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矛盾をめぐる論理学的考察

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椙山女学園大学

矛盾をめぐる論理学的考察

著者

北岡 崇

雑誌名

椙山女学園大学研究論集 第2部

24

ページ

p1-22

発行年

1993

URL

http://id.nii.ac.jp/1454/00002980/

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矛購をめぐる論理学的考察

 矛盾はとこに存在するのか⋮⋮矛盾が存在することを前提したう えで、その在処を問うこの問い。人、物、事態、ことば、観念、何 であれ、それがどこに存往するのかと問うがい、それが何かという ことを人はあらかじめ知っていなければならない。人間を知らない 人は目の前に人間がいてもそこに人間を認めることができないし、 樹木を知らない人は森のなかを疲れぱてるまで歩きまわっても決し て樹木を見いだすことも樹木の在処をつきとめることもできない。 知らないものなら、その在処をつきとめるにもつきとめようがない。 矛盾についても同様のことが言えるとすれば、矛盾の在処を問う人 は、その問いに先立って、矛盾とは何かを白]分か知っているかどう か自問しておく方がよい。だが、矛盾とは何かを私は本当に知って いるのだろうか?−力と力の衝突や、党派間の軋轍や、個人の内 百における情緒的な葛藤や、話のつじつまがあわないことなどが矛 盾と称されたりすることかおるのは承知しているが、矛盾というこ とばのそれらきわめて多様な用例をつらぬく唯一の意昧を私は知っ ているわけではないし、また矛盾ということばの多義性を知りつく しているわけでもない。それだけではない。さらにまた、特定の衝 突にのみ注目し、それを矛盾と呼び、その矛盾を解決するための実 レ し I ﹁ づ 問 ぷ フボ 践を導く理念なりその理念のもとに人々を結集するのに有効なス コーガンなりを考案し、その結果かえって理念と理念、スローガン とスローガン、人間と人間の新かな対立を生みだすというパターン を倦かことなくくりか光すわれわれの愚直のことを考えあわせる と、矛盾の解決なるものをめざし努力するわれわれ人間の誰一人と して、そもそも矛盾とは何かということを本当ははじめから知って はいなかったのではないかという思いが強くなる。それゆえ、矛盾 の在処をそれでも問おうとするなら、まず矛盾とは何かという問い を立て、矛盾ということばの意昧を開確に規定しようと努めること の方こそ、矛盾の在処を問う作業はもとより、矛盾が存在するかと うかを問う作業にさ光先立つ作業であると言わなければならないだ ろう。矛盾ということばがあるからといって、矛盾とは何かを知ら ずしてその存在を前提したり、その上うな盲目的な前提のもとで矛 息とは何かを知らぬまま矛盾の在処をつきとめようとする素朴さに は用心しなければなるまい。  しかしまた、いかなる意味においても決して存在しないものなら、 それが何珈を知ることはできないと土呂える。数学の対象︵数、点、 多面体など︶守神話珈御伽話に登場する架空の人物t動物など、私        一

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崇 北 岡 が日常生活をいとなむ知党世界に過不足なくその全貌を谷らすこと の決してないものたちがあるが、それでもそれらのおの趨のについ てそれが何であるかを問うことができる。それらは、まったくの無 というわけではなく、理念的な存在あるいは想像上の存在をもって いるからである。いかなる意昧においても存在しないものについて なら、そもそもそのようなものは何ものでもないのだから、決して それが何であるか問うことなどできはしない。それどころかそれと 称することさえできない。そうであるなら、矛言とは何かと問う問 いを問いうるためには、すでに矛息の存在が承認谷れていなければ ならないということになる。矛盾の在処はともあれ、少なくとも矛 盾の存在が確認されているのでなければ、矛盾とは何加と問うこと は空しい。このような事情からすれば、矛盾が存在するかとうかを 問う問いの方こそ、矛息とは何かと問う問いに光立って解決谷れる べきであると言わなければならない。  矛盾が存在するかとうかを問う問いと矛盾とは何かを問う問い と、これら両1 は相互にからまりあっている。両者のおのおのが他 にたいして先立って解決されるべき先決問題であるというのなら、 私は、矛盾の在処を問い進めるにあたって、この問いに先立って問 われるべき二つの問い、すなわち矛盾が存在するかとうかを問う問 いと矛盾とは何かを問う問い、これら二つの相互にからまりあった 問いに、そのからまりを解きほぐしつつこたえてゆくはかないだろ う。矛盾の在処を問う問いをどこまで問い進めることができるかは、 この問いがすでに前提している矛盾の意味の解明ならびにその矛言 の存在の承認をどこまでなしうるかにかかっている。       ※       ※       二  まず、形式論理学の主張に耳をかたづけ、形式論理学の言う矛言 がどのようなものであるか、どこに存在するか探ってみよう。一見 したところ、矛言ということばの意蜂がもっとも㈲確に規定されて いるのは、ことばの多義性を好まない形式論理学においてであると 思われるからである。形式論理学の言う矛盾は、合理的な思考の根 本の原理と答れる矛店律、あるいはその主張に即してより正確に語 るなら矛言排除律によって排除されるものを見れば㈲らかになる。 矛盾律は、命題でとその否定∼でとの遺言の否定∼︵万∼ことい うかたちをとる。したがって、矛購とは命題でとその否定∼でとの 連言︵T∼このことである。そしてこの矛息は、真なる命題の みから成心体系からはその︽外︾ へと排除答礼なければならない。 真なる命題のみから成る体系が、ある命題甲とその否定∼でとをと もにふくむとすれば、その体系は矛店を1 くかことになるが、その 谷いその体系は真なる命題のみから成る体系がもつべき統一性をう しなうことになる。というのは、その上うな体系においては、命題 づとその否定∼でとがともに真であり、それゆえその適言︵万∼こ も真となり、ひいてはで以外の任意の命題尹およびその否定もっか に真となり、その体系においてぃかなる主張がなされてもつねにそ れは、まさしくその体系において否定答れるからである。この事態 の記号による説㈲を、﹃論理学概論﹄︵末木則博︶より引用しておこ  つと∼でとがともに真ならば、その遺言︵甲∼こも真となる。 しかるに任意の命題こにつぃて、命題論理学の法則により。   ∼︵万甲∼三川∼︵甲∼こ         ⋮⋮︵イ︶ しかるに、 ∼︵万∼こ ⋮⋮︵□︶

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ゆえに、推論の肯定式によって、   ∼︵こ・惣・∼こ      ⋮⋮︵ハ︶ この︵言式を変形すれば、   ︵で・∼で︶U∼こ       ⋮⋮︵一一︶  ⊇︶式のぬに∼こを代入すれば、   ︵t・∼t︶Uぶ       ⋮⋮︵ホ︶ しかるに仮定により、   ︵万∼こ      ⋮⋮︵へ︶  ス︶式と︵古式とから、肯定式により、   ︷︸       eeeeee千︶ また同様に︵⊃式とここ式とがら、   ∼こ      ⋮⋮︵チ︶ すなわち、任意の命題こおよびその否定∼こがつねに真となる。  相互に整合的な真なる諸命題のみから成る体系を論理空間と呼ぶ ことにすれば、矛盾は、論理空間からはその︽外︾ へと排除されな ければならない。この要講を矛息律は語っている。形式論理学は、 矛盾律をもって論理空間の整合性・無矛息性を守り保証しようとす る。というよりもむしろ、整合性・無矛盾性が保証されてはじめて 論理空間は誕生するのであるから、形式論理学は、矛息律をもって 論理空間を成立せしめようとしていると言うべきであろう。だが、 論理空間を誕生せしめるために、そして成立するその論理空間を維 持しつづけるために、論理学が矛息律をもって排除する矛言につい て、あらためて矛盾とは一体何かと問わなければなるまい。なるほ どたしかに、二つの命題かあって、その一方が他方の否定を主張し ており、しかし二つの命題か59 方とも真であることを要求する場合、 そこに論理矛盾が存在すると指摘することは容易であるが、矛盾と は何であるかを言うことは、実はそれほど容易なことではないから である。矛言を表現する︵甲∼こという複合命題は、形式論理 学によれば恒偽命題である。だが、この恒偽命題け、論理空間のう ちに存することが許答軋ないというま答にそのことによって、つま りみすがら論理空間の︽外︾に排されることによって、反対にその 論理空間の存ををその︽外︾から限定することになる。論理矛盾︵万 ∼こは、1 考の整合性の破綻のメルクマールである。だが、その ようなものとして論理矛言を捉える形式論理学は、その矛盾を論理 空間の︽外︾に排除しつつも、その矛言を排除すべきものとしてそ の思考において捉えてしまっているということは事実である。この 事実なくしては、論理空間の整合性︱無矛脂性について語ることは おろか思考すること谷足できない。すなわち、形式論理学は、みす がらの怒1 の整合性の破綻かしに、みすがらの思考において、思考 の整合性の破綻のメルクマールである論理矛言を捉えているのであ り、思考の整合性の破綻のメルクマールであるとみすがら解する論 理矛息を、恒偽命題︵甲∼ことして正しく1 考し記号化しうる と考えているのである。ここで私は、ただたんに、論理学において 論理矛言が愚考答れているとのみ言いたいのではない。さらに、論 理矛店は、整合性の破綻がないよう思考の歩みを規制すると㈲時に みすがらもすすんでその上うな規制に服従しようとする形式論理学 の思考においてしか捉えられないと、私は言いたいのだ。そもそも、 論理矛言とは、整合性︱無矛脂性、あるいは合理性とか論理性と称 される性格との対比のもとでのみ意昧を成すと、形式論理学白︼身が 考足でいるからである。論理矛貫と整合性︱無1 盾性・合理性・論 理性とは、いわけヤヌスの双百のごとく朧朧一体を成すものである。 みすがら、相互に整合的・無矛息的な真なる諸命題から成る体系で       三

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辿 t 不 北 岡 あろうとする形式論理学の思考が、その上うな体系であるうとする 志向において、論理矛盾を︵万∼こと記号化するといケこと、 このことが、思考の整合性を破綻させる論理矛盾をそれでも形 式論理学は論理整1 的に思考することができるという事実、そして 現に思考しているという事実、さらに実際に思考せざるをえないと いう事実を示している。  形式論理学によれば、相互に整合的な真なる諸命題から成る体系、 すなわち論理空間はそのうちに論理矛盾を容認することができな い。しかし、みすがらそのような論理空間であるうとして論理整合 的な思考を展開する形式論理学白]身が論理矛盾をその思考において 捉えるという事実は否定できない。論理矛息をめぐる形式論理学の 思考には、つねにこのようなくいちがいが認められるのである。こ のくいちがいはどこから生ずるのであろうか⋮⋮。形式論理学なる 学問は、数学と同様、理解されるかぎりは通常その主張が疑聞の余 地なく確実とみなされる学問であるが、それでもまだ十分に基礎づ けられてはいないのであろうか⋮⋮。論理1 盾とか、整合性とか、 それゆ使また論理空間とかが、それ白身、明確な輪郭をもっか一定 の意昧をそなえてはいないのであろうか⋮⋮。形式論理学という学 問におけるもっとも基本的なタームの一つである論理矛盾なること ばの意味は、このうえなく明確に規定されているかのように見える その外観とは異なり、実は決して明確ではないのである。少なくと も完全に解明されているわけではないのである。論理矛盾とは何で あるかを言うことは、︵万∼こと形式化できる複合命題を見いだ しそこに矛盾の存在を指摘することほど容易なことではない。論理 矛盾はそれ店身が論理的なものであるから論理整合的な思考によっ て捉えられなければならないが、やはりそれでも矛盾である以上は、        四 整合性をもっか思考によっては捉えられないものとして︵論理整1  的には思考不可能なものとして︶捉えられなければならない。これ こそ、形式論理学が、論理矛盾を、論理整合的な思考の破綻のメル クマールとして捉えるということの意味である。形式論理学は、整 合性の支配する論理空間を誕生谷せるためにも、論理矛息を、その 論理整合的な思考において、論理空間のうちに容認できずその︿外﹀ に排除されるべきものとして見いだ谷なければならない。論理空間 を支配する整合性・無矛盾性なるものの意味の明確吝は論理矛盾の 意味がどこまで解明谷れているかということに全面的に依存してい るからである。形式論理学は、その思考において論理矛盾と無矛息 性すなわち整合性との両者を双生の子のように生みおとすと開時 に、一方の整合性を受容し体系の原理とするとともに、他方の論理 矛盾をただちに打ち捨てようとする。しかも、この受容と打ち捨て は㈲じ一つの選刊行為としてなされる。すなわち、後者の打ち捨て なしに前1 の受容はありえないしI前者の受容なしに後1 の打ち捨 てもありえないということだ。だが今は、何よりもまず第一に、そ の選別行為において打ち捨てられる論理矛息なるものの意昧が、そ れゆえまたその選刊行為において受容される整合性なるものの意昧 がまだ完全には解明かれていないということこそ、銘記しなければ ならない。なるほどたしかに、︵万∼こという形式はあまりにも 単純で、この形式をもつ複合命題を見いだせば私はそこに論理矛息 が存在すると判断する。そして私臼身が実際にこのような判断をお こなうのであるなら、私は、論理矛貫なるものについての、それゆ えまた整合性についての一定の理解をもっているのであるし、また、 そのような理解をもつかぎりにおいては、私にとって、論理矛盾の 意味も整合性の意味も、矛貫律の意縁も、形式論理学のおこなうあ

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の選別行為の意味も、それなりに9 1らかであるということになる。 だがそれでも、論理矛盾の意味は完全には解㈲されていないのであ るから、あの選別行為の意味も、それゆえあの選別がなぜなされる のかその理由もまだ完全には解明されていないのである。  形式論理学において論理1 盾、整合性、矛盾律、等の意味が完全 には解明されていないとすれば、矛盾律の白]脂性なるものについて、 次のように問うことが許されよう。矛盾律は、自開かものであると ただみなされているだけなのだろうか、と。卑近な例を一つあげれ ば、学術研究にたずさわる人が論文を書くさいにその論述形式を規 制するもっとも基本的な要談として無矛盾性の要講かおるが、この 要談も、ただ心瞬とみなされているだけでその店9 1性の根拠の完全 な解明がなされることのない慣習のごときものに出来するのではな いのだろうか⋮⋮。すなわち、矛盾律とは、たとえば︽学会﹀と呼 ばれる閉じた世界のなかでくまともに﹀生きてゆこうと思うなら守 らなければならない約束事のようなものであるにすぎないのではな いか⋮⋮。そして、この慣習なり約束事なりにもとづいて、際限の ないトートロジーの支配圏が、︿相互理解︾や︽学問の進歩︾や︽客 観的認識﹀ の可能な領域として生ぜしめられるのではなかろうか ⋮⋮。もちろん、トート言ンーの支配圏とはい光、この領域は、多 種多彩な事実とそれを研究する多様な方法によって豊かにいろどら れているのではあるが。研究論文を書く人冷か矛盾律令、形式論理 9 の語る他の論理法則に違反することがないように努めるさいの事 情は、おおよそ右のようなものである。そして、すでにそこに、と りわけ慣習とか約束事とかのことばを用いての説㈲において、矛盾 律が、あるいは形式論理学そのものが、広く道徳︱倫理・談治の問 題をも内包する実践の次元と深く巡閲しているという事態が暗示谷 れているのである。私は、次節で形式論理学ないしこれが語る矛盾 律等の論理渋川を実践の次元とのかかわりのもとに論し、論理矛盾 ならびに整合性の意眸にまつわる問題をその広がりにおいて素描し たいと思う。        ※      ※  思考とは私の活動の一つである。だが私は、食べたり飲んだり、 歩いたり走ったりもする。そうであるなら、食べることや飲むこと、 歩くことや走ることも私の活動の部類に所属すると言える。私は、 思考したり、食べたり飲んだり、その他もろもろの活説をおこなう。 しかし、思考するということは、ただ食べたり飲んだり歩いたり走っ たり、その他いかかる活説をなすにせよ、それらの活動すべてとは まったく異なり、思考するということによってつねにその内側から 捉えられている。すなわち、思考は、つねに白2 意識的になされる ということだ。それゆえ、私はたしかに1 考したり食べたり飲んだ りeo今命○参するのであるが、だからといって思考することが食べること や飲むことや歩くことや定石ことと並存する私の活動の一つである にすぎぬということは決してない。思考にだけは、他の私のとされ る活動にはともなわない性格、つねに塞﹁[]回帰性をともなうという 性格加おのずとそなわっている。食べることを食べたり、飲むこと を飲んだり、歩くことを歩いたり、走ることを走ったりはできない が、1 考することを思考することならできる。いや、それどころか、 思考するということは、1 考することを思考するということにおい てはじめて実現する。食べること、歩くこと、等々も、思考するこ とと開様、私の活動、私の生の活動であると谷れるにしても、それ でもその生の活動のなかで思考という活動にだけは特剔の注格加そ       五

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崇 北 岡 なわっているというわけなのだ。   その思考という活動について、それが正しい思考であるためには どうしても服従しなければならない法則、すなわち論理法則なるも のを探究する学問かおる。形式論理学である。このような論理学を        I I I X    % X I I I X % %念頭においてカントは述べている。﹁論理学は、たんなる形式のう X X X I I X I X    X X S I % X X I X X X N I I % I X    I X Iえからだけでな く、実質のうえからも理性的な学問である。つまり、 I I X X X X X S I X S X X I X I X I % X I I X % X X I X I %特殊な対象ではなくすべての対象を一般に顧慮しつつ思考の必然的  I X I X X I X I S    I X I N X法則を主観とするア・プリオリな学問である。  X I % X S    I したがって、悟 I I I X X X I I X I X I I I X X X X % I X S I I X X  ︵8︶ 性ならびに理性の正しい使用一般を主題とする学問である﹄、と。 ここでカントが論理学を﹁理性的﹂とか﹁アープリオリ﹂とか形容 し、論理学が探究する法則を思考の﹁必然的﹂法川であると語ると き、彼は、論理学を、事実上おこなわれている思考を事実上おこな われているがままの姿において形式化し把握する類の学問、すなわ ち心理学とは異なるものとして捉えているのである。人が実際にお こなっている推論を心理学的に探究すれば、そこには、︵甲笛U 巴︶Uことか ︵∼万言Uこ︶U∼ことか ︵平笛Uご︶Uでと か︵∼ザ︵tUご︶U∼でとか形式化されうる推論のあることな どが明らかになるだろう。だが、心理学的探究によれば、形式面か ら捉えられたこれら四種の事実のうちのとくに第一と第四の形式の もとに分類される推論だけが正しい推論であるとは言えない。話を 四つの形式にかぎるなら、それら四種の推論は、そのいずれも現に 人がしばしば日常生活をいとなむさいにおこなうものであるという ことの確認が、事実研究である心理学のなしうる脱皮である。もち ろん、学問的思考のトレーニングをある程度はとこされた人なら、 筈丁筈二の形式をもつ推論を正しい推論︱妥当な推論とは考えな いであろう。だが、人が事実上おこなう思考には第一丁第三の形式        六 をもつ推論も事実上ふくまれているのであるから、事実研究である 心理学には、四種の形式のうち特定の形式だけに妥当性を承認する というわけにはゆかない。妥当性というなら、前提を真とすれば結 論を偽とすることはできないという命題閲の必然的関係が成立する という形式論理学的な意昧での妥当性とは異なる意昧での妥当性、 すなわち現に事実問題としてそのような形式のもとで推論がおこな われているという意昧での妥当性を、それら口種の推論のいずれも が所有すると考えるのが、心理学の立場である。これに反して、形 式論理学は、正しく思考しようとするなら、第一丁第三の形式に準 拠してはならず、話を四種の形式にのみかぎるならそのうちの第 一・第四の形式に準拠しなければならないと言う。このような差異 のもとに形式論理学の性格を際立だせようとして、カントは、事実 研究である心理学がまぬがれることのできない経験性≒アーポステ リオリ性・偶然性という性格とは対比的な性格を示す﹁理性的ヤ ﹃アープリオリ﹄二必然的﹂ということばをもって形式論理学ない しこれが探究する法則を形容しているので虹響  思考という活動は、私の活動、私の生の活動の一つとして食べた り飲んだりする活動と並存するという側面をもつ。それゆえ、思考 が正しい思考であるために準拠しなければならない法川としてもろ もろの論理法則を提示してみせる形式論理学は、ある意昧において は、生の活動領域全体のなかの狭い一つの局面に即してでは弗れ、 正しく生きる︵正しく1 考する︶ためにその生︵思考︶が準拠すべ き法川、つまり実践ということばを広く生の活動全般をカバーする 意味で用いるなら一種の実践的な法則を提示しようとしていること になるのだと言ってもさしつかえなかろう。すなわち、論理的に真 なる思考という意昧での正しい思考とは、実践的に善い生という意

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味での正しい生の一局面を構成するようもくろまれているのだと 言ってもさしつかえなかろう。正しいということばにおいて、論理 的に真という意味が実践的に善いという意味と合流するのである。 誰でも日常生活においてしばしば隣人に冷淡であったり隣人を傷つ けたりすることがあるということは否定できない事実であるが、隣 人愛の掟をみずからの生を律するための実践的法則ないし規範と考 える人なら、その掟に服従する生を正しい生、その掟に反する生を 不正な生と考えるものだ。ちょうどそれと問じように、形式論理学 の語る論理法則に服従しようとする人は、白]分凸球身もふくめて人間 がしばしばその思考においてたとえば︵甲∼こという形式をも つ1 考つまり論理矛盾におちいることなどを承知のうえで、それで も矛盾律などもろもろの論理渋則に準拠する思考は正しい思考であ り、その法則に反する思考は正しくない思考であると判断する。そ のような人にとっては、論理法川は、思考という生の活動の狭い一 つの局面に即してではあれ正しい生をいとなむための手引きとして 役立つ。食べることや飲むこと、歩くことや走ることなどについて も、たとえば礼儀とかマナーとか型とかフォルムとか称吝れる正し い活動の仕方とされるものかおるが、当然それらも、生の活動のそ れぞれの局面に即しての正しい生︵正しい食べ方、正しい走り方、 等︶なるもののための手引きとして役立つものなのである。正しい 生なるもののための手引きとして役立つという点においては、形式 論理学の語る論理法川と礼儀Iマナーー型Iフォルム等は、㈲類だ ということになるだろう。矛盾律は、思考という生の活動を発揮す るさいのマナーの一つであり、食事のマナーは食べるという生の活 動を正しく筑制する矛盾律のごときもの、ということになるだろう。 思考することが食べたり飲んだり歩いたり走ったりすることと並存 する私の活動の一つであるにとどまるなら、たしかに、形式論理学 の語る論理法則もまた食事のマナーや走りの模範的なフォルムと並 立する思考のマナーないし模範的なフォルムのごときものにすぎな いと言わざるをえない。  だが、思考という活動は、私の生の活動の一つであるというにと どまらず、私の生に所属するとされる他の活動にはない特別の性格、 店2 ㈲帰性という性格をそなえている。つまり、思考するというこ とは、1 考することを思考するという仕方ではじめて実現するとい うことだ。1 考という活動に囚有のこの性格加、この活動を他の私 のとされるさまごまか活動から区別する。そして、このような固有 性をもつ愚考という活動かおるからこそ、食べたり飲んだりするこ とがばかならぬこの私の活動として捉えられうるのである。1 考と いう心71﹄意識的な活動が私という存在を私に気づかせることがない なら、私は、当然のことながらいかなる活動も私の活動として捉え ることはできない。それどころか、私のであれそうではないのであ れ、とにかくいかなる活動もそれをそれとして捉えること咎免でき ない。1 考という白戸﹄㈲帰性をそなえた活説こそが、その活説のた だなかに私という活動者を存在せしめ、愚考以外のすべでの所動を 活動として捉えることを可能にするとともに、それぞれの活動につ いてそれが私のものであるかとうかを決定する。それゆえ、食べる という活動が私の活動であると言うことができるのも、1 考という 私の活動、1 考という私の生の活動かおるからこそのことなのだ。 それだけではない。1 考という私の活動によって私のものとされた 食べたり飲んだり歩いたり走ったりといった活説について、生の活 説のそれぞれ狭くかぎられた局面に即してではあれその局面での私 の生の正し谷の規準と吝れる形式、ある一定の壮儀なりマナーなり       七

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心 六 北 岡 型なりフォルムなりをそれとして認めるのも、やはり思考という私 の活動以外の何ものでもない。それゆえ、その思考という活動の正 しさの規準を論理法則が表坑するのであるとすれば、論理法川は、 ただたんに、私の生の正しさの規準とされる吝言ごまか形式のかか の一つの形式であるというにとどまらず、論理法則以外のすべての そのような形式を形式として捉える思考心身の正しさの規準を表現 する特別の形式であるということになる。形式論理学の語る論理法 則は、私か、私の生の活動領域全体のかかの思考活動という狭い一 つの局面で正しく生きるためには服従しなければならない形式であ ることによって、さらにそれ以上万形式、すなわち、一般に生の正 しさの規準とされる形式を生のすべての局面に即しで正しく1 光よ うとするさいに私か服従しなければならない形式だということにな るのである。ここに、私の活動を規制するすべての形式のなかでた だ一つ論理法則にのみ認められる普遍的な性格の一端が顔をのぞか せている。論押灰皿に固有のその普遍性は、もちろん、思考という 私の活動に開有のあの心戸﹂順帰性という性格に由来するものであ る。  だが、思考が正しい思考であるために準拠しなければならないと される論理法川について、なにゆ光にそれら論理法則が準拠すべき 法則であるのかという問いが生じるであろう。たとえ形式論理学が 経験的な学問ではなく、﹁理性的﹂な学問であり、アーポステリオ リな学問ではなく﹁アープリオリな﹂学問であり、それが探究する 法則が偶然的ではなく﹁必然的﹂であると語られても、その形式論 理学は論理矛盾という事態一つをとってみてもその意味を完全に解 明できているわけではないのだから、当然、正しい思考なるものの その正しさの意味をその根源から捉えることができているわけでは        八 ないと言わざるをえないからである。正しい思考という場合のその 正しさの意昧、すなわち矛盾律等の論理法則との合致ということそ れ白体が完全に開確な輪郭をもっか一定の意縁をそなえてはいない のである。論理矛息、整合性、さらに矛息律等の論理法則との1 致 ということの意味の解㈲が未完結であるというこの事態の影響は重 い。すなわち、形式論理学は、論理法川を、正しい思考なら準拠し ていなければならない法則として提示することによって、正しい思 考なるものの意昧に宿る曖昧さを放置したまま、人間の思考を一定 の枠内に閉じ込めようとすることになるからである。こうして形式 論理学は、正しい思考という場合のその正し谷の意昧が一層の解明 を娶するものだという事情を店他の目におおい隠すとともに、その 一層の解明をおこなおうとするま谷しく真正なる論理学的探究と称 谷れるべき探究の芽生えを抑圧することになるからである。形式論 理学は、正しい1 考のその正しさをみきわめようと努める真正なる 論理学的探究と逆向きの志向を有するかぎりにおいて、正しい思考 の1 のもとに人間の1 考を抑圧するための洗練された暴力装置と化 するのである。いずれにせよ、論理矛息ならびに整合性をめぐる前 節の考察において、論理矛息は思考の整合性を損うものであるから  ︵矛店は論理整1 的には思考不可能であるから︶正しい思考は矛購 律に準拠していなければならないと主張する形式論理学が、ほかな らぬ論理整合的で為るべきみすがらの思考においてその論理矛購を 思考してしまっているという事実が確認された。ここに、形式論理 学の盲目かおる。ほかならぬその上うな育目性をまぬがれない形式 論理学に、生のすべての局面に即してその正しさの規準とされる形 式を正しく思考するための手引きを期待する人は、結局、盲ほの案 内人にしたがおうとする盲人ということになるのだろ頷。

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※ ※ 矛盾律に考察の焦点をしぼろう。論理矛息についての形式論理学 の主張には若干トトとはいえ重大な意味をもつ 曖昧さが認めら れたが、それでも、正しい思考は︵万∼こという形式をもつ思 考をふくんではならないという要談は強力である。政治権力が最強 となりそれによる支記・専制が貫徹されるのは、それが抑圧する暴 力の気配をいささかも感じさせず、むしろ自明のこととして承認さ れるほどに人々の内面にまで浸透する場合であるが、私は、とりわ け目分の主張を他人に伝達しようと努めるときや、他人の主張を正 確に理解しようと努めると咎など、矛盾律の語る無矛盾性の要講を 私の内側から発する要談として理解してしまいそうになるほどであ る。すなわち、私は、無矛盾性の要講を経験するとき、私の思考を 抑圧する外的な力ではなく、私か私の思考を私のものとして統御す るための内的な力を経験する怒いがするほどである。私は、怠営穿自] 身も論理矛府令整合性そしてまた矛盾律の意味を完全に解明できて いるわけではないことを十分に自党しつつも、それらについての一 定の理解に導かれて、自分の1 考の歩みを自]分で調整しようとする ほどである。もちろん私は、日常生活において、そのような一定の 理解を私かもつかぎりでの無矛脂性の要講に白光、つねに応じるこ とができるほどに︿正しく︾思考しているわけではない。心分心身 の1 考の歩みを反省してみれば比較的容易に気づくことができる が、︵万∼こという形式をもつ思考、つまり論理矛息は、私の思 考にもしばしば認められる。心理的な事実としては、現に私は、し ばしば整合性を欠く1 考をおこなうのである。私は、命題づと命題 こをともに思考し、しかる後に一方の命題からの必然的帰結として 他方の命題の否定が導出されることに気づくことがある。つまり私 は、当初はそれと気づくことがなかったにせよ、︵万∼こあるい は︵平∼こという形式をもつ1 考を遂行していたことになるのだ。 アリストテレスは、﹃形而上学﹄において、﹁同じ人が同じものをお りと信じると㈲時に︵いkQ︶あらぬと信じることが不可能である ことはヽ回らかであ顛﹄と述べているが、これは誤りである。矛言 を1 考することはノ心理的な事実としてから決して﹁不可能﹂では ない。私は、しばしばこのような事実の存しかことを承認し、また このような事実がおそらく今後も私の思考において認められること を承認する︵私の今後の1 考が論理矛盾なるものから完全に解放さ れることなどまずありえないことだと白]認する︶にしても、なお私 は、いや、それだけにますます私は、私の思考に谷いし私の内側か ら発する要薗にこた光るような思いをもって矛盾律に服従しようと する。それほどまでに、矛息律は、白︼剛性の外観をまとっており、 私の愚考を拘束し抑圧する暴力の気配を感じ谷せることがないので ある。無1 脂性の要講け強力である。矛息律子年図体が完全に解瞬 谷れてぃるわけではないと店覚している私にとっても強力であるこ とにかわりはない。  矛言律子のものを問題視する人のかかには、矛息律の論証を求め る人がいるかもしれない。アリストテレスは、﹁㈲じもの[開じ属性・ 述語]が㈲じものに㈲じ事情のもとで㈲時に︵に驚Q︶属しかつ属 さないということは不可能である﹂という﹁すべての原理のうちで もっとも確かな原理﹄の論証を求める人を﹃教養の欠如﹄しか人と 呼ぶ。﹃形而上学﹄より引用しよう。﹃ある人参はこの原理について さえも論証を要求するが、これは、彼らが教養の欠如し危人参であ るからだ。というのは、何については論証を求めるべきで何につい        九

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喜 六 北 岡 ては論証を求めるべきでないかの識㈹を心得ていないのは、教養の 欠如の証拠だからである﹂。しかし、ここでアリストテレスは、矛 盾律がまとう店脂性の外観を問題視する人を一指して﹃教養の欠如﹄ した人であると述べているわけではない。アリストテレスは、店分 諮身が現に矛盾律を問題視して﹂七からこそ、矛盾律の論証を求め る人を﹁教養の欠如﹂した人と呼ぶことができるのだ。それゆえま た、アリストテレスは、論理矛盾、整合性、そして矛盾律そのもの についての完全な知を所有しているという錯党をいだくほどに矛盾 律がまとう恣脂性の外観に屈服している人に、がばと深い教養を認 めることはないであろう。正しい1 考とはどのようなものでなけれ ばならないか、みすがらその1 1 において吝けようとする論理矛盾 とは何珈を完全に知っているつもりになって、無矛息性の要談にか なうようみすがらの思考を調整しようと努めるだけの人は、ただや みくもなだけで、心分の盲Uに盲目なだけの人なのだ。だが、﹃教 黄の欠如﹄とか教養を身につけているとかいう場合の教養とは何か oe昏昏○@ 。肖Qこ気戈教育、訓練、教養、そして文化⋮⋮。すぐれた 教養を身につけようと志向するさなかにあって、そのような志向を もっがゆえにかえって教養ということばの意味を徹底的に1 考し、 その怒考のなかでそのことばの通俗的な意昧をすべて崩壊させると いう体験をもった人、あるいは深い教養を身につけ高度な文化全旱 受する能力を養っているがゆえにか光ってみずからの知性の根源的 な無力におののくという体験をもった人 すなわち特定の既成の 一 〇 るのではないだろうか⋮⋮。いや、さらに、彼がその種の体験を個 人的体験としてその心中にとどめおいたりその体験の周辺を語った りするにとどまらず、その体験そのものを表現しようとするなら、 彼は、その1 考の展開にさいし、矛盾律の支配と専㈹の暴力性を指 摘すると㈲時にその支配と専制に抵抗せざるを光なくなるのではな       ︵19︶いだろヽつか⋮⋮。  形式論理学は、論理矛店を、整合性の支配する論理空間の︿外︾ に排除すべきものとして捉えるその長大方において、かえって論理 矛府を論理整1 的に思考してしまっているとい立手実から、私は、 形式論理学における矛店ということばの意昧の解脱の未完結性を主 張しか。論理矛店は論理整合的には思考されえないが、それでもそ の上うなものとして論理矛言を長大るぱかない形式論理学におい て、その上うに論理矛店が論理整言的に思考谷れているのである。 論理矛店についての形式論理学の思考のこの二百性は、ただちに反 転して無矛診性ないし整合性や整合性の支配する論理空間の意昧の 二百性をひきおこす。論理矛店の意味の解明の未完結性は、あるい はそのような解㈲の独断的停止は、ただちに、論理矛息と対を成す 整全性なるものを不可欠の前提として要するもの、たとえば論文、 学説、説肺、演説、等々の言説の実質に影を落とす。整合性の意昧 店体が二面性を有し、これを不可欠の前提とするそれら論文等の言 説の核に走る亀裂があらわになるからである。しかし、形式論理学 における矛言の意昧の解明の未完結性を指摘ずるけかならぬこの私 か、店分心身の事実上の思考の歩みを反省してみれば私心身しばし ば論理矛店におちいっているのを容易に観察できると先に述べた。 それなら、むしろ私は、今、心分白球1 が論理矛店におちいっている ことに気づくと述べたその現場ドヴに目し、そこに論理矛言の存在を 学問体系を学習することへの意欲ではなく特定の既成の方法に準拠 しか研究への意欲でもなく、純粋に知への愛としてのピコソピアー を生きようとすれば当然親しむことになるその種の思考状況を体験 したにだなら、ひとまずは、矛息律がまとう白脂性の外観を問題視す

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見いだすと言うこの私か理解するかぎりでの論理矛息の意昧を正確 に捉え加えしてみてはどうだろらy:EI。矛盾ということぱの意昧を もっとも瞬確に規定していると思われた形式論理学がその規定にお いてかならずしも十分開確であるとは言えないことに気づか、しか もなお、みずからその日常生活において論理矛息なるものにおちい ることがあると考えるのであるなら、私は、形式論理学における矛 息の意味の解明よりもさらにその解瞬をすすめるために、現に私か 矛盾を見いだすと言うその矛盾の在処ならびにその矛息の存在ドヴに 目すべきであろう。日常生活という場、しかも心理的な事実が存す るかぎりでの日常生活という場、すなわち整合性の支配が貢徹され ているわけでもなくまた貫徹されるべきであるとみな谷れているわ けでもない場である日常的な言語・恩想空間という場、ならびにそ の場に私か見いだすと言う論理矛盾にこそ注目すべきであろう。次 のような筒いを念頭において考察をすすめよう。はたして、日常的 な言語−1 想空間のうちに︵万∼こという形式をもつ思考、す なわち論理矛盾が本当に見いだされるのであろうかワ ろうかワ よヽつO 論理矛盾とは一体何であるのかワ 見いだ谷 いう言㈲と﹃今日は快晴ではない﹄という言明をとりあげこれら二 つの私の言㈲を対照してそこに論理矛息が存在すると語り、そのよ うな言明をおこなう私の思考を店こ矛息的と語る人がいるとすれ ば、私はその人を間抜けと呼ぶ。﹁決晴﹂の﹁今日﹂も﹁土砂降り﹂ の﹁今日﹂も、たしかに﹃今日﹄であるが、それら二つの﹁今襄﹂ は同じ日ではなく別の日であるからだ。同じ日、同じ時刻に、同じ 場所で同じ人がそのときの天侠について﹃快晴だ﹄と語りかつまた  ﹃快晴ではない﹄と語るとすれば、そこには論理矛息が存在すると 言えるかもしれない。アリストテレスは、﹃形而上学﹄で、矛盾律 を定式化して、﹁開じもの︻㈲じ属性・述語︼が㈲じものに㈲じ事 情のもとで㈲時に︵ヤQ︶属しかつ属さないということは不可能 である﹂と述べている。アリストテレスはまた、﹁対立するものた ち[諸属性︱諸述語]が㈲じものに同時に︵い驚Q︶属することは 不可能回礼51 ﹄とも述べている。しかし、﹁快晴﹂の﹃今日﹄と﹁快 晴ではない﹂﹃今日﹄がたがいに異なる日であるなら、等しく﹁今曰﹂ と呼ばれるそれぞれの襄をいわけ一本の9 間線上のだがいに重なり あうことのない二つの部分に対応させることによって、それら二つ の﹁今日﹂の天候に関する二つの言9 1を矛盾なしに両立するものと 捉えることができる。こうして、私は、論理矛息ではなく天候のお り方とそれを語る言㈲の多様性を承認することになるのだ。先の私 の二つの言明に矛息を認める人は、﹁快晴﹂の﹁今日﹂と﹃快晴で はない﹄﹃今日﹄を㈲じ日とみなすという誤謬をおかしている。彼 の愚考からは、二つの﹃今日﹄に対応する時間線上の異なる二つの 部0 間の距離が脱落し、それら二つの部0 が完全に重なりあってい る。彼の愚考からは、二つの部分間のその開か抜け落ちているから こそ、私は彼を間抜けと呼ぶのだ。だが、間抜けな人がおこなう間       一 一 れるとすれば、それはどのような制約のもとで見いだされるのであ い添拶一、臼        ※      ※ 日常生活の経験を反映する小さな断片に注目しこれを考察してみ ある晴れ九日に私か、﹁今日は快晴だ﹂と語り、激し 中降りっづくその数襄後﹁土砂降りだ。今日は快晴ではない﹂と語っ たとしよう。これら二つの私の言明をつきあわせそこに論理矛言が 存在すると考える人が誰かいるだろうか⋮⋮。﹁今日は快晴だ﹂と

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喜 匹 北 岡 抜けな批判を真に受けて、その批判に︽正しい論拠︾にも≒づいて 逆に批判し返すというのが私の狙いなのではない。それどころか、 私には、それにもとづいてただ注意深く思考を展開し草免すれば決 して誤謬をおかすことがないとの保証を与えてくれるような︽正し い論拠﹀のもちあわせがあるのかどうか実は心もとない。時間線な るものに訴える私にも、私を批判する人におとらぬ間抜けさが存す るのではないかという思いを、私は断ち切石ことができない。  日常的な言語ふ貪巍I問には徹頭徹尾、時間性加1 透している。 それゆえ、日常生活をいとなむ私か二つの言明を同時におこなうと いうことは決してありえないし、それら二つの言明を支える二つの 思考を同時に遂行するということも決してありえないことなのだ。 アリストテレスが定式化し九矛盾律、﹁開じもの[同じ属性・述語] が同じものに同じ事情のもとで同時に︵心驚Q︶属しかつ属かない ということは不可能である﹂ならびに﹁対立するものたち[諸属性︱ 諸述語]が同じものに開時に︵y驚も属することは不可能である︶ のいずれにおいても、﹃同時に﹃J驚も﹄という語が付属している。 しかし、たとえアリストテレスの定式がそれ白]体において正しいも のであるとしても、開時に二つの言明をおこなったり開時に二つの 思考を遂行したりできない私に、その定式が正しいものであること をはたして認識することができるのであろうか:E・。相反するもの であれ相反しないものであれ、同時に二つの判断をおこなうことが できない私には、アリストテレスの定式のいずれにおいても﹁不可 能である﹂と語られるそれぞれ当のその事態の存立の確認のしよう がないのではなかろうか⋮⋮。﹃不可能である﹄と語られる事態で あるからその存在の確認のしようがないという理屈ではない。何で あれその事態を捉えるために少なくとも二つの言明︱二つの思考の       一二 目︰時化か不可避であると谷れる場合に即して、その同時化の可能性 を全面的に疑開祖しているのである。それゆえ、㈲時化されてぃる との想定のもとで二つの言明・二つの思考の複合を形式論理学的に 可能であるとか﹁不可能である﹂とか区別する思考以前の問題、す なわち㈲時化されていろとの想定そのものの可能性を疑闘視してい るのである。∼︵甲∼こ白菊号化される矛店律にも、このよう な疑いをさしは谷かことができる。この複合命題を構成するでに対 応する言明・怒考と∼でに対応する言明・1 考は、時間性の浸透し た日常生活においてはそれぞれ別々のときにおこなかれるはかない からである。アリストテレスは、﹁同じ人が同じものをおりと信じ ると㈲時に︵いRQ︶あらぬと信じることが不可能であることは、 脂らかである﹄と述べていたが、このことぼけ、このことばでアリ ストテレスが表現しようとしで表現するに失敗しかと推測谷れる形 式論理学的か意味とはまったく異なる意味において正しいと言え                                                       %   I   I   %   I   I   I   I   I   X   %             I   X   I   X   X   I   I   I   I   I る 。 す な わ ち 、 あ る と 同 時 に あ ら ぬ こ と や 、 お り と 信 じ る と 同 時 に  % I % X I I % I I      I % % % I I I I I 馬 X I % I I X I I Iあ りと信じないことや、あらぬと信じると㈲時にあらぬと信じない  I I ことが論理的に﹃不可能である﹄という意味においてではなく、二 つの信念はそれぞれその内容が何であれ 反しないものであれ 指反するものであれ指 それぞれ別々のときにいだかれるというご く岸純か意味において正しいと言える。信念であれ、言瞬、田こ考、 判断、何であれ、時間性の浸透し危日常生活をいとなむ私は、二つ の活動を同時に遂行することはできないという意味において正しい と言えるのだ。先に私は、アリストテレスのこのことばを引用して、 これは誤りである、心理的な事実としてなら矛盾を思考することは 不可能ではない、と述べた。そして、今、そのような心理的な事実 の認められる日常的な言語・恩想空間の考察へと思考をふりむけた

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ところである。だが、あらためて今、問うてみなければなるまい。 大地、風、海、夜、光、さらに樹木や花や実や小鳥、そして書物申 鉛筆や原稿用紙、また隣人たち、すなわち妻子令老いた筒親や友人 や1 も知らない子供や大人や死んだ人々、そして彼らのことば、 ⋮⋮私の日常生活を織り成すこれらかぞえきれないばどの人、物、 事態、ことば、観念などにかかかる言萌や思考ドこれらの言9 1や 思考もまた私の日常生活を織り成すものたちであるのだがIにお いて、︵甲∼こという形式をもつ思考、すなわち論理矛盾が本当 に見いたされるのであろうか、と。時同性が徹頭徹尾浸透する日常 的だふ呈T思想空間には、ただ無限に多様な人、物、事態、ことば、 観念などとそれらにかかかる無限に多様な言㈲・思考が認められる だけではないのだろうか、と。それゆえ、ここで私は、まず、形式 論理学の言う矛盾ないし整合性︵論理的な複合の不可能ないし可能︶ の問題以前の問題である二つの言明・思考の開時化の可能性の問題 を考察しなければならない。  私の日常生活を織り成すものたちは何であれ、すべて徹頭徹尾時 間性に浸透されて﹂七言言萌や思考もその例外ではない。それゆえ、 日常的な言明︱思想空間に登場するものはすべて、それぞれ時間線 上にその位置をもつ。同時に二つの言明をおこなったり二つの思考 を遂行したりできないのはそのためであった。しかしだからといっ て、時間線上にそれぞれの位置をもつすべてのもの、もちろん言萌 や思考についても、ただ多様性が認められるのみで、そこに論理矛 盾を見いだすことはできないというわけではない。もちろん私は、 今、時間線上に特定の位置をもつとされる㈲一の事柄にかかわる二 つの言明ないし思考のことを考えているのである。あるいは、永遠 なるものと想定される何かある事柄にかかかるうと志向する二つの 言明ないし思考のことを考えているのである。たしかに、そのよう な二つの言㈲ないし怒考も、それ心身が時間性の浸透しか出来事と して、時間線上にそれぞれ別の位置をもつことをまぬがれるわけに はゆかない。そうであるとはい光、しかし、それら二つの言明−1  考のあいかに論理矛盾を認めるということがつねに間抜けな誤りだ ということにはならないのである。言㈲・思考は、発声やそれにと もなう空気の震動、ペンで文字を書くという行為、あるいは思考に とって不可避な心理上の諸現象︵頭部の緊張感、驚きやよろこびの 感情、等々︶やそれに対応すると多くの人が信じている脳細胞の活 詰などとはまったく具なる秩序に属する意味というものをそなえて いるからである。すなわち、言㈲︱思考は、それ白︼身が0 間線上の 出来事であるということによって時間線上にその位置をもつだけで はなく、何かある事柄︱それが9 間線上に特定の位置をもつと谷 れる事柄であれノ水遠なるものと想定吝れる事柄であれ、あるいは それ以外のものであれ に言及しその事柄を志向するという動向 をそなえている。何かおる事柄に言及しその事柄を志向するという この動向を意昧志向と呼ぶなら二百明・1 考は、その意味志向によっ て、それ自1 加時間性の浸透しか出来事として時間線上にもつ位置 を超越するのである。矢印が何かおる事柄を指示するというその意 昧志向によって、矢印白身の存在する位置を超越するのと同じこと だ。晴れ九日に﹁今日は快晴だ﹂と語為場合にしても、この言明は、 その日この言㈲がな谷れたという意味においてその日という時間線 上の位置をもつと㈲時に、さらにその日の天候を対象化し言外﹀ から捉え︶語るというその意味志向によって、この言明が白白的に はそこにはりついているその曰という位置を超越するのである。そ の日の天候を思考し語るということが可能なのは、その臼を超越し 一 一 一 一

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心 太 北 岡 その日を心分店身にたいするものとして定立すること、すなわちみ すがらその臼の︿外﹀に立つことによってのみであるからだ。言㈲︱ 思考は、その身に意昧志向をそなえるかぎり、その身が即白的に存 在する時間線上の位置に全面的にはりついているわけではない。言 明ふこ考にそなわる意昧志向とは、時間線上の一定の位置を超越す るという不完全ながらも一種の永遠性への動彫であると言えるの だ。この動向は、﹁今日は快晴だ﹂とか﹃今日は土砂降りだ﹄とか、 その言明ないし思考が、現にそれが表明されたり遂行吝れたりする 時間線上の位置に同時的に存する事柄を反省的に捉えようとする場 合よりも、むしろ言明・1 考が、現にそれが表明かれたり遂行谷れ たりする時間線上の位置から見て未来の事柄や過去の事柄へと方向 づけられている場合のほうが、よく目立つかもしれない。しかし、 いずれにせよ、言明・怒考は、それ心身加時間性の1 透しか出塞争 として時間線上に一定の位置をもつと㈲時にその位置を超越する意 味志向をもつのであるから、ただ、二つの言㈲・怒考が出来事とし て時間線上にもつ位置が異なるという事実にのみ注目し、この事実 か ら 、 時 間 性 の 浸 透 し か 日 常 的 か ら 昌 T 田 言 言 I 問 に は 論 理 矛 盾 は ﹃ そ し   D   l . k / i . i   i ^ し レ ﹄ ’ 4 `   ‘   I ノ     ー ‘   ご ‘   /   \       t   。       ^       r       i -≫ A r -N           _         \           _ ^ -x . ≫ . ≪ ^     ≫ i . i ≫ /       1 1   1 1 V .   1       1         . ≫ ・ . れゆえ整合性さえも︶存往しえない 認められるのは多様性だけで あると推論してはならないのである。先に考察した﹁今日は快晴だ﹂ という言明と﹁今日は快晴ではない﹂という言明のあいだに論理矛 盾を認めるのはたしかに間抜けなことであるが、その澗抜けを指摘 する人が、もしも、論拠として、それら二つの言明が出来事として 時間線上にもつ位置が異なるという事実にのみ注目しているのであ るとすれば、むしろこの人の方こそ、言明︱思考の二つの性格、す なわちそれ臼身出来事として時間線上に一定の位置をもつという性 格とその位置を超越する意味志向をそなえているという性格とのあ       一四 いだに存する差具を失念するという間抜けをしでかして、しかもそ のことに気づいていないだけだということになる。  日常生活の経験を反映する剔の小谷な断片ド汪目しこれを考察し てみよう。  目の前を軽快に走り去る自転車を見て、私か、﹁今、自転車が走っ てゆく﹂と語り、その翌日、前日のその自転車を見たときのことを 念頭において、﹁昨日あのとき、自転車は走ってゆかなかった﹂と語っ たとしよう。これら二つの私の言明け、外見上は矛盾なしに両立す るが、二つの言覗のそれぞれが時間線上にもつ位置の相違を考慮し、 この考慮によって一方の言㈲における﹁今﹂と他方の言9 1における  ﹃昨日あのとき﹄とが開じ日の同じときを指示することが確認吝礼、 さらに二つの言㈲において㈲じそのときの㈲巴心転車が主題となっ ていること︵これら二つの言明の意味志向が同一の対象へと方向づ けられていること︶が確認答れるなら、二つの言開け論理矛盾の関 係にあると言わなければならないであろう。私は、開一の事柄につ いて、﹁走ってゆく﹂ことと走ってゆかないこととを、言及答れる 当のその事柄の時間線上の位置に即して言うなら同時に主張してい るからである。このような事態を論理矛盾と呼ばないとすれば、日 常的な言語・恩想空間において論理矛息なるものは決して見いだ答 れない。  私は、言㈲ならびに思考に存する二つの性格の差具を念頭におき ながら日常的な言語−1 想空間に浸透する時間性を反省することに よって、字義通りに解すれば論理矛盾を見いだしてしまうことにな りかねない二つの言明のあいだに実は矛盾は認められないというこ とを指摘したり、やはり字義通りに解すれば矛盾なしに両立すると 認められることになりかねない二つの言明が実は論理矛息の澗係に

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あるということを指摘することができた。徹頭徹尾時澗性の浸透す る日常的な言語ふ言言I間という場において論理矛言が存往するか 否かを問題にするとき、私は、時間線を前提するという制約のもと でしか考察をすすめることができないということを決して忘れては ならない。論理矛盾を見いだすにせよ見いださないにせよ、その上 うなことは、日常的な言語t思想空間でなされることである以上は、 時間線を前提するという制約のもとでのみおこなわれうることなの だ。第一に、出来事としての二つの言明・思想が時間線上にそれぞ れの位置をもつという点において、第二に、それらがそれぞれ言及 しようとする事柄が開一であるか異なるものであるかを確認するこ とができるための制約として、そして第三に、問題となった二つの 言明︱思想のあいだに論理矛盾の存在なり不在なりを判断するその 判断という出来事目体が時間線上にその位置をもつという点におい て、時間線が前提されているのである。  形式論理学の語る矛盾律等の論理法則でさえ、私はそれらを日常 的な言語・思想空間において思考し理解するはかないのだから、私 の知るかぎりでのそれら論理法則は、やはり時間性の浸透をまぬが れることはできない。いや、論理法則の構成要素である命題を私か 思考するということ、このことがすでに、時間線を前提するという 制約のもとでのみ可能なのだ。つまり、こうである。=写の文章。  ﹁彼は年老いていた﹂よ万頃回Oぶ≒フ゛に﹃頃回診≒があるとしよう。 これら三つの文章に見られる﹁彼﹂、ヨヘ拍≒の三つの語が同一 の主題を指示するなら、これら三つの文章はだかいに別のものでは あるが、開一の意昧をもつ、すなわち開一の内容を主張していると 言える。この同一の意味ないし同一の内容が形式論理学の言う命題 である。だが、私かそのような命題を理解するのはあくまでも、時 間線上に一定の位置をもつ文章あるいは言明・思考を介してのこと である。同一の内容をもつ右の三つの文章にしても、私は、それら を開時に書いたり読んだりすることはできないにもかかわらず、そ れらが㈲一の内1 をもつと考えることができるのは︵すなわち私か それら三つの文章に共通の同一の命題を理解できるの芭、私か、 みすがら日常生活をいとかむさいにすでに前提している時間線上の 三つの位置、つま旦二つの文章を書くなり読かなりするその活動が 時間線上にもつ三つの位置を順次三頭そのっと超越するということ によってである。しかも、その超越という意昧志向が三つそろって、 やはり時間線上に一定の位置をもつ同一の事柄へと方向づけられて いることを確認することによってである。それゆえ、私か何であれ 命題なるものを理解する谷い、少なくとも二重の仕方で時間線の存 在が前提されているのだ。まず時間線上の一定の位置を超越すると いうことにおいて、次いでその超越のゆき先を時間線との関係にお いて確認するということにおいて、前1 されているのだ。命題の理 解にしてすでにこのような事情にあるのだから、私の理解する論理 法則が時間性の浸透をまぬがれているということなどありえない。 私にとっての命題の誕生が時間線を前提してのみ可能であるなら、 命題を構成要素としてもつ ︵万言Uこ︶Uことか∼︵万∼こと かの論理法則が、時回線の前提なしに私によって理解されるわけが ない。  ︵甲言Uこ︶Uコという推論形式には、命題っと命題こがそれ ぞれ二度登場する。この推論形式を私か理解するのは、私かそれを 思考しつつたどってゆくことによるはかない。だが私は、でやぬを 私の思考において二度目に捉えるとき、そのづやこを、一度目に思 考したりやこと㈲一の命題と理解する。命題とは、それを捉える思       一五

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心 太 北 岡 考や判断の働きの多様性、言明の多様性を統一する共通の意昧であ り、時間線上の別々の位置に離される谷まざまな言明・1 考をその 意昧において同一とみなすことを可能にするものだからである。ま た私は、でやこを順次たどり思考してゆくはかないにしても、それ らの命題を同時に存するものと理解する。これらの理解かしに二回 ⊇Uご︶Uぬという論理渋川を私は理解することができない。矛 購律の場合も、その形式がより単純であることに由来する若干の相 違を除けば同様のことが言える。それゆえ、矛購律等の論理法川を 理解するさいにも、少なくとも二言の仕方で時間線の存在が前提さ れているのだ。まず、その論理法則を愚考しつつたどってゆくとい う活動そのものが時間線上にもつ位置を超越するということにおい て、次いでその超越のゆき先の確定にさいして、時間線が前提谷れ ている。ただし論理渋川の場合、超越のゆき光、すなわちそれが表 戻しようとするものは時間線上の特定の位置に存する事柄でぱな い。それゆえ、論理法翔は、時間性の浸透しかこのせ界を記越する 彼方の無時間的な永遠の世界に存する事柄を表説しているかどと いっか解釈が生まれたりするのだ。しかし実は、論理法川がそれを 捉える私の1 1 の働きそれ心身の時間線上の位置を記越して言親し ようとする事柄は、時間線上の特定の位置に存する事柄︵すなわち 歴史上の出来事︶で心無時間的な永遠の世界なるものに存する事柄 でもなく、時問線上のすべての位置に存する事柄︵すなわち歴史上 のすべての事柄をつらぬいて恒存するものという意味での歴史型モ のもの︶なのである。形式論理学や数学の主渋に周意する人は、そ れらの主張が永久不変の絶対的確実性をもつとみなすものである が、それは、それらの主張が0 間線上のすべての位置に存する事柄、 時間線上のすべての位置との㈲時性をもつ事柄、時間の全体をつら       ロハ ぬいての恒存性をもつ事柄を朧親しようという意昧志向をもつもの だからであ柏゜それゆ足ヽ矛盾律等の論理法翔で谷足、襄常生活を いとか0 私か私の言語︱思想空間においてそ軋を理解するかぎり は、やはり時間線という前提のもとでのみ誕生するという前約をま ぬがれることはできない。そ社ゆ光また、形式論理学が矛購律をもっ て成立せしめようとする論理空間で与え、私瀞理解するものである かぎりは、やはり時顔柱の浸透をまぬがれることはできない。  私は、形式論理学における矛息の意昧の解四つの未完結性を指摘し ながらも、︵甲∼言という形式をもつ1 考、すなわち論理矛息を 日常的な言語・恩想空間において見いだすことができると途べた。 そこで私は、論理矛息の意珠の解㈹を進展与せるために、私か千軋 を見いだすと言う場、すなわち日常的な言語・1 想空間ド作に目しか。 そして、その場における意蜂や命題の発生のきわにまでいくらか途 顔する分析をすすめることによって、私は、日常生活をいとかを私 か論理矛息の存在を指摘したり、千軋ゆえまた整合性︱無矛息佐を 指摘したりできるのは、いやそれところが矛購律等の論理法翔を理 解することができるのは、待澗線を前提とするという制約のもとで のみのことなのだということを㈲らかにした。だが、論理矛購の存 在を時赫線という前提のもとに指摘し、論理矛購の在処を待順線と いう前提の制約下と確定しかだけでは、まだ私は、論理矛息の意味 の解㈲を大いに進展させたというにはばど途い。とはい光、この解 萌を進展させるために何をなさなければならないかが明らかになっ た。論理矛購とは何加、それゆえまた整合性とは何加、からに整合 性の支配する論理空間とは何加、また論理法翔との1 致という意昧 での1 考の正し与とは付珈、の解㈲は、日常的な言語よ言言I間に 浸透する時間性の解㈲なしには大した進展を期待できないのであ

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