価値論の脱構築と近代の問い直し
I は じめに 価値価格の生産価格への転形 を説 くにあたって費用価格 をも生産価格化すべ きことを顧慮 した とき,『資本論』 において想定 されている総計一致 といった かたちでの価値次元 と生産価格次元 との関連づけは保持 されえない。このこと を承 け,総 計一致命題 に託 された真意 を探 り,そ れを活かす といったかたちで 問題 を解決す る途 も数多 く模索 されて きたが,筆 者はそ もそ も価値範疇 と価格 範疇 との直結 は両範疇の短絡であった と解する。かつ,そ うした認識 に立 って も,利 潤 を解析 し,資 本制市場経済 システムの基軸的社会関係 にメスを入れる とい う価値範疇の基本的機能は損 なわれるものでないこと,既 に置塩氏がマル クスの基本走理 として独 自のかたちで明 らかに しているとお りである。 と同時に,こ の置塩定理のいわば質的含意 については十分 な考察が加えられ 1 ) てこなかったことも認め られねばならない。 じっさい,置 塩信雄氏の価値 ・価 格論 自身,商 品範疇の基礎的考察 において価値価格 を措定 し,ま た商品経済 シ ステムの基礎 的,抽 象的あ り方 を実質的に単純商品生産者世界に等 しいシステ 2 ) ムヘ と還 元 す る方 法 を踏 襲 す る もの とな って い る。 だが ,置 塩 定理 の か た ちで 両 範 疇 の 関連 を定 立 す る とい うこ とは, じ つ は こ う した価 値 ・価 格 関係 の捉 え 1)拙著 『価値論のポテンシャル』 (1991年,昭 和堂)は こうした置塩定理的視座 を基礎づ けることをめざしたものであった。また,同 著に労働力商品の特殊性に関わる考察を組み 入れ,そ の後環境問題へ,さ らに労働力商品の特殊性に対する関心の延長線上でジェンダー 差別問題へ と対象領域を広げながら,筆 者なりにこうした方向のささやかな掘 り下げを試 みてはきた。なお,こ うした筆者の歩みは,同 著構想中に平野厚生氏から受けた次の助言 のたまものでもあった。すなわち,筆 者は資本制商品の価格世界のそれなりの自律性,自 己完結性を強調するが,日 中菊治氏の研究成果にもあるように,資 本制市場経済システム の自己完結性には綻びが伴わざるをえないのではないか,と 。記 して感謝 したい。 2)た とえば,置 塩信雄 Fマルクス経済学』 (筑摩書房,1977年)は ,第 3章 において基本 走理 を詳 しく論述する一方で,第 1章 では旧来の価値 ・価格論や商品論の方法を擁護する もの となっている。 とりわけ1920ページ参照。 樹 直 !畢 梅1 1 2 冨 田光彦教授退官記念論文集 (第334号) 方 や商 品論 の方法 その もの に疑念 を呈 す る こ と と結 びつ い て こそ真 に意味 を持 とう。のみ な らず,こ の こ とは資本 制商 品経済 システムの理解 にい くつかの現 代 的 に興味深 い展 望 を も切 り開 く。 3 ) すなわち, うえの疑念 は,次 節で敷術するように価値価格の生産価格への転 形問題 を追求 していった とき次 の点が明 らか となったことに基づいている。資 本制商品の価格世界 は自らの世界の論理でそれな りに自律 的に閉 じている,つ ま リメタ ・システム的に自己組織化 している, と。 したがってうえの疑念 は, 一方で,資 本制経済システムというものが 自己に固有の論理 とは異質なそれを 備 えた諸要素 を包摂 しつつ,メ タ ・システム として 自らの論理でそれ ら諸要素 を抽象化 して包摂することで 自らそれな りに自律化す るとともに,か えってそ れ ら諸要素 に固有の論理 にもサブ ・システム としての レベルで 自己主張 を詐容 しうるとい う認識 に連 なっている。つ ま り,資 本制経済 システムは本来多様 に 展 開 され うる懐 の深い経済 システムである とい う認識 に違 なっているわけであ る。 こうしてかの疑念 は,ま ず,労 働力商品が意識 を持 った商品であつて, し か もその意識 は各資本制経済 システムが立脚する歴史的土壌 などにも規定 され つつかな り多様 な ものであることに,あ らためて目を向けさせ る。また,自 己 主張 を許容 され,そ れだけを独立的,分 離的に考察 しうるかに見 えるサブ ・シ ステムを包摂 してなお 自らのシステム としてのアイデ ンテイテイを揺 るがせ ら れる ところが ない とい う資本制経済 システムの特質に光 をあてるもの として, 世界 システム論 と響 き合 うところをもつ。 さらにそのことは,家 父長制 とい う 固有 の論理が支配する家庭 とい うサブ ・システムに,労 働力 とい う資本制経済 システムの基軸商品の再生産が委ね られているという問題 に直裁 に重な り合 う。 くわえて,メ タ ・システム性の認識 は,や は り家父長制 と不可分 な,職 場 にお ける女性労働差別問題の理解 を促 し,直 上の論点 とあい まって資本制経済 シス テムの もとでのジェンダー差別問題の解明へ と通 じることとなる。 他方で,資 本制商品価格の世界が価値範疇か らそれな りに自律化することの 認識 は,あ らためて価値範疇の存立根拠 ひいては価値実体 を労働 に求める根拠 3)詳 しくは,前 掲拙著第 1篇 参照。
価値論の脱構築と近代の問い直し 113 を省 み させ る。かつそれは,や は り次節で敷行す るように,『資本論』 におい ては必ず しも主調音ではなかった,マ ルクスの価値実体論が社会存立の体制貫 通的基盤 に根 ざす側面 をもっていた とい う論点 を浮かび上が らせ る。このこと は,社 会存立の体制貫通的基盤 に根 ざす論理か らそれな りに遊離,自 律化する とい う資本制商品価格の世界の特異性,ひ いては資本制経済 システムの特異性 を浮 き彫 りに しよう。 と同時 に,そ うした遊離,自 律化が社会存立の体制貫通 的基盤 に即 した論理 とどこかで摩擦 を生むことにならないか,ま た生むとすれ ばどの ようなかたちでかに留 目させ ることとなる。 た とえば,価 格が資源配分指標の役害Jを演 じているか ぎり,度 を過 ぎた遊離 は資源配分の歪みを通 じて社会の存立 を脅かそ う。現代 に即せば,自 然の再生 ・浄化能カヘの過剰負担や乱開発 に伴 う生態系の破壊はいまや社会存立の体制 貫通的基盤 に即 しての人間にとっての費用の問題であ り,こ の費用の切 り捨て, そ こか らの資本制商品価格の世界の遊離は もはや看過 しえない レベルに達 して いるのではないか といった懸念が,た だちに想起 されるわけである。 また,価 格が生産物の分配指標であるか ぎり,不 利益 を家 っていると自覚 し た人々の側か ら,自 律化 した資本制商品価格の世界 を支配する論理の特殊性や それに対置 されるべ き普遍的論理への関心が膨 らもう。そ うした関心が広範 に 鋭 く高 まれば,資 本制経済 システムその ものが揺 るがせ られ うる。 したがって, それを誘いかねないまでの資本制商品価格の世界の 自律化 にはそれな りの抑制 が働 くこととなる。 もっとも,不 利益 の自覚は不利益の度合いのみに依存する わけではない。不利益 を不利益 と自覚 させ ないさまざまなイデオロギーが作用 しているか らである。こうした認識 に立ったとき,家 事労働の評価 をめ ぐるフェ ミニズムか らの異議 申 し立ては,ま さに自覚 を阻んで きたイデオロギー的制約 を打破 しなが ら搾取論 に関わって提起 された問題 として,き わめて興味深い。 のみならず,価 値範疇 との短絡か らの価格範疇の解放 は,先 行する価値実体 論か らの制約 ゆえにせ っか くの鋭い着眼 を活か しきれていなかった価値形態論 の再構成 を促す。かつそのことは,旧 来の価値形態論が見失 って きた貨幣の特 性,す なわち社会的共通了解の集積的担い手 ない し象徴 としての役害Jを掘 り起
1 1 4 冨 田光彦教授退官記念論文集 (第334号) こ し,貨 幣認識 を変革する可能性 を秘めている。 さらにそこか らは,地 域通貨 がいかなる意味で貨幣なのか,つ ま り貨幣に本来的に卒 まれていた可能性 を展 開 しようとしているのかに関 し,興 味深い洞察が展望 されることとなる。 こうして,置 塩定理の質的含意 を追求 してゆけばい くつかの現代的な論点ヘ とゆ きつ く。 しか もそれ らは,い ずれ もそれぞれに近代の問い直 しにつながる もの として きわめて興味深い。 また,逆 にこの点 を追求 していった とき,価 値 論 はさらなる再考 を迫 られ,い っそ うの脱皮 を求め られそ うで もある。そこで, 次節 において価値 ・価格の異次元間接接合説の要点 を確認 したのち,次 々節以 降において上述の諸論点 に目を向け,そ れ らに目を向けることはどのような意 味で近代 の問い直 しにつなが っているのか,さ らに価値論 はいかなる再考 を迫 られることになるのかを考察 してみることとしよう。 工 価 値 ・価格の異次元間接接合説 二つの総計一致命題 は,単 に量的関係 を表すのみならず,価 値範疇次元 と価 格範疇次元 との連関をいかなる質の もの と捉 えるべ きかを示す ものである。 し ・ ・ ・ ・ ・ ・ 4 ) たがって,そ れ らの両立不能はそれ らが一体 となって体現 していた価値範疇次 元 と価格範疇次元 との連関の質の捉 え方,つ ま り両次元 を直接的に接合 した も の とみる捉 え方その ものの再考 を促 していることとなる。 くわえて,転 形操作 は結局,価 値価格 にそれか らの生産価格の乖離率 (生産価格/価値価格)を 未 知数 として乗 じた連立方程式 を解 くかたちで遂行 されるのであるが,こ の連立 方程式 か らは資本制商品の価格が価値範疇 に媒介 されることな く解かれ うる も のであることも明 らか となった。すなわち,価 値価格 にかの乖離率 を乗 じると い う操作 をさらに (価値価格 ×生産価格)/価 値価格 とい うように変形すれば 明瞭 なように,分 母,分 子 に共通 に現れて相殺 されることとなる価値価格 を媒 介 させず とも,資 本制商品の価格 を特定する連立方程式 を構成 しうるのである。 とはいえ,こ のことか ら価値範疇がただちに意味 を失 うことにはならない。 4 ) 価 値 と剰余価値, 生 産価格 と利潤 はそれぞれに同 じ次元 に属す る範疇であるか ら, 二 つ の総計一致命題 は, 単 に量的関係 を表 わ しているのみでな く, そ れ らが属する二つの次元 の関係の質 とい う同一事象 を対応範疇 どお しで表現 した, 一 体の ものにほかならない。
価値論の脱構築と近代の問い直し 115 す なわち,う えに触れた資本制商品価格 を特定する連立方程式は,可 能な限 り の 自己増殖 を希求するという資本 に固有の論理に基づ く諸資本間の競争の結果, 費用価格 プラス平均利潤が価格運動の重心 を形づ くるとい う関係 を体現 した も のである。かつ,こ の資本 に固有の論理は,商 品交換 という特殊な交流様式が 貨幣 とい う現実的社会性の独 占者 を生むことの帰結 にほかならない。私的生産 物 として社会性 を保障 されない不安 にさらされた商品世界のただなかで,独 り 現実的社会性 を享受 し,あ らゆる商品を支配することので きる特有の存在であ ればこそ,そ の増殖が 自己目的 とされることとなるというわけである。 したがっ て,か の連立方程式 は人々の特殊 な交流様式 に出来する固有 な論理 を体現 した ものであ り,そ の 自律性 は資本制商品価格の世界がそ うした特殊 な論理で もっ てそれな りに閉 じた,特 異 な世界であることを示す ものにほかならない とい う ことになる。それゆえまた,資 本 に固有の論理 を所与の当然の もの として受容 し,そ の論理が措定する価格世界の枠内で価格運動や価格関係が直接 に提示す る事象のみ を追お うとい うのであれば ともか く,資 本に固有の論理が構築する 価格世界の特殊性 を決 り出 し,こ の世界 を相対化することをめざすのであれば, そ うした視点の支柱 として資本 に固有の特殊 な論理 に対置 されるべ き,体 制 を 超 えて人間の経済活動 に普遍的な場の論理が求め られることとなる。 かつ,た とえば価値概念の 自明性 に論及 したクーゲルマ ンヘの手紙が端的に 示 しているように,マ ルクスの価値実体論 にはまさにこうした社会存立の体制 貫通的基盤 とも言 うべ き場の論理 に根 ざした ところがあった。 曰 く,「 どの国民 も, も し 1年 とは言 わず数週 間で も労働 をやめれば,死 んで しまうであ ろ う, とい うことは子供 で もわかることです。 また,い ろいろな欲望量 に対応する諸生産物 の量が社会的総労働量のいろいろな量的 に規定 された量 を必要 とする とい うことも,や は り 子供 で もわか るこ とです。 この ような,一 定の割合での社会的労働 の分割の必要は,け っ し て社会的生産の特定の形態 によって廃棄 され うる ものではな くて,た だその現象様式 を変 え うるだけだ,と い うことは自明です。 自然法則 はけっ して廃棄 され うるものではあ りません。 歴史的に違 ういろいろな状態の もとで変化 しうる ものは,た だ,か の諸法則が貫かれる形態 だけです。そ して,社 会的労働 の関連が個 人的労働生産物の私的交換 として実現 される社会
116 冨 田光彦教授退官記念論文集 (第334号) 状態の もとで この ような一定の割合での労働 の分割が実現 される形態,こ れが まさにこれ ら
の
生
産
物の
交
換
価
値な
の
で
す
4と
。
しか も,か ねて杉原四郎氏 によって解明 されて きたように│こ うしたマルク スの見解 は決 してたまさかの ものではない。『経済学批判要綱』 においては, 価値実体論 を体制貫通的展望の もとで捉 え返す とい う文脈 のなかで,「社会の 発展の,社 会の享受の,そ して社会の活動の全面性 は,時 間の節約にかかって いる。時間の節約 =経 済,す べての経済は結局そこに帰着する」と述べ られて 7 ) いた。「労働 日の短縮は根本条件である」という命題で締め括 られる 『資本論』 最終篇冒頭章での「自由の王国」,「必然の領域」論 も,ま さにこれ と軌 を一にす る もの と言 えよう。 さらにそこでの,「必然の領域」は未だ「窮迫 と外的 目的性 とによって規定 される労働」の領域 とい う認識ちヽらは,有 限な時間の一部 を特 定の用途 に割かねばならない とい う機会費用性 としての「時間の費用性」ばか り でな く,意 識 を持つ 自由な存在 としての人間に対する制約 としてのある種の 「労苦性」を狭義の労働 にマルクスが認めていたことも読み取れる。つ ま り,社 会存立の体制貫通的基盤の場が備 える論理 に通底 した価値実体把握 は,い わゅ る蒸留法的な価値実体 の導出論の後景に退 き,ま とまった叙述 こそ与えられて 1 0 ) いないが, じつはマルクスの学問的営為 を基底 において支えていた人間観,世 界史的展望 と不可分 な,マ ルクスの経済学の本質的契機 だったのである。 『剰余価値学説史』 においてマルクスが リカー ドゥの価値修正説に対 して加 えた批判,す なわち価値 は資本の論理 に即応 した生産価格 とは次元 を異にする とい う批判の意味 も,上 述の ところを踏 まえてこそ真 に理解で きようと だが, 511868年7月11日付けR.クーゲルマンヘの手紙,岡 崎次郎訳 『資本論書簡 ②』,国 民文庫, 162-63′ぺこ一Sノ。 6)と りわけ,杉 原四郎 『経済原論 I』 同文館,1973年 を参照。 7)資 本論草稿集翻訳委員会訳 F資本論草稿集 1』 大月書店,162ペ ージ。 8)長 谷部文雄訳 『資本論 13』 青木文庫,1153-56ベージ。 9)同 上邦訳1155ページ。 101『 資本論』 冒頭 の商品章 において も,そ の第4節「商品の物神的性格 とその秘密」での周 知の ロビンソン物語か ら自由人の共同体 にいたる論述の ように,価 値実体 に関 して社会存 立 の体制貫通的基盤の場が備 える論理 に通底 した把握 を披渥 した個所 も認め られる。 11)前掲拙著,15152,lM-55ペ ージ参照。なお,同 所で も論及 したように,『資本論』での 生産価格論の展 開にあたって も,マ ルクスは資本の論理が構築 した世界 と人間にとって/価値論の脱構築と近代の問い直し 1 1 7 マ ル クス はその ように価値範疇 と生産価格範疇 との次元 の相果 を明確 に自覚 し ていたにもかかわらず,先 のクーゲルマ ンヘの手紙 にもうかがえるように,社 会存立の体制貫通的基盤の場 に即 した論理の普遍的作用力 を過大評価 しす ぎた ゆえに,な い しまさにそ うした基盤的場であるか らこそゆ とり,あ そびの余地 を備 えていることを過小評価 したがゆえに,価 値 と価格 を短絡 して しまった。 その欠陥が,転 形問題 において表面化 した とい うわけである。 こうして,マ ルクスの価値範疇のなお有意味な側面 を継承 しつつ,価 格範疇 との短絡 を正 した両範疇の関係 の捉 え方 を図示すれば,次 の ようになる。 図 1 社会存立の基盤 に即 した 費用観 を体現 した鏡 資本 の論理 を 体現 した鏡 中央 は,諸 商品の物財 ない しサービスそれ 自体 としての集合体である。濃色 部分 は剰余 を表す。右側 は,諸 商品の集合体が資本の論理 に即 した費用観 を体 現 した鏡 に映 し出 されて生産価格 とい う固有の評価 を与 えられている様子であ る。濃色部分 は利潤 を表現 している。 さらに,資 本制市場経済システムの構成 員 には諸商品の費用的評価 として通常 この右の鏡上での写像 だけが意識 される こととなってお り,そ うした関係 は中央か ら右の鏡で屈折 して人々の日に届 く 実線で示 されている。それに対 して図の左側 は,諸 商品の集合体が社会存立の 体制貫通的基盤 とい う場 における人間にとっての費用観 を体現 した鏡 に映 し出 されて価値評価 を与 えられている様子 を表す。濃色部分は剰余価値である。 ま 資本制社会の成員 \の費用 に即 した世界 との対比 を学髪 させ る文言 を残 している。
118 冨 田光彦教授退官記念論文集 (第334号) た,こ の鏡及 びそ こに映 し出 された評価 は通常 人々 に意識 される もので はな く, この経済 システムの特殊性 ,ひ いて は この経済 システムに回右の評価論 理 の特 殊性 に 目赤 向 け られ て は じめ て気 づ か れ る もので あ るから,諸 商 品の集合体 か らこの鏡 を経 て人 々 に届 く線 は点線 で描 かれてい る。 直接接合説 との差異 を確認すれば,ま ず,諸 商品?価 格評価はいち ど左 の鏡 に媒介 されたのちその写像の加工 として右の鏡 に映 し出されるのではない。直 接 に右 の鏡 に映 し出 される。資本制商品価格の世界 を特定する連立方程式 は, 価値範疇 に触 れる ところな く資本 に固有の論理でそれな りに自律化しているわ けである。 また,右 の鏡 と左 の鏡 とはそれぞれに固有の論理 を体現している, つ まり比喩的に言 えば曲面率 を異 にする。 したがつて,同 じ諸商品の集合体 を 映 し出 してはいるが,像 全体 の大 きさも,濃 色部分の総計の大 きさも異なるの が通例である。 とはいえ,置 塩定理が示 したように,そ れ らはまった く無関係 にあるのではない。図に即せ ば,利 潤及び乗J余価値 はいずれ も中央の諸商品の 集合体 における剰余部分が左右それぞれの鏡 に映 し出 された写像 にほかならな い。 したが つて,右 の鏡で利潤 と映 じているものは,左 の鏡の論理では剰余価 値 として解読 されることとなる。 資本制商品価格 の世界が資本 に固有の論理でそれな りに自律化 していること は次の ように解釈 される。 まず,図 の左側が社会存立の体制貫通的基盤とい う 場であるか ぎ り,そ こには一定のゆとりない しあそびの余地が含 まれている。 さもなければ社会の存立その ものが頻繁 に脅か され よう。 したがつて,商 品価 格 を通 して遂行 される資源配分等が社会の存立 に反す るものであ りつづけるこ とはで きないか ぎりた しかに商品価格 は社会存立の体制貫通的基盤の場 に即 し た論理か ら一定の制約 を受 けるとはいえ,そ のことは価格の基礎形態 をこの場 に即 した論理 と直結 させ るべ きことを必ず しも帰結 しない。む しろ,商 品 とい う形態が特殊 な社会的交流様式であることを重視す るな ら,社 会存立の体制貫 通的基盤の場が許容す るゆ とりの範囲内で価格 は自らを支配する固有の論理 に 従 つてかの場 に即 した論理か らは一般的にズレていると想定すべ きであろう。 その うえで,各 商品世界の備 える固有の論理 に従 いつつ固有のズ レのあ り方が
価値論の脱構築と近代の問い直し 1 1 9 具体 的 に特 定 されてゆ くこ ととなる。かつ,資 本制商 品 に関 しては,労 働 力 の 商 品化 に媒介 され,こ のズ レが資本 に固有 の論理 でそれ な りに 自律化す る まで に特異 だった とい うわけであ る。換 言すれ ば,資 本制市場経済 システムは,自 らに一定 の制約 を課す ,固 有 の論理 を備 えた契機 を内部 に抱 え込 みつつ,そ う した契機 を も自己の論理 で抽象化 して包摂 し,そ れな りに 自律 的世界 を展 開 し てい る,自 己組織 的で懐 の深 い メ タ ・シス テム とい うこ とにほか な らない。 こ の点 は,資 本 制市場経 済 シス テムが本来 的 に多様 な ものであ るこ とを明 らか に す る もの と して,そ れゆえ また この経済 シス テム を解析 す る学が基礎理論 の レ ベ ルか ら隣接諸科学 に対 し開かれた ものであるべ きことを裏付 ける もの として, この経 済 シス テムの理解 に とっての枢 要点 と解 され る。 したが って,商 品経 済 システムの基礎 モ デルは,実 質的 に単純 商品生産者的 世界 に等 しく抽象化 された ような商 品経済 シス テムに還元 されてはな らない。 その価格 関係 は社 会存立 の体 制貫通 的基盤 の論理 か ら一般 的 にズ レてい る と想 定 され るが いか にズ レてい るか は未 だ特定 されてい ない こ とに照応 して,い か ・ ・ ・ ・ ・ 1 2 ) なる類型の商品生産者であるのかが まった く抽象化 された商品経済システムで あるべ きである。換言すれば, 単 純商品生産者世界的な商品経済 システム と資 本制商品経済 システム とは, い ずれ も商品経済 システムの基礎モデルが具体化 されたひとつの類型, 対 等で並列的な類型 にほかならない とい うわけである。 図 2 1 2 ) 第Ⅳ節で論 じるように, 本 稿 での価値論の再構成は, 価 値実体論 を捨象 した段階で も商 品交換 に臨む各商品所有者が固有 の「物指 し」を, だ か らまたそこに反映 される自己の持 ち 込 む商品取得 にあたっての固有 の費用観 を備 えていることに積極的に着眼 しようとする も のである。つ ま り, ど の ような類型の商品生産者であ り, い かなる費用観 を備 えているか は未だ特定 される ものではないが, ともか くも回有の費用観 を備 えた商品生産者 を基礎モ デルの段階で想定すべ きと考 えている。 単純 商 品生産者 システム 資本制市場経 済 シス テム 市場経済 システムー般
120 冨 田光彦教授退官記念論文集 (第334号 ) 回 価 値実体論に関わつて 前節 の ように価値論 を再構成 した とき,た だちに想起 される問題のひとつに 家事労働 をめ ぐる搾取関係がある。すなわち,家 事労働 はた しかに社会存立の 基盤 をなす労働のひとつである。 したがって,価 値論 を前節の ように再構成す るのであれば,家 事労働 をめ く`る搾取関係 も当然 に価値論 に則 つた読み解 きの 対象 として取 り上げ られるべ きこととなる。 また,置 塩定理は非負であること を条件 とするものであるか ら,市 場で取引 されず, したがって価格 をもたない 家事労働力 に対 して も,ゼ ロとい う価格 を持つ商品に擬制することで拡張適用 す ることが可能 と解 される。 こうして,1960年 代後半か らの第 2波 フェ ミニズ ム運動の盛 り上が りのなかでマルクス主義 フェ ミニズムが まず着 日しなが ら頓 挫 した,家 事労働 をめ ぐる搾取関係 をどの ように経済理論化するか とい う問題 に,ひ とつの展望が切 り開かれる。 もっとも,家 事労働 は市場で競争圧力 にさ らされ標準化 されるといったことがないだけに,社 会的必要労働量 を厳密 に規 定す るには無理がある。 この点 に鑑みれば,家 事労働 をめ ぐる搾取関係 を価値 1 3 ) 論 という枠組みのもとで論 じることに異論 も生 じえよう。 しか しなが ら,そ もそも前節で論及 したような,社 会存立の体制貫通的基盤 の場で人間にとっての費用を労働 に求める根拠 自体,価 値量を厳密に特定 しう るものだったのだろうか。労働が必然の領域における活動であって大なり小な り労苦性 を免れていないことについて言えば,諸 労働の労苦性 をいかに重みづ けてい くかは必ず しも一義的に厳密な解が求められうるものではないこと容易 に推察 されよう。また,機 会費用 としての時間の費用性についても,年 齢が異 な り,身 体的諸条件が異なり,生 活のリズムが異なる諸労働者にとっての時間 の費用性 を,ま してさまざまな経済発展段階=生 活 リズムを包含するグローバ ルな世界 を視野に,ど う重みづけるのかという,や はりとても厳密な解を求め えない問題が浮上 して くる。のみならず,費 用性につき複数の根拠が存在する 1 3 ) 家 事 労働 論 争 自体 にお い て も, Gθttαθち Caγ θ a物冴 』cοttο竹みあCS, こうした観点か らの異論が提 出 されていた。」. G a r d i n e r , MIacmlllan, 1997, p.91, p.93.
価値論の脱構築と近代の問い直し 1 2 1 とす れば,そ れぞれの根拠 か らの評価 の調整 を図 らねばな らないが,そ の絶対 的 な解 もあ りそ うもない。 こ う して,前 節 で見 た ような価値論 の再構成 は,そ ・ ・ ・ 1 4 ) もそ も厳密な数値化 を想定するような質の ものではなかった と言 える。 こうした価値論のあ り方は, もうひとつの論点である生態系 に備 わった論理 の価値評価 とい う問題 を通 じて も浮かび上がって くる。すなわち,生 産力が き わめて巨大化 した現代 において,生 態系固有の論理 を顧慮せず,そ の再生能力 を超 えて資源 を濫用 した り,浄 化能力 を超 えて汚染,廃 熱 を川や湖沼,海 ある いは大気 中に撒 き散 らせば,生 態系が傷つ き社会存立の基盤が損 なわれるとい う懸念が現実化 した。それに照応 して,こ れまでは資源採取か ら消費 (=消 費 財購入)ま でを自らの主対象領域 とし,生 態系の再生能力や浄化能力 を安 ん じ て理論外 に前提 して きた経済学 も,生 態系や環境の価値評価 に取 り組み始めて いる。だが,旅 行費用法,ヘ ドニ ック価格法,仮 想評価法(CVM)な どのそうし た評価手法のいずれ も資本の論理が構築 している価格世界次元 を離れた もので 1 5 ) はない。 したがって,資 本の論理の特殊性 を凝視 し,そ の構築する世界 を相対 化す る複眼的考察のための支柱 を求め ようとする本稿 としては,な お工夫の余 地 を認める。 とともに,よ り留 目したいのは,そ れ らの手法 を通 して得 られる 環境価値 の評価が結局ある程度の概算値 とならざるをえな くなっていることで 1 6 ) ・ ・ ある。これは,環 境価値の評価 を,ひ いては環境経済学を費用 と便益 との最適 均衡点を探るという枠組みのもとに置こうとする立場からすれば克服されるベ き欠陥 となる。だが,果 たしてそうとばか り評価 されるべ きであろうか。 じっさい,従 来の経済学の狭 さを反省 し,生 態系の論理に寄 り添 う経済のあ 14)熟 練労働 を単純労働 に還元す るさいの重み をめ ぐる論争が容易 に結着 しえなかったこと が示す ように, じつはこれ まで も価値量 は厳密 な数値化 をす っきり図れるものではなかっ た。のみ ならず,こ の ことは価値論 の意義 を否定する ものではない。概算値で も,た とえ ばそ こに留 目すべ き程度の搾取があるか否かの判断資料 とはな りうるわけである。 15)旅 行費用法やヘ ドニ ック価格法の ように市場価格 を持つ商品を媒介 とす る手法のみでな く,「あの商品があの価格 な らこの商品は ・・・」といった相対感覚 に我々の評価 は影響 さ れるこ とを顧慮すれば,通 常の仮想評価法 もまた資本の論理が構築す る価格世界 を離れた ものではない。逆 に言 えば,本 稿が志向す る方向で仮想評価法 を適用 しようとするなら, いかに して価値次元での相対感覚 に訴 えられる設間 を作 るかが カギ となろう。 16)た とえば,」.デイクソン他,環 境経済評価研究会訳 『新 環境 はい くらか』築地書館 ,19 98年,73,88-90,98,100ベ ージなど参照。
1 2 2 冨 田光彦教授退官記念論文集 (第334号) り方 , ま たそれ に照応 した経 済学 と しての生命系 の経済学 を模索 した玉野井芳 郎氏 は, 生 態系 の論理 に寄 り添 うとは, 人 間の力 の限界 を認 め, ま た人 間が生 態系 の論理 をすべ て解 明, 理 解 しうる もので はない こ とを十分 にわ きまえる こ 1 7 ) とであることを示唆 していた。 この点は,こ れまでの開発行政の歴史が明白に 裏打 ち してい よう。不確実性 を避 け られない推計 を, しか も生態系 には闘値が あって ときとして思いがけな く不可逆 な変化 に直面するとい う状況の もとで, 最適均衡 にで きうるか ぎ り接近すべ く厳密 に追求す る とい う発想 にはそ もそ も 無理がある。む しろ,地 域共同体 において育 まれて きた生活者の知恵 にも学び なが ら,い わゆる満足原理 に適合するおお らかさでの環境価値の評価 こそが求 1 8 ) め られて しかるべ きなのである。かつ,そ うしたおお らかな把握であって も, 開発 に伴 うミニマムの費用 を示すなどそれな りの指針 と十分な りえよう。 さらに,環 境価値 の評価 に関わつては,」.フォス ターによって価値評価一般 に通 じる注 目すべ き洞察が提起 されている。すなわち,フ ォス ターは,環 境価 値 を追求 しようとすれば結局,哲 学,社 会学,経 済学か らの考察の学際的統合 をめ ざさざるをえないことを論 じた興味深い著作の編者なのであるが,そ の最 終章 において価値評価 とい う営為 を芸術的創作活動 になぞ らえ,次 の ように指 摘 している。芸術 的創作活動 は作者の内面の表現でなければならないが,同 時 に独 りよが りではな く,鑑 賞者 といわば共鳴盤 を有するものでなければならな い。同様 に,評 者の 自己表出であ り,か つ他者 と共鳴盤 を有するもの,良 識 に 1 9 ) 誠実であろうとするものであってはじめて価値評価 と呼ばれるに値する,と 。 こうしたフォスターの指摘を敷衛すれば,そ もそも価値評価を行おうとするな ら,表 出すべ き自己を備えた主体の育成,ま た人々の間で適切な共鳴盤や良識 を培 うような対話の場の整備,要 するに民主主義の成熟に向けてまず努めねば 17)『 玉野井芳郎著作集 ②』学陽書房,1990年 ,41-45,52,61-65,66-68,79-80ペ ー ジなど。なお,拙 稿「エコロジー ・ジェンダー差別 ・経済学」『彦根論叢』309号,1997年 , 97-103ベ ージをも参照。 18)『 玉野井芳郎著作集 ③』,学 陽書房,1990年 ,158-60,206-08,234-36ペ ージなど。 さらに,多 辺田政弘 『コモンズの経済学』学陽書房,1990年 ,57ペ ージ以下,74-76,83 ページ以下,102ペ ージ以下,125ペ ージ以下などをも参照。
価値論 の脱構築 と近代 の問い直 し 1 2 3 ならない とい うことになろう。 既述の ように,労 働価値説 において も厳密 に特定 しうる価値が外的に存在す る とい うのではな く,む しろ労苦性や時間の費用性の評価,さ らにそれ ら両者 の調整に関わる社会的合意の形成 を図 らなければならない とい うことであった。 だが,そ れは決 して労働価値説の欠陥ではな く,む しろ価値評価 とい う主題 に 必須の事柄 とみなすべ きであ り,ま ただか らこそ価値論 において社会的合意 を 生み出す条件の整備が きわめて重要な関心事 とされるべ きである。 こうした洞 察が,環 境価値の評価 とい う論点の考究 を通 じて提起 されたわけである。 しか も,環 境問題 を通 じては,将 来世代への負担の転嫁 に関わつて近代民主 主義の限界 も指摘 されている。すなわち,近 代以前の人々は伝統や慣習に呪縛 されていたがゆえに循環的な時間軸 に沿 った思考 にな じみ,か えって将来世代 のことを慮 っていた。それに対 して,近 代人は共時的な時間枠のなかで思考 し, 将来世代 に無責任 となっているところがある。近代 はた しかに共時的構成員の 間の民主主義 を前進 させたか もしれないが,民 主主義の真の成熟 とい う意味で は前近代か ら後退 した ところもあるのではないか│ と。 こうして,環 境価値 に目を向けたとき,近 代人は効率性や最適化 にこだわ り す ぎてこなかったか,そ れは理性過信の所産で もあるのではないか,さ らに環 境価値 を評価すべ く社会的合意形成のための場 を整えてゆこうとすれば近代民 主主義がひとつの陥算 を内包 していたことをも反省すべ きではないかなど,さ まざまに近代 とい う時代 その ものを問い直 さざるをえな くなるわけである。 さらに,こ うした近代の問い直 しとい う観点 を踏 まえて もういちど家事労働 論 に戻れば,次 の江原由美子氏の指摘があ らためて想起 されることとなる。す なわち,そ もそ も第 2波 フェ ミニズム運動が興味深いのは,そ れが諸科学のパ 2 0 ) た とえば, 加 藤尚武 『環境倫理学のすすめ』九善 ライブラリー,1991年,第 3章 。なお, 少 し異 なる角度 か らだが環境問題 に関わって近代人の時間意識の特殊性 を柳 田囲男の逸話 に即 して興味深 く提示 した もの として, 佐 藤健二「日本近代 の 『風景』意識」 ( 大西行雄他 編 F 環境 イメージ論』弘文堂, 1 9 9 2 年) 力S ある。 また, 循 環的時間については, や は り近 代 の相対化 とい う問題意識 の もと, 同 じく現代 の大 きな課題である高齢化社会問題 に引 き つ けて考察 した広井良典 Fケアを問いなおす』 (ちくま新書,1997年)第 6章 , も示唆的 である。
1 2 4 冨 田光彦教授退官記念論文集 (第334号) ラダイムチ ェ ンジを促 しつつあ るか らであ る。 フェ ミニズムは,男 性視点 中心 のパ ラダイムゆえに看過 されて きた諸問題 を単 に拾 い上 げ,欠 落部分 を補 うと い うのではな く,む しろ男性視点中心ゆえに歪みを伴 って きた従来の諸科学の パ ラダイムその ものの変革 を図ろうとしているのである│と 。こうした見地か らすれば,家 事労働の問題 は,単 に従来の経済学がその基礎理論の対象 を市場 現象の範囲に限って きたことに反省 を促 しているに留 まらない。家事労働問題 が浮 き彫 りに した性別役割分業 に随伴 される搾取関係 は,家 庭内のみならず種 々の女性労働 の現場 に広 く認め られることに目を向けるならば,そ もそも資本 制市場経済 システムの基軸的社会関係 を資本 と男性賃金労働者 との間の関係 に のみ求めるべ きなのか否かが問われているのである。 じつ さい,M.ミ ース,C,v.ヴェールホフらは,I.ウォーラーステインの世界 シス 易F論 に学 びつつ,そ の基軸 をなす中心 ―周辺構造論 に新 しい息吹 を吹 き 込 んだ。中心地域 にも主婦かつパー トタイム労働者などダブルシフ トの負担 を 背負 って資本蓄積 におおいに貢献 している周辺労働者が見出されるというわけ である。周辺地域で さらなる負担 を抱 える女性 に目を向ければなおさら,ミ ー ス らにとって,先 進資本主義諸国の男性賃金労働者の少なか らずは,世 界資本 主義 システム全体のなかではむ しろ少数派の特権的労働者 ということになる。 こうして,家 事労働 をめ ぐる搾取関係 に価値論 を拡張適用するという問題は, 資本制市場経済 システムの本質理解,ひ いては近代世界の本質理解 に関わる間 題 に通 じているとい うことになる。かつ,前 節に見た価値 ・価格間接接合説は, 資本制市場経済 システムが懐 の深いメタ 。システムであることを開示するもの として,こ うした ミース らの見解 をも包摂可能 となっているわけであると 2 1 ) 江原 由美子 ・金井淑子編 F フェ ミニズム』新曜社, 1-3ペ ージ。 2 2 ) M . ミ ース他, 古 田睦美 ・善本裕子訳 『世界 システムと女性』藤原書店,1995年。 とりわ け, C . v ヴ ェールホフ執筆の第 1 章 を参照。 2 3 ) 拙稿 「世界 システム論 と女性労働差別問題J若森章孝 ・松岡利道編 F歴史 としての資本主 義』青木書店, 1 9 9 9 年, 1 3 5 - 3 8 ページ参照。
価値論の脱構築と近代の問い直し Ⅳ 価 値形態論 に関 わ つて 価値論 は価値実体論 に尽 きるわけではない。価値形態論 もまた重要な構成要 素である。かつ,第 工節で見たような価値論の再構成 は,こ の側面 において も 価値論のポテ ンシャルを掘 り起 こす ことにつながっている。 す なわち,マ ルクスは価値形態論 において,商 品の帯 びる私的性格が諸商品 間で結ばれる関係 にどの ような特質 を与 えることになるかにた しかにきわめて 大 きな関心 を払 っていた。 じっさい,等 価形態の第三の特性 として定立 された, うえの論点 に関わっての価値形態の両極の非対称性 は,貨 幣の本質,商 品世界 に君臨する支配力の根源 を見事 に決 り出 した もの と言 えよう。だが,マ ルクス の価値形態論のばあい,先 行する価値実体論 に制約 され,せ っか くのうえの論 点への鋭い着眼 を活か しきれていない ところがあったそ この点,価 値実体論 を留保 して流通論 に純化 した宇野弘蔵氏の価値形態論, さらにそれ と運動 した価値尺度論 には教 えられるところ多い。だが,宇 野説 に は価値 ・価格関係 の異次元的把握 になお曖味 さが残 され,結 果 として価値実体 論 の留保がそのまま流通論 において価格 を支配する論理 についての考察 をまっ た く棚上げすることにつながっている。 したがって,せ っか く商品の帯びる私 的性格 に鋭い 目を注 ぎつつ,商 品の購買過程が商品の担 う交換力量 についての 私的当事者たちの主観的評価の出会い とその社会的オーソライズの場であるこ とのみを解明 したに終わっている。 それに対 し,価 格 と価値 とは異次元 にあるとい う認識 に基づ くなら,価 値実 体論 を留保 したか らといって価格 を支配す る論理 に関わる考察 をいっさい留保 す るとい うことにはならない。かつ,商 品の帯びる私的性格 に着 目するならば, 個 々の価格 を支配す る論理,す なわち主観的な交換力量 を持 ち出す さいに各私 的当事者が用いている,宇 野氏言 うところの「物指 し」の質その ものが必ず しも 2 4 ) 価格次元 と価値次元 との直接 的接合 を否定す る本稿 の立場か らすれば,貨 幣 を媒体 に価 格 として現象す る ものは価値 と唆別 され, 異 なる表現 を与 えられるべ きである。それを仮 に交換力 と表現すれば, こ こも価値形態論ではな く交換力形態論 とい うことになる。 2 5 ) 前掲拙著, 1 6 3 7 3 ベ ージ参照。
1 2 6 冨 田光彦教授退官記念論文集 (第334号) 共通 で はない こ とに気 づ かれ る こ ととなる。 こ う して, 商 品 と商 品 との出会 い, す なわ ち単純 な価値 形態 は, 各 商品の交換力 を想定す るにあた って各私 的当事 者 が用 い てい る物 指 しの主観 的 な質 が 出会 う場 で もあ る とい うこ とになる。 あ る質の物指 しを用 い る こ とが相手 にオー ソライズ され るか否 かが問 われ る場 で もあ る とい うわけであ る。 だとすれば,そ うした単純な価値形態の発展の極に生み出された,一 般的等 価形態 としての貨幣は,主 観的な物指 しの質の多様なオーソライズが社会的に 集約され,象 徴的に担われた存在で もあるということになる。貨幣は,当 該市 場システムがどのような質の物指 し, したがってまたどのような質の取引であ れば許容 し,逆 にどのような物指 しや取引は排除するかを,要 するにその市場 2 6 ) シス テムの規範 を集約 ,象 徴 す る存在 で もあ る とい うこ とであ る。 た しか に,市 場経 済 シス テムが広大 であれ ばあ るほ ど,そ こで機 能す る物指 しに託す共通 了解 を紡 く`基盤 は希 薄化 し,そ れだけ貨幣 は抽象 的性格 を強め よ う。 また,市 場経 済 シス テムの深化 は一方で労働 の営利活動化 を,他 方で消費 の記号化 を推 し進 めて,や は り抽 象性 の支配1共 通了解 の基盤 の掘 り崩 しを も た らそ う。その象徴 が,ひ たす ら利得機会 を求めて グローバ ルに駆 け巡 る現代 貨 幣であ る。 だが,現 代 人,現 代 社会 のすべ てが そ う した抽象性 の極 み と しての グローバ ル ・マ ネーやそれが もた らす社会 のあ り方 を受 け入 れてい るわけで はない。 こ の点で と りわけ注 目され るのが地域通貨運動 であ る。す なわち,上 述 の ところ に従 えば,あ る地域通貨 を行使 す る とい うこ とは,そ の行為 を通 じて, どの よ うな質の物指 しを用 い, どの ような取 引 を営 もうとしてい るのか に関わる共通 了解 を, したが って結局 ,当 該市場経 済 システムに託 され る構成員 の価値観 , 文化 ,ラ イ フス タイル等 をオー ソライズ し,再 生産 していっているとい うこと 26)詳しくは,拙 稿「価値形態論の見直しのために」『彦根論叢』315号,1998年,「 『価値形 態論の見直 しのために』再論」『彦根論叢』331号,2001年,参 照。 27)近年における貨幣論の注目されるべき作品のひとつであるN.ドッド F貨幣の社会学』 (三階堂達郎訳,青 土社)第 三章は,ジ ンメルに即 してこの論点を取 り上げているが, じ つはマルクスの貨幣論自体まさにこうした問題関心を出発点としたものであった。杉原四 郎 ・重回晃一訳 F経済学ノー ト』未来社,87-92,100-05,112-18ベ ージなど参照。
価値論の脱構築と近代の問い直し 127 にほか な らない。つ ま り,地 域通貨運動 は,ラ テ ン ・アメ リカでの一部のそれ が直裁 に表 明 してい る ように│グ ローバ ル ・マ ネーが推 し進 め る方向での社会 の変容 に異論 を呈 し,そ れ に対抗 す る戦略 とい う意味 を大 な り小 な り帯 びてい るのだが,そ の対抗 にあた り,貨 幣 は一定 の社 会 的共通 了解 の象徴 で もあ りう るという,ま さに本稿に見たような価値論の再構成が掘 り起こした貨幣認識を いちはや く現実的に活用 した運動 と解されることとなる。逆に言えば,本 稿の ような価値論の再構成は,グ ローバル化の著 しい深化 という現代社会のひとつ の焦点をなす現象に関わつて,そ れに対するいわば静かだが注目されるべ きア ンチテーゼとして展開されている地域通貨運動 という反システム運動に対 して, 貨幣の原理的解明のレベルで基礎づけを与えるものなのである。 V 総 括 と展望 第 田節 で見 た ように,本 稿 が志 向す る価値論 の再構成 は,最 適化 をめ ざす と い う枠組 みの なかで厳密 な価値評価 を求め ようとす る ものではない。そ もそ も 最適化 をめ ざす とい う枠 組 み に本稿 は疑 問 を抱 いてい る。環境 問題 において明 白な ように,そ の ように効率性 を最優先す る近代 的思考 その ものの限界が現代 において問 われてい る と解 す るか らであ る。 また,価 値 が厳密 に特 定可能 な外 的 に存在 す る数値 で はな く,む しろ さまざ まな観点か らの評価 をめ ぐる人 々の社会的合意 の所産である とい う理解か らは, だか らこそ人 々の主体性 の酒養 や社 会 的合意 を作 り上 げる対話 の場 の整備 とい う問題 も価値論 にお ける重 要 な関心事 となる とい う認識が生 み出 され る。 しか もここで も,近 代 民主主義 はひ とつ の陥穿 を内包 してはいないか とい う近代ヘ の反省 が呼 び起 こ され る こ ととなった。 28)たとえば,2001年の日本ラテンアメリカ学会での小倉英敬氏の報告「1990年代ラテンア メリカ社会運動」参照。そこで小倉氏は,「グローバル化への対抗運動と自己規定」し,「グ ローバル化の下で新 しい公共空間を創出する運動として共通性Jを有した地域通貨運動が, 1990年代半ばよリラテンアメリカ各地で種々に展開されている様子を紹介している。 29)マルクス経済学から出発 しつつ,む しろマルクスの「交換=歴 史的,特 殊的行為」説に対 してスミスの「交換=人 間の自然性向」説を再評価 し,ポ ランニーやレヴィ=ス トロースの 業績に学ぶという観点からであるが,貨 幣の帯びる象徴性に鋭い目を注いだ先駆的業績と して,吉 沢英成 F貨幣と象徴』日本経済新聞社,1981年,が ある。
1 2 8 冨 田光彦教授退官記念論文集 (第334号) さらに,価 値論の再構成があ らためてその経済学的解析 に光 をあてた女性労 働差別問題 も,近 代 とい う時代 に重大 な懐疑 を投 げかけていた。すなわち,近 代 は果た して人類 を普遍的 に解放す る ものなのか,む しろ一部の人類に対する 差別 を構造的に再生産するメカニズムを内包 しているのではないか,と 。また それ と運動 して,資 本制市場経済 システムの基軸的社会関係 を資本 と男性賃金 労働者の関係 に絞 り込 むことは安易 にす ぎよう, と。 こうした近代 とい う時代 に対す る懐疑 をうえの論点 と結 びつけるなら,女 性労働差別の解消 は,女 性労 働者 に も現代 の男性労働者並みの働 き方への参加のチ ャンスを平等 に与 えると い う方向には求めえないであろう。む しろ,性 別役割分業の もとで差別 を家 っ 3 0 ) ている女性 に支 えられてこそ可能 となっている,効 率性最優先の現代男性労働 者の働 き方が支配す る世界その ものの変革 をめ ざす もの となるはずである。 のみならず,本 稿が志向する価値論の再構成 は,価 値実体論の くび きか ら価 値形態論 を解放 し,そ こに卒 まれていた商品の私的性格への鋭利 な着眼が貨幣 論 に本来切 り開 くはずであった展望 を顕化 させ る。かつその ことは,地 域通貨 運動 といった現代 的に興味深い反 システム運動 と貨幣の原理的認識 とを架橋す る ものであったのだが,こ の地域通貨運動の反 システム運動 としての現代的興 味深 さも,近 代化の極 としての抽象的なグローバル ・マネーの席捲に抗 して一 定の具体性 の復権 を求める運動 とい うところに求め られたのであった。 こうして,本 稿の志向する価値論の再構成 は,さ まざまなかたちで近代 を問 い直す ことへ と通 じるのだが,そ れはまた価値論の再構築 とい うより脱構築 と 見 るのがふ さわ しい。なぜ なら,一 方で,そ れは価値論 のマス ター ・ナラテイ ヴ (支配的な語 り)の 陰に埋 もれていたサブ ・テクス トを掘 り起 こし,そ れを 通 じてマス ター ・ナラテ イヴが展 開 していた一元的意味世界 を揺るがそうとす る営みだか らである。他方で,そ れは価値論の理解 に新たな硬直的意味世界 を うち立て ようとす る もので もないか らであると む しろ,本 稿で見 て きたような 3 0 ) フ ェ ミニズム論 で は しば しば指摘 され る ところであるが, こ の論点 に もっ ともラデ イカ ルに考察 を加 えようとした もの として伊 田弘行氏の家庭単位批判が挙げ られ よう。た とえ ば, F シ ングル単位 の社会論』世界思想社, 1 9 9 8 年 , 参 照。但 し, 筆 者 は必ず しも伊 田説 に全面的に与す るわけではない。
価値論の脱構築と近代の問い直し 129 視野の拡大や論点の提起,す なわち非市場的経済活動への,あ るいは生態系の 損壊が もた らす人間にとっての費用性への視野の拡大,ま たおお らかな価値量 把握 とそれに伴 う社会的合意形成過程への関心,さ らに社会的共通了解の集積 的担い手 としての貨幣把握 といった論点の提起は,さ らなるサブ ・テクス トの 新 たなる掘 り起 こ しを誘い,価 値論 にいっそ う多様 な意味空間を切 り開いてい くことにつながると予期 される告