• 検索結果がありません。

ジオ フランス (Radio France) のインタビュー番組として企画された 計画なき進化 のなかで同様の見解を示している 人間の脳は根本的な欲求を持っていると私は思います それは人間の脳をとりまく世界について そして同様に その世界を動かしている諸力についての 統一的で一貫した表象をもちたいと

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "ジオ フランス (Radio France) のインタビュー番組として企画された 計画なき進化 のなかで同様の見解を示している 人間の脳は根本的な欲求を持っていると私は思います それは人間の脳をとりまく世界について そして同様に その世界を動かしている諸力についての 統一的で一貫した表象をもちたいと"

Copied!
14
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

      文化と自然

―時間と空間の契機について

中島ひかる

Résumée On commence ici, par considérer la relation entre la culture et la nature : la nature, telle qu’elle est, existe-t-elle vraiment “pour” les hommes? La nature, pour les hommes, n’est-elle que la culture, car il n’y a que la nature qu’on “=les hommes dans la culture” représente seulement pour nous ?

En analysant “l’Etat de Nature” de Rousseau que, pourtant, Rousseau considère comme inexistant, nous allons voir ce qui constitue essentiellement la culture, c’est–à-dire “la relation” et “l’estimation”. La culture signifie le monde des relations où la valeur absolue n’existe pas dès le début, la nature elle-même n’ existant plus pour les hommes? 1)文化と自然  ここで「自然」とはなにかについての現代の議論から考えてみよう。「自然」というものは 人間から独立して存在するのだろうか。あるいは、人間はそもそもの始まりにおいて自然の一 部であり、文明を捨ててそこに「回帰」することが可能であるのか。  西村清和『プラスチックの木でなにが悪いのか』*1 はこの自然について、環境美学の観点から、 さまざま著作を引きながら議論を展開しているが、結局、彼によれば、人間にとっての自然は、 人間の視点から切り取られた人間の「ビオトープ(生活場所)」(それぞれの動物種に特有の環 境)の中での「自然」でしかない。 われわれは世界のうちに出合う様々な種や個体や事象のうちとくにあるものを、われわれ になじみの自然の歴史(博物誌)や自然の理論に基づいて、つまりはその時代や文化に応 じた自然についての特定の「常識的・科学的知識」に基づいて「自然」と名指すのである。 それゆえわれわれはこの、世界を構成する一文化概念ないしカテゴリーとしての「自然」 を規定する文化的ふるまいの領域を、「ネイチャーワールド(自然――界)」と呼ぶこともで きるだろう。*2 この議論に先立ち、著者は「古代の神話と同様に、現代の科学もわれわれ人間の世界についての 一信念体系である以上、科学もまた文化的なふるまいの一領域であり、科学が記述しわれわれに 教える自然もやはり、われわれの世界を構成するひとつの文化的概念領域である他はない」*3と記 している。ここで「一信念体系」と言われている科学については、フランソワ・ジャコブもラ

(2)

ジオ・フランス(Radio France)のインタビュー番組として企画された「計画なき進化」のな かで同様の見解を示している。 人間の脳は根本的な欲求を持っていると私は思います。それは人間の脳をとりまく世界に ついて、そして同様に、その世界を動かしている諸力についての、統一的で一貫した表象 をもちたいという欲求です。*4 ジャコブは神話と科学理論の共通点として「見えるもの visible」を「見えないもの invisible」 で説明することをあげており、その意味で、科学も神話も人間の「想像力 imagination」の産 物であるとしている。もちろん、ジャコブの主旨は科学と神話の二つの違いを明らかにするこ とであるので、科学においては常に検証が繰り返され、理論が更新されていくのに対して、神 話ではいったん作られた説明体系が固定してしまうことが強調されているのは、もちろんここ で述べておかねばならない。ただ、その違いの強調を別にすれば、西村とジャコブの論には「自 然」についての共通の見解が見られる。人間は、自然をメタレヴェルで記述しようとするし、 そしてその記述しようとする行為においては、人間の「想像力」と無関係に自然は存在しない ということである。自然を表象し、説明する人間にとって、自然は人間の脳を介した文化的存 在である。言い換えれば、自然が人間にとって何らかの意味を持つのは、そのような人間的な 想像力のなかにおいてでしかない。  そのことは、自然が人間の意識の中にしか存在しない実体のないものだということを意味し ているのではまったくない。自然そのものは確固として、人間とは独立した別個のものとして 存在する。ただしそれは、人間の関心とは関わりなく存在するがゆえに、人間にとっては認識 にのぼらない、あるいは知覚しても意味をなさないものであるということである。そうした自 然は人間にとっての「自然」ではない。文化としての人間が、自然を自己と関係づけたその時 点で始めて、自然は文化の中に組み込まれた「自然」として、人間にとって意味をなす人間の 文化としての「自然」になる。ジャコブの例を借りるなら、病を呪いとみるか(=神話)、ウ イルスの感染(=科学)とみるか、あるいは雷を神の怒り(=神話)とするか、雲と地上との 電位差(=科学)とするかは人間の説明体系であるが、どのように説明されようとも、その説 明の対象としての自然現象は説明以前から存在し続けている(科学が進化し、また別の説明体 系が考えられれば、現在の科学的説明はそれもまたその時代の神話となるであろう。それぞれ の時代や地域に特定の「常識的・科学的知識」があるとすることは、科学で言われる「普遍的 な真理」には馴染みにくい概念であるが、真理とはそもそもが、人間から独立して絶対的に存 在するものではなく、人間の視点からの理論について言われていることである)。しかし、説 明体系が実体としての自然そのものには関わりがないとしても、病を呪いと考えるか、ウイル ス感染と考えるかによって、人間の心理やその対応も異なってくる。そして、こうした科学的 対象となる事象のみならず、人間が自然の対象を表象するときには、一般的にも文化が関わら ざるをえない。クジラや牛や犬、さらには人間を食する事への嫌悪感や抵抗、あるいは禁忌は、 食の対象としての「肉」という自然ではなく、対象にまつわる文化的文脈によって決定されて いる。人間は理性に関わる知性においてのみならず、触覚・聴覚・味覚・触覚といった感覚的 な感性の部分においても、文化的な環境に大いに影響を受けるのである。ブルデューが示した 「ハビトゥスhabitus」は、「ある個人が獲得し所有しているもろもろの特性・資質・傾向の総体」 と定義できるが*5、こうした個人の趣味・嗜好や行動様式・思考様式は、社会の中の相対的位

(3)

置づけ(階層)に応じて潜在的指向性を帯びた一貫した体系を作っているので、個人レヴェル の判断のみならず、個人の集合としてのある階級や集団の知覚や判断を、無意識のうちに規定 し方向づけるとされる。ここでは、階層差に関する社会学的な議論には立ち入らないとして、 われわれの論じている自然と文化に関する文脈で言えば、自然に対する人間の知覚は、本人が 無意識であるにせよ、はじめからすでにその人間が所属する集団の文化によって規定されてい るということである。自然の事物や事象そのものはそういう解釈には無関心であるとしても、 そのような自然の「手つかずで、ありのままの」知覚は存在しない。  これはまた、ソシュールに始まる構造主義言語学の議論を想起させるものでもある。すなわ ち、赤・ピンク・橙と名付けることによって色はその差異において識別されるのだから、シニ フィアン(意味するもの)によって分節化されないかぎり、シニフィエが独立した実体として 認識されることはない。人間が自然を考えるということは、文化によって自然を分節すること によって初めて、人間にとって意味のある「自然」が出現するということであろう。そのよう に、自然現象が「人間にとって」の自然であるなら、自然と人間の対立を考える議論も、人間 も生物の一つとして自然に組み込まれているにもかかわらずわれわれが自然から遠ざかってい る、と言う議論も意味を持たないものである。  この文脈で考えるなら、人間とは、他者を表象する限りにおいての存在であり、表象体系を 備えた文化をもつことこそが人間の特質であるということになる。この表象体系の真偽や有効 性は文化の成立にとって関わりはない。事物や事象に対する、その体系が時間と空間によって 異なるからこそ、言い換えれば「常識的・科学的知識」が単一ではないからこそ、多様な文化 が生まれ、また、時にその「常識的・科学的知識」が間違っていると思うからこそ、科学であ るならジャコブの言うように理論は常に更新される。そしてそれが、客観的に検証不可能な人 間の社会的・心理的事象に属する「常識」であるなら、それによって表象されるものは「真の」 姿ではない、「本来の」あり方でない、という批判が生じることにもなる。特に人間に関わる 事項の場合、「文明的な」社会文化を批判し、「自然に回帰する」ということが時に言われるこ ともあるが、人間を文化として定義する以上は、自然は文化としての人間にとっての「自然」 であり、それゆえ「生のままの」「手つかずの」自然に帰ることなどそもそも不可能である。 文化とは人間のデフォルトであることは、ここで認識せねばならない。表象体系から離れて、 自然に帰ってもそこに「本来の姿」や「真の姿」、「充足した自己」などありはしない。もしそ のように他者を表象しない、自己自身の現存の感情だけに還元された充足があるとしたら、そ れは未分化なものとして「神」の領域であり、時間の中に存在する人間にとっては意味をなさ ないものであろう。スピノザの『エチカ』においては、実体である神はすべてを生み出す原因 として充足した存在であるが、その属性を様態として産出する姿でしか認識可能なものとして はあらわれてこない。「属性とは、知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの、 と解する」*6。ルソーが『孤独な散歩者の夢想』で描くビエンヌ湖のほとりの「神のように自 ら充足した」状態、「完全無欠な幸福」も、その中にまったく周囲の事物からの運動を知覚し ない場合は、「昏睡状態」や「死」に近い無の状態とされていた。*7したがって「自然状態」を 考えるとき、人間が自然の一部に組み込まれているとして、文化以前の未分化の自然状態を考 えることには意味はない。もし人間の始まりの状態を想定するとしても、それはあくまで既に 意識し、他者を表象する限りで自然と分化した、文化としての人間の基本的状態を考えるほか はないであろう。

(4)

 この論考では、以上の視点に立って、『不平等起源論』第一部の「自然状態」を考えてみたい。 繰り返し確認されてきたことであるが、この自然状態が現実には決して存在するものでない、 批評の基準を提供するゼロ地点であるということは字義通りに受け取らねばならない(「もは や存在せず、おそらくはまったく存在したことのなかった、そしてたぶん将来もけっして存在 しないような一つの状態、しかしながらそれについての正しい観念をもつことが、われわれの 現在の状態をよく判断するためには必要であるような状態」*8)。しかし、この自然状態と文化 の差異をルソーに沿って考えることで、われわれが最初に提示した文化としての「自然」、そ してその人間の文化にとって本質的な要素について、いっそう明確にすることができると思わ れる。  『不平等起源論』の自然状態においては、人間も動物と並んで、その中の一つの種として描 かれている。「このように構成された存在から、彼が受け取ることのできたあらゆる超自然的 な才能と、長い進歩によってしか獲得できなかったすべての人為的な能力とをはぎ取って、つ まり、彼が自然の手から出てきたにちがいないようなままで考察すると、わたしはある動物た ちよりは弱く、また他の動物たちほど敏捷ではないが、結局は、すべての動物の中でもっとも 有利な組織をもつ一つの動物を見るのである」*9。しかし、ここで人間が動物の中の一つだと いうのは、生物学的意味での身体的構造や生理的な組織の問題としてなら、われわれの関心に は値しない。今まで述べてきた論点に沿っていうならば、人間が自然としての動物のひとつに とどまるか、あるいは文化として自然を超越するかの違いは、人間が他者あるいは自分の外の 事物や事象を、その想像力の体系によって表象し、「自らに対しての」他者として対象化する か否かにかかっている。その意味では、もし仮に、人間以外に想像力を持つ動物が存在し、そ れが人間と対等にコミュニケーションを取ることのできない異質な存在だとするとしたら、そ の動物の文化にとって、人間は自然のなかの一つの動物として対象化されるであろう。そうで あるなら、ここで重要なのは、人間が同類や事物・事象も含めて「他者」に関心を持って関係 し、それを自らに対して表象するか否かである。ルソーが第一部の自然状態を仮定的なものと し、第二部の社会状態に移行するときに問題にするのは、まさにその他者への関心・関係であ り、それに付随して、自らをも他者として眺め表象する、すなわち、自己が自己に関係するこ とであったように思われる。以下に、他者への関心・関係としての文化を自然から分かつにあ たって重要な要素として、空間、時間が関係、評価にどのように結びつくかを考察していきた い。 2)自然状態との切断  ルソーの自然状態では「理性に先立つ二つの原理」として「われわれの安楽と自己保存に熱 い関心を与えるもの」(自己保存本能)と「すべての感性的な存在、主にわれわれの同胞が、死ぬ、 あるいは苦しむのを見ることに対して、自然の嫌悪感をわれわれに起こさせるもの」(哀れみ の情)が人間に与えられている。*10 この後者の哀れみの情は他者へ向かう感情であるとはいえ、 前者の自己保存本能と密接に結びついており、われわれの社会が通常使う意味での他者への関 心ではない。ルソーは自然状態に関して、「そこに社交性の原理を介入させる必要はない」*11 と しているのである。というのも、自然状態での本能や感情は、ルソーが提示する条件のもとで は、時間の継続性を含まないからである。自然状態における人間は、理性的存在としてよりも 感性的存在として、自己保存が妨げられない限りで他者に害を加えることはないとされている

(5)

が、しかし、そこで前提になっているのは、お互いのあいだに無関心でいられるだけの十分な 距離が保証されており、一時的な関わりを持ってもその関係は持続しない、ということではな いだろうか。自己保存本能が常に作動しなければならない状態であるなら、他者との関わりは 常態としての闘争となる可能性をはらんでいる。空間的に互いの利害が絡まない距離が保たれ ているからこそ、自己の保存が侵害されないのであり、その限りにおいて人間は不必要に他者 に悪意を抱くことはないとされる。「おそらく生涯にかろうじて二度会うぐらい」*12 であるなら、 ほんのまれに他の人間と関わって利害が対立し、自己保存本能が脅かされた場合でも、その他 者への関わり方は、空間的な広がりがある以上、次の瞬間には解消され、継続することはない。  これはスピノザの『国家論』で描かれる自然状態とはまったく異なっている。スピノザも自 然状態で人間の自然権を設定しており、そこで、人間が自己の本性にしたがって行動する場合 に、ルソーと同様にやはり理性を認めていない。そこにあるのは衝動であり、「人間は、理性 によってよりも盲目的欲望によって導かれることが多く、したがって人間の自然力すなわち自 然権は、理性によってではなく、かえって、人間を行動へ駆りかつ自己保存へ努力せしめるお のおのの衝動によって規定されなければならぬ」*13。これはルソーの「自己保存本能」にあた るものであるが、しかし、ここでは、人間は「快楽」に支配されているから、この欲望が個人 の保持にある以上、個々人の関係としては対立せざるを得ない。「これによって我々はこう結 論する。常に理性を用いて人間の自由の最高所に立つことは各人の力のうちにはない。しかも 各人は常にできる限り自己の存在を維持しようと努力しており、そして、——各人は力のなし うるのに相当するだけの権利を持っているのであるから——各人(その賢愚を問わず)が努力 し行動するすべてのことは、最高の自然権に従って努力し行動しているのである、と。このこ とから、すべての人間がそのもとに生まれ、また多くの場合そのもとに生活している自然の権 利および自然の法則は、誰もが欲せず、誰もがなしえないことしか禁じてはいないということ が帰結される。つまりそれは争いをも憎しみをも怒りをも欺瞞をも、およそ衝動がそそるいか なる事をも拒否しないのである」*14。「人間は必然的に諸感情に従属する。また人間の性情は、 不幸な者を憐れみ、幸福な者をねたむようにできており、同情よりは復讐に傾くようになって いる。さらに各人は、他の人々が彼の意向に従って生活し、彼の是認するものを是認し、彼の 排斥するものを排斥することを欲求する。この結果、すべての人々はひとしく上に立とうと欲 するがゆえに、みな争いにまきこまれ、できる限り仲間を圧倒しようとつとめ、こうして勝利 者となる者は、自分を益したことよりは他人を害したことを誇るに至る」*15  個人は「できうる限り自己の存在を維持しようとつとめている」*16 のだから、もしわれわれ が理性に導かれるなら、われわれは賢明な生活を送っていたはずである。しかし実際にはそう ではないのだからという理由で、スピノザの自然権は、自然状態の人間が感情に動かされ、他 に害をなすことを想定している。同じく自己保存の本能を基本的な状態として設定しながら、 ルソーの自然状態ではその本能が他を傷つけることがないのは、個人間の距離の問題ではない か、と先ほど論じたが、距離とはここでは人間同士の距離であるから、スピノザの自然状態は すでに人間と人間がお互いに常に関わる状態を考えていることになる。もちろん両者に人間の 基本的性格をどう考えるかの差はあるとしても、少なくとも、常に関わることのできる距離の 近さがなければ、そもそも闘争も生まれないだろう。  さて、スピノザのように自然状態を想定すれば、個々人が独立して生存する状態から、人間 の共同体への移行は、個人の自然権を守るための必然的な流れになる。「ところで自然状態に おいては各人は自己を他の圧迫から防ぎうる間だけ自己の権利のもとにあるのであり、また各

(6)

人単独ではすべての人々の圧迫から身を防ぐことが困難なのであるから、この帰結として、人 間の自然権は、それが単に各人きりのものでありそして各人の力によって決定される間は無に 等しく、現実においてよりもむしろ空想において存するにすぎないということになる。なぜな ら、人々はそれを保持するのに何の確実性も持たないからである。その上確かなのは、各人は 恐るべき原因をもつことが一層多ければなしうることが一層少なくなり、したがってまた権利 を持つことが一層少なくなるということである」*17。各人が個々の欲望に従う自然状態は、個 人にとって、その「自然権」が保証されるにはほど遠い状態であるがゆえに、個人の欲望が最 も満たされる状態であるとは言いがたい、そのため個人の感情による欲望を守るためには、人々 は共通の利益に従う共同体を作ることになる、という論理である。  それと反対に、ルソーの自然状態で平和に暮らしていた人間は、そこで自らの自己保存は十 分に保証されていたのであるから(「自然状態はわれわれの保存のための注意が他人の保存に とって最も害にならない状態なのだから、その結果、この状態は最も平和に適し、人間にふさ わしいものものであったと言うべきであった」*18)、その状態を脱してあえて社会状態に移行す る必然性はないことになる。したがって、『不平等起源論』の第二部にいたって人間が共同体 を作るにあたっては、そのこと自体に第一部の自然状態からの根本的な切断が必要となること になる。自然状態が、「あり得ない」仮定的な状態であったことは、ここで再度確認しておく 必要があろう。  以上の議論では他者としての人間への関心について述べ、自然状態での他者への無関心を、 空間的な距離と、それに伴う、刹那的な関係に関連づけた。次に、もっと根本的に、ここでの 人間が同類に対してのみならず、一般的に、周囲の自然の事物や自然現象に対して関心をいだ くためにも、時間の契機が不可欠であることを見ていきたい。  「関係」という概念については、『人間不平等起源論』第二部の始めに述べられている。この 「関係」は、自身以外の事物への関心とともに、具体的事物や事象に対する包括的な抽象概念 の形成に関わり、第一部で描かれた自然状態に対し、新たに時間の契機を導入することで成立 するものである。 さまざまな存在を自分自身に対して、また、その存在同士に対して、繰り返し適用してみ たことで、人間の精神の中には、自然に、いくつかの関係についての知覚が生まれたにち がいない。大小、強弱、遅速、臆病・大胆といった語、さらにその他、比較しようとはほ とんど考えもしないのに必要に応じて比較された同じような観念の語によってわれわれが 表現する関係は、ついには彼のなかに何らかの種類の反省、というよりは機械的な慎重さ を生み出し、それが彼の安全に最も必要な用心を指し示してくれた。*19 ここで、関係についての知覚は、最初から人間に与えられたものではなく、後から徐々に形成 されていったものだとされている。さて、関係を表現するためには、複数の事物や事象を比較 することが必要であるが、そのためには、対象となっている複数の事物・事象に関する知覚を、 一定の時間、同時に保持しておかねばならないだろう。あるいは、後になって前の事物や事象 を想起して(ということは、すなわち事物・事象は「未来」の時間の中に記憶されることにな る)、現在の事物や事象と同時に知覚することが必要になる。つまり、瞬間瞬間で事物や事象 を忘れてしまうのならば、比較は不可能である。自然状態における「想像力が彼に何も描いて

(7)

見せない」状態、「先の見通しも好奇心ももつことのできない」状態では、人間の魂は「現在 の自己の生存についての感情だけに専念し、それがいかに近いものであっても未来については 何の観念もたない」のであり、そうであるから「毎日見てきたものを一度に考察できるために、 人間が必要とする哲学」を欠いていたのである。*20 複数のものを「一度に考察」するためには 瞬間瞬間の感覚から抜け出し、時間的な広がりの中で、事物や事象を把握しなければならない。  さらに、ここで言われているような比較のための概念は、対象からもう一段階上の包括的な 視点を獲得し、抽象概念のレヴェルに上がらなければ獲得されることはない。「大小、強弱、 遅速、臆病・大胆」といった比較において適用される概念は、具体的な事物や事象の独立した 属性ではなく、比較という行為の中でしか成立しない概念である。言い換えれば、「(・・・とい った)観念の語によってわれわれが表現する関係」とされているように、これはあくまで二つ 以上の複数の事物・事象の「関係」を記述する観念であって、独立した事物や事象そのものを 表現する語ではない。Aという対象だけしか知覚しないならば、それが大きいか小さいかはわ からない。人間は習慣的に、たとえば虎が強く、ウサギが弱いと表現するであろうが、おそら く、それは無意識のうちに(「比較しようとはほとんど考えもしないのに必要に応じて比較さ れた」)自ら、と比較しているからではないだろうか。虎と熊を比較すれば、あるいは二匹の 虎を比較すれば虎が弱いという概念も成立する。そのため、こうした概念そのものが、複数の 事物を同時に考察するための時間と、具体的事物から離れて抽象概念のレヴェルに上がるため の時間を前提としている。  自然状態で「欲望がその身体的な欲求以上になることはない」*21 場合、人間は、日々の生活 においても、必要なものに対する欲求をその場限りで瞬間瞬間に満たすだけで、未来の時間に 対する想像力を持っていない。想像力によってこそ、人間は未来を見越し、よりよい結果のた めに、今現在を未来に捧げることを学んだのである。ルソーは農業について以下のように述べ ている。「このような仕事に従事して土地に種をまくためには、次に多くを得るために、まずは、 いくらかを失う決心をしなければならない。それは、私が前にも言ったような夕方の必要を朝 考えるのにも苦労するような未開人の精神の働きからは、非常にかけ離れた用心である」*22 自然状態における未開人の「現在の瞬間」を離れて、「未来」という時間を獲得することによっ て、はじめて、人間は事物や事象を比較し、それらを関係づけることが可能になる。  こう考えると、最初に比較がはじまるためには、瞬間瞬間という時間の広がりのない自然状 態のなかに、同時に複数のものを保持するための時間が介入する必要があることになる。この 時間の契機については「自己完成能力」が「静かな、罪のない日々が過ぎてゆくはずの最初の 状態から、時の力によって人間を引き出す」*23 と言われているが、静かな罪のない日々である、 自然状態の無時間状態において、この潜在的能力が発動するようになったきっかけについては 触れられていない以上、時間が介入するためには、ここでも自然状態からの根本的な切断を考 えることが必要になろう。「この問題について考察すればするほど、純粋な感覚から単純な知 識までの距離が、われわれの目に、ますます大きくなる。そして人間が自分の力だけで、コミュ ニケーションの助けも借りずに、必要という刺激もなしに、どのようにしてこれほど大きな隔 たりを超えることができたかのかは、考えてみるのも不可能である」*24  自然状態から社会状態へは根本的な切断が必要である。人間に文化としての「関係」概念を 想定するためには、自然状態からはその始まりにおいて、説明不可能な切断を想定しなければ ならない。

(8)

 ここで自然状態からの切断について佐藤淳二の論文から二つ引用する。「リュエフの議論で 瞠目すべきなのは、ルソーの<契約>概念に含意されている「非=人間学的要素」、人間本性を 探究するという伝説からの根本的な切断、これらを理論的に自覚した点である。(・・・)リュエ フの議論では、『不平等起源論』の第一部における「自然状態論」と、第二部の歴史記述とを 無理をしてまで接合しなくて済むとだけは述べておこう。人間と動物が同じ平面に共に属しつ つ生きること(共属 co-appartenance)、その意味で徹底的に開放された「自然状態」をルソー は構想した。しかし、それはあくまでも与えられた原点ともいうべき構造であった。これに対 して、<契約>により社会が構成されるとは、人間存在もまた根本的に(つまり自然と切断さ れて)構成し直されるということを含意している。人間の本性が、完成可能性を秘めながらも 動物と同じ世界に存立するということが『不平等論』第一部だとすれば、第二部では、この本 性が根源的に切断されて、非連続なものとして再構成されることが示されている」*25。「正義は 自然秩序に適合するものではあるが、われわれ人間はすでにして自然から決定的な形で距てら れている。自然そのものに人間は正義の根拠を置くことはできない。いや、それだからこそ法 を制定して、正義と義務を創設しなくてはならない。ルソーが回復しようとしているのは、自 然そのものではなく、このような媒介された自然であり、構成された自然なのである。自然か ら常に距てられている水準に、法が必要とされるのである。ルソーが、『不平等起源論』にお いて「自然状態」から「社会状態」への移行は不可能であると述べていた深い理由はここにあ ると言えよう。自然と社会とは、埋めようもない裂け目で距てられているのである」*26 3)公の評価  自然状態からは切断され、すでに関係を比較で表現するようになった段階を考えてみよう。  関係の知覚から反省が生まれたとされるが、反省とはそもそも振り返って考えることである から、その行為において、知覚と、その知覚した対象を意識することの間に、時間的な隔たり が生じることになる。すなわち、反省するという時点で、その反省の行為そのものにおいてす でに時間が発生し、知覚した時点での現在を離れる。あるいは、知覚したものを反省している 現在の自分と、振り返って考察される過去の事物・事象とのあいだで時間が二分化し、「現在」 という瞬間を超える時間が発生する。しかし、この論文の冒頭からわれわれが述べているよう に、文化とは事物や事象を自らの対象として、自らの文脈のなかで対象を認識することであり、 その限りにおいてのみ、事物や事象は人間にとって意味もつのだとするなら、人間の世界が文 化のなかで成立する限り、こうした時間の介入は免れえないものであろう。理性的な存在とし ての人間は必然的に反省を伴うことで、思考において現在の瞬間を離れ、そのため充溢した時 間の中に存在することはできなくなる。文化はすでに自然状態を離れ、時間をそのなかに含ん で始まってしまったものとしてしか考えることはできない。  そしてこの時間の分裂は、自己の外にある事物や事象を反省する場合に限ったことではない。  ラカンの「鏡像段階」はラプランシュとポンタリスによれば「人間形成の一時期をさす言葉。 それは生後6ヵ月から18 ヶ月のあいだに当る。この時期、子供はまだ無力で、運動調整能力 もない状態であるが、自分の身体の統一性を想像的に先取りして我がものにする。この想像的 統合は、全体的な形態として同じ姿をもった人間の像への同一化によっておこなわれる。そし てその同一化は、幼児が鏡の中に自分の像を見るという具体的経験をとおしておこり、現実の ものとなってゆく。鏡像段階において、将来自我となるものの雛型ないし輪郭が形成されると

(9)

いえよう」*27。つまり、ここで人間は、自己を像に同一化し、自己を一個の他者として認識す ることで、自己に対する統一的で一貫した像を獲得するとされているのである。幼児が像と同 一化することで自我の基盤が形成されるなら「主体が自我に還元されるべきものでないことは 明らかとなろう。なぜなら、自我とは想像的な審級であって、主体はそこでは疎外されてゆく 傾向にあるからである」*28。われわれの議論の文脈で言うなら、自己が自己を意識できるのも また、自己を他者として眺めることで、自らを自らに対して対象として措定することができる からある。その時、自己は反省の行為によって対象化される他者となり、反省する自己と反省 される自己に分裂する。しかし、われわれが人間として文化の中に存在しているということは、 最初から自己の分裂を避けられない運命を背負っているということではないだろうか。反省と いう行為が成立した瞬間から、自己を意識するときに、すでに、自己からの「疎外」が始まっ ている。「思索の状態は自然に反した状態であり、瞑想する人間は堕落した動物である」*29。決 して存在しない仮定的な自然状態の人間だけが、現在の感情だけに専念する充溢した存在とし て想定されていたのである。  他者からの評価に左右され、本来の姿を見失う人間について、『不平等起源論』第二部で批 判がおこなわれているが、そもそも、文化としての人間が反省という行為で事物や事象のみな らず、自己をも自己に対して対象として立てたときから、自己に対しても同様にすでに他者と しての視点を獲得し、「他者」の視点からの評価を下しているのである。  この発展から来る新しい知識の光は、他の動物に対する人間の優越性を人間に知らせ、 それによって人間の優越性を増大させた。(・・・)このようにして、彼が自分自身に向け た最初の視線は、最初の高慢な心の動きをそこに作り出した。そうして、まだほとんど 序列を区別できないながらも、種としては自分が最もすぐれているとみなした人間は、 個人としても、早くから、自分がもっとも優れていると主張することを準備していたの であった。*30 自分自身に視線を向けることで、自分と他を「比較」することが可能になり、それによって、 まず、他の種の対する優越感と、それに続いて、自らの同類に対する個人としての優越感が生 じてくるとされている。関係を把握することは事物や事象を総体としてではなく、個別に認識 してそのつながりを考えることであるから、個体個体の識別と関係づけにおいては、当然個体 間の差異化がおこなわれ、そこには必然的に比較の行為が伴うことになろう。他者からみた自 分の評価はいうまでもなく、自分から見た自分において、すでに他者との比較の上で、他者か らの視点としての「評価」が成立している。  そして、この段階にいたると、みなが「公の評価」を得ようと競いあうが、その評価の基準 は「比較」によって一定の序列がつけられているから、その基準にあわせて自分を自分以外の ものに「見せかける」必要が生じてくるとされている。   こうして、すべての自然の資質が活発に動き始めると、単に財産の量や、役に立つ、また は害をなす能力についてだけではなく、精神や美しさや体力や器用さについて、そして、 長所や才能についても、各人の序列と運命が定められてしまった。そして、それらの資質 によってだけ、自分に評価をひきつけることができたので、まもなく、それらをもってい るか、またはもっているような振りをすることが必要になった。すなわち自分の利益のた

(10)

めには、実際の状態とは違った自己を示す必要があった。*31  しかし、ここで注意すべき点がある。各人は自身が持つ資質によって序列がつけられ、それ ゆえ、その中で序列の高い資質を持つことによってのみ人々の評価を得ることができるのだが、 それなら、ある資質が重要であるとする、あるいはある資質の中での優劣の序列を決めるのは 誰なのか。  比較がおこなわれ、関係が知覚されはじめたとき、関係は大小、強弱等の抽象的な観念によっ て表現されるようになったことは前に見た。しかし、大小、強弱のどちらに価値があって評価 が高いかについては、そこでは述べられていないように思われる。おそらく「自己保存本能」 がまず人間に与えられているなら、自己を生存させるのにより有利に働く資質、たとえば力の 強さ、体の大きさや、器用さといったものがより高く評価される資質であることは容易に推測 できる。人間が動物と自分を比べて優越を感じたときには、その優越はまず、自分が力や俊敏 さでは劣っていても、知恵の力で動物を凌ぎ、生存において優位に立てる、ということであっ た*32、とされていたのである。しかし、ルソーが言うような「最もじょうずに歌い、または踊 るもの、最も美しいもの」「最も雄弁なもの」*33 といった能力の比較は、人間の生存には何らか かわりのない資質についての評価である。こうした比較が生み出される過程に関しては、「人々 は様々な事物を考察し、比較することに慣れる。そして知らない間に価値と美の観念を獲得し、 それが選り好みの感情を生み出す」*34 と言われているが、ここでは純粋な自己保存という生存 の領域からは余剰である諸価値の観念が生じていて、その余剰の領域での評価が重視され始め ていることになる。ルソーはそこに「不平等への、そして同時に悪徳への第一歩」*35を見てい るのだが、ここで「選り好み」と言われているように、こうした資質に対する評価の基準は、 個人の好みに左右され、時代や地域によっても変化するものである。時代が変われば、たとえ、 生存にとって有利な資質である大きいこと、力が強いことでさえ、生存の必要性と切り離して スポーツの分野でなら多大な評価を受けることもあれば、それが粗野だとしてマイナスの評価 を受けることもあろう。例えば、女性においては、それらの資質はマイナス要因ともなりうる。 とすると、結局は、「各自が他人を眺めはじめ、また自分も眺められたいと思いはじめ、そこ で公の尊重というが一つの価値を持つように」なる*36 、そして、自身もその「公の評価」を得 たいと望むようになるということは、その評価を共有する集団の価値基準を受け入れるという ことでしかないのではないだろうか。その価値基準を受け入れたうえで、他者の資質を見てあ る評価を下すのであり、また、自己を自己が評価する場合においても、共同体の基準の採用し た他者としての自己が、その基準に則って自己を評価していることになる。そして、それが、 自然の事物や事象に対する評価であった場合(ある風景が美しいか、恐怖を催させるか。秋に 風情を感じるか、冬への入り口と感じて陰鬱さを感じるか、等)、人間はその育ってきた環境 における、特定の視点での共有された基準を無意識のうちにも受け入れ、その基準に沿って自 らにとって自然を切り取り、表象していることになり、それがこの論の最初に述べた「文化」 ということになるであろう。しかし、この公の基準については、公であるという以外に何らか の絶対的基準は存在するのだろうか。「その時代や文化に応じた自然についての特定の『常識的・ 科学的知識』」は、「特定の」といわれている限りにおいて、相対的なものでしかないのではな いか。

(11)

4)自由——結論に代えて  文化の視点から、時間と空間の問題をあらためて整理しておこう。人が対象を表象し、比較・ 評価する場合、それは知覚の持続として時間の継続の問題でもあるが、一方で共同体という空 間も必要になる。比較と評価の基準が公のものとして複数の人間に共有されていない限り、事 物や事象をどのように自分によって切り取り、どう表象するかも生まれてこないからである。 また、空間的に共有されたものは、ある時間継続して共有され続けるからこそ、「文化」として、 一時代の「常識」となり、公の評価の基準を形成することができる。人間の関心が現時点での 自己保存に限定されているのなら、他者と出会ったとしても、そのつどその場限りの関係を構 成するにとどまり、関係は持続の中で記憶に残ることはない。文化として何かを表象する体系 を作るというのは、それが体系である以上、観念の持続と定着、そして共有化が不可欠である。 観念だけなら「すべての動物には感覚があるのだから、観念をもっている。動物はある程度ま でその観念を組み合わせることさえする。そして人間はこの点ではけだものと程度の違いがあ るだけである」*37  しかし、結局、文化のなかにいる人間にとっては、公に共有された評価の基準で見た事物や 事象、あるいは他人から見た自分しか存在しないということになるのだろうか。  文化とは始まった時点からすでに時間の持続と空間の共有を含んで、他者による評価の世界 であり、その中で、「自然」に基づいた「本来」のありかたといったものはない、そのような 基準としての自然は、人間の意識にとって意味がないものである。アンヌ・ドゥネ=トゥネが『危 険な関係』についてマルクスの交換価値と使用価値の概念をもちいて、この作品の登場人物が、 代替可能な交換価値になってしまったことを論じているが *38、これは何も『危険な関係』の世 界に限ったことではないであろう。文化において生じる時間のなかで、「対自」としての「交 換価値」が自己疎外としての人間の堕落の始まりであろうと、人間というものがそこからしか 考えられないとするなら、文化の中でこそ、よりよいあり方を探求する必要がある。あらたに 「法を制定して、正義と義務を創設しなくてはならない」というのもそういう文脈で考えるこ とができよう。  そして、そうであるなら、そもそも価値の基準とは何であるのだろうか。また、それに関連 して、文化の中における自由とは何であろうか。  他者の評価による世界のなかで、自らの力によって他人の評価を操作するというのがラクロ の『危険な関係』、特に第81の手紙に表明されたメルトゥイユ公爵夫人の自由であった。「私は 私の作ったもの」*39。それは、受動的に他者から評価されることに甘んずることなく、自らの 意志の力で他者の評判を操り、自らの意志通りに自らを「見せかける」自由である。しかし、 こうした自由は、空間的に共有されている価値観に対する自由ではない。リベルタンの本来の 意味が、権威に逆らっての自由であり、17世紀においてそれがカトリック教会の権威からの自 由であったのに対し、18世紀のラクロの描くリベルタンの自由は、社会通念に逆らっての自由 ではなく、その社会通念を熟知した上で、あくまでその枠の中で、それを自らが操る自由であ る。ここでは「見せかけ」によって人は認識するという社会の仕組み、すなわち他者に対する 表象がすべてであるという前提が容認されており、その上に立って、その共同体の社会通念を 自分にとって最も有利に操作することにおいて自由が成り立っている。つまり、その価値体系 の中で自由ではあるが、その体系の外にでる自由ではない。しかし、先に見たように、美しさ や長所、才能といった主観が関与するものの価値を定める基準は明確ではない。絶対性はここ

(12)

には存在しないのだから、そのような世界の中ではいくら恣意的なものであろうと、その時々 に作られる「公の評価」、すなわち皆に共有された価値、言い換えるなら「その時代や文化に 応じた特定の『常識的・科学的知識』」に沿って、人は事物や事象を切り取り、表象すること になる。自由とはせいぜい、その常識的・科学的知識を他の人に先んじて把握し、自分がどう 見られており、どう見られれば有利であるかを演出することにしかないであろう。その時、人 は、具体的な他者には従属しないかも知れないが、その時代の文化に共有された価値観からは 自由ではない。  そうした相対性の世界、他者への表象がすべてであるという「見せかけ」の世界から逃れる ためには、価値の絶対の基準がどこかに必要となるのではないだろうか。自然や神をもはやこ の基準にすることができないのであるなら、あらたな「法」が必要となるであろうが、ルソーの 「一般意志」は、「全体意志」との差を持って、そのような基準になることができるのだろうか。 市民宗教を巡る議論も含めて、現在、ルソー研究のホットな話題となっているこの点について のわれわれの考察は今後の課題とするが、例えば、スピノザの『エチカ』は、目的概念ではな く原因の概念による思想体系であり、時間概念を超越した永遠性(それゆえ、始まりも持続も 持たない)である実体に対し、神の属性としての人間は不完全であることを前提とし、実体に より近づけるか否かの運動の大小に善や幸福を見ていた。人間の文化にとって、相対性の世界 が免れ得ない条件であるなら、絶対に近づく運動にのみ基準をおく価値体系もまた考察の必要 があるのかもしれない。しかし、その場合においても「絶対」は前提とされていることになる なら、「自由」にとっても、絶対的な正義の基準がどこかに存在しなくてはならないのであろ うか。 *1 西村清和『プラスチックの木でなにが悪いのか』勁草書房、2011年。 *2 同上 p.26. *3 同上 p.26.

*4 François Jacob, 《L’évolution sans projet》, in Le darwinisme aujourd’hui, Points, Editions du Seuil,

1979, pp145-146.

*5 石井洋二郎、ピエール・ブルデュー『ディスタンクシオン』訳者解説、藤原書店、1990、 p.476.

*6 スピノザ『エチカ』第1部定義4、畠中尚志訳、岩波文庫、岩波書店、1975、p.37.

*7 J.-J. Rousseau, Les Rêveries du Promeneur solitaire, Bibliothèque de la Pléiade, Œuvres complètes, I,

Gallimard, 1959, pp.1046-1047.

*8 J.-J. Rousseau, Discours sur l'origine et les fondements de l'inégalité parmi les hommes, Bibliothèque

de la Pléiade, Œuvres complètes, III, Gallimard, 1964, p.123.

*9 Ibid., pp.134-135.

*10 Ibid., pp.125-126.

*11 Ibid., p.126.

*12 Ibid., p.146.

(13)

*14 同上、第2章第8節、p.23. *15 同上、第1章第5節、pp.14-15.

*16 同上、第2章第6節、p.20.

*17 同上、第2章第15節、p.28.

*18 J.-J. Rousseau, Discours sur l'origine et les fondements de l'inégalité parmi les hommes, op.cit., p.153.

*19 Ibid., p.165. *20 Ibid., p.144. *21 Ibid., p.143. *22 Ibid., p.173. *23 Ibid., p.142. *24 Ibid., p.144. *25 佐藤淳二「国家・政治共同体・<契約>—ルソー論のための覚え書」pp.72-73、18世紀フラ ンス研究会論文資料。 *26 佐藤淳二「創設の困難さ」p.17、2008年3月の口頭発表への加筆、18世紀フランス研究会 論文資料。 *27 ラプランシュ /ポンタリス、『精神分析用語辞典』、「鏡像段階 」、村上仁監訳、みすず書房、 1977、p.77-78. *28 同上、 p.78.

*29 J.-J. Rousseau, Discours sur l'origine et les fondements de l'inégalité parmi les hommes, op.cit., p.138.

*30 Ibid., pp.165-166. *31 Ibid., p174. *32 Ibid., p.166. *33 Ibid., p.169. *34 Ibid., p.169. *35 Ibid., pp.169-170. *36 Ibid., p.169. *37 Ibid., p.141.

*38 Anne Deneys-Tunney, 《Economie du corps libertin dans Les Liaisons dangereuses》, dans Ecritures

du corps, Presses Universitaires de France, 1992.

(14)

参照

関連したドキュメント

当社は「世界を変える、新しい流れを。」というミッションの下、インターネットを通じて、法人・個人の垣根 を 壊 し 、 誰 もが 多様 な 専門性 を 生 かすことで 今 まで

はありますが、これまでの 40 人から 35

いしかわ医療的 ケア 児支援 センターで たいせつにしていること.

夫婦間のこれらの関係の破綻状態とに比例したかたちで分担額

 今日のセミナーは、人生の最終ステージまで芸術の力 でイキイキと生き抜くことができる社会をどのようにつ

自然言語というのは、生得 な文法 があるということです。 生まれつき に、人 に わっている 力を って乳幼児が獲得できる言語だという え です。 語の それ自 も、 から

都調査において、稲わら等のバイオ燃焼については、検出された元素数が少なか

下山にはいり、ABさんの名案でロープでつ ながれた子供たちには笑ってしまいました。つ