存在性の諸命題
PropositionsonExistence-anEcosophyfortheUniversalMoral 丸 山 博 道 HiromichiMARUYAMA 結局のところ,存在はいかにしたら現象化するのか.この問題をNorwayの哲学者ArneNaessに倣って'),筆者自身のEcosophyとして定式化しようと思う.Ecosophyとは,Naess
によれば,世界を同一化するための個人的な知の体系である. 目次 I . は じ め に 1.存在論への回帰 2.普遍道徳のためのEcosophy Ⅱ 存 在 性 の 起 源 1.言語のSchemaと布置関係 2.存在性の仮説 Ⅲ存在』性の諸命題 Ⅳ、脱近代の道徳性 1.自然の権利および権利一般は存在の意味を形骸化する 2.自由は制約を了解したところに存在する 3.存在性の把握に基づいた普遍道徳 V ・ お わ り に 1.実際に存在を現象化する体験 2.生成Ecosophy 3.普遍道徳を志向しない教育は,知の空疎化を助長する 註 参 考 文 献 −91−I . は じ め に 1.存在論への回帰
自己の存在感,あるいは知のあり方を論じてきて2),改めて,未整理のまま残されている
問題を洗い出してみると,その最大のものは「存在性の現出exsitere」という問題であった. このような問題は,形式においては,思考の第一原理を与えるはずのものであって,諸体系 の頭に置かれるべきものである.しかしながら,その実際の定式化は,むしろ諸活動の後に, それらの中に潜む暖昧さに耐え切れずに行なわれる運命にある.これもまたその例外ではな い. 2.普遍道徳のためのEcosophy Ecosophyとして定式化するのは,この動機から言えば,二次的なことであるが,その端 的な形式は,必要に応じて直ちに参照可能な,現象論的存在論の中心空間に関する個人的な 索引機能を持っていて,これまでの考察の体系的見直や,新たな方面への展開基盤を与えて くれるからである.これはまたこの体系自身に対しても適用され得ることである. Ecosophyは,また,その簡素な体系』性によって,目的とする実践活動に対して,明確な 指針を提示する機能を持っている.NaessのEcosophyは生態系の救済活動に特化された規 範と仮説の体系であって,深層生態学的活動の支持者に有効な規範を提供している.筆者の それは,生態系もさることながら若者の「知」をも含めた「疎外された存在一般の救済」を 念頭においた,普遍道徳を志向している.この普遍道徳は,人格を掛けて,存在周囲の関係 場の中にその存在性を現出させ,その固有の存在価値を開示しながら,世界にその関係Web を拡大して行くという実践によって成り立っている. したがって,この体系は,関係場(あるいは布置関係Constellation)を意識的に把握す る訓練(対象の克明な叙述)というものが,教育課程中に明確に組み込まれるべきことを, 基本的な手の内を示しながら,主張している.Ecosophyを媒介にした真筆なcommunica‐ tionが可能だとすれば,了解への苦難も大いに緩和されることであろうと信ずる. Ⅱ 存 在 性 の 起 源 1.言語のSchemaと布置関係 対象の存在性の現出といった非常に幽玄な精神現象を考えるには,おそらくこれもまた同 様の幽玄性の中から姿を現してきたと思われる言語のschemaを拠り所にするのが,最も自 然な方法であろう.Schemaとは経験を通して脳が作り出すく認識の型・図式>のことであ る.言語のschemaは,ひとつの述語を中心に構成されている.述語はその固有の一連の諸項目を統括して一つの事態を現出させる働きをしている3),たとえば,
移動する(いつ,何処から,どの経路を通って,何処まで) −92−といった具合である.これはG、Lakoff4)が運動感覚的イメージ.スキーマのひとつとして
抽出した[起点/経路/目標]のschemaであるが,われわれは,あらゆる述語がこのような 言語的schemaと共に,運動感覚的schemaを伴っていると考えることができる.述語の言 語的schemaと運動感覚的schemaは切り離すことができない.こうした直観は,言語 schemaから存在性へ切り込もうとする姿勢を支持する. さて,言語における,存在のschemaは次の如くである. 存在する(何が,いつ,どこに,どのようなものとして) ここで,「どこに」と「どのようなものとして」の間には厳密な境界は存在しない.どこかにあると 言われる時,それは「そのような場所に存在できるもの」であることを言外に表明しているからである. 「かれは東大にいる」という例を挙げれば十分だろう.あるいは「そのコンピュータは壁に対して45度 右に向けられている」と言えば,そのコンピュータは,特徴的な主軸を有するものであることが伺える. このschemaからすれば,「どのようなものとして」を規定するのは,それ自身が対自あ るいは対他的に持っている関係性以外にはない.なぜなら,その関係性を明らかにするもの が,存在それ自身を含む叙述であり,それは,述語によって統合された関係性の表出そのも のである文によって,必ず構成されていなければならないからである.ここでは動詞を例に 挙げているが,形容詞でも同様である.この主張は,基本的にはAdornoによって,否定弁証法の「布置関係Konstellation」5)の
記述の中で,なされていると理解してよいであろう.この事実を直接納得するには, RelationalDataBaseの構成や,文の要約等において,この原理を実際に活用してみれば よい.それは,結局のところ,述語のschemaが,一般には,次のようなものであることに よっている. ∼する(何が,いつ,どこで,何に,何を,どのように) ある(何が,いつ,どこで,どのようで) これによって,叙述は「何が」を、odeとする幾多の関係性の表出となる.言語のschema も,たとえば,「西郷は勝の要請を呑んだ」という時の「呑む」がそれであるように,比職 的かつ運動感覚的なschemaをその背後に持っている.しかし,それが言語であるとは,少 なくとも,それが最大限の了解性を持っているということであり,諸schemaのうちで,最 も普遍的かつ汎用的な性格を有しているということなのである. 2.存在』性の仮説 さて,こうした経験と考察から次の仮説を得る. 仮説1:関係性の把握(布置関係の叙述)が、存在性を現出させる。 この仮説は,もっぱら現象論的な意味で理解されるべきである.Descartesは「Cogito, −93−ergosum」において6),この仮説に最初に気づいた人物であろう.現出における時間性の問
題は,現象論的には,時熟という形でHeidegger7)によって,認知科学においては,知覚循
環という形でNeisser8)によって定式化された.
われわれはこの仮説の度重なる日常的経験を通して,次のような確信を抱いている. 仮説2:ある存在に関わる関係性が、その存在性を規定する。 この表現は,存在が存在するための現象論的因果性以上のものを暗示している.それは自 然の秩序が存在することに対する直観である.この直観を前提すれば,仮説1は仮説2の自 然な帰結となる.この仮説の現象論的側面が仮説1である. Ⅲ 存 在 性 の 諸 命 題 日常的に経験しているといっても,まだまだ存在の深みに灰見えているに過ぎぬこうした 仮説を,より強く確信するためには,これを公理として,いかなる諸命題が導かれるかを眺 めてみることが必要である.われわれの意識はきわめて狭い世界しか照らしていないので, わずかな表現上の相違が,意味の把握に重大な影響を与えることがあり得る.それゆえ,以 下の命題の導出では,同じ内容に異なる表現を与えるということを,敢えて行う.われわれ の目的は,必要最小限の数学体系を構成することではなく,より広い認識をいかに簡潔に獲 得するかにあるからである. 仮説2を,現存在に適用すれば,次の諸命題を得る. 命題1:自己に関わる諸関係性そのものが、現存在の存在性を構成している。 この命題から,現存在を規定していた関係性の消失は,存在感の希薄化として現れる.た とえば,同一化された世界(=現存在を規定する諸関係性)に基づく構想が否定される時, あるいは確信や期待が外れる場合に,存在感は希薄化する.逆に,現存在を規定する新たな 関係性が獲得されれば,存在感は高まる.ゆえに,これは幸福の第一原理となるべきものであ
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この命題は,次のように言うこともできる. 命題2:現存在はそれ自身を規定する諸関係性(同一化された世界)の中に居場所を得る。 その世界が,外界との接触を拒絶するような形で構成される時には,その世界は,egoと の関係の整合性のみによって,その存在感が繋ぎ止められている.それに対して,自己との 関係が外界へ伸展されて行くことが予感されているような時には,その予感される関係性の 圧倒的な重さというものが,存在感を支えることになる.Heideggerによれば,現存在は「世界・内.存在」'0)であり,「…常に既に外部に存在している…」とされるが,それが妥
当するのは,後者のcaseのみであろう.『世界・内・存在」として保証されることが,幸福の当面の条件である'1).
−94−したがって, 命題3:現存在の存在性は「世界」の確かさに依存している。 その存在性は,「世界」の確かさによって保証され,それによって権威づけられ,その程 度に従って,権力化する。したがって,またその「世界」が強く否定されれば,その権力性 は破綻する・こうした現象は鯵体質者によく見られることである.「確かさ」は,内的整合 性によっても測られるが,外的整合性としても測られる.外的整合性の追及を推し進めるの
は,「外界は自己の思惑を超えている」という外界の独立性のschema12)である.Russe,,,3)
やNaess14)は,それぞれに,幸福の追求においては,熱意を以って意識を外界に向けること
がいかに重要であるかを強調している. 否定されない「世界」とは,実際的には,否定をも受容する「受容的世界」であり,他者 を否定しない「反権力の世界」でなければならない.それゆえ,次の命題を得る. 命題4:現存在は、知的戦略として、外界の独立性のschemaと、外的整合性のschemaを 以って、外界の全面的受容を目指そうとする。 これが幸福の第二原理である.その目指す方法は,これらのschemaに基づいて,世界の諸関係を克明に叙述し,存在世界を現出させることである.Naessは,かれのEcosophyT
の構成'5)において,その第一規範として,「大自己実現Self-realisation1」を掲げている.
それは世界を大きく同朋として同一化することである.大自己Selfとは,大我,宇宙我, atmanとも言われ得るものであるが,歴史的には,それらは宗教的色彩を帯びていたもので あって,「神との合一」が夢想されていた.したがって,Hegelの哲学全集に見るように,哲学の歴史においては,幸福は宗教哲学'6)の中でのみ論じられていた.しかし,われわれは
大自己を夢想に引き戻すべきではない. この実践は,世界を生態論的関係Webとして現出させ,各存在の固有の存在価値を開示 unfoldさせ,存在に対する人間の行為の当為性を開示させる.それゆえ,次の命題を得る. 命題5:事実は、ただ単にScalar的に在るのではなく、当為を指し示すVectorとして在る。この命題は,Gestalt心理学者W・KOhlerの主張'7)になるものである.ここでは,事実
を,ものごとの関係性として克明に把握する時に,ものごとの存在性が立ち現れるという第 一仮説が,存在の固有価値へ,さらには当為にまで踏み込まれている.それは命題4を経過 して,存在を受容した結果である.この命題によれば,「Vectorとして在る」ということは, 「Vectorとして読み取られねばならない」ということである.このような読み替えは,実存 哲学の一般的特徴でもある. 諸事実あるいは諸関係は,当為を指し示すわけだから,次の命題を得る. 命題6:疎外された存在の救済こそ善であり、放置することは悪である。 疎外された存在とは,搾取・圧迫を受けることで,本来の関係性から落ち零れて,存在性 −95−を剥奪されている存在である.救済とは,本来在るべき関係性の中に住まわせること,本来 あるべき存在性を取り戻させることである.ここで,本来性を決定するのは,成熟した相互 依存の生態論的関係Webの姿である.したがって,単純に感染症患者には抗生物質を投与 すればよいということにはならない.本来性を見出すことは必ずしも容易なことではない. 以上,仮説1∼2と,それを公理とする定理1∼6を以って,筆者のEcosophyと称する.
Ⅳ、脱近代の道徳性
1.自然の権利および権利一般は存在の意味を形骸化する こうした現象論的な諸命題は,さらに,存在の諸権利を主張するかもしれない.実際主張 する者も多数いる.存在固有の価値に目覚めることが,それを押し出すのであろう.しかし, 存在の諸権利について,それを定式化することは避けるべきであると,筆者は考える.なぜ なら,権利の主張は権力的なものであって,周囲の関係性を抑圧するのが常であるし,存在 の固有価値を認識する前に権利があるとされることが,その権利の意味を形骸化するからで ある.われわれは20世紀に犯した人類の愚を引き継ぐべきではない.存在の固有価値は,言っ てみれば,関係性を克明に観察することによって,各自の人格をかけて開示すべきものであっ て,価値認識のレベルにおいて,逆に人格のレベルが評価されるほどのことである.しかし, 意識の照らす範囲はごく狭いものであるということからすれば,事実を提示して,人を了解 の世界に幾度となく誘うことこそ,命題6に基づく正しい行為である.しかしながら,自然 の権利の唱導者たちは,そうした方法では自然は守れないと主張する.しかし,その時,問 題は,破壊者たちが,その人格の未熟なるがゆえに,自然の固有価値を開示できない処にあ るのだから,事実の前庭にかれらを幾度となく引き出してくるより他に出来ることはない. かれらの了解以前に,かれらの行為を制限することは,いかにも権力的な行為であって,か れらはそれに対抗する別の権力を身につけるであろう.そのような無意味な連鎖が20世紀を闘争の時代にしたのであった.了解性こそ社会を健全な姿にするのだという主張'8)は,
JUrgenHabermasによっている. 2.自由は制約を了解したところに存在する さらにわれわれは自由について語ることができるかもしれない.現実の自由は,関係Web によって了解されるところに,すなわち関係場に寄り添うところに,そして諸法則に従うと ころに存在している.したがって,自由は生態系に固有なものとして存在し,その関係場を 了解する者だけに開かれている.むろん本来の自由は成熟した生態系を了解したところにあ るはずである.しかし,egoの夢想する関係場に自由を求める者は,夢想的幸福感によって, その自由を絶対の価値と思いなし,永遠の不幸と不自由とを託つことになるのである.20世 紀が生態論的に最悪の世紀となったのは,そのためである.真の自由ですら,自然の権利と −96−同様に,成熟した生態的諸関係を了解するまでは,把握し得ないものである以上,そして,
それが絶えずegoの自由をそそのかすものである以上,それをEcosophyの根本において標 傍することはできない. 3.存在性の把握に基づいた普遍道徳現象論的な,おそらくそれは脳の生理に依存した,人間の精神活動の根源的な傾向性に基
づく,存在性の考察は,近代の諸価値に対して根本的な疑問を投げかける.しかし,いまま さに歴史的に為されねばならぬ仕事は,新しい諸価値の体系を呈示することなどではまった くなく,ものごとを関係場の中に把握し,その存在性を了解し合うというという実践を推進 することである.諸科学は関係場の把握に有効な示唆を与えるが,科学は端から存在性を包括的に立ち上げる方法論を持っていない.また官僚が各方面に意見を聴取し,権力に阿って
左右したような不十分な方法で事態が浮かび上がるなどということもまったくない.結局,
みずから,ものごとを観察することに参加すること,自分の眼で事態を開示することなしに は,存在性は現出しない.そして,この実践なしには,その固有価値も当為も了解も見出し えず,さらに疎外された存在を放置するという悪を犯すことになる.ゆえに,この実践こそ,普遍的な道徳でなければならないし,教育の中心課題でなくてはならない.教育・学習の目
的は,本来,普遍道徳と合致すべきものである V ・ お わ り に 1.実際に存在を現象化する体験 存在性は関係性の中に立ち現れるという,まさに現象論的な仮説は,ここでは,言語的な schemaによって定式化されたが,こうした言語schemaが,真に事態を立ち上げるという 認識は,そうしたschemaに強く依存した,認知に関わる諸作業(文章の要約,Relational DataBaseの構築)によって,確信されたものである.また,筆者の頭の中では,「現存在 は,自己を、odeとする関係Webの中に棲み込み,そのWebの成り行きに敏感に(過敏に) 反応している」という経験事実によって,強く支持されてもいる.こうした経験は,実際に ゼミ生の「見え」の表出を認知分析して得られたものであって,こうした実践なしには,こ の仮説は立ち上がらなかった. また,この仮説から諸命題への展開も,若者の救済を目指した一連の「知の戦略的スキーマ」の研究'9)や,その他の著作活動の中で,気づかれたものであって,単なる形式論理で導
こうとすれば,膨大な補助公理や概念の定義が必要であろう.もしそのようなものであると したら,厳密さにおいてはともかく,その内容の重要性については,誰も確信を抱くことは できないであろう. Naessが言うように,Ecosophyの内容そのものが独創的であることは必ずしも必要では ない.実際,それぞれが確信を得るその方法には,それぞれの独創があり得るが,実際に把 −97−握される諸命題そのものは,歴史的に既に多くの研究者が語っているものであって,それだ け了解されるべき運命にあったものである.こうして,関係場の諸命題の核心部分が了解さ れることによって,われわれの進むべき方向が見定まるのであって(すなわち,勝手ではな くなって),それによってむしろ初めて,行動の自由が獲得されるのである. 2.生成Ecosophy 筆者のEcosophyはNaessのそれを,可能的にしか包含し得ない.しかし,その核を成す ものである.明らかに筆者のそれは,Naessのそれより,少なくともその形式においては, 現象論的にはより根源的な方向にshiftしている.実際,Naessは,筆者のEcosophyの命 題4において,「大自己実現を!」という第1規範を以って,かれのEcosophyを立ち上げ ている.そして第2規範「すべての生物に向かう大自己実現を!」で,そのEcosophyは深 層生態学活動への指針を与えるべき方向へ明確に展開されて行く.そして次に,Naessはそ の第3規範に「多様性を!」,第4規範に「複雑↓性を!」,第5規範に「共生を!」というこ と,すなわち深層生態学活動の綱領を掲げている.これらは「成熟した生態系の相互依存性」
から疎外された存在20)があるとすれば,それは救済されねばならないという命題6に発する
ものである.すなわち,これらの諸規範は,この命題6を生態系の保全に向ける時の系cor‐ ollariesとなるべきものである.そしてNaessの第6規範以降は,地域共同体のあり方につ いてのものであるが,これらも生態論的関係Webを本来の姿に取り戻そうとする命題6に 発している. 筆者が命題6で一応筆を置いたのは,そこまでの小さな体系で,その先に若者や生態系を 含めた「疎外されたすべての存在の救済可能性」が方法論的に開かれていると考えられたか らである.すなわち,この小さなEcosophyが,諸Ecosophyの生成源となるべき Ecosophyという意味で,生成Ecosophy/普遍Ecosophyとして位置づけられると考えら れたからである.また,規範の体系とせずに,公理一命題の体系としているのは,了解以前 に規範や価値が存在するのは,存在を現象化する方法として誤りであるからである. 3.普遍道徳を志向しない教育は,知の空疎化を助長する いずれの方向へ展開されるにしても,事態を克明に現出させることがその原点になければならない.意識的に関係場(/Constellations)を把握し,各存在を現出させるという訓練を
せずに,それを達成することはできない.時代はIT-bubbleに浮かれているが,そのような net文化で最も必要となる素養が,関係場への関心であり,その把握能力であることは,あ まり認識されていない.日米のその文化格差を観察するには,たとえば,Amazon、comと 丸善MisのHomePageの相違,あるいはMetropolitanMuseumと国立西洋美術館のHP の相違を具に観察してみればよい.そこに観察される余りにも大きな情報格差は,小手先の presentationの工夫で解消できる類のものではないということに,もっと危機感を抱かねば ならない.この情報格差は,対象をどれだけ存在として現象化しているかということの違い −98−であり,普遍道徳に対する教育の誠実さの違いである.作文を書けない学生は,その不誠実
さの犠牲者かもしれない. 註 1)ANaessの弟子で(1)の共同執筆者であるBostonUniv・のDavidRothenbergは,(1)の Introduction,4-5において,「Naessは,われわれが自分たちの方法で,自分自身の体系を展開するよ うに教えており…」と記述している. 2)筆者の認知ならびに知の研究については,小論(2)-(17)を参照. 3)言語のschemaについては,筆者の小論(2),(3),(5),(6),(7)を参照. 4)GLakoffの運動感覚的イメージ・スキーマについては,大著(18)を参照. 5)Adornoは,(19),第二部否定弁証法概念とカテゴリーのく14布置関係(Konstellation)>で, 前節く13個別的なものも究極的なものではない>に続いて,次のように言っている。 (個物の核心は,あの極度なまでに個体化された,あらゆる図式を拒否する芸術作品に比べることが できる.そうした対象の,個別化の極みの中に普遍の契機が再発見される.それは自分でも気づかずに ある類型を分有している.)こうした普遍の契機は,抽象という方法によらなくても,諸概念を布置関係 の中に配置することで見出される.この布置関係のもとでは,分類的やり方にとってはどうでもいいも の,厄介者にすぎない対象の特質が照らし出される.このことをよく示すモデルは,言語の働きである. 言語は,幾つかの概念をある事物のまわりに集めて互いに関連づけ,その関係を通じてそれらに客観,性 を与える.概念がその内部でとうに切り捨ててしまったもの,概念がそれでありたいと思いながら,到 達できないこの「概念以上のもの」は,ただ布置関係によって外から表すしかない.認識されるべき事 物のまわりにさまざまな概念が集められると,それによってこれらの概念は潜在的に事物の内面を規定 することになり,思考が必然的に自分の内から排除したものを,思考しつつ獲得することになる. こうした認識にとって本質的なことは,括弧で括られた13節の内容の体験であろう.筆者にとって,そ れは,個物であろうとしている学生の「見え」の表出の認知分析であった.かれらの個的な表出の布置 関係には,存在感を保全しようとして過敏なまでに反応する姿が,例外なく立ち現れている. 6)Descartesは,あらゆるものを'懐疑する中で,’壊疑する自己が立ち現れてくるのを禁ずることがで きなかったのである.(20)44-45. …わたしがこのように一切が虚偽であると考えようと欲するかぎり,そのように考えている「私」自 身は,必然的に何ものかであらねばならない.ゆえに「私は考える.それ故に私は有る」ということが 絶対の真として成り立たねばならない.これこそ,哲学の第一原理となりうるものだろう. 7)(21)参照.第二編,Ⅲ,65∼71,47-372.Heideggerは,例えば,先駆的覚I悟性において選び抜く −99−べき現存在を構想し,切り出してくることを「時熟Zeitigung」という術語で表している.55-56. 8)(7),(22)参照. 9)(17)参照.それほどに追い求めている自己の存在感が満たされなければ,幸福であるはずはなく, また満たされて,幸福でないはずはない.ゆえに,これを幸福の第一原理としたのである.しかし,そ れだけでは確かな幸福とは言えない.第二原理は「世界」の確かさである. 10)(17),(21)参照. 11)註の9)参照. 12)外界の独立性のschemaは,順応を志向する知の根幹である.小論(9)∼(17)参照. 13)(22)参照. 14)(1),3,4,80−84参照.Naessは次のように言っている. …誰かがあることに‘情熱的に取り組んでいる時には,他の憂さや苦しみは退きます.すべての勝利は 活力のある頭脳で達成されます.しかしながら,熱意が無くなれば,意識の中に不安が生じてきます. 生きることの喜びはますます受身になります. 15)(1),7,163-212参照.Naessは,自然の権利という考え方を持っているし,規範や価値という捉 え方が有効であるとも考えている.しかし,筆者は,その都度了解するという行為がなければ,存在は 現象化しない.権利,規範といった概念的抱え込みは,その了解を疎外すると考えている。 16)(24)参照.幸福は神との合一において考えられていることが,仏教168,ユダヤ教303,ローマの 宗教418-419について論じられている. 17)AHMaslowは,その論文選集(26)の第三部「価値」,第八章「事実と価値の統一」の中で, Weitheimer,KOhler,Goldstein,Heider,Lewin,Aschなどの多くのGestalt心理学者が,事実は 力動的なもので静的なものでないこと,それらはscalarではなくvectorであること(KOhler,W (1938)ThePノaCeofV;ajUesmaWMdofF1actS、NewYork:Liveright)を立証していると述べ ている. 18)JurgenHabermasの有名な著作「コミュニケイション的行為の理論(25)」を参照.この了解性に 霊感を受けて,知の問題を議論したのが筆者の小論(16)である.了解なくして,現象は立ち上がらな い. 19)小論(9)∼(17)を参照. 20)この地上に痕跡を残すあらゆる生命形は,地質年代の時間スケールで安定していた生態系の構成メ ンバーとして,その系の中で共生していた存在である.あらゆる存在の固有価値は,成熟した生態系の 精妙な相互依存関係の中にその起源を持っている.「共生を!」というスローガンは,「成熟した生態系 の相互依存性」から疎外された存在の救済を!ということであり,それは端的に言えば,生態系の精妙 さに畏敬の念を持ち,粗雑な人間の暮らし方を改めよという意味である.決して,皮相生態学活動のそ れ で は な い . −100−
参 考 文 献
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Univ・Press (2)丸山博道(1990)↑文脈理解のための予備研究'名古屋女子商科短大紀要30,229-251(3)丸山博道(1991)’文脈の理解と言語の心理作用’名古屋女子商科短大経営研究所年報3,45−53
(4)丸山博道(1992)’‘情報価値と発見の心理一直列処理と並列処理の相補的な役割一’名古屋女子商科
短大紀要32,99-112(5)丸山博道(1992)’迫真性の追求から引き起こされる理解の心理↑名古屋女子商科短大経営研究所年
報4,103-113(6)丸山博道(1993)’リアリテイの源泉と概念化について−隠職の心理モデルー’名古屋女子商科短大
紀要33,107-122(7)丸山博道(1993)’概念化の過程と知覚循環'名古屋女子商科短大経営研究所年報5,141-150
(8)丸山博道(1994)’認知科学の新しい動向と課題一図式と隠11前と実在感による認知の構図一’名古屋
女子商科短大紀要34,127-149 (9)丸山博道(1994)’知の戦略的スキーマ'名古屋女子商科短大経営研究所年報6,127-138(10)丸山博道(1995)’『方法序説」における知の戦略的スキーマについて−Descartesの戦略一’名古
屋女子商科短大紀要35,111-138(11)丸山博道(1995)知の戦略的スキーマから見た「空疎な自己」について’名古屋女子商科短大経営
研究所年報7,185-198(12)丸山博道(1996)’知の戦略的スキーマから見たカント批判哲学'名古屋女子商科短大紀要36,53-76
(13)丸山博道(1996)’知性の開拓について’名古屋女子商科短大経営研究所年報8,143-161(14)丸山博道(1997)自己実現のための基本理念について'名古屋女子商科短大紀要37,129-145
(15)丸山博道(1997)自己の存在確認と知的スキーマとの包括的関連'名古屋女子商科短大経営研究所
年報9,77−95(16)丸山博道(1998)知の戦略を相互了解性に開いて行く問題について’名古屋女子商科短大紀要38,
199-217 (17)丸山博道(1998)’知的スキーマの包括理論から見た幸福について’名古屋女子商科短大経営研究所 年報10,109-115(18)Lakoff,George(1987)WOMEYV;FZBEAjVDDAjVGEBOUSmHZZVGS-冊atChtego万es
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