塚原渋柿園と「烈女」の劇化──小説「藤江」と歌
舞伎『緋桜』──
著者
神林 尚子
雑誌名
鶴見大学紀要. 第1部, 日本語・日本文学編
号
58
ページ
199-225
発行年
2021-03
URL
http://doi.org/10.24791/00000933
Creative Commons : 表示 http://creativecommons.org/licenses/by/3.0/deed.ja塚原渋柿園と「烈女」の劇化 一九九
塚原渋柿園
と
「烈女」
の
劇化
──小説
「藤江」
と
歌舞伎
『
緋桜
』
神
林
尚
子
はじめに 明 治 四 五 年( 一 九 一 二 ) 三 月、 塚 原 渋 柿 園 の 監 修 の も と、 帝 国 劇 場 に て 歌 舞 伎『 緋 桜 』 が 上 演 さ れ た。 こ の 作 品 は、 前 年 六 月 に『 太 陽 』 誌 に 掲 載 さ れ た 渋 柿 園 の 短 篇 小 説「 藤 江 」 に 基 づ く 上 演 で あ る。 歌 舞 伎『 緋 桜 』 に つ い て は、雑誌『歌舞伎』一四二号(明治四五年四月発行)に渋柿園の談話と複数の劇評が掲載され、上演の経緯をある程 度窺い知ることができる。 小説「藤江」および歌舞伎『緋桜』は、天保期の事件に基づく「烈女ふじ」の話柄を題材としている。近世の出版 統制下では、実事を公刊することは禁じられていたが、この事件に関する風聞は、同時代の儒者の手記や巷説集等に 見 出 す こ と が で き る。 更 に 明 治 期 以 降、 近 世 か ら 近 代 へ の メ デ ィ ア 状 況 の 変 容 を 背 景 に、 こ の 題 材 は 漢 文 体 の 名 文 集、活版草双紙、飯田の郷土史など様々なジャンルで言説化されている 一 。 また、ふじ一件にとどまらず、明治期の出版界では、 「烈女」 「烈婦」物が数多く刊行されている。刊行時期によっ てその論調はやや異なるが、これら「烈女」物の変遷を通じて、明治期の女子教育の思潮を辿ることもできよう。特 に明治四〇年代以降は、 「忠孝」兼備を理想とする思潮の中で、 「烈女」の伝記も読み換えられていくこととなる。二〇〇 本 稿 は、 「 烈 女 ふ じ 」 と い う 題 材 を 手 が か り に、 明 治 期 の「 烈 女 」 を め ぐ る 言 説 の 一 斑 を 探 る も の で あ る。 ま ず は 塚 原 渋 柿 園 の 著 作 活 動 と 演 劇 と の 接 点 を 概 観 し、 「 藤 江 」 お よ び『 緋 桜 』 執 筆 の 背 景 を 辿 る。 次 に 明 治 期 の「 烈 女 ふ じ」関連作品の展開を整理し、特に明治四〇年代の「烈女」物の諸作品における脚色を踏まえた上で、渋柿園作「藤 江」と『緋桜』の位置づけを考えてみたい。明治という時代を通じて、文学と演劇はどのような変化を潜り抜けたの か、一方で変わらず持ち伝えられたものは何か。あわせて、 「烈女ふじ」諸作品にみえる「忠孝」観と、 「理想」の女 性像についても一考したい。 な お、 「 ふ じ 」 の 表 記 は 作 品 に よ っ て 異 な る が、 本 稿 で は、 史 実 な い し は こ の 題 材 一 般 を 指 す 場 合 は「 ふ じ 」 の 表 記をとり、個々の作品に即して述べる場合には作中の表記に従うこととする。 一 塚原渋柿園の著作活動 (一)渋柿園略伝――翻案・政治小説から歴史小説へ 「 藤 江 」 と『 緋 桜 』 の 検 討 に 先 立 っ て、 渋 柿 園 の 著 作 活 動 を 概 観 し て お き た い。 以 下、 主 に 大 塚 豊 子 氏 の「 塚 原 渋 柿園」 (『近代文学研究叢書』第一七巻所収) 二 に拠りながら、その事績と主な作品を見ていこう。 渋 柿 園 は 嘉 永 元 年( 一 八 四 八 )、 幕 臣 市 之 丞 昌 之 の 長 男 と し て 生 ま れ た。 維 新 の 動 乱 を 経 て、 明 治 七 年 に 二 七 歳 で 横浜毎日新聞に入社、仮名垣魯文の感化を受ける。明治一一年には東京日日新聞に転じ、主筆の福地桜痴から多大な 影響を受けた。著作活動は、桜痴の影響下、政治小説の翻案から始まる。初期の作例『 昆 コンタリニー 太利 物語』は、ビーコンス フィールドの『コンタリニ・フレミング』を桜痴と共訳したもので、これは北村透谷をはじめとする当時の青年たち に も 歓 迎 さ れ た。 続 い て、 エ イ ン ズ ワ ー ス の 小 説 を 翻 案 し た『 曼 マンチェスター 府 の 叛 乱 』 を 発 表 す る な ど、 初 期 の 著 作 は 西 洋 の
塚原渋柿園と「烈女」の劇化 二〇一 政 治 小 説 の 翻 訳・ 翻 案 が 中 心 で あ る。 一 方、 明 治 二 五 年 以 降 は 歴 史 小 説 を 手 が け、 日 本 史 上 の 英 雄 豪 傑 の 伝 を 中 心 に、緻密な考証に基づいた重厚かつ豪快な作風で人気を博した。晩年には、江戸の市井の生活や維新動乱期を回顧し た 随 筆 も 執 筆 し て い る 三 。 明 治 四 〇 年 に は、 露 伴、 鴎 外、 藤 村、 鏡 花、 秋 声 ら と 共 に 西 園 寺 公 望 邸 の「 雨 声 会 」 に も 招かれ、大正期には文芸委員に推されるなど、文壇にも小さからぬ位置を占めた 四 。 「 渋 柿 園 」 の 号 は、 自 宅 に あ っ た 渋 柿 の 樹 か ら 採 っ た と い う 談 話 も 残 る が 五 、「 自 由 思 園 」 等 の 表 記 も 用 い て い る こ とから、自由主義を掲げて政治小説を手がけた志の投影でもあることは疑いなかろう。今日渋柿園の作として知られ るのは、後年の歴史小説や晩年の随筆が中心であるが、その出発点が欧米の政治小説の翻訳・翻案にあったことは注 意 し て お き た い。 渋 柿 園 の 中 で、 そ れ は お そ ら く 相 矛 盾 す る も の で は な か っ た。 渋 柿 園 の 歴 史 小 説 へ の 転 換 に つ い て、大塚豊子氏は次のように述べている。 旧幕臣として主家の崩壊をみ、新時代に遷移する中で、多くの艱難を体験した彼は、文明開化の気運の中に発展 しつつある当時の国情に必ずしも満足していなかった。それは旧幕時代を徒らに憧憬したり、懐古しているので はなく、 もち前の剛直な武士道精神で、軽佻浮薄な風を危ぶむことしきりであった。だから新国家の建設にも進 取的な気魄と正義感を抱いて、大衆を啓蒙し、歴史的知識を普及しつつ国民精神を発揚しようとした 。その手段 としてもっとも興味をそそる歴史小説に着手した のである。 六 旧幕臣として維新期の動乱を経験した彼として、武士道と儒教道徳、政治的な自由思想とは相互に矛盾せず、生涯 にわたって追求するところであった。西洋の政治思想や小説に学んで大衆を啓蒙し、より良い国家を築こうとする精
二〇二 神は、武士道精神と憂国の志に根ざしている点において、後年の歴史小説まで一貫しているのである。 こうしたあり方は、同時代のキリスト者たちとも通底するように思われる。森清美氏は、明治初期のキリスト教的 啓蒙活動が士族出身の知識人によって担われていたことに着目し、これを「士族のキリスト教」と捉える視座を提示 し て い る 七 。 キ リ ス ト 教 的 な 啓 蒙 活 動 と 西 洋 政 治 小 説 の 翻 案、 あ る い は 日 本 史 上 の 人 物 を 英 雄 的 に 描 い た 歴 史 小 説 は、 儒 教 的 な 武 士 道 徳 に 基 盤 を 持 つ と い う 点 で、 と も に 明 治 期 知 識 人 の 典 型 的 な 行 き 方 を 示 し て い る よ う に 思 わ れ る。これは、後述する「藤江」 『緋桜』の「烈女」観の背景とも関わって注目される。 (二)渋柿園と歌舞伎・劇界との接点 『緋桜』劇化の経緯を考える上での補助線として、歌舞伎との接点についても一考しておきたい。まずは、 『東京日 日』時代の後輩であった岡本綺堂の回顧を引こう。 前 年〔 引 用 者 注 ・ 明 治 二 〇 年 代 半 ば 〕 の 七、 八 月 頃 の 綴 込 み で、 新 富 座 の 仙 石 騒 動 の 劇 評 が 非 常 に 精 し く 書 い て あった。それは誰が書いたのですと渡辺(亨)君に訊くと、おそらく渋柿園氏であろうといった 。……これが手 始めで、その後わたしは引きつづいて各劇場の招待見物に出かけて行った。そうして、得意になって劇評を書い た。 それまでは塚原渋柿園氏がときどき見物に行って劇評を書いていたのであるが、渋柿園氏は面倒がって滅多 に行こうとしない 。そこへ丁度わたしが飛び込んだので、わたしはすぐに劇評係に決められてしまった。 八 渋柿園は岡本綺堂の前任として『東京日日』の劇評欄を担当し、詳しい劇評を綴っていた。観劇を億劫がるうち、
塚原渋柿園と「烈女」の劇化 二〇三 綺堂が進んで後釜を引き受けたようではあるが、少なくとも渋柿園は歌舞伎についてもある程度の素養はあったもの と思われる。 『 緋 桜 』 は 帝 国 劇 場 に て 歌 舞 伎 と し て 上 演 さ れ た が、 こ の 前 後、 渋 柿 園 作 は こ の 他 に も 劇 化 さ れ て い る。 再 び 大 塚 豊子氏の記述を引こう。 そ の 間〔 引 用 者 注・ 明 治 末 ~ 大 正 初 期 〕 に 書 か れ た い く つ か の 作 品 を あ げ る と、 …「 藤 江 」( 太 陽 明 四 四・ 六・ 一 )、 …、 「 黒 摘 毛 」( 太 陽 明 四 五・ 一・ 一 ) … な ど。 こ の 中、 水 野 十 郎 左 衛 門 の 義 侠 を 描 い た「 黒 摘 毛 」 が「 黄 金 五 枚 」 と 改 題 さ れ 右 田 寅 彦 脚 色 で 劇 化、 四 十 五 年 一 月 に 帝 劇 で 幸 四 郎、 梅 幸 な ど に よ っ て 上 演 さ れ た。 同じく三月には「藤江」を「緋桜」と改めて上演、好評を博した 。…… 九 明治末年に渋柿園作が続けて劇化されたのは、この期に渋柿園の歴史小説が一定の評価を得ていた証左とも言えよ うか。なお、渋柿園は麹町紀尾井町に居を構えており、梅幸とは隣人でもあった。渋柿園の孫である鈴木千枝雄氏の 手記には、次のような記述がみえる 一〇 。 左隣りは寺島さん(尾上梅幸の邸宅)の家になり、祖父とは昵近の仲でよく行き来していた 。祖父の作品『黄金 五枚』など梅幸、幸四郎に依って帝国劇場によって上演された縁故によるかもしれない。 梅 幸 と の 交 友 が『 黄 金 五 枚 』『 緋 桜 』 上 演 の 要 因 で あ っ た か 結 果 で あ る か は 措 く と し て、 渋 柿 園 が 歌 舞 伎 界 と あ る
二〇四 種の縁を持っていたことは事実と言えよう。こうした状況下で「藤江」執筆と『緋桜』劇化の構想が進められたこと になる。これら二作品の検討に先立って、その題材である「烈女ふじ」物の概略を見ておこう。 二 「烈女ふじ」物の展開――渋柿園『緋桜』前史 (一)安井息軒「阿藤伝」から『藤の一本』へ――明治二〇年代の女子教育 「 烈 女 ふ じ 」 の 題 材 は、 天 保 一 〇 年( 一 八 三 九 ) 九 月 に 起 こ っ た 事 件 を 原 拠 と し て い る。 飯 田 藩 の 江 戸 上 屋 敷 に て、藩主・堀 親 ちか 寚 しげ の側室であった若山が、奥女中の「ふじ」という女性に斬りつけられ、重傷を負う。若山はこの傷 で間もなく落命、ふじは国許の飯田に送られ、同年一二月に処刑された。事件の真相は不明ながら、内政を乱す側室 を単身誅した「烈女」としてその挙を称揚する言説が行われ、次第に成長していくこととなる。 「 烈 女 ふ じ 」 を め ぐ る 初 期 の 言 説 と し て 代 表 的 な の は、 安 井 息 軒 の「 阿 藤 伝 」 で あ る 一 一 。 典 拠 は 分 明 で は な い が、 内 容 は 近 世 の 巷 説 集『 天 保 雑 記 』『 藤 岡 屋 日 記 』 の 記 事 と ほ ぼ 一 致 し て お り、 同 時 代 の 巷 説 を 漢 文 に 改 め て 成 っ た も の と 推 定 さ れ る。 「 阿 藤 伝 」 は『 近 世 詩 文 選 』( 稲 津 済 編、 明 治 一 一 年 刊、 会 友 社 )、 『 文 苑 奇 観 』( 池 田 観 編、 明 治 一二年刊、柳原喜兵衛)などの名文集にも収載されて広く読まれた。明治一〇年代には、これを更に和文に改めて、 染 崎 延 房「 烈 女 阿 藤 の 伝 」( 明 治 一 二 年、 『 芳 譚 雑 誌 』 連 載 ) 一 二 や 活 版 草 双 紙『 近 世 烈 婦 伝 』( 同 一 三 年 ) な ど が 刊 行 され、女子教訓書としての位置づけをも獲得していく。 こうした流れを受けて、明治二〇年代に入ると、この題材は女子教育の観点からも種々のメディアに取り上げられ る よ う に な る。 そ の 早 期 の 例 が、 『 女 学 雑 誌 』 に 連 載 さ れ た「 忠 貞 不 二 秘 録 」 で あ っ た( 明 治 二 〇 年 四 月 二 三 日 ~ 同 年 五 月 二 一 日 ) 一 三 。 こ の 連 載 に は、 『 藤 岡 屋 日 記 』 や「 阿 藤 伝 」 系 統 の 諸 書 に は 見 ら れ な い、 独 自 の 記 述 が 多 数 見 出
塚原渋柿園と「烈女」の劇化 二〇五 される。 明治二一~二二年には、藤本藤陰による小説『藤の 一 ひともと 本 』が雑誌『都の花』に連載され、明治二四年に単行本とし て 刊 行 さ れ た 一 四 。 同 書 で は、 飯 田 の 古 老 の 談 話 を 聞 き 集 め た 上 で、 幼 時 の 逸 話 を 新 た に 付 与 し て、 「 孝 女 」 と し て の 側 面 を 強 調 す る な ど、 独 自 の 脚 色 を 多 く 加 え て い る。 こ れ は 後 続 作 に 継 承 さ れ、 「 烈 女 ふ じ 」 物 の 新 た な 定 型 を 形 成 す る。 更 に 藤 陰 は、 の ち に 同 作 を「 少 年 読 本 」 の 一 冊 と し て 書 き 改 め た『 烈 女 お 藤 』( 明 治 三 五 年、 博 文 館 ) を 刊 行 し、 「 孝 女 」 と し て の 性 格 を 一 層 強 調 し た。 明 治 三 〇 年 代 以 降 の「 烈 女 ふ じ 」 関 連 作 品 は、 藤 陰 作 の 影 響 を 受 け た 作 例が主流であり、 「阿藤伝」に次いでこの題材の知名度を決定づけたものと言いうる。 藤陰の脚色のうち、 「孝女」の造型に次いで注目すべきは、ふじの「遺書」の創出であろう。 『藤の一本』には、藤 陰の創作に係る「遺書」が載せられるが、以後の「烈女ふじ」関連作品には、この「遺書」を転載したものが散見す る。とりわけ、名家の遺墨を集めた文例集『候文範』 (佐藤寛編、明治二五年七月、庚寅新誌社)や『名家尺牘文集』 ( 岸 上 操 編、 明 治 二 五 年 一 〇 月、 博 文 館 ) に ふ じ の「 遺 書 」 が 収 載 さ れ た こ と は 看 過 し が た い。 ふ じ が 尺 牘 を 学 ぶ べ き「 名 家 」 の 一 人 と し て 意 識 さ れ は じ め た こ と に 加 え て、 「 遺 書 」 の 存 在 が、 こ の 題 材 の「 実 事 」 と し て の 側 面 を 保 証する役割を担っていたことが窺えよう。 後年、藤陰自身も『烈女お藤』の「はし書」の中で、次のように述べている。 … おのれのものしたる藤の一本に 藤女の存寄書といふもの及び死刑の宣告書を 斯くもやあらんと作り載せた るを かしく文範にこれを真のものと見てうつし載せしより 名家尺牘文集また誤りてこれを録したるは もと お の れ が そ ゞ ろ な る 事 を し た る 罪 に し て 戯 作 の 小 篇 実 伝 の ご と く に 見 ら れ 誠 に 世 を 歎 き 人 を 誣 ゐ 今 更 に 口
二〇六 をしく思ひぬ… 一五 藤陰自身も言う通り、小説中の創作が「真のもの」と受け止められ、更に「文範」となるというのは皮肉でもあろ う。ただし一面では、 「遺書」の存在が、ふじ一件の「実伝」らしさを担保し、 「名家」に連なる偉人としての位置づ けを与えることにもなった。 『 名 家 尺 牘 文 集 』 を 編 ん だ 岸 上 操 は、 の ち の 編 著『 和 漢 婦 女 亀 鑑 』( 明 治 二 六 年 二 月、 博 文 館 ) 一 六 に も ふ じ の 伝 記 を 載 せ て い る。 「 山 口 藤 女 」 の 伝 記 と し て、 同 書 で は ふ じ の 斬 刀 吏 を 務 め た 旧 飯 田 藩 士・ 池 田 繁 三 郎 に よ る「 硯 箱 の 記 」 を 引 用 し 一 七 、 更 に「 阿 藤 伝 」 の 抄 録 を 記 し た 上 で、 ふ じ の「 遺 書 」 に 言 及 す る。 岸 上 操 に と っ て、 斬 刀 吏 の 手 記と、儒家安井息軒による漢文伝記の「阿藤伝」 、『藤の一本』中の「遺書」が、同等に「事実」と意識されているこ と に 注 意 し て お き た い。 「 史 実 」 に 関 わ る 関 連 資 料 を 集 め る こ と と、 小 説 の 中 に 描 か れ た「 遺 書 」 を「 尺 牘 」 と し て 仰ぐことは、同書において矛盾していないのである。 な お、 右 の『 藤 の 一 本 』 に 基 づ い て、 「 烈 女 ふ じ 」 物 の 歌 舞 伎 の 第 一 作 が 上 演 さ れ て い る。 明 治 三 七 年 一 〇 月、 東 京 座 所 演「 烈 女 於 藤 伝 」( 竹 柴 晋 吉 脚 色 ) が そ れ で あ る 一 八 。 こ の 時 の 上 演 で は、 幸 田 露 伴 の「 五 重 塔 」 も 同 じ く 竹 柴 晋吉によって歌舞伎化されており、明治小説の劇化という試み自体を呼び物とした公演であったものと考えられる。 ただし、再演の資料は確認できず、同時代の反響も残っていない。また、後述するように渋柿園の『緋桜』は独自の 想による作で、この上演との影響関係は確認できない。
塚原渋柿園と「烈女」の劇化 二〇七 (二)明治四〇年代の「烈女伝」の叢生――ダイジェストとしての「烈女伝」 下 っ て 明 治 四 〇 年 代、 「 藤 江 」『 緋 桜 』 の 発 表 と 前 後 す る 時 期 に も、 「 烈 女 ふ じ 」 の 一 件 は、 諸 種 の「 烈 女 」 物 に 収 載されている。この期の「烈女」物の傾向としては、史実の考証や逸話の拡充といった動向は見られず、概略のみを 挙 げ る も の が 多 い 点 が 指 摘 で き る。 た と え ば 岩 佐 白 鴎『 烈 婦 の 面 影 』( 明 治 四 四 年 九 月、 実 業 之 日 本 社 )、 樋 口 麗 陽 『〈 賢 妻 / 烈 婦 〉 四 十 七 士 』( 明 治 四 五 年 二 月、 武 田 博 盛 堂 )、 大 月 隆 編 輯『 袖 擦 百 話 』( 明 治 四 五 年 五 月、 日 英 舎 印 刷、 東 京 滑 稽 社 発 兌 ) な ど、 既 存 の 資 料 を 抄 出 し、 平 明 な 略 伝 を 綴 る も の が ほ と ん ど で あ る。 更 に、 そ の 徳 目 と し て、 「忠孝」が強調されていく点も見逃し難い特質である。 一 例 と し て、 佐 藤 緑 葉 編『 ポ ケ ッ ト / 忠 孝 百 話 』( 明 治 四 四 年 三 月、 日 吉 堂 ) を 見 よ う 一 九 。 書 名 の 通 り、 本 書 は 「忠孝」で知られた百人の伝記を収載している。 「はしがき」に「普く古今の忠臣孝子の善行美事を 輯 をさ めて其の範を少 年 少 女 諸 子 に 示 し 学 校 に 家 庭 に 日 常 講 話 の 資 料 た ら し め ん と 欲 す る 」 二 〇 と 述 べ る 通 り、 取 り 上 げ ら れ る 人 物 は 男 女 を 問 わ ず、 「 忠 臣 和 気 清 麻 呂 」「 紫 式 部 と 二 人 の 孝 女 」「 二 宮 金 次 郎 」「 塩 原 多 助 」 な ど 時 代 も 多 岐 に わ た る 二 一 。 ふ じ の伝記は第六九章、 「忠烈なる山口藤女」として掲出されている。 信州飯田の藩主、堀大和守の 妾 せふ に若山と云ふがありました、主人の寵愛に乗じて我儘なる振舞多く遂には国の政 事に迄口を入れて奥方を さ (ママ) い 遠けるやうになりました、此時、山口藤女と云ふもの、主人の若君に仕へて居まし たが、若山の振舞は必ず国を乱すものであると悟り之を殺さんと決心し或日、短刀を懐にして若山の室に 詣 いた り其 罪 を 詰 責 し ま し た、 若 山 は 言 葉 詰 り て 遁 に げ よ う と す る 所 を、 藤 女 は 足 に て 其 裾 を 躡 み 手 に 領 ゑり を 掴 み、 『 汝 の 如 き 悪婦を活して置ば御家の不為なり』と、撞き倒して其背に乗り短刀を逆手に振つて 送 つひ に之を 刺 ころ (ママ) 箱 しましたが之を
二〇八 聞もの一人として喜ばぬ者はありませんでした… 二二 おそらく紙幅の関係もあって、本書の記事はごく簡略なものに留まる。書名に「忠孝」を謳いながら、ふじの伝記 に は「 孝 」 に 関 わ る 逸 話 は 見 え ず、 「 阿 藤 伝 」 の 抄 録 に 近 い 内 容 で は あ る が、 言 い 換 え れ ば、 あ る 意 味 で は 安 易 な 「烈女伝」の大綱を示す点に本書の特色があろう。 一 方 で、 岩 佐 白 鴎『 烈 婦 の 面 影 』( 明 治 四 四 年 九 月、 実 業 之 日 本 社 ) で は、 ふ じ の 孝 心 が 強 調 さ れ る 二 三 。「 緒 言 」 において、 「古の列女伝」を読む意義を論じ、 「精神の修養」を第一義に掲げるのは、当時の女子教育の思潮を反映し たものであろう。左の引用は、ふじの幼時を綴った一節であるが、ここには「孝」の強調が明確に見て取れる。 父は山口弾治と云つて、信濃の国飯田藩主堀大和守 親 ちか 冨 とみ の家臣、僅か十石計りの小身者で、お藤と云ふは其長女 である。… お藤は、世にも稀なる孝行ものであつた 。娘盛りの 姿 なりふり 振 に構はず、病に臥せる母の看病、お役勤めの 父の世話、何から何まで一身に引受けて、夜さへ碌々眠られぬ 忙 せは しさ、…まだ其上に手許の不如意を幾分にても 軽 く せ ん と の 志 か ら 、 色 々 と 内 職 を し、 其 暇 ひま を 偸 ぬす み て は 、 読 み 書 き に 心 を 寄 せ、 父 が 夜 語 り の 忠 臣 孝 子 節 婦 伝 に、深くも自分の精神を修養したのである 。 母 の 看 病 や「 内 職 」 に 励 む 条 は、 藤 本 藤 陰『 藤 の 一 本 』『 烈 女 お 藤 』 に 拠 っ て い る。 こ れ に 続 く、 若 山 が 出 仕 に 至 る経緯や、ふじが町医に嫁し、その死後に弟への再嫁を拒んで飯田藩邸に仕えることなども、藤陰作『烈女お藤』に 拠ったことが明らかである。
塚原渋柿園と「烈女」の劇化 二〇九 樋 口 麗 陽『 〈 賢 妻 / 烈 婦 〉 四 十 七 士 』( 明 治 四 五 年 二 月、 武 田 博 盛 堂 ) 二 四 は、 書 名 の 通 り、 赤 穂 浪 士 に 倣 っ て、 四七人の女性の伝記を載せる。その構成からも知られる通り、本書の記述は「忠孝」の称揚が主軸となる。ふじの伝 記はその二四、 「其 愛 あ い ひ 嬖 を刺して君側を清めたる山口藤子」として載せられる(飯田藩主の名は「堀 親 ちかたか 寶 」) 。 国家乱れて忠臣現はれ、家貧うして孝子出づだ 、 錠 ぢやうこうばん 口番 を勤る 山口弾次郎の 女 むすめ に藤子と云ふ花のやうな美人が居 た、藤子は其の容姿の美なるが如く其心も清浄にして潔白なる女であつた 、…藤の花の如く香しく床しき忠烈の 花は可惜二十二の春と共に逝いて仕舞つた。…… 茲に挙げた山口藤子は妖婦の毒君の全身を冒さんとするに際して猛然起つて天誅を加へたもので、 千軍万馬の間 に馳駆して戦功を現はしたものと、其忠節に於ては何等の逕庭もない のである 二五 義 士 に 擬 え て「 忠 孝 」 を 謳 う 同 書 で あ る が、 一 方 で ふ じ の 容 色 を 讃 え る 点 に も 注 意 し た い。 「 阿 藤 伝 」 等 の 漢 文 伝 記 で は、 ふ じ の 容 色 に は 言 及 し て い な い が、 明 治 後 期 の「 烈 女 」 物 で は、 ふ じ を 美 貌 と す る 例 が 複 数 み ら れ る 二 六 。 「忠烈の花」の美を描くことで、その悲劇性を強調する意図があったものとも考えられるが、 「潔白」や「忠節」と並 んで「美」の要素が付与されることに、この期の「理想的」女性像が窺われるようにも思われる。 ま た、 大 月 隆 編 輯『 袖 擦 百 話 』( 明 治 四 五 年 五 月、 日 英 舎 印 刷、 東 京 滑 稽 社 発 兌 ) で は、 こ れ も 書 名 の 通 り、 百 名 の女性の伝記を集めている。ふじの伝記は「主君を思ひて毒婦を殪す」と題され、僅か一〇行程度の短文である。時 代 を「 元 和 の 頃 」、 藩 主 の 名 を「 堀 ほ り し ん ほ う 親 寶 」 と す る な ど、 事 実 と の 齟 齬 が 目 立 つ。 ふ じ の 境 涯 は「 那 須 の 五 郎 の 妻 女 藤 子」とし、若山を「匕首一さし見事貫きて殪した」ところまでを記している。
二一〇 以上はごく一例ではあるが、明治四〇年代の「烈女伝」は、既存の資料を抄出し、平明な略伝を綴るものが多数を 占める。挿絵の有無や逸話の精粗などの相違はあるものの、史実の検証や「事実性」への意識はむしろ後景に退き、 分かりやすい教訓性や「美談」としての結構が主調をなしていくのである。 三 塚原渋柿園と「烈女ふじ」 (一) 『太陽』掲載小説「藤江」 塚原渋柿園による「烈女ふじ」の脚色は、こうした状況下で世に問われた。明治四四年六月に小説「藤江」が『太 陽』紙上に発表され、翌年三月には歌舞伎『緋桜』として上演されている。まずは小説「藤江」の梗概をまとめてお こう 二七 。 舞 台 は「 濃 州 味 岡 の 森 井 家 」、 当 主 の 山 城 守 は 当 年 四 五 歳、 愛 妾「 富 浦 」 は 祇 園 か 島 原 の 遊 女 上 が り と 密 か な 噂で、二七歳の美貌を誇る。山城守は寺社奉行や若年寄を勤めた経験もあり、富浦はそれを補佐する才知を発揮 して、藩の内政にも関与。これを憂いた国家老の「安留主計」が出府して諫言するが、その場で手討ち、以後は 藩主を諫める者もない。富浦は奥方を邪魔者として退ける時節を狙っており、奥方付の下女・藤江(藤)は心を 痛める。 下 渋 谷 の「 祥 雲 寺 」 で の 仏 事 の 際、 山 城 守 は 自 身 の 次 に 富 浦 に 焼 香 を さ せ る。 二 番 焼 香 の 富 浦 は「 御 上 通 り 」 で、爾後は奥方の上位扱いに。奥方は急病と称して急遽帰邸。自室へ籠もった奥方は藤を呼び、よそながら今生 の別れを告げる。
塚原渋柿園と「烈女」の劇化 二一一 得意の富浦は、その夜一人で庭を漫歩。頃しも春半ば、朧月と八重桜を愛でていたところが、奥方の居間近く で 女 の 泣 き 声。 立 ち 去 る と こ ろ を 藤 に 呼 び 止 め ら れ、 「 奥 様 の お 敵 」 と て 脇 腹 を 刺 さ れ、 奥 方 の 居 間 に 連 れ て 行 かれる。奥方は既に自害、藤は富浦の止めを刺した後に、自らも命を絶つ。 本作では、仏事の際の焼香順を焦点に、愛妾富浦と奥方、その下女「藤江」の相克を描いている。事件を春半ばに 設定し、奥方の死に続いて下女による「敵討」が描かれることもあわせて、歌舞伎の「鏡山」物に倣った作意が明ら かである。いわば「鏡山」の世界に「烈女ふじ」を趣向として取り込んだ作と言えよう。わずか一二頁の短篇という こともあってか、展開上の波乱に乏しく、完成度の高い作とは評し難いが、おそらくはこの点も、翌年の上演を想定 し、舞台表を意識しての脚色であったことによるものか。 「藤江」の構想と、 『緋桜』上演の計画のいずれが先行したかについては想像の域を出ないが、六月号掲載の短編と して「鏡山」物であることは、聊か不自然であるように思われる。上演に要する準備期間などを考えても、おそらく は『 緋 桜 』 上 演 の 計 画 が 先 行 し て い た 可 能 性 が 高 い と 考 え ら れ よ う。 言 い 換 え れ ば、 「 藤 江 」 は 翌 年 の 上 演 を 前 提 と して執筆された可能性が想定されるのである。 固 有 名 や 人 物 の 設 定 な ど に つ い て、 「 烈 女 ふ じ 」 の 定 型 と の 関 わ り か ら 整 理 し て お こ う。 舞 台 は「 濃 州 味 岡 の 森 井 家」と朧化しているが、藩主が寺社奉行や若年寄を務めたこと、また職分を果たすため出費が嵩み、奥方の生家から 援助を受けたことなど、堀家に関わる史実も取り入れている。焼香の舞台となる「祥雲寺」は、飯田藩の菩提寺であ る 渋 谷 天 現 寺・ 東 江 寺 と、 ふ じ の 菩 提 寺 で あ る 飯 田 の「 長 源 寺 」 を 掠 め た も の と 推 定 さ れ る。 「 富 浦 」 が 祇 園 や 島 原 の遊女上がりと仄めかすのは、先行作に直接の典拠は見出せず、根拠について検討の要あり。また、国家老の諫言に
二一二 触れるのは「烈女ふじ」の定型であるが、その場で藩主の怒りを買って斬られたとするのは、管見の限り本作のみで ある。事件を春半ばとするのも、先述の通り、 「鏡山」に倣った本作独自の行き方である。 加えて「藤江(藤) 」の描写についても、先行作品には見られない特色がある。 彼 あ れ 女 は今年は 廿 は た ち 歳 である。可なり大柄でもある上に、もう歳が歳であるから、眉を落して、歯を染めさせたら と老女の中には言うもあつたが。奥様は 何 ど う云ふものだか。折角彼女があれ程の 容 きりやう 貌 であるものを、あの 美 うる はし い眉を剃らせて、綺麗な歯を黒めさすも 不 ふ び ん 便 。成るならばもう一二年振袖の奉公をさせて見たい。 予 わし が 身 そ ば 辺 に置 き た い。 と の 御 意。 そ れ で 男 優 り と い ふ 大 だ い ぢ や う ぶ 丈 夫 の 藤、 … 今 日 も 文 金 の 房 々 し た 島 田 に、 平 打 の 銀 か ん ざ し 簪 。 矢 絣 の 半 は ん ふ り 振袖 に黒板の帯といふので、御傍に詰めて、前後と左右に眼を配つて居る。 美 う つ く 麗 しいよりも凛々しい、否や其 れよりも物凄いと云ふのを。 二八 藤 は 当 年 二 〇 歳、 「 男 優 り 」 の 大 柄 で あ っ た が、 奥 方 が そ の 美 貌 を 惜 し ん で 眉 を 落 と さ せ ず、 歯 も 染 め さ せ な い ま ま 振 袖 姿 で 側 に 置 い て い た と い う の で あ る。 「 美 う つ く 麗 し い よ り も 凛 々 し い、 否 や 其 れ よ り も 物 凄 い 」 と い う 行 文 は、 む しろ不可解な念を抱かせるものとして気にかかる。 更に幕切れでは、満開の桜の下、藤江と富浦の格闘が描かれる。 大矢絣の振袖と、紅友禅の下着とは組んず 解 ほぐ れつ。汗の香に交じる蘭奢の匂ひは 繽 ひんぷん 紛 と 傍 あ た り 辺 を払って、 花 は な い く さ 合戦 よりも激しき 双 さ う び 美 の 組 くみうち 打 を、月も 目 め ざ ま 凄 しとか覆い 翳 かゝ る 浮 く も 雲 の 端 は を押し分て、其の半面を 露 あ ら は 出 した。…
塚原渋柿園と「烈女」の劇化 二一三 …敵が為す儘に芝生を引れて、縁側に引上られて、更に廊下から引込れたは、 何 ど こ 所 ?それは奥方の 御 お 閨 ね ま 房 であ った。 看る! 其 そ こ 所 も亦た韓紅ゐ。十畳の御間の隅々までも、 現 こ の よ 世 からなる血の池と見えたる中に、藤は早や 唸 うめ きも敢 へぬ富浦の血染の 骸 むくろ を引居ゑて、… 旋 やが てに御殿は大騒動。人々の此の御閨房へ駈け附けた頃には、浄き白藤の美はしい姿も、哀れ も 、 、 う 紅 あけ に変つて 居た。 (了) 二九 「 鏡 山 」 物 と し て、 夜 の 庭 先 で の 対 決 の 場 面 を 描 く こ と 自 体 は 定 型 の 一 部 で は あ る が、 そ の「 大 矢 絣 の 振 袖 と、 紅 友禅の下着」との「双美の組打」を強調する筆致は、やや特異な観がある。修辞の多い行文とも相俟って、耽美的な 印 象 す ら 与 え る よ う に 思 わ れ る。 「 烈 女 」 を 扱 っ た 短 編 と し て こ う し た 脚 色 が 用 い ら れ て い る の は、 何 ら か の 意 図 を 想定させるものではなかろうか。 (二)帝国劇場上演歌舞伎『緋桜』――女優一座から歌舞伎興行へ 右 の 諸 点 は、 翌 年 に 上 演 さ れ た 舞 台『 緋 桜 』 と の 関 連 に よ っ て 説 明 づ け ら れ る。 こ の 舞 台 に つ い て は、 『 歌 舞 伎 』 一四二号(明治四五年四月一日発行)に塚原渋柿園の談話があり、あわせて青々園と長谷川時雨による劇評も載せら れ る。 ま た、 早 稲 田 大 学 演 劇 博 物 館 に は、 上 演 時 の 番 付 と 舞 台 写 真 も 所 蔵 さ れ て い る 三 〇 。 こ れ ら の 資 料 に よ っ て、 歌舞伎『緋桜』の上演に至るまでの事情と、作劇上の特徴を見ていきたい。 『 緋 桜 』 は 明 治 四 五 年 三 月 一 日 か ら 二 五 日 ま で、 前 年 三 月 に 竣 工 式 を 行 っ た ば か り の 帝 国 劇 場 に て 上 演 さ れ た 三 一 。
二一四 番 付 の 外 題 角 書 は「 烈 女 藤 江 / 毒 婦 富 浦 」、 全 三 幕 の 構 成 を と る 三 二 。 配 役 と し て は、 富 浦 は 尾 上 梅 幸、 藤 江 は 澤 村 宗 十郎、奥方は当初宗之助が予定されていたが、長十郎が代わって演じている。ただし本作は、当初は男性役者による 歌舞伎興行ではなく、帝劇の女優一座によって演ぜられる予定であった。この点について、渋柿園の言を引こう。 『緋桜』は去年の春、 『藤江』と題して太陽に出したものを脚色したのです。 始めは女優の試演として 、女ばかり に演らせようとしたのでした。御覧の通りの鏡山の型を替へたもの、即ち『新鏡山』とでも云ふべきもので 、そ の鏡山を選んだのも、あの狂言ならば、女優にも稽古はつむで居ると聞いてゐる。又た 女の活躍するはあのくら ゐのものは無いし、筋も極めて簡単ですから、十分演り得られると信じたからです 。… 三三 ここでは、当初の構想としては、開業間もない帝国劇場で、女優一座による華やかな舞台を目指していたことが明 言 さ れ て い る。 男 子 禁 制 の 制 約 上、 登 場 人 物 も 女 性 を 中 心 と し て、 「 花 や か な、 妾 の 富 浦 の 紅 友 禅 の 寝 巻 と、 腰 元 の 藤 江 の 紫 の 大 矢 絣 の 振 袖 と が、 卍 字 巴 と 渦 巻 い て 散 る 落 花 の 中 で、 攫 つか み 合 を さ せ る と い ふ 趣 向 」 三 四 が 眼 目 と さ れ て いたのである。 な お、 「 鏡 山 の 型 」 を 選 ん だ 理 由 と し て、 右 の 談 話 で は、 女 優 で も こ の 演 目 な ら 稽 古 を し て い る だ ろ う こ と、 女 性 が活躍する演目であることを挙げているが、三月興行として「鏡山」物を上演するという近世以来の歌舞伎の伝統も 関わっているものと考えられる。帝劇での上演の話が浮上した時期は不明だが、早い段階で渋柿園に打診があったと す れ ば、 前 年 に 発 表 さ れ た「 藤 江 」 の 構 想 自 体 に、 こ の 舞 台 の 上 演 が 関 わ っ て い た と 考 え る べ き で あ ろ う。 「 藤 江 」 において、主人公の藤江が「男優りの大丈夫」とされたことも、出演を予定されていた女優に当て込んだ可能性が考
塚原渋柿園と「烈女」の劇化 二一五 えられるが、この点はなお考証の要がある。 しかし結果的には、帝劇側の事情により、本作は急遽男優による公演となった。先述の『歌舞伎』所載の青々園の 劇評でも、 「『緋桜』は塚原氏が此処の女優一座にはめて書いたのを、座の都合で男優にさせる事となつたから、女の 人物ばかり多過ぎ勝手が違つて無理な所があつた」 三五 と、この間の事情に触れている。 そればかりが原因とも言えまいが、この興行は総じて不評に終わったようである。青々園の評では、富浦を演ずる 梅 幸 が「 虚 栄 に あ せ る ヒ ス テ リ ー 性 な 女 」 を 好 演 し た こ と を 挙 げ る が、 た だ し「 余 り 見 せ 場 と 云 ふ 所 も な い や う だ 」 という苦言が続く。長谷川時雨の劇評も総じて批判的であり、役者の演技や音楽、最後を「桜の散る月夜」で収めた 演 出 に も 否 定 的 で あ る 三 六 。 も っ と も、 渋 柿 園 の 言 と し て は、 「 劇 評 家 か ら は 随 分 叱 言 も 出 て 居 る や う で す が、 仕 方 が ない。筋の単簡で、仕草の多いのが、右の試演の眼目だから、是れは我慢をして貰ふとして、只だその奥行の浅いの が、快感本位の観客の気に叶つたものか、初日からの大入り」 三七 と、集客自体は悪くなかったように述べている。 四 明治期「烈女」像の変遷――「忠孝」の内実をめぐって (一)大槻磐渓『奇文欣賞』の「烈女ふじ」評 こ こ で 改 め て、 ふ じ 一 件 が「 鏡 山 」 物 と 結 び つ け ら れ た 背 景 に つ い て 考 え て み た い。 そ も そ も、 奥 女 中 が「 忠 義 」 の た め に 上 位 の 女 性 に 単 身 斬 り つ け る と い う 筋 立 て は、 「 烈 女 ふ じ 」 と よ く 似 た 要 素 を 備 え る も の で あ っ た。 部 屋 子 と し て 主 人 の 仇 を 討 つ お 初 と、 藩 主 を 唆 す「 奸 婦 」 を 除 こ う と す る ふ じ と は、 立 場 や 行 動 の 背 景 に 違 い は あ る も の の、 「 忠 義 」 を 重 ん ず る 若 き 女 性 に よ る 果 断 な 行 為 と い う 点 で は 共 通 し て い る。 そ の 意 味 で、 右 の 帝 劇 公 演 に お い て、 「鏡山」物にふじ一件が組み込まれたことは、ある意味では順当な発想であったとも言い得よう。
二一六 ふ じ 一 件 が 演 劇 と の 親 和 性 を 備 え て い る こ と は、 既 に 明 治 元 年、 大 槻 磐 渓 が 指 摘 す る と こ ろ で も あ っ た。 名 文 集 『奇文欣賞』 (明治元年一二月刊)所載の高知徳「記烈女阿藤伝」は、ふじ一件を扱った漢文体の伝記であるが、記事 の末尾に、同書の編者・大槻磐渓が「評」を寄せている 三八 。 盤 渓 子 曰 是 與 下 雑 劇 中 阿 初 殺 二 岩 藤 一 事 上 略 相 似 類 仮 令 下 二 戯 子 輩 一 演 中 新 劇 上 当 レ 使 下 二 天 下 婦 女 子 一 泣 上 抑 使 二 軟 弱 無 骨之士観 一レ 之能無 二 愧而死 一 乎 ( 磐 渓 子 曰 く、 是 れ 雑 劇 中 の お 初 が 岩 藤 を 殺 す 事 と 略 ぼ 相 似 た る 類 な り。 仮 に 戯 子 輩 を し て 新 劇 に 演 ぜ し む れ ば、 当 に 天 下 の 婦 女 子 を し て 泣 か せ し む べ し。 抑 も 軟 弱 無 骨 の 士 を し て 之 を 観 せ し む れ ば、 能 く 愧 じ て 死 す こ と無きか) こ こ で 大 槻 磐 渓 は、 ふ じ 一 件 に つ い て、 『 鏡 山 』 の 岩 藤 と お 初 の 件 に「 略 ぼ 相 似 た る 類 」 と し た 上 で、 こ れ を「 新 劇 」 と し て 上 演 し た な ら ば、 天 下 の 婦 女 子 に 涙 を 流 さ せ、 「 軟 弱 無 骨 之 士 」 を 恥 じ 入 ら せ る だ ろ う と 述 べ て い る。 お そらくは若干の揶揄をも含んだこの評言が、明治四五年、塚原渋柿園の手で現実のものとなったのである。明治とい う 時 代 の 幕 開 け と 幕 切 れ に 臨 ん で、 「 烈 女 ふ じ 」 と い う 題 材 を め ぐ る 小 説・ 歌 舞 伎 界 の 位 置 づ け は、 一 見 ほ と ん ど 変 わっていないようでもある。だが勿論、全く同じとも見られまい。ではどこが変わったか、という問いかけは、近世 から近代への継承と断絶を考える上でも大きな命題である。 一 つ に は、 「 烈 女 」 の 事 績 を、 誰 に 向 け た「 亀 鑑 」 と 位 置 づ け る か、 と い う 点 が あ る。 大 槻 磐 渓「 評 」 で は、 こ の 題 材 の 劇 化 が 女 性 の 同 情 を 得 る と の 見 通 し に 続 け て、 「 軟 弱 無 骨 之 士 」 へ の 反 省 を 促 し て い た。 先 述 し た「 阿 藤 伝 」
塚原渋柿園と「烈女」の劇化 二一七 でも、息軒の「評」として、 「一女子を以て、優に髯丈夫の為し難き所を為し」たことを讃えつつ、 「今の世に仕ふる 者、 阿 藤 の 風 を 聞 き、 其 れ 亦 以 て 鑑 と す べ し 」 と 結 ぶ 三 九 。「 一 女 子 」 の「 忠 烈 」 の 称 揚 は、 翻 っ て 男 子 に 向 け た 教 訓 として語られていたのである。しかし明治一〇年代以降、先にも触れたように、この題材はむしろ女子教育の文脈で 語り直されていた。近世では男子に求められていた「忠孝」は、近代以降、女子にも要求されるものとなりつつあっ たことになろう。 こ れ と 関 わ っ て、 「 烈 女 」 の 徳 目 の 内 実 に つ い て も 考 え る 必 要 が あ る。 先 述 の よ う に、 ふ じ 一 件 は 明 治 四 〇 年 代 に 叢生した「烈女」物にも多く取り上げられているが、それらの「烈女」物では一様に、 「忠孝」 「忠節」が強調されて いた。しかし「烈女ふじ」の題材は、本来「忠」ではあっても「孝」の要素は備えていなかったはずである。 「鏡山」 と の 親 和 性 は、 近 世 以 来 の 文 学 観・ 演 劇 観 と そ の ま ま 接 続 し う る も の だ が、 明 治 後 期 の 俗 文 芸 が こ れ ほ ど に「 忠 孝 」 の 強 調 を 志 向 す る こ と を、 大 槻 磐 渓 は 予 測 し え た で あ ろ う か。 「 開 化 」 の 時 代 の 文 芸 は、 あ る 意 味 で は 幕 末 明 治 の 過 渡期に比して、より「復古」の方向へ向かったようにも思われるのである。 (二)渋柿園作の女性観 最 後 に、 女 性 像 と い う 観 点 か ら『 緋 桜 』 に 関 わ る 渋 柿 園 の 発 言 を 見 て お き た い。 『 緋 桜 』 を 含 め た、 自 作 に 登 場 す る女性の造型について、渋柿園は次のように語っている。 … 一体、私の作に出て来る女は、どれもこれも皆一種男性的の性格を帯びて居る、純然たる女でないとは、毎度 友人からも言はれることである 。だが、これは僕の筆が、誤つて然う云ふ女を描き出すのではない。全く私の理
二一八 想から、然う描き現はすので。つまり主観的の故意なのだ。勿論それは、純文学の見地から言つたら批評もあら う、問題的たるに相違はないが、 何 ど うも今日の女は、何処までも け ・ ・ ・ なげ な強いものであつて欲しい。…理義に 伶 さか し い、 情 合 の あ る の を 言 ふ の で、 や つ ぱ り 良 妻 賢 母 で す 。 即 ち 内 助 の 功 の 十 分 出 来 て 行 く ―― と 云 ふ の を 欲 し い。それには つ ・ ・ ・ ・ ・ ゝましい 、 恥 ・ ・ ・ ・ かしい のみでは 不 い か 可 ぬ。 此の『緋桜』に出る藤江の如き、剛健の気性でなければ不 可ぬ。君に仕ふるに忠、 以て夫に服すべしだから、主君の敵討をするくらゐの女にして、初めて十分の内助が出 来る。但しその間には、女子だから情が要る。すなはち儒教の仁とか、基督教の愛とか、又た仏教の慈悲とか云 ふ優しい、涙もろいのを兼ねたものにして貰ひたい 。… 四〇 理 想 の 女 性 像 と し て「 男 性 的 の 性 格 」 を 挙 げ つ つ、 「 情 合 」 を 兼 ね 備 え た「 良 妻 賢 母 」 に 尽 き る と す る の は、 こ の 期 の 女 子 教 育 を 考 え る 上 で 示 唆 的 で あ ろ う。 こ れ に 先 立 つ 部 分 に は、 「 是 れ か ら の 女 は 長 刀 の 一 手 ど こ ろ で は な い、 攫み合ひの稽古ぐらゐは為て置かないと、女権拡張の示威運動の時などには困ります」と、やや揶揄的ながら「女権 拡 張 」 を 視 野 に 入 れ た 発 言 も み え る が、 そ の 上 で 重 視 さ れ る の は、 「 剛 健 の 気 性 」 と 共 存 す る「 優 し い、 涙 も ろ い 」 性質なのである。 そ の「 情 合 」 に 相 当 す る も の と し て、 「 儒 教 の 仁 」「 基 督 教 の 愛 」「 仏 教 の 慈 悲 」 を 並 列 的 に 掲 げ て い る 点 に も 注 意 しておきたい。渋柿園にとって、重視すべきは「優しい、涙もろい」性質であり、その裏づけとなる教義自体は問題 で は な か っ た。 重 要 な の は、 「 情 合 」 を 備 え た 女 性 像 で あ り、 宗 教 的 な 裏 づ け は、 一 種 の 方 便 と し て 使 わ れ て い た と も言えよう。 「 剛 健 の 気 性 」 を 是 と し な が ら も、 「 情 合 」 を 備 え て い る 限 り に お い て そ れ を 認 め よ う と い う 立 場 は、 結 局 は「 女
塚原渋柿園と「烈女」の劇化 二一九 権 」 に 対 し て も 一 定 の 拘 束 を 設 け よ う と す る も の で は な い か。 『 緋 桜 』 上 演 の 四 箇 月 後、 七 月 三 〇 日 に 明 治 の 世 は 終 わ り を 告 げ、 大 正 と 改 ま る。 大 正 期 は、 『 青 鞜 』 に 代 表 さ れ る 女 性 中 心 主 義 的 な 言 説 で も 知 ら れ、 女 権 の 拡 張 が 進 ん だという一面も備えているが、その底流には、右のように限定的な形で女性の「強さ」を認めようとする思潮も根強 く存していたように思われる。渋柿園の発言は、はしなくもその一端を表していよう。 おわりに 本稿では、塚原渋柿園作の小説「藤江」と歌舞伎『緋桜』を中心に、明治後期の「烈女ふじ」物の展開について概 観 を 試 み た。 ご く 雑 駁 な 見 取 り 図 で は あ る が、 ふ じ 一 件 を め ぐ る 言 説 が、 愛 国 的 女 子 教 育 へ の 傾 斜 の 中 で、 「 忠 孝 」 の称揚の好例として扱われていった動向を指摘しうるように思われる。それはまた、女子教育や女性表象の問題とも 深く関わっていた。 幕 末 の 儒 者・ 安 井 息 軒 の「 阿 藤 伝 」 も、 憂 国 の 志 向 や「 士 君 子 」 へ の 亀 鑑 を 示 そ う と す る 意 識 と 無 縁 で は な か っ た。しかし、明治二〇年代以降、 『女学雑誌』連載の「忠貞不二秘録」 (明治二〇年四~五月)のように、ふじ一件を 女 性 に 向 け た 教 訓 と し て 位 置 づ け る 動 き が 目 立 つ よ う に な る。 ま た、 藤 本 藤 陰 の 小 説『 藤 の 一 本 』『 烈 女 お 藤 』 以 後 は、 ふ じ を「 孝 女 」 と す る 造 型 が 定 着 し た。 『 藤 の 一 本 』 で 創 作 さ れ た ふ じ の「 遺 書 」 は、 明 治 後 期 の 尺 牘 文 集 に も 収 載 さ れ、 ふ じ を「 名 家 」 の 列 に 加 え る こ と に も 寄 与 し て い る。 こ う し た 曲 折 を 経 て「 忠 孝 」 を 兼 備 し た「 烈 女 ふ じ 」 の 伝 記 は、 明 治 四 〇 年 代 に 叢 生 し た「 烈 女 」 物 の 中 で、 格 好 の 題 材 の 一 つ と な っ た。 明 治 四 〇 年 代 の「 烈 女 伝 」 類は、ともに「忠孝」を強調する一方で、史実の考証よりも摘要に就き、ダイジェストとしての伝記を綴るものが主 流となっている。作例によっては美貌の女性として潤色を加えるなど、ある意味では「実」を離れた予定調和の伝を
二二〇 綴る傾向が指摘できる。 小説「藤江」と歌舞伎『緋桜』は、武士道精神を重んじた歴史小説で知られる渋柿園の作ながら、その実非常に情 緒的な筆致がみられる。渋柿園の歴史小説は、重厚な作風と評されることが多いが、少なくとも「藤江」の描写には 扇情的な要素があり、桜吹雪の下での乱闘などは一種耽美的ですらある。こうした脚色は、舞台上演を前提としてい た か ら こ そ と も 考 え ら れ る が、 『 歌 舞 伎 』 掲 載 の 談 話 を あ わ せ 考 え る な ら ば、 渋 柿 園 の、 あ る い は 明 治 末 年 の 女 性 観 がその根底にあったと考えることもできるのではないか。 「藤江」 『緋桜』の「烈女」は、単に「忠孝」の節義を体現 するだけでなく、 「けなげ」さや「情合」をも兼ね備えた、 「理想」の女性像として描かれているのである。 渋柿園は、大正六年(一九一七) 、『教育時論』に連載していた「烈女さつ」執筆中に不快を訴え、脳溢血で逝去し た。時に七〇歳。 「さつ」は松平周防守の奥女中に仕えた下女で、 「鏡山」の下女お初の実説とされる人物である。 [ 付 記 ] 本 稿 は、 二 〇 一 九 年 度 日 本 近 代 文 学 会 秋 季 大 会( 於 新 潟 大 学 ) に お け る パ ネ ル 発 表「 明 治 ~ 大 正 期 の 演劇/演芸と近代小説の編成――メディア間の相互交渉とアダプテーションの視点から」での口頭発表に基づ くものである。パネルの共同発表者である大橋崇行氏、柳瀬善治氏、ディスカッサントの日置貴之氏に感謝い たします。また、発表の席上、またその前後にご教示を頂いた合山林太郎氏をはじめとする方々に御礼を申し 上げます。 (かんばやしなおこ・本学准教授)
塚原渋柿園と「烈女」の劇化 二二一 一 拙 稿「 「 烈 女 ふ じ 」 像 の 生 成 ―― 幕 末・ 明 治 期 の 文 芸 に み る 風 聞 の 流 布 と 成 長 」( 『 国 語 国 文 』 八 一 ― 六 号、 二 〇 一 二 年 六 月 )、 同 「 明 治 期 の 烈 女 伝 の 一 端 ――「 烈 女 ふ じ 」 を 題 材 と し て 」( 『 国 語 と 国 文 学 』 九 六 ― 一 号、 二〇一九年一月) 。 二 昭 和 女 子 大 学 光 葉 会 刊、 一 九 六 一 年。 渋 柿 園 の 事 蹟 に つ い て は、 こ の ほ か『 大 衆 文 学 大 系 』 第 三 巻( 講 談 社、 一 九 七 一 年 ) の「 解 説 」( 尾 崎 秀 樹 執 筆 )、 小 池 正 胤「 文 海・ 桃 水・ 渋 柿 園 の 新 聞 小 説 ― 戯 作 文 学 の 投 影 の 一 断 面 ―」 (『 文 学 』 三 四 号、 一 九 六 六 年 九 月 )、 菊 池 眞 一「 塚 原 渋 柿 園 著 作 一 覧 表 」( 『 甲 南 国 文 』 四 二 号、 一 九 九 五 年 三 月 ) 等 を参照した。 三渋柿園随筆の集成としては、菊池眞一編『幕末の江戸風俗』 (岩波文庫、二〇一八年八月)がある。 四瀬 崎 圭 二 氏 は、 明 治 末 期 か ら 大 正 初 期 に 三 越 が 主 宰 し た「 元 禄 研 究 会 」「 流 行 研 究 会 」 と の 関 わ り を 通 じ て、 回 顧 的 な「 江 戸 文 化 」 の 象 徴 と し て の 渋 柿 園 の 位 置 づ け を 考 察 し て い る( 「 流 行 研 究 会 と 塚 原 渋 柿 園 ――〈 江 戸 趣 味 〉 の 中の身ぶり」 『国文学攷』二二〇号、広島大学国語国文学会、二〇一三年一二月) 。 五「文壇諸名家雅号の由来」 (『中学世界』明治四〇年一一月二〇日) 。 六前掲「塚原渋柿園」 、二五六頁。 七森清美 『明治キリスト教会形成の社会史』 (東京大学出版会、二〇〇五年) 。 八岡本綺堂『明治劇談 ランプの下にて』 (岩波文庫、一九九三年)一五四頁。 九前掲「塚原渋柿園」 、二五六頁。 一 〇手 稿「 蝸 牛 の あ と 」。 前 掲「 塚 原 渋 柿 園 」 所 引、 二 八 二 頁。 な お 鈴 木 氏 は、 岡 本 綺 堂 に 入 門 し て 文 筆 業 を 志 し て い
二二二 たが、夭折したという(大塚豊子氏「塚原渋柿園」解説) 。 一 一近 世 末 期 の 成 稿 と 考 え ら れ る が、 息 軒 の 在 世 中 は 上 梓 さ れ ず、 刊 本 と し て は『 息 軒 遺 稿 』( 明 治 一 一 年 八 月、 安 井 千菊刊)が初出。東京大学総合図書館蔵本を参照。 一 二『芳譚雑誌』三八号(明治一二年一月一一日)~四三号(同年二月六日)まで、全六回連載(東京・愛善社発行) 。 次の『近世烈婦伝』とともに、延広真治「三遊亭円朝作「操競女学校」――創作技法よりみた江戸と明治」 (『東京大 学教養学部教養学科紀要』二五号、一九九三年三月)に指摘あり(一一三頁) 。『芳譚雑誌』は東京大学総合図書館蔵 本を参看。 「阿藤伝」の和文化については、注一の拙稿(二〇一九)を参照されたい。 一 三女 学 雑 誌 社 発 行。 「 秘 録 」 は「 佳 伝 」 欄 に 掲 載。 引 用 は 複 製 版( 臨 川 書 店、 一 九 六 六 年 ) に よ る。 な お、 こ の 連 載 記 事 の 存 在 に つ い て も、 注 一 二 前 掲 の 延 広 氏 稿 に 指 摘 が 備 わ る。 拙 稿「 『 女 学 雑 誌 』 と「 烈 女 ふ じ 」 ――「 忠 貞 不 二 秘録」をめぐって」 (『鶴見日本文学』二七号、二〇一九年三月)でも小考を試みた。 一 四雑誌『都の花』第一巻第五号(明治二一・一二・一六)~第五巻二三号(同二二・九・一五)に断続的に掲載、全 一 〇 回。 単 行 本 は 明 治 二 四 年、 金 港 堂 刊。 藤 陰 作 に つ い て は、 拙 稿「 藤 本 藤 陰『 藤 の 一 本 』 と『 烈 女 お 藤 』 ―― 明 治小説の「実伝」と「敷衍」 」( 『鶴見大学紀要』五六号、二〇一九年三月)にて検討した。 一 五『烈女お藤』本文一頁。引用は国会図書館蔵本による。引用に際して適宜空白を設け、傍線を付した。 一 六下田歌子題字、西田教正序。国会図書館所蔵本を参照(同館デジタルライブラリー) 。 一 七「 硯 箱 の 記 」 は、 ふ じ の 五 十 回 忌 法 要( 明 治 二 一 年 一 二 月 ) に 際 し て、 右 の 池 田 氏 が ふ じ の 最 期 を 綴 っ た も の で、 ふ じ が 辞 世 を 記 す の に 使 っ た と さ れ る 硯 と と も に、 長 源 寺 に 奉 納 さ れ て い る。 『 長 源 寺 誌 』( 長 源 寺 発 行、 一 九 九 一 年)三四七頁。
塚原渋柿園と「烈女」の劇化 二二三 一 八『 歌 舞 伎 年 表 』 第 八 巻( 岩 波 書 店、 一 九 六 三 年 )、 明 治 三 十 七 年( 一 九 〇 四 ) 条「 十 月 三 十 一 日、 東 京 座、 「 烈 女 於 藤 伝 」。 …「 五 重 塔 」。 お 藤( 芝 翫 ) 安 豊 主 計、 若 山 …( 高 麗 蔵 ) … 山 口 慈 平 …( 猿 之 助 ) …。 「 烈 女 於 藤 伝 」 は、 藤 本藤陰作の「藤の一本」を竹柴晋吉脚色。…二番目は幸田露伴の小説をやはり晋吉脚色す。」 (一七七頁) 。 一 九挿絵無。洋装、三一八頁。国会図書館蔵本を参照。 二 〇「はしがき」二頁。引用に際して適宜ルビを省略した(原総ルビ) 。 二 一「誠忠菅原道真」 「孝子中江藤樹」など、従来必ずしも「忠孝」を主眼として取り上げられていない人物の伝も相当 数を占める。全体の配列に特段の分類意識は見られない。 二 二本文二三五~二三六頁。以下、飯田への護送と、刑場での辞世、墓に香花が絶えなかったことを言う。 二 三和文、漢字平仮名交じり表記。挿絵なし。洋装。国会図書館蔵本を参照。 二 四「巌谷小波序/伊藤銀月序/樋口麗陽著」 (表紙) 。和文、漢字平仮名交じり文、挿絵なし。国会図書館蔵本を参照。 二 五引用前半は一七四頁、後半は一七九頁。 二 六先 掲 の 藤 本 藤 陰『 烈 女 お 藤 』 で は、 ふ じ の 婚 姻 に 関 わ る 注 記 の 中 で、 「 藤 女 の 肖 像 を 見 る も、 容 顔 は、 尋 常 一 様 の ご と く な れ ば、 そ の 縁 組 を 求 め し は、 か な ら ず 藤 女 の 孝 心 を 愛 で ゝ な ら ん 」 と 記 し て い る( 六 二 頁 )。 美 醜 の 評 価 は もとより主観に過ぎないが、ふじを美女として描くか否かは、当該の作品の「烈女」観と関わるものであるように思 われる。 二 七『太陽』第拾七巻第八号、明治四四年五月二七日発行、博文館。作者表記は「塚原渋柿」 。本稿での引用は東京大学 駒場図書館所蔵本による。 二 八「藤江」一七二~一七三頁。
二二四 二 九「藤江」一八〇~一八一頁。 三 〇番 付 は 同 館 の「 近 世 番 付 デ ー タ ベ ー ス 」 所 載( ロ 24 -18-846 )。 写 真 は 同 館 の「 舞 台 写 真 デ ー タ ベ ー ス 」 に て、 「 侍 女藤江 〔七代目〕 沢村宗十郎」 (「緋桜」 F52 -4791 )、 「妾富浦 〔六代目〕 尾上梅幸」 ( F32 -3925 )「奥方菊の方居間の場」 二点( 「緋桜」 F52 -4792/F32 -4342 )の画像が公開されている。 三 一『帝劇の五十年』 「主要興行年表」 (帝劇史編纂委員会編、東宝株式会社、一九六六年)一〇〇頁。 三 二番 付 に 従 っ て 全 三 幕 の 構 成 を 記 す。 「 序 幕 織 井 家 通 用 門 の 場 / 同 返 し 同 奥 御 殿 の 場 / 二 幕 目 足 軽 小 頭 住 居 の 場 / 同 返 し 祥 雲 寺 焼 香 の 場 / 大 詰 奥 方 菊 の 方 居 間 の 場 / 同 奥 庭 仕 返 し の 場 」( 近 世 番 付 デ ー タ ベ ー ス、 ロ 24 -18 -846 )。 三 三「 帝 劇 の『 緋 桜 』 に 就 て 」『 歌 舞 伎 』 一 四 二 号( 歌 舞 伎 発 行 所、 明 治 四 五 年 三 月 廿 九 日 印 刷、 四 月 一 日 発 行 ) 五 二 頁。同記事は談話による。 三 四注三三前掲書、五三頁。 三 五青々園「帝国劇場の三月」 、前掲『歌舞伎』一四二号、五四~五五頁。 三 六「芝居の印象(明治、帝劇、歌舞伎) 」、前掲『歌舞伎』一四二号、九三~九七頁。 三 七注 三 三 前 掲 書、 五 三 頁。 こ れ に 続 き、 「 此 間 の あ の 雪 の 日 に も 一 二 等 は 売 り 切 れ、 三 四 等 の 椅 子 が も う 二 三 十 塞 が れば満員などと云ふ好景気」とする。 三 八『 奇 文 欣 賞 』 は 中 本 四 巻 四 冊、 京 都・ 竹 苞 楼 刊。 島 村 弘 堂 序、 竹 苞 楼 主 人 跋。 引 用 箇 所 は 巻 之 一、 十 四 丁 裏。 な お、 「 記 烈 女 阿 藤 伝 」 は の ち に『 近 古 史 伝 』( 明 治 一 二 年 五 月、 真 部 武 助 刊 ) に も 収 録 さ れ る が、 『 近 古 史 伝 』 に は こ の 磐 渓評は採られていない。
塚原渋柿園と「烈女」の劇化 二二五 三 九原漢文。引用にあたって私に書き下し、句読点を施した。 四 〇注三三前掲書、五三~五四頁。傍点は原文ママ。