ヴィーラント「アーガトン物語:第3巻ヒッピアスの哲学」
(翻訳)その2
Die Geshichte des Agathon;Drittes Buch “Darstellung der Philosophie des Hippias”
(Christoph Martin Wieland) Ⅱ
野 口 健
*Takeshi NOGUCHI
「ヒッピアスの哲学第四章続き」 幸福のお気に入りとなる利点と快適さを促進させることを実現し得るさまざまな方法のうちで、そのい くつかは他の手段をさておいて天才のある人間のために残されているのである。これらの方法は、その 異なった最終目的に従って、二つのクラスに分けられる。一方は、大部分の国民の利益を対照とし、他 方は大部分の国民の快楽を対象とする。政治と戦争の技術が含まれている最初の方法は、各々の民族の 富と贅沢さの程度を問題としている。そして彼らの(各々の民族)憲法とは、富と贅沢さの程度をはか る計りになっている。貧困なアテネ人の間では軍隊を率いるのに最も有能な人間を捜し求めるような努 力は、払われない。もっと重要なことが決定されなければならない。問題となるところは、数人の踊り 子達の間でどの踊り子が綺麗な足を持ち、軽やかに飛びはねるか、 プラクシテレスのビーナスとアル カメネスのビーナスのどちらが美しいかということだ。利益を対象とするような最初のクラスに属する 天才の技術は、それ自体では殆ど富へと導くことはない。ここで必要とされる偉大な才能や偉大な功績、 偉大な美徳は、一般的にはお国のためになされた全てのことに対して、月桂冠をもってしか支払われな い貧乏で、発展しようと努力している共和国にのみ見られる。しかし、富と贅沢さが優勢を極めてきた 国家においては政治の技術が要求すると思われるような才能や美徳に不自由している。 こうした国においては、ソロンのような人間なしで、また、レオニダスやテミストクレスのような人間 なしで軍隊を率いる可能性のある法律が存在し得る。ペリクレスは一介の演説家に過ぎず、アルキビア デスは人の心を捉える以外の技術を知らなかったのであるが、この二人はアテネの国を治め、民衆を導 いていった。「こうした自由国家においては民衆は、専制国家において奴隷でない人間が唯一持ってい る特性を備えている。全てのことに有能であると認められるためには、民衆に気に入られることだけが 必要である。」ペリクレスは王としての品位を外面的に指し示すことなく、アルタクセルクセスが従順 なアジアの民の中で行ったのと同じように、自由都市のアテネにおいて専制的支配を行った。ペリクレ スの才能と、彼が美しいアスパジアから学んだ美しい技術が、ペリクレスにますます専制的になってい く一種の主権を得させた。というのも、その主権のほうが彼について回ったからである。偉大な考えを 自分のうちから呼び起こす技術、相手を説得する技術、アテネ人の虚栄心から利点を引き出す技術と彼 らの情念を支配する技術から彼の全政治技術は成り立っていた。彼は不当で不幸な政治に共和国を巻き 込み、公的財源を消耗し、暴力的な取立てによって同盟者を立腹させた。そこで民衆が軽蔑に値するよ うな国家行政を、正確に直視する時間を持てないようにするために、彼は劇場を建設し、民衆に美しい 彫像や絵を鑑賞させ、踊り子や演奏家によって彼らを楽しませ、変化に飛んだ楽しみに大いになじませ たので、新しい作品の上演や、2,3のフルート奏者の間で競われるタイトル争いまでもが、ついには 国務になってしまうほどである。そのために実際、民衆は軽蔑に値する国家行政を忘れてしまった。ほ *本学部非常勤講師んの 50 年前であったならばペリクレスの如き人間は、共和国のペストと見なされたであろう。しかし、 当時ペリクレスはアリスティデスのような人間であったのだろう。ペリクレスは当時、まさにアリス ティデスのようであり、それゆえ、彼はその国家の最も偉大な人間であった。彼はアテネが達すること ができる権力と栄光の最高の段階にアテネを高めた人間であり、その時代は後にミューズの黄金時代と 呼ばれる。そしてペリクレス自身にとっても重要なことは、公の目に映る彼の生活が立派であるのと同 じように、彼の個人的生活を快適にするために、自然がエウリピデウスとアリストファーネを、フィディ アスとツォイクシスを、ダイモンとアスパジアを彼のために集わせてくれるような、そんな人間になる ことであった。「人間の空想力を支配する技術は、人々が自分自身気がついていない自分達の行動の秘 密の動機を、我々の気に入るように操作する技術であり、人々を我々の目的の道具とする技術であり」、 我々は彼らの味方であると、人々に思わせておくことで、疑いなく人間を所有する者にとって、最も有 用なものとなるのである。そして、このことが、ソフィスト達が教え鍛えた技術であり、その技術にソ フィスト達は、自分達が楽しんでいる人望や自由や幸福な日々のことを感謝せねばならない。カリアス よ、お前は容易に次のことを思い浮かべることができるであろう。つまり、その技術は、ほんの数時間 で教えられたり、学ばれたりすることはないということを。私の意図は、ただお前にこの技術について の概念を伝えることだったのだ。 ソフィストの知恵と呼ばれるものは、我々の快楽を促進したり、主に我々の意図の道具となるように、 人間の技能を使用することである。雄弁さは、ソフィストでもある聞き手に私達の欲している全てのこ とについて説得する状況にあって、そして我々の意図に必要な各々の欲求のそれぞれの段階に、その 聞き手を置く状況にあって初めて、その名に値する。そうした雄弁さは確かに不可欠な道具であり、ソ フィストが目的を達成する最も卓説した道具である。語学教師は若者達を演説家にしようと努力してい る。もし、こう言うことが許されるならば、ソフィスト達は若者を説得家にしようとさらに努力してい る。我々の時代に大人気を博しているアルキビアデスのようには、恐らく誰も所有することができない 技術の向上は、こうしたことにのみかかっている。賢者はこの説得する能力を、より高い目的を達成す るための道具としてのみ使用する。アルキビアデスは、巧妙に配置された語りの推敲をアンティフォン の如き人間に任せた。つまり彼は、この人間に彼の同国人を、アルキビアデスのような愛する人間に値 する人間は、自分の思いついたことをする権利があると、説得させたのであった。彼は自分がスパルタ 人の敵であるということを忘れさせるように、そして機会が訪れさえすれば再び敵になるであろうとい うことを忘れさせるように、スパルタ人達を説得した。彼は、彼によって(注:彼と契りを結ぶことに よって)小さな幼いアルキビアデスのような少年のお母さんになるようティーメア女王を説得し、そし て、アテネ人達がアルキビアデスを不当にも裏切り者と見なしたと説得するまさにその時に、彼はアテ ネ人達の秘密を貴公達に漏らすつもりであるとペルシャ皇帝の辺境諸侯達を説得する。このような説得 力は、我々が利用しようとしている人間に気に入ってもらえるような外見、要望、姿を取り入れる技能 を前提としている。即ち、利用しようとしている人間の心の隠された入口を確保する技能とは、その人 間の欲求を我々が刺激する(注:逆撫でするの意味)ことを必要と認めるか、愛撫する(注:同調する) ことを必要と認めるか、ということ次第で、他の欲求を通じてもう一つの欲求を強めたり弱めたり全く 抑圧したりすることである。この技能は、倫理学者によっておべっか(Schmeichelei)と呼ばれた好意 を要求する。しかし、この好意は人間の深遠な知恵に由来するものであり、人間は悪いものだと思い込 んでいる夢想家の嘲笑すべきちゃちさに反対するものである。しかし、彼らは招かれざる立法者がそう したがるのとは違っている。ここで述べた好意がなくても、人の愛を得ることは可能であろうが、尊敬 なくしては、人の愛を得ることはできない。何故ならば、我々は自分と似ている人々を、我々の趣味を 持っているか、持っているように思われる人々を、我々の快楽を促進させることにたいへん熱心な人々
を愛することができるからである。こうした人々はミレットのアスパジアを手本にしている。むしろ女 性の魂のほうが愛されるような年齢になっていたアスパジアは、プラトン的な愛の世界に引っ込んで、 肉体の役割を他のもので演じることによって(注:それほどまでにアスパジアは年をとっている)、終 始、ペリクレスの恩恵に与っていた。 カリアスよ、お前が最も当たり前のことだと思うことに慣れているその偏見と一致しがたい技術に対し て抗議せざるを得ないことを、私はお前に目に読み取った。ソフィスト達が教える生きるための技術 は、理想的な美やある種の美徳について多くの綺麗ごとを言う術を知っている連中(彼らにとって理想 的な美やある種の美徳は報酬につながるものである)が抱く考えとは違って、慣習的理解において、美 しかったり、良かったりするものについての全く別の考えの上に成り立っている。喋っている私よりも、 私の喋ることを聞いているお前が、まだ疲れていなかったならば、私がお前に次のことを説得すること は、私にとってさほど大変ではないと思う。つまり、理想的な美と理想的な美徳は、私が前に述べて来た、 あの幽霊のおとぎ話と同じ組に属しているということを。 第五章 核としてのアンチプラトニズム 美とは何か?善とは何か?我々がこの問題に解答できるようになる以前に、まず、凡そ人間が美しいと か良いとか名づけているものは何であるか問わねばならないと思われる。まずは美から始めよう。この 地上のさまざまな民族の間で、美について抱かれた考えにどれほど大きな多くの違いがあったことか。 しかし、美しい女性が自然のあらゆる創造物の中で最も美しいということで万人の意見の一致をみる。 だが、女性達が自分達の本質の中に完成された美を維持するために女性達はどうあらねばならないか? ここから矛盾が生じるさまざまな風土の中に、さまざまな民族が存在しているのと同じように多くのい ろいろな好みの者達の一群を思い浮かべてみよ。一人一人が自分の愛するものを他のものよりも優れて いると主張するより確かなことは何であるというのか。ヨーロッパの男性は、目もくらむような白人を 好むであろうし、モール人の男性は自分達と同じようなカラスのように黒い人を好むであろう。また、 ギリシャの男性は自分達の恋人の小さな口、くぼんだ掌で覆い隠すことができる胸と繊細な姿の快適な プロポーションを魅力的に思うであろうし、アフリカの男性は自分達の恋人のつぶれた鼻、脂ぎった肌 と厚ぼったい唇を魅力的に思うであろうし、ペルシャの男性は自分達の恋人の大きな目とすらりとした 身長を、中国人は小さな目、丸い腹、小さな足を魅力的に思うであろう。習俗的な意味における美と、 自分にふさわしい美とは事情が違うのだろうか?私はそうは思わない。スパルタの女性はアテネで、公 の面前で娼婦をしている最も卑しい者達がお株を奪われてしまうような身なりで見られることをはば からない。ペルシャでは公の場で自分の顔を露出している夫人はスミルナで着物を着ずにいる夫人と同 じように見なされる。東洋の民族の間では礼儀作法で多くのお辞儀と隷属的な態度を要求される。その ようなものは尊敬されるに値する人達に対して行われる。我々ギリシャ人は、そうした宮廷風礼儀作法 をペルセポリスでのアッティカ人の都会的洗練が我々にとって粗野で野蛮に思われるのと同じように 恥ずべく隷属的なものであると思うのである。ギリシャ人の間では奴隷でない女性は自分の夫以外の男 によって若い女性の飾り帯を解かせる名誉を失ってしまった。ガンジス川の対岸のある民族の間では、 少女は自分の魅力を見たり聞いたりして吹聴してくれる崇拝者が多ければ多いほど、それだけ優れてい ることになる。習俗的な美の概念の違いは、その例を限りなくあげることができるさまざまな民族の特 別な慣習や風習の中にのみ示されるだけでなく、慣習が主に美徳について作り上げている概念の中にも 示されている。ローマ人達の間では美徳と勇気は同一のものである。アテネ人の間ではこの美徳という 言葉はあらゆる種類の快適で有益な特性をその内に包含している。スパルタでは、人は法に対する従順
以外の他の美徳を知らない。専制君主の国では、専制君主と彼の下にいる総督に対する服従以外に何も ない。カスピ海では最もうまく略奪し、多くの敵を惨殺する者こそ最も美徳的な人間である。インドの 暖かい地方では(彼らの考えに従えば)完全な無為によって神々と同じになった者のみが最も高い美徳 に達する。 こうした全ての例からどのような結論が生じるだろうか?それ自体、善であったり正義であるものが存 在しないだろうか?それを通じて美しいものや、あるいは習俗的なものが判断されねばならないような ある種の模範は存在しないのだろうか?それでは検討してみよう。もしそうした模範が存在するとした ら、それは自然の中に存在するに違いない。何故ならば、例えばピュグマリオン(Pygmalion)のよう な人が、あの有名なフリューネ(Phryne)よりも美しい像を彫刻することができるなどと思い込むこと は愚行であろうから。フリューネは自分がエレウシスの女神達の祭りで公の面前で沐浴をする際、風に なびかせた長い髪に包まれるだけで、多くの人達の目を自分の姿の審判官にするのを疑わないほど、自 分の姿のあらゆる部分の完成度を自負していた。確かに、それぞれの民のビーナスはそれぞれの民の一 般的判断に従って国民を代表する最高の美が与えられた女性の肖像画に他ならない。しかし、さまざま な種類の模範のうちで、どれがそれ自体、最も美しいのか?見たところ、同じ権利をもって黄金のリン ゴを要求する女性達に誰がリンゴを与えられるか?では試してみよう。それぞれの国民が、それぞれの 国を代表する模範に従って決めた、最も美しい男性と最も美しい女性とを送り込んだ集会が開かれたと 仮定しよう。そして、その集会で美の賞を得ようと応募してきたもののうちでどの人が最も美しい男性 であるかを女性が決定し、逆に男性はどの女性が応募者の中で最も美しい女性か決定せねばならないと する。このことを仮定して言えば、穏やかで温和な気候風土のもとで育った男女が他の全ての者から、 いともたやすくより分けられるであろう。そうした気候風土では自然がその全ての技に、美しい調和の とれた姿と快適にとりあわされた色彩とを与えるのが常である。何故ならば、温和な地帯における卓越 した自然の美は人間から植物に至るまで広がっているからである。この選び出された男女の間で、恐ら くその優越性が長いこと疑われるであろう。しかし、ついには男達のうちから、いろいろな体操を適度 に行い、最も高い身体の完成に到った者達が同郷人であるような男が賞を得るであろう。そして、娘の 教育に際して自然の美の可能な限りの促進と手入れを行ってきたある民族が送り込んだ女性を、美人の 中でも最も美しい美人であると全ての男達は声を一つにして言うであろう。それゆえ、男ではスパルタ 人が、女ではペルシャ人が最も美しいと言われるであろう。ギリシャ人の女性は美しいというよりは魅 力的であるので、美よりも愛嬌に優越性を置くギリシャ人でも、(自分の心がパポス地方やミレット地 方の少女に優越性を与えるような時であろうとも)ペルシャの女性がより美しいということを告白せざ るを得ないであろう。そして、中国人が中国人の女性の三重あごと、お腹をより魅力的に感じようとも、 ペルシャの女性の方が、より美しいと告白せざるを得ない。 習俗的な美も、おそらく同じ事情であろう。この点においては、さまざまな地域間で概念の相違が大き いので、次のようなことは否定しがたいであろう。つまり、習俗の価値は最も機知に富み、最も修行を 積み、最も活気のある最も社交的な、そして最も快適な民族にふさわしいということである。アテネ人 の自由で魅惑的な都会的洗練は、一人一人の外国人にとって、形式張り、まじめくさり、そして儀式ばっ た東洋の宮廷風の優雅さより快適であるに違いない。親しげな態度、即ちアテネ人が自分の些細な好意 として示すことができる、この腰の低さは、美しさを完全に覆い隠すわけでもなければ、目に留める価 値もないスミルナの女性の装飾が、東洋の女性の覆面仮装や野生人の獣のような身体よりも優れている のと同じように、スキチア人の無愛想な気さくさよりも優れているに違いない。最も教養のある社交的 な国民の模範は、それゆえ、習俗的な美や上品な人のための真の法則であるように思われる。そして、
アテネとスミルナは、自分達の趣味や習俗を形成せねばならない学び舎である。 我々は美についての法則を見つけ出した後で、正義なるものにどのような法則を見出せるだろうか?こ のことについては、あまりにもさまざまな、かつ矛盾した考えが人々の間に支配的であるので、ある一 方の民族の間では月桂冠や彫像をもって報いられるある好意が、他の民族の間では屈辱的な死刑に相当 したりする。そして、どこにも自分の祭壇や自分を祭る司祭を持たない悪徳などというものは存在しな い。およそ法規というものは、それが与えられたる民族の間では、まさに不正の模範であるが、ある民 族の間で法規によって命じられたことが、他の民族の間で法規によって禁じられたりすることも確かで ある。 それゆえ問題は正義そのものを定める普遍的法規は存在しないのだろうかということだ。私は存在する と思う。その普遍的法規とは、各々一人一人に話しかける自然の声以外の何だと言うのか。即ち、その 声とは「汝自身の最善を求めよ」、換言すれば「何時の自然の欲求を満たせ」ということであり、「でき る限り多くの快楽を享受せよ」ということである。このことは、自然が人間に与え給うた唯一の法則で ある。人間が自然状態にある限りは、彼の欲求が要望するものか、彼にとって良いもの全てを所有する 権利は、自分の強さの程度によってのみ制限される。即ち、彼は自分でなし得る全てをなして良いが、 他の誰に対しても責任を負わざるを得ない。ただの人間の群れを最良の共同社会に統一した社会状況 は、「汝の欲求を満たせ」という自然の唯一の法則に対し「他人を害してはならぬ」という制限をつけ ている。自然の状態においては、人間にとって有益である全てのものが人間達にとって正しいように、 社会状況(注:前に出てきた社会状況と同じく利益社会の意味)においては、法規がその社会にとって 有害である全てのものを不正であり、処罰すべきものであると言明する。また、一方で法規は、優越性 と報酬を受けるに値する概念と、社会の利益と快楽を促進させるあらゆる行為とを結びつけている。 美徳と悪徳の概念は、それゆえ、一部はこの種の社会(注:利益社会の意味)がそのもとで作り上げて きた契約に基づいている。そして、この点においてはこの概念は任意的である。また、他の部分では、 それは各々の市民にとって有益であるものか、有害であるものに基づいている。それゆえ、たいへん大 きな矛盾がさまざまな民族の法規を支配することになる。各々の民族の風土、地理的位置、政体、宗教、 気質と国民性、生活様式、その民族が弱いか強いか、また、その民族が貧しいか豊かであるかというこ とが、その民族の良いものや悪いものの概念を規定している。それゆえ、啓蒙された民族の間には、正 義か不正かの大きな相違が生じる。従って、灼熱地帯の道徳と寒い地方の道徳とは相違が生じるであろ うし、自由国家の道徳と専制国家の道徳もそうだし、好戦的な精神によってのみ保ち得る貧困な共和国 の道徳と、商売魂と平和のおかげで反映している国の道徳もそうだ。そうしたことからついには、あら ゆる民族にとって同じく有益であるようなものを、いかにして作り出し得るかという課題を解決する以 前に、あらゆる民族にとって正義であるものを規定しようと自分の頭を悩ます道徳家の愚行が生じる。 自分達の倫理学が抽象化された概念ではなく、自然と事物の実際の性質状態に基づいているソフィスト 達は、それぞれの場所で人間が存在するがままに人間を理解している。彼らはアテネの政略家をペルセ ポリスのペテン師以上のものとは評価しない。そしてスパルタの老婦人はコリントの遊女にも劣る存在 としてしか彼らの目に映らない。ペテン師はアテネで、遊女はスパルタで有害であるということは確か である。しかしアリスティダスの如き人間はペルセポリスで、スパルタの女性はコリントで有害ではな いが、少なくとも全く役に立たない。私は世の中を自分達の理念に従って改造したがる哲学者達を理想 家と呼ぶのが常であるのだが、その理想家達は自分達の弟子をどこの土地の者だか理解できぬ人間に仕
立て上げる。何故ならば、理想家達の道徳、どこにも存在しない立法を前提としているからである。市 民は自分達の利益を促進するか、促進すると思われる者に対してのみ絶大な尊敬と報酬を与えるので、 理想家達は貧しく、軽んじ続けられているのである。確かに理想家達は若者の破壊者、社会風土の敵と して見なされている。そして、彼らが数学の点や線や三角と人間を同じものにするために人間を実体の ないものにしようとする価値のない努力のために行ってきた全ては、せいぜい流罪や毒杯の形に値する だけである。あのアスペンドゥスの竪琴弾きのように自分自身の中で自分のためだけに音楽を奏でてい るうぬぼれた賢者よりも賢いソフィスト達は、何が正義で何が不正であるかと民に教えることをそれぞ れの民族の法に頼るのである。彼らは特別な国家に属しているわけではないので、世界市民の特権を享 受している。そしてソフィスト達は自分達と並び、それ(宗教と法)を操作する人(為政者)をあらゆ る不都合な点から守ってくれる。そして、ソフィスト達の拠り所でもある各々の民族の法と宗教に敬意 を払うのである。しかしソフィスト達は、実際、人間に唯一の規範として最も良いものを与えてくれる 自然の普遍的法律のみを認識し、それだけに従っているのである。彼らの自然から与えられる自由を制 限する全てのものは、彼らが自分達と関わり合う人々に気に入られるために色、形、飾りを彼らの行為 に指図する「役に立つ聡明さ」を遵守することである。我々の行為にとっての道徳的な美は、我々の身 体にとっての装飾の如きものである。他人と同じように着ることが必要であるように一緒に生きている 人々(注:周囲の人々)の先入観と好みに従って自分達の挙動を形成する必要がある。ある種の特別な 規範に従って作られた人間は、ダイダロスの歩く彫像のように、彼の父なる大地に縛られる運命であっ た。何故なら、彼は同類のもののもと以外に彼の居場所が存在しなかったからである。サルマート人が アテネで将軍になるよりも、スパルタ人がアルタクセルクセスの最高の奴隷の役割を演じることの方が 適さないであろう。一方、賢者とは普遍的人間、即ち、ありとあらゆる色、ありとあらゆる状況、あり とあらゆる態度と好意のもとにいる人間なのである。そして、彼は彼が特別な先入観や情熱を持たず、 そして一介の人間以外の何者でもないので、そうなれるのである。彼は行く先々で彼がぶつかるさまざ まな先入観や愚行を是認することができるので、至る所で気に入られるのである。他人の利益に喜んで 熱心になり、喜んで他人の意見に同調し、喜んで他人の情熱に媚びへつらう彼が、どうして愛されない ということがあろうか?賢者は、凡そ人間が自分の抱いている錯覚よりも納得いくものがないというこ とを、そして自分の欠点ほど愛せるものはないということを知っている。また、彼は、人々が自ら知り たがらない真実を自分達のうちに発見された時ほど、彼らに不愉快を引き起こす手段はないと知ってい る。それゆえ、こうした人達の目を彼らの意思に反して開かせること、あるいは彼らから彼らの醜さを 映し出す鏡を置くようなことをせずに、賢者は知識を持つほど愚かなことはないという愚か者の考えを 強め、自分は寛大であるという放蕩者の妄想を強め、自分は良き大家さんであるというけちん坊の考え を強め、自分はますます機知に豊んでいくという嫌われ者の甘い思い込みを強め、そして自分は政治家 であり、学者であり、英雄であり、ミューズの保護者であり、美のお気に入りであり、つまりは、自分 のなりたい者全てであるという大富豪の主張を強める。賢者は哲学者の理論と宮仕え人のうぬぼれた無 知、将軍の大袈裟な行為を賛美する。彼はためらいなく踊りの師匠に向かって、シモンがもっとうまく ステップを踏む術を知っていたらギリシャで最も偉大な男になっていたであろうと言い、画家に向かっ て、ホメロスの如き人になるよりもツォイクシスの如き人になるほうが多くの天賦の才を必要とすると 言う。人と交際するこういった方法は、最初に思うよりもはるかに大きな利点のある方法なのである。 この方法は我々に人の愛や信頼を獲得させ、また、我々が人の功績に対して持つ評価が大きければ大き いほど、我々の功績に対する多大な評価を得させてくれる。その評価は最高の幸福の段階の登るための 最も確実は手段である。そして、この手段こそが最も偉大な才能であり、最も優れた勲功である。こう したことが将軍、軍司令官、君主、または領主のお気に入りを作り出すのだと思わないか?この共和国 (注:アテネ)の中を展望してみよ。まず一人目は同邦の人間に挨拶をする時の笑顔のおかげで人望を
保っていることにお前は気付くであろう。二人目は自分のお腹の人目を引く周囲のおかげで人望を保っ ていることに、三人目は妻の美しさで人望を保っていることに、そして四人目は怒鳴り声のおかげでそ の人の人望を保っていることにお前は気付くだろう。宮廷に行ってみろ。侍従の推薦のおかげで、ある いは自分の才能を保障してくれる夫人(マダム)の寵愛のおかげで、あるいは大臣が自分の妻と戯れて いる時でも自分をとらえている眠りのおかげで、幸福(この中で人は輝く)である人を見出すであろう。 魔法の国では、将軍になった髭のない子供や国務大臣になった詐欺師や司教になった風俗営業者が普通 に見られる。だがしかし、確かに何ら習俗的な点(注:社会的に自分を保証してくれるような肩書きなど) を持たない人であっても、恐らく一度も口にすることさえ許されないこの唯一の才能(注:人付き合い の術)によって、他の者が最も偉大な利点(注:社会的に見て高い地位や肩書きなど)によって、虚し くも保持しようと努めてきた幸福に至ることがしばしばできる。 自然の賜物(自然の賜物なくしては知識ある人間も、それを備えた愚か者に場を譲らねばならない)を 所有しているという前提のもとに、ソフィストの技術はその技術の所有者にあれこれの方法で幸福の恩 恵を与えることができないなどと誰が考えようか?しかし功績の道でも、彼をおいて他の誰も確実に幸 福を築くことはできない。賞賛されずに彼が就任する官職がどこにあろうか?最も良く人々と交際した 人よりも巧みに、誰が人を統治できようか?彼をおいて他に誰が世の中の商売に適していようか?彼を おいて他に誰が諸侯の相談役、あるいは頼る人のない民衆の扇動政治家になり得ようか?それどころか 彼が幸福を自分の味方につけている限りは、誰が彼以上の賞賛を受けて軍隊を率いようか?また、誰が 部下達の才能や長所に報い得る技術を彼よりも良く理解しているであろうか?また、誰が彼が抱いたこ とのない用心を、彼が案出したことのない賢い措置を、彼が被ったことのない怪我を、彼よりもよく生 かす術を知っていようか? 討論を終える時が来た。この討論は我々二人を疲れさせ始めた。私はSchwärmerei がお前の魂にかけた 魔法を解くために、お前に十分話してきた。もしこの討論が十分になされていないとしたら、私が魔法 を解くために行ってきたことが全て無駄になってしまうだろう。 カリアスよ、ソフィスト達の結社が人間社会のとるに足らぬ部分を形成しているなどと思うなよ。我々 の技術を実行する人々の数は至る所で著しいものである。そしてお前は大きな幸福を築き上げてきた哲 学者のうちで我々の原理を巧みに使用することなく幸福を築く唯一の哲学者を見出すことは難しいだ ろう。この原理は(「慎重であらねばならない」という賢さのため大声で告白されたり、保証されたり はしないが)地位のある者に仕え続け、そしてそれぞれの場所で最高有力者階級の人々に仕え続ける 人々は廷臣の当然の思考形態を作る。そして(演じられたる偽りの幸福が無作為に馬鹿者を利口者のポ ジションにつけるというような稀な場合を除けば)、この原理を最も巧みに使用できる器用な頭脳こそ が、いつでも演じられたる幸福をあらゆる面で栄光と幸福の軌道に導いてくれるものなのである。