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聖 書 へブル12:11,12 (第41講)

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聖 書 マタイによる福音書 5:1~12 (第 11 講) 題 「イエス様の御思いから見た幸いな人生、その1」 (序)間違ったイメージがもたらす誤解の怖さ * 最近つくづく感じさせられることですが、人間というのは イメージによって生きているものだとつくづく思わされて います。過去に、自分の中に作り上げられてしまったイメ ージに囚われやすいのですが、それから解放された時から、 正しいイメージを描き直して、力強く前進していくことが できると言っていいでしょう。 * 聖書信仰などは、特にそうだと言って間違いないでしょう。 最初に持ってしまったイメージが、正しいイメージならい いのですが、間違っていた場合、最後までその人の信仰を 妨げる結果になります。まして人間の知恵で理解できない 福音ですから、聖霊の助けを頂いて、神の知恵を理解して いくという向かい方ができない限り、神の知恵が分からな いままで終わってしまう可能性があります。 * 私の正直な思いですが、これまでマタイによる福音書の学 びをなるべく後回しにしようと、少し避けてきたところが ありました。それは特に、この 5 章から 7 章にかけて語ら れている内容で、昔はこれを山上の垂訓という表題で呼ん でいました。今では山上の説教と呼ばれる場合が多いです が、私なら、山上の使信と言いたい内容です。始めにこの 内容を読んだ時、すごいレベルが高過ぎる教えだと感じな がら、自分の中で、いつの間にか、知らず知らずこの通り にできなければ、信仰者として失格なのではないかという 思いに囚われ、自分の中で、新約の律法のように考えてし まっていたところがありました。

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* それは、いろいろな註解書を読んでも、そのイメージを振 り払ってくれる書物に出会うこともなく、真の慰めを受け 取らせてくれるものは一つもなく、私と同じ古いイメージ から抜け出ていないのではないかと感じさせられる解説ば かりです。結局は、聖書を註解する人たちも、神の知恵を 受けとめていないと感じさせられるものばかりでした。 * 私自身、霊的な受けとめ方ができるようにされてからも、 それでも古いイメージからなかなか解放されない思いが残 っており、ここに記されている使信を、ところどころ取り 上げることはあっても、全体を通して真剣に取り組もうと する思いが起こされなくて、今日まで来ました。しかし、 そこにどのような神の御心が示されているのか、古いイメ ージから解放された者として、聖霊の助けを得て、人間の 知恵による見方ではなく、神の驚くべき深い知恵から出た 意味のある教えとして見ていきたいと思わされたのです。 (1)見る角度を変えて読み取っていく御心 * イエス様がこの地上に遣わされて何をなそうとされたのか。 父なる神から与えられた使命は何であったのか。それをマ タイは、要約の形でここに述べてきたと見てきました。そ の結果、多くの人々は、そのお姿を見聞きしてどのように 受けとめたのか、ここに記されている“従った”という表 現だけでは詳しくは分かりませんが、いろいろな思いを持 ってイエス様の下に集まってきたので、イエス様は山に登 って、そこに座につかれたと言われています。 * イエス様には、まだそんなつもりはなかったので、群衆を 離れて山に登られ、弟子たちだけがついてきたのか。それ とも、群衆も一緒についてきて、弟子たちがそばで聞きな

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がら、群衆もその話に聞き入っていたのか。これだけでは よく分かりません。7 章の終わりのところで、イエス様の 権威ある教えのすごさに群衆が驚いたとありますから、お そらく、全員とは言えないまでも、群衆も一緒に山という か丘に登り、その教えに聞き入ったのでしょう。 * ある学者たちは、マタイがイエス様の教えを編集して一つ に集めたのではないかと見ていますが、弟子たちや、聞こ うとしていた群衆に対して、これぐらいの話を一気になさ るのは、不思議でも何でもないでしょう。ルカにおいて、 分散して語られているのは、イエス様は一度限りしか語ら れなかったというのではなく、それに近い内容を繰り返し 語られたと考える方が普通でしょう。それ故、ルカでは分 散して記していると考えるべきです。 * 弟子たちだけにせよ、弟子たちを中心に多くの群衆がいた にせよ、この時にイエス様が教えようとされたことは、道 徳律のようなものではなく、昔モーセを通して律法を与え られたのは、神の前にどう生きなければならないかという 内容でしたが、ここにおいてイエス様が教えられたことは、 それと同様の新約版だと言うのではありません。 * 律法を守ることができない人間であることをイエス様はよ くご存じでありますから、同様の要求をなさるはずがあり ません。ご自身の贖いのみわざはまだ先ですが、それを成 就されることを前提として語られていると見るべきでしょ う。それを基にした罪赦された者が、神の前にどのように 生きることができるようにされているのかを、気づかせる ものであったと言うべきでしょう。 * このことを理解するためには、見る角度を変えなければ、 その意図するところが見えません。見る角度を変えるとは、

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言葉の表面上ばかり見ないで、言葉に込められた思いから 見ていくことです。それを具体的に見ていきましょう。ど ういう人が幸いな人かを語られました。心を貧しくするこ とができた人だけが幸いだと言える。そういう人だけが天 国に入れて頂けると表面上から読もうとする思いが働きま す。この読み方をやめる必要があります。 * それでは、見る角度を変えて、そのお言葉に込められた思 いから見ていくとはどういう見方をすることでしょうか。 それは、あなたは自分がいかに、心が貧しい人間でしかな いか気づきなさい。気づくことによって、あなたがたは神 から幸いだと言われている。そういう人はすでに天の支配 の中に入れて頂いていると言えると言われたのです。 * 自分で頑張ったり、悟ったりして、心が貧しくなろうとす ることではなく、主の前に、心がいかに貧しくて、何の取 り柄もない人間に過ぎないと気づいて、初めて神が用意し て下さっている幸いを受ける者となると言われたのです。 この角度から一つ一つの語られた内容を見ていくことにし ましょう。 (2)霊の貧弱さに気づいた人が幸いだとは? * ここには 8 つの幸いについて語られています。11 節の内 容も加えて 9 つの幸いという人もありますが、イエス様の 思いの中では 8 つを一括りで語られたものだと考えられま す。日本語では文の最後に訳されている言葉ですが、ギリ シャ語では最初に幸いなるかなと記され、幸いとはこのよ うなものだと強調されているのが分かります。 * ただ意味なく羅列されているわけではありませんから、今 日はその中の 4 つの幸いについて見ていくことにしましょ

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う。一つ一つにどのようなつながりを持って語られている のか。弟子たちを中心とした、群衆にも語りかけられたも のとして見ていくことにしましょう。 * 第 1 の幸いは、幸いなのは、心の貧しい人だと言いました。 この心という言葉は、本来霊を現す言葉で、心と訳すと、 どうも別な内容に思えて仕方がありません。貧弱な心の人 は幸いだと言われると、どう理解すべきか分かりません。 この霊は、神のかたちとして与えられたもので、唯一、神 と結びつくことができる部分であって、神を思い、神の愛 を受けとめ、罪に気づく特殊能力とでも言えばいいでしょ うか。幸いなのは、この霊が貧しい人だと言われたのです。 * すなわち、自分の霊が十分に働いておらず、神との結びつ きが貧弱で、神を知る能力が不足しており、罪が分からず、 神の愛の深さも分かっておらず、神の深いお心が全く見え ていない。これで神のかたちである霊を頂いた人間と言え るのか。そんな自分の霊の貧弱さに気づいた人は幸いだと 言われているのです。 * なぜ霊の貧弱さに気づいた人が幸いだと言われているので しょうか。気づくことが、霊が満たされていくための初期 状態だと見られているからです。霊があることさえ気づい ていない人がほとんどです。どれほど霊が貧弱であるか気 づくこともないのです。言うならば、霊が完全に栄養失調 状態になってしまっているのです。からだであれば、動か なくなりますから分かりますが、霊は感じることがないの で、分からないまま滅びに向かうだけです。 * それ故、イエス様が弟子たちに、また群衆に教えるために 語られた最初のことは、霊がいかに栄養失調状態になって いるか気づきなさいと言うことだったのです。頑張って律

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法を守り、立派な信仰者らしくきよい歩みをしなさいと言 われたのではなく、自分の霊の栄養失調状態に気づけ、そ うすれば神の支配はそのような人たちのものだと言われた のです。言葉に込められた思いから、すなわち、見る角度 を変えて見ると、イエス様の語られた思いが見えてきます。 * 神の支配の中に置かれて生きていくことができるという最 も幸いな人生は、まず自分の霊の栄養失調状態に気づいた 人だけだ。神はそのような人に、霊の栄養を与えて、神の 愛の深さを知るように整え、罪の恐ろしさ、神に逆らうこ との無謀さ、神から受ける恵みの大きさ、導きのすごさ、 すべて必要な祝福を与えつつ、育てて行って下さるという 神の支配の中で喜び驚くことができるのです。 * もちろん、霊の栄養失調状態であることを知ったならば、 それを回復して下さるようにと霊が必要としている栄養に 飢え渇き、神がその栄養を満たして下さると信じる思いを 起こして導いて下さるのです。すなわち、気づくことは満 たしにつながっているということです。気づいても何の思 いも起こらないというのは、本当の意味で気づいていない だけです。 (3)第 2,3,4 の幸いについての真意 * 第 1 の幸いが全体の中に流れている中心テーマーだと言え ます。それを基に第 2,3,4 の幸いについて見ていくこ とにしましょう。第 2 は、幸いである、悲しんでいる人は と言われました。何を悲しんでいるかと言いますと、神の 前に立つ自分の位置を失った悲しさだと言えます。 * これを勘違いして、世的境遇を悲しんでいる人は幸いだと 言われたと受けとめてしまうと、その意味するところが全

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く見えず、一体何のことを言われたのか分からないのです。 世的境遇を悲しめとは決して言われません。人は、貧富、 容貌、学力、能力、世における境遇などによる様々な境遇 に置かれ、ある人はそれを喜べるし、ある人はそれを悲し みます。それらは、人の前に生きる上で考えさせられるこ とです。しかしこの観点からイエス様が言われたはずはあ りません。これが最初に言った見る角度を変えることです。 * 表面上から読もうとする思いをやめ、イエス様が、そのお 言葉にどのような思いを込められたかという角度から見て いくと分かります。イエス様は、神の前にどのように生き ることができるようにされているのかを、気づかせるため に語られているのですから、神の前に立つ自分に気づいて、 いかに立ち位置を見失ってしまっている自分がそこにいる か、それを悲しんでいる人は幸いだと言われたのです。 * それは第 1 の霊の貧しさに通じるものだと言えます。そこ では、自分の霊の栄養失調状態に気づくことが幸いな人に なる原点だと言われたのですが、悲しんでいる人はと言う ことによって、神の前における立ち位置を見失ってしまっ たことによって、霊が死んでいることに気づけ、早く霊を 回復して頂きたいと願いなさい。それが幸いな人としての あるべき姿だと言われたのです。 * そのような人は慰めを受けると言われています。大丈夫だ 気づきさえすれば、見失っていた立ち位置を回復させるた めに、神が慰めの御手を伸べて下さるからだと言われてい るのです。 * 第 3 は、幸いなるかな、柔和な人たちはと言われました。 この言葉は、徳目の一つのように受けとめられやすい言葉 で、優しく穏やかで、粗暴さのない姿を現している性質と

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考えられやすいのですが、ある学者たちは、この原語は、 抑圧され、厳しい状況の中で自分の無力さ、取るに足りな い様を認め、それを耐えている。そんな自分の低さを知っ ている人のことを表す言葉だと言います。 * 確かにこのところで、イエス様が、そのお言葉にどのよう な思いを込められたかという角度から見ていくと、この話 の流れからも、神の前にどのように生きるようにされてい るかという思いで語られたのであれば、このような柔和さ という美徳を持つ人は幸いだと言われるはずがなく、世の 境遇において、たとえ抑圧される境遇にあろうと、大事な 事は、神の前における立ち位置ですから、神の前にいかに 自分が低い人間であるかを認め、神の前に砕かれる者は幸 いだと言われたと考えられます。 * 人間は、大抵、神の前における自分の姿が見えていません から、自分が立派であるかのように虚勢を張り、自分の低 さを見せないように生きている者です。しかしイエス様は、 神の前に自分の低さを認め、砕かれ、降参しなさい。そう すれは、本当の意味で、地を受け継ぐ者、すなわち、世に おいて真の勝利者、支配者にされると言われたのです。 * 第 4 の幸いは、幸いなのは、義に飢え渇いている人だと言 われました。これも正義感を貫き通すことができる意志の 強い人、義を求め続ける正しくてきよい人という意味で言 われたとは考えられません。イエス様がどのような思いで 語られたかという角度から見るならば、神の前に立って、 自分の中に、神が義と見て下さる部分がどこにもなく、神 のかたちである霊を持っているとは決して言えない貧弱な 人間でしかなく、神の一方的な恵みによって、神の前に立 つことができる義が与えられるように願う者は幸いだと言

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われたのです。 * そうすれば、神は、私たちの内に義を見ることができない みじめな存在でしかないことが分かっておられても、私が 来たことによって、贖いのみわざを成し遂げることによっ て神は義がある者、喜んで神の前に立つことができる者と して義を満たして下さると言われたのです。 (結び)気づくことと認めることが幸いな人生の条件 * 私たちがいつの間にか持ってしまっている世の感覚や世的 理解や判断から、脳の内に映像化されているイメージが、 この山上の使信について、正しく理解するのに困難になっ ていました。しかし、見る角度を変え、イエス様の御思い がどこにあるのかという観点から見るようになれば、そこ に込められたメッセージが見えてきます。 * 今日は、幸いなるかなと語られた幸福のメッセージの前半 部分を見てきました。何を幸いに感じるかは、人様々です から、一般的に、断定してこうだと言うことができません が、しかしここでイエス様が語られたことは、神の前に生 きることなくして人間に幸いなどはない。それ故、どうあ ることが神の前に生きることか、前半の 4 つの幸いについ て語られたのを見てきました。 * 第 1 は、霊の貧しい人はと言われ、自分の霊の栄養失調状 態に気づけ、そうすれば神の支配はそのような人たちのも のだと言われ、第 2 は神の前に立ち位置を見失ってしまっ ている自分がいることに早く気づいて、それを悲しんでい る人は幸いだ。気づきさえすれば、その立ち位置を戻させ るために、神が慰めの御手を伸べて下さると言われました。 * 更に第 3 において、柔和な人という言葉で、神の前に自分

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の低さを認め、砕かれ、降参する人が、世において真の勝 利者、支配者にされると言われ、第 4 において、自分の中 に、神のかたちである霊を持っているとは決して言えない、 義のない貧弱な人間でしかなく、神の一方的な恵みによっ て神の前に立つことができる義が与えられるように願う人 が幸いだと言われました。 * この 4 つの幸いな状態は、一つのことを示しています。ど うあれば神の前に立ち、幸いな人生を送ることができるか という一点です。神が霊なる存在として造られた人間から ほど遠く、遠く離れた存在になってしまっていることに早 く気づいて、虚勢を張らず、格好をつけず、自分の弱さ、 低さ、栄養失調状態であることを悲しみ、それを認め、神 の前に立つには、最もふさわしくない者であることに気づ きなさい。そうすれば、神はあわれみ、慰め、恵みを与え、 祝福の中に置いて下さる。それが幸いな人生だと教えられ たことが分かります。 * イエス様は、弟子たちや群衆に対して、神の前に立つ者で ありたいと願う者は、自分がそれにいかにふさわしくない 存在であるか、早くそれに気づき、認めなさいと言われま した。気づくことと認めること、この 2 つが幸いな人にな る条件だと言われました。 * しかし、人間は気づいているようで気づいておらず、認め ているようで認めてはいないのです。それは、罪がもたら した霊的無知と頑固さが内側に染み込んでいるからです。 ですから、それが解決するための唯一の方法は、御言葉を 食べ続けるしかありません。そうすることによって、無知 と頑固さが砕かれていき、主が用意して下さっている幸い 人生に入ることができることをイエス様が示されたのです。

参照

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