ヘルバルトによって「理論と実践の中間項」と名付けられた「教育的タクト」は、その 後ドイツのとりわけ精神科学的教育学の伝統において論じられてきたにもかかわらず、20 世紀に入ってから軽視されるようになった。徳永がムートの論を引きつつ指摘していると ころによれば、その理由は20世紀初頭の「改革教育学」によりヘルバルト学派の教師中心 の教育学が批判され拒否された際に教師の「技術」としてのタクトが呑み込まれてしまっ たこと、さらにタクトという現象が自明的であるために、学問的反省の対象となりにく かったこと、そしてタクトの「不随意性」ないし計画不可能性という主に 3 つに集約され るという1 )。しかし、子どもの学びを中心に据えた教育のあり方を模索するときこそ、予 測不可能な個々の状況において子ども(達)の未来の善に向けてよりよい行為を成し得る という意味での「教育的タクト」の重要性が再認識されるべきであろう。 本稿ではまず、「天賦の才」「ギフト」とも称されてきたこの「教育的タクト」の養成可 能性について前田博の議論を中心に検討し、ヴァン=マーネンの「教育的思慮深さ」の養 成と関連づけて考察を行う。さらに、教職課程の授業において筆者が実施している試みに ついて検討を行う。具体的には、ヴァン=マーネン(M a x v a n M a n e n , 1942−)の現象学 的教育学の手法とコルトハーヘン(Fr e d K o r t h a g e n , 1947−)のリアリスティック・アプ ローチの手法を融合させつつ、実習の事前事後指導、教職課程における講義科目やゼミな どの演習科目での取り組みの検討を行い、教育的タクトの養成の方途を探る。 1 教 タ 1 教 タ の 要 教育的タクトの養成について検討する前に、その構成要素について幾人かの議論を整理 する。 篠原助市は、「個性の理解は教育の重要な条件であるが、それ自身教育ではない。教育 学の示す一般原理を、個性と個性のおかれた環境に照らし合せて適宜にしかも即座に応用 するところに教育の技術は存し、個性の理解は其の一つの契機(重要ではあるが)たるに 止まる」とし、個性を理解することは重要ではあるがそれを即座に応用することによって
教育的タクトの養成に関する一考察
─教職課程の授業との関連から─
村井 尚子
こそ教育の技術が花開くと述べる。すなわち「教育一般の原理を個性と個性のおかれた環 境に照らし合せてしかも即座に応用すること」を「教育的タクト」と名づけるのである2 )。 篠原のタクト論においては、個性の理解とその即座の応用の 2 つの側面が重要な要素と言 える。 これに対してシュナイダーは、①生徒の全状態に注意して之を包括的に把握し、②正し い教育的理念と正しい教育的心術及び教育的精神態度を有し、③如上の包括的な注意と教 育的心術によって正しいと認められた行動を実現するための正しい手段の選択と適用の 3 つを挙げている。またシュルツは、①瞬間的に問題となる諸関係の迅速な概観であって、 そのためには強い注意力が必要である②理念の知識、一般的な規則の知識が必要であって、 それがなければすなわち教育的行為の普遍的規範についての知識がなければ、教育的タク トは活動することができない③特定の場合に正しいと認められる行為を実行するための手 段の正しい選択3 )と述べている。前田は、この 3 人の教育学者による教育的タクトの構 成要素を次のように関連づける。シュナイダーやシュルツの①は篠原の個性の理解に、③ は「即座」という時間軸に違いはあるものの篠原のいう応用の部分に匹敵すると言えるだ ろう。しかし②に関しては篠原にはなく、特に教育的タクトの「構成要素」に数えられる べきか否かが問題となるべきだと前田は問いかける。そのうえで、「しかしそれが少なく とも背景・地盤であり、またそうあるべきことはいうまでもないし、そしてそれがなけれ ば教育的タクトは十全に機能を発揮することができないであろう」と述べ、「正しい教育 的理念と正しい教育的心術及び教育的精神態度」がタクトの構成要素として不可欠である と結論づける4 )。 前田のここまでの論考からは、教育的タクトの構成要素は上の 3 つであるとされた。こ れに対してヴァン=マーネンは、タクトを構成している適合性の存在論的な区別として次の 4 つを提示している。「教育的敏感さ(p e d a g o g i c a l s e n s i t i v i t y )」「教育的な感覚(p e d a g o g i c a l s e n s e )」 「教育的判断(p e d a g o g i c a l d i s c r e t i o n )」「教育的行為(p e d a g o g i c a l a c t i o n )」がそれである。 以下に内容を詳しく見て行く。 〈教 〉 タクト豊かな教師が備えている教育的な敏感さは、子どもの内的な生を「即座に動機や 理由、結果の関係を通して見る能力」のことを言っている。この能力によって教師は、内 的な思考、理解、感情、欲求を身振りや顔つき、表現、ボディランゲージといった間接的 な手がかりから解釈する。 〈教 〉 ここで使われている「感覚」という語は、子どもの内的な生活がどのような「心理学的 社会学的な意義」をもつのかを解釈する能力を指す。例えば、「特定の子どもや子どもの 集団との具体的な状況において内気、 藤、興味、障害、柔軟さ、ユーモア、試練のもつ より深い意義をどのように解釈するかといった感覚をもつ」。
〈教 〉 判断のために求められるバランス感覚を備えているのがタクト豊かな教師の特性である とされる。 〈教 〉 ここで「教育的」という語が用いられるのは、ヴァン=マーネンが何度も強調する教育 の倫理的な意味合いにおいてである。「タクトは活動的な倫理的直観によって特徴づけら れる。タクト豊かな教師は、子どもの本性と情況への鋭敏な教育学的理解に基づき、どの ような行為が正しい、あるいは善いかを即座に感知する能力を持っているようだ5 )」。 上で見てきたドイツ教育学の議論および篠原の議論をヴァン = マーネンの分類と比較 してみると、大変近似していることが分かる。つまり、篠原=シュナイダー、ショルツの ①は、ヴァン = マーネンでいえば教育的敏感さと教育的感覚であると言えよう。さらに、 篠原の即座の応用=シュナイダー、シュルツにおいては時間的な規定はないものの③にあ てはまり、ヴァン=マーネンの教育的判断と近似している。ヴァン=マーネンにとっては、 教育における時間性は何よりもいずれにも通底する最重要なテーゼであるため、あえて構 成要素には含まれていない。そして前田の議論において問題となっていた②の教育的な理 念、精神態度はヴァン=マーネンにおいては教育的行為として同定されている。ただしこ こで特筆すべきは、ヴァン=マーネンの 3 番目の構成要素である教育的判断に「距離」と いう概念が用いられている点である。これはノールの教育関係論の影響を強く受けての概 念形成であると考えられる。教師と生徒の距離については、別稿に譲ることとし、再び前 田を参照しつつ、教育的タクトの養成可能性について考えていきたい。 2 教 タ の の の 教育的タクトの養成についてはこれまで多くの主にドイツ教育学の研究者たちが議論し てきた。前田は、レブレやナトルプ、ケルシェンシュタイナー、エッガースドルファーら の論考を引きつつ、教育的タクトは生まれつきの素質ではあるが育成(前田は「育成」と 呼んでいるため、ここでは育成とする)することができるし、育成しなければならないと 結論づける。天賦の才能による部分も認められるが、「『自然の天賦がほんの少しでも存し ている場合には』これをのばすことは可能であり、また天賦の素質があっても練磨育成せ られなければ教育的に望ましい機能を発揮することができない6 )」。このことを逆から考 えれば、天賦の素質が全く存しない場合には教師として教育的タクトをもって行為するこ とが困難であるが、天賦の才能をほんの少しでももって生れついた多くの人にとっては、 その才能の多寡によって必要とされる練磨育成の度合いは異なるものの、教育的タクトを 身につけて子どもとの状況においてより子どもにとってよい方向へ向けて行為することが 出来るようになるといえる。 育成するためには単に理論を修得するだけでなく、「経験」あるいは「練習」といわれ
るものが必要となる。練習は、先に見た教育的タクトの構成要素に従えば、「その都度の 与えられた関係を迅速に徹底的に注意する」ことの練習、すなわち観察の練習と、「適切 な判断を実行するための最善の手段を確実に選択する」練習、つまり狭義の教育実習や教 育の実践に分けられる。ただし、観察の練習は系統的な理論の学習と並行して行われねば ならないし、教育技術の錬磨も教育学的思考の訓練を伴うものでなければならない。それ ゆえ、前田はシュナイダーのいう「行われた教育的行為を常に批判的に反省しつつ」練習 することの重要性を強調している。この練習は、先にみたように教育的本能とも呼ぶべき 天賦の才能の多寡によってその必要性が異なるとされるが、今日の教育制度の下で必要と される多数の教員を供給するためには、「教育的天才でない一般人をしかも比較的短期間 に教育者として育て上げなければならない」。それゆえ、おのずから体得するのをまつだ けではなく、意図的計画的かつ効果的な助成が求められる。 この練習はしかも、「科学的理論を身につける」という「準備」を必要とする。なぜな ら、科学的理論を身につけることによって、単なる「かん」や「こつ」にとどまる弾力性 のない、視野の狭い、固定し易い惰性的なものに陥らず、真に知性的な教育活動の「突 端」の名に値することができる7 )。 ここで前田が前提としている「科学的理論」とは、「単に方法的技術的な分野のみを意 味するのではなく」、「事実の実証的研究から更に哲学的反省に及ぶ教育学的思考の全領 域・全段階を含むものであることはいうまでもない8 )」。すなわち「科学的」とはドイツ 語でいえば「学問的 w i s s e n s c h a f t r i c h 」であり、いわゆる実証主義を背景とした科学のみが 前提されているわけではないことを念のために確認しておく。 ドイツ教育学の影響の下に前田が提示する「手掛かり」としての理論は、心理的類型と 類型的な教育技術である。前者は、発達心理学の知見を援用した幼児・児童・青年の発達 段階のそれぞれにおける類型的特徴や男女の性別、農村の子供(原文ママ)と都市の子供 (同)というような類型の研究などが考えられる。これらは個々の子どもの個性の理解に 対する手引きとなり得る。ただそれだけでは「『今ここに』必要な教育的処置をさがしあ てる」ために十分とはいえない。そこで、後者の教育技術の類型が教育的タクト成立の手 がかりとして不可欠なのである。前田はこの二つを医術における診断と治療になぞらえて いる9 )。 すなわち、教育的タクトを養成するためには、教育実習などの実践における観察とそこ で行われている教育的行為への「批判的な反省」の練習、そして「事実の実証的研究から 更に哲学的反省に及ぶ教育学的思考の全領域・全段階を含む」「科学的(学問的)理論」 がそれを相即的に支え補う必要があると言える。
2 ン タ の 1 の の 金井・楠見らは様々な分野で活躍する熟達者(エキスパート)のもつ実践知の研究を 行っている。ここで主題として扱われる実践知は教育的タクトと全く同じではないが、言 語化、意識化されにくい知(暗黙知)という点で教育的タクトと通底する部分が多いと言 え、その獲得の過程は参考になるだろう。楠見によれば、実践知が獲得される学習のあり 方として①観察学習:モデルとなる先輩、熟達者に注意を向けてその行動を保持し適切な ときに実行したり、模倣したり、仕事のスキルを盗んだりすることで学ぶ。②他者との相 互作用:熟達者と初心者との相互作用(熟達者がモデルとなって優れた実践活動を示し、 初心者が模倣し、熟達者がそれにフィードバックを与えることで修正する)プロセス。③ 経験の反復で、意図的な経験の反復と無意図的な経験の反復に分けられる。意図的な経験 では、長期的な計画を立て、学習者自身が結果の省察を行う。単なる反復練習のみならず、 省察の結果に基づいて新たな課題に挑戦する必要がある。無意図的な経験は潜在学習とよ ばれ、質の高い経験を反復する中で自然に会得される高度な技や直観もある。④経験から の帰納と類推⑤メディアによる学習の 5 つが挙げられる。 ここで我々がとくに参考にしたいのは①の観察学習と③の意図的経験の反復と省察、そ してそれを支援する他者(教師教育の場合であれば養成課程の教師や同級生、先輩、同 僚)との相互作用ということになるだろう。楠見は省察を振り返り的省察、見通し的省察、 行為の中での省察に分類し、これらの省察を組み合わせることによって経験からの学びを 深め、熟達化の過程をたどるとしている10)。これまでも繰り返し述べてきたが、熟達した 教師の実践において行為の中での省察11)は頻繁に行われてはいるものの、意図的かつ計 画的な省察という点で見た場合、可能かつ必要となるのは振り返り的省察とそれを承けて の見通し的省察となるといえる。 2 ー の教 の の ケッセルズとコルトハーヘンは、大学の教員養成課程で実習生を教育するにあたって教 員の言語と学生の経験とに架橋し難い隔たりがあることを指摘する。クラス全体をマネジ メントすることには問題ないが、生徒たちと個人的な関係性を築くのが難しいと答えた学 生に対して、様々な「アドバイス」、例えば「教室内を歩き回るようにする、個々の生徒 とのちょっとした会話から授業を始める計画を立てる、個々の生徒への課題を増やす、授 業の後に生徒と触れあう、最新の文献にあたってみる」、といったアドバイスをしたとし ても、学生には響かないことが多い。すでにどの試みもやってみたが「私の場合には、ど うやってもうまくいかないのです」といった答えが返ってくる。ほとんどの教師教育者に とって、こういった状況は思い当たる節があるだろう。教師教育者にとって自明と思われ ることが実習生にとってはそうではなく、我々にとっては実践に直接適用できると思われ
ることが他の人には抽象的、理論的過ぎて大きく外れてしまっている。我々にとっては明 らかで容易に理解できる事柄が学生にはうまくいかない12)といった諸々の事例である。 この課題を説明するために彼らは、エピステーメとフロネーシスの二つの知の形式のあ り方を取り出す。個人間の行動の理論的モデル、システム論、動機付け理論といった固定 化され、真理であると考えられるような強い理論的基礎を伴う、一般化された抽象的で広 く受容される知としてのエピステーメを、我々は教師教育学や社会科学の研究文献によっ て手に入れ、そしてこういった知の概念は我々の選んだアプローチを基礎づけるものとし て存在している。「問題は」とケッセルズとコルトハーヘンは提起する「これを学生に見 させるようにすることである13)」と。すなわち、学生にこのようなエピステーメとしての 理論知を実際の教育の場において適用できるようにさせることが教師教育の大きな課題と 言える。このことは、ヘルバルトがすでに指摘しており、その後ドイツ教育学において連 綿と議論されてきた教育における理論と実践の乖離そのものを示している。ヘルバルトは 「理論と実践を繋ぐ中間項」が「教育的タクト」であると規定していた。ケッセルズとコ ルトハーヘンにおいては、理論と実践を繋ぐ仕掛けとしてフロネーシスが提示される。 「変化に富んでいて、個別的で、その本性において知覚的であることによって、本質的 に不確定で不明確である」実践において、応答性と柔軟性を要求するのがフロネーシスで あり、「状況を知覚すること、その評価をすること、判断し、一連の行為を選択すること、 その帰結に向き合うこと」を可能にする14)。そしてこういった知は「専門家から切り取る ことができ、その人から抽象化され、学生の前にある黒板に書き出され、純粋に概念的な 形式で紙に書き写され、読むことができる文章としての洞察」とは異なるものである。 こういった形式の知を学生たちに獲得させるためには、「その学生が実際に何を意識し ていたか、その問題状況においてどのような細部を見ていたのか、どのような反応をした か、どのように感じたか、何を考えたか」といった「実習生の経験の込み入った部分への 観察」を促す。「いくつもの概念を教え込む」「一連の一般的なルールを提示する」ためで はなく、「学生が見ることを援助するため」、「彼や彼女の近くをより研ぎ澄ます援助をす るために」「彼や彼女の暗黙知を見えるように援助するために」我々はそこにいる。そし て、それはプライベートなリフレクション、スーパービジョン、小グループでのディス カッションによって行われる15)。 金井/楠見の実践知も、ケッセルズとコルトハーヘンのフロネーシスも、省察を通じて 初学者に獲得されていく部分が大きいことがわかる。ここで、ヴァン=マーネンが分節化 している省察の水準を検討していくことで、教育的タクトを養成する際に有効となる省察 のあり方を明らかにしていきたい。 ン ー ン の の ヴァン=マーネンは、省察を以下の 4 つの水準に分節化している。
⑴一部は慣習化され、また一部はルーチン化され、また一部は直観的、前反省的、ある いは準反省的な合理性に基づく日常的な思考と行為─我々の日常の生のうちに組み込まれ た常識的な考察と行為の水準。 ⑵偶発的かつ限定的な仕方で行われる日常生活における実践的な諸経験への省察─自分 の経験を言葉に置き換えたり、自分の行為に説明を加えたりする。出来事について順を 追って話したり、ストーリーを語ったり、経験則や実践的な原則、するべきこととしては いけないことといった、限定的な洞察を定式化したりする。 ⑶より体系的かつ継続的な仕方での自分自身や他者の経験への省察─日常的な行為への 理論的な理解や批判的洞察を深めることを目指す。省察の対象である現象にさらに意味を 付与するために現存の理論が使用される。 ⑷自分達が理論化の形式を省察するその仕方への省察─知識の本性、つまり知識が行為 においていかに機能するか、自分達の実践的な行為を能動的に理解する際にいかに知識が 適用可能かといったことについて、我々はより自己反省的に把握できるようになる。教育 者にとっては、より思慮深く、反省的に行為するためだけでなく、反省的な経験や我々が 用いている知識の型の本性と意義を理解するためにも重要である16)。 教師の専門性を規定する際に、反省、省察、リフレクションといった術語を用いて行わ れている行為が⑴の水準であることは稀であると考えられる。多くは⑶の現存の理論を用 いて経験に意味を付与する仕方で体系的に行われていよう。あるいはそれほど体系的でな い、日常的に「振り返り」といった用語で行われるような⑵の偶発的な省察もまた、経験 の意味づけという点では重要な意味をもつとも言えるだろう。しかし、教育的タクトを培 うためには、⑶の体系的な仕方での省察および⑷の水準の、省察の仕方自体を省察する、 つまりメタレヴェルの省察が大きな意味をもつと考えられる。ヴァン=マーネンは、ラン ゲフェルトの教育学の本質規定を受け継ぎ、「大人が子どもとともに生きているところで、 それらの子どもの幸福や成長、成熟、発達のために行われている全ての営み17)」と定義さ れる教育(p e d a g o g y )という語を用いる。この定義に従えば、教育的に(p e d a g o g i c a l l y ) 行為することとは「大人が子どもの人格的な生成においてなんらかの正しいことを行う18)」 極めて価値的な行為と言えるのである。 しかし上述のように我々は、教育が行われている場で、「何が子どもにとって何が善い (あまり善くない)かを行動的、省察的にいかにして区別するかを常に知っているわけで はない19)」。子どもにとって善かれと思って行為したとしても、後になってそのことの是 非が問われることもあり得るし、さらに言えば、教育的な行為が求められている状況にお いていつもすでに我々が子どもにとって善いと思われる方向に行為できるとも限らない。 逆に、子どもにとって最善であると思われる方向に向けて行為できなかったその状況が、 後になって却って善い方向へと子どもを向かわせることも時としてあり得る。 それゆえ、教育に携わる者(ここでは教師だけでなく親やその他子どもの人格生成に関
与する全ての大人が含まれる)は自らの行為が子どもにとってどのような意味をもってい た(る、あるいはもち得る)のかについて省察を行う必要性が認められるのである。 ところで現象学的な観点からみれば、我々は自然的態度のうちに日常を過ごしており、 現存の理論によって子どもや状況を見る見方からなかなか離れることができない。言い換 えれば、我々が子どもにとってこうすることが善であると考え行為しているその行為のう ちには、ある種の理論に裏打ちされた我々自身の前判断、前理解が含まれているのである。 そこで、子どもとともにある生活世界の具体的な状況において我々が行った行為、我々の 判断に、どのような価値づけが内在しているのか、その自明化した前判断、前理解を括弧 に入れる現象学的な態度で省察(現象学の用語でいえば現象学的反省)を行うことで、そ の状況を子どもがどのように経験しているのかが明るみに出され、我々自身の価値に対す る態度、思考枠組みが見直されることになる。 この態度における省察は⑷の水準の省察と近似しているということができようが、それ 単独で成し得るというよりは、⑶と⑷の省察を繰り返し行っていくことが必要になろう。 さらに、時間軸でみれば④の事後的な省察、そして①の事前の省察として行っていくこ とで、子どもの内面への敏感さ、その内面の意味するところへの解釈の深さ、子どもとの 適切な距離を測る際の判断力、子どもにとっての善さを的確に感知する能力が養われてい くと考えられるのである20)。 教 タ タクトの養成について検討する際、ヴァン=マーネンが用いている「教育的な思慮深さ p e d a g o g i c a l t h o u g h t f u l n e s s 」という概念が鍵となると考えられる。ランゲフェルドの「教育 的状況」という概念から、あえて時間的な要素を取り出し、「教育的契機」という概念を 彼が創出している21)のは、「思慮深さ」の涵養と「教育的タクト」の養成とを関連づける ためであると考える。すなわち、「教育的契機」という概念は、教育の実践に内在的な仕 方で「教育的タクト」を導き出すための方法論的な仕掛けといえよう。ヴァン=マーネン は、タクトを「教育的契機における身体の実践的言語」として見立てる。「タクト豊かな (t a c t f u l )行為は、わたしが人格の全体を賭けて即座に対応しなければならない、予期し ていない、あるいは予見できない状況における、直接的な関わり合いである」。さらに言 い換えるならば、タクト豊かであることは、その人が方向付けられている人に向けて身体 的に心を配っていることであり、その人の具体的な状況への反省的な思慮深さが身体に現 れたものである。つまり、反省的な「思慮深さ」とタクト豊かであることとの関係を認識 論的に考察するならば、タクトとは「思慮深さ」の体現、身体運動なのである。このこと を「思慮深さ」の側から見れば、「思慮深さ」は、タクト豊かな行為となって顕在化して 初めてその存在が確認される。「思慮深さのないところには、タクトは存在しない。そし て、タクトのないところでは、思慮深さはせいぜい内的な状態に過ぎない」。つまり、思
慮深さとタクトは同時成立的で相互補完的である。教育的契機という偶然的で即時的な対 応が求められる状況において、内在化された思慮深さがタクト豊かな行為となって発現す るのである22)。 思慮深さと教育的タクトとが、同時成立的なものであると考えると、思慮深さを涵養す ることによって教育的タクトもまた養成され得ると想定することが可能になる。 教育的契機において求められる思慮深さは、自己の経験への反省と他者の経験への探究 を通じて得られるものであり、外面的な技術や技能を機械的に適用することで作られる人 工的な思慮深さとは相異なる。ヴァン=マーネンは「思慮深さ」の特性と涵養に関して次 のように述べる。「子どもたちのグループを教えているとき、何人かの子どもが恥じらい や喜び、挫折、快活さ、退屈、驚き、好奇心、困惑、明察さに気づく。その時、わたしが 見ているのは教師の効率性を高めるワークショップで学んできた技術的な指導技能によっ て与えられたものでは殆どない。むしろ、もっと経験的かつ反省的な仕方で獲得してきた 身体化され方向付けられた教育的な技能によってみているのである。しかしながら、(例 えば、子どもにとってある状況が何を意味するのかを感得するような)この知覚的な技能 は、授業計画やクラス経営、あるいは物語を語るといった技能を訓練することが出来るよ うな仕方と同じやり方では、訓練することは出来ない何かなのである23)」。 繰り返し述べているとおり、教育的状況に埋め込まれた教育的契機においては、我々大 人は子どもとの相互性のうちに即座の行為が求められている。その際、我々は、どのよう に話したり行動したりすることが適切であるかを探し求めながらも、自身の行為をかすか に意識しているに過ぎないという意識状態にある。この状態は、自己反省という意味にお いては、自分自身に関して殆ど無意識的であるといえる。このことを端的にいうならば、 教育的契機においては我々の経験は生きられており、経験が生きられている際には、我々 には「熟考的で計画的な仕方における反省(re ection in a deli erative, planning manner)」 の猶予は与えられていないということになる。反省は、それらの経験に埋め込まれた意味 を考慮するために状況から距離を取るという人間の経験の一形式である。すなわち、経験 を反省することによって、我々はその経験に埋め込まれた意味を把握し、また意味を割り 当てるという経験をしている。その際には、必然的に、我々が世界と関わっている即時性 からの一時的な退去を伴うことになるのである。それゆえ、親や教師といった大人として 子どもに接している我々が、教育的契機について熟考的な反省を行うのは、いつもすでに 状況を離れた、想起的な反省(recollective re ection)の形式によることになる24)。 教職 の 教 タ の の これを現代の教師教育(教員養成と現職教育)にどのように展開することが可能であろ うか。ヴァン=マーネンは、現象学的な視座からタクトの養成について次のように語って いる。一つは実践とその省察を通して行われる。親や教師、その他広い意味での子どもの
教育に関わる専門的な実践を通して、さらに過去の経験への省察を通してタクトの基底と なる教育学的な思慮深さが培われるのである。それとともに、現象学的なアプローチに よって、子どもの生活世界への敏感さと洞察力とをリフレクティブな仕方で獲得すること がタクトの養成へと繋がる25)。以下に、教育実践における学生の経験へのリフレクション と子どもの生活世界への現象学的アプローチの 2 点に分けて、筆者がこれまで実施してき た例を挙げながら、教職課程でのタクト養成の可能性について検討を行う。 1 教 の ン 教 の 学部段階の様々な授業において教育実践へのリフレクション(ここでは通常用いられて いる用語としてリフレクションという語を使う)を行う際、以下の 3 つの手法を主に用い てる。 ①記述を通じてのリフレクション(ヴァン=マーネンの生きられた経験の記述) ②グループにおける協同的なリフレクション(「リアリスティック・アプローチ」) ③教師との個別的なリフレクション(「リアリスティック・アプローチ」) 学生の振り返りを促すツールとしてオランダの教師教育において用いられている「リア リスティック・アプローチ26)」を用いるほか、教師自身が学生とのやりとりをリフレク ションすることで、個々の学生の状況に応じた指導のあり方について探究することが可能 となる。 教育的タクトの養成という観点でこのリフレクションを見たとき、その構成要素である 〈教育的敏感さ〉(内的な思考、理解、感情、欲求を身振りや顔つき、表現、ボディラン ゲージといった間接的な手がかりから解釈する)はまさに、リアリスティック・アプロー チにおける「 8 つの窓27)」を使って子どもと状況を見る訓練をすること、生きられたもの として経験を記述することで身についていく部分が多いと言える。また、その時々の状況 の中で行った判断が適切であったのかどうかを振り返って吟味することで、〈教育的判断〉 (子どもとの距離の取り方、現在の子どもの有り様と未来のあるべき姿との双方のどこを 着地点とするかというバランス感覚)はある程度涵養されていくであろう。 子どもと自分の双方の立ち位置から考察し、その状況に回顧的にアクセスすることを通 じて、当時の知覚、感情、欲求といった側面が鮮明に蘇り、そのときの行為を振り返って みたときによりよい判断ができていたか、距離の取り方に関しての省察ができ、また、子 どもの内面を理解できているかどうかが自分なりに考察可能である。 ただし、〈教育的な感覚〉(特定の子どもや子どもの集団との具体的な状況において内気、 藤、興味、障害、柔軟さ、ユーモア、試練のもつより深い意義を解釈する感覚)〈教育 的行為〉(子どもの本性と情況への鋭敏な教育学的理解に基づく、正しさ、善さに向けて の行為の方向性を即座に感知する能力)に関しては、学生時代に身につけることができる 範囲までと限定を加えるとしても、かなり教師の側の援助が必要であると想定される。教
師に求められるこういった感覚や判断力を伸ばしていくためには、ヴァン=マーネンの提 示する「現象学的なアプローチによって、子どもの生活世界への敏感さと洞察力とをリフ レクティブな仕方で獲得すること」がその一助になると思われる。 2 の 筆者は講義科目及び演習科目において、「子どもと暗闇」「子どもと異界」「子どもと秘 密」「子どもにとっての家(お留守番の経験)」「子どもの頃の遊び場(秘密基地)」といっ たテーマで、子どもの生活世界を現象学的に探究する試みを行ってきた28)。学生自身がま ず自らの子ども時代の経験を「生きられた経験」となるように記述し、自らの内なる子ど もと出会い直す経験を経る。そして、映画、絵本、文学作品、日記などに描かれた子ども の経験について現象学的な仕方で解釈し、これを通じて子どもの内面について人間学的な 理解を得ることをめざす。グループワークの実施の際には、リアリスティック・アプロー チの手法も導入している。このような授業を通じて、これまで自明と考えてきた事柄(子 どもが秘密をもつのはあまり望ましいことではない)、深く洞察してみる機会のなかった 事象(子どもはなぜ異界に興味をもつのか)などに対して、異なった観点から考えるきっ かけを得る。こういった自明性を疑う態度は、例えば、学校に来るのをいやがる子どもに 接するときに、「この子どもにとって学校に来ることはどのような意味があるのか」「そも そもこの子にとって学校に来ることはなぜ必要なのか」「子どもにとって学校とはどのよ うな意味を持つ場所なのか」といった、本質への問いを問うていく態度へと繋がっていく。 このことから、教育的理解に基づく個別の子どもにとっての正しさや善さを判断する能力、 子どもにとって状況がどのような意味をもつのかを解釈する教育的感覚が醸成されていく ことが期待される。 もっとも、こういった試みだけで教育的タクトの養成には十分ではないのは明らかであ る。今後さらに、タクトの構成要素の分析を詳細に行うことによって、あり得べき教職課 程の授業の方法について考察を深めていきたい。 上述したヴァン=マーネンの生きられた経験の記述とコルトハーヘンの「 8 つの窓」を 用いたリフレクションは、いずれも、状況が起こっていた場に自らを置き直すことをなん とかして可能にしようという営みであり、その場における自分と相手の思考のみならず感 情、欲求、知覚にできるだけ接近することによって、リフレクションを生きたものとしよ うとする。この二つのリフレクションの方法は、この点においてどちらも有効であると考 えられるが、ここに一つ課題が残される。すなわち、その状況を生きていた自分と、リフ レクションを行っている今の自分との関係性を見直す契機が必要ではないか、という疑問 である。今後この点に関しても検討を深めたい。
最後に最大の難問としての評価の問題が残る。測定し難く、言語化しづらい教育的タク トがどの程度身についたかを評価する術はあるのだろうか。例えば、筆者は「乳幼児と教 育学」という授業において、「保護者に寄り添う」というテーマを掲げて授業を行い、そ の成果を受講生の記述の質的な面での変化と受講生自身の自己評価によって評価する試み を行った。「保護者の気持ちが理解できた」「保護者に寄り添える教師になれると思う」と いった質問項目には多くの肯定的な回答が得られたが、そのことと教育的タクトがどの程 度涵養されたかとの関連性をみるのは容易ではない。しかしながら、定量的評価が難しい としても、教師の専門性としての教育的タクトを教職課程においてなんらかのかたちで養 成していくことは重要な要素ではないだろうか。 1 )徳永正直『教育的タクト論─実践的教育学の鍵概念』ナカニシヤ出版、2004年。 2 )篠原助市『新教育学概論』富士書店、1948年、63ページ。 3 )Sc h n e i d e r および Sc h o l t z については前田の文献から引用させていただいた。 4 )前田博『教育本質論─教職教養の基本問題』朝倉書店、1958年。
5 )V a n M a n e n , M a x , “P edag o g i c al S ensi ti v i ty and Tac t”(unpu lished).
6 )前田博『教育本質論─教職教養の基本問題』朝倉書店、1958年、136ページ。 7 )同上、135−139ページ。 8 )同上、140ページ。 9 )同上、135−143ページ。 10)楠見孝「実践知と熟達者とは」「実践知の獲得─熟達化のメカニズム」金井壽宏/楠見孝編『実践知』 2012年、有斐閣、 4 −57ページ。 11)行為の中での省察は、熟達者においては頻繁に行われているものの、その省察自体を省察できるのは行為 を振り返ってみる行為についての省察の形式においてである。また、初学者にとっては行為の中での省察自 体非常に困難であり、初学者が教育的タクトを身につけていくために必要な省察は行為についての想起的省 察であると言える。 12)K e s s e l e s a n d K o r t h a g e n , “T h e R e l a t i o n s h i p Be t w e e n T h e o r y a n d P r a c t i c e : Ba c k t o t h e Cl a s s i c s ”, E d u c a t i o n a l R e s e a r c h e r , V o l . 25, N o . 3(Ap r . , 1996), p . 17. 13)I id., p.18. 14)同上。ここでケッセルズとコルトハーヘンがフロネーシスと呼んでいる知は、我々が主題としている教育 的タクトと非常に近い関係があると言える。 15)I id., pp. 19−21. コルトハーヘンの場合は「リフレクション」として日本でも訳されているので、ここで は省察と訳さず「リフレクション」とした。
16)van anen, ., eflectivit and the pedagogical moment the normativit of pedagogical thinking and acting, urriculum studies, 1991, v o l . 23, n o . 6, p . 512.
17)v a n M a n e n , M a x , T h e T a c t o f T e a c h i n g , SU N Y , 1991 , pp. 28−29.
18)van anen, a , henomenological edagog in urriculum In uir , 12( 3 ), 1982, p . 284. 19)v a n M a n e n , M a x , P e d a g o g i c a l Se n s i t i v i t y a n d T a c t . 20)村井尚子「教師教育における「省察」の意義の再検討:教師の専門性としての教育的タクトを身につける ために」『大阪樟蔭女子大学研究紀要』第 5 巻、2015年、180−181ページ。 21)村井尚子「ヴァン=マーネンにおける『教育的契機』の概念に関する一考察」『京都大学大学院教育学研 究科紀要』第47巻、2001年、134−146ページ。 22) f., i id., pp. 532−534
23)R P M . , p . 534. 24)Cf . , T T . , p p . 115−118. 25)v a n M a n e n , M a x , P e d a g o g i c a l Se n s i t i v i t y a n d T a c t . 26)「リアリスティック・アプローチ」を用いたリフレクションについては、以下の論文を参照されたい。中 山美佐ほか「リアリスティック・アプローチを用いた教職実践演習についての研究」『大阪樟蔭女子大学研 究紀要』第 7 巻、2017年、165−176ページ。山本一成ほか「教員養成課程におけるリアリスティック・アプ ローチを導入した授業実践」『大阪樟蔭女子大学研究紀要』第 6 巻、2016年、187−198ページ、小野寺香ほ か「教員養成課程におけるリアリスティック・アプローチ導入の理念と意義」『大阪樟蔭女子大学研究紀要』 第 6 巻、2016年、81−89ページ。 27)子どもと教師双方の行為の背景にある思考、感情、欲求についての振り返りを促すためのワークシートを 「 8 つの窓」と呼んでいる。詳細は上記の論文を参照されたい。 28)村井尚子「『子どもという人間』への理解( 1 ):トン・ベークマンの現象学的教育学」『大阪樟蔭女子大 学人間科学研究紀要』第 7 巻、2008年、163−178ページ、同「子どもにとっての『家』の意味に関する人間 学的考察:ワークショップ型授業における共同考察を通じて」『大阪樟蔭女子大学研究紀要』第 6 巻、2016 年、175−185ページほか。