1は やがて 東 アジア 地 域 にもおよんだ 近 代 化 の 潮 流 のなかで 浮 かび 上 がった 権 威 的 言 語 と 民 族 語 の 関 係 国 民 国 家 の 形 成 と 国 語 の 誕 生 の 関 係 という 文 脈 で 研 究 されるもので 1980 年 代 以 降 世 界 的 に

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(第Ⅱ部 報告3)

漢字文化圏の近代―その研究状況と具体例

遊佐 徹 (岡山大学) 1、 改めて確認、強調するまでもないことであるが、漢字は、東アジア地域、とりわけ本共 通善教育プロジェクトを推進しつつある日本・中国・韓国を中心とした地域それぞれの文 化の形成、発展、そして地域間の政治接触、文化交流において極めて大きな役割を果たし てきた。漢字は、それらの地域・国家において政治・行政、歴史、思想・文学等の活動を 支えるものとしてそれを使用した書写形式である古典中国語(漢文)とともに高い権威を 認められ、それがゆえに地域間、国家間の時空を越えた共通言語として君臨してきた歴史 を持ってきたのである。 このように、東アジア地域における漢字文化をベースとする文化的共通性の存在は容易 に理解することができるのであるが、一方で、その歴史が、近代において大きな転換点を 迎えることになったという事実もまた指摘されなければならない。 本報告では、近代において現出することになったその変化について、報告者の研究分野 (中国近代文化史研究)と理解がおよぶ範囲(したがって近代の日本と中国が中心となる ことをお許しいただきたい)でそれをテーマにする研究の動向を概観するとともに、変化 の状況をよく示すと考えられる実例のひとつを提示してみたい。 2、 東アジア地域の漢字文化が経験することになった近代における大きな変化について、日 本では 1980 年代以降研究が進展するようになった。その研究は次のようなふたつの方向性 を取って進んできたといえるだろう。 ①漢字文化の否定 ②漢字文化の再活性化 ①に関しては、漢字の母国である中国以外の地域・国家における漢字文化の相対化、も しくは否定を考えるものと、中国みずからによる漢字文化に対する反省を考えるものがあ る。また、②に関しては、地域間・国家間で漢字の存在によって進んだ欧米由来の近代的 知識・意識の伝播・共有の現象をテーマとするものが多い。

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①は、やがて東アジア地域にもおよんだ近代化の潮流のなかで浮かび上がった権威的言 語と民族語の関係、国民国家の形成と国語の誕生の関係という文脈で研究されるもので、 1980 年代以降世界的に盛んになった国民国家論と響きあう性質のものだといえる。この① が、民族語の運命や国語の誕生といった各地域・国家の言語と政治・社会の問題を扱いな がら世界規模で展開した国民国家の形成という近代のプロジェクトの存在を意識する傾向 が強いのに対し、②は、地域間・国家間のつながりに注目するテーマでありながら、研究 の中心に日本(日本語)を据えるという際立った特徴を持つ。それは、日清戦争(1894- 1895)の結果、日本が中国(清朝)に代わって地域の思想連鎖の結節環と見なされた(山 室信一『思想課題としてのアジア 基軸 連鎖 投企』[岩波書店 2001 年 東京])こと で、「新漢語」、「日訳漢語」等と称される近代日本においてその多くが創作され、また使用 された欧米由来の新しい知識・概念を漢字によって書き表わした翻訳語が漢字文化を共有 してきた諸地域で盛んに輸入され、広まったという経緯があったためである。以下、本報 告は、こうした特徴を持つ②に力点をおいて進めてゆくことにする。 3、 ②の研究の淵源は、実藤恵秀氏に求めることができるだろう。氏の一連の来日清国留学 生研究のなかで見出された「日本語彙の中国語文へのとけこみ」現象に関する研究(『中国 人 日本留学史』[くろしお出版 1960 年 東京])がそれである。この研究によって日清 戦争を契機とした日中間における新しい漢字語彙の共有現象とその具体像、およびそれが 果たした文化的、政治的、思想的役割に関するアウトラインが示されることになった。1981 年に出版された鈴木修次氏の『日本漢語と中国 漢字文化圏の近代化』(中公新書 1981 年 東京)は、そうした「近代」に新たに生まれた漢語語彙文化現象を正面から扱った本格的 研究の嚆矢である。該書は「三権」、「権利」、「義務」、「自由」、「自然」等の近代日本が新 たに必要とした漢語語彙の形成過程を明らかにしつつ、「漢字文化圏における近代は、日本 人のくふうになる「新漢語」が中核となって進められていると言っても言い過ぎではない」 という観点に立って中国の近代を捉え直そうという試みであった。 この立場は、その後の②の研究のひとつの潮流を形成し、近代日中思想文化交流史研究 のなかで繰り返し語られてゆくことになる(例えば、その代表的なものが山室 2001)が、 その一方で、言語学を専門とする研究者からは、この観点に対して批判や修正が加えられ てきた。近代以降の中国における日本の「新漢語」の導入現象は「事の一側面」を見たも のに過ぎず、より分析的、全面的な研究が必要であるとの立場に基づいてのことである。 その研究においては、そもそも中国で作られた「翻訳語」の存在や、それらがやがて日本 にももたらされることになったという事実の確認とそれらが果たした役割の探求や日中そ れぞれで生み出された「翻訳語」の形態そのものに関わる研究とそれらがどのような文化 交流の実際の相を示したのかについての研究を分別するべきことが主張されることになっ た。沈国威『近代日中語彙交流史』(笠間書院 1994 年 東京)、荒川清秀『近代日中学術

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用語の形成と伝播―地理学用語を中心に』(白帝社 1997 年 東京)、千葉謙悟『中国語に おける東西言語文化交流 近代翻訳語の創造と伝播』(三省堂 2010 年 東京)等は、そう した研究における重要な業績である。 さらに、研究対象を「新漢語」と見なすにせよ、「翻訳語」と捉えるにせよ、外来の概念 を「翻訳」するという作業によりそれらが帯びざるを得ない意味の「ズレ」に関しては、 翻訳論の立場からの柳父章氏の一連の研究がある(『翻訳語成立事情』[岩波新書 1982 年 東京]、『「ゴッド」は神か上帝か』[岩波現代文庫 2011 年 東京]))。 こうした日本における研究状況の現状に対し、中国においても近代日中語彙交流史は関 心を集めつつあるようである。ここでは、主に近代の辞書、百科全書に着目した鍾少華氏 の研究(『詞語的知恵―清末百科辞書条目選』[貴州教育出版社 2000 年 貴陽]、『中国近 代新詞語談藪』[外語教育与研究出版社 2006 年 北京])と文化史研究の大家である馮天 瑜氏の『新語探源―中西日文化互動与近代漢字述語生成』(中華書局 2004 年 北京)およ び氏の編集になる論集『語義的文化変遷』(武漢大学出版社 2007 年 武昌)を挙げておく。 加えて、是非とも指摘しておきたいこととして、近年におけるこの方面の研究の発展を 促す資料の充実がある。かつての唯一ともいえる翻訳語専門辞書『漢語外来語詞詞典』(上 海辞書出版社 1984 年 上海)に今では『近現代漢語新詞詞源詞典』(漢語大詞典出版社 2001 年 上海)、『近現代辞源』(上海辞書出版社 2010 年)が加わった。また、個別の漢 語語彙の研究目録として李漢燮氏の『近代漢語研究文献目録』(東京堂出版 2010 年 東京) という便利な労作がある。 4、 以下に示すのは、3 で確認した研究の動向を踏まえた日中語彙交流史研究の具体例―近代 中国における「世紀」という言葉の受容とその特徴、である。 歴史教科書で目にするだけでなく、我々も日頃利用する機会の多い 100 年をひとまとま りとして示す年代区分法である「世紀」は、本来、キリスト紀元に基づく時間尺度である ことから判るように、西洋キリスト教世界から我々のもとにもたらされた概念である。そ の概念に「世紀」という言葉を最初に当てたのは日本であったとされる。日本語における 「世紀」の受容、定着に関しては、すでに広田栄太郎氏の「「世紀」という語の定着」を始 めとして数多くの研究、言及がある。それらによれば、幕末以来様々な言葉に訳されてき た century に対し、「世紀」という訳語が現われた最初は明治九年(1876 年)のことで、そ れが定着し、盛んに用いられるようになるのは明治十五年(1882 年)頃からということに なる。前記、実藤恵秀氏は、この「世紀」が中国にもたらされて定着したと指摘し、一般 にもそのように考えられているようである。しかし、厳密にいえば、晋の皇甫謐に『帝王 世紀』という書物があるということからも判るように語彙としての「世紀」は中国を出生 地とする。その意味で、「世紀」はいわゆる「回帰語」=日本語に借用されそこでの使用と 意味変化を経た後、その新しい意味を伴って再び中国語に導入された語彙(千葉 2010)と

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いうことになるが、その一方で、中国人達が独自に‘century’の概念を中国語に移し変え ようとしていた事実もある。以下に挙げるのはその例である(網かけ部分参照)。 ○唐才常「論各国変通政教之有無公理」 光緒二十三年(1897 年) 将来二十周文致太平之地球。 ○厳復『天演論』巻上 光緒二十四年(1898 年) 復案、西人有言、十八期民智大進歩。 ○厳復「斯密亜丹伝」 光緒二十七年(1901 年) 当十七稘中葉、英国国論最淆。 ○柳亜子「哀女界」 光緒三十年(1904 年) 廿紀之風塵、盤渦東下、漫漫長夜、漸露光明。 とはいえ、結局、中国においても日清戦争後「世紀」が‘century’の訳語として急速に 定着してゆくことになる。その趨勢を決定づけたのは梁啓超の存在であった。梁啓超は、 光緒二十二年(1896 年)から『時務報』に連載を開始した「変法通義」の一篇において「世 紀」を「西人以耶穌紀年自一千八百年至九百年謂之十九世紀」という注を付けて初めて中 国に紹介し、またその後、自身の言論活動のなかで積極的に使用した。当時の梁啓超の言 論活動が清末の言論界に持った影響力は圧倒的ともいえるものであり、それが中国におけ る「世紀」の定着を促したのである。 「世紀」という言葉を近代日中語彙交流史においてテーマ化する時、ひとまず以上のよ うな整理が可能であろうが、さらに思想文化史的観点に立つ時、「世紀」の定着、使用の現 象にはまだ解明すべき謎があることが判る。その謎は、五四新文化運動の担い手のひとり である銭玄同が 1919 年に雑誌『新青年』上に発表した西暦の採用を訴えかけた言説のなか の以下のような部分から読み取ることができる。 ○現在雖然還有人対中国用基督紀年不免要懐疑、可是「二十世紀之中国」這様字様、他 已経是「司空見慣」、覚得毫不足奇。而一面又要反対中国用基督紀年、豈不是「知有二五而 不知有一十」嗎。 いま、中国がキリスト紀元紀年を用いることについて、それでもなお疑問を抱くひとがい るが、そのひとは「二十世紀之中国」といった文言については「見慣れてしまっていて不 思議に思わない」のである。それなのに一方で中国がキリスト紀元紀年を用いることに反 対するのは、「2×5を理解しながらそれが 10 であることを知らぬ」ようなものではない だろうか。

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この一文は、中国において「世紀」がその母胎であるキリスト紀年紀元とは異なる形で 中国社会に受け容れられ定着した時間尺度であったことを教えてくれるものである。こう した「ズレ」はどうして生じたのだろうか。この問いに答えるためには改めて「世紀」の 使用例を検討し直す必要がある。 紙幅の関係で具体例を示すゆとりはないが、梁啓超をはじめとする中国人達の「世紀」 使用例は極めて多い。それらを分類整理すると、以下の 3 種類に分けることができそうで ある。第1種は「十四、五世紀」や「十八世紀」等自己と他者が共有する歴史時間として 使用したケース。第2種は現時点、現在の意味で使用したケース。そして第 3 種は自己と 他者にともに訪れ来る未来の意味で使用したケースである。第 2 種と第 3 種の場合、実際 の表現形式は「二十世紀」の形を採ることが多い。いま注目すべきはこの「二十世紀」と いう用法である。 中国においてこの「二十世紀」という表現が頻出するようになった時期とは、まさに西 暦で 20 世紀を迎えようとする/迎えた時分であったので、一見、この事実には何等不思議 なところはないように思われる。しかし、それらが多く次のような形を取って用いられて いたことを考慮に入れる時中国人達にとって「二十世紀」が特定のイメージを帯びた言葉 であったことが見えてくることになる。 ○雨塵子「論世界経済競争之大勢」(『新民叢報』第 11 号 光緒二十八年六月[1902 年7月] 十九世紀、為欧人内部競争之時代、二十世紀、為欧人外部競争之時代。 19 世紀は、ヨーロッパの人々がその内部で競争する時代であったが、20 世紀は、彼 等がその外の世界で競争する時代である。 ○劉師培「白種之侵入」 光緒三十一年(1905 年) 嗟乎、二十世紀以前之中国、為漢族与蛮族競争時代、二十世紀以後之中国、為亜種与欧 種競争時代。 ああ、20 世紀以前の中国は、漢民族と野蛮民族の競争の時代のなかにあったが、20 世紀以降の中国は、アジア人種とヨーロッパ人種の競争の時代に突入したのである。 つまり、「二十世紀」とは、世界規模で繰り広げられる「競争」の時代だというのである。 中国がその「二十世紀」の世界に身を置いているということは、世界規模の「競争」に身 をさらすことに他ならない。そうした認識が、近代の中国人達の間に広く行き渡っていた ものであることは、それを巡るひとつの共通イメージの存在から判断することができる。 それは以下のようなものである。 ○梁啓超「論民族競争之大勢」(『新民叢報』第2~5号 光緒二十八年一月~三月[1902

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年2月~4月]) 此新世紀中、民族競争之大勢、全移於東方、全移於東方之中国、其潮流有使之不得不 然者耶。而立於此舞台之中心者、其自処当何如矣。 この新しい世紀において、民族間競争の状況が、完全に世界の東方、それも東方の 中国へと移りきたるのは、その大潮流を押し留めることができないものがあるからではな いだろうか。とすれば、この舞台の中心に立つ我々はどのように対処すべきであろうか。 ○侯生「哀江南」(『江蘇』第 1 期 光緒二十九年四月[1903 年4月]) 践十九世紀之階段、登二十世紀之舞台、一競争至烈之時代也。循優勝劣敗之例、演強主 弱奴之劇。 19 世紀の階段を踏みしめ、20 世紀の舞台に登れば、そこはひとえに競争熾烈の時代で ある。優勝劣敗の法則に従い、強主弱奴の芝居を演じるのだ。 ○雲窩「教育通論」(『江蘇』第3期 光緒二十九年五月[1903 年6月]) 今之世界、既為黄白二種競争之世界矣。……世界大勢既趨於白種人之手。則此二十世 紀之活劇、将愈演愈新、愈争愈烈、而終定一尊之局、我国民当震動其所帰。 今日の世界は、すでに黄白2人種間の競争の世界である。……大勢はすでに白色人種の手 中に握られつつある。この 20 世紀の活劇は、演じる程に展開が予想できず、その良し悪し を争う程に激しさを増すことだろうが、やがては最終勝利者が決し、我が国民はその勝利 の帰趨に震撼することになるだろう。 ○湖南之湖南人(楊篤生)「新湖南」 光緒二十九年(1903 年] 夫今世界既入二十世紀之舞台、則第二等国以下必不能於地球上有挿立国旗之地、此稍知時 局者之所同認也。 今日世界はすでに 20 世紀の舞台にうえにおり、今後2等国以下にこの地球上に国旗をはた めかせる余地がないことは、時局に対し少しでも知識があるものの共通認識である。 すなわち、彼等は、世界規模の「競争」の時代である「二十世紀」を「二十世紀之舞台」、 「二十世紀之活劇」といった言葉で表現したのである。 中国において、「舞台」や「芝居」のアナロジーをもって人生や世のなかを語ること自体 は決して珍しいことではない。おそらく、上記の表現もそうした伝統を背景に生み出され たものなのであろうが、重要なのは、「二十世紀」を冠したそれらに籠められた意味である。 それを諸言説の内容をまとめる形で書き表せば、「二十世紀之舞台」のうえで繰り広げられ る「活劇」とは、激しい「生存競争」であり、「優勝劣敗」、「強主弱奴」といった言葉によ って容易に想像が付くように、その「活劇」の演出家は当時主流思潮となっていた「進化 論」、役者はもちろん中国を始めとする世界の国々、民族である、ということになるだろう。

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ここに至って、「二十世紀」が当時の中国人達にとって、他の「世紀」とは異なる特別な意 味を帯びた言葉/時間であったことが理解できることになる。すなわち、彼等にとって「二 十世紀」とは進化の公理が支配する時代だったのである。 周知のごとく、中国に進化論が本格的に紹介され、一種の流行状況を惹き起こすように なるのは、厳復の『天演論』が正式に刊行(光緒二十四年[1898 年])されて以降のことで ある。進化論が、近代の中国人達に強く支持された理由は、それが彼等によって国家、民 族の優劣、盛衰を説明し得る普遍的な理論として受け止められたからにほかならない。そ の普遍的理論が中国にも適用されるためには、当然中国も普遍のなかの一員、すなわち「世 界のなかの中国」でなければならないはずである。中国において、期せずして進化論とほ ぼ時を同じくして受け容れられた新しい時間尺度「世紀」が、「世界を貫く時間」として確 固たる地位を占めてゆくことになった理由もそこにあったといえるだろう。そして、その 進化論が、まさに日清戦争後の文明秩序の再構築の必要性のなかで受容されていったこと で、元来、単なる歴史年代の指標のひとつに過ぎない「二十世紀」も特化され、中国近代 において特別な意味を付与されて用いられるようになったのである。それはすでに示した ものも含めいくつか指摘できるが、そのなかでも重要なものは次のような意味における使 用法であろう。 ○「二十世紀」がもし進化論に貫かれた時代であるのなら、「二十世紀」は生存競争の暗 黒面、否定面ばかりでなく、光明と希望ももたらす時代でもあり得るだろう。世界の公理 としての進化論は、列強の侵略のもとで呻吟してきた中国、中国人に復活、再生の可能性 を保証するからである。 以下に引く梁啓超のふたつの使用例や、同時代中国人達の言説には、いずれもその明る さと希望が満ち溢れている。 ○「横浜清議報叙例」(『清議報』第1冊 光緒二十四年十一月[1898 年 12 月]) 蓋我支那数十年以来、正如厳冬寒冱、水沢腹堅、……自此以往、其必有仁人志士、前仆後 起、以扶国家之危于累卵者、安知二十世紀之支那、必不如十九世紀之英、俄、徳、法、日 本、奥、意乎。 我が支那は、数十年来、厳冬の寒さに水沢が厚く凍りついたようなありさまであった が、……このこと(戊戌政変での譚嗣同の犠牲)があって以降は、必ずや仁人志士がその 跡を継ぎ、国家の累卵の危機を救うことであろう。だから、20 世紀の支那が、19 世紀のイ ギリス、ロシア、ドイツ、フランス、日本、オーストリア、イタリアに及ばないとどうし ていえようか 26。

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○「論中国人種之将来」(『清議報』第 19 冊 光緒二十五年五月[1899 年6月]) 中国人種之性質、与其地位、決非如土耳其、印度、阿非利加之比例。……他日於二十 世紀、我中国人必為世界上最優勢力之人種、有可豫断言者。 中国人種の性質と地位は、決してトルコ、インド、アフリカのそれと同等視することはで きない。……他日、20 世紀において、我々中国人が必ずや世界で最も優力な人種となるで あろうことは、予め断言できることである。 ○薛錦江「二十世紀之中国」(『童子世界』第 25 期 光緒二十九年四月八日[1903 年5月4 日]) 二十世紀之中国、必有振興之一日、必有与白種不両立之一日。 20 世紀の中国には、必ずや隆盛の日が、必ずや白人との間の競争に決着が付く日が 訪れる。 ○漢種中之漢種(蔡寅)「駁革命駁議」(『蘇報』光緒二十九年五月十七日[1903 年6月 12 日]号) 使有人決此籓籬、昌明大義、二十世紀之中国、何詎不如十九世紀之欧洲乎。 もし中国の民がこれらの障碍を乗り越え、革命の大義を広めてゆくことになれば、 20 世紀の中国がどうして 19 世紀のヨーロッパに及ばないことがあろうか。 ○衛種「二十世紀之支那初言」(『二十世紀之支那』第1期 光緒三十一年[1905 年]) 輸入国民之脳、使其有独立自強之性……使我二十世紀之支那、進而為世界第一強国。 人々に国民意識を植え付け、独立自強の精神を持たせれば……我が 20 世紀の中国を 遂には世界第一の強国に押し上げることができるだろう。 すなわち、「二十世紀之舞台」のうえで中国が演じる芝居は、大団円をもって幕を下ろす というのである。 中国近代において、「世紀」は単に目新しい時間尺度として受け容れられたのではなかっ た。それは、中国の自存自強の道の模索に密接に関わる――現状に対する認識を厳しく迫 るとともに、現状からの脱却と復活の可能性を保証する――時間として受け容れられたの である。 ◎2、3についての補足 ・明治日本においては、漢字文化圏からの離脱が図られながらも、その一方で「漢文」、「漢 学」が流行するという興味深い現象も見られた(斉藤希史『漢文脈の近代 清末=明治の 文学圏』[名古屋大学出版会 2005 年 名古屋])。 ・近代の東アジアの漢字文化圏における語彙文化交流については、近年西洋人の関心も高

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まってきたようである。以下のような中国語訳された業績がある。 [伊]馬西尼(Federico Masini)『現代漢語詞彙的形成―19 世紀漢語外来詞研究』(漢語大 詞典出版社 1997 年 上海) [独]郎宓榭(Michael Lanckner)等『新詞語新概念:西学訳介与晩清漢語詞彙之変遷』(山 東画報出版社 2012 年 済南) (以上)

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参照

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