• 検索結果がありません。

十八世紀の茶事

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "十八世紀の茶事"

Copied!
14
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

図版

浦上春琴 「黄葉亭図」 頼春水 「黄葉」題字

(2)

十八世紀の茶事(高橋 博巳)

二〇

(3)

2016年 3 月 金城学院大学論集 人文科学編 第12巻第 2 号 二一        ここでは茶事の主体をいわゆる茶人ではなく、文人ないしその周辺 の人々に限定する。文人こそは十八世紀の茶事の担い手とみなされる か ら で あ る。 ( 1) ざ っ と 四 百 年 前 の 十 六 世 紀 に 始 ま っ た 佗 茶 も、 形 骸 化 は 避 け ら れ な か っ た。 石 州 流 の 祖、 松 平 不 昧( 1751 -1818 ) も 弱 冠 二 十 歳 に し て、 「 つ ら つ ら 世 間 の 茶 道 を 見 る に、 後 人 の 作 意 に し て、 其 本 を 知 ら ざ る 故 に、 事 理 本 意 に 違 ふ こ と 多 し 」 と い う こ と に 気 づ い て、 「当世の茶の湯学びたまふは御無用の事なり」と言い切っている。 「 後 人 の 作 意 」 を 排 し、 原 点 に 戻 ろ う と し た の は 明 ら か で あ る。 そ う し て、 「 予 も 茶 湯 大 好 き な が ら、 当 世 の 茶 を 笑 ひ た ま ふ 人 々 の 御 ひ ゐ き 仕 る べ し 」 と も 記 し て い る。 不 昧 に よ れ ば、 「 一 心 を 修 め 慎 み、 清 浄潔白を本として、礼楽かね備はり、親疎貴賎の隔なく、一和の業を 成 す こ と 」 が、 「 茶 の 湯 」 の 目 指 す と こ ろ だ っ た。 茶 が「 一 心 」 の 修 養 に 始 ま っ て、 「 礼 楽 」 を 前 提 に「 親 疎 貴 賎 の 隔 」 の な い 付 き 合 い が そこに成立するならば、時代と地域をともに超える普遍性を持ち得る だ ろ う。 そ う な れ ば、 「 隔 意 の も の ど も な ん ど 小 座 敷 に こ と 寄 せ、 和 意を被遊しこと、誠に明君の思召、かくこそあるべし」という効用も 期待される。それに「人は常に手隙なく居る物なり。慰なくして静か に独居する時は、色々の悪しき事を考へ出すもの」であり、また「華 美 」 に な り が ち の と こ ろ を、 「 侘 の 茶 の 湯 を 作 り、 知 足 の 道 を 行 」 え ば、 「 茶 を 立 て ゝ 不 足 こ そ 楽 み と な れ 」 と い う 次 第 で、 つ い に は「 不 足にて茶を立て楽むが人なり」とまで言われている。この「数寄とい ふ ス キ も 又 知 足 の 事、 知 足 は 何 覚 る に あ ら ず、 心 得 る な り 」 と い う の は、 諸 事 倹 約 を 旨 と し た 時 代 の 要 請 を 受 け 容 れ た も の で あ ろ う か (「贅言」 、『新修茶道全集』九、春秋社、一九六九年) 。 また井伊直弼( 1815-60 )が『閑夜茶話』で、 「昔は富者、貴人も侘 びたる者まで、茶湯熱心とあれば、目を懸け、同座して呼びつ呼ばれ つ隔なかりしなり、然るに近代は、貧者、不肖の人に、たとえ茶湯熱 心 あ り と も、 よ せ ず、 誠 の 道 は か け た る 風 情 な り と、 藤 井 宗 源 な げ き た り 」 と 紹 介 し た 藤 井 宗 源 (1608-95 ) は 江 戸 前 期 の 人 で あ る が、 前 期 で さ え そ う だ っ た と す れ ば、 直 弼 が「 相 客 吟 味 」 の 重 要 性 を 説 き、 「 相 互 に む つ ま じ く 知 り 合 た る 人 を 組 合 わ せ て、 云 い 入 る べ き こ と 肝 要なり」 (『茶湯一会集』岩波文庫)として、サークルが閉じられたま まだったのはやむを得ないことだったのだろうか。 いずれにしても、こうして戦国乱世を背景に人間関係の構築を目指 し た 茶 の 湯 が 持 っ て い た 集 団 性( 一 座 建 立 ) は 変 わ ら ざ る を 得 な い。 直弼が「独座観念」を説いて、茶会が終わるや、ただちに後片付けを するなどは論外で、 「客の見えざるまでも見送る」のはもちろん、 いかにも心静かに茶席に立ちもどり…炉前に独座して、今暫く御 咄も有るべきに、もはや何方まで参らるべき哉、今日、一期一会 済みて、ふたたびかえらざる事を観念し、或いは独服をもいたす 事、この一会極意の習いなり。この時寂莫として、打語らうもの とては、釡一口のみにして、外に物なし。誠に自得せざればいた りがたき境界なり。 (同上) というように、ここではもはや新たな人間関係を構築するより、旧 来の人間関係を細やかな心配りで維持することだけが目指されていた

十八世紀の茶事

 

 

 

(4)

十八世紀の茶事(高橋 博巳) 二二 と 詠 ま れ て い る よ う に、 「 仙 路 の 通 」 じ る 場 と し て、 い わ ば「 市 中 通 仙」でもあった。売茶翁が「廬仝正流兼達磨宗四十五伝」 (「高遊外自 題 」) と 名 乗 っ た 所 以 で あ る。 先 引 の 淇 園 の 詩 に 詠 ま れ た よ う な ハ イ ブラウな雰囲気があったとしても、 「一鍾是れ一銭」 (「題銭筒」 )でだ れにでも開放されていた点が重要である。   そ し て こ の 流 れ は、 売 茶 翁 か ら 木 村 蒹 葭 堂( 1736-1802 ) へ、 さ ら に上田秋成( 1734 -1809 )や村瀬栲亭( 1744 -1818 )を経て、田能村竹 田( 1777 -1835 )に伝えられた。画家の中川一政( 1893 -1991 )はその 頃 が 煎 茶 の ピ ー ク と 見 て、 「 茶 と 酒 」 と 題 す る エ ッ セ イ で 次 の よ う に 述べている。 今は抹茶が流行しているが、煎茶ははやらない。…煎茶の席など あまりきかない。抹茶茶碗などつまらぬものでも高価なのに、昔 の 人 が 愛 情 を こ め た 煎 茶 茶 碗 も 朱 泥 の 急 須 も あ ま り 価 が 出 な い。 竹田や木米の時代が全盛であって、もう全盛はめぐってこないよ うに思える。 (『中川一政文選』ちくま文庫、一九九八年) 中 川 は コ ー ヒ ー や 紅 茶 と も 比 較 し た う え で、 「 日 本 の お 茶 だ け が、 だ れの助けをもかりないで一本立ちが出来るのである。色も匂いも清楚 で、ずっと品格が高い」と、煎茶を絶賛している。その煎茶もいまや ペ ッ ト ボ ト ル で 供 さ れ る よ う に な っ た の は、 は た し て 進 化 で あ ろ う か。   ここでは「煎茶の全盛」の様相を一瞥することによって、茶の効用 と社交性を考えるよすがにしたい。 (3) ようだ。 そうした時代に新たな「一座建立」を煎茶で企てたのが、黄檗僧の 月 海 元 昭、 後 の 売 茶 翁 高 遊 外( 1675-1763 ) で あ る。 ( 2) そ の 影 響 が い か に 深 い 広 が り を 見 せ た か、 『 売 茶 翁 偈 語 』 の 巻 頭 の 数 丁 を 次 代 を 担 う 三 人 の 若 き ア ー テ ィ ス ト・ 詩 人、 伊 藤 若 冲( 1716-1800 ) と 池 大 雅 ( 1723-76 )、それに大典( 1719-1801 )がそれぞれ画・書・伝を分担し ていることによっても明らかである。そうした売茶翁の茶席の雰囲気 を今に伝えるのは、皆川淇園( 1734-1807 )の次の詩である。 春日同諸子、過僧高開士幽居(春日、諸子と同に僧高開士が幽 居を過ぎる) 市塵茅廬苦竹籬    市塵の茅廬 苦竹の籬 客来不語坐吟詩    客来たりて語らず 坐して詩を吟ず 佳茗清供多幽趣    佳茗の清供 幽趣多し 更喜晴窓夕日遅    更に喜ぶ 晴窓夕日の遅きを (『 淇 園 詩 集 』 巻 三 、『 近 世 儒 家 文 集 集 成 』 9 、 ぺ り か ん 社 、 一 九 八 六 年 ) 淇 園 が「 諸 子 」 と と も に 売 茶 翁 の「 幽 居 」 を 訪 れ た さ い、 驚 い た こ と に「 客 」 は 話 も せ ず、 静 か に「 詩 」 を 口 ず さ ん で い た と い う。 「 幽 居」には世を避ける意味合いが含まれていて、ここはまさに「市中の 山居」だった。 「幽趣」奥ゆかしい趣に溢れていたのは当然であろう。 しかもこの茶席は「銭筒に題す」に、 煎茶日日起松風    煎茶日日 松風を起こし 醒覚人間仙路通    醒覚す 人間に仙路の通ずることを 要識廬仝真妙旨    廬仝 真の妙旨を識らんことを要せば 傾嚢先入箇銭筒    嚢を傾けて 先ず箇の銭筒に入れよ (『売茶翁偈語』 )

(5)

2016年 3 月 金城学院大学論集 人文科学編 第12巻第 2 号 二三        ある日のこと、秋成が蒹葭堂を訪れたさい、千客万来の蒹葭堂には 珍 し く 客 が お ら ず、 「 唐 茶 と 手 製 の 中 国 風 菓 子 を ふ る ま わ れ、 秋 成 に と っ て そ れ は 初 物 で あ っ た 」( 水 田 紀 久「 蒹 葭 堂 自 伝 と 上 田 秋 成 あ し か ひ の こ と 葉 」、 『 近 世 浪 華 学 藝 史 談 』 中 尾 松 泉 堂 書 店、 一 九 八 六 年 ) という。 (4) 『清風瑣言』上巻に、 予、前年浪華の喫茶家にて、点茶三椀を貪り、即時に立て一里の 行程を帰る。此日、中冬下旬、郊外の晩景、風尤烈しく、往来の 人皆苦吟して走る。予一人、北風を面に浴すれども、更に飢寒を 思はず、却て軽汗を発し、薄暮 蝸 イ ホ リ 廬 に帰りぬ。是暫く茶仙の酔境 に入し者なり。 (『上田秋成全集』9、中央公論社、一九九二年) と述懐しているのが、その体験に依るものならば、これこそが秋成を 煎 茶 好 き に し た 理 由 で あ ろ う。 た っ た「 三 椀 」 の 煎 茶 で、 「 中 冬 」 陰 暦十一月の「北風」をまともに受けながら寒さどころか「軽汗」を発 した効果は決定的だった。爾来、煎茶なくしては夜も日も明けぬこと に な っ た の で は な か ろ う か。 や が て 京 に 移 り 住 ん で、 『 清 風 瑣 言 』 を 執筆して流行を牽引したさい、近所に住んでいた栲亭がそれに序を寄 せて( 『栲亭二稿』巻五) 、茶は煎茶でなければその神を発揮すること が で き な い と し て、 「 茶 は 気 を 以 て 神 と 為 す。 味 は 抑 も 末 な り。 点 ず る者の若きは、則ち尚とぶ所は味に在り。其の神は則ち 餒 だい す」と記し て、 煎 茶 の 精 神 性 を 強 調 し て い る の も 注 目 さ れ る。 「 茶 」 で 大 事 な の は「気」に発する「神」であって、 「味」は問うところでない。 「点ず る」とは抹茶を点てることで、抹茶は「味」が重視されるために「神 は 餒 す 」、 す な わ ち 肝 心 の 気 力 は 失 せ て し ま う と い う の で あ る。 そ し て、 今の所謂る茶人なる者は、大率ね 竊 せっすいらんきん 吹濫巾 の徒にして、茶の旗槍 を 揀 えら ばず、水の陰陽を弁ぜず、湯の 老 ろうどん 嫩 を問わず。柴汝官哥、建 吉の窯、張成楊茂が剔紅、方信川が螺 蜔 、種種得難きの物、競い て産を傾けて、以て夸具に供す。亦た笑う可きの甚だしきにあら ずや。 というように、当節の茶人への評価はきわめて低い。 「竊吹濫巾」は、 隠 者 で も な い の に そ の 振 り を す る こ と。 「 旗 槍 」 は 極 上 の 茶。 そ の 区 別もつかず、 「水」の性質や、 「湯」の沸き具合といった大事なことを 看過して、 「柴汝官哥」古代の四大窯や、 「建吉」は福建省建陽県水吉 鎮 に あ っ た 窯 で、 宋 代 の 喫 茶 の 流 行 に と も な い 発 達 し た と こ ろ の 器 や、 「張成楊茂」は浙江省嘉興府の彫漆の工人で、 「剔紅」は漆器の一 種、 「 方 信 川 」 は 明 の 新 安 の 螺 鈿 造 り の 名 人 と い っ た 工 人 の 制 作 に か かる(とされた)道具類を自慢するために、財産を費消するのは笑止 千万だと栲亭は記している。   こうした考えの師のもとで学び、秋成とも往来のあった竹田が両者 の煎茶愛好の精神的影響を受けたのは自然な流れであったろう。それ に文政六年三月廿七日の「日記」によれば、河合冏斎とともに「花月 亭 」 を 訪 れ た と き の こ と と し て、 「 亭 主 」 は「 茶 飲 」 を 嗜 み「 売 茶 翁 の 像 」 を「 祠 」 に 奉 じ て、 「 予 が 為 に 翁 の 遺 物 数 種 を 陳 つら ね、 其 の 遺 事 を説くこと甚だ悉くす」ということがあって、間接的ながらも売茶翁 ゆかりの物と情報に触れる機会があった。さらに同年七月廿五日の日 記には、 「晩山陽・笠山来、煎茶共談」と見え、数日後の廿八日にも、 「山陽閑話煎茶、意甚適…」とあって、談笑の席ではもっぱら「煎茶」 が 喫 さ れ て い た よ う だ( 『 大 分 県 先 哲 叢 書 』 田 能 村 竹 田 資 料 集・ 著 述 篇、 一 九 九 二 年、 以 下 竹 田 の 著 述 の 引 用 は 同 書 に 拠 る )。 ち な み に 頼 山陽 ( 1780-1832 ) の「売茶翁の書後に題す」には、

(6)

十八世紀の茶事(高橋 博巳) 二四 高游外は桑苧の流亜にして、蓋し有心の人なり。遁れて茶に託す る者、其の 耋 てつれい 齢 に自ら茶具を焼くを観れば、心を此の一件に没す る者に非ざるを知る可きなり。今の俗物は、 動 ややもす れば 輒 すなわ ち曰く、煎 茶、煎茶と。 沾 せんせん 沾 と自ら喜ぶ者は、皆な高の罪人のみ。 (『山陽先生題跋』巻上、嘉永三年刊本) と売茶翁讃仰の言辞が綴られている。 「桑苧」は陸羽の号。 「耋齢」は 八 十 歳 の 高 齢。 「 沾 沾 」 は 得 意 気 な よ う す。 山 陽 の こ ろ は、 チ ョ ウ チョウと発音したかもしれない。いずれにしても、山陽もまた売茶翁 の 十 全 な 理 解 者 だ っ た こ と が わ か る。 い い か げ ん な エ ピ ゴ ー ネ ン は、 「高の罪人」なのだと言い切っているのが注目される。   と こ ろ で 竹 田 の 茶 論 と し て は、 『 石 山 斎 茶 具 図 譜 』『 竹 田 荘 茶 説 』 『竹田荘泡茶訣』の三部作が知られているが、 『石山斎茶具図譜』に竹 田は次のように書き添えている。 本邦茶飲の行わるるや久し。近日、用うる所の葉茶は、僧隠元の 将 来 と 相 伝 う。 未 だ 知 ら ず、 果 た し て 然 る や 否 や を。 其 の 風 炉・ 急 尾 焼 を 用 い、 烹 点 飲 啜 す る に 至 り て は、 遊 外 高 翁 よ り 始 ま る。 丁亥の年、崎山に寓し、清人の茶を煮るを見れば、湯瓶茶注、相 須いて用を為す。茶疏の論ずる所の如し。斯の譜に載する所も亦 た同じ。予は迺ち専ら此の法に従うと云う。 「葉茶」は煎茶と同義である。 「丁亥の年」文政十年(一八二七) 、竹 田 は 長 崎 に 一 年 間 滞 在 し た。 「 隠 元 将 来 」 説 は と も か く、 「 遊 外 高 翁 」 に始まるのは確かとして、次のような文章が続いている。 村 瀬 栲 亭 翁、 茶 を 嗜 む。 予 に 語 り て 曰 く、 初 め 無 腸 老 人 と 謀 り、 清 六 を し て 始 め 急 尾 焼、 及 び 風 炉 を 造 ら し む。 当 時、 茶 を 好 む 者、甚だ罕なり。一二十年来、輦下より延きて民間田舎に至るま で、家として茶具を備え、以て過客を待たざるは無きなり。 「 無 腸 」 は 秋 成 で、 「 輦 下 」 は 天 子 の 膝 元、 都。 こ の よ う に 煎 茶 が 広 く行われるようになったのは、 「一二十年来」のことだった。   こ こ で 竹 田 の 茶 に 対 す る 考 え を「 葉 の う ら の 記 」 に 探 っ て お こ う。 竹 田 は も と も と、 「 荒 に し 宿 の し づ け き 窓 の 下 に、 独 り し て 香 き ゝ 茶 た つ る 程 楽 し き は な し 」 と い う よ う に、 「 茶 」 や「 香 」 を ひ と り 静 か に嗜むタイプの人間だった。したがって、 茶を烹むと思へる人は、只利休居士が心のみをならふべし。そが なせる業は学ぶべからず。いかにとなれば、茶はたゞわびわびし き を も は ら に め づ る も の に て、 居 士 は 豊 太 閤 に つ か ふ ま つ り て、 禄数多たまひ、財とめる人なればなり。居士につぎて世に名高く 聞 え た る 古 田 織 部・ 細 川 三 斎・ 織 田 有 楽 斎 な ん ど い へ る 人 々 も、 皆大名にぞ侍る。そをあやまりて、我とひとしき人とばし思ふべ からず。 といい、千利休( 1522 -91 )や古田織部( 1544 -1615 )以下の大名茶人 を 参 考 に す る 気 は 毛 頭 な か っ た。 ( 5) し か も 文 化 八 年( 一 八 一 一 ) の 一 揆のさいの「建言書」に、 近頃世上風聞仕候に、臼杵侯御噂被成候にも、岡侯は茶事は御功 者にて、学問は御好み不被成と被仰候由、何卒江戸に御参府の節 は、名高き儒者の可然者被為召候て、御学問被遊度、 と 記 し て も い た よ う に 、 大 名 の 遊 興 と し て の 「 茶 事 」 に も 批 判 的 だ っ た 。

(7)

2016年 3 月 金城学院大学論集 人文科学編 第12巻第 2 号 二五   ちなみに「茶はたゞわびわびしきをもはらにめづる」ことが肝要で あるという考えは、 「紹鷗侘びの文」に、 茶 事 も と、 閑 居 し て 物 外 を た の し み 居 る 所 へ、 知 人 と ぶ ら ひ 来 て、 茶 点 て も て な し、 何 か な と 花 を 生 て な ぐ さ み 候 す が た に て 候。 (『新修茶道全集』八) と 記 さ れ て い る 条 を 彷 彿 と さ せ る。 「 物 外 」 は 俗 世 間 か ら 離 れ た と こ ろ。そういう静かな場所に「閑居」することを、 「市中山居」という。 そ こ へ た ま に「 知 人 」 が 訪 ね て く れ ば 喜 ん で 迎 え、 「 茶 を 点 て も て な し 」、 ま た「 花 を 生 て な ぐ さ む 」 こ と こ そ が 茶 本 来 の あ り よ う だ と い うのである。武野紹鷗( 1502 -55 )は、村田珠光( 1423 -1502 )と千利 休をつなぐ堺の茶人である。   竹田はさらに、同郷の茶器商人と「をこの男」との問答を紹介して い う、 「 い と も か し こ き ひ じ り の 天 の 下 の あ を ひ と ぐ さ を や し な ひ 給 へ る 五 つ の た な つ 物 を も る 器 」 と、 「 い た づ ら に の ん ど う る ほ す ま で の 器 」 と ど ち ら が 大 事 で あ る か と。 こ の 生 活 者 の 視 点 に 立 っ た 問 い は、 「 か し こ き ひ じ り 」 を 引 き 合 い に 出 し て い る 以 上、 勝 負 は は じ め か ら つ い て い る よ う な も の で あ る。 喉 の 渇 き を い や す だ け の 茶 碗 が 「 黄 金 百 両 」 で 売 買 さ れ る な ら ば、 生 命 維 持 の た め に な く て は な ら な い「五つのたなつ物をもる器」すなわち飯椀にいくらの対価がふさわ し い か と 問 い 詰 め ら れ る と、 さ す が の 茶 器 商 人 も 返 答 に 窮 し て い る。 竹 田 は「 賎 し き 者 の い ひ い さ か ひ な が ら、 こ と わ り あ り と き こ ゆ 」 と、 「をこの男」に賛成している。   こうした考えは、どこから来たのだろうか。竹田は続けていう。 唐土にて屋作ることこのみ給へる帝いまそがりける。其朝はよき 材木としもいへば争ひ求めたりければ、木妖とかいひける。今の 世 茶 の 器 を 都 も 鄙 も 我 お と ら じ と き そ へ ば、 器 妖 と や い は ん と、 おのが物まなべる栲亭の翁の芸園日渉といふ文に載せられたり。 この「木妖」や「器妖」の「妖」の意味は、わざわいである。栲亭の 『 秇 苑日渉』巻一の末尾には、 「五民」すなわち仏者・山伏・瞽者・茶 人・医師が列挙され、そこには、 陶穀が清異録に載す、呉の僧文亮、善く茶を烹て荊南に游ぶ。高 保勉 洎 およ び子季興、延きて紫雲庵に置く。日に其の芸を試み、保勉 父子、呼びて湯神と為す。奏して華定水大師を授く。土人目して 乳妖と曰う。今の茗事に溺るる者は、之を器妖と謂うも可なり。 (文化四年刊本) と記されているので、先の竹田の「木妖」は別の機会に見聞きしたも の だ ろ う か。 栲 亭 が 北 宋 の 人、 陶 穀( 903 -970 ) の『 清 異 録 』 の「 乳 妖 」 と い う 言 葉 を 引 き 合 い に 出 し な が ら、 「 今 の 茗 事 」 を 見 渡 し て 「器妖」と断じているのは、これまた当時の茶事批判にほかならない。   ところでこうした観点からすれば、 今の世の茶は、兼好法師がいへりしごとく、花はさかり月はくま なきを見る心地ぞし侍る。興じつくせるのかぎりなるべし。かの 法師に見せば、よしとやいはむ、いまはしとやいはん。 と い う こ と に な る。 「 花 は さ か り 月 は く ま な き 」 と は 物 事 の ピ ー ク、 贅沢の限りを指し、 「興じつくせる」といえるほど、 「侘び」の対極に あって茶の精神を見失った状態をいう。   さらに竹田は次のようなエ ピソードを紹介している。利休のもとへ田舎の金持ちが大金を送って

(8)

十八世紀の茶事(高橋 博巳) 二六 しかるべき茶器が送られることを期待したさいのこと、利休はそれを 無 視 し て 大 金 で「 晒 せ る 布 」 を 買 い 求 め、 「 茶 巾 さ へ き よ ら な れ ば 茶 は飲まれ侍る」と伝えたという。竹田はこれによって利休が道具に振 り回されるべきではないと考えていたことを根拠に、みずからも「え もしれぬ遠つ国の茶碗、或は水指なんどいひもてのゝしるは、めづら な る は 去 る こ と な が ら、 下 枝 の 端 の 葉 と や い は む 」 と 言 っ て、 「 め づ らなるは去ることながら」と譲歩しながらも遠来の名物や唐物の類を ありがたがる連中とは一線を劃している。   かくして竹田周辺の茶会は、次のように行われていた。 吾友橘のひろきが、茶烹る庵いとなみける比、しはすばかりおの れもとぶらひ、茶なんどたうべて後に、瓶に山茱萸といへる木の い と 古 び た る 枝 に、 春 こ そ 近 け れ と い は ぬ ば か り に 花 咲 た る に、 なまめきたる女のよりそひたらんやうに、白きさゞん花のすこし 紅 ふ く め る を さ し そ へ た り。 い と 見 す て が た く て、 筆 硯 も と め、 其姿を画にうつし、かたへに、 愛養莓苔冬尚蒼    愛し養う 莓 ばいたい 苔 冬尚お蒼し 曲墻迂径接茶堂    曲墻迂径 茶堂に接す 一瓢汲取氷竇水    一瓢汲み取る ひょうとう 竇 の水 烹出春風与客嘗    春風を烹出して 客とともに嘗む 一杯喚醒廿年眠    一杯喚び醒ます 廿年の眠 両腋清風自習然    両腋の清風 自ら習然たり 笑那盧翁大癡了    那の盧翁の大癡を笑い了す 喫 過 六 椀 始 通 仙    六 椀 を 喫 し 過 ご し て 始 め て 仙 に 通 ず る を なんどかいつけたりければ、ひろき喜び、表具やうのものにしつ らひ秘め置けり。今はいかに成りけむ。 名器の類に頼ることなく、天地自然の恵みである「山茱萸」と「さゞ ん 花 」 を 取 り 合 わ せ た だ け の 設 え に、 「 い と 見 す て が た く 」 感 興 を 刺 激 さ れ た 竹 田 は そ の 場 で 絵 筆 を 執 り、 同 時 に 七 絶 二 首 を 自 賛 し て い る。主人ひろきはこの作品のみならず、その全過程を味わい喜んで表 装し秘蔵したという。   詩 句 の 解 を 少 々。 「 莓 苔 」 は こ け。 冒 頭 の「 愛 養 」 が 及 ぶ 範 囲 は、 庭の苔ばかりでなく周りの人々や事物までが含まれていたにちがいな い。 「 曲 墻 迂 径 」 の「 曲 」 も「 迂 」 も 曲 が っ て い る こ と で、 直 線 で は ない垣と小道もそれなりに雰囲気を醸し出していただろう。その垣も 小 道 も「 茶 堂 」 に 間 近 に 接 近 す る ほ ど の 狭 小 な 空 間 だ っ た。 「 氷 竇 」 は氷の穴、氷のように清らかな水の意。 「春風」は茶。   二首目、 「一杯」の茶には「廿年の眠」を醒ます効果があった。 「習 然」は風が柔らかく吹くさま。 「盧翁」は茶好きで知られる唐の詩人、 廬 仝( 795?-835 )。 廬 仝 の「 筆 を 走 ら せ て 孟 諫 議 が 新 茶 を 寄 せ ら る る を謝す」に、 「六椀仙霊に通ず」とあるのに拠って、 「六椀」めによう やく「仙に通じる」ようでは「大癡」だという冗句。売茶翁にも、 廬公七椀不消喫    廬公が七椀 喫することを 消 もち いず 趙老一瓯宜接賓    趙老の一瓯 賓を接するに宜し (『売茶翁偈語』 ) の 句 が あ る。 「 趙 老 」 は 趙 州 従 諗 ( 778 -897 ) で、 「 喫 茶 去 」 の フ レ ー ズで知られる。喫茶という日常生活のありようが、仏法そのものであ ることの教え( 『新版禅学大辞典』大修館書店) 。   この点については、さらに秋成がきびしく次のようにコメントして いる。

(9)

2016年 3 月 金城学院大学論集 人文科学編 第12巻第 2 号 二七 廬仝の茶歌に、 …五椀肌骨 清 スマ シ 、六椀通仙霊といひ、七椀にいたり、 喫不得也。唯覚両椀習々清風生。蓬莱山在何処等の語は、大酔の 妄言にして、五千巻隻字も胸臆に記すべからぬをしられて、酒仙 の道路に倒るゝと異なる事なし。 (『清風瑣言』上、 「煎法」 )   また竹田の次の一節にも、心引かれるものがある。 ひろきが身まかりける前の日は、心地こよなうよげにて、つの国 の大城にあなるこがねの水おくる人侍りければ、それにて茶烹ん とて、おのれなんどひとり二人つどひて、瓶子あらひ、火ふきた て、とにかくものするうちに、とみに心地あしとて打ふしぬ。薬 師よなんど、人々足手そらにまどひて、茶にる業も其まゝにてや みぬ。夜あけなんとする比、おのれをよびて、はやよみぢも近く おぼゆ。茶にるべうもなし。夜べの水のみて別れなんといふ。女 の童泣く泣く水もて来ぬ。おのれのみてひろきにさす。ひろき心 地よげに打のみ、又おのれにのみほせといふ。おのれほしつ。ひ ろきほゝえみて、歌こそ出来れり、かけといふ。おのれ筆とりた れば、打出しつ。 ちよろづとこそむすぶべき金水      汲かはす我は水泡とぞきゆ    かいつけて見せければ、穴、水の字さし合ひけるに、こを考へな ほすも、死出におもむくまでのなぐさみにこそとて、しばし有り けるが、泡と消え行くにてよかりけるものをといひて、程なく息 たえたり。其をはりのめで度きは、なにがしの山の貫首、かゝる 御寺の大徳と世にかぞまへらるゝ人々も、かくやは有るまじと難 有さに、涙ぞながれ侍る。 最 後 の 茶 会 が 亭 主 本 人 の 病 状 の 急 変 で 中 止 と な り、 今 際 の き わ に 「 茶 」 な ら ぬ「 夜 べ の 水 」 を 互 い に 飲 み 交 わ し、 辞 世 の 歌 を 推 敲 し な が ら 静 か に 息 を 引 き 取 っ た エ ピ ソ ー ド も、 一 読 忘 れ が た い も の が あ る。栲亭に言わせれば、 物の味の淡なる、水より淡なるは莫し。淡の気に於けるや、清と 為す。故に物の性は水より清なるは莫し。 (前掲「清風瑣言序」 ) と い う こ と な の で、 「 清 」 と い う こ と で 言 え ば「 水 」 に 優 る も の は な く、 ま し て 名 水 と な れ ば な お さ ら の こ と、 こ れ 以 上 の 飲 み 物 は な い。 しかしせっかくの「金水」も黄金の寿命を保証せず、ひろきは「ほゝ え み 」 な が ら 辞 世 の 歌 を 竹 田 に 書 き 取 ら せ て、 「 泡 と 消 え 行 く 」 定 め を静かに受け容れている。このような「をはりのめで度さ」は、世に 聞こえた名僧でも難しいのではないかと竹田は袖を絞っている。          続 い て も う ひ と つ「 民 間 田 舎 」 に 行 き 渡 っ た 例 を 見 る こ と に し よ う。 備 前 の 閑 谷 校 教 授 に「 民 間 」 よ り 抜 擢 さ れ た 武 元 北 林、 字 君 立 ( 1769 -1823 ) の 場 合 で あ る。 ( 6) ま ず 有 吉 行 蔵( 蔵 器 次 男 ) と 共 作 し た 「采茶歌 聯句」から。 十畝茗園泮水頭    十畝の茗園 泮水の 頭 ほとり 雨露濡兮雀舌柔    雨露濡し 雀 じゃく 舌 ぜつ 柔かなり(行蔵) 冠童成隊行且咏    冠童 隊を成し 行き且つ咏う 肯效兎道女児謳    肯えて效わんや う 道 じ 女児の謳(君立) 左右采之各盈掬    左右 之を采り 各おの掬を盈たす 須臾筠籃堆碧玉    須臾にして いん 籃 らん 碧玉 堆 うずたか し(行)

(10)

十八世紀の茶事(高橋 博巳) 二八 古製曽伝竜鳳団    古製 曽て伝う 竜鳳団 新芽今見旗槍緑    新芽 今見る 旗槍の緑(立) 君不聞蒙山中頂雷鳴茶    君聞かずや 蒙山中頂の雷鳴茶 能袪宿疾気力加    能く宿疾を袪き 気力加うと(行) 我嘉苦味降睡魔    我は苦みを嘉とし 睡魔を降す 永夜習学功最多    永夜の習学 功最も多し(立) 君不見世上茗讌競珍異    君見ずや 世上の茗讌 珍異を競い 煎式点法為高致    煎式点法 高致と為す(行) 吾輩澹泊平生事    吾輩澹泊 平生の事 清楽優遊名教地    清楽優遊 名教の地(立) (『北林遺稿』癸酉吟稿、山陽新報社印刷部、一九三六年) 「泮水」は学校。 「雀舌」は、柔らかい芽を焙じてつくった上等の茶。 「 冠 童 」 は 元 服 し た 若 者。 「 掬 」 は 両 手 で ひ と す く い し た 量。 「 筠 籃 」 は竹籠。 「竜鳳団」は宋の団茶で、竜鳳の模様がついた上等の茶。 「蒙 山 中 頂 の 雷 鳴 茶 」 は『 茶 譜 』 に「 仙 家 に 雷 鳴 茶 有 り 」 と あ っ て、 「 能 く 宿 疾 を 袪 」 く と い う 記 述 が 見 え る。 そ れ に 対 し て 北 林 は、 「 苦 味 」 によって「睡魔を降す」ことのほうが「永夜の習学」に効果があると 言っている。北林にとっては、これこそが「茶の効用」だった。そし て、 「 世 上 の 茗 讌 異 を 競 」 っ て も っ ぱ ら「 高 致 」 高 尚 さ を 追 究 し ているのに対して、北林たちは「澹泊、平生の事、清楽優遊、名教の 地」とその違いを強調している。これらによって、閑谷校の近くには 「 茗 園 」 が 備 わ り、 生 徒 た ち の 手 に よ っ て 茶 摘 み が 行 わ れ、 そ れ を 日 常的に賞味していたことが知られる。   続いて「十月既望夜、至黄葉亭。会者五人、以深林人不知明月来相 照 為 韻、 予 得 知 字( 十 月 既 望 の 夜、 黄 葉 亭 に 至 る。 会 者 五 人、 『 深 林 人不知、明月来相照』を以て韻と為す。予は知字を得たり」の詩のあ とに、 「同前、得相字」として、こう詠まれている。 「深林…」は王維 の「竹里館」の転結句。 小亭新構成    小亭新たに構成す 佳地称所相    佳地 み る所に 称 かな う 泉石效清音    泉石 清音を 效 いた し 雲巘献奇状    雲 うんけん 巘 奇状を献ず 静境尤宜月    静境 尤も月に宜しく 携客夜来訪    客を携え 来訪す 霜風葉半残    霜風 葉半ば 残 やぶ れ 陽月方既望    陽月 方に既望 薄暮尚陰翳    薄暮 陰翳を尚び 万籟方悲壮    万籟 方に悲壮 二更初快晴    二更 初めて快晴 灝気何清曠    灝 こう 気 き 何ぞ清曠 出歩澗石間    出でて澗石の間を歩めば 月影皜松上    月影 松上に 皜 しろ し 入坐窓 櫳 下    坐に入る そうろう 櫳 の下 小鼎茶烟颺    小鼎 茶烟 颺 あ がる 幽趣雖人設    幽趣 人の設くると雖も 好景是天 貺    好景 是れ天 貺 思詩猶未成    詩を思いて 猶お未だ成らず 鹿声発遠嶂    鹿声 遠嶂に発す (同上) こ こ に「 新 た に 構 成 」 し た「 小 亭 」 は、 閑 谷 校 近 く に 設 け ら れ た 休 息 の 場 だ っ た。 「 相 」 は 地 相 を 見 る。 「 雲 巘 」 は、 雲 の 峰。 「 既 望 」 は 陰 暦 十 六 日( の 月 )。 「 万 籟 」 は 万 物 の 響 き。 「 灝 気 」 は 秋 の 大 気。 月 明 か り の も と、 「 出 で て 澗 石 の 間 を 歩 」 む と き の 素 晴 ら し さ。 「 窓 櫳 」

(11)

2016年 3 月 金城学院大学論集 人文科学編 第12巻第 2 号 二九 は 格 子 窓。 「 小 鼎 」 に「 茶 烟 」 が 立 ち 上 る の を 見 て い る と、 ま こ と に 「 幽 趣、 人 の 設 く る と 雖 も、 好 景、 是 れ 天 貺 」 と い う 気 持 ち に な っ て くる。 「天 貺 」は天の賜。   こ れ を 頼 山 陽 の「 黄 葉 亭 記 」( 『 山 陽 先 生 遺 稿 』 巻 五、 巻 頭 図 版 参 照 ) の 表 現 で 言 い 換 え れ ば、 「 天 造 」 対「 人 為 」 と い う こ と に な る。 そ も そ も「 黄 葉 亭 」 は、 「 偶 た ま 藤 原 定 家 の 小 倉 山 亭 の 図 を 見 て、 其 の結構小にして弁じ易きを以て、頗る之に規模す」ということで名付 けられたものである。山陽はいう。 天 地 の 間、 凡 そ 采 色 有 る 者 は、 皆 な 以 て 人 の 目 を 悦 ば し む 可 し。 而して華葉は天造に出で、錦繍は人為に由る。其の優劣は固より 判然たり。古に曰く、五色は人目を盲せしむと。故に錦繍に眩く 者は、華葉の真に悦ぶ可きを知らざるなり。 色 彩 の 美 し さ に も「 天 造 」 と「 人 為 」 の 区 別 が あ っ て、 「 五 色 は 人 目 を盲せしむ」とは『老子』十二章の言葉であるが、ことにきらびやか な 物 を 指 し て い る よ う だ。 人 工 の 美 し さ と 自 然 の 美 が ま ず 対 置 さ れ る。 余、嘗て藤公の事跡を按ずるに、争乱の世に終始し、位二品に至 り、官は納言に至りて而も憂愁不満の意、常に言詞に形わる。豈 に奔競の習い、未だ事勢より免かるること能わざるか。吾れ恐ら くは、其の心目の属する所、紆青 拖 紫の間を離れずして、何をか 木葉の黄に有らんや。 そして藤原定家への批評がくる。 「奔競」は利益を競って求めること。 「青を 紆 まと い、紫を 拖 ひ く」とは、高官になること。 「位二品、官納言」で 満 足 で き な い よ う で は、 「 木 葉 の 黄 」 な ど の 自 然 美 は 目 に 入 ら な い だ ろうというのである。それに対して、閑谷の「黄葉亭」には実質的な 意味があると山陽はいう。 今、 閑 谷 の 諸 学 士、 無 事 の 世 に 処 し、 明 主 の 跡 を 践 み、 其 の 名 に 仕 え て、 其 の 実 を 隠 す。 道 を 山 谷 に 講 じ、 外 慕 す る 所 無 け れ ば、則ち所謂る寒雨の染、朝朝にして深き者、諸学士乃ち実験し て 専 ら 之 これ 有 る を 得 た り。 黄 葉 の 名、 是 に 於 い て か 虚 な ら ず と 為 す。余、将に帰りて吾が父を省せんとす。其の必ず路を閑谷に枉 げて、烈公の遺搆を仰ぎ、退いて諸学士に亭上に従い、重ねて天 造・人為の分を論ずるに、将に日有らんとす。此の記は以て先容 と為すに足るか。辞せざる所以なり。 文 化 十 一 年、 黄 葉 亭 に 山 陽 を 迎 え て 北 林 は、 「 頼 子 成 の 過 訪 を 喜 ぶ 」 と題して、 憶昨我訪君    憶昨 我れ君を訪い 人海苦炎氛    人海 えんぶん 氛 に苦しむ 君語如清風    君が語は清風の如し 為我滌襟煩    我が為に襟煩を滌ぐ 而今君訪我    而今 我れを訪い 觱発一陽天    觱 ひつはつ 発 一陽の天 我恥窮谷裡    我は恥ず 窮谷の裡 何以煦故人    何を以てか 故人を 煦 あたた めん と詠んでいる。 「人海」は多くの人出。 「炎氛」は暑気。そうしたなか で「 君 の 語 」 は「 清 風 」 の ご と く 爽 や か で、 「 襟 煩 」 い ら い ら す る 気

(12)

十八世紀の茶事(高橋 博巳) 三〇 持ちを洗い流してくれた。これは寛政十年五月二十二日の広島訪問を 指している。山陽は時に十九歳、北林は紀行中に山陽のことを「妙年 才子」と評している( 『賴山陽全伝』所引) 。ところが今、私を訪ねて くれたのに「一陽」冬至の空は「觱発」身にこたえるほど寒く、しか もこの「窮谷」山のなかでは気の利いたもてなしも難しいといいなが ら、北林は続ける。 惟有黄葉亭    惟だ黄葉亭有り 曽煩君記文    曽て君を煩わせて文を記せしむ 同遊此践約    同遊 此に約を践む 酌酒聊歓欣    酒を酌み 聊か歓欣す 山霊喜君筆    山霊 君が筆を喜び 尽態自慇懃    態を尽して 自ら慇懃 石泉巧鳴玉    石泉 巧みに玉を鳴らし 松籟妙奏絃    松籟 妙に絃を奏す 「 山 霊 」 を は じ め、 「 石 泉 」「 松 籟 」 ま で が 挙 っ て 山 陽 を 歓 迎 し た の は、ひとえに山陽の「黄葉亭記」に自然が応答した証左になる。少な くとも北林はそう考えたわけである。   「山亭夜坐」には、さらにこう詠まれている。 小鼎烹茶汲石泓    小鼎 茶を烹て せきおう 泓 を汲み 山亭夜坐不勝清    山亭夜坐 清きに 勝 た えず 泉声大処無人語    泉声大なる処 人語無し 月色多辺有鹿鳴    月色多き辺 鹿鳴有り (甲戌吟稿) 「石泓」は石のくぼみに溜まった水の意であるが、ここは亭下を流れ る小川の水を汲んで煮た茶を喫しながら坐っていると、あまりの「清 らかさ」に言葉を失うほどで、聞こえるのは「泉声」水音と、 「月色」 が明るいあたりの「鹿」の鳴き声が響き渡るだけで、まわりに人の気 配はない。   同じく「山亭」には、またこう詠まれている。 山亭待客夕陽移    山亭に客を待てば 夕陽移る 飽聴泉声独咏詩    泉声を聴き飽きて 独り詩を咏ず 幽鳥来窺驚且去    幽鳥来り窺い 驚き且つ去る 茶烟片片出窓時    茶烟片片 窓を出づる時 (乙亥吟稿) 「 山 亭 」 で「 客 」 を 待 っ て い る と、 い つ し か「 夕 陽 」 は 西 の 空 に 傾 き、座敷の下を流れる小川のせせらぎも「聴き飽き」たので、ひとつ 詩 を 吟 じ る こ と に し た。 「 幽 鳥 」 の や っ て 来 た「 窓 」 か ら は「 茶 烟 」 がきれぎれに立ちのぼって「客」の到来を待ち受けているようだ。   「文化丙子詩稿」文化十三年(一八一六)には、 「烹茶」と題する好 詩が見える。 活火煎来蟹眼翻    活火 煎じ来れば 蟹眼翻る 松風声裏欲黄昏    松風声裏 黄昏ならんと欲す 縁何茶味殊清絶    何に縁ってか 茶味 殊に清絶 窓外梅花月一痕    窓外の梅花 月一痕 「 蟹 眼 」 は 湯 が 沸 く と き に 出 る 小 さ な 泡。 「 松 風 」 は 煮 え る 湯 の 音 を 譬 え た。 「 茶 味 」 が「 清 絶 」 こ の 上 な く 清 ら か な の は、 窓 か ら 見 え る 月光に照らされた「梅花」もさることながら、一人心静かに煎茶を喫 しているからであろう。ここにも「人為」と「天造」の見事な融合が

(13)

2016年 3 月 金城学院大学論集 人文科学編 第12巻第 2 号 三一 認められそうだ。北林は黄葉亭において「遊息の情」が暢びれば「宇 宙活溌の機」が得られると述べているが、まことにそうであったにち がいない( 「黄葉亭記」 、『北林遺稿』六) 。   文 化 十 三 年 九 月 に は、 ま た ひ と り 黄 葉 亭 に 客 を 迎 え た。 詩 の 題 は、 「 春 琴 居 士( 浦 上 選、 字 伯 挙、 善 画 ) 過 黄 葉 亭 有 詩、 次 韻 ( 十 七 日 )」 である。 山亭紅葉為君深    山亭の紅葉 君が為に深し 偶坐何辞夕日沈    偶坐 何ぞ辞せん 夕日の沈むを 秋夜方長且相緩    秋夜 方に長く 且く相緩うせよ 月升帰路度楓林    月 帰路に升りて 楓林を度らん 黄葉亭のまわりの見事な「紅葉」は、ほかでもない貴方を歓迎して一 段 と 美 し さ を 増 し た と い う の で あ る。 「 偶 坐 」 は 向 か い 合 っ て 坐 る こ と。 「夕日の沈む」のは問題ではない。 「秋の夜」は長いと決まってい る。どうぞごゆっくり寛いでください。やがて立待月が「楓林」の間 に 上 っ て、 「 帰 路 」 を 明 る く 照 ら す で し ょ う か ら。 こ の 結 句 に は 良 寛 ( 1758 -1831 )の次の歌、 月よみの光を待ちてかへりませ山路は栗のいがの多きに (『良寛歌集』 312、平凡社東洋文庫、一九九二年) がまとっている優しさに通い合うものがあるようだ。客の春琴も黄葉 亭での時間を存分に楽しんだに相違なく、それは春琴の手になる《黄 葉 亭 図 》( 林 原 美 術 館 蔵、 巻 頭 図 版 ) を 見 れ ば 明 ら か で あ る。 ( 7) こ れ を見ていると亭上の語らいばかりでなく、亭下を流れる清流のせせら ぎまでが聞こえてきそうだ。   また「戊寅詩稿」 (文政元年)には、次の作が収録されている。 二月七日同九畹春琴携茶籃遊松琴寺(二月七日、九畹・春琴と 同に茶籃を携え松琴寺に遊ぶ) 尋梅分野靄    梅を尋ねて 野靄を分かつ 煮茗試山泉    茗を煮て 山泉を試む 古寺松風裏    古寺の松風裏 悠然坐暮天    悠然と 暮天に坐す 九畹は備前岡山藩士斎藤一 興 ( 1758-1832 )の号である。 「野靄」は野 原にかかるもや。松琴寺は岡山市門田本町にある古刹。さながら売茶 翁 が 大 典 た ち と 連 れ 立 っ て 糺 の 森 や 東 福 寺 に 出 か け た よ う な 趣 で あ る。こうして煎茶は文人のあいだに深く浸透し、人と人とを結び合わ すことに一役も二役も買ったのである。 (1)茶に関してこれまで著された文献は限りがないが、 管見に入ったものに、 柳 宗 悦『 柳 宗 悦 茶 道 論 集 』 岩 波 庫 文 庫、 初 出 エ ッ セ イ は 一 九 三 五 年 )、 加 藤 周 一「 茶 の 美 学 」( 『 加 藤 周 一 著 作 集 』 12、 平 凡 社、 一 九 七 八 年、 初 出 一 九 六 三 年 )、 熊 倉 功 夫『 茶 の 湯 の 歴 史 千 利 休 ま で 』 朝 日 選 書、 一 九 九 〇 年 )、 大 槻 幹 郎『 煎 茶 文 化 考 文 人 茶 の 系 譜 』 思 文 閣 出 版、 二 〇 〇 四 年 )、 神 戸 大 学 文 人 研 究 会『 文 人 と 煎 茶 ― 小 石 元 瑞 と そ の 周 辺 ―』 二 〇 〇 七 年 ) な ど が あ る。 図 録『 茶 の 湯 の 掛 物 消 息 』( 茶 道 資 料 館 、 一 九 九 〇 年 )、 『 煎 茶 ・ 美 と そ の か た ち 』( 大 阪 市 立 美 術 館、 一 九 九 七 年 )、 『 煎 茶 具 名 品 展 』( 静 嘉 堂 文 庫 美 術 館、 一 九 九 八 年 )、 『 光 悦 と 楽 道 入 二 つ の 楽 茶 碗 二 人 の 交 友 』( 楽 美術館、二〇〇六年)をも参照。 ( 2) 拙 著『 京 都 藝 苑 の ネ ッ ト ワ ー ク 』( ぺ り か ん 社、 一 九 八 八 年 ) で 言 及 し た こ と が あ る。 テ キ ス ト は 宝 暦 十 三 年( 一 七 六 三 ) 刊 本 の ほ か、 末 木 文 美 士・ 堀 川 貴 司 注『 僧 門 』( 江 戸 漢 詩 選、 岩 波 書 店、 一 九 九 六 年 )・ 大 槻 幹 郎

(14)

十八世紀の茶事(高橋 博巳) 三二 『 売 茶 翁 偈 語 訳 注 』( 全 日 本 煎 茶 道 連 盟、 二 〇 一 三 年 )、 な ら び に Norman Waddell, The Ol d T ea Se lle r, LIF E A ND ZE N P OE TR Y i n 18t h CE NTUR Y KYOT O , COUNTERPOINT, Berkeley, 2008 な ど を 参 照。 図 録『 売 茶 翁 』( 佐 賀 県 立 博物館、一九八三年)も有益である。 ( 3)この主題設定は [ 付記 ] に記す事情に依る。 ( 4) 水 田 紀 久「 売 茶 翁 グ ル ー プ ― 秋 成 の 茶 道 ―」 (『 論 集 近 世 文 学 』 5、 共 同 研究秋成とその時代、勉誠社、一九九四年)をも参照。 ( 5) た だ し 天 保 三 年 五 月 十 六 日 付 け の 松 岡 九 嶷 宛 て 書 簡 に、 「 利 休 居 士 の 作 なされしひしやく落手候。 露 ( マ マ ) 開 きのため、 今日八ツ時より茶席を□申候」 (『大 分 県 先 哲 叢 書 』 資 料 集・ 書 簡 篇、 一 九 九 二 年 ) と 見 え て い る の は、 晩 年 の、 しかも「柄杓」だからであろうか。 「露開き」は炉開きの誤植であろう。 ( 6) 武 元 北 林 に つ い て は、 柴 田 一『 近 世 豪 農 の 学 問 と 思 想 』( 新 生 社、 一 九 六六年)を参照。 ( 7) 浅 利 尚 民「 『 黄 葉 亭 記 』 の 原 本 と 写 本 │岡 山 藩 主 池 田 家 旧 蔵 資 料 の 構 造 分 析 を 踏 ま え て │」(『 MUSEUM 東 京 国 立 博 物 館 研 究 誌 』 第 六 四 一 号、 二 〇一二年)参照。    な お 巻 頭 図 版 に 関 連 し て『 “ 詩 豪 ” 頼 春 水 ~ そ の 生 涯 と 書 ~』 ( 頼 山 陽 記 念文化財団、二〇〇九年)をも参照されたい。 小 論 は 二 〇 一 五 年 七 月 三 十 一 日 に ロ ッ テ ル ダ ム の エ ラ ス ム ス 大 学 で 開 催された第十四回国際 18世紀学会の 〈

Utility and sociability in 18th century

the East and the West 〉をテーマとするラウンドテーブルで発表した Tea Ceremony in 18th Century Japan を書き改めたものであるが、日本 18世紀 学 会 の H P に 掲 載 さ れ る 予 定 の 英 文 要 旨 も ご 参 照 い た だ け れ ば 幸 甚 で あ る。 巻 頭 図 版 の 電 子 デ ー タ を 提 供 し て い た だ い た 林 原 美 術 館 に 謝 意 を 表 す る。 紹 介 の 労 を と ら れ た 岡 山 県 立 美 術 館 館 長 守 安 收 氏、 御 高 配 に 与 っ た 林 原 美 術 館 学 芸 課 長 浅 利 尚 民 氏 に も 厚 く 御 礼 を 申 し 上 げ る。 な お 小 論 は、 科 学 研 究 費 助 成 事 業( 基 盤 研 究( B )「 18世 紀 に お け る 知 識 と マ ナ ー、 秩 序: 公 共 知の東西比較」課題番号:26284016)の成果の一部である。

参照

関連したドキュメント

 基本的人権ないし人権とは、それなくしては 人間らしさ (人間の尊厳) が保てないような人間 の基本的ニーズ

Sometimes also, the same code is associated with a different rating, for example in the American questionnaire “9. Not answered” and in the French questionnaire “9.?”, which

十二 省令第八十一条の十四の表第二号及び第五号に規定する火薬類製造営業許可申請書、火 薬類販売営業許可申請書若しくは事業計画書の記載事項又は定款の写しの変更の報告

[r]

[r]

[r]

[r]

世紀転換期フランスの史学論争(‑‑)