横
山
源
之
助
著
﹁
日本
之
下
層
社
会
﹂
を
読
む
は じ め に大
町
淑
子
横 山 源之 助 の 名 を知 っ た のは、 労 働 問題 であ っ た か、 生 活 時 間 ・ 余 暇 の本 で あ っ た か 記憶 が は っ きり し な い。筆 者 の手 元 にあ る 本 を当 っ て みた が見 つ か ら な い。 そ の 本 に は横 山 の著 書 か ら 、大 正 期 の 大 阪 市 の労 働者 の生 活 調査 の極 く 一 部 分 を 引 用 し て いる 。 それ は、 労働 者 の 僅 か な余 暇 時 間 での楽 し み が、 いわ ゆ る低 俗 な 繁華 街 で みた さ れ てお り 、 コ ン マシ ャラ イズ ( 原文 通 り ) に 振 り回 さ れ てい るた め 、指 導 が 必 要 であ る、 と い っ た 内容 で あ っ た と 思 う。 現今 考 えれ ば 余 暇 活動 ま で管 理 され る ので は やり切 れ な い こと に な るが 、 当時 と し ては そ の低 級 な内 容 のせ いも あ って、 余 暇 の管 理 が望 ま し いと 考 えた の であ ろう 。 横 山 の 著 書 の 内 容 に つい ての批 判 では なく 、 大 正期 に働 く人 々 を対 象 に 社 会 調 査 が 行 われ て いた こと が 筆者 の印 象 に 残 り 、 横 山 源之 助 の 名 が 胸 に 留 って いた。 文 教大 学 女 子短 期 大 学部 家 政 学 研 究室 に ﹁ 三 束文 庫 ﹂ と 名 付 け られ た蔵 書 が相 当 数 あ るが 、 これ は筆 者 の 先 輩 、 前 任者 の三 束 純 子氏 の寄 贈 され たも の であ る。 そ の 中 に横 山 源 之助 著 ﹁ 日本 之 下 層 社会 ﹂ を見 出 した時 、 尋 ね て いたも の に 巡 り 合 っ た思 いが し た。 し か し 後 に示 す よ う に この本 は 明治 三 十 二年 四月 の発 行 で、 そ の当時 横 山 の他 に も社 会 調 査を 行 っ て生 々し い 記 録 をま と め て いた人 々があ っ た こと を知 り 、 筆 者 の 浅 学 を つ き つけ られ た の であ る 。今 回 読 む機 会 が 得 ら れ た ﹁ 日 本之 下 層社 会 ﹂は初 版 本 では なく 、昭和 二 十 四年 六 月 二十 五 日発 行 で 、 土 屋喬 雄 の 解 説 、 中 央 労働 学 園 が 出 し てい るが 、第 二次 世 界大 戦 後 ま だ 日 の浅 い 時 期 のた め ザ ラ紙 が使 わ れ 、綴 じ も 不十 分 、 然 もす っ か り 黄 ば ん で丁寧 に扱 わ な いとば らば ら になり そう であ る。 この覆 刻版 を 開 い てみ る と、 簡 単 には読 め な い ことが 分 っ た。 当 然 ではあ るが 、 口語 文 では な い。 凡 そ のと こ ろを読 む な らば 分 るけ れ ど も 、でき る限 り 正確 にそ の 当 時 を 思 い浮 か べよう とす れ ば 、 国 語辞 典 、 漢和 辞 典 を手 放 せ な い こと に な っ た 。 明治 期 の小説 であ れば ルビ のふ っ てあ るも の が 多 いが 、 この本 に は 振 りが な が少 なく 、 且 つ旧字 体 が 多 く あ る の で 確 認 し な が ら の作 業 は、筆 者 には 自 分流 の現代 文 への訳 と い っ た 感 じ にな っ た 。 この よう にし て ﹁ 日本 之 下 層 社 会 ﹂ を読 み 始 め た が、 非常 に興 味 深 く往 時 を 偲 びな が ら の 楽 し い仕 事 であ るが 、 と に かく 辞 典 と首 っ 引 き と なり 遅 々とし て渉 ら な い。 これ を始 め て暫 く経 っ てか ら 、小 熊 氏 に 岩 波 文 庫 に収 め ら れ た 一 九 八 五 年 改 版 本 のあ る こと を教 示 さ れ た が 、 戦 後 の覆刻 版 よ り 振 仮名 を つけ てあ る ので分 か り やす い。秘 か に稀覯 本 と 思 って いた 覆 刻 版 の有 難 み が少 々 薄 れ た気 も す る が、 折 角 取 り か 丶 っ た こと でも あ り 、 こ の本 で続 け ている 。 一 、 横 山 源 之 助 に つ い て しもに いかわ 横 山 源 之助 は 一 八 七 一 ( 明 治 四 )年 二月 、 富 山県 下 新 川郡 魚 津 町 に 生 ま れ、 出生 後 直 ち に左官 職 の横 山 伝兵 衛 、 す い 夫 妻 のも と に引 き 取 ら れ育 てら れた 。 出 生 には事 情 が あ っ た よう だ 。横 山 夫 妻 はま だ 子 が な か っ た の で 源 之 助 を 貰 い、 そ の後 一 男三 女 の実 子 に恵 ま れ たが 、 長 子 と し てあ たた か く 育 て 期 待 し て いた と いう 。養 父伝 兵 衛 は腕 のよ い 左官 職 人 で 弟 子 を も つ 程 で あ っ た が 、 源之 助 は成 長 す る に つれ複 雑 な 一 1 [自 分 の出 生 の秘 密 に気 づ い て い っ た よ う だ。 源 之 助 は生 ま れ な が ら 、 実 の 両 親 も生 家 も 知 らな いと いう不幸 な、 社 会的 困 難 に 出 会 っている 。 横 山 源之 助 の 文 に は ﹃ ⋮ ⋮郷 里 小 戸 の浦邊 に還 る 。而 し て遂 に 新 聞 記 者 を廃 し て、農 に歸 らん と 決 せ る なり ﹄ とあ ると ころ によ れ ば、 横 山 の家 は農 家 であ っ た こと にな る 。 こ れ ら は源 之助 の生 い立 ち に関 し て 不 明 な部 分 が か なり あ る こと を示 し て いる。 小学 校 入学 、 卒 業 の時期 は は っ き り しな いが 、明 治 一 〇∼ 一 五 、 六 年 頃と み ら れ る。 小 学 校卒 業 後 、 魚 津 町 の醤 油醸 造 業 沢 田六 郎 兵 衛 の 徒 弟 に入 り 、何 年 間 か働 いた。 沢 田醤油 店 は常 に 二、 三十 人 も の奉公 人 が働 く大 店 で、 小学 校 在 学 中 か ら この奉 公 の 間 に漢 学 の学 問 も でき た と みら れ る のは 、 明治 前 期 に は こ の 魚 津 町 に も そう い っ た雰 囲気 が あ っ た か ら であ る 。 一 八 八三 ( 明 治 一 六 ) 年 に、 富 山県 は石 川県 よ り 分離 し て独立 の 県 と な り 、各 県 一 校 設置 され た 中 学 校 が富 山県 に開 校 し た。 横 山 の 素 質 を 見 抜 く人 が あ っ た のだ ろう 、 醤 油店 の 奉 公 人 と し て働 か せ る より 中 学 校 へ いれ て学 問 さ せ た方 が よ い と す すめ ら れ、 一 八八 五 ( 明治 一 八) 年 に 創 設 さ れ た中 学 校 の 一 期 生 と し て入学 した 。授 業 料 ・ 生 活 費 の出 資 者 に つい ては定 か では な い。 と こ ろが折 角 入 っ た中 学 校 を た っ た 一 年 間 で やめ 、 一 八 八 六 ( 明 治 一 六 ) 年 には 二人 の郷 友 と と も に東 京 へ 出 てきた 。 この時 一 五 歳 であ っ た。 上京 し た横 山 は、 弁 護士 を志 し て法律 を 勉 強 し た こと は彼 の書 いた 文 にも 表 れ て いる 。 ﹁ 法 国 平 天 下 ﹂ を理 想 と し て法律 家 と な る希 望 は、 司法 試 験 の度 重 な る 失 敗 や 、郷 里 か ら の仕 送 り が不 十 分 に な っ た こと も あり 、挫 折 し た 。 そ の後 は横 山 自身 の言 っ た放 浪 時 代 に 入 っ た ので あ っ た 。下 宿 を 転 々と し、 場 末 の木賃 宿 に居 た こと も あ っ た が 、幸 田 露 伴 ら の 文 学 者 と 知 り合 い、 殊 に 二 葉 亭 四迷 と松 原岩 五郎 の影響 を強 く受 け た。 一 時 期 は毎 日新 聞 社 に入 り、多 く の労 働者 に 関 す る 記事 を 書 いた の は、 明 治 二九 年 ∼ 三 二年 の夏 ま でであ っ た 。 こ の時 期 の 直 前 に日清 戦 争 が あ っ た。 毎 日 新 聞 の編 集 長 で あ っ た島 田 三郎 は ﹃ ⋮ ⋮意 を社 会 問 題 に 注 ぎ て、 貧 民 下層 の状態 を探 り 、 之 を世 に紹 介 す るを 以 て自 ら任 ず ﹄ と、 横 山 の ﹁ 日本 之 下 層社 会 ﹂ の 序 に述 べ 、 貧窟 に入 っ あやま て、貧 民 と 寝食 を共 にし 、労働 を 行 っ た と書 き 、﹃ 事 実 を 過 たざ る の みな らず 、其 文 自 然 に労働 者 貧 民 に同情 を 有 す﹄ と、 横 山 のあり 方 を 記 し ている 。明 治 三 〇年 代 はわ が国 で労働 運動 が始 め て起 っ た時 期 で、 横 山 が それ に強 く影 響 を うけ 、﹁ 日本之 下 層 社会 ﹂が 刊行 さ れ た明 治 三 二年 は ま さ に そ の運動 の 絶 頂 期 であ っ た。 横山 は労 働 運動 が起 こる 要 因 を 実 証的 に明 ら か にし て、 下積 み の人 々が人 間 らし く生 き て いか れ るよ う にと願 って いた 。 横山 、片 山 潜 、高 野房 太 郎 を、 労 働 運動 の先 駆 者 と し て平 野 義太 郎 は あ げ て いる 。 一 時期 横 山 は樋 口 一 葉 と も交 流 が あ っ た と いう 。 一 葉 の 書 いた世 界 は 小説 であ り 、横 山 は社 会 調査 の結 果 を ルポ ルタ ー ジ ュ に 表 わ した こと に な る。 労働 運 動 への傾斜 の故 か 、横 山 は毎 日新 聞 社 を や め、 一 時 は農 商 務 省 の嘱託 と し て工場 調 査 に 加 わ っ た 。 一 九 〇 〇 ( 明 治 三 三) 年 か ら の 調 査 は、 一 九 〇三 ( 明 治三 六 )年 に ﹃ 職 工事 情 ﹄ と な って農商 務 省 によ り 刊行 さ れ た 。 この工 場 調査 、 そし て ﹃ 職 工 事 情 ﹄ は、 二 〇 一 一 ( 明 治 四 四)年 の工場 法 のも と にな って いる。 毎 日新 聞社 を 退 職 し て 後 、 それ ま で熱 を いれ て いた 労 働 運動 か ら手 を ひ いた の は 一 九 〇 三 (明 治 三 六 )年 で、 横山 は文 筆 活動 に専 念 し て 幾 つ か の 著 述 を し た 。 郷里 の家族 の 生 計 を 支 えな く ては な らな か っ た た め と み られ る。 彼 の 著 作 の範 囲 は社 会 ・ 労 働 問 題 に 留 ら ず、中 小都 市 研 究 、財 閥 研 究 、人 物 評 論 、 さ ら に殖 民問 題 を 拡 っており 、 一 九 一 二 ( 明治 四五 )年 には殖 民 事情 調 査 ため ブ ラ ジ ル へ も渡 っ て いる 。 横山 は 一 九 一 五 (大 正 四)年 六 月 、東京 小 石 川 で 、 四五 歳 で 没 し た 。 経 済 的 に厳 し い状態 にあ っ た よ う だ。 晩 年 は不 遇 であ っ た と は いえ、 一 2 一
労 働 事 情 調査 を 身 を も っ て行 っ た先 駆 者 と し て の業 績 は歴 史 に 残 るも の であ る。 横 山 源 之助 の経 歴 に つい て の 要 約 は、 昭 和 二 四年 の覆刻 版 土 屋喬 雄 の解 説 と 、 一 九 九 八年 岩 波 文 庫 (青 一 〇 九 -一 ) の立花 雄 一 ﹃ 横山 源 之 助 小 伝 ﹄ を参 考 にし てまと め た。
二、横
山
源之
助
著
﹁日本
之
下
層社
会
﹂
を読
む
(抄
)
第
一
編
東京貧民
の
状態
第 一 都会 の半 面 -東 京 市 は 2 一 五 区 、 戸 数 二九 万 八千 、現 在人 口百 三六 万 余 り、其 の 十 分 の内 のど れ 程 か は生 活 が苦 し く な い 人 生 の順 調 な人 々 である 、 と は い っ ても 、多 数 は生 活 が 思 うよ う にな らな い下 層 の階 級 に 属 し て い る 。 3 細 民 は東 京市 中 のど の区 にも 住 み、其 の数 が ど のく ら い にな るか は分 ら な いと は いうも の の、東 京 市 全体 と し て細 民 が最 も 多 く住 ん で いる地 域 を あげ る と 、 山 の手 の 小 石 川区 、 牛 込 区 、 四 谷区 ではな く 、 本 所 、 深 川 の両 区 であ ろ う。 し か し本 所 、 深 川 の両 区 は他 の = 二 区 に比 し て、 江 戸幕 府 の時代 か ら 自 ら風 俗 習慣 が異 な り 、封 建 時 代 の 特 色 で あ っ た 武士 の居 住 す る こと が少 なく 、純 然 と した 町人 で構 成 さ れ、 特 に商 人 達 で はな く 職 人 及 び人 足、 4日傭 の 一 般 労働 者 で 成 り立 って い る。地 形 上 隅 田川 で 本 所 、 深川 が 区切 ら れ て いる のと 同様 に、 人情 、 風 俗 も 一 般 と 異 な る も のが あ る 。深 川 区 では 5 平 民 一 万六 千 七 百七 一 人 に対 し て、 5 士 族 は漸 く 七百 九 一 人 と少 な いこと は そ の 一 例 である 。 そ し て、 東 京市 の 数 多 く あ る内 職仕 事 、 職 入 の 下 で 使 われ る 日傭稼 人 足、 6 車 夫 、 車 力 等 の 下 層 労働 者 は 、 大 体本 所 、深 川 の 両 区 か ら供 給 さ れ て いる 。特 に本 所 区 は工 業 が殆 どな い 東 京 市 の内 では 最 も 工場 の多 い 土 地 であ る ため に、丁 度 大 阪市 に見 られ る と同 様 に工 場労 働 者 であ る細 民 を 見 る こと が多 いの は注 目 し なく ては な ら な い。 欧米 諸 国 の細 民 は 概 ね 工場 労 働 者 であり 、 今後 東 京 市 に於 て 細 民 の叫 び と いえ る労働 問 題 が起 る こと が あ れば 、 現在 索 莫 し て いる本 所 区 よ り 生 じ る の では な いだ ろ う か。 う す ら淋 し い 東京 の田舎 と も言 う べ き 本 所、 深 川 から戻 っ て居城 (現 皇 居 )のも と 、 高 層建 築 7 十丈 、碧 い 瓦 が き ら めき 続 き、表 通 り は ひ っ き り な し に往 き 来 のあ る熱 く 騒 が し い東京 市 に 於 て、 細 民 が最 も 多 く 住 ん で いる の は浅草 区 かと 思 わ れ る。 日本 橋 区 と浅 草 区 と は東 京 市中 の生 活 社会 の中 心 であ る。 神 田 、本 郷 の両 区 は少 し生 活 に 縁 の遠 い 書 生 が 多 く 住 み、 京 橋区 は銀 座 通 り の表 側 を 西洋 風 に造 り 、麹 町区 は 諸 官 省 によ って 保 た れ て いる。 東京 で特 色 を 直 接 に見 る こと が でき る の は、 た ゴ日本 橋 区 と浅 草 区 と であ る。 そし て特色 は、 日本橋 区 は商人 に表 われ 、 浅 草 区 は 神 田 区 の 一 部 と と も に職 人 の 上 に 示 さ れ て い る。 下 谷 区 、小 石 川区 、四谷 区 は 、 細 民 の住 ん で いる数 が少 な く はな いが、 ラ ド マイ こ れ を浅 草 区 に 比 べると言 う 程 で はな い。 浅草 区 には8 松葉 町 あ り、 阿 部 川 町 あ り 、木 賃 宿 の 群 が っ て いる浅 草 町 が あ り 、新 平 民 の部落 のあ る亀 岡 町 、 神吉 町、 新 福井 町 、 福 井 町 、北 富 坂 町 、新 谷 町 、 寿 町、 南 松 山 町 、 千 束 町 、聖 天 町 、北 清 島 町 、橋 場 町 、 馬道 町、 三 間 町 、吉 野 町 、 今 戸 町 、象 潟町 、田 町、並 木 町、北 三 筋 町、 田原 町 、 松 山 町等 、と り わ け細 民 が 多 く住 ん で いる所 の松 葉 町 、神 吉 町 あ た り の路 地 に入り 住 ん で いる人 を 探 っ てみ ると 、 今 日、万年 町 でも 形跡 が な く な っ た (も と より 外 面 的 に はなく な っ た で事実 は多 いが)乞食 が 軒 を連 ね て 住 み、 オ モテ に 店 を 張 っ て い ると い っ ても 大 体 襤褸 屋 の類 い であ る。 其 の 他 阿 部 川 町、 清 島 町 な ど の路地 に入 っ て住 民 の 衣 服 や生 活 を みれ ば 、鮫 一 3 一河 橋 、 万年 町 に劣 ら な い程 度 のも のが 重 なり 合 って いる。 そ のよ う に、 数 の 上 か ら いえば 本 所 、深 川 を 除 いて浅 草 区 は最 も 細 民 の 多 く住 む地 であ る。 左 の 一 表 は 各 区 の人 力車 夫 数 の比較 表 で、 三 一 年 一 月 の調査 に よ る。 表 一 東京 市 十 五区 の 人 力車 夫 数 区 名 所有車挽 借 車 挽 挽 子 総 計 麹 町 区 四 八 一 七九 九 二八〇 一 、 五 六 〇 神 田 区 九 一 〇 三 、 一 六 五 一 〇 一 四 、 一 七 六 日 本 橋 区 五 = 一 九九 五 七五三 二 、 二 六 〇 京 橋 区 七 三八 一 、 五 四 八 四 〇 八 二 、 六 九四 芝 区 八三八 三 、 二 五六 八 四 、 一 〇 二 麻 布 区 一 四 九 一 、 五 二 五
i
一 、 六 四 七 赤 坂 区 一 〇 三 八 二五 二 一 九 四 九 四 谷 区 二 八 四 九九 三1
一 、 二 七 七 牛 込 区 四三七 一 、 五 三 〇 六 一 、 九 七 三 小 石 川 区 三七七 一 、 三 四 三 一 六 一 、 七 三 六 本 郷 区 六四七 一 、 八 一 四 七 二 二 、 五三 三 下 谷 区 一 、 9 二 二 、 七 〇 六 三八 三 、 七六 五 浅 草 区 一 、 五 〇 九 三 、 九二 四 一 八 五 五 、 六 一 八 本 所 区 八 九七 二 丶 三三 六1
三 、 二 三 三 深 川 区 五五二 二 、 〇 二 二 一 二 四 二 、 八 九 八 職 業 に よ って 下 層 民 を 区 別 す る と 、 東 京 の 都 会 で 、 人 足 日 傭 稼 が 第 一 位 の数 に な り 、 人 力 車 夫 が こ れ に 次 い で 多 い 。 右 表 で 、 浅 草 区 に 人 力 車 夫 が 多 い こ と は 注 目 し た い。 或 6 人 が 言 う こ と に は 、 東 京 市 中 ど こ へ 行 って も 路 地 が あ り 、 家 と 家 の 間 に ち ょ っと 路 が 通 じ て い る な ら ば 、即 ち そ の 裏 に軒 を連 ね て長 屋 を見 る のは浅 草 区 が 最 も 多 い。 そ れ は少 しば か り浅 草 区 の 外 見 を い ってい る に過 ぎ な いが 、 こ の点 か ら も 浅 草 区 に 細 民 が 多 く住 ん で いる こ とが 知 ら れ る。 こ のよ う に 浅 草 区 に 細 民 が 多 い の は浅草 公 園 と芳 原 があ るた め だ。 私 には 浅 草観 音 に朝 夕 祈 り を あ げ て果 し てど れ だ け の御 利 益 が あ る のか 分 ら な い け れ ども 、 そ のお恵 み は付近 の細 民 に生 活 す る 機 会 を 与 え 続 け て いる。 細 民 に同 ヒ ョ ウ ジ 情 を す る者 は感 謝 し てよ いだ ろ う。 芳 原 に至 っては 9嫖 児 を誘 い こん でそ の資 産 を土 く れ にし て失 う者 は排 斥 さ れ な け れば な らな いが 、反 面 、細 民 に 若 干 の都 合 を つ け て 職 業 を 与 え て いる こと は、 ま た得 が た いこと と いえ るだ ろ う 。 以 上 は東 京 市 全 体 に つい て、区 画 の上 か ら そ の下 層 を概 観 した のみ であ る 。他 に世 の 中 の人 が 眼 を開 き し っ かり と 見 てお か な け れば な ら な い貧 民部 落 が あ り、 本 所 、深 川 両 区 、 及 び浅 草 区 の 細 民 に は、 貧 乏 と い っ ても、 以下 今 あ げよ うと す る貧 民部 落 程 ひど いも の は 少 なく 、 住 ん で いる のは大 よ そ細 民 の人 た ち で 貧 民 を 見 る こと は稀 であ る 。 且 つ た と え浅 草 区 に松 葉 町 あり 阿 部 川 あ り と いえ ど も、 百 戸 千 戸 と群 を な し てい る所 は なく 、集 ま っ て いる と い っ ても数 十 戸 処 々 に小部 落 を 見 る に過 ぎ な いか ら、都 市 の発 達 に伴 う病 的 現象 の貧 民 部 落 であ ると 言 う こと は でき な い。東 京 の 最 下 層 は何 処 な のだ と いえば 、四谷 鮫 河橋 、 下 谷 万年 町、 芝新 網 、 東 京 の三大 貧 民 窟 はま さ に是 であ る。 ほん の少 し外 観 を 見 ると荒 物 屋 、 質 屋 、 古 道 具屋 、 米 屋 、焼芋 屋 、 紙 屑 屋 、 残 飯 屋 、 桝 酒 屋 、 古 下 駄 屋 、 10 青物 屋 、 11 損 料 貸 、土 方 請負 、 12 水 油 出売 、 煮 豆屋 、 13 ム キ ミ屋 、納 豆 売 、 豆腐 屋 、 酒 小 売 、塩 物 屋 、 14 蕎 ソ メ 染 屋 、醤 油 屋、 乾 物 屋 を見 る に過 ぎ な いが 、 一 度 足 を 路 地 に 踏 み 入れ れば 、 見 る限 り 15 襤 褸 で 溢 れ 、 私 の心と 目 を傷 つ け る。 か の馬 車 を疾 駆 さ せ傲 然 と高 ぶ っ た者 、美 々し く化 粧 し 装 いを凝 らし て 他 の 装 いを 誇 る者 と 比 べ あ う 者 、人 間 の階級 は これ 程 ま で に甚 だ し く 異 な るも のか ﹁ ﹁と 嘆 か ず に は い ら れ な い。 つ い て は 其 の 稼 業 を み れ ば 、 人 足 日 傭 仕 事 ⑤ が 最 も 多 く 、 次 い で車 夫 、 車 力 、 土 方 、 続 い て 屑 拾 い、 人 相 見 、-ら を フコ の す げ か え 、 -下 駄 の 歯 入 、 水 撒 き 、 蛙 取 り 、 井 掘 、 便 所 探 し 、-棒 ふ り む り と り 、 溝 小 便 所 掃 除 、 古 下 駄 買 い 、 按 摩 、 大 道 講 釈 、 -か っ ぽ れ 、 2 ち ょば く れ 、2 1か ど つけ 、盲 乞 食 、盲 人 の 手 引 き 等 、世 界 の あ ら ゆ る 稼 業 は 鮫 河 橋 、 万 年 町 、 新 網 の 三 ケ 所 に 集 ま っ て い る 。 こ れ よ り 章 を 分 け て、 彼 等 の 生 活 、 一 日 の 生 計 費 用 、 融 通 機 関 、 家 庭 、 貧 民 教 育 、 木 賃 宿 等 、世 間 の 人 に顧 み ら れ な い貧 し い 街 の 様 子 を 記 し て、跏江 湖 の 一 考 を 煩 わ し た い と 請 い願 って い る 。 ︹注 1 一 ︺ D 一 八六七 (慶 応 三 ) 年 四月 、 江 戸城 が 徳 川幕 府 より新 政 府 軍 に引き 渡 さ れ た 。本 土 の 内 乱 は翌 一 八六 八 ( 慶 応 四 )年 九 月末 ま で に 新 政 府 軍 の 勝 利 で 終 り 、 こ の 月 に 慶 応 四年 を改 め て、 明治 元年 と し た。 一 〇月 には天皇 が初 め て京 都 か ら江 戸 へ 行 き 、 江 戸城 を 東京 城 と改 名 、 一 八 六九 (明 治 二)年 三 月 、東 京 を首 都 と 定 め た。 京 都 を西 の 京 と すれ ば 、東 の京 即 ち東 京 であ る が 、長 い間 都 であ っ た 京都 から東 京 へ 首 都 を 移す こと には異 を 唱 え る人 も 多 く 、 ﹁ 浪 花遷 都 論 ﹂ ( 大 阪 へ 移 す ) や ﹁ 東 西 二 京 併 立 案 ﹂ も考 え ら れた が 、 種 々 の条件 から東 京 へ 遷 都 と き め られ た 。 鋤 明 治初 期 には 、新 し い定 め や こ れま で のも の を 改 め る と いう変 化 の 動 き が 目ま ぐ る しか っ た。 一 八七 九 ( 明 治 = )年 七月 、﹁ 都 区町 村 編 制 法 ﹂等 が発 布 さ れ 一 一 月 には東 京 府 を十 五区 六 郡 に編 成 を改 め た。 区 の名称 は、 始 め十 二支 に 因 ん で 十 二区 に 分 け る案 が出 され た が、 古 い 地 名 に こ だ わ る人 も あ り 議 論 にな っ た 。 結 局 十 五 区 と さ れ た。 十 五区 は表 一 、 にあ るよ う に、 麹 町 、神 田、 日本橋 、 京 橋 、芝 、麻 布 、赤 坂 、 四谷 、 牛 込 、小 石 川 、 本 郷 、下 谷 、浅 草 、 本 所 、 深 川 で あ る。 郡部 は、 東多 摩 、 南豊 島 、北 豊 島 、南 足立 、南 葛 飾 、 荏 原 の六 郡 で 出 発 、 そ の 後 間 も な く変 更 さ れ て いる。 の 貧 し い 人 。 貧乏 な人 々。 この本 では、 ﹁ 細 民﹂ の他 に ﹁ 貧 民﹂ が 用 いら れ て いるが 、同義 な のか区 別 が は っ き り しな い。 ﹁貧 民 ﹂ の方 が 困窮 度 合 いが甚 だ し いと 思 わ れ る箇 所 が あ る ( 四頁 )が 、 必 ず しも 統 一 さ れ て いな い。 の 日傭 ( ひよう ) 、 日 やと い 。 一 日 単 位 の契約 で雇 う こと。 ま た、 そ の 賃 金 。 日傭稼 ぎ。 日傭 い 人 夫 は、 雇 わ れ た入 。 励 一 八 七 一 ( 明治 四) 年 春 か ら明 治政 府 は廃 藩 の 準 備 を すす め 、 先 ず 親兵 ( 後 の近 衛兵 ) を 用意 さ せ た。 七 月 一 四 日 に 全 国 の藩 知 事 を免 職 にし、 藩 を廃 し て そ のあ と に県 を 置 き 、中 央 政府 が任 命 す る官 吏 が 知事 以 下 の 地 方 官 と な っ た。 これ が廃 藩 置 県 で、中 央 集 権 の 官 僚 制 が し かれ た こと にな る 。 一 方 、 人 々 の 身 分 に関 し ては、 同 年 の八月 に法令 を つ く って 身 分 制 を整 理 し 、超人 間 的 存在 の天 皇 と皇 族 、華族 ( 旧大 名 と 公卿 ) 、士 族 、平 民 の四 身 分 と した 。身 分 によ る服装 や住 居 、 そ の他 日常 生活 上 の 制 限 や結 婚 、職 業 、 居 住 の 制 限 は 、法 制 上 はな く な っ た 。 これ ま で、 え た ・ 非 人 と 呼 ば れた 社 会 の 最 下 層 に 位 置 付 け 、卑 め られ てき た賎 民 は、 平 民 と 同 じ にな り 身 分 、職 業 の差 別 は法 制 上 な く な っ た。 し か し納 税 な ど の 義 務 を 負 担 し 、皮 革 に関 し て の手 工業 の独占 が でき な く な り、 実 際 の 不 自 由 な 生 活 は継 続 し た。 これ が政 府 の いう ﹁ 四 民 平等 ﹂ の現 実 であ っ た 。 ㊥ この時期 の交通 手 段 の 一つ は ﹁人 力 車 ﹂で、 人 力 車 を引 く のが車夫 であ っ た 。入 力 車夫 に は、 車 を自 分 で所 有 す る者 、 借 り車 の者 、車 を も た ず に 引 く のを手 伝 う者 、後 の ﹁ 第 四 人 力 車 夫 ﹂ にあ るよ う 一 5 一
な相 違 が あ っ た。 車 夫 に 対 し車 力 は 、荷 車 な ど を引 く 仕 事 で、当 時 の運 送業 で あ るが 、車 夫 、車 力 と も人 力 が 動力 源 であ る こと に違 い はな い。 人 力車 は他 の 交 通 機 関 と 異 な り 日本 人 の 発 明 で、 諸 説 あ るが 一 般 には箔 屋 町 (現 中央 区) に住 ん で いた和 泉 要 助 ら の発 明と いわ れ る。 一 九 七 〇 ( 明 治 三) 年 に工 夫 し た人 力車 製 造 を 願 い 出 、翌 年 五 月許 可 さ れた 。 し か し特 許 にな ら なか っ た た め、 後 には模 倣 し て製造 す る者 が次 々と 現 われ て輸 出 す る程 にな っ た。 一 九 七 二 ( 明 治 五 )年 春 に は人 力車 が 一 万 台 を こえ、 翌年 八月 に は三 万 四千 輌 を 上 回 る激 増 ぶり だ っ た。 人 力 車 を 引 く車 夫 は 引く 手 あ ま た で収 入 が 多 く派 手 な カネ 使 いが でき た が 、人 力 車 の 量 が激 増 し た た め実 入 り は し ぼん で しま っ た。 そ の後 明治 一 〇 年 頃 に ﹁ 円 太 郎馬 車 ﹂ と あ だ名 が つい た乗 合馬 車 が 、 浅草 、新 橋 、 品 川間 を 走 り 、更 に馬 車 鉄道 が東 京 の 目 抜 き通 り 新 橋 、 日本 橋 間 に レー ルを 敷 い て 走 っ た のは 、 一 九 七 七 (明 治 一 五) 年 六 月 の ことを あ っ た 。馬 車 鉄道 の路線 が延 び る に つ れ て 人 力 車 は大 打撃 を蒙 り 、 東 京 の下 町 では や っ て いか れ なく な っ て、 山 の 手 や、 下 町 と山 の手 の間 で働 く よ う に狭 め ら れ て い っ た 。 の 丈 ( じ ょう)は尺 貫法 の長 さ の 単 位 。 一 丈 は約 三 メ ート ル、 十丈 は 約 三〇 メ ート ル。 紛 松葉 町 の町名 に ﹁ ド ー マイ﹂ と読 みが なが つ け てあ るが 、 町 の別名 な のか 不 明 であ る。 松葉 町以 下 の町名 は現 在使 用さ れ て いる も の は かな り少 な い。 明 治 二 五 ( 一 八 八七 ) 年 の東京 市 地 図 の覆刻 版 を 購 入し た が 、余 り に細 く て ま だ 各 町 の位 置 が 確認 でき な い。 9 ヒ ョ ウ ( ヘウ) ジ。 ふ ら ふ らと 女 遊 びを す る 者 。 鋤 ﹁主 目 物﹂は 墅 の 馨 現在 の 八雇 11 ﹁ 損料 ﹂は衣 服 や器物 な どを借 り た場 合 の 借 り賃 。 ﹁ 損 料 貸 ﹂ は、そ の借 り賃 を 貸 す 。例 え ば 車 夫 が人 力 車 や車 夫 の衣 服 を借 り る、 芸人 が楽 器 を借 り る等 、 自 分 の道 具 が な い者 は借 り て使 用 し た。 拗 ﹁ 水油 ﹂ は①椿 油 、 オリ ーブ 油 な ど液 体 の髪 油 。 ま た は②菜 種 油 な ど の 燈 油 ( と ぼ しあ ぶ ら ) 。 江 戸時 代 の行 灯 、 提 灯 か ら 、明治 維 新後 は ラ ン プ が 次第 に 普 及 し 、 明治 五 、 六年 頃 には裏 長 屋 住 い でも使 用 し た。 そ の 後 街灯 に はガ ス 灯 が現 わ れ 、銀 座 通 り に使 われ た のは明 治七 年 末 であ っ た。 電 灯 は銀 座 に点灯 され た のが始 ま り で、 明治 ↓ 六 年 二月 の 東 京 電 灯 会社 の設立 によ り拡 大 し て い っ た 。 こ の 水 油 は 時 期 か ら いえば 電 灯 普 及後 であ り 、髪 油 と と れ るが 、 貧 民窟 と され た長 屋 に電 灯 が ひか れ て いた であ ろ うか 。東 京 でも 昭 和 初期 ま で電 灯 が 定額 制 で、 夜 のみ送 電 され る か ら昼 間 は電 灯 が つ か な い ( ラジ ォや アイ ロンも 使 え な い ) と か 、 一 戸 に 一 ケ所 し か 電灯 が取 付 け ら れ て いな い住 宅 が あ っ た。 勸 あさ り、 蛤 な ど貝 類 の 殻 を取 り 除 い て、 中 身 を出 し て 売 っ た。 行商 で貝 を売 り歩 き 、注 文 に応 じ てむ き 身 にし て売 ってい た。 し 14 ﹁ 煮 染 ﹂は 煮染 あ で、野 菜 や肉 、豆腐 など を醤 油 そ の 他 の調 味料 の 汁 で煮 こん で、味 を つ け た 料理 の こと。 殉 ﹁ 襤 褸 ﹂は ラ ン ルと も読 む が 、 通 常 はポ ロ と いう 。布 が古 く な っ て 破 け た も の や継 ぎ 接 ぎ だ ら け の衣 服 を着 て いる人 ば か り の 様 。 畍 ﹁ ら を ﹂は煙 管 ( キ セ ル )の吸 い口と 火 皿 の金 属部 分 を中 間 で つ な ぐ 竹 の管 。 ラ オ スか ら き た 竹 を 用 いた と い う。 ﹁ らを の す げ か え ﹂ , は、火 を 使 う た め 竹 が焦 げ る の で 、 痛 ん だ竹 ( らを ) を取 り 替 え る こと 。 恥 明 治 維新 の頃 の庶 民 は裸 足 が多 か っ た が、 履物 と し て は藁 で 編 ん だ草 履 、 草鞋 、 ま た は下 駄 であ っ た 。 下駄 は 一 木 で 全 体 を 作 っ た物 が上 等 で、 ふ だ ん用 に は歯 を はめ こん だ物 が あ り 、雨 の時 には薄 く て 高 い歯 を い れ た足 駄 を 用 いた。 こ の 歯 が 擦 り減 っ た り は ず れ た場 合 に、 下駄 の台 と鼻 緒 は そ の ま 丶 使 い 歯 を 入 れ替 え て いた 。 一 6 一
⑳ ﹁ 棒 ふ り ﹂ ぽ う ふ り ( 孑 孑 ) は 、 ぼ う ふ ら の こ と 。 棒 を ふ る で は な ー く 、 蚊 の 幼 虫 の ﹁ ぼ う ふ ら 取 り ﹂ の 意 で は な い だ ろ う か 。 の 江 戸 末 期 に 住 吉 踊 か ら 出 た 大 道 芸 の 一 つ で、 ﹁ カ ッポ レ カ ッ ポ レ 甘 1 茶 で カ ッ ポ レ ﹂と 囃 し た て て踊 った 。 こ の囃 し 言 葉 か ら 名 が つ い た 。 ① 小 さ い木 魚 二 個 を 叩 き な が ら 、 阿 呆 陀 羅 経 な ど に 節 を つ け て 口 早 2 に謡 う 一 種 の俗 謡 で 、 ま た 、 そ れ を 謡 い な が ら 米 銭 を 貰 い歩 い た 乞 食 僧 を さ し た 。 庶 民 の 幕 制 批 判 が こ め ら れ て い た 。 ち ょ ん が れ と も い う 。 D 人 家 の 門 口 に 立 っ て、音 曲 を 奏 し 、ま た は 舞 を 舞 っ て、金 銭 や 品 物 2 を 貰 って 歩 く こ と 。 そ れ を 行 う 人 。 黔 世 の中 。 世 間 を い う 。 ﹁ ⋮ ⋮ 江 湖 の好 評 を 博 す ﹂ は 、中 国 の揚 子 江 2 と 洞 庭 湖 の こ と で、 転 じ て 、 い な か 、 地 方 、 さ ら に 世 間 、 民 間 。 第 二 三 貧窟 の 戸 数 ・ 人 口 及び 特質 四 谷 の 鮫 河 橋 、 下谷 萬 年 町 、芝 新 網 、各 貧 民 窟 の戸数 、人 口を左 に 掲 げ る 。鮫 河 橋 は 谷 町 一 丁 目 、 二丁 目 、 元鮫 河 橋 、 南 町 の 四 ヶ町 を含 み、 萬 年 町 は 一 丁 目 、 二丁 目 あ り 、新 網 は南 北 の 二 ヶ町 に分 か れ てい る。 表 二 四 谷 区 鮫 河橋 の 戸 数 と人 口 町 名 戸 数 人 口 男 女 谷 町 一 丁 目 七〇七 二 、 五 四 〇 一 、 四 七 二 一 、 〇 六 八 谷 町 二 丁 目 四 三二 一 、 五 〇 二 八 = ハ 六 八 六 元 鮫 河 橋 四 二 一 八 五 九二 九三 鮫 河 橋 南 町 一 八 四 七 三七 三 九 二 三四四 四谷 区 に は鮫 河 橋 を 別 にし て新 宿 の天 龍寺 門 前 に貧 民部 落 が あ り、 芸 人 が 多 く 住 ん で い る処 で、鮫 河 橋 で は谷 町 二丁目 に細 民 が 最も 多 い よ う で あ る 。 屋賃 三十 九 銭 の家 屋 が み ら れ る のは 恐 ら く東 京 市 中 に、 谷 町 二丁 目 を除 いて他 には な い だ ろう 。住 民 は 日稼 人 足 、 及 び人 力 車 夫 が最 も 多 い。 表 三 下谷 区萬 年 町 の一 尸 数 と 人 口 町 名 萬年 町一丁 目 萬年 町二丁目 戸 数 三四三 五 二 二 人 口 一 、 五七〇 二 、 二七九 男 八 五 三 一 、 二五七 女 七一 九 一 、 〇二二 萬 年 町 を 別 と し て 、 下 谷 区 には南 稲 荷 町、 北 稲 荷 町、 山 伏 町 、豊 住 町 、車 坂 町 に貧 民 が非 常 に多 く住 ん でお り 、特 に南稲 荷 町 、 山 伏 町 の 場 合 は 、囚 人 先 踪 者 を出 す こと が萬 年 町 よ り多 く 、貧 民 窟 と し ては い ン ユウ ワ イ ず れ も注 意 す る 必要 が あ る。萬 年 町 では 二丁 目 の 醜 穢 が甚 だ しく 、 稼 業 は人 足 日傭 取 、 人力 車 夫 に次 いで屑 拾 いが甚 だ し く い て 、 それ が寧 ろ萬年 町 の特 色 と 言 え る の では な い か 。新 網 の戸 数 五 百 三十 二、人 口 三 千 二 百 二十 一 、 南 北 二 ヶ 所 の 各 戸 数 、 人 口を 知 る こと は でき な いが 、 北 は 一 番 地 より 廿 番地 、南 は 一 番 地 より 九番 地 ま であ り 、北 町 の方 に 窮 民 が 多 い。も と よ り 日稼 人 足 、車 夫 、 車 力 が多 いと は いえ、 あ た か も 萬 年 町 に屑拾 いが 多 いよ う に、 新網 は四 谷 天龍 寺 門 前 と 同 じく 、 か っ ぽ れ 、 ち ょぼく れ 、 大道 軽 業 、 辻 三味 線 等 の 芸 人 が 多 い のが特 色 と いえる 。 それ ぞれ の 各 貧 窟 の各家 族 の人 員 が新 網 は分 り難 いと い って も 、 鮫 河橋 、 萬 年 町 では 四人 乃 至 五人 強 、 も っ と 人 数 が多 いと 思 わ れ る の で はな いか 、 と いう のも これは区 役 所 に届 け出 て いる形式 上 の 実 数 で 、 貧 一 7 一
民 部 落 に 子 供 が 多 く 、同 居 者 が ど こ でも多 く いる のも普 通 にみ られ る こと で 、 も し 仔細 に調 査 し てみ れば 更 に 多 数 の住 民 の いる こと は必 定 であ る。 要 す る に 戸数 が 多 いこ とか ら い え ば 鮫河 橋 は各貧 民 窟 の内第 一 位 で、新 網 は表 面 に媚 を浮 べて いるが 横 を向 けば ぺろ りと 舌 を出 す 連 中 が 多 く、 萬 年 町 の住民 は油断 し て いる と庭 のも のを さら っ て いく よ う な 心配 が あ る 。路 地 の醜 穢 な こ と は萬 年 町 が 最 も甚 だ し く 、鮫 河 橋 、新 網 の汚 さ は 似 た よう な も の だ。 人 の話 によ れば 、 七 、 八年 前 に 比 べて ど こも 清 潔法 の実 施 さ れ たた め昔 の状 況 を大 い に変 え て いる と いう。 但 し 大 阪名 護 町 が外 観 を改 め た こと に比較 す れ ば 遥か に劣 って いる の は、 私 が断 言 でき る。 中略 (大 阪 市 の 名 護 町 に関 し て毎 日新聞 社 で報道 し たも の) 第 三 日稼 人 足 日稼 人 足 と いう も のに は種 類 が あり 、 時 おり 道 路 の 修 繕等 に出 る 日 稼 人 足 が あ り ( 甲 ) 、専 ら土 木 工 事 に従 事 す る 日稼 人 足 ( 土 方 ) あ り ( 乙) 、 -社 会 に使 わ れ る 日 稼 人 足 あ り ( 丙 ) 、大 工 、左 官 、石 工 の下 に 属 し て いる 日稼 人 足 あり ( 丁 ) 、 物 品 の運 搬 に従 事 す る 日 稼 人 足 あ り キ ( 戊 ) 、車 力 の 下 に 属 し て い る 一 種 の 人 足 (立 ち ん 坊 ) あ り ( 癸 ) 、 一 般 に ワ ラ ジ 稼 業 と い って も そ れ ぞ れ の 事 情 が 異 な り 、 生 活 の 状 態 に は 大 き な 違 い が あ る 。 ( 甲 ) 道 路 の 開 発 、修 繕 が あ り 、 橋 梁 の 新 規 架 設 、架 け 換 え 、修 繕 あ り 、 み そ 堤 防 の 築 造 、修 繕 、溝 渠 の 新 設、 修繕 等 、 土 木 工事 は絶 え る こと が な く 、東 京 市中 、 日 々数 千数 万 の 日稼人 足 が 使 わ れ て いる 。貧 窟 では人 足 と し て 道 路 、 橋 梁 等 の 開 発 や修繕 に出 る者 が最 も 多 い 。 そ し て 土 木 用 達組 、有 馬組 、永 井 商会 の 三者 は、東 京 府 庁 の 特 許 を 得 て、常 時 土 木 工事 を 請 負 い 、 更 に人 足親 方 に依頼 し て人 足 を募 集 さ せ 、 工事 を 終 了 させ る のを通 例 と す る。 鮫 河 橋 、萬 年 町 等 で 人 足 と し て 出 る の は概 ね右 の請負 者 の下 に 使 われ て いる 。 一 日 の 賃 金 は三 十 二 、 三銭 、甚 し い のは或 る小 請 負者 の下 に属 し て い る人 足 の 場 合 、 他 か ら三 十 五 、六 銭 を得 て いる にも 拘 らず 、僅 に 二 十 七 、八 銭 を受 取 っ て いる者 が あ る 。 思 う に定 額 は 四十 銭 だ が 、上 に請 負者 があ り 、中 間 に親 方 が いて擂 煎 を はね て いる た め であ る 。 一 般 的 に 請 負 者 は た い て い三 、 四銭 の上 前 を 、 中 間 で 人 足 募 集 を し て いる親 方 が 二銭 乃 至三 銭 を と っ て いる 。人 足 日傭 取 が現 在 得 る の は三 十 二、 三銭 が 通常 のよ う だ 。 三、 四年 前 は 二 十 銭 乃 至 二 十 匁 銭 で あ っ た か ら、八 、 九 銭 は高 く な っ た こと にな る 。 女 の 入 足 賃 金 は 、今 日 二 十 銭 と さ れ て いる。 親 方 と の関係 は極 め て 薄 く 、 日 稼人 足 の大半 は毎 日入 れ替 っ て いる よ うだ 。 今 旦 雇わ れ た人 足 が 明 日 他 に 一 銭 二 銭 でも 高 い 賃 銀 の工 事 が あ れ ば 直 ぐ に そち ら へ 行 き 、 特 に鮫 河 橋 、新 網 等 の貧窟 に い る 人 足 で は、 昨 日道 路 の修繕 に出 た 者 が今 日 は橋梁 の架 け 換 え に出 ると いう有 様 で、親 方 に対 し ては何等 の徳 義 も な く人 情 も な い。併 し な が ら 一 人 の 親 方 に所 属 し て前 借 し た関 係 か ら 離 れ る こと が でき ず に、僅 か に 二 十 五、 六 銭 の 賃 銀 に縄 も な い の に縛 ら れ て いる者 も 珍 し く は な い。 ( 乙 ) 土 方人 足 は専 ら大 土木 工事 に従 事 す る者 で 同 様 に日稼 ぎ仕 事 で 世 を 渡 って いるが 、 一 般 日稼 人 足 と は大 い に 様 子が 異 な り 、世 間 を 別 に す る。 一 般 の日 稼人 足 は毎 日親 方 が 代 っ た り し て いる が、 土 方 に は必 ず親 方 、 兄 貴 が あ り、 こ の 仕 事 を す る に はず っ と古 く か ら の習慣 にな ってい る 一 定 の方 式 に従 わな いわ け に は いか な い 。 一 日 の 賃 銀 や食 べ る金 は親 方 に ま か せ て、通 例 十銭 乃至 十 二銭 、十 五 銭 を受 け取 る のは 彼 等 と し ては稀 な 多 い 賃 銀 で、 二十 人 、 三十 人 を 世 話 す る兄 貴 分 は僅 に金 を 取 る だけ だ 。土 方 は も と より 細 民 の 階 級 に属 し 、鮫 河 橋 、萬 年 一 }
町 にも少 なく な いが、 こ の 入 々を 貧 民 と し て み る こと より も寧 ろ他 の 点 で観察 す る必 要 があ る。彼 等 の気 風 、親 方 と の間柄 、 兄 弟 分 と の間 柄 等 記録 す べ き こと等 は多 いが此 処 では省 い てお く。 (丙 )工業 地 であ る大 阪 の街 と 比 べ も のに な らな い と い っ ても 、 東 京府 セ イ ジ ュウ 下 にもま た幾 つ も の工 場 があ る。 王 子村 に製紙 会 社 が、 2 製 絨 会 社 が、 3 メリ ヤ ス会社 が、 4 酸 曹会 社 が あ る し、隅 田村 に鐘 ヶ 渕 紡 績会 社 が あ ソ ヨウ り 、深 川 に 東 京 紡 績会 社 が あ る。 鉄 工場 では 5 砲 兵 工 廠 、 三 田機 械製 造 所 、 三吉 電気 工場 、芝 浦 製 作 所 、月 岡 鉄 工 場 、平 岡 工 場 、桑 原 鉄 工 場 、中 島 工 場 、近 岡 機械 製 造 所等 数 十 の鉄 工 場 が あ る。 セ メ ント 製造 には浅 野 工 場 、鈴 木 セメ ント製造 所 等 が、 製 皮 工場 と し ては桜 組製 皮 ガ ス ガ イ タ ン 場 、 東 京 製 皮会 社 、大塚 靴 工 場、 そ の他 瓦斯 会 社 、 6 骸 炭 工場 、硝 子 工 場等 があ る 。 以上 の各 種 工場 に、職 工以 外 に工場 に出 入 り す る人 足 が 多 く い る こと は言 う ま で も な い。他 の人 足 と 同様 に親 方 の手 を 経 る場 合 や直 接 工 場 に雇 わ れ るも のも あ るが 、 賃銀 は労 働 の程度 に より相 違 が あ るが 大 てい三 十銭 内 外 には な る。 道 路人 足 に 二十 七 、八 銭 を取 る も の も あ る が、 全 体 か ら言 え ば会 社 の人 足賃 銀 は少 し 低 い。 但 し道 路 人 足 は両 の日 に仕 事 にアブ レル こと が 稀 では な いが 、会 社 に出 る人 足 は比 較 的 こう した 心 配 が少 な い。 此 処 に特 記 した い のは、 東京 の貧 窟 に 直 接 工業 の労働 に従 事 し て い る職 工 を 見 る こと が少 な い のは不 思 議 な こと で あ る。新 網 のよ う な付 近 に芝 浦製 作 所 や瓦斯 会 社 が あ ると い っても 、実 際 職 工 とし て工場 に 出 て いる のは僅 か十 二、 三 人 に 過 ぎ な い。大 阪 の貧 民窟 に職 工 を見 る ことが 多 いのと は比 べ も の にな らな い。 ( 丁 ) 一 般 日稼 人 足 を別 にし て、 職 人 の下 に 属 す る い わ ゆ る手 伝 人 足が あ る。 一 般 の 日稼 人 足 は何 と か体 力 さ え労 働 に堪 え れ ば他 に技術 や熟 練 を 要 し な いけれ ど も、 手 伝人 足 は 一 般 の日稼 人 足 に比 べて少 々 伎 倆 を要 す るか ら、 熟練 し ていな け れば な らな い 。 それ故 に 賃 銭 は高 く、 左 官 の手 伝人 足 は今 日四十 銭 乃 至 五十 銭 、 石 工 の 手 伝 い は五 十銭 は普 通 で六十 銭 にな るも の も あ る が、 大 工 の 手 伝 人 足 は やや少 な く 三十 二、 三 銭 とな る 。手 伝 人 足 には上 前 を 取 る親 方 が な く 、多 く は職人 に 直 接 雇 わ れ て いる 。 ( 戊 )最 も 身 体 の 強 健 が 条件 で あ り 従 っ て 日稼 人 足 中 賃銀 が高 い のは、 荷 車 を 運 ぶ運 送 人 足 、 いわ ゆ る車力 であ る 。常 傭 人 夫 は今 日大 て い五 十 銭 を 取 り、 四十 銭 と い う の は 少 な い。 日本 橋 を中 心 と し て 萬 世 橋 ま で荷物 が重 量 七 十 貫位 な らば 、 日 に 六 回 或 いは七 回運 搬 す る こ と が 可 能 であ る。 (其 の 荷 物 の目方 が 軽 く ても 形 の大 き い 物 や、 重 く て 毛 小 さ い のも あ る の で、 一 律 に重 量 だ け で 言 う のは難 し いが ) 一 回 一 荷 車 で 十 二 銭 だ と す れば 六 回 で七十 二銭 、 七 回 で 八 十 四銭 とな る 計算 にな る。 しか し之 か ら車 、 荷締 等 の借 賃 、 い わ ゆ る道 具代 と し て 収 入 の 二割 を 所 属 の 親 方 に引 か れ るが 、 今 では高 く な っ て 二割 五 分 引 か れ ると 聞 い て いる。 道 具 を も っ て いれ ば こ の 頃 七 十銭 内 外 の賃 銀 を 得 て いる こと は、人 足 中 体 力 を 要す る代 り に 賃 銀 は 割合 よ いと いう こと にな る 。 此処 に車 力 人 足 のため に憂 う べ き こと は 、七 十 五銭 だ っ た荷 車 の 税 ムマク ルマ 金 が、三 十 一 年 四月 よ り 一 円 五十 銭 に 上 っ た こと にあ る 。馬 車 八 円 で あ る。 最 近 車 力 の 仲 間 が 集 ま れば 話 は 此事 に及 び 、人 々の実 情 を 顧 み な い 政 府 を 恨 み 、 ひ そか に吐息 を 洩 ら し て居 る の で、当 局 者 の 一 考 を わ ず ら わし た い。 運送 の荷物 は、深 川区 は米 穀 が 最多 であ るが 、神 田 、 芝 、 浅 草 では 7 煉 化、 材 木 、 薪 を運 送 す る 仕事 が多 い。神 田 、浅 草 の 車 力 人 足 の間 で は組 合 を 作 って同業 者 の利益 を はか ろ う とす るも のは なく 、 僅 か に神 田錦 町 、 美 土 代 町 の親 方連 中 は本 年 一 月 に組 合 を 作 っ て同 業 者 間 の意 見交 換 を し 、 三井 銀 行 に 若 干 の 金 を 預 け た者 を 除 い て、他 に見 る べ き も のはな い。 し か し深 川 の 仲 仕人 足 の間 に は確 り し た労 働 組 合 が あ っ て、三 業 組 合 と名 付 け ら れ て いる。 賃銀 の競 争 、 及 び他 の土 地 か ら 入 } 9 一
っ て来 る仕事 師 と の 競 争 を防 ぐ ことを 目 的 と し、 人 足 請負 組 と連 合 し 、 深 川 に回送 す る米 穀 の運 搬 に従 事 す る仲 仕 人 足 は 皆 これ に加 わ っ て い る 。 当時 の組合 員 は総 数 一 千 名 を 越 え ていた 。 組合 は各 廻米 問 屋 と 交 渉 し て 一 定 の賃銀 制 を定 め、 8 米 商 会 所 と各 9 廻米 問 屋 にそ の ことを 連 絡 し て規 定 を破 る こと が な いよ う にし た。 賃 銀表 は下 の通り であ る 。 組 合 の 組 織 は極 め て固く 、 も し破 る者 が あ れば 厳 重 な制 裁 を 加 え て 仲 間 外 れ にし て交際 を 絶 つ ため 、 そ の 成 續 は甚 だ よ い。 一 昨 年 ( 性 一 八 九 六 、 明治 二九 年 )物 価 騰貴 の 初 期 に、 賃銀 の増 額 を 廻米 問 屋 に要求 した が 話合 いが ま とま らな か っ た 際 に、 一 致 し て同 盟休 業 を 起 こそ う と し た 。す ると 忽 ち仲 裁 が 入 っ て これ が鎮 め られ た が 、も し 彼等 が同 盟 休業 を行 って二 、三 日も続 けば 、 東京 府 の米 小売 市 場 に及 ぼ し た影 響 は ど れ程 であ っ たか 、 き っ と 人 々 に眼を み はら さ せ た こと だ っ た ろ う 。 ( 癸 )日稼 人 足 の中 の最下 等 で 、常 に 車 力 人 足 に 付 属 し ている惰 民 は立 ち ん坊 であ る。 湯 島 、九 段 の坂 下 、或 は新 橋 、 日本 橋 の辺 り で手 を懐 に入 れ て 荷車 の車力 が来 る のを待 ってい て、 そ の 頼 み に応 じ て 十 町 、 二 十 町 の間車 の後 押 し を し、 力 を合 わせ て 少 しば か り の 金 をも ら う 。 そ れ で 一 日、 と いう より ほん の 一 時 を 暮 ら し て いる。 ど れ 程困 窮 し て い る人 でも身 体 を 休 め る家 屋 が あ る の に、立 ち ん坊 には家 屋 は な い 。 冬 は小 梅 、業 平 町 ま た は浅 草 町 の木 賃宿 に 泊 る こと も あ るが 、夏 の盛 り は 却 って 蚊 に煩 わ せ られ る の が少 な いと言 っ て、 上 野公 園 、九 段 、 或 いは浅 草 公 園 の 休 憩 椅 子 の上 で巡 査 が来 て咎 め る 不安 を 抱 え なが ら眠 って いる。 これ で 一 日、 一 日 の生命 を つ な い で いるば か り の 、 乞 食 で あ り 一 種 のイ クヂ ナ シ であ る。 し かも 彼 等 と つ き あ っ て言 う所 を 聞 け おら ば 、﹁ 己 ア常 傭 のよ う な馬 鹿 な事 は し ね い﹂と言 う。 ど ち らが馬 鹿 な の か此 処 で いう必 要 が な いけれ ど も、 彼 等 は 一 日 の衣 食 、 む し ろ数 十 分 ツカ 後 に迫 る糊 口 に差 し 閊 え る状態 であ る の に、労 働 を 嫌 って 、 陽 光 を背 表 四 米穀 取 扱人夫 賃 銀 表 (百俵 に付 )
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項 目 三 斗 以 上 俵 入 六 斗 以 上 俵 入 普通 賃銀 臨時 増 賃 普通 賃 銀 臨時増賃 賃羸
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三拾銭 六 銭 拾 五 銭 五銭 揚 市 中 精 米 賃 拾八銭 三 銭 三 拾銭 三 銭 小 仕 分 賃 拾 八 銭 三銭 蔵 入 及 掛 方 賃 貮拾 五 銭 五銭 五 拾 銭 五 銭 市 中 受 取 賃 貮拾 銭 四 銭 賃 夫 人 雇 掛 方 賃 仕方賃 蔵 引賃 受渡賃 貫掛手伝賃 拾 五 銭 拾八銭 四拾銭 貮拾銭 三 銭 三銭 八銭 貳銭 貮拾 銭 貳 銭 蔵 出 積 込 賃 五拾銭 五 銭 積 込 賃 三 拾銭 六 銭 大 俵 軅 賃 共 四 拾 三 銭 五銭 賃 中 俵 舁 賃 共 四 拾銭 五銭 揚 小 俵 舁 賃 共 三 拾 六 銭 五銭 水 但 し 舁船持 の 分 は 貳割 引 外国米 大俵 舁積共 六 拾銭 五銭 賃 大俵並 びに 大叺 入 中俵 五 斗 以 上 壹 圓三拾 銭 壹 圓拾五銭 貳拾 五 銭 貳拾三銭騨
小 俵 壹 圓 貳拾 銭 大 俵 壹 圓 八 拾五 銭 拾 五 銭 一 10 一に受 け虱 を いじ り な が ら 日 を 送 る こと が さ と り と な っ て い るよ うだ 。 そ れだ か ら彼 等 が 時 た ま常 傭 に出 る こ と が あ っ ても 労 働 を 二時 間 以 上 堪 え る こと はな く 、自 分 か ら やめ て 一 日を 無 為 に過 し て 終 ら せ る。 既 に懶 惰 に 慣 れき って 労 働 に堪 え る こと が でき な く な って いる。 一 人 ず つに つい て 見 れ ば 、 か つて立 派 に店 を かま え て いた商 人 、或 いは境 遇 の激 変 に遇 い堕 落 し て此 の群 に入 っ た も のも あ る 。知 ら な いだ ろ う、 彼 等 の行末 が如 何 な って いく のか を 。読 者 が これ を知 り た いと思 うな らば 、 小 石 川大 塚 町 に設立 さ れ て いる養 育 院 に出 か け、 公資 により 養 わ れ て いる社会 の厄介 者 や行路 病 者 に ついて研究 しな く て はな らな い 。 必 ず読 者 に、彼 等 の運 命 が ど れ程 憐 む べ き も の であ るか を う な ず かせ る も のが あ る だ ろ う。 ︹い 汪 1 一一 一︺ D ﹁ 社 会 に使 わ れ る ⋮ ⋮ ﹂と あ る が 、( 丙 ) の説 明 に は 各 種 の 工 場 が 出 て く る の で、 ﹁会 社 ﹂ で は な い だ ろ う か 。 日 稼 人 足 の 仕 事 は 全 て社 会 に使 わ れ て い る ( 社 会 で 働 く ) と 思 う 。 黔 毛 織 物 の製 造 会 社 。 の メ リ ヤ ス の 原 語 は ポ ル ト ガ ル 語 、綿 糸 、羊 毛 糸 等 (化 学 繊 維 は ま だ 無 か った ) で 編 ん だ 衣 料 品 等 で 、 下 着 や 靴 下 が 主 な 製 品 だ っ た 。 Φ 酸 と 曹 達 ( ナ ト リ ウ ム 塩 )を さ す の で 、酸 性 と ア ル カ リ 性 の 工 業 薬 品 の こ と 。 明 治 維 新 後 、 政 府 は 官 営 の 工 場 を 種 々 設 立 し て 、 工 業 振 興 を 図 った 。 そ の後 民 間 に 貸 付 け た り 、 払 い下 げ た り し て い る 。 ㊦ 明 治 政 府 は 富 国 強 兵 に 力 を い れ 、 軍 需 工 場 が つく ら れ た 。 ㊦ ﹁ 骸 炭 ﹂ は コ ー ク ス の こ と 。 わ 煉 瓦 の こ と か 。 鋤 ﹁ 米 商 会 所 ﹂ は 、 明 治 九 (一 八 七 六 ) 年 八 月 に 明 治 政 府 が 株 式 取 引 所 条 例 を 廃 止 し て 、 代 り に ﹁ 米 商 会 所 条 例 ﹂ を 発 布 し た 。 江 戸時 代 、 農 民 は生 産 し た米 の 四〇∼ 五 〇 % を 貢 租 と し て幕藩 に 納 め さ せ ら れ 、 こ の米 が 俸 禄 と し て大 名 や武 士 に支 給 さ れ て いた 。 武 士 た ち は自 分 や家族 の食 糧 に 米 を 充 て、余 っ た 分 を市 場 で売 って 換 金 し 日常 の生 活 用 品 の購 入 に用 いた 。 このた め 貢 租米 の流 通 を 主 体 と し て大規 模 な商 品流 通 が起 り 、 各 地 に米 の 換 金 市 場 が でき た が、 そ の 大 も と が大 阪 の 米 市 場 であ っ た。 江 戸城 が 完 成 し て 政 治 の中 心 と な り消 費 経 済 が発 達 し ても 、 江 戸詰 め の 藩 主 や武 士 の 生 活 費 は大 阪 市 場 で 換 金 し て江 戸 へ 送 金 さ れ ていた 。米 は武 士 か ら商 人 へ 売 る だけ でな く 、商 人 同 士 の 間 で ひん ぱ ん に取 引 さ れ、 寛 永 、 正保 ( 一 六 四 〇年 代 ) の頃 に は 米 手 形 が 流 通 し、 価 格 に よ っ ては 手 形 で盛 ん に売 買 す る と いう先 物 取 引 のも と が始 っ た 。 そ の米 取 引 所 の 中 心 は 大 阪 堂 島 の 米 取 引所 であ っ たが 、 交通 が 盛 ん にな る に つ れ て 通 商 の 要 衡 の地 に 米 取 引所 が でき てい っ た 。 米 の先 物 取 引 に つい て江 戸時 代 に種 々 の出来 事 があ っ た が 、 こ こ で は割 愛 す る 。 幕 末 の安 政 六 ( 一 八 五 九 )年 か ら 慶応 三 ( 一 八六 七 ) 年 の八年 間 に、大 阪 市 場 の物価 は米 八倍 、 大 麦 四倍 、 小 麦 八倍 、 大 豆 八倍 、塩 九倍 など 騰 貴 し た 。 こ うし た経 済 状 況 で 明 治 維 新 と な っ た の で 激 し いイ ンフ レと な り 、 混乱 し た 。米 価 の 高 騰 の元 は ﹁ 相 場 会 所 ﹂ にあ り と し て政 府 は 閉 鎖 し たが 、基 準 がな く な っ た た め益 々 混 乱 し 、市 場 再 開、 閉 鎖 を 繰 り 返 し た。 し か も明 治維 新 によ って 俸 禄 を 取 上 げ られ た武 士 の 中 に は、 生 活 に 事 欠 く困 窮 が押 し寄 せ たも のも あ っ た。 明 治九 年 八 月 の米 商会 所 条 例 の 発 布 によ り 、東 京 の兜 町、 蠣 殻 町 に米 商会 所 が でき て競争 し たが 、後 に明 治 十六 ( 一 八 八 三 )年 に両 社 は 合 併 し て蠣 殻 町 にま と まり 、 明治 二十 六年 に は米 穀 取 引所 と な っ た 。 さ ら に後 に設 立 さ れ た商 品 取 引所 と 合 併 、東 京 米 穀商 品 取 引 所 と な って いる 。 一 11 一
の 江戸 が大 消 費 都 市 と な ると 、 大 阪 は江 戸 の消 費経 済 を 賄 う 供給 都 市 に な っ た 。大 量 の物資 を 大 阪 か ら 江戸 へ 輸 送 す る手 段 は船 に より 海 上 を運 ば れた 。 先 ず菱 垣 廻 船 が 一 六 一 九年 に 就 航 、 一 六 二四 年 に は大 阪 か ら江 戸 へ の定 期 輸 送 が始 ま っ た 。 そ の後 酒 や醤 油 な ど樽 物 を 運 ぶ樽 廻 船 が就 航 し 、 こ の 方 が 船 足 が早 か っ た の で 一 般 の 貨 物 も 輸送 す る よ う に な っ た 。 終 り に 代 え て 横 山 源 之 助 ﹁ 日 本 之 下 層 社 会 ﹂ を 読 む こ と が 遅 々 と し て 進 ま な い の は 自 分 で 承 知 し て い た 。 原 稿 の 期 限 を 延 ば し 延 ば し し て き た に も 拘 ら ず 、 余 り に も 量 が 少 な い こ と に 愕 然 と す る ば か り だ 。 現 在 ﹁ 生 活 学 概 論 ﹂ の 授 業 を 担 当 し て い る が 、 そ の中 で 生 活 の変 遷 を 通 し て 学 生 に 現 実 の 生 活 の 位 置 を 把 え さ せ た い と 思 って い る 。 物 質 的 に恵 ま れ た 日 々 の 生 活 で は 過 去 を 振 返 る な ど 、 若 い 人 は 考 え も し な い こ と で 、 第 二 次 世 界 大 戦 直 後 の 生 活 を 映 画 か ら ま と め た V T R を み せ る と 非 常 に 驚 き 、 ﹁ 今 の 時 代 に 生 ま れ て良 か った ﹂ と 感 想 を の べ る 。 明 治 三 十 年 代 初 期 、 そ し て ﹁ 下 層 社 会 ﹂ の状 況 が 、 こ のま 丶教 材 に使 え る わ け で は な い け れ ど も 、 ﹁ 使 い捨 て ﹂ 、 ﹁浪 費 ﹂ で 成 り 立 っ て い る 現 今 の 生 活 を 改 め て考 え る 糸 口 に な ら な い だ ろ う か 。 さ て 、 自 分 流 の 訳 を 行 っ て、 突 き 当 った 問 題 や 、 原 文 に つ い て 気 付 い た こ と を あ げ た い 。 一 、 原 文 は か な り 長 く 繋 が っ て お り 、 読 点 が 多 く 、 句 点 で の 区 切 り が 少 な い 。 最 近 の文 章 は 短 か め で簡 潔 で あ る よ う に 思 う 。 調 査 報 告 で あ り 、 美 文 調 で連 って い る わ け で は な い が 、 原 文 の ニ ュア ン スを い か し た い と 思 う と 長 く 続 い て す っき り し な い 。 文 章 の ス タ イ ル が 時 代 に よ っ て変 化 す る 、 と い う こ と であ ろ う 。 二 、 原 文 で は 強 調 す る た め の傍 点 が 多 く 打 た れ て お り 、 気 付 い た だ け で 四 種 類 あ る 。 し か し 今 回 は 全 て カ ット し た 。 三 、 既 に あ げ た よ う に読 み が な ( ル ビ ) が 余 り ふ って な い 。 小 説 と 異 な る の か 、 筆 者 の 特 徴 な の か 、 ( こ れ は 筆 者 が す る こ と か 、出 版 社 で す る こ と な の か 分 か ら な い ) そ の 時 代 に は 読 者 に 必 要 が な い こ と だ った か も し れ な い 。 四 、 そ の 他 にも 、 段 落 の 始 め を 一 マ ス 下 げ て い な い、 漢 字 や 送 り が な の 使 い方 が 一 貫 し て い な い 、 と い った こ と が あ る が 、 些 細 な 問 題 が 気 に な る の は 細 か く 見 る 現 代 人 の こ だ わ り が 大 げ さ に も 思 わ れ る 。 こ の 程 度 の 差 の た め に 文 の 意 味 が 不 明 と い う わ け で は な い か ら 、 テ ス ト や 入 学 試 験 の 多 い 現 代 が 窮 屈 過 ぎ る と も い え よ う 。 ﹁ 日 本 之 下 層 社 会 ﹂ に報 告 さ れ る 人 々 の生 活 は 現 在 で は 皆 無 と 言 い た い 所 だ が 、 そ う 言 い 切 れ る だ ろ う か 。 少 し 前 ま で東 京 新 宿 駅 西 口 の 地 下 道 に 並 ん で い た ダ ン ボ ー ル で 囲 ん だ 住 ま い や 、 山 谷 の人 た ち の生 活 を き く と 、 形 式 や 様 子 は 異 な って も 全 て 無 く な っ た と は 思 え な い 。 明 治 維 新 後 の社 会 の 急 激 な 変 化 に よ る ひ ず み の 面 も あ っ た ろ う が 、 江 戸 時 代 か ら 引 続 い て い た も の も あ った と 思 う 。 現 在 の 問 題 は そ れ 等 に 対 し て ど う 判 断 し た ら よ い の で あ ろ う か 。 本 文 に 登 場 し た 日 稼 人 足 の中 の ﹁ 立 ん 坊 ﹂ を ﹁ 乞 食 と 共 に 一 種 の イ ク ヂ ナ シ な り ﹂ と 書 き 、 労 働 を 嫌 い 、 食 べ る に 事 欠 く 程 で も 短 い時 間 で 僅 か ば か り の金 を 得 て お り 、 機 会 が あ って も も っ と 働 こ う と は 思 わ な い 様 が み え る 。 多 く を 望 ま ず 自 分 の 身 の 分 に あ った 暮 ら し で 満 足 す る な ら ば そ れ は 立 派 な こ と だ が 、 こ の場 合 は そ れ と は 違 う 。 豊 か な 今 日 の 生 活 で 、 充 た さ れ て い る こ と が 分 ら な い で自 分 の た め に 飽 く ま で 稼 ぐ の は 問 題 だ が 、 何 と か な る と い う 自 分 で 責 任 を と ろ う と し な い い き 方 、 (例 え ば 自 立 し な い で親 に 依 存 し て い る 生 活 等 )も 気 が か り な 所 だ 。 ﹁ 12 ﹁
明 治 三十 年 代 の社会 や 一 般 の 人 々の意 識 な ど に ついて私 の認識 が 不十 分 であ る こと を痛 感 させ ら れ た。 小説 な どを 通 し て こう いう点 を把握 す る等 し なが ら、 ﹁ 下層 社会 ﹂ の存在 を 冷 静 に み て い く 必 要が あ ると思 う。 こ の 研 究 に関 す る資 料 を 提供 、 示 唆 を 下 さ っ た 小熊 伸 一 氏 に厚 く 御 礼申 し上 げ ま す 。 ︹資 料 ・ 参考 文 献 ︺ 横 山 源之 助 、 ﹃ 日本 の下層 社 会 ﹄ 、岩 波 書 店 、 一 九 四九 年 。 中 川清 、 ﹃ 明治 東 京 下 層生 活 誌 ﹄ 、岩 波 書 店 、 一 九 九 四年 。 松 原岩 五 郎 、 ﹃ 最 暗 黒 の 東 京 ﹄ 、岩 波 書 店 、 一 九 八 八年 。 川 崎房 五 郎 、﹃ 新 版文 明 開 化東 京 -明治 東 京史 話 1 ﹄ 、光 風社 出 版 、 一 九 八 四年 。 井 上清 、 ﹃ 日本 の歴史 中 ﹄ 、岩 波 書 店 、 一 九 六 五年 。 東京 都 公 文書 館 、 ﹃都 市 紀 要 1 、江 戸 か ら東 京 への展 開﹄ 、東 京 都 情報 連絡 室 、 都 政情 報 セ ンタ ー管 理 部 セ ンタ ー管 理室 、 一 九 五 三年 。 木 原大 輔 、 ﹃ 商 品先 物 取 引 の基礎 知 識 ﹄ 、 時 事 通 信社 、 一 九 六 三年 。 古 地 図 、 ﹃ 明 治 二 五年 東 京 全 図﹄ 、 ﹁ 明 治 廿 五年 六 月 、大 倉 書 店﹂ 、古 地 図史 料 出 版 。 一 13 一
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第 一 都 會 の 牢 面 昌 一 第 二 三 貧 窟 の 戸 數 人 賽 及 特 質 七 第 三 日 稼 入 足 ' 一 二 第 四 入 力 車 夫 . 二 一 第 五 く づ ひ ろ ひ 二 五 第 亠 ハ 繭鸛 人 耐 ・曾 一 で 七 第 七 一 日 の 生 計 費 用 二九 第 八 貧 民 の 内 職 三 三 第 九 貧 民 巴 飲 食 三 四 辮弟 十 晶負 艮 ど 屋 賃 三六 第 十 一 融 通 機 關 三 入第 十 二 貧 民 の 家 庭 . 四〇 第 十 三 貧 民 ど 敏 育 四 三 第 十 四 木 賃 宿 . 四六
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天 涯 茫 々 生 横 山 源 之 助 著 第 内 編 東 京 貧 民 の 験 態 第 一 都 會 の 牛 面 東 京 市 十 五 區 、 β 數 二 + 九 萬 入 千 、 現 佳 入 ロ 百 三 十 六 萬 餘 . 其 の 十 分 の 幾 分 は 中 流 以 上 に し て 、 即 ち 生 活 に 苦 ま ざ る 入 生 の 順 境 に 在 る も の な る べ し ε 雖 、 多 數 は 生 活 に 如 意 な ら ざ る 下 層 の 階 級 に 屬 す 、 細 民 は 東 京 市 中 孰 れ の 區 に 肇 佳 み 、 其 の 數 幾 何 な 脅る や 知 る べ か ら ず ε 雖 、 東 京 市 全 躰 の 上 に て 、 細 民 の 最 略 多 く 佳 居 す る 地 を 畢 ぐ れ ば 山 の 手 な る 小 石 川 、 牛 込 、 四 谷 に 在 ち ず し て 本 所 深 川 の 爾 區 な る べ し○ 盖 し 本 所 深 川 の 爾 區 は 他 の 十 三 區 に 比 し て 舊 幕 の 時 代 よ り 自 ら 風 習 を 異 に し、 封 建 賻 代 の 特 色 疫 る 武 士 の 佳 居 せ る こ ど 少 な く 、 純 然 町 入 よ ・り 成 ム ・、 特 に 商 人 の 類 に あ ら ず し て 職 人 及 人 足 日 傭 販 の 一 般 勞 働 者 よ ウ 成 り 立 ち、地 形 の 上 に 隅 田 川 を 以 て 麗 劃 せ る ど 等 し く、 入 情 風 俗 も 一般 ど 異 な る も の あ り た りo 深 川 區 に て は 卆 民 一萬 六 千 七 百 七 十 一 入 に 野 し て、 士 族 は 漸 く 七 百 九 十 天 し か 住 居 せ ざ る が 如 き、 一 例 ど す べ し 。 臓 し℃ 劇 京 靜 猷 ヂ び 酊 職 ¢ 響 醗
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う す ら 淋 し き 東 京 の 田 舍 と も 稱 す べ き 本 所 深 川 よ ゆ 復 り て 居 城 の 下 、 互 閣 十 丈 、 憩 琵 麟 次 、 來 往 織 る が 如 き 熱 閙 の 東 京 市 に 於 て 細 民 の 佳 め る 最 も 多 き は 盖 し 淺 草 僵 か、 日 本 橋 區 ど 淺 草 鳫 ど は 東 京 市 中 生 活 杜 會 の 中 心 尢 う 、 神 田 本 郷 の 爾 區 は 幾 分 か 生 活 に 線 遠 き 書 生 に て 維 持 せ ち れ 、 瞭 橋 區 は 性 質 を 銀 座 邁 の 上 に 示 し て 皮 相 を 西 洋 に 取 う 、 麹 冊 區 は 諸 官 省 に て 維 持 せ ら る、 唸 沁 恥 斎 ゆ 於 で 験 曾 ひ増罫
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ド コ マイ 谷 區 、 細 民 の 佳 め る 少 か ら ず ど 雖 、 之 を 淺 草 區 に 比 せ ば 言 ふ に 足 ら ず 、 菘 葉 町 あ り 、 阿 部 川 町 あ り 、 木 賃 宿 の 群 集 せ る 淺 草 町 あ り 、 新 卆 民 の 部 蕗 な る 龜 '岡 町 あ う 、 紳 吉 町 、 新 輻 井 町 、 輻 井 町 、 北 富 坂、 町 、 新 谷 町 、 壽 町 、 南 菘 山 町 . 千 朿 町 、 聖 天 酊 、 北 清 島 町 、 橋 場 町 、 馬 道 町 、 三 間 町 、 吉 野 町、 今 戸 町 . 象 潟 町 、 田 町 、 並 木 冊 、 北 三 筋 町 . 田 原 町 、 松 山 町 等 、 就 中 多 く 細 民 の 佳 め る 處 、. 松 葉 町 、 神 吉 町 の 如 き 路 次 に 入 り て 佳 め る 慾 の を 探 れ ば 、 今 日 萬 年 町 に す ら 形 跡 を 潜 め し ( も ど よ り 外 面 の み 、 事 實 は 多 し ) 乞 食 が 軒 を 列 れ て 佳 み 、 オ モ テ に 店 を 張 る も の ど 雖 も , 多 く は 襤 覆 屋 の 類 の み 、 其 の 他 阿 部 川 町 の 如 き 清 島 町 の 如 き 路 次 に 入 ウ て 佳 民 の 衣 服 、 生 活 を 見 れ ば 鮫 河 橋 萬 年 町 に ・護 ら ざ る も の 累 々 π よ リ 0 然 り 、 數 の 上 よ う 言 へば 本 所 深 "川 を 除 い て 淺 草 區 は 最 慾 細 民 の 佳 め る 地 次 り と す 、 左 の 一表 は 各 區 人 力 車 夫 數 の 比 較 表 な う 、 三 十 一 年 一 月 の 調 査 に 係 るQ區 名 所 有 車 挽 借 車 挽 挽 子 總 計 麹町﹁區四入一 レ∼論ル九二入〇一 、 五亠ハ○ 瀰 田區九一〇三 、 エハ五一〇一 四 、 一七六 臼本橋區五一二九九五七五三二 、 二六〇 京橋區七三入一 、覧四入四〇入二 、 六九西 芝區入三入三 、 二五六八四 、 一 〇二 麻 布區一四九一 、 五二五iー一 、 六 四七 赤教區一〇三入゜二五一二九四九 四谷區二入四九九三 ⋮⋮ 一 、 二七七 牛込區 四三 ・七一 、 五三 〇亠ハ一 、 九 レ∼一 ご 小石川區三 ・七・七一 、 三 四三一六一 、・ 七二.六 本郷隨六四七一 、 入,一四七二二 、 五三三 下谷區一 、 〇二一二 、・ 七 〇六三入三 、 七六五 淺草區}、 五〇九三 、 九二 四一入五五 、 六一 入 本 所 區 発 主 二 、 三三 六 ー 三 、 二三三 凹 深 川 魎 蕘 三 二 、 〇 二二 三 四 二 、 入 九 八 ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ つ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ ぬ ヘ へ あ へ 職 業 を 以 て 下 層 民 を 區 別 せ ぱ . 東 京 の 都 會 人 足 B 傭 稼 第 一 位 に し て 、 入 力 車 夫 ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ハ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ め へ 之 に 次 く 、 右 衷 、 淺 草 區 に 入 力 車 夫 多 き は 注 意 を 要 すo 或 人 曰 く 、 東 京 市 中 那 處 に 行 き て 慈 路 次 あ う 、 少 し く 家 ど 家 ど の 問 に 路 の 通 ず る 慾 の あ り ど 思 へ ば 、 即 ち 其 の 裏 に 軒 を 列 ぬ て 長 屋 を 見 る は 淺 草 區 尤 も 甚 し ど 、 僅 に 淺 草 區 の 外 形 を 言 へ る に 邁 ぎ さ れ .扈 も 、 之 を 以 て す る 誌 淺 草 區 に 細 民 の 佳 あ る 多 き を 知 る べ し 期 く の 如 く 淺 草 區 に 細 民 多 き は 濺 草 公 園 巴 芳 原 あ る が 故 と す 、 余 輩 は 淺 草 觀 昔 に 朝 夕 所 念 を 凝 し て 果 し て 幾 何 の 功 徳 あ る や 之 を 知 ら ず 巴 雖 、 其 の 恩 澤 は 附 近 の 細 民 に 生 活 の 機 會 を 與 へ つ 丶 あ る な う、 細 民 に 同 情 あ る 者 感 謝 し て 可 な う 、 芳 原 の 如 き は 驃 見 を 導 き て 資 産 を 土 塊 に せ し む る 者 、 指 斥 す べ し 巴 雖 、 反 面 に は 細 民 に 若 干 の 便 宜 を 與 へ職 藁 を 與 ふ る も の、 亦 以 て 珍 な う と す 可 ら プ や ○ 以 上 は 東 京 市 全 躰 に 就 て 區 劃 の 上 よ う 其 の 下 居 を 概 觀 し 尢 る の みo 他 に 世 入 の ゆ タ ゆ り 眼 を 拭 う て 觀 る べ き 貧 民 部 吸 叩 あ り . 本 所 深 川 兩 區 、 及 び 淺 草 區 の 細 民、 '貧 は 即
ち 貧 な り ど 雖 も . 以 下 將 に 基 げ ん ぞ 、 す る 貧 民 部 落 の 如 き 甚 し き は 少 な く ・ 佳 め る は 概 ぬ 細 民 の 類 に し て 貧 民 を 見 る こ ぜ 稀 な う 、 且 た ど ひ 淺 草 區 に 松 葉 町 あ り 阿 部 川 町 等 あ り ど 雖 、 百 β 千 戸 群 を な せ る は な く 、 集 れ る ε い ふ も 數 十 戸 處 々 に 小 部 落 を 見 る に 過 ぎ ず、 未 だ 都 會 發 逹 に 俘 ふ、 病 的 現 象 だ る 貧 民 部 落 な ウ と 稱