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「本ト願を立ツ」考

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Academic year: 2021

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全文

(1)

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望 月 海 淑

1

﹃ 関 目 紗 ﹄ は 三 大 哲 願 の 表 明 に 先 立 っ て 、 詮するところは天もすで給、諸難にもあえ、身命を期とせん

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− − − 普 に 付 け 惑 に つ け 法 華 経 を す っ る 、 地 獄 の 業 な るべし。本ト願を立 y O ︶ とのべている。このお言葉は日蓮聖人の法華経信仰へのあり方を明示したものであるが、善悪につけ法華経信仰をす てることが堕地獄の業であるとする時、 ﹁本ト願を立乙というお言葉を理解するためには、日蓮聖人が法華経とどう かかわりあっていたのか、ということを明白にしておく必要があると思われる。 たとえば、この﹁本ト願を立ッ﹂のお言葉についてふれた二、三の書物を見ると、そこには法華経方便品の﹁我本立 ︵ 2 v 誓願﹂の言葉を主として引用して説明しているのを知りうる。この語句が引用せられるのは本哲願を本︵哲﹀願と読 もうとするためであろうと思われるが、しかしこれは、釈尊が一仏乗を説示したことにより、これを説こうとした本 哲 願 が 満 足 せ ら れ 、 一切衆生を仏道に入らしめたことを表明したものであるから、日蓮聖人の本ト願を立ッとし法華経 弘通の覚悟を表明したのとは質を異にするように思われる。 その手がかりをどこに求めようとするのかが、本試論の目的といえよう。 ﹁ 本 ト 願 を 立 ツ ﹂ 考 ハ 望 月 ︶

(2)

﹁ 本 ト 願 を 立 ツ ﹂ 考 ハ 望 月 ﹀

2

山川智応博士は﹃関目鈴講話﹄の中で、 ﹁ 本 ト 願 を 立 と に つ い て 、 ﹁ 大 願 を 立 て よ う ﹂ と 文 釈 し 、 更 に 、 ﹁ 立 宗 閲 教のはじめの叫びであった清澄山最初説法の前、 おそらくは建長五年の春、叡山から下りたまうた時に、決定せられ た御普願であらうとおもはれる﹂とした上で、﹁此の本願がましましたればこそ、三十年の大迫難の中を一歩も退き ︽ 3 ﹀ たまはず﹂すすまれたのだと義釈している。このように﹁大願を立てよう﹂との文釈の理解は他の諸師にも見られる。 これは室住一妙教授も同様で﹃関目妙に聞く﹄の中で、 ︵ 5 ﹀ であります﹂として、大願とした上で、山川博士のように、この大願が建長五年に立てられたことをも示している。 ﹁ そ こ で 私 は 、 二 十 年 前 、 願 を 立 て た の で す ﹂ ﹁ 不 滅 の 大 願 この﹁本ト願を立ッ﹂を大願と見るのは、﹃録内啓蒙﹄にも見られる。すなわち、﹁大願を立 γ 等 ﹂ と し た 上 で 、 ﹁ 次 下の御文体即大願ノ体ナリ、板本ニ立 γ ニ ト ア リ 、 ニ ノ 仮 名 非 ナ リ 、 又 一 本 ニ 立 ヨ ト 点 シ テ 、 下 知 ノ 言 − 一 周 タ ル 、 亦 非ナリ、御自身ノ願ヲ挙玉ヒ、下ノ用ヒジトナリト云句ユテ、先死身ノ願ヲ結シ玉ヒ、我レ日本国ノ柱トナラント云 ヘ ル 下 ニ テ 、 ︿ 6 ﹀ 欺﹂として、大顕であり、死身ノ願トシ、日蓮聖人の弘法の大願を示したものだとなしている。 弘 法 ノ 願 ヲ 述 玉 ヘ リ 、 大 願 ノ 大 ノ 字 、 本 ノ 字 ニ 作 レ ル ヲ 語 式 − 一 正 ト セ リ 、 サレトモ大ノ字選テ穏ナル 清水竜山教授は、見宝塔品の六難九易中﹁の此為難事宜発大願﹂とある文に応じて﹁大願を立てん乃至種々の大難出 来すとも乃至其外の大難風の前の塵なるべし乃至普ひし願破るべからず﹂となったのであり、更に﹃阿仏房御書﹄﹃上 野殿御返事﹄等の御番を挙げて、本願ではなく大顕であり、 ﹁御真跡に万に一つ﹁本願﹂とあったとしても、恐らく は御筆誤ででもあって、須く﹁大願﹂であるべきである﹂と、﹁本ト願を立ッ﹂は﹁大願を立つ﹂と読まなければなら

(3)

ないことを明示している。そして更に、 ﹃破良観等御書﹄に﹁本よりの願﹂云々の句が見え、これが﹁本願﹂に似て 願 ﹂ と は 、 いるように思われるが、これは日蓮聖人が﹁清澄入山して虚空蔵菩薩の宝前に立願せられた時の述懐で、 ﹁経祖典には絶えて﹁本願﹂といふ名詞はない叫として、 ﹁ 本 よ り の ﹁ 其 時 己 来 の 願 ﹂ の こ と で ﹂ あ り 、 ﹁ 本 願 ﹂ と なしているのは真意に心付かなかったからであろうとなしている。 このように﹁本ト願を立こなのか﹁大願を立つ﹂なのかは議論のあるところであるが、御真跡のない今は、小川泰 堂居士の行跡は一つの手がかりになる。 すなわち﹁大願を立てよう﹂と文釈された山川智応博士も、﹁御真跡は、もと本願とありしが如し。泰堂居士の﹃御 遺文録﹄稿本みな本願となり居れり。居士は、不審の字は、御真跡に対照したりとあればなり。但し正本対校せりと いふ乾師の本に基づける稲田師の﹁全集﹂には、﹃大願﹄とあり。今は大願に従ふも、泰堂居士の﹃本願﹄の方、真な りしにあらずやと考ふるなり﹂とのべている。博士が﹁此の本願がましましたれば﹂というのはそのためであろう。 これをうけて田中芳谷師は、この間の事情について、この言葉は、古来、多くの刊本において﹁大願を立てん﹂と なされていたことが知られている。しかし、小川泰堂居士が明治五年、身延山の宝蔵に入り、御真跡と対照せられ、 ﹁ 大 願 ﹂ は ﹁ 本 願 ﹂ と 記 る さ れ て い た の で 、 ﹁本﹂と朱正されていた。その稿訂本が出版せられたのは、居士の没後 で縁故の離れた方面で手がけられたため、この朱正はとり入れられず、従前通り﹁大﹂となされたのであり、それが ハ 9 v 昭和定本編纂にあたり、本来の真筆の型にあらためられ﹁本ト願をッ立﹂という文にもどされた、といういきさつを示 し て い る 。 すなわち﹁本﹂であったのか﹁大﹂であったのか意見のわかれるところであるが、これの如何は小川泰堂居士の朱 ﹁ 本 ト 願 を 立 ツ ﹂ 考 ︿ 望 月 ﹀

(4)

﹁ 本 ト 願 を 立 ツ ﹂ 考 ハ 望 月 ﹀ 正の件にかかわることであり、他方、清水竜山教授のように、 ﹁本﹂であったとしても誤筆だとする意見もあること を 知 り う る 。 ところが、茂岡井教亨教授は﹃関目抄講讃﹄の中で、 ﹁ 本 ト 願 を 立 ッ ﹂ に つ い て 、 昔 は ﹁ 本 願 を 立 つ ﹂ を ﹁ 大 願 を 立 て ん ﹂ と あ り ま し た が 、 ﹁大願を立てん﹂とこれから立てるのではないのです。もと願をたてたのですから、三十二 才の時にお立てになった願だと思います、と、山川博士、室住教授と同じ意見をのべながらも、 ﹁ 普 通 の 解 釈 で す と 日蓮聖人の自覚的主体者としての立場から発願、立願されているのだ、とこう見るのでありますけれども、これは宗 祖自ら柱とか、限目とか、大船という事をおっしゃるには、そこの中に法華経がなければならない﹂とし、 ﹁ ﹃ 本 尊 紗﹄式に言うならば、釈尊の因行果徳の二法が譲与されている回避という私が﹂ということで、 ﹁ 我 の 中 に は 法 華 経 の自己実現がある。すなわちこの法華経が末法という時を選んでいるのです。 法華経が末法とかかわりをもつので す ﹂ と し な が ら 、 ﹁その世界で発願され立願され﹂たもので、この我は﹁法華経の行者日蓮で﹂、 ﹁ 単 な る 安 州 の 日 蓮 と い う 個 我 で は な く て 、 界におけるわたくし﹂ と し て 、 回避法師と言われる歴史的な存在となっている。これは歴史的世界になります。歴史的世 円 却 ﹀ それ故にこそ﹁本ト願を立ッ﹂と書かれたのだとしている。 と ら え て 、 すなわち、この茂田井教授のご理解は、写実的には日蓮聖人のご生涯の事実としてとらえながらも、法華経と日蓮 聖 人 の 聞 に 、 いわゆる射影と照射との関係が見られ、 それ故にこそ、時間を超えた宗教的な﹁本ト願﹂としてとらえ る昇華が見られることを知りうる。そして、このような茂岡井教授のとらえ方は、実に重要な要素を含んでいるよう に 思 わ れ る 。

(5)

3

哲願︵本願﹀というのは同肖

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保存、貯蔵、宝、願などの意をもっ名詞がつけ加えられたもので、眠想、普願などの意 をもち、普願、本願などと漢訳されている。そこでこの語は次のように使われている。 ~

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︿舎利弗よ、かの尊い等正覚の華光如来は、三乗に関して法を説くであろう。舎利弗よ、かの如来は劫潟には出現 しないであろう。しかし、本願の力によって法を説くであろう。﹀ すなわち、舎利弗が将来なるであろう華光如来も、釈尊と同じように一仏乗を三乗に分別した法を説くが、劫濁の 時には出現しないが、華光如来が持つ本願力によって法を説くであろうとしており、本願同 M 門 店 広 ﹃ 仰

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の 力 が 説 示 に 強くかかわっていることを示している。妙法華経はここのところを、 ︵ 盟 ﹀ 華 光 如 来 亦 以 三 ニ 乗 − 教 − − 化 衆 生 − 。 舎 利 弗 。 彼 仏 出 時 雄 レ 非 = 怒 世 百 以 = 本 願 − 故 説 三 ニ 乗 法 − 。 と し 、 正 法 華 経 は 、 蓮華光正覚亦当 2 統 説 三 ニ 乗 法 − 。 而 仏 説 法 具 足 一 劫 。 所 レ 可 ν レ 経 示 − 一 奇 特 願 − 。 としている。かの仏が劫濁には出現しないという党文法華経の表現が、妙法華経では悪世に非ずと雄も出現すとなさ ﹁ 本 ト 願 を 立 ツ ﹂ 考 ︿ 望 月 ﹀

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﹁ 本 ト 願 を 立 ツ ﹂ 考 ハ 望 月 ﹀ れ、正法華経では説法具足すること一劫となされ相異をしているけれども、

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を本願と訳し、奇特願と訳 していることは明白である o v 奇特の願というのは、普通ではない願ということを示すが、本願句

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官”が単な る願ではなく、仏の深い心から生ずるものであるためであろう。 そして更に舎利弗への授記に先立って、この本願について、われは昔、曽て二万億の仏の所において放を教化し、 と し た 上 で 釈 尊 は 、 汝 亦 長 夜 随 レ 我 受 弘 子 。 我 以 − − 方 便 一 引 = 導 汝 一 故 。 生 = 我 法 中 − 。 舎 利 弗 。 我 背 教 宮 古 夜 志 = 願 仏 道 一 。 汝 今 悉 忘 。 而 便 自 謂 三 o m v 己 得 − 一 滅 度 一 。 我 今 還 欲 レ 令 三 度 億 二 念 本 願 所 行 道 − 故 。 妙法蓮華教菩薩法仏所謎念の法華経を説くのだと諮っている。ここでいう本願所行進の本願は、仏の本願ではなく、 舎利弗の本顕であることは明白だが、発文法華経は、

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︿舎利弗よ、汝は長夜に私に学んだ。舎利弗よ、汝はかの菩薩の計画、菩薩の神秘によって、この世で私の教えの 中に生まれた。舎利弗よ、汝はかの菩薩の立場によって、前世の所行と本願を、菩薩の計画と菩麓の神秘を思いお こさないで、私は滅度したと考えている。舎利弗よ、汝に私は前世の所行と本願と智慈の回想を思いおこさせよう

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と 欲 し て : : : ﹀ となして法華経を説いたとしている。舎利弗が昔、仏にしたがって仏道を志願したというのは、 U Z H 1 4 M W W ω 告 の 釦 M

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を訳したもので、志願とは司自色舎営仰のことで、舎利弗が前世におこしたものであり、本願所行の 道 を 憶 念 せ し め ん と 欲 し て と い う の も 、 司 ロ コ 州

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包 内 出 品 ロ m w のこのような基本的な使われかたをふまえたところで、法華経の中において使われてい る本願︿普願﹀の種々相を次に見ていくことにする。 方便品において一仏乗を説示した仏は、諸仏如来は但、菩薩のみを教化したまうことを不問不知の者は仏弟子に非 ﹁ 本 ト 願 を 立 ツ ﹂ 考 ハ 望 月 ︶

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﹁ 本 ト 顕 を 立 ツ ﹂ 考 ハ 望 月 ﹀ ずとした上で、比丘比丘尼で、 自 謂 下 巳 得 = 阿 羅 漢 一 是 最 後 身 究 覚 程 般 mh 。 使 不 = 一 復 士 山 − − 求 阿 縛 多 羅 三 貌 三 菩 提 − このような人は増上慢出

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仰口”であることを示している。ここでは仏の願いは但教化菩薩であるから、仏 乗を求めようとしない者、そのような本願に生きようとしない者は増上慢だということになることを示している。そ 我 本 立 − 一 普 願 如 − − 我 背 所 願 一 一切衆生を仏道に入らしめたとしているが、党文法華経は、 欲レ令三切衆 如 レ 我 等 無 p 異 今 者 己 満 一 時 し て 備 の 中 に お い て 、 が 諮 ら れ 、

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︿曽て私が見、考え、決意したように、私の本願は完全に満たされた。仏として悟りを私は説く﹀ として、所願が本願句

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仰の訳であり、我本立哲願は意訳であることを示している。そしてここでの本顧は、 仏が普から抱いている顕であることは明白である。 方便品においてはもう一箇所、

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諸仏本審願 我所行仏道 普欲 ν 三 衆 生 ︿

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亦 同 得 − 一 此 道 一 ー の語が見られる。党文法華経は、

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︵法を聞いて仏とならないものは一人もいない。悟りのために行じ、人をしても行じさせる。これが如来たちの本 顕 で あ る ﹀ として、諸仏の本願は一切の衆生を仏とさせることであることを示して、妙賛同様である。したがって、ここでは仏 の本願の何たるかを示しているといえよう。 そして普喰品では、前掲の引用文に引き続いて、舎利弗に記前を与え、仏は悪世

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噸 百 件 目 ︿しかし、本願の力によって法を説くであろう。﹀ として、三乗には言及しないが、仏は本願力による説示を展開することを示している。すなわち、仏の説法も本願に よってなされることを意味する。 五百弟子受記品の中には、富楼那が諸大弟子に仏が記蔚をしたことをたたえ、考えたことをのベ、仏がそれをうけ ﹁ 本 ト 願 を 立 ツ ﹂ 考 ︿ 望 月 ﹀

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﹁ 本 ト 願 を 立 ツ ﹂ 考 ハ 望 月 ﹀ て宮楼那について諮り、千二百の阿羅漢の所念を知った仏は迦業にむかい彼等にも記溺を与えることをつげ、更に五 百の阿羅漢にも記蔚を与えたことが示されている。この五百の阿羅漢は喜び衣裏繋珠の喰を語り、仏は菩護たりし時 にわれ等を教化せられたが、私達は知らず覚らず、阿羅漢という小さな悟りで満足し、貧乏な暮らしをしていた。し か し 、 内 部 ﹀ 一 切 智 願 猶 在 不 ν と 語 っ て い る 。 党 文 法 華 経 は 、 G 副 一 v

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ハ一切智者の知への本願が常に失なわれなかったので、世尊よ如来によって我々は悟らされました。﹀ としているから、妙法華経が説く願は本願のことであり、.以前︵前世﹀から本願があったのにそれに気づかないでい た。今初めて気づいたのだが、それが失なわれずに来たために記茄を得ることが出来たことを示している。 授学無学人記品では、阿難に記那を与えた仏が、釈尊と阿難とはともに空王如来

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のもとで無上等正覚への心を発し、釈尊は勇気を出して精進したが、阿難は絶えず教えの多聞をねがった。このちが いで釈尊は非常に早く仏となり得たが、阿難は再びその釈尊のもとで教えを謎持し法蔵を護るものとなった。そして、 記蔚を与えたことを示しているが、妙法華経はそこのところを、 阿 難 護 − 一 持 我 法 − o 亦 護 − − 将 来 諸 仏 法 蔵 一 。 教 = 化 成 三 就 諸 菩 薩 衆 − 。 其 本 願 如 レ 均 v と 宮 の 国 許 〈 常 て

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︵叉、阿難尊者は諸仏・世尊たちの妙法の蔵の護持者であった。又、善男子よ、菩藍たちを完成させるため、これ がこの善男子の本顕であった。﹀ とのベて、阿難が空王如来のもとでたてた本願、それは妙法を護持し、後の菩薩たちを導くためのものであったこと を示している。この本願の故にこそ阿難は記前をうけ得たと見ることが出来る。ただ、阿難自身は空王如来のもとで 自分がたてた本願を忘失していたらしい。それ故、妙法華経は、記前をうけた阿難が喜び未曽有なることを得たとし て 、 ︿ 却 ︶ 亦 識 − − 本 願 − としているが、党文法華経は、阿難が記荊を得、仏国土の名号を聞いて、 唱 回 一 ヨ 守 胃

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︵前世の本願と修行とを聞いて、満足し、勇躍し、大歓喜し、喜び、深く悦意を生じた。そして、その時に、彼は 無量百千万億那由位の仏たちの妙法と自身の前世の本願とを思いおこした。﹀ 前世で自らがたてた本願を思いおこしたことを、詳しくのべていることを知りうる。すなわち、識本願というのは、 ただ識ることではなくて、前世での自らのあり方を明白に思いおこすことを意味しており、それあるが故に記前が与 えられているということを明白に確認しておくことが大切であるといえよう。 ﹁ 本 ト 願 を 立 ツ ﹂ 考 ︿ 望 月 ﹀

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﹁ 本 ト 顕 を 立 ツ ﹂ 考 ︵ 望 月 ﹀ 法師品からはじまる第二期成立の法華経は、第一期成立の法華経をうけて弘経の道が説かれるのであるが、法師品 は、本願に対するこのようなあり方をうけて、更にそれをすすめて、次のように説示している。 薬王菩薩に因せて八万の菩薩たちに、妙法華経の一億一句を聞いて一念随喜する者には記前を与えるとし、更に、 如来の滅後に法華経の一偏一句を聞いて一念随喜する者には無上等正覚の記前を与えるとし、法華経の一一備を受持・ 読・諦・解説・書写し、この経巻を敬い視ること仏の如くにし、種々な供養の事をなす者は、 ︽ 招 ﹀ 己 曽 供 = 養 十 万 億 仏 − 。 於 − − 諸 仏 所 − 成 − − 就 大 願 − 。 感 − − 衆 生 − 故 生 = 此 人 問 、 のである!と。これに対し党文法華経は、如来の誠後

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︿薬玉よ、かの善男子善女人等は、百千万億那由他にみちる仏たちに仕えるものとなるであろう。薬玉よ、かの普 男子善女人等は、百千万億那由佑の仏のもとで本願をたてたものとなるであろう。 ︵ 彼 等 は ︶ 衆 生 た ち へ の 慾 み の ためにこの閲浮提において人間違の聞に再生したと、知らるべきである。﹀ としている。すなわち、妙法華経と党文法華経の表現とに大差はなく、ともに法華経を聞いて一念随喜する者は、無 量の仏に仕え、その仏たちのもとで本願をたてたもので、衆生を感むために人間として再生したものであることを示

(13)

している。そして妙法華経が大願としたのは本願句

B

巳 品 目 品 ロ

ω

であることは当然のことであり、本顕であるが故に前 世で諸仏に仕え、そこでたてたものであることを示している。叉、本願なるが故に衆生を感み再生したといわれるこ とは、本願の本旨を示すものであろう。それ故に法師品はこの説示を引きついで更に、法華経を受持・読・請・解説 ・書写する者は、大菩薩であり、無上等正覚を成就したけれども、 円M V 哀 − − 感 衆 生 − 願 生 − − 此 問 − 。 として、生=此間一のは願つての上であることを示している。党文法華経もこの願が、前生における本願力によるもの だ と し 、 可 宵

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として、願ってというのは、本願の力旬

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おによるものであり、世間を感み、衆生に法門を説くために生 まれ出たものであることを再説している。 そしてそれは、大菩薩である

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宮ハ如来と見なす﹀といわ れるが、発文法華経は、如来の使

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︿如来の使者﹀について、人間世界に再生したこれらの人々は、 仏国土へ誕生するのをかえりみずになされた人々であることを明示しているから、この世に再生した人々

11

仏滅後 に法華経を受持・読・諦・解説・書写する人々

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に対して、法華経が払っている重要性には着目しておかなければ な ら な い 。 それ故に、法師品は更に如来の現在にすら猶、怨族多し、況んや減度の後をや、という法華経を仏滅後に人々に説 ﹁ 本 ト 願 を 立 ツ ﹂ 考 ハ 望 月 ︶

(14)

﹁ 本 ト 顕 を 立 ツ ﹂ 考 ハ 望 月 ﹀ き聞かせようとする人々は、諸仏に護念せられることを得るとし、その理由は、 ︽ お ︾ 是 人 有 = 大 信 力 及 志 願 力 諸 普 根 力 − によるのだとしている。党文法華経も同じ表現をしているが、右の文に対して、 ︿明訓﹀ 匂

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︵彼等にはそれぞれに信力、善根力、本願力とがある。﹀ として、順序を異にするだけで、同じ内容を示しており、それは、 ︿ 窃 ︶ 在 レ 所 = 存 立 − 己 身 還 問 。 諸 信 力 也 。 善 本 力 。 志 願 力 。 とする正法華経の表現と同一である。そしてこの法華経三本はともに、信力、善根力、本願力を有する人は、如来と n掬 ︸ 共に宿るなり。としているから、仏滅後に法華経を説くという人は、前世において仏のもとでおこした本願力を思い おこし、仏の言葉をそのままに信宵包−

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仰じ、説示を展開していくことが強調されていることを知ることが出来る。 しかして見宝塔品を見ると、空中

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溜に住在した多宝如来について、妙法華経は、 ︿ 伺 ︾ 其 仏 行 − − 菩 薩 道 一 時 。 作 − − 大 普 願 一 。 と な し て お り 、 党 文 法 華 経 は 、 ︻ MUV

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田 仲 一 ︵ か の 世 尊 は 前 世 に こ の 本 願 が あ っ た 。 ﹀ としている。本願は前世において仏のもとでたてたものであることは、 既 説 し た と こ ろ で あ る が 、 多宝如来が菩薩 の道を行じた時にたてた大誓願という妙法華経の言葉は、 それを裏づけるものであり、発文法華経も、 前世の本願

(15)

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仰 ロ O ︿ 実 に 私 は 前 世 に お い て法薩の修行を行っていた。﹀としているから、多宝如来の行菩蕗道というのは、やはり前世における行であること を 明 白 に 示 し て い る 。 本願の本質がここにある故に、仏は多宝如来が法華経の会座に出現したのは、 ハ 銅 ﹀ 是 多 宝 仏 有 = 深 重 願 − 。 として、深重の願のために出現したことを示している。この深重の願は、党文法華経によると、

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一 ︿等正覚の尊い世尊、多宝如来には重要な本願があった。その本願はこういうことである。﹀ であり、法華経が説かれることがあれば、法華経を聞くために出現するのだ、となされている。すなわち、仏もまた 前世の本願によって行動をおこしていることを知りうる。このことは、見宝塔品の備の中においても、 ︵ m w ︶ 常 為 レ 聴 レ 法 彼仏本願 我滅度後 在在所レ往 句 一

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ロ 一 ︵前世の世において修めたこの指導者の本願は、彼が完全な浬撲に入った後でも十方のあらゆる世間に求められる ハ と い う こ と で あ る ︶ ﹀ とのべられているから、多宝如来の本願も前世にたてたもので、その本願の故に法華経の会座に出現したことは明白 ﹁ 本 ト 顕 を 立 ツ ﹂ 考 ハ 望 月 ﹀

(16)

﹁ 本 ト 顕 を 立 ツ ﹂ 考 ハ 望 月 ﹀ で あ る 。 そして勧持品を見ると、摩詞波閣波提、耶輸陀羅比丘尼に記蔚を与えた仏に対し、八十万億那由他の菩薩たちは如 何にすべきであるか、と考えて、仏前で仏誠後に法華経を説きましょうと替の言葉をのべるが、そこのところで、こ の菩薩たちの心にふれて、 ︿岬引﹀ 欲 = 一 自 満 − − 本 願 − 。 便 於 − − 仏 前 一 作 = 師 子 帆 − 。 而 発 ν普 言 。 と表現している。これに対する党文法華経の表現は、 ︿ 絹 v

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︵自身の前世での修行と本願とによって、世尊にむかつて獅子耽をなした。﹀ とある。妙法華経が欲自本願となした中の自本願は、菩謹たち自らが前世においてたてたものであること、そしてそ れが修行につながっていることを明白に示している。

5

以上のことについて整理をしてみると、次のようになる。 品 名 妙 法 華 経 訳 正 法 華 経 訳 本 願 主 方 便 ロ ロ ロ 士 ゆ 求 志 求 比 丘 比丘尼 哲 願 志 願 仏 本 哲 願 本 所 願 仏

(17)

勧 見 法 授 五 普 学 百 宝 無 弟 持 師 A寸且品ー− 子 喰 塔 人 授 記 記 品 品 品 品 品 品 本 本 深 大 志 大 本 本 本 本 本 志 重 普 願 願 願 願 願 願 願 力 願 願 願 願 願 願 願 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 平 本 発 志 所 立 本 雅 志 奇 奇 本 本 等 普 亦 願 行 特 特 之 自 願 哲 願 力 願 願 願 願 願 願 願 行 願 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 菩 多 多 多 解 菩

阿 阿 五 華 華 舎 舎 宝 宝 宝 念 百 光 光 如 如 言説 言随 羅 如 如 リ手

麓 来 来 来 ぎ者 薩 盛)者喜 難 難 漢 来 来 弗 弗 妙法華経・正法華経が、普願・本顧・大願・志願・志求等と訳出しているのは、すべて司自包

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に対する訳語 ﹁ 本 ト 願 を 立 ツ ﹂ 考 ︿ 望 月 ﹀

(18)

﹁ 本 ト 顕 を 立 ツ ﹂ 考 ハ 望 月 ﹀ であり、この胃

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”を立てたものは、仏から菩薩、比丘等の戸閲・阿羅漢にまで及んでいることがわかる。す な わ ち 、 本 願

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巳 仏 V 似ロ”を立てるということは、それがどのような立場、身分の人であろうとも、それは仏とのか かわりの中において立てられるべきものであることを示しているであろう。 し か し て 、 妙 法 華 経 に よ る と 、 前 述 の 箇 所 以 外 に お い て も 、 本 願 、 大願等の訳出になるところを見ることが出来 る。たとえば、五百弟子受記品の目頭では、富楼那が仏の説示、声聞への授記、宿世の因縁の事を聞いて、仏を見つ めて、世尊は甚だ奇特なりとして考えたことが述べられているが、その思念の中に、 唯 仏 世 尊 。 能 知 − − 我 等 深 心 本 願 可 という一語が示されている。これに対する焚文法華経は、 円 m w ﹀

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︵如来こそ我々の意向と前世の膜想による行を知っておられた。﹀ であって、本願 HMM12 向 島 ﹃ 凶 ロ 仰 の 語 は 使 用 さ れ て お ら な い が 、 意 向 忠 嗣 W M﹃

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の語を使い、それらが前世間 M

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に か か わっていることを示している。このことは如来は意向という我々の心のあり方が、前世とのかかわりの中においてあ ることを明白に示しているであろう。 しかして見宝塔品末の傷は、如上の多宝如来は前世において立てた本願唱

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”の故に入滅した後でも法華経 が説かれる在々所往に出現する説示をうけて、 其多宝仏 難 − − 久 滅 度 − 以 − − 大 普 願 − 而師子耽 とし、多宝如来と釈尊と諸の化仏とはその意を知るべし、

(19)

諸仏子等 誰 能 護 レ 法 当 レ 発 = 大 願 − 令 レ 得 = 久 住 − と 述 べ て い る 。 これに対する党文法華経は、

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︵実に正覚者多宝尊者は完全に入滅したが、これの決意をなすものの獅子肌を聞くだろう。第二番目の私も、ここ に集まって来た何千万の指導者たちも、この法門を説示しようと努めるだろう勝利者の息子たちから、決意を聞く だ ろ う 。 ︶ として、本願句

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包 品 目 H仰ロ仰の語を使用してはいない。しかし、法華経を聞くために入滅後でも出現しようというのが 多宝如来の本願胃

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広量であるから、妙法華経は法華経を説こうと決意

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仰志したものの決意を、前世に おいて仏の前で立てた決意ととらえ、それ故にこそ多宝如来の本願をうけとめるものとして大番願、大願の訳とした 来るものでなければならない。 ものと考えられる。すなわち、ここでいう決意ぐ吋

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− ︵ 大 番 願 ・ 大 願 ﹀ は 本 願 胃 怠 向 島

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− か ら 生 み 出 さ れ て 門 田 ︾ それ故に、法華経を説くことは難事だとなして、妙法華経は﹁宜レ発=大願ことなし 円 同 v 一切の衆生を慰んで、指導者たちが困難な立場を耐えていることを考えよ v と な ている。党文法華経は、善男子よ、 しており、大願が唱

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包門出品ロ俗であることは示していないが、その心のあり方は前述の事情により本願胃

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のあり方と妙法華経はとらえたからであろう。それに衆生を感んで出場したのは、法師ロ聞によると前世における本願 ﹁ 本 ト 願 を 立 ツ ﹂ 考 ︿ 望 月 ﹀

(20)

﹁ 本 ト 願 を 立 ツ ﹂ 考 ハ 望 月 ﹀ 門 出 ︼

胃 怠 同

一 向 田

M M 帥口”によることは明白であるので、ここにおける決意、それこそは仏が衆生に対して求めるもので、自己が前 世において仏に対して立てた本願司自包

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遂行の生き方を求めたものと理解することが出来るように思われる。 ︿ 邸 ﹀ このようなあり方に対し、勧持品の冒頭で五百の阿羅漢が受記を得て仏に語った﹁我等亦自寄顕﹂の旬、及び、安 ︿ 町 ︶ 楽 行 品 官 頭 の 文 殊 師 利 が 仏 に 語 っ た ﹁ 敬 − 一 順 仏 − 故 発 = 大 普 願 乙 の 句 に お け る 普 願 は 、 そ れ ぞ れ ﹁

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﹂︵世尊を尊重するために ︿ 世 尊 よ 我 々 は 耐 え ま し ょ う ︶ 耐えました﹀とされておって、本願

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削口”の語が使われておらないし、この耐えるというのが本願にかかわる ものとも考えられない。先のものは仏が仏の本質、 仏とのつながりについて語ったものであるのに、 ここでは阿羅 漢、文殊師利の言としてなされたもので、耐え忍ぶという心のあり方が、仏滅後の法華経説示に肝要なあり方とは考 え ら れ な い か ら で あ る 。

6

後においての弘経の仕事を付属せられたとなされているが、 法華経は声聞や在世の菩薩たちの弘経の願いに対し、これを許されずに地涌の菩薩を召し出されて、これに仏の減 ︽ 伺 ︾ ﹁ 在 = 比 裟 婆 世 界 之 下 。 此 界 虚 空 中 − 住 ﹂ 地涌の菩麗は ︽ 侃 ︶ ﹁ 司

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﹂︿その時、この大地における虚空界に住して ︻ 偲 ﹀ い た ﹀ と さ れ 、 弥 勤 ら の 疑 に 対 し て 、 ﹁ 汝 等 一 心 信 我 従 − − 久 遠 一 来 教 − − 化 是 等 衆 こ ﹁ 蜘

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=﹂ハ聞いて一切の者は 私 を 信 ぜ よ 。 このように私によって昔に最高の覚りは得られた。私によって一切の者は成就せられた﹀ と な さ れ て

(21)

いる。この説示は久遠突成につなげられるものであり、 地涌の菩薩らは久遠の昔から地下の虚空位内仰釘に住するも ので、その時から仏によって教化されて来ているものであることを示している。すなわち、 久 遠 よ り こ の 方 。 町 曲 目 、 教化をうけ最高の覚りを与えられ、後の世の教化のために成熟されて来ていたのが地涌の菩薩であるということは、 前 世 か ら 仏 に 縁 を 持 ち 、 仏と倶に歩んで来たものであることを意味する。 そ し て 、 その人々が仏の滅後の世のため に成熟されたというのは、そのために準備をされていたことを意味するから、これは仏の本願

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品 口 ” を う け つ ぎ、そこに生きる人々であることを意味しているであろう。虚空包

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の語は一切を包みこむ仏の心の拡がりであ ることを意味するから、それは見宝塔品が示す空中ハ妙法華経は虚空と訳出︶

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口 W 溜とは相違していることは明 円山明﹀ 白であり、それだけ従地涌出品に対する注意は肝要で、 一切を救わんとする仏の大慈悲心が、仏と衆生との前世から のかかわりの中で果されていることを明記しておかなければならないであろう。そして、その両者のかかわり、これ こそが本願

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”の語であると考えられる。したがって、関目鈴における﹁本ト願を立乙の一句について、法 華経との関連の上に立つ慎重な審議を願っておきたい。 ︵ 時 ・ 9 ・ 口 ﹀ ︹ 註 ︺ ハ 1 ﹀ ︿ 2 ﹀ ハ 3 ﹀ ハ 4 ﹀ ︿ 5 ﹀ ハ 6 ﹀ 昭 和 定 本 ﹃ 日 蓮 聖 人 遺 文 ﹄ 六

O

一 清 水 竜 山 ﹃ 関 目 鈴 鱒 義 ﹄ ︵ ﹃ 回 避 聖 人 迫 文 全 集 部 義 ﹄ ﹀ 巻 九 下 ・ 五 五 五 、 渡 辺 宝 陽 コ ニ 大 哲 顕 ﹂ ハ ﹃ 回 避 宗 事 典 ﹄ ︶ 上田本昌﹃日蓮聖人における法華仏教の展開﹄一三七等 山川智応﹃関目紗蹄話﹄四六九 J 四 七

O

石 川 海 典 ﹃ 岡 田 鈴 ﹄ ハ ﹃ 日 蓮 聖 人 御 遺 文 講 義 ﹄ ﹀ 巻 一 一 ・ 二 六 五 、 田 中 応 舟 ﹃ 関 目 妙 ﹄ 下 ・ 二 二 三 一 室住一妙﹃閲自動に聞く﹄二七

O

﹃ 録 内 啓 蒙 ﹄ 巻 九 ハ 閲 目 紗 ﹀ 下 之 下 ・ 一

O

九 五 ﹁ 本 ト 願 を 立 ツ ﹂ 考 ︵ 望 月 ﹀ 一 二 九 、

(22)

清水竜山﹃関目妙﹄︿﹃日蓮聖人遺文全集講義﹄﹀巻九下・五五四

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五 五 五 山川智応・前掲書四六九 田 中 芳 谷 ﹃ 閲 目 鈴 講 議 ﹄ 三

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四 茂 田 井 教 亨 ﹃ 関 目 抄 講 讃 ﹄ ニ

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は 普 願 と 訳 す べ き か も し れ な い が 、 ﹁ 本 ト 願 を 立 乙 の 関 係 で 、 こ と 更 に 本 願 と 訳 出 し た 。 大 正 九 ・ 一 一 中 間同・七四中 清水竜山教授は﹁元来﹁本願﹂なる語はもと弥陀経の特色要語で、今経祖典には絶えて﹁本願﹂という名詞はない﹂﹃関目 紗﹄︵﹃日蓮聖人遺文全集講義﹄﹀五五五、となしておられるが、祖典にはともかく、法華経には明白に﹁本願﹂の語があ る こ と は 忘 れ て は な ら な い 。 大 正 九 ・ 一 一 中 認 内

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正 法 華 経 は ﹁ 吾 身 長 夜 亦 閲 ヨ 尋 汝 以 − − 菩 薩 誼 − 。 爾 縁 此 故 興 在 = 吾 法 − 。 如 来 威 神 之 所 − − 建 立 − 。 亦 本 願 行 ニ 念 菩 麗 教 一 。 度 − 自 調 − − 滅 度 − 。 舎 利 弗 。 汝 因 − − 本 行 − 欲 ν ν − − 念 無 央 数 仏 、 ﹂ と し て い る 。 大 正 九 ・ 七 四 上 大正九・七下、正法華経も志求と訳している。六九・下

ω ω a

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・ h m ω 大 正 九 ・ 八 中 、 正 法 華 経 は ﹁ 志 願 ﹂ 、 七

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下 ω 仰向日

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・ 品 。 大正九・九中、正法華経は﹁本所願﹂、七一下 切 削

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− 切 ω 大正九・一一中、正法華経は﹁奇特願﹂、七回中

ω H w a

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・ 品 目 印 ﹁ 本 ト 願 を 立 ツ ﹂ 考 ハ 望 月 ︶ ︿ 7 ︶ ︿ 8 ﹀ ︿ 9 ﹀ ハ 却 ﹀ ハU ﹀ ︿ ロ ︶ ︿ 臼 ︶ ハ M ﹀ ハ 店 ﹀ ︿ 時 ﹀ ハ ロ ﹀ ハ 路 ﹀ ハ 印 ﹀ ︵ 初 ﹀ ハ 幻 ﹀ ハ 沼 ﹀ ハ お ﹀ ハ 鈍 ﹀ ︿ 勾 ﹀ 未 レ 得 − − 滅

(23)

ハお﹀大正九・二九上、正法華経は﹁志願﹂、九七中 ハ 幻 ﹀ ω 仰 向E F P M M M ︿ m m ﹀大正九・三

O

上、正法華経は﹁雅願﹂、九八中 ︿ 却 ﹀ g a a g・ M M

t N H @ ︿ 却 ﹀ 大 正 九 ・ 三

O

上、正法華経は﹁本行願﹂、九八中 ︵ 担 ﹀ g a a v s ・ N H @ ハ 詑 ﹀ 大 正 九 ・ 三

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下 、 正 法 華 経 は ﹁ 立 願 ﹂ 、 一

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中 ︿ お ﹀ g a a v p M M 品 t N N 旬 ︿ M m v 大 正 九 ・ 三

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下 、 正 法 華 経 は ﹁ 所 願 ﹂ 、 一

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下 ハ お ︶ g a a z・ M M O ハ M W ﹀大正九・三一中 ︿ 釘 ﹀ g a a v p N ω H ︿ 犯 ﹀ 大 正 九 ・ 一

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一 中 ハ 拘 ﹀ 岡 三

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中 、 ﹁ 是 人 与 = 如 来 − 共 宿 。 ﹂ 一

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一 中 、 ﹁ 在 = 如 来 室 − 等 頓 二 処 − 。 ﹂ 、

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− M ω 同 ﹁ 官 吾

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ロ 言 窓 口 弘 ﹂ ︿ 如 来 の 精 舎 で 一 緒 に 居 住 す る ﹀ ハ 品 切 ﹀ 大 正 九 ・ 三 ニ 下 、 正 法 華 経 は ﹁ 本 行 レ 道 時 而 自 発 ν 願 ﹂ 、 一

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ニ 下 ︵ 但 ︶ g a a v m − N

品 。

︿ 位 ﹀ 間 程 O J M 品 同 ハ必﹀大正九二=ニ下、正法華経は﹁本亦自普﹂、一

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三 上 ︵ 斜 ﹀ ω m a a v F M h m m w ︿ 必 ﹀ 大 正 九 ・ = 一 三 下 、 正 法 華 経 は ﹁ 於 ニ 往 故 世 − 自 興 = 此 普 己 、 一

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四 中 ︵ 必 ︶

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︵ 抑 制 ﹀ 大 正 九 ・ 三 七 中 、 正 法 華 経 は ﹁ 前 世 所 行 平 等 之 願 ﹂ 、 ︿ 必 ﹀ g a a E − S H ﹁ 本 ト 顕 を 立 ツ ﹂ 考 ハ 望 月 ﹀

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六 下

(24)

﹁ 本 ト 顧 を 立 ツ ﹂ 考 ハ 望 月 ﹀ ハ 川 崎 ︶ 大 正 九 ・ 二 七 中 、 正 法 華 経 は ﹁ 我 等 行 跡 志 性 之 所 帰 趣 ﹂ 九 四 下 ︵ 回 ︶ ω 脚 色 角 田 町 P H 唱 曲 ︵ 日 ︶ 大 正 九 ・ = 一 四 上 ハ 臼 ︶ ω 丘 仏 国 M M W ・ M m M ハ 日 ︶ 大 正 九 ・ = 一 四 上 ︵ 剛 山 ﹀ ω ω a a v p M 切 ω ︿ 邸 ﹀ 註 の ハ お ﹀ t ︵ お ﹀ 怠 照 、 大 正 九 ・ 三

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中 、 下 、

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﹀大正九・四

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上 ︿ 但 ﹀ g a a v p M g ハ 位 ︶ 大 正 九 ・ 四 一 中 ハ 閃 ﹀ 留 内 E F F ω H O ハ “ ﹀ 拙 論 ﹁ 見 宝 塔 品 に お け る

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﹃ 同 町 営 と 従 地 涌 出 品 に お け る 詳 態 ” に つ い て ﹂ ︿ ﹃ 日 本 仏 教 学 会 年 報 ﹄ 二 十 三 ︶

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