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臨床の固有性とは何か

著者

月成 亮輔

著者別名

TSUKINARI Ryosuke

雑誌名

東洋大学大学院紀要

53

ページ

15-28

発行年

2016

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00008772/

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臨床の固有性とは何か

文学研究科哲学専攻博士前期課程1年

月成 亮輔

要旨

 「臨床」は特別な場である。どれだけ、臨床について言語を届かせようと努めても、表現 しきれない何かを常に有している。臨床について言語表現することは有意義なのだろうか。 表現しきれない何かを感じるのは、臨床の現場に長く携わる者だけである。表現しようと努 めることでしか、その何かは「表現しきれない」と感じるはずもなく、その際に初めて臨床 の固有性が前景化されるのではないだろうか。  現代社会は、近代科学が知の中心を占めており、科学的であるか否かという視点が大きな 差を生む。医療分野でもその傾向は著明であり、様々な介入に対してエビデンス(科学的根 拠)レベルが判定され、臨床での指針となっている。しかし、臨床の場では、エビデンスレ ベルが高いという理由で介入に進むのではなく、低いという理由で介入しない選択をするの でもない。あくまで参考にする程度であり、個々の介入は固有性に富んでいる。その理由は 患者の個別性にもある。脳卒中の疾患をとってみても、典型的な症例などない。患者はそれ ぞれ複合的な疾患や、既往歴、家族背景、パーソナリティを有しており、それらを無視する ことが出来ないためである。また患者の個別性に加え、セラピストの個別性も影響している のは間違いない。それぞれの患者の個別性に対して対応してきたセラピストも同じく、それ ぞれの個別な経験を有しているのである。しかし、そのような個々の経験に基づく治療は、 医療の統制を行う体制の面から推奨できるものではないし、確かに研鑚も重ねず、どのよう な患者に対しても画一的な介入を行う臨床家も多く存在していることも事実である。そのた め、一定の医療水準を満たすため、科学的知見をもとにエビデンスに基づく治療を推奨する ことは、一つの解決策ではある。しかし、そこで解決はしきれない。科学的研究を臨床にそ のまま適用することはできないからである。この局面をどのように解決していけば良いだろ うか。研究者は普遍性を求め、臨床家は個別性を重視する。普遍性と個別性の両立は、今日 までの人類の大きなテーマでもあり、その解決しきれない大きなテーマが、リハビリテーショ ン医療にも重く圧し掛かっている。そのような背景において、まず臨床の固有性について認 め、共有することが必要であると考えた。

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 本論では、臨床の固有性を浮き彫りにするべく、臨床と研究・科学の知の違いを比較検討 した。また、臨床経験の共有・効果判定などの視点から臨床の固有性について論じた。

1. 問いの背景

 EBM(Evidence…Based…Medicine)を推進していく医学の動きにリハビリテーション医療 も例外なく乗じている。リハビリテーション医療の現場で医療業務として従事する理学療法 分野もその一例である。臨床家に求められるのは、理学療法の施術の背景にある科学的根拠 を常に意識し、その知識を持って施術を行い、科学的根拠がない施術は行わないというの がこの動きの内実である。このように記すともっともらしく、当然の動きのように思える。 しかし、この動きに100%賛同している臨床家は少ないというのが現場内部での印象である。 どこか筋違いな方向に進んでいる感覚があるのである。しかし、この根拠を明確に表現する 術を持たず、なし崩し的に承認せざるを得ないため、EBM推進の動きに準じているという のが現状である。確かに、経験科学を基盤にした各種の実験を経た後に、統計学的にその数 値の意味を問うことで得られる科学的根拠は、論理性・客観性という視点から非常に長けて おり、その知がもたらす人類への貢献は疑いの余地はない。その認識は万人に浸透しており、 医療行為の際に、「この方法は科学的根拠はないけれど、あなたにはよく効くと思います。やっ てみましょう」という医療者の提案が、どこか受け入れがたい感触を持つのは多くの人に共 通している感覚であろう。それほどまでに科学の信頼性は高く、「科学的根拠がある」と謳 うだけで安心できる面は確かにあるのである。それにも関わらず、100%賛同することが出 来ない臨床家の感性やそれを支える経験は何なのか。臨床家特有の感覚なのだろうか。  臨床家の活動に目を向けてみると、研鑽の場として学会や講習会に自主的に参加する臨床 家は多い。つまり臨床家はどこかで「臨床だけでは不十分」と認識していることが予想され る。学会や講習会の多くは学術的な場であり、資料やテキストを材料とし、その内容に基づ いて意見交換を進める。また症例報告・症例検討では、臨床の場で悩んでいる症例やまた成 功例の経過を議論する。臨床での介入方法とその経過との因果関係が論点となり、臨床その ものの議論が行われるこの場面においても、臨床の実際とはかけ離れた感覚で議論が進む違 和感をたびたび経験する。臨床家と臨床家以外というギャップに留まらず、臨床家の集まり の中で行われる議論でさえも「臨床の感覚とは異なる」議論となってしまうのである。  このような例から「臨床の固有性」が浮き彫りになってくる。臨床とはいったいどのよう な場であるのか。臨床は特殊な領域であり、そこでは固有の経験が行われている。そして臨 床に関わる誰もが、どこかでその「固有性」に気づいているにも関わらず、その内実を表現 するには至らず、未だその固有性を定式化できていない現状であることが推察される。現場 での経験を元に、これまでの哲学的議論も含め「臨床の固有性」について論じてみたい。

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2.「臨床」と「研究」の関係性

 臨床の場では、通常「臨床」と「研究」という対比構造の意識がある。「臨床」と「研究」 この両者の違いはどのような違いであるのか。「臨床だけでは不十分」とする臨床家がどこか で相容れないと感じ、それにも関わらず、双方欠かすことはできない存在としているこの両 者の関係性はどのようなものであるのか。まずは、この対比構造の中から、臨床の固有性に 迫ってみたい。  対比概念は二つの極である。ある基準で両者を位置づけた際に、相容れない境界線がひか れる極の関係である。「臨床」と「研究」を対比概念として捉えた際に、類似した関係性とし てイメージできるものは、「実践」と「理論」、また哲学分野にてよく対比概念として例に挙 がるデカルトの身心二元論から「身(身体)」と「心(精神)」という対比構造が思い浮かぶ。 ここでは「身体」と「精神」の関係性を例に挙げ、思考を進めてみる。 「デカルトは、有名な「われ思う、ゆえにわれあり」の直観から出発して、<精神(心) >と<物体(身体)>とをまったく違った存在次元にある二つの別個な実体としてはっき り区別した。彼によれば、精神の固有の働きが<思い考える>のに対して、物体の物体た るゆえんは、重さや硬さや色などをもっていることではなく、空間的な拡がりを持ってい ることである。こうして、物体や自然は、客体として精神つまり主体からまったく引き離 された上で、縦・横・高さを持った空間的な拡がりに還元され、もはや精神と混同される 余地のない量的な世界となった1。」  デカルトは双方を全く異なる対称構造として設定したため、相互に影響しあう相互作用は ないものとして捉えられているが、現場で働く臨床家のほとんどはこの相互作用を直観とし て感じており、それを実践していると考えられる。つまり、直接的に影響を及ぼし合うこと はないが、奇妙に連動しているカップリングの関係である。カップリングについて河本は著 書「オートポイエーシス…第三世代システム」においてオートポイエーシス概念の提唱者マ トゥラーナの言葉を引用し、次のように述べている。 「二つの単位体の行為の関数であるような領域がある場合、単位体はその領域でカップリ ングしていると言ってよい。カップリングは、相互作用する単位体が、同一性を失うこと なく、相互作用の過程でこうむる相互の変容の結果として生じる2。」  さらに河本は、カップリングとは、相互に決定関係のない媒介変数を提供し合った連動関 係であると述べている3。どのような局面にあっても「臨床」と「研究」は連動関係にはあるが、 それぞれ同一性を維持し続けており、固有のシステムとして成立している。臨床は臨床の知

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があり、研究は研究の知がある。臨床は臨床の運動があり、研究は研究の運動があるのであ る。しかし、何らかの共通の変数があることが、臨床家には直観的に捉えていることであり、 双方を同時進行していく意義になるのである。対比構造として捉える「臨床」と「研究」は 相補的な関係にありながら、その固有性を維持し続けている関係である。

3. 臨床の知

 「知」の側面から臨床の固有性を捉えてみる。中村は近代科学の知の特徴を「普遍性」「客 観性」「論理性」の三要素であるとし、それと対比した「臨床の知」は「コスモロジー(固有 世界)」「シンボリズム(事物の多様性)」「パフォーマンス(身体性をそなえた行為)」である としている4。また稲垣は「プロセスとしての臨床5」のなかで、ナラティブ(物語)として の知の在り方を表現している。ここでは臨床での経験から、これらの指摘とは幾分異なる新 たな捉え直しを図ってみたい。症例検討・報告等で実施される臨床の議論でさえ、臨床の実 際とは異なると感じられる違和感は何なのか。その場に居合わせる臨床家はどこか冷静すぎ る眼差しで議論に進んでいるという違和感は何なのか。この違和感は上記の二者の指摘から 解釈できるものでもあるが、もう一つ<解釈・理解>という枠での知の狭さが現出している。 臨床の場では、ライブ感に満ちており、刻一刻と変化する現実にその都度対応し続ける。そ して気が付いたら当初計画していた治療方法とは全く異なる方法で行っているということは 良く生じる事態である。その過程を振り返ってみた際、その都度の行為の選択の根拠にふさ わしい言語は「なんとなく」なのである。しかし、その「なんとなく」の内実を言語で説明 しよう試みると<解釈・理解>としての知に変換せざるを得ない。つまり、言語化がその境 界になっている。当然ではあるが、他者からの「なぜそのように考えたのか」「なぜそのよう な介入を行ったのか」等の問いかけに際して「なんとなく」と答えることは、批判を受ける。 これは社会的コミュニケーションの問題である。つまり、相手の立場や気持ちを理解せず発 している言葉だからである。しかし、この「なんとなく」の感覚は決して、批判される対象 ではなく、臨床家のその場の行為を振り返った際に最も近い感覚であると考えられる。古田 は行為の一人称権威を解釈する事例としてアンスコムの議論を例に挙げ、次のように示して いる。 「行為者当人は基本的に自分がした行為の意味(理由、意図)を観察と解釈によらずに知っ ている一方で、それ以外の人々は、行為者の表情や、身振り、声などを観察し、それを解 釈することによって知るということが、非対称性の中身なのである6。」  他者からは行為者の行為の意味は<解釈・理解>によって知ることしか出来ないという< 解釈・理解>の知の狭さが表現されている。つまり、臨床の場での臨床推論・臨床家の行為

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について自分自身で語るとき、臨床家の表現は他者に伝える目的が優先されるために、<解 釈・理解>の知に変換せざるを得ない。人見は発達障害児のリハビリに携わり、認知運動療 法(現認知神経リハビリテーション)の問題点を指摘する中で、「内部観察」の重要性を主 張している7。また、「事象そのものへ」と謳うフッサールの現象学においても記述すること の重要性を示している。これらの指摘は、他者の行為に限らず、自分自身の行為においても、 それを認識するには<解釈・理解>の知として進まざるを得ないことを示している。しかし その<解釈・理解>の知は実際のその行為の意味とはかけ離れており、多くの知を削ぎ落と している。その削ぎ落とされた知が、中村の言う「コスモロジー(固有世界)」「シンボリズム(事 物の多様性)」「パフォーマンス(身体性をそなえた行為)」、また稲垣の言う「ナラティブ(物 語)」なのである。出席したある講義の中で、臨床での活躍が評価される神経内科医が「わ たしの臨床は矛盾だらけです」と表現していた。この言葉は<解釈・理解>では届かないま さに臨床家の行為のありのままを説明しているのである。

4. 臨床の知と科学の知の進み方

 <解釈・理解>からの応用は科学の基本である。ニュートンの万有引力やデカルトの幾何 学等より数々の発明が生まれ、これまでも人々の生活を豊かにし、多くの功績を残してきた。 <解釈・理解>の応用である科学の知が、臨床に適合しない知であるのは何故か。現時点で <解釈・理解>できない現実に対する態度・進み方を考えてみたい。一つ例に取る。現代に おいて生命を創ることは出来ていない。といってもクローン羊や、代理出産など人工的な遺 伝子操作などによって生命から生命を誕生させることは可能であっても、様々な材料を組み 合わせるような方法で、生命ではないものから生命を誕生・構築することは出来ていない。 ロボットや人工知能などの複雑なシステムの塊を創ることは出来ても、生命は未だ創れない ままで留まっている。この先には生命とは何か、何を以って生命とするかという問いが自ず と生ずるが、それについての議論はこの場では保留しておく。生命は現代において最新の科 学技術を以ってしても創れないということをまずここでは確認しておきたい。では何故、生 命が創れないのか。生命に必要な部品が足りないからであろうか。部品はそろってはいるけ れど、その先に進んでいけないのか。生命が創れない現在において、この理由はわかるはず がない。分かっているのは、現時点で科学の知が生命には届いていないという事実だけであ る。つまり現時点での<理解・解釈>では届かないところに生命がある。しかし、現にわれ われはこうやって生きている。これが「現実」なのである。このわけも分からず既に、そし て確実に成立してしまっている「現実」に対して、科学の知は、そして臨床の知はどのよう な進み方ができるのであろうか。  リハビリテーションの臨床は、上記の例に近い。リハビリテーション医療は、現在の最新 の医学を以ってしても、何らかの後遺症を残したまま退院し、その後の生活をしていく患者

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が多い現状にある。またその症状も多種多様であり、健常者の感覚では理解不可能な症状が 数多く存在している。半側空間無視や失行などの高次脳機能障害と呼ばれる症状もその典型 例である。数多くの知見はあるにせよ、症状理解・回復の難解さは残されたままであり、もっ と根本的な問題としては、何故その患者が発症したのかという問いでさえ定かではない。そ の中で、患者の治療・回復を目的にするリハビリテーションの臨床は、まさに「わけの分か らない現実」に直面する場面となる。  先人達が積み上げてきた<理解・解釈>の知を総動員して、さらに新たな<理解・解釈> を発見し、切り開こうと試みるのが科学の知での進み方であるのに対して、その訳がわから ない現実に、他者として対峙し、関わり、さらに何らかの誘導をしようと試みていく時に、「他 者として関わる現実」として関わることが臨床の知の進み方である。つまり、ある「患者の 現実」に対して「それに関わる際に成立する現実」として進んでいくのである。どちら進み 方が良い・悪いという議論ではなく、どちらの進み方がその患者の「現実」を変える可能性 を持つだろうか。現時点で目の前の現実に届いていない科学の知にて出来る限り進んでいく 方法に比し、臨床の知が届く射程距離は未知数である。  科学の知と臨床の知の進み方の例を挙げてみたい。右図はミュラー・リヤー錯視として知 られる、よく見慣れた図である(図1)。一見、上の横棒の方が長いように見える錯覚を起こ すが、実は同じ長さである。定規などで測って比べてみても良い。同じ長さであることが分 かる。つまり<解釈・理解>される。十分に<解釈・理解>された後に、目を外し、もう一 度見てみる。同じ長さに見えるだろうか。何度見ても、上の棒が長く見えるであろう8。こ れが「現実」である。この現実に対して、幾度となく定規で計測する<解釈・理解>の反復 を通じても、この「現実」は変わらないのである。ここに一つに工夫をしてみる。図2のよ うに点線を横線の両端に引いてみる。その後、目を外し、また再度見てみる。今度はどうだ ろうか。多くの人が横線が同じ長さに見えるだろう。  ここには人間の知覚における現実の成立に対して、<解釈・理解>の知では届かない隔た りが表れている。ここが人への関わりが、物への関わりと異なる関わり方を必要とする理由 となる。つまり<解釈・理解>の延長では動かせない知覚が成立している可能性が高いので 図1 ミュラー・リヤー錯視 図2 ミュラー・リヤー錯視の工夫

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ある。  脳卒中後に半側空間無視という症状が現れることがある。脳の損傷側と対側の空間の注意 が特異的に不足するという症状である。検査においては、図3上のような絵を模写してもら うと、下図のような絵となる症状である。また図4では、Aの文字を斜線で消していく課題 であるが、左側のAを特異的に見落としている。この症状は、右半球損傷の脳卒中患者に比 較的好発し、臨床の場面ではそれほど珍しくない症状である。日常的には、車椅子操作でブ レーキをかける際に、左側のブレーキばかり忘れてしまったり、また移動する際には左側の 壁にぶつかるといった場面もよくみられ、日常生活に支障をきたすことがある。リハビリ場 面で、そのような場面を目にしたセラピストが左側の注意を促す。その際は理解を示すが、 次の動作の際に再度同じような失敗を繰り返し、一向に症状の改善を示さないということは リハビリ場面ではよく目にする光景である。この場面にも<解釈・理解>の知の届かなさが 現れている。それ以前にその現実が成立してしまっているのである。つまり、左側のブレー キは患者の知覚されておらず、左側の壁は患者にはない。これが患者の現実である。この現 実をどのようにして変えることが出来るかがリハビリテーションの課題なのである。  このような視点から患者の世界を想像してみる。下図は荒川修作の著書にある一例であ る。どう見ても異なる二つの図を「AをBとして知覚せよ」というこの要請は、半側空間無 視の患者が健常者から左側をもっと注意するようにと要請されている感覚に近いと思われ る。<解釈・理解>の知では修正しようのない知覚がそこにはあることが予想される。裏を 返せば、図5の要請に応え得る知覚に誘導するための手段こそが、患者の現実を変える手が かりとなるのかもしれない。 図4 ターゲット刺激の末梢課題9 図3 左半側空間無視患者の模写9 図5 AをBとして知覚せよ10

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5. 臨床経験の共有

 上記の問題点は、臨床家同士に限らず、行為そのものの共有の困難さが伺われる。この困 難さは「個」があくまで「個」である裏付けによる困難さであるかもしれないが、この問題 点から臨床推論・臨床での行為を含む臨床経験の共有の可能性について考えてみたい。経験 の共有成立は2つの事態が考えられる。一つは同様の経験をしたもの同士が、一方の何らか の形での経験表現を受け取り、自分の経験の追体験する場合と、もう一つには、同様の経験 を持たないものが、経験表現を受け取り、疑似体験する場合である。当然、後者は共有可能 性は低いが、付加価値が高いのも後者である。つまり、疑似体験を<理解・解釈>ではない 形で進める手段が必要なのである。  河本は著書「<わたし>の哲学…オートポイエーシス入門」において、寺田寅彦の言語表 現を例に挙げ、科学的思考を科学的議論に結びつけず記述的な説明をあたえないとしており、 その際に問いの宙吊りと生成、アナロジー的思考等の方法を示している8。問いの宙吊りと は、問いの解答の場所を決めず、謎のまま維持し、注意の焦点化を防ぐという方法である。 また問いの生成とは、生成する現象の観察の中で、次々と問いが生まれ、それに応えようと するとさらにその先に別の問いが生まれるようなものであるとしている。この方法は、カー ルポッパーが提唱した科学の反証主義と類似している。つまり、ある事象に対して、科学的 に説明された定式化は、その時点では反証されていないということであり、その反証例が挙 がることで科学の知が前進していくという考え方である。問いが問いを生むというプロセス である。この方法は、上記の<理解・解釈>ではない疑似体験方法の一手段となり得る。臨 床経験の共有は、その問いが問いを生むというプロセスを共有していくことにより成立し、 <理解・解釈>ではない知のプロセスに足並みを揃えていく必要があると考えられる。また アナロジー的思考については以下のように述べている。 「アナロジー的思考とは、問いへの解答の際に、なにか類似したものを手がかりに思考し ていくやり方であり、最終的なものを求めず、また行き先が決まっているでもない。言語 的にみれば、比喩能力に近い。ある現象を考える際に、別の領域での現象を比喩として活 用していき、そこでいくぶんか明らかにできたこと、さらに問いのままに残ってしまうも のを区分しながら、考察を進めていくやり方である。アナロジーはそうした経験の試行錯 誤の場所なのである11  この思考法は、まず「部分―全体」関係の経験の全体性の側面の重要性を指摘している。 事象を要素還元的ではなく、事象そのものを捉えるために、その類似物へ思考を発展させて いく「全体-全体関係」として捉える方法である。メルロ=ポンティは代表的著作である「行 動と構造」のなかで、ゲシュタルト(全体性)という心理学で発展してきた概念をヒントに「行

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動」を捉えなおすことに取り組み、従来の要素還元的な解釈での限界を示した12。アナロジー 的思考は、事象の全体性を維持したまま、そこからさらに思考を発展させていく方法である。  そして、臨床はそれ自体がプロセスである。治療者と患者がカップリングの関係で連動し 変化し続ける。患者も回復・停滞・悪化を無秩序に繰り返し、その患者の変化に対応するよ う治療者自身も患者への働きかけを変化させる。またその治療者の働きかけの変化に患者も 連動する。それぞれの連動には遊びがあり、強固に連動する場面もあれば、連動しない(変 化に対応しない)という場面もある。そのため、部分-全体関係で規定される全体も常にプ ロセスの最中で変容し続ける。これは「時間的」側面である。臨床経験の共有が困難な理由 はそこにもある。それぞれが固有のプロセスを経ており、どの場面を切り取っても、どんな にアナロジー的な類似性を持つ全体―全体関係で共有できたとしても、そこに至るまでのプ ロセスが異なるため、共有できないのである。  たとえば症例検討・報告の発表では、「私はこのように考えて、このような理論背景から アプローチした」という形式が一般的となる。この過程は理路整然としていることが、よく 熟慮されたアプローチとして評価される。これは<理解・解釈>での進み方である。伝える側、 伝えられる側ともに理路整然を目指すのではなく、その一歩手前で上記のような方法で経験 を進めていくのである。このような進み方は、芸術や職人、またスポーツの分野にみてとれ る。スポーツの解説などでは、選手本人が感じているであろう感性的な部分にも言葉を届か せて、共有しようと試みる場面がメディアでは垣間見れるが、説明されている当人がキョト ンとした表情で聞いている。その当人の感覚に届いていないのは明らかである。この場面で は、芸術やスポーツ分野で比類なき能力を発揮している者の経験であるため、経験の隔たり が圧倒的に生じている。擬似体験としての進み方ではなく、<理解・解釈>の知の共有を用 いて、娯楽(エンターテインメント)を製作しているのである。では、芸術・職人等の弟子 の修行はどうだろうか。身に付けたい行為や技術はさておき、掃除・炊事などの下働き、親 方の身の回りの世話から始まる。「親方は何も教えてくれない」と苛立つ弟子には目もくれず、 自身の技術を磨いていく親方の姿は、ドキュメント番組ではよく目にする光景である。実は この光景こそが、疑似体験の本質なのである。つまり傍らにいるのである。その行為を行っ ている傍らで、肌で空気を感じ、目で盗み、耳で息遣いやリズムに同調する。そこには<理 解・解釈>とは異なる疑似体験が行われているのである。

6. 臨床力 -システムを変える力-

 「臨床とは矛盾だらけである」という前述した臨床家の言葉の内実に迫ってみたい。前日 の患者の症状・動作を思い浮かべ、教科書や論文からその対応を考慮し、当日の臨床に挑む。 患者を前にして、教科書・論文で予習をした方法を試すが、前日の不眠のためか患者はどう も集中してくれず、各種の痛み等の不定愁訴を訴える。どうにか結果を出そうと、今はリハ

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ビリ中だからと説得し、集中するように促し、懸命に予習した方法を試みるが、介入効果の 判定等の判断はすべきではないほどに、イメージしたような介入には至らない。臨床家なら 誰しもこのような経験を有していることだろう。あるいは、このような事態もある。連日の ように同様の目的での介入を試みて、日々試行錯誤を繰り返し、少しずつ介入効果が出てい るようにも思えたが、なかなか定着はしなかった。そのタイミングで患者の体調不良等が重 なり、4~ 5日患者はリハビリの連休となった。また介入のやり直しかと気合いを入れ直し、 再度臨床に臨むが、何故か患者は目的動作が定着しており、学習が進んでいた。  このような場面では、臨床の場のプロセスとしての特徴が明らかになっている。臨床での セラピストの介入は多様な「個」への対応に特化している。また「個」自体、その日、その 瞬間に、個特有の振れ幅の中で動き続けている。個体の時間的経過として、マクロな視点で は成熟・老化のプロセスが進んでいる。しかし、リハビリテーション期の中では、何らかの 発症・受傷からの回復のプロセスが進み、また「調子」の良し悪しに代表されるように、日々、 その瞬間の身体的・精神的状態の振れ幅がある。つまり、「個」自体、何重にも重なるプロ セスなのである。そして、それに対応するセラピストは他者としての「個」のプロセス、そ して患者の「個」とセラピストの「個」が連動するカップリングのプロセス、これらが複雑 に絡み合うことが臨床である。複数の波動と波動が重なり合い、共鳴する。ある瞬間には振 幅を増大させ、ある瞬間には打ち消し合う。経験科学で実証された介入が成立しない場面に 頻繁に遭遇するのは、臨床では当然の事態なのである。この事態に、臨床家としてはどのよ うな対応を求められるのか。ここに臨床家のジレンマが見え隠れする。臨床力とは、一般的 に効果のあるとされる(科学的に有効であるとの根拠がある)介入を実施することではなく、 「患者の治癒」へ導く力である。誤解を恐れずに言うと、一般的に効果のある介入などまっ たく無視して、あるいはその知識がなくても、「患者の治癒」へ導く介入を行ったのであれば、 臨床力が優れていることになるのである。患者の不安や不調の声に耳を傾けること、散歩に 連れ出すこと等の一見その専門性を疑われてしまう介入であっても、「患者の治癒」へと導 くシステムを作動させるのであれば、臨床の場では選択されるべき介入となる。目の前の「個」 のシステムとして安定している患者像と向き合い、治癒に向かうシステムへと組み替えてい く力こそが臨床力である。その臨床の場として安定しているシステムは、決して理路整然が 最良なのではなく、理路整然とする<理解・解釈>のシステムから見ると、矛盾だらけの安 定したシステムなのである。  システムを変える能力は、因果関係という評価視点でさえもその意味を薄れさせる。生命 にはホメオスタシスと呼ばれる自己維持システムが作動しており、動的な平衡状態が保たれ ているは知られている。安定しているシステムはどのようなものであれ、このような自己維 持機能が作動しており、患者の障害システムも同様であると考えられる。循環システムを変 える(組み替える)ためには、各要素の因果関係に着目するのではなく、システムを俯瞰す

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るなかで、どこが変わり得るのかに着目するのである。この眼差しがシステムを見つめる眼 差しなのであり、因果関係に着目する眼差しは、理路整然とした<理解・解釈>に繋がる眼 差しである。

7. 臨床における介入効果の判定

 これまで、いくつかの観点から「臨床の固有性」について論じてきた。このような形で臨 床の場の捉え直しを図っても、まだ今日の臨床は発展するとは思えない。まだそこには大き な壁が立ちはだかっている。回復過程のリハビリテーションにおいて、セラピストが行った 介入が良かったのか、悪かったのかの判定が非常に困難であるということである。リハビリ テーション自体の効果は数多くの研究報告によって確認されている。また介入効果が認めら れ、科学的にその実施が推奨されている手技・方法もある。しかし、現場において、その介 入効果を判定することは非常に困難なのである。その理由の一つには、患者は発症したのち、 神経系の再組織化が急激に起こるため、何もしなくても日々何かしらの変化を生じやすい状 態であるということである。これは一般に自然回復(natural…recovery)と呼ばれるが、こ の「何もしなくても生ずる変化」が現場では常に起きている。当然、一般的な自然回復の回 復経過は多くの症例を通して研究報告されている。しかし、合併症・既往歴等の個人差が大 きいことや、その変化の多様性や、また変化スピードの遅さ故に日々のセラピストの感覚と して捉えにくいということが挙げられる。また、もう一つには学習曲線の特性においてであ る。当然ではあるが、学習曲線は線形ではなく、非線形的に回復曲線を示すということが報 告されている。例として挙げると、南らは子どもの語彙発達は階段状に学習が進んでいくこ とを報告している13,14。この理由としては、閾値の影響等がいくつかの成因の関係を示唆す る他の報告がある15。この学習レベルの推移は、当然、神経システムの組織化を図るリハビ リの分野にも当てはまると考えらえる。一旦安定したシステムから、何らかの経験を経てシ ステムの移行を迫られた際、次の安定した秩序システムに移行する際の変化は時間的・空間 的にも線形とは考えにくい。河本は、木片が摩擦によって火が付く場面を例に挙げ、算出的 因果の知覚について以下のように述べている。  「産出的因果は観察することもできない。運動と火の発生という異なるカテゴリーの間 の移行を観察する知覚能力を人間は持ち合わせていないのである。(中略) 産出的因果は必然性のないプロセスであり、ひとたび火が付けば、たとえ摩擦を停止して も火は燃え続ける。この事態は因果関係で指標される以上のものを含んでいる。原因の停 止があっても、結果は一方的に継続するからである。とすれば、産出的因果は、因果関係 の一つのカテゴリーのひとつのタイプではなく、むしろプロセスの一局面なのである。こ こではプロセスは別のサイクルへと入り、相転移に類似した事態が生じる。このときひと

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たび火が付けば、それまでの摩擦の継続という過程を度外視して火は燃え続ける以上、プ ロセスのなかで相転移が生じるところでは、みずからの前史を断ち切ってしまう16。」  システム論から生じたこの例は、上記の学習の階段状変化の内実を示していると考えられ、 システムの相転移の不連続性、また人間(観察者)の知覚の限界を指摘している。臨床に照 らし合わせると、患者の回復に繋がる最良の介入を行った結果でも、まったく変わらない時 期がある可能性があるということある。さらに言い方を変えれば、介入後、即時的・短期的 に全く変化がない場合であっても、その介入を続けることで、患者はある程度期間が経った のちに劇的変化を生じる可能性があるということである。  いくつかの例で示したが、自然回復の捉えにくさ・学習段階の捉えにくさが急性期・回復 期等の時期に関わらず臨床現場には存在しており、観察者から介入効果を判断することが不 明瞭になってしまうのが現状である。しかし、セラピストの介入効果はどこかで判定する必 要があり、それを科学的手法により立証された介入であるからと片づけることもできない。 この介入効果を図る眼差しは、患者の外部観察からその内部で起きているシステムを眼差す 視点を欠いては成り立たず、見かけ上の変化もしくは見かけ上の停滞に惑わされず、その内 部・また患者の障害システムを俯瞰する眼差しが必要となる。人見は著書「発達とは何か」 の中で、認知運動療法(現認知神経リハビリテーション)の問題点等を例に挙げ、臨床にお ける内部観察の重要性を指摘している17。患者の動作観察・言語等のあらゆる外部観察から それを表出させている内部のシステムを観察するのである。この眼差しが臨床家にとって不 可欠なのであり、一朝一夕で身に付くものではなく、あらゆる経験・感性・知識を総動員し て初めてその精度を高めていける能力なのである。

8. 臨床の固有性を共有する価値

 近代科学は今日まで、目まぐるしい進歩を遂げてきた。インターネットを通じて多くの情 報を手に入れることや、医療技術の発展についても、近代科学の発展が貢献していることは 言うまでもない。リハビリテーション分野においても、CTやMRI等の画像技術の発展は脳 科学、認知科学を大きく前進させ、多くの患者に貢献してきた。しかし、患者と呼ばれる人々 の日常であり、戦いの場である「臨床」という場が発展し進歩しているという実感はない。 勿論、近代科学で得られた知見・技術を提供する場として、そこに意味を見出さない位置づ けも可能ではあるが、今回の議論を通して追ってきた「臨床の固有性」は無視できない。「臨 床」は「臨床」として成立している以上、その固有性に目を向け発展・進歩させていくこと もまた医療の義務ではないだろうか。これまでの医療の進路の軌跡は、「臨床」にあまりに 無頓着であった。目まぐるしく発展してきた現在の医療技術を以ってしても、完治が期待で きず、何らかの後遺症を有し、それでも尚、医療として存在しているリハビリテーション医

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療は、どのような医療分野にも先駆け、臨床という場を再考し、発展させていく使命を担っ ているのではないだろうか。 1… 中村雄二郎「臨床の知とは何か」(岩波新書、1992、P21-22) 2… 河本英夫「オートポイエーシス…第三世代システム」(青土社、1995、P248) 3… 河本英夫「臨床するオートポイエーシス」(青土社、2010、P172) 4… 中村雄二郎「臨床の知とは何か」(岩波新書、1992、P7) 5… 稲垣諭「プロセスとしての臨床(1)(2)」(東洋大学エコフィロソフィ研究 Vol8、2014) 6… 古田徹也「それは私がしたことなのか…行為の哲学入門」(新曜社、2013、P112) 7… 人見眞理「発達とは何か…リハビリの臨床と現象学」(青土社、2012) 8… 加賀野井秀一「メルロ = ポンティ…触発する思想」(白水社、2009、P117 参照) 9… Penelope…S.Myers『右半球損傷…認知とコミュニケーションの障害』(阿部亜紀子ほか訳)、協同 医書、2007 10…荒川修作、マドリン・ギンズ「意味のメカニズム」(リブロポート、1988) 11…河本英夫「<わたし>の哲学 オートポイエーシス入門」(角川選書、2014、P61) 12…加賀野井秀一「メルロ = ポンティ…触発する思想」(白水社、2009、P73-102) 13…南泰浩他「折れ線近次による語彙爆発開始時期の推定」(信学技報 ,…Vol.…111,…No.…471,…SP2011-159,…pp.25-30) 14…南泰浩(2012)「線形関数とプラトー割込による幼児語彙発達のモデル化」(言語処理学会第…18… 回年次大会発表論文集 ,…pp.…50-53) 15…荒木…修他「階段状の語彙発達曲線の成因:語とその参照物の共起パターンの生起確率は閾値を 一斉に超える」(2012 年度日本認知科学会第 29 回大会) 16…河本英夫「メタモルフォーゼ…オートポイエーシスの核心」(青土社、2002、P83-85) 17…人見眞理「発達とは何か…リハビリの臨床と現象学」(青土社、2012、P276-278、p292-300)

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What is the uniqueness of the clinical

TSUKINARI,…Ryosuke

 "Clinical"…is…a…special…place.…How…much,…working…trying…to…reach…the…language…for…clinical,… it…has…always…something…that…can…not…be…expressed.…I…feel…something…that…can…not…be… expressed…is…the…only…involved…persons…in…clinical…practice.…  Today,…modern…science…has…occupied…the…center…of…the…knowledge,…the…perspective… of…whether…or…not…it…is…scientifically…make…a…significant…difference.…This…trend…is…also…in… the…medical…field…is…a…significant,…evidence…(scientific…basis)…level…is…determined…for…a… variety…of…interventions,…it…has…become…a…guiding…principle…in…the…clinical.…However,…in… clinical…practice,…rather…than…proceed…to…the…intervention…on…the…grounds…that…a…high… level…of…evidence,…nor…is…it…choose…not…to…intervene…on…the…grounds…that…low.…Is…only…about… consult,…individual…intervention…is…rich…in…individualism.…The…reason…is…that…there…is…also… the…individuality…of…the…patient.…Patients…have…complex…disease,…medical…history,…family… background,…has…a…personality,…is…because…it…is…impossible…to…ignore…them.…In…addition…to…the… individual…of…the…patient,…no…doubt…are…also…affected…individual…of…the…therapist.…Therapist… who…have…responded…to…the…individuality…of…each…of…the…patients…as…well,…is…to…have…each…of… the…individual…experience.…The…researchers…asked…the…universality,…the…clinician…to…focus… on…individuality.…Both…of…universality…and…individuality…is…also…a…major…theme…of…the…human… race…to…date,…major…theme…that…can…not…be…the…solution…is,…it…takes…pressure…heavier…in… rehabilitation…medicine.…In…this…background,…first…of…all…observed…for…uniqueness…of…clinical,… we…considered…it…necessary…to…share.  In…this…paper,…the…uniqueness…of…the…clinical…order…to…relief,…were…compared…the…difference… of…knowledge…of…clinical…and…research…and…science.…Also,…I…discussed…the…clinical…uniqueness… from…the…point…of…view,…such…as…share…and…evaluation…of…clinical…experience.

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