの税収はその防衛に十分でなく、スペインの資金が持ち出され ていたが、地元の人々は、ハプスブルク家の支配地で最も豊かな自分達の税が、 帝国の他の地域の防衛に使われていると頑なに信じて不満を募らせた6 さらに、地域の財政難は、集権化がある程度進んだといえ、いまだ各州を直 接統治する力を持たない中央政府が、財源確保のために地方に依存することを 余儀なくし、これは各州議会の発言権の強化と中央政府の弱体化に繋がった。 1556年に、前年の秋に父カールからネーデルラントの支配を受け継いだばかり

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のフェリペが、フランスとの戦争による財政危機から脱するために増税を要求 した際に、全州の代表が集まった議会はこれを拒否し、 2 年後に増税に応じた 際にも、税の徴収や管理を州が行うという条件を、フェリペに受け入れさせた7 翌1559年、フェリペはまさに財政的困窮を主な理由として、同じく財政的に 疲弊していたフランス国王アンリ 2 世との和平に達した。和平後にフェリペが 解決すべき最大の問題は、1555年秋に父からその支配を受け継いで以来殆どの 時間を過ごしてきたネーデルラントに留まるか、あるいは、それ以前の時期に 父の摂政として統治を担ったスペインに帰還するかであった。 ネーデルラントに留まることが望ましい理由としては、そうすることで、長 期の戦争によって高まった人々の不満を鎮める必要に加えて、本章の冒頭にあ げた第三の不安定要因である、地域の危機的な宗教状況があった。ネーデルラ ントでは、1490年代以降のキリスト教人文主義の広まり、特にエラスムスの著 作の影響により、すでに16世紀初頭には、ルターの出現を待たずして、カト リック教会は人々の支持を失っていた。エラスムスは、教会の儀礼主義を批判 し、個人と神の直接の対話の重要性を説いたが、彼の考えが広くネーデルラン トの人々に受け入れられたことは、1519年以降ルターの教えが広まる下地と なった8。ルターの教えの急速な広まりに対して、フェリペの父カールは、 1522年にネーデルラントに異端審問所を設置し、知的エリートを主な標的とし て、プロテスタント教徒の厳しい迫害を行い、表面的にはプロテスタンティズ ムの抑圧に成功した。しかし、多くの人々のカトリック教会への服従は表面的 なものにすぎず、1550年代末には、各地で教会を訪れる人々の数も急激に減少 し、フェリペ自身、教会改革の必要性を強く認識するようになった9 また、対外的にも、1558年11月にフェリペの妻メアリ 1 世が死去した後の不 安定なイングランド情勢に対処するために、北方での滞在が望ましかった。 フェリペは、後継者として、メアリの異母妹でプロテスタント教徒のエリザベ スを支持した。その理由は、もう一人の有力な候補者である、エリザベスの姪 でカトリック教徒のスコットランド女王メアリ・ステュアートが、フランスの 強い影響下にあったことである。メアリ・ステュアートの母マリは、後にフラ ンスの内戦においてカトリック派のリーダーとして活躍する有力貴族ギーズ公 フランソワの妹であり、メアリ自身、1558年 4 月にフランスの王太子フランソ ワと結婚した。彼女がフランスの支援を得てイングランド王位についた場合、

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ネーデルラントの防衛が難しくなることが危惧された10 しかしながら、フェリペ自身はいまだその深刻さを理解していなかったとい え、長期の戦争による疲弊という点では、北ヨーロッパでの戦争を財政的に支 え続けたスペインも同様であり、スペインの摂政政府は、フェリペの帰還を強 く要求した。また、対外的にもスペインは、1551年以降のイスラム勢力との北 アフリカ沿岸部の支配をめぐる争いでトリポリやブジを奪われるなど、劣勢に 立たされた。フェリペ自身は、地中海のイスラム海軍や私掠船がスペインの安 全に深刻な脅威を与えると考えず、この時点では、いまだ地中海のイスラム勢 力の危険を重視しなかったが、摂政政府はフェリペが自らこれに対処すること を望んだ11 結局、フェリペは1559年 9 月にスペインに帰還した。もっとも、この決定は、 フェリペがネーデルラントを軽視していたことを示すものではない。フェリペ がスペイン帰還を決めた一つの大きな要因は、スペインの財政を立て直してそ の資金を注入する以外に、ネーデルラントの財政状況を改善し、支配を維持す る手立てはないという認識であった12

第 2 章 ネーデルラント、1559~1565年

フェリペのスペインへの帰還がネーデルラント軽視の証しでなかったとして も、彼がネーデルラントに残した新たな統治体制は、父カールの時代からの集 権化の流れに沿うものであり、地元の不満をさらに高めた。フェリペは、異母 姉パルマ公妃マルハレータをネーデルラントにおける自らの摂政として総督に 任命しながら、オランイェ公ウィレムをホラント、ゼーラント、ユトレヒト 3 州の総督に、エフモント伯ラモラールをフランドル、アルトワ 2 州の総督に任 命し、ネーデルラント統治の最高機関である会議のメンバーに加えるなど、ハ プスブルク家に忠実に仕えてきたネーデルラントの有力貴族を形の上では優遇 した。しかし、実際には、これら有力貴族あるいはマルハレータにすら政治的 な決定権を与える意図はなく、自らの寵臣であるフランシュ・コンテの平民階 層出身の法律家グランヴェルに実権を与えて、集権的な行政機構による統治を 試みた。このやり方は、当然のことながら、オランイェ公ら地元貴族の反発を

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招いた。グランヴェルは、司法行政や教会の一部をコントロールし、一部の反 オランイェ派貴族の支持も得たが、オランイェ公ら大貴族層は、各州のさまざ まなレベルに張り巡らされたパトロネージのシステムを通じて、いまだネーデ ルラント社会の隅々に多大な影響力を保持していた13 この対立に、もう一つの重要な摩擦の種である宗教問題が絡んだ時、ハプス ブルク家の統治体制と地元貴族の対立は、さらに激しさを増すことになる。 ネーデルラントの教会改革の必要性を強く感じていたフェリペは、1559年まで に改革の大枠についてローマ教皇と合意に達し、1561年以降実行に移した。そ の概要は、それまでハプスブルク領ネーデルラントに四つしかなかった司教座 を新たに11設けて、適切な教育を受け熱意に満ちた人材を聖職者として任命す ること、そして、なかでも新設するメヘレンの大司教座にネーデルラントのカ トリック教会の主席司教の地位を与えて、グランヴェルを任命することなどで あった。 この計画は、単なるプロテスタント教徒の弾圧を超えて、カトリック教会を 腐敗と停滞から目覚めさせ再び活性化させることを意図した野心的なもので あった。しかし、教会の人事を自分達のパトロネージ・システムの一部とみな す地元貴族層や、従来の教会組織から経済的利益を受けてきた聖職者層は、計 画に強く反発した。さらに、新たな教会組織を異端審問の強化のために使うと いうフェリペの政策も、それを集権化の試みの一端とみなす貴族達や、プロテ スタント教徒との貿易への影響を恐れるアントウェルペンのような商業都市か ら、強い反対を受けた。フェリペの教会改革は、各地で、それを彼らの伝統的 特権への侵害とみなす貴族や都市住民、従来の聖職者層の反対と妨害を受け、 全く進展しなかった14 このように、ネーデルラントのさまざまな勢力が、フェリペの教会改革に団 結して反対した状況は、オランイェ等有力貴族に、グランヴェルの手から実権 を奪い返す、絶好の機会を与えた。オランイェ、エフモント、そしてホールネ 伯フィリップ・ド・モンモランシという 3 名の大貴族は、数多くの他の中小貴 族を従えて、1563年 3 月にグランヴェルの罷免を要求した。 ただし、この状況はいまだネーデルラント貴族の反乱と呼べるものではなく、 むしろ、ハプスブルク家の臣下の間での権力闘争と呼ぶにふさわしい。事実、 グランヴェルとネーデルラント貴族の対立は、スペイン宮廷内部の派閥争いと

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結び付く形で展開した。フェリペ帰還後のスペインの宮廷では、カールの時代 からハプスブルク家に仕え、当時ヨーロッパで最も高名な軍人であったアルバ 公フェルナンド・アルバレス・ド・トレードと、王の侍従長であり会計長官で もあったエーボリ公ルイ・ゴメス・デ・シルバが、二つの対立するグループの リーダーとして、影響力を競った。アルバはグランヴェルと関係が深かったば かりでなく、ネーデルラントでの妥協に反対し、カトリック化の政策も支持し た。これに対して、フェリペのイングランドやネーデルラント滞在にも従った エーボリは、各地で有力者との人的ネットワークを作り上げ、その人脈には、 エフモントを含むネーデルラントの有力貴族も含まれた。エーボリや彼の派閥 に属したフェリペの秘書官フランシスコ・デ・エラソは、アルバ派のグラン ヴェル追い落としのため、フェリペに対して、エフモントやオランイェの要求 を受け入れるよう働きかけた。 アルバの反対にもかかわらず、フェリペは1564年初頭にグランヴェルにネー デルラントを去るよう命じた15。この背景には、宮廷において優越した影響力 を誇ったエーボリ派の寵臣達の圧力に加え、フェリペが地中海におけるイスラ ム勢力との戦いに力を奪われたことがある。1560年には、トリポリ奪回のため にチュニジア沖のジェルバ島に停泊していた艦隊が、オスマン艦隊の攻撃を受 けて撃破され、 1 万とも言われる兵士が降伏して捕虜になるという屈辱的な敗 北を喫した。1562年には、嵐によってスペインのガレー船25隻がマラガ沖で失 われ、さらに、まさにグランヴェルの罷免が要求された1563年には、アルジェ リアのイスラム教徒の海賊が、スペイン支配下のオランを包囲した16 グランヴェルが1564年 3 月にネーデルラントを去ると、地元貴族達は要職を 独占し、マルハレータと協力してネーデルラントの統治にあたるようになった。 すでに見たように、オランイェらネーデルラント貴族の目的は、グランヴェル に象徴されるような行政官達から実権を奪い返すことにあり、これはむしろ復 古的な動きであった。彼らにはフェリペの主権や権威を破壊する意図はなく、 むしろフェリペの保護の下で自分達の伝統的な政治的優越が維持されることを 望んだ。オランイェは、ネーデルラント諸州は自らの意思で国王の許可なく州 議会を開催できるとホラント州が主張した際に、これに強く反対した17 もっとも、1560年代前半におけるカルヴァン派の急速な広まりは、単なる過 去への回帰を不可能にした。カールの時代から続く迫害によって、ネーデルラ

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ントには、少数の再洗礼派を除けば、明確に組織されたプロテスタント教会は 長く存在しなかった。しかし、迫害は、穏健な福音主義を信奉したにすぎない 人々を、内面的なカトリック教会への不服従や、イングランドやドイツのプロ テスタント諸邦への亡命に追いやり、長い目で見れば逆効果であった。イング ランドでは、1553年のメアリ 1 世の即位後、亡命者達はドイツへ逃れることを 強いられたが、1558年にエリザベス 1 世が即位すると、イングランド各地での 教会の設立を許された。亡命者の多くは、1520年代に一度ネーデルラントに広 まったルター派ではなく、カルヴァンの教えを信仰した。カルヴァン派の、救 済は人間の意思ではなく神の恩恵に基づくという予定説と、規律の重視は、厳 しい亡命生活の中で力を合わせて生きていかねばならない彼らの必要性を、最 もよく満たすものであった。さらに、1562年にフランスで宗教的内戦が勃発す ると、ユグノーと呼ばれるフランスのカルヴァン派が南部のワロン諸州に亡命 し、教会組織を設立した。多くの地方当局はこれを取り締まらず、この状況は ネーデルラントのカルヴァン教徒にも刺激を与え、各地で信徒の組織が形成さ れていった18 こうして宗教的分裂が深まる中、ネーデルラントで最も豊かで影響力のある 貴族であったオランイェは、自分を中心とする大貴族層が、宗教的妥協の調停 者、宗教的な寛容と平和の保証者となることに自分達の新たな役割を見出し、 またそうすることによって、自分達の政治的優越を維持しようと考えた。1533 年にドイツ中西部ナッサウの小貴族の子として生まれたオランイェは、両親を 含めプロテスタントに改宗した多くの親類を持った。彼は、ネーデルラントに 広大な所領を持ちフランス南東部オランジュ公国の支配者でもあった従兄が 1544年に死去した後、彼の遺産を受け継いでハプスブルク領ネーデルラントで 最も裕福な貴族となり、カール 5 世の命により宮廷でカトリック貴族として育 てられたが、宗教的寛容に大きな関心を示した。1561年に、カールの時代に活 躍したドイツのプロテスタント派の指導者ザクセン選帝侯モーリッツの娘アン ナと結婚して、宗教的妥協の精神を身をもって示したオランイェは、いかなる 信仰上のスタンスにも強いコミットメントを示さない典型的な所謂ポリティー クであった19 グランヴェルがネーデルラントを去った後、フェリペの譲歩に自信を深めた オランイェは、エフモントやホールネと協力しながら、より声高に宗教的寛容

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を主張するようになる。1564年末には、自分達の政治的権限の強化と反異端法 の緩和を要求するため、エフモントがスペインに赴くことを決める。エフモン トは1565年 1 月末にブリュッセルを去り、 2 月下旬にマドリッドに到着して、 4 月初めまでそこに滞在した。 フェリペは、一切の教会改革の必要性を認めない旧式の教会の擁護者ではな かった。彼は、すでに見たように、1560年代初頭にネーデルラントの教会改革 の計画を実行しようとし、さらに、1564年には、前年末に閉会したトリエント 公会議において合意された、聖職者の規律の強化や教育を含む包括的な教会改 革案をすべて受け入れることを表明し、スペインにおいてそれを熱意を持って 実行した。彼の目的は、改革によって教会への人々の不満を取り除き、異端を なくすことであった20。また、フェリペは、イングランド滞在時に、妻のメア リ 1 世によるカトリック化の政策が政治的不安定につながることないようそれ を抑制しようとしたように、場合によっては、宗教的妥協の必要を認めた。し かし、彼は、信仰と政治的忠誠には深い関係があると考え、少なくとも自らの 統治するハプスブルク家の世襲領においては、異端と妥協するつもりはなかっ た21。フェリペは、ネーデルラント貴族の要求は、宗教問題における妥協が政 治的不服従につながるという自らの信念を、まさに証明していると考えた。彼 は、エフモントの到着した1565年以降、ネーデルラント貴族との妥協を説く エーボリ派の側近を退け、アルバやグランヴェルなど強硬派を重用するように なる。 しかしながら、エフモントがマドリッドに到着した時、フェリペは、オスマ ン海軍がマルタ攻撃に向かうという情報への対応、そして、春に予定された妻 エリザベートと彼女の母でフランスの王母カトリーヌ・ド・メディシスとの会 談の準備に追われ、いまだネーデルラントの状況に本格的に対応する余裕はな かった。彼は、エフモントの要求に明確な返答を与えず、問題の引き延ばしを 図った。しかし、宮廷における自らの丁重な扱いに感銘を受けたエフモントは、 フェリペの意図を完全に誤解し、ブリュッセルに帰還した際に、フェリペは彼 の要求を受け入れることを口頭で約束したと報告した。この報告がもたらした ネーデルラント貴族の幻想は、 5 月末に、 6 名の再洗礼派の処刑を命じるフェ リペの手紙がブリュッセルに到着した際に、打ち破られることになる22。さら に、スペイン海軍が1565年 9 月にオスマン海軍による攻撃を受けたマルタの救

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援に成功したことにも助けられ、フェリペは10月に政治的役割の増大と反異端 法の緩和に関するネーデルラント貴族の要求を明確に拒否する指示を、マルハ レータに送った23

第 3 章 ネーデルラントにおける第一次反乱、1566~1567年

異端へのフェリペの態度を十分に理解していなかったネーデルラントの貴族 達は、フェリペのマルハレータへの指示に驚き、また強く反発した。ブレーデ ローデ伯ヘンドリックを筆頭に、400名にも上る中小貴族が、異端審問の中止 を要求する請願に署名した。オランイェら大貴族はこの請願に署名しなかった が、反異端法の遂行は不可能であるとして、それに従うことを拒否した。請願 に署名した貴族のうち約200名は、1566年 4 月 5 日、武装したままマルハレー タの面前に現れ、請願を手渡した。 抵抗の術を持たないマルハレータは、すぐさま反異端法の緩和に同意し、異 端による公の集会は禁じながら、私的な信仰の故に彼らを処罰することはしな いと約束した。マルハレータが自分達の支持に完全に依存していることを知る オランイェら大貴族は、支持取り下げの脅しをかけて、さらなる政治的譲歩を 得ようと試みたが、時を経ずして、状況のコントロールを失う。ネーデルラン ト各地で政府の権威が崩壊するなか、亡命カルヴァン教徒がフランスやイング ランド、ドイツから帰国して公に布教活動を行い、カルヴァン派は短期間に爆 発的に勢力を拡大した。既存の教会に見捨てられたと感じていたネーデルラン トの人々は、いとも簡単に説教師による改宗を受け入れた。勢いづいたカル ヴァン教徒は、 8 月に、各地のカトリック教会で聖像破壊を行った。 宗教的妥協を望み、聖像破壊に秩序崩壊の危険を見た多くの貴族は、マルハ レータとの協力を再開し、 8 月23日の協定によって、すでにプロテスタント信 仰が実践されている地域では、それを認めることが決定された。その後、オラ ンイェやエフモント、ホールネは各地で精力的に活動し、カトリックとプロテ スタントの共存を図る都市ごとの協定を成立させていった。彼らの中道的政策 が、マルハレータとカルヴァン派の双方に歓迎されなかったことは、後の展開 を予見させるものである。一方で、マルハレータは、各地の協定がプロテスタ

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ント教徒に都市の内部でも礼拝を許可したことは過剰な譲歩であると反発し、 協定を認めなかった。他方で、多くのカルヴァン派も妥協を好まず、北部で聖 像破壊を続け、年末には一部の都市を占拠して、政府に対して公然と反旗を翻 した。 マルハレータと、1560年代前半の混乱を通じて総督政府側についた一部の ネーデルラント貴族は、軍を組織し、反乱派の鎮圧を開始する。この時点です でにオランイェは反乱派を自ら率いることを考えたようだが、エフモントや ホールネを含め、貴族の大部分の支持を得られないことを悟り、断念した。 1567年春には、フェリペ自身がネーデルラントに来るという知らせが伝わり、 これによって、オランイェを始めとする大貴族は政府側について反乱の鎮圧に 参加した。反乱派の指導者であったブレーデローデや、カルヴァン派の説教師 は国外に逃れ、各地でプロテスタントの教会は閉鎖されて、多くの一般の信徒 はカトリックへ復帰した24

第 4 章 アルバの弾圧、1567~1572年

1567年の春に、摂政政府がネーデルラント貴族の支援を得て秩序を回復する ことに成功した最大の要因は、フェリペが自らネーデルラントに赴くという ニュースであった。16世紀は、君主が人々の忠誠を維持するために、その土地 に住むことがきわめて重要だと考えられた時代であり、実際に誰もが、フェリ ペのネーデルラント滞在が、地域の安定のために決定的に重要であると考えた。 この点では、宗教的寛容を主張したネーデルラントの名門貴族達も、反対した グランヴェルのような保守派も、意見が一致していた。そして、彼らは共に、 フェリペが軍隊を引き連れずにネーデルラントに向かうことが重要であると考 えた25。しかし、フェリペは、地中海でのイスラム勢力との戦いをはじめ他の 問題への対処に追われ、ネーデルラント行きが実現しないままに1566年の反乱 に至る。これまで問題を引き延ばしてきたフェリペは、事ここに至って、もは や兵力を伴わない自らのネーデルラント行きには意味がないと考え、1566年の 秋、まず強力な軍をネーデルラントに派遣して安全を確保し、その後自らが ネーデルラントに赴くことを決めた。 9 月にスレイマン 1 世が死去し、オスマ

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ン帝国が混乱に陥ったことは、フェリペにネーデルラントの問題に対応する絶 好の機会を与えると思われた。11月末、フェリペはアルバを司令官に任命し、 アルバは翌1567年 6 月にロンバルディアに集結した 1 万のスペイン兵を引き連 れてアルプスを越え、 8 月 3 日にネーデルラントに到着した26 アルバはブリュッセルに到着するや否や騒擾評議会という特別法廷を設立し、 9 月 9 日に、ブリュッセルに呼び出したホールネやエフモントを逮捕した。自 分の腹心であったホールネやエフモントの逮捕に怒ったマルハレータは辞任し、 アルバを総督に任じてネーデルラントを去った。騒擾評議会は、その後数年の 間に、1566~ 7 年の反乱にかかわった者 1 万 2 千名以上を裁き、うち1000名以 上を処刑し、9000名近くの人々の財産のすべてか一部を没収した。身の危険を 感じてドイツに逃れたオランイェなど亡命者も欠席裁判によって有罪を宣告さ れ、ネーデルラントにおけるすべての財産を没収された27 亡命貴族の処罰は、彼らを必然的に反乱に追いやった。オランイェは、他の 亡命者やドイツの新教諸侯、フランスのユグノーなどと連携を図りながら、 1568年の初旬から夏にかけて、フランスのユグノー軍による南ネーデルラント への侵入、イングランドへの亡命者によるフランドル攻撃、ドイツで組織され た軍隊によるネーデルラント南東部と北東部への攻撃という多方面からの攻撃 を仕掛けたが、連携の悪さと、ネーデルラントの都市が全く呼応しなかったこ とにより、失敗に終わった。10月には、オランイェ自身が 3 万の兵を率いてフ ランスからブラーバントに進撃するが、アルバの軍隊によってブリュッセルへ の進路を塞がれ、11月末にはフランスに撤退した。これらの攻撃の一つの帰結 は、 6 月に、オランイェのかつての盟友エフモントとホールネが処刑されたこ とである28 反乱軍の撃退により、フェリペ滞在の前提となる、地域の安定は達成された。 しかし、フェリペは、 1 人息子カルロスの健康及び精神状態の悪化と1568年 7 月の死、スペインの摂政に任命するはずだった妻エリザベートの10月の死と相 次いで不幸に見舞われ、さらに、12月にはグラナダのモリスコの反乱が発生し たことによって、スペインを離れられなくなる29 さらに、恒常的な多方面での軍事的コミットメントにより、フェリペにはア ルバを財政的に支える余裕もなかった。財政的に困窮したフェリペは、すでに 1568年、兵士への支払いを含めたネーデルラント統治の多額の費用を地元で調

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達するよう、アルバに命じた。この指示に従い、アルバは1569年に全州の身分 制議会を招集して、新税への合意を求めたが、議会は一時的な税のみ承認して、 アルバの恒久税の要求を拒否し、代わりに、 2 年の間だけ、彼らの監視のもと 一定額の税を納めることを申し出た。この 2 年が過ぎた1571年、アルバは、地 元の反対を無視して、恒久税の徴収を開始すると宣言した。しかし、新税の徴 収は遅れ、1571年末に、アルバは財政的困難に陥ってフェリペの援助を求める。 これに対して、モリスコの反乱と1571年10月のレパントの戦いに至るオスマン 帝国海軍との東地中海での戦いによる財政的困難に自ら直面していたフェリペ は、地元の反対を押し切って新税の徴収を急ぐことをアルバに指示した。アル バは、1572年 3 月、新税に反対して商売を止めていたブリュッセルの商店や商 人のところに軍隊を派遣したが、納税者は抵抗を続け、全く徴税は進まなかっ た。議会の同意なしに新たな税を導入しないというネーデルラントの伝統的特 権の侵害に強く反発するエノー、アルトワ、フランドル、ブラーバントなどの 州議会は、抗議のためにスペインに使節を派遣した。アルバの強権的なやり方 への不満は高まり、反乱の危機が感じられた。このような状況で、 4 月 1 日に、 イングランドに亡命していた「海乞食」を名乗るカルヴァン教徒の一団が、 マース川河口の港町ブリーレを占領し、これを機にアルバによる新税導入への 不満が高まっていたネーデルラントの各地に反乱が広まっていく30

第 5 章 ネーデルラントをめぐる国際関係、1567年まで

1572年の第 2 次反乱は、1566年の第 1 次反乱と比べてはるかに深刻であり、 その後一度も完全に鎮圧されることなく後のオランダ独立につながっていく。 ここまでの検討からも、フランスやイングランド、ドイツなどヨーロッパ各地 のカルヴァン教徒の国際的ネットワークの存在や、地中海におけるスペインと イスラム勢力の戦いなど、さまざまな国際的な出来事とのつながりを考慮する ことなしに、ネーデルラントの情勢を理解できないことは明らかである。ここ で、反乱の国際的な背景、そして、反乱が与えた国際的な影響について検討し ておこう。本章では、アルバがネーデルラントに到着するまでの状況を概観す る。

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ネーデルラントの情勢は、当然のことながら、フランスやイングランドなど 西ヨーロッパの周辺諸国にとっても、大きな関心の的であった。まずフランス に関して言えば、ネーデルラントにおける異端の増大と宗教的不安定は、同様 の問題を抱えるフランスとスペインに、異端増加への対処という共通の課題と 共通の利害を与え、また、両国の指導者の関心を内向きにすることによって、 両国の伝統的な敵対関係を抑制する効果を持った。例えば、フランスの第 1 次 宗教戦争が終結して 2 年後の1565年、フェリペの妻エリザベートとその母カト リーヌ・ド・メディシスがバイヨンヌにおいて会談を持ったことは、スペイン 系ハプスブルク家とヴァロワ家が共に国内的困難に直面する状況で、友好的な 関係を維持することが望ましいと、両家共に考えていたことを示している。 しかし、国内の宗教問題へのフェリペとカトリーヌの対応は大きく異なり、 このことは両国の間に摩擦を招いた。フランスの実質的な支配者であるカト リーヌ・ド・メディシスは、宗教的寛容の政策によって新旧両派の間で宗教的 平和を維持しようと試みた。第 1 次宗教戦争を終結させたアンボワーズの王令 は、上級裁判権を持つ貴族の領内に限られるとはいえカルヴァン派に自由な礼 拝を認め、これには当然のごとくカトリック教徒が強く反発したが、カトリー ヌと国王シャルル 9 世は、1564年 1 月から 2 年以上かけてフランス各地を旅し、 各地の高等法院に王令を承認させるための所謂「フランス大巡幸」を行った31 しかしながら、フランスにおける異端の存在がネーデルラントのカルヴァン派 を勢いづけることを恐れたフェリペ 2 世は、当然このような政策を好まなかっ た。フェリペは、バイヨンヌでの会談にアルバを派遣して、アンボワーズの王 令の廃止を迫ったが、カトリーヌはこれを拒否した32。フェリペとカトリーヌ の宗教問題における相違は、1560年代にはいまだ深刻な対立を招かなかったが、 後にネーデルラントの反乱が手に負えなくなるにつれて、フェリペはフランス 内政への介入を強めていくことになる。 また、宗教問題の深刻化にかかわらず、両国の国際的対立が消滅したわけで はない。なかでも一番大きな問題は、スコットランド女王メアリ・ステュアー トとヴァロワ家の繋がりであり、ここでもう一つの西ヨーロッパの主要国イン グランドの存在が重要になってくる。イングランドでは、1558年11月にフェリ ペの妻メアリ 1 世が死去し、プロテスタント教徒の異母妹エリザベスが王位に 就いた。イングランドの王位継承権を持つ者の中で、次に有力であったのは、

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エリザベスの父ヘンリ 8 世の姉マーガレットの孫にあたるスコットランド女王 メアリ・ステュアートであったが、先にも触れたように、彼女の母は、フラン スの有力貴族でありカトリック派の指導者であるギーズ公フランソワの姉マリ であり、メアリ自身フランス王太子フランソワと結婚し、1559年の夫の即位に よってフランス王妃となった。フランスが、イングランド国内のカトリック教 徒と組んで、メアリのイングランド王位への野心を後押しする可能性は、エリ ザベスのみならず、フェリペ 2 世も脅かした。フランスの強い影響下にある人 物がスコットランドとイングランドを支配する状況は、ネーデルラントの安全 にとって好ましくないと考えたからである。フェリペは、ネーデルラントやフ ランスにおける反異端の政策にもかかわらず、プロテスタント教徒のエリザベ スをカトリックのメアリ・ステュアートに対して支持した。実際に、1559年に、 フランスに滞在したメアリの摂政としてスコットランドを統治した母マリ・ ド・ギーズの政府に対するプロテスタント貴族の反乱が発生し、仏英両国が軍 事介入して戦争の危機が発生した際に、フェリペはイングランド寄りの態度を とってフランスに圧力をかけ、反乱派の勝利とスコットランドにおけるフラン スの影響力の喪失を事実上承認した1560年 7 月のエディンバラ条約の締結に寄 与した33 もちろん、イングランドのプロテスタント寄りとも見える外交政策が、スペ インとの摩擦を招かなかった訳ではない。例えば、ネーデルラントからは、宗 教的弾圧を逃れて、数千人の毛織物職人がイングランドに亡命したが、枢密院 は、イングランドの職人に技術を教えるという条件で、ノーウィッチやコル チェスター、カンタベリー等への定住を許した。この結果、新教徒に避難所が 与えられたのみならず、これまで仕上げ前の毛織物のネーデルラントへの輸出 地であったイングランドで高級毛織物の生産と輸出が増加し、フランドルやア ルトワ、ブラーバント等の独占的地位を脅かすようになる。このことは、イン グランドとハプスブルク領ネーデルラントの間に、経済的な摩擦を引き起こし た34 また、1562年にフランスで宗教的内戦が勃発すると、イングランドの私掠船 団が、英仏海峡においてフランスのカトリック派のみならずスペインやネーデ ルラントの船舶を攻撃し、莫大な被害を与えた35。エリザベス自身も、フラン スのユグノー勢力と同盟を締結して、カレー返還の約束と引き換えにル・アー

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ヴルに出兵し、フランスにおける新教徒の勢力拡大がネーデルラントの宗教的 混乱を悪化させることを恐れるフェリペの反発を買った36。さらに、すでに見 たように、1561年以降フェリペとグランヴェルはネーデルラントの教会改革の 計画を実行に移そうとしたが、イングランドの商人が一部の地域で地元の人々 の反対を後押ししていることに苛立ちを覚えたグランヴェルは、ネーデルラン トへのイングランドの毛織物の輸入を禁止した。これに対して、エリザベスは 即座にネーデルラントからのすべての輸入を禁じ、イングランド以外の国の船 によるイングランド産品の輸出も禁じたが、ネーデルラント政府は、イングラ ンドの船舶に対しても港を閉じることで報復した。この禁輸が解かれたのは、 グランヴェルが罷免された後の1564年11月のことであった37 このような対立は、貿易を多角化することによってアントウェルペンへの依 存から脱しようとする、エリザベスの政府の努力を促進した点で重要である。 例えば、イングランドは北ドイツを通じた貿易ルートの開拓を試み、1564年に エムデン、1567年にはハンブルクと貿易協定を締結した38。さらに、エリザベ スは、ジョン・ホーキンズの新大陸との密貿易にも支援を与えた。ジョン・ ホーキンズは、すでに1562年に、一回目の新大陸への航海に成功していた。彼 は、スペインの南米植民地が労働力不足に苦しんでいること、そして、スペイ ン海軍の主力が地中海でのイスラム海軍との戦いのためのガレー船であり、大 西洋での遠洋航海には適さず、他国の船舶による南米植民地との貿易を十分に 取り締まれないことに目を付けて、西アフリカの黒人奴隷を南米に運び、現地 で買った南米の産品をイングランドに持ち帰って売るという貿易を考え付いた。 1564年のホーキンズの二回目の航海にはエリザベスも出資したが、これはスペ インの知るところとなり、両国の新たな摩擦の種となった39 しかし、経済摩擦はいまだフェリペのイングランド重視の外交政策を変える に至らなかった。この点では、そもそもユグノー支援よりもカレーの回復に関 心があったイングランド政府が、ル・アーヴルのイングランド軍にコンデ親王 率いるユグノー軍との合流を禁じたことも重要であろう40。フランスの内戦は 1563年 3 月に一度終結し、先に見たように、フェリペは、王母カトリーヌの宗 教的寛容の政策を嫌って、異端弾圧の必要をフランスに対して説いたが、フェ リペの外国におけるカトリック派支援の態度は、いまだイングランドに及ばな かった。1560年に夫フランソワ 2 世が死去した後スコットランドに戻ったメア

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リ・ステュアートは、1565年にカトリック教会の共通の敵と戦うためにフェリ ペの援助を求めたが、フェリペは、スペインの支援はスコットランド内部に限 られること、エリザベスの存命中はイングランド王位を請求すべきでないこと、 そして、フランス軍の支援を要請すべきでないことを、メアリに明確に告げた41 このように、1560年代の半ばまで、宗教問題は、ハプスブルク家とヴァロワ 家の歴史的な敵対関係をある程度抑制するなど、西ヨーロッパの国際関係に一 定の影響を与えたが、ハプスブルク、ヴァロワの 2 大勢力の対立、そしてその 狭間でイングランドがハプスブルク側と手を組むことで相互の安全を高め合う という基本構図に根本的な変化はなかったといえる。1567年のアルバのネーデ ルラント行きは、この構図に大きな衝撃を与えることになる。

第 6 章 ネーデルラントをめぐる国際関係、1567~1572年

アルバのネーデルラント行きは、まず、フランスにおける宗教的和平を破壊 した。アルバ率いるスペイン軍がフランス東部国境沿いに北上したことは、当 然のことながらフランス政府の警戒を招いた。カトリーヌとシャルル 9 世の宗 教的寛容の政策にフェリペは強く反対しており、スペイン軍がギーズ派支援の ためにフランスに軍事介入することを危惧した政府は、1567年 5 月にスイス傭 兵を雇い、万が一の場合に備えた。しかし、この動きは、1565年のカトリーヌ とアルバの会談において、フランスとネーデルラントにおける新教徒撲滅の協 力が約束されたと疑うユグノーの不安を高めた。コンデ親王やコリニー提督ら ユグノーの指導者達は行動を決意し、1567年 9 月にパリ南方を移動中であった 宮廷を急襲した。カトリーヌとシャルル 9 世はスイス傭兵の援護を得てパリに 無事帰還するが、これを機にフランスは第 2 次宗教戦争に突入した。この戦争 は、両軍の財政的困難から、翌1568年 3 月のロンジュモーの和約によって終結 する42 この和約は、宗教的寛容の政策を継続するもので、カトリック教徒の怒りを 買ったが、前年の 9 月に信頼していたユグノー貴族に不意をつかれたことに激 しい怒りを覚えたカトリーヌとシャルル 9 世は、寛容な和平によってユグノー 派を油断させて武装解除させ、不意をついて攻撃する意図であったとも言われ

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る。実際に、和平後には融和政策の主導者であった大法官ミシェル・ド・ロピ タルが失脚して、ギーズ一門が政府内での影響力を拡大し、その間各地では、 ロンジュモーの和約に反してカトリック教徒の同盟組織が結成された。折しも ネーデルラントではアルバが厳しい弾圧を行っており、カルヴァン派は異端撲 滅のための国際的な連携を疑った。身の危険を感じたコンデ親王やコリニー提 督は、1568年 9 月にフランス西部のラ・ロシェルに逃げ込んで籠城し、ここに 第 3 次宗教戦争が始まる43 このような展開は、イングランドにも大きな衝撃を与えた。イングランドに とって、ハプスブルク家との伝統的な友好関係は、フランスによる英仏海峡対 岸の完全な支配を防ぎ、その軍事的脅威を牽制し抑制するためには、ハプスブ ルク家によるネーデルラントの領有が望ましいという認識の上に成り立ってい た。しかし、フランスが内戦で弱体化する中、当時ヨーロッパで最も高名な軍 事指揮官に率いられたヨーロッパ最強の軍隊がネーデルラントに駐留したこと は、この認識が果たして正しいのか、エリザベスとその側近達に、疑念を抱か せることになる。フェリペにイングランド側の懸念を伝え警告を与える必要を 感じたエリザベスは、スペインの反対を無視して、ホーキンズが率いる三度目 の航海に 2 隻の船を提供した。このホーキンズの航海は、スペイン海軍との軍 事衝突に発展する。1568年 9 月に、ホーキンズの船団は、船の修理のためにメ キシコ沖のサン・フアン・デ・ウルアに停泊していたが、そこに折悪くも新メ キシコ副王を乗せたスペイン艦隊が到着した。戦える状態になかったホーキン ズは、港を封鎖すれば安全を確保できたが、エリザベスが航海に関与している 状況でスペイン国王の代理に対してそこまで明確な敵対的行為をとることをた めらい、合意の下でスペイン艦隊を港内に招き入れた。しかし、スペイン側は 合意を破ってホーキンズの船団を攻撃し、ホーキンズは多数の船舶、船員、船 荷を失って命からがらイングランドに逃げ帰った44 さらに、このニュースがイングランドに伝わった直後の11月には、アルバの 軍にジェノヴァの銀行家のローンを届けるために英仏海峡を航行中であった ジェノヴァの船団が、フランスの私掠船の襲撃を避けるために、デヴォンや コーンウォールの港に入港し、資金を安全のために陸に上げることを要請し、 地方当局によって認められるという出来事が起こった。この知らせを聞いた駐 英スペイン大使デ・スペスは、アルバに対して、資金がイングランド政府に

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よって奪われたと誤った報告をし、ネーデルラント及びスペインのすべてのイ ングランド人の資産を没収することを進言した。エリザベスは、12月28日に、 ジェノヴァの銀行家からの資金をネーデルラントに送らず、自分が借りるとい う大胆な行動に出たが、ほぼ時を同じくして12月29日に、アルバはネーデルラ ントのイングランド資産の没収に踏み切った。エリザベスも同様の報復措置に 踏み切り、さらにデ・スペスを軟禁状態おいた。後に資産没収はイングランド とスペインの間にも拡大した45 両国間の関係をさらに悪化させたのが、フェリペが、メアリ・ステュアート を利用した反エリザベス陰謀に関与したことである。ただし、本来メアリに対 してエリザベスを支持したフェリペが、この陰謀に加担した経緯は複雑であり、 説明を要する。メアリは1565年 7 月従兄のダーンリー卿ヘンリと結婚し、翌年 ジェームズが生まれたが、二人の関係はすぐに冷め、1567年 2 月にはダーン リー卿が何者かによって殺害される。メアリはこの直後にボスウェル伯と結婚 するが、二人には当然のことながらダーンリー卿殺害の疑惑がかけられ、メア リは1567年 6 月に反乱を起こした貴族達に捉えられて、 7 月には 1 歳の息子 ジェームズのために王位を退くことを強いられた。メアリは翌1568年 5 月に監 禁先から逃亡して兵を起こすが、再び打ち破られてイングランドに亡命した。 メアリがダーンリー卿の殺害に関して有罪であればスコットランドに帰って罰 を受けるべきであり、無罪であれば女王の座に復帰すべきであったが、エリザ ベスは、証拠が確定的でないという理由で、メアリをイングランドで軟禁状態 においた。エリザベスは、一方では、王の威厳はあらゆる状況で守られるべき であるという信念と、反乱はいかなる理由があっても嫌うという態度から、メ アリを犯罪者としてスコットランド側に引き渡すことをためらったと言われる。 この態度は、エリザベスのネーデルラントやフランスの新教徒の支援にも歯止 めをかけることになる。しかし他方で、メアリの王座復帰を押し付けるための 軍事介入は現実的でも賢明でもなく、上記のような中途半端な措置に至ったが、 メアリの存在は必然的にイングランドにおける反エリザベス陰謀の焦点となっ た46 実際に、メアリがイングランドに亡命するや否や、スペインに対して挑発的 なエリザベスと彼女の第一の側近ウィリアム・セシルの政策に批判的なエリザ ベスの顧問官の多くは、メアリを利用してセシルの失脚を図ろうとした。具体

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的には、メアリを、プロテスタントではあるが宗教的に保守的な北イングラン ド一の貴族でありエリザベスの又従兄でもあるノーフォーク公トーマス・ハ ワードと結婚させて、メアリのイングランド王位継承権を確保し、ノーフォー ク公の力でセシルを失脚させて、イングランドの政策をカトリック勢力寄りに 改めることを目論んだ。この陰謀は、主にセシルに対して向けられたもので あった。陰謀に参加した貴族達がセシルの政策として嫌った反スペイン的な政 策は実際にはエリザベス自身の政策でもあったが、彼らはエリザベスの廃位を 狙った訳ではない。しかし、この陰謀を知った駐英スペイン大使のデ・スペス は、それにスペインの軍事介入を組み合わせて、一挙にエリザベスを王座から 引きずりおろし、メアリを王位につけることを狙った。 もっとも、イングランドへの軍事介入が現実的な選択肢ではないと確信し、 エリザベスとの友好の重要性をフェリペに対しても一貫して説いたアルバは、 1569年 7 月にデ・スペスに陰謀を中止することを命じた。この状況で、 9 月に、 エリザベスの治世の初期において最大の寵愛を受け愛人でもあったレスター伯 ロバート・ダドリーが、女王にすべてを打ち明けた。レスター伯は、寵臣達の 権力争いが女王や国家の安全を脅かす国際的陰謀へと発展したことに恐れをな したのである。恭順の意を示したノーフォークはロンドン塔に幽閉され、イン グランド北部の貴族はメアリ解放を唱えて立ち上がったが、年末までに反乱は 勢いを失い、首謀者達はスコットランドに逃亡した47 1569年末の時点では、スペインの陰謀への関与は駐英大使個人の判断による ものにすぎず、陰謀がイングランドとスペインの関係に与えた影響はいまだ限 られていた。しかし、1569年から1570年代初頭にかけて、フェリペはエリザベ スに対する苛立ちを急速に強め、ネーデルラント問題の根本的解決は、ネーデ ルラントの亡命者に避難所を与え、スペイン及びネーデルラントの船舶への私 掠船による攻撃を許してきたエリザベスを除去し、イングランドを再びカト リック化することによってしか得られないと考えるようになる。アルバはネー デルラントの財政状況やフランスの宗教的混乱を考慮すればイングランドへの 軍事介入は不可能だと指摘したが、この冷静な指摘もフェリペの考えを変える に至らなかった。1570年に、フェリペは、デ・スペスに対して、ロンドンに滞 在したフィレンツェの銀行家ロベルト・リドルフィを通じて、反エリザベス派 のイングランドのカトリック貴族及びメアリ・ステュアートと連絡を維持する

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ことを命じた。リドルフィは、1569年の北部の反乱の直後にエリザベスの廃位 を宣言した教皇が、イングランドのカトリック派に資金を送る際の媒介となっ ていた。 ノーフォーク公はエリザベスと和解し釈放されていたが、リドルフィは反エ リザベス陰謀への彼の同意を得た。リドルフィは、1571年 3 月にイングランド を離れ、ブリュッセル、ローマ経由で 6 月にはマドリッドに到着してフェリペ と会談した。 7 月、フェリペの顧問会議は、エリザベスを慣例の秋のイングラ ンド各地巡幸の際に暗殺あるいは拘束し、ノーフォーク公が指揮するカトリッ ク派の反乱を待って、アルバがネーデルラントのスペイン軍を引き連れてイン グランドに上陸するという計画を、全会一致で承認した。しかし、この陰謀は、 リドルフィがブリュッセルからノーフォーク公に出した手紙の奪取によって、 すでにイングランド政府の知るところとなっていた。政府は、 9 月にノー フォーク公を逮捕し、メアリをより厳密な監禁状態に置き、デ・スペスを国外 追放処分にした48 この事件以降エリザベスはフェリペを二度と信頼しなくなり、陰謀の発覚は イングランドとスペインの関係において大きな転換点となったが、その一つの 重要な帰結は、歴史的なライバルであるイングランドとフランスを接近させた ことであった。フランス国内において、エリザベスとの接近を試みる動きは、 すでに1568年 3 月に第 2 次宗教戦争が終結した後に見られた。カトリック強硬 派のギーズ一門が宮廷での影響力を強める中、これに対抗するカトリック穏健 派のモンモランシ一門は、ユグノー派と接近し、モンモランシ公フランソワと コリニー提督は、シャルル 9 世と不仲であった弟のアンジュー公アンリとエリ ザベスの結婚の計画を推し進めた。彼らの意図は、エリザベスとの結婚を通し てアンジュー公をギーズ一門の影響から引き離し、アンジュー公を通して自分 達の宮廷における影響力を維持することであった。この計画は、メアリ・ス テュアートの後ろ盾であるギーズ家の勢力を抑制する効果を持つことが期待さ れたから、エリザベスにとっても魅力的だと考えられた49 アンジュー公とエリザベスの結婚の提案は、10月の第 3 次宗教戦争の勃発に より、交渉が始まる前に頓挫してしまうが、1570年 8 月のサン・ジェルマン和 約によって内戦が終結すると、再び浮上する。第 3 次宗教戦争は、国王軍、ユ グノー軍双方の財政資源に限りがあり、両者とも個々の戦闘に勝利できても戦

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争に勝つことはできないという、第 1 次、第 2 次の戦争でも見られた現象を、 再び確認するに終わる。サン・ジェルマン和約は、ユグノーにフランス全土で の信仰の自由と、戦争前に礼拝が行われた地域での礼拝の自由を与えたのみな らず、ラ・ロシェルを始め 4 つの安全保障地を与えるという画期的なもので あった。ユグノーにこれまでの和平よりも大きな安全を与えたこの和平は、モ ンモンランシ公のようなカトリック穏健派の、ロレーヌ枢機卿等カトリック強 硬派に対する勝利でもあった。カトリーヌとシャルル 9 世は再び宗教対立を緩 和する方向へ向かい、カトリーヌは、娘マルグリートと、ブルボン親王家の当 主で、第 3 次内戦中に殺害されたコンデ親王ルイの甥である、若きナヴァール 王アンリ・ド・ブルボンの結婚を実現することで、両派の和解を促進しようと 努力した50 1570年 8 月の和平の後、フランスはその外交政策において、イングランドや オランイェ公など西ヨーロッパのプロテスタント勢力に接近する。この一つの 原因には、宗教的寛容の政策に敵対的なスペインを牽制したいというカトリー ヌの願望があり、ここにカトリーヌの次男アンジュー公アンリとイングランド 女王エリザベス 1 世の結婚の計画が再燃する。しかし、この計画自体は、アン ジュー公が異端を嫌う極めて厳格なカトリック教徒であったこと、コリニー提 督等ユグノーのリーダー達がもはやこの結婚を支持せず、ナヴァール王アンリ とエリザベスの結婚を望んだこと、そして何よりも、エリザベス自身が誰とも 結婚する意図がなく、単に結婚の交渉を政治的な目的のために利用していると 疑われたことから、当初から大きな望みが持てなかった。しかし、カトリーヌ、 シャルル 9 世、エリザベスの 3 人にとって、交渉を継続してお互いに相手との 友好関係を重視しているというシグナルを出し続けることには大きな意味があ り、1571年10月にアンジュー公がいかなる条件でもエリザベスと結婚しないと 宣言した後にも両者の交渉は続いた。交渉の帰結は1572年 4 月のブロワ条約で あり、この条約で両国は、いずれかが攻撃を受けた場合の援助、そして、お互 いの敵を援助しないことを約束した。エリザベスの側では、スペインからの防 衛に加え、フランスがスコットランドへ介入しないという事実上の約束を得ら れたことが、この条約の大きな利点であった51 ブロワ条約が防衛的な同盟であったのに対して、両国の内部には、両国がさ らに積極的にネーデルラントでのカルヴァン派援助のために協力すべきだとい

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う意見もあった。そもそもコンデ親王の死後ユグノーの指導者となったコリ ニー提督が和平を選んだのは、戦場をフランスからネーデルラントに移し、ス ペインという外敵を作ることで、国内的団結を強め、自らの政治的重要性を増 大させることができると考えたからであった。1568年のネーデルラント侵攻に 失敗したオランイェ公は東方からの再度の侵攻を計画するためドイツに向かっ たが、弟のローデウェイクはフランスに滞在して、ユグノーの本拠地ラ・ロ シェルからスペイン船舶を攻撃すると同時に、南方からネーデルラントに攻め 込む機会をうかがった。コリニー提督はローデウェイクとの協力を望んだが、 第 3 次内戦中に不仲の弟アンジュー公が軍功をあげたのに嫉妬するシャルル 9 世も、自らの活躍の機会を求め、カルヴァン派を支援してのネーデルラント侵 攻に関心を示すようになる。また、アンジューとエリザベスの結婚交渉は、イ ングランドの参加も得る可能性を開くように思われた。1571年 7 月に、ローデ ウェイクとシャルル 9 世も出席した会議で、フランス、イングランド、ドイツ のプロテスタント諸侯とオランイェ公の同盟を形成してネーデルラントからス ペインを除外し、フランドルとアルトワをフランス、ホラントとゼーラントを イングランドが割譲し、残りの土地をオランイェ公が得て神聖ローマ帝国の一 部として支配するという計画が承認された。ローデウェイクは、駐仏イングラ ンド大使フランシス・ウォルシンガムに計画を伝えたが、イングランドが大陸 の新教徒支援のために積極的に介入すべきだと考える政府内のグループでも筆 頭格であったウォルシンガムは、エリザベスに対して計画を強く勧めた52 しかし、外交が宗教に左右されることを拒否し、より慎重な判断に傾きがち であったエリザベスと、1571年にバーリー男爵に叙せられたウィリアム・セシ ルにとって、このような政策は問題外であった。カレー喪失の経験からも、イ ングランドが英仏海峡の向こう側に領土を維持することの困難は明らかであり、 海峡の対岸でフランスの支配する海岸線が増えることは、イングランドの安全 を著しく脅かすと考えられた。エリザベスは計画に賛成せず、結果的に、先に 見たような防御的な性格の同盟条約が締結された53 ブロワ条約は、エリザベスにある程度の安心感を与えたが、同月にネーデル ラントで起こったもう一つの事件は、さらにイングランドの利益に適うと思わ れた。イングランド南東部の港からは、海乞食と呼ばれるカルヴァン派の船団 が、ドーバー海峡を通過する船舶に対して略奪を繰り返していた。ブロワ条約

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に遡ること約 1 カ月半の 3 月 1 日、エリザベスは、ハンザ同盟都市の要請を容 れ、海乞食をイングランドから追放した。 1 ヶ月後の 4 月 1 日、海乞食はマー ス川河口の小さな港町ブリーレを急襲して占拠した。海乞食は、イングランド 政府に対して、武器や軍事物資、亡命者の義勇兵が海峡を超えてネーデルラン トに渡ることへの許可を求めた。ネーデルラント人が自分達の力でアルバの支 配を打ち破ることは歓迎するエリザベスはこれを許可した。これに力を得た反 乱派は、スヘルテ川河口の要衝フリッシンゲンを始め他の都市を次々と占領し ていった。 5 月から 6 月にかけて、イングランドの義勇兵もゼーラントに到着 する。彼らはイングランド政府の許可は受けなかったが、バーリー、レスター、 ウォルシンガムなどに状況を報告し、政府の指示を仰いだ54 しかし、イングランドにとって、ネーデルラントにおける第 2 次反乱の勃発 は、フランスのネーデルラント介入の可能性を高め、新たな危険も生んだ。す でに反乱の初期において、フランスの義勇兵が北海貿易の要衝フリッシンゲン を押さえたことは、イングランド政府に、この危険にどう対処するか方針を決 めることを強いた。バーリーが 6 月 3 日の政府文書において示した解答は、簡 潔にして明解なものであった。つまり、もしアルバがフランスのネーデルラン トへの勢力拡大を自力で阻止できるならイングランドが介入する必要はなく、 イングランドはフランス、スペイン両国と良好な関係を保ちながら中立を維持 すべきこと、しかし、もしアルバがフランスの介入に対処できず、フランスが ネーデルラント沿岸部で領土を拡張する恐れがあるなら、スペインがネーデル ラントの人々の抑圧を止め、彼らの伝統的自由を回復して、異端審問を中止す るという条件で、イングランドはスペインによるネーデルラントの防衛を援助 する意図があることを、秘密裡にアルバに告げるべきだ、というものであった55

おわりに

本稿の分析は、所謂「宗教戦争の時代」において、フェリペ 2 世やオラン イェ公ウィレム、カトリーヌ・ド・メディシス、エリザベス 1 世といった西 ヨーロッパ国際関係の主要なアクター達が、宗教の問題を主にその政治的効果 から考え、この点できわめて理性的に行動したことを示している。例えば、

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ネーデルラントにおいて厳しい異端迫害の体制をとったフェリペ 2 世にしても、 その動機は宗教的ではなかった。フェリペは、自らが先祖から受け継いだ土地 の維持という非常に前近代的な目的に縛られながらも、そのための効果的な方 法として、自らの支配地における宗教的統一の維持に努力し、それが出来るだ け強制や反発を招かない形で実現できるよう、教会改革にも熱心に取り組んだ。 ここで詳しく検討する余裕はないが、政治的共同体の安定に不可欠な社会的機 能を果たすものとして国家の宗教的統一を重視したのは、プロテスタント教国 のエリザベス 1 世のイングランドでも同様であり、何もフェリペに限られたこ とではない。そして、政治的安定という観点から宗教の問題を考えたという点 では、異端の迫害を行ったフェリペも、宗教的寛容の政策を追求したカトリー ヌやオランイェも根本的に変わらない。さらに、外交政策、外国の宗教状況へ の対応においても、当時の指導者は政治的考慮を信仰に優先させた。 もっとも、政治的観点から宗教問題における態度を決定することはすでに16 世紀前半には一般的であり、これはむしろカール 5 世やフランソワ 1 世、ヘン リ 8 世といった一世代前の指導者との連続性を示していると言ってよいであろ う。また、すでに述べたように、家の財産、特に受け継いだ土地を維持して家 の名誉を守ることが重視されたことも、世紀前半との継続性を示している。も う一つ16世紀の前半と後半で一貫しているのは、中央集権化の試みが、ネーデ ルラントにおいて反乱の一因となるなど、社会に一定の影響を与えながら、い まだ中途半端なものであり、真に効率的な財政や統治のシステムの確立に至ら なかったことである。非効率的な財政システムは、ネーデルラントの反乱の一 因であり、また、支配者の側がネーデルラントやフランスの内戦に勝利できな かった理由ともなる。 しかし、ネーデルラントをめぐる西ヨーロッパの国際関係を観察すれば、そ こに世紀前半との一つの大きな違いを見出すことが可能である。それは、イタ リア戦争の時代に非常に顕著であった君主の個人的栄光や王家の名誉名声と いった要素の重要性が低下し、これに代わって、支配地の防衛や安全が外交政 策の目的として最重要視されるようになり、この目的を不完全な手段に頼りな がらも、出来るだけ戦略的に追求すると言う姿勢が強まったことである。フラ ンスが金ばかりかかって自国の防衛に寄与しないイタリア半島の支配に関心を 失い、イングランドが中世における大陸支配の名残であり防衛不可能なカレー

参照

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