「生活空間再生論」研究における「科学」認識論と「生活空間」の存在論的意味
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(2) 論文. 本稿は以下で、四つの疑問に解答を求めるかたちで議論を進めたい。まず、 自然精密科学がいかに「客観的」な科学的認識を実現したのか、という疑問 について、哲学者 E. カッシーラーや心理学者 K. レヴィンの自然科学「認 識論」の批判的考察に倣って解答を追求する(第1節) 。つぎに、社会科学 には自然精密科学と同様な「客観的」認識が可能か、という疑問にたいして、 社会科学固有の「客観的」認識に関する認識論を提唱した M. ヴェーバーの 「理解社会学」を手がかりに解答が求められる(第2節) 。そして、自然科学 と社会科学の認識論を比較する考察から、社会科学の研究対象になぜ「存在 論」的解釈が不可避となるか、という議論に解答したうえで(第3節) 、最 後に「生活空間再生論」研究がまず取り組む研究対象である「生活空間」の 「存在論」的意味とは何か、という疑問の解答を検討する(第4節)。. 1 自然精密科学はいかに科学的認識を実現したか 科学的認識の構造と機能 物理学や化学の自然精密科学がいかに「客観的」 な科学的認識を実現したのか、という疑問については、哲学者エルンスト・ カッシーラーと心理学者クルト・レヴィンの科学認識論に依拠して解答を試 みる1)。新カント派マールブルク学派に属するカッシーラー(1910;1921; 1969)は、カント哲学に基づき観念論的な科学認識論を提示した。それによ れば、科学的認識は、研究者(認識主体)の思惟から発進し、研究対象(認 識客体)を思惟に取り込んで因果関係を解明する機構から成り立つ。そして レヴィン(1936;1948;1951)は、カッシーラーの科学認識論を独自に展開 しながら、後の心理学に多大な影響を及ぼした、革新的な社会心理学を構築 した。以下の科学的認識の考察は、二人の科学認識論を援用するにとどめ、 関連したり対立したりする諸学説には触れずに進められる。 カッシーラー=レヴィンが考究した科学認識論の構成は、「主体(研究者) −客体(研究対象) 」図式の構造と、両者を結ぶ「因果関係」の機能とで特 徴づけられる(図1) 。科学的認識は、研究者(認識主体)が現実の中から 選び出した研究対象(客体)の発生について、 「なぜ」という問いを発して 始まる。「すべての物事に原因があるという公理は、周囲の動向を理解する 2.
(3) 「生活空間再生論」研究における「科学」認識論と「生活空間」の存在論理的意味. 人間能力の一条件」 (Carr 1961: 93-4)とみなせるので、科学的認識も「なぜ」 という問いを発し続けながら、研究対象の発生の「因果関係」を確定しよう とする2)。. 図1 科学的認識の構造と機構―その「主体−客体」図式と因果関係. このとき科学的認識において、研究対象が生起した「事象の因果関係」の 過程は、認識の「主体−客体」図式で「認識の因果関係」の過程に置換され る。すなわち、客体(研究対象)の「事象の因果関係」は、研究者の「なぜ」 の問いで認識主体(研究者)の思惟に包み込まれ、認識主体が「結果」とし ての「客体」についての「原因」を探索する「認識の因果関係」に置き換わ るのだ。 ふたつの因果関係 こうして、科学的認識では「因果関係」を認識する機 構がきわめて重要となり、レヴィン(1936:30−31)によれば、その「因果 関係」には「体系的因果性」 (systematic causality)と「歴史的−地理的因 果性」 (historical-geographical)の二通りがある。二通りの「因果関係」に ついて、レヴィンは次のように説明する。 物理学の例を挙げよう。雨が降っていて、私はある木の下に座ってい 地域創造学研究. 3.
(4) 論文. る。その木の葉は、 私が濡れるのを防いでいる。 「なぜ濡れないのだろう」 と、私は自問する。雨の落下する方向と 速度、葉の位置、私自身の位 置等といった事項から、この質問に答えることができる。要するに、現 在の事態が表示でき、また力学ないしは他の関連法則を適用して、どの ような出来事がかくなる事態で生起するかを、導出できるのである。と ころで、この疑問に対して、次のような解答も可能であろう。「君が雨 に濡れないのは、この木を植えた君のお祖父さんのおかげだ。この辺り の土譲は、けっして肥沃ではないが、お祖父さんは木を植えた最初の一 年間、入念に手入れをした。しかし、それでも新しい国道を通す計画が 去年施工されていたら、その木はすでに切り倒され、君が雨に濡れずに ここに座っていることもなかっただろう。 」 第二の解答は、歴史的因果性による説明の例である。その特徴的な性 格は、それが 出来事の因果的連鎖の経過と相互連関を説明することに あり、その出来事は、一度だけ生起し、ある年代とある地理的配置に位 置づけられる。他方で、体系的因果性による解答は、日時のない類型な (Lewin 1936:30−31) らびに法則に関連する。 この引用から、次のような科学的認識の機構が看取される。物理学などの 自然精密科学の認識は、レヴィンが指摘する「体系的因果性」に基づいて構 成され、そのさい、これもまたレヴィンが言及する通り、体系的因果性によ る認識は「力学ないしは他の関連法則を適用して」可能となる。 この「力学ないしは他の関連法則」とは、体系的因果性の「因果律」 、す なわちある原因がある結果となる「決定因」に相当し、そして科学的認識の 「客観性」を担保する「根拠」である、とみなされる。これらの「力学ない しは他の関連法則」については、科学的認識の「根拠」として「理論」 (theory) が同一の役割を果たすので、本稿の以下では「理論」の用語で統一して表示 したい3)。 日常的認識と科学的認識の比較からみる「理論」の役割 認識の根拠とし てのこうした「理論」が、科学的認識の「客観性」を担保する、と考えられ 4.
(5) 「生活空間再生論」研究における「科学」認識論と「生活空間」の存在論理的意味. るので、ここで「客観的」な科学的認識と「主観的」な日常的認識のそれぞ れの構造と機構を比較して、 「理論」が科学的認識に「客観性」を保証する 機構を浮き彫りにしてみたい。 まず「日常的認識」の構造と機構から素描する(図2) 。その構造は、一 般的な「認識の構造」の通り、認識「主体」と認識対象である「客体」とか ら成り立つ。そして、認識主体は「言語」を認識の準拠枠として認識対象を 捉えるが、その際に、準拠枠としての「言語」の作用は認識主体自身にほと んど意識されない。つまり日常的認識では、 「言語」が暗黙裏の根拠として 機能している。. 図2 日常的認識の構造と機構. しかも、 「言語」の意味論や文法論は、それぞれの言語に固有な社会的・ 文化的・歴史的脈絡に規定されるので、言語を認識の準拠枠とする日常的認 識の結果は、社会や文化ごとに差異が生じ、また同一の社会や文化であって も個人的な差異や歴史的な相違が生じる可能性がある。そうした日常的認識 と社会的・文化的背景との関係について、人類学者クライド・クラックホー ンは次のように簡潔に言及している。 どのような言語も、世界を見たり、経験を解釈したりする、ある特定 の方法である。異なる言語の構成には、それぞれ特定の世界やその世界 の生活について、包括的で意識されない一連の前提が隠くされている。 人類学者にわかっているのは、人が自らの外にある世界に生起する事柄 について抱く通常の考え方は、概して外在的な出来事によって与えられ るのではない、ということである。むしろある点で、人はその言語の文 地域創造学研究. 5.
(6) 論文. 法的な体系が受け入れさせるもの、経験的に探究するように教え込まれ るもの、それらだけを見たり聞いたりする。このような偏重は、だれも が自らの言語がある体系を成していると気づいていないだけに、いっそ う潜在的なものである。ある言語を話すように育てられた人々にとって、 その言語はまさに本質的な部分であり、常に、ある背景的な現象として 存在するのである。 (Kluckhohn 1949:159) かくして、言語を認識の準拠枠とする日常的認識では、その「根拠」が不 確定なので、認識の結果に「客観性」は担保されない。 このように「客観性」を保証できない日常的認識の構造と機構に対して、 次に「客観性」を確保できた科学的認識の構造と機構の概略を描き出そう(図 3) 。科学的認識の構造も、日常的認識と同様に一般的な「認識の構造」の 特性を有し、 「主体(研究者)−客体(研究対象) 」図式で成り立つ。そして、 認識主体の研究者は「理論」を認識の準拠枠として提示し、これを認識の根 拠として認識客体である研究対象を捉える。日常的認識が「言語」を無意識 に認識の根拠とするのに対して、科学的認識は「理論」を認識の根拠として 明示するのである。. 図3 科学的認識の構造と機構. こうして提供される「理論」が科学的認識の「客観性」を保証するために、 自然精密科学は、「理論」に科学的真理として「必然的妥当性」と「経験的 妥当性」を確保している、とカッシーラー(1969)は指摘する。そこで次に、 「理論」がどのように構成され、いかにして「必然的妥当性」と「経験的妥 当性」を獲得するかをみてゆきたい。 理論の構成と科学的真理の獲得 自然精密科学の「理論」の実体が何かと 6.
(7) 「生活空間再生論」研究における「科学」認識論と「生活空間」の存在論理的意味. いえば、それは、ある研究者が研究対象の「ダイナミクス」 (力動性)を直 観した、その研究者の思惟である4)。カッシーラー(1969:53)は、このよ うに研究対象のダイナミクスが研究者の思惟に包含された概念構成体である 「理論」を、 「対象的思惟」 (gegenständliches Denken)とよぶ。この「対象 的思惟」としての「理論」が、 科学的認識に「客観性」を付与する認識の「根 拠」となる。 ここで問題となるのは、研究者の「対象的思惟」という主観で構成される 「理論」が、科学的認識の「客観性」をいかに担保できているのか、という 疑問である。理論に「客観性」を確保する手続きは、まず理論に「必然的妥 当性」を付与する作業から着手される。 「必然的妥当性」とは概念構成体が 論理的整合性を有する特徴である。精密自然科学の「理論」の「必然的妥当 性」は、それ自体が論理整合的な概念構成体である「数学」による表示で確 保されている。 自然精密科学者が対象事象から捉える「ダイナミクス」としての「対象的 思惟」は、数学の「関数概念」形式で表象される(カッシーラー1910:26)。 例えば、自然精密科学者がある対象事象から一つの系列「aα1β1,aα2β2,…, aαnβn」という現象的特徴を観察したとき、当の自然精密科学者はその観察 結果から、「個別の項aを定数、α項全体(α1,α2,…,αn)の変化を可変 的表現x、β項全体(β1,β2,…,βn)の変化を可変的表現yとおいて定 式化された関数a x y」というダイナミクスを導出し、これを関数概念形式で 表象された対象的思惟に誘導する。こうして対象的思惟としての「理論」が 「数学」で表示される手続きから、 「理論」は「必然的妥当性」を獲得するの である。 ここで「必然的妥当性」が確保された「理論」は、論理的整合性を有しな がらも、 いまだ研究者の観念的構成体のままである。つまりそれは、 「経験的」 に実証されていない。そこで必然的妥当性をもつ観念構成体である、仮設の 「理論」は、次に「経験的妥当性」を獲得せねばならない。そこで、自然精 密科学の理論の「経験的妥当性」には、対象的思惟のダイナミクスを現実に 組成する、 「きわめて非日常的な人工的経験」 (Lewin 1948:61)である「実 地域創造学研究. 7.
(8) 論文. 験」が適用される。 実験は、「いま、ここで、という我々の眼前にあり特殊規定性に満ち溢れ る現実的事例にではなく、我々がその現実的事例に置き換える理想的事例」 なのである(カッシーラー1910:294) 。この実験的方法は、対象事象につい て統制された条件下で感性的事実の規則性を単に抽出するのではない。そう ではなくて、研究者が対象事象から導き出した、論理整合的な対象的思惟の ――「体系的因果性」の因果律となる――普遍的な法則性を現実に、我々の 眼前に構築してみせるのだ5)。この実験的方法によって、自然精密科学の「理 論」は「経験的妥当性」を獲得するのである。 こうして「数学的表示」と「実験的方法」から保証された自然精密科学の 科学的認識の「客観性」は、果たして社会科学においても同様に確保される のだろうか。 この問題にもっとも真剣に取り組んだ社会科学者の一人は、マッ クス・ヴェーバーである。そしてヴェーバーは固有の認識論と方法論を打ち 立て、それらに従って経験的研究の成果もあげている(例えば、ヴェーバー 1904b;1920)。そこで次に、ヴェーバーの社会学認識論に倣って、社会科 学には自然精密科学と同様な「客観的」認識が可能か、という疑問について 検討してみたい。. 2 社会科学には自然精密科学と同様な客観的認識が可能か 「自然科学」認識論と「社会科学」認識論 ヴェーバー(1904a;1913)は、 新カント派西南学派のハインリッヒ・リッケルト(1899)の哲学から影響を 受け、社会科学と自然科学の「科学的」認識論の相違を強調して、独自の「理 解社会学」を構築し、社会科学に固有の「客観的」認識論を探究した。自然 科学と社会科学の認識論の異同は主に、研究対象の単位要素がそれぞれに物 質と人間である、という特徴に起因する。自然科学の研究対象が意識をもた ない事物であるのにたいして、社会科学の研究対象は、意識をもち意図的か つ、ときに自省的に行動する人間である。ヴェーバーは、人間の社会的行為 から発生する社会現象の生起には、常に「価値」や「意味」が交錯するとみ 8.
(9) 「生活空間再生論」研究における「科学」認識論と「生活空間」の存在論理的意味. なした――むしろ社会現象は、 「価値」や「意味」が輻輳して成り立つ、と いえるかもしれない。 そこで、 ヴェーバー(1904a)は社会科学に固有な認識論を提供するのだが、 私見によれば、その認識論は如上(第1節)のカッシーラーが解明した自然 精密科学の認識図式と形態論的に同型とみなされる(安村1988)6)。ただし ヴェーバー(1906)は、自然科学の究極的目的が「体系的因果性」の探究で あるのに対して、社会科学の最終的目的は「歴史的−地理的因果性」の解明 であるとみなした。 そしてヴェーバーは、社会科学に固有な科学的認識として「理念型」を導 入する。この「理念型」は、社会科学の「歴史的−地理的因果性」の解明に 「体系的因果性」の認識を挿入するための「根拠」と位置づけられる。この 点において、 「理念型」の役割は自然科学の「理論」の位置づけと合致する。 それでは、自然科学と社会科学の認識論の構造と機能が、どこで決定的に異 なる、とヴェーバーは主張するのか。これについては、次でより詳細に検討 したい。 ヴェーバー社会科学認識論の構造と機能 ヴェーバー(1906;1913)は社 会科学の研究対象を「歴史的個体」 (historisches Individuum)とみなし、 その「具体的結果を具体的原因へと帰属する」 (1906:182)という、歴史的 現実の「因果性」を解明しようとした。この因果性は前述したレヴィンの二 つの因果性における「歴史的−地理的因果性」に相当するが、ヴェーバーは この「歴史的−地理的因果性」の認識に、 「理念型」(idealtypus)を認識の 根拠とする「体系的因果性」を組み入れる(図4) 。その結果、ヴェーバー の社会科学認識論の構造は、認識の根拠を明示する「主体(研究者)−客体 (研究対象) 」図式に基づくので、自然精密科学の認識構造と形態において同 型である。. 地域創造学研究. 9.
(10) 論文. 図4 ヴェーバー社会学による科学的認識の構造と機構. しかしヴェーバーが提供する社会科学の「科学的」認識の「機構」は、社 会科学の研究対象が「歴史的個体」という人間事象である特性を反映して、 自然精密科学の「認識の機構」とは異なっている。ヴェーバー(1913)は、 研究対象の「歴史的個体」を社会的行為の諸関係とその経過に還元し、その 社会的行為の過程を二通りの手続きを通して認識しようとする。一方の手続 きでは、社会的行為の「主観的な目的合理性」 、つまり行為者がいかなる「目 的」をめざして当該の行為をしたのか、について、研究者が行為者の心理的 「内面」から「理解」による認識を目論む。もう一方では、同じ社会的行為 の実際的な経過について、 「原因」と「結果」の経緯を「外面」から「観察」 し、 「論理整合的」な認識をめざす。 この二通りの手続きを結び合わせ、なおかつ認識の「根拠」となる装置と して、 ヴェーバーは「理念型」を措定する。その「理念型」について、ヴェー バーは次のように定義している。 理念型とは、ひとつの思想像であって、歴史的現実ではないし、また 実際の現実などでは決してない。ましてそれは、現実を事例として分類 してしまうのに役立つ図式などではない。そうではなく、理念型は、純 10.
(11) 「生活空間再生論」研究における「科学」認識論と「生活空間」の存在論理的意味. 粋に理念的な極限概念の意味をもち、それに基づいて現実の経験的内容 のうち、特定の有意味な構成要素を明瞭にするために、現実を測定し比 較するのに用いられるのである。 (Weber 1904:194=1982:64−65)[訳 は筆者による]. このようにヴェーバーは「理念型」において、研究者の思惟に「思想像」 として取り込まれた「純粋に理念的な極限概念」による認識の「準拠枠」と いう役割を担わせた。この点において「理念型」の特徴と役割は、自然精密 科学で対象的思惟の数学的構成体である「理論」の特徴と役割に一致する。 ただしヴェーバーの「理念型」には数学的表示がなされておらず、 「必然 的妥当性」を確保していない7)。また理念型の「経験的妥当性」は、思考「実 験」に基づいて文献や資料を解読する手法が――宗教社会学研究(1904b; 1920)などで――適用されている。 かくして社会科学の科学的認識では、自然精密科学の科学的認識のような 「必然的真理」と「経験的真理」を獲得できないが、ヴェーバーが探究した ように、社会科学の研究者が論理整合的な「根拠」としての「理念型」をそ の認識に提示する手続きによって、研究者の認識結果や説明内容が、研究者 相互間や他の多くの認識主体間で、より正確に議論されることになろう。 このようにヴェーバー社会科学認識論によって、社会科学の認識にも固有 の「客観的可能性」が――限定的にせよ――確保されるのだが、さらにヴェー バー認識論が示唆するように、 社会科学の研究対象にはつねに「価値」や「意 味」が絡み合い、また認識には「価値判断」が纏わり付く。このことから、 社会科学の研究対象の「存在論」的意味という問題が浮上する。次には、こ の問題について検討したい。. 3 社会科学の研究対象になぜ「存在論」的解釈が不可避となるか 社会科学における価値と意味 ヴェーバー(1904;1906)が指摘する社会 科学と自然科学の「研究対象の属性」にかかわる相違は、前述のように、そ 地域創造学研究. 11.
(12) 論文. れぞれの「科学的」認識の機構に決定的な相違をもたらす。その根本的な相 違は、社会科学の研究対象となる社会事象が、 「意味」と「価値」から成り 立つ、という事実にある。人間が「価値」と「意味」を付与して成り立つ社 会事象としての歴史的個体には――社会科学の研究にさえも――、 「価値判 断」や「意味解釈」の課題がつねに交錯する。 このように「社会」は「価値」と「意味」から構成され、それらは時間と ともに――社会構築主義が示唆するように――変容する(さらには制度化し て社会的事実ともなる)とみなされる。他方で、自然科学の研究対象となる 自然については、人間の存在と無縁に「そこにあるもの」として、それ自体 が価値や意味から構成されてはいない。 「自然」の「価値」や「意味」とし てのいわゆる「自然観」は、人間によって外部から付与されたにすぎない。 この点が、社会科学と自然科学の「研究対象の属性」に関わる決定的な相違 として銘記される。 社会科学的認識の認識根拠と実在根拠 こうした社会科学において「研究 の 有 意 義 性 」 を 評 価 す る た め に、 ヴ ェ ー バ ー(1906) は、 「認識根拠」 (Erkenntnisgrund)と「実在根拠」 (Realgrund)という二つの「根拠」を 設定した。ヴェーバー(1906:131−2)は、この「研究の有意義性」を評価 する二つの「根拠」の特徴を説明する事例として、ある研究者の「ツキリッ ト族とイロクオイ族における[氏姓制度からの]国家の成立」という歴史学 研究を取り上げている。この「研究の有意義性」について、ヴェーバーによ れば、「ツキリット族とイロクオイ族の国家成立」という「実在根拠」は― ―特に世界史的観点から――「何の意味ももたない」が、 「国家の成立」と いう「認識根拠」は歴史学の視点から意義をもつ、と判定される。 ここで刮目すべきは、社会科学の科学的認識では研究対象の「実在根拠」 にも配慮されねばならない、という「研究の有意義性」における条件である。 自然科学の研究対象の存在それ自体が「価値」や「意味」から構成されてい ないので、それに日常的な「価値判断」が付与されるにせよ、前述(第1節) でみたように、自然科学は「理論」としての「認識根拠」を定立するだけで、 それに基づく方法論によってその「価値判断」を捨象しえる。したがって、 12.
(13) 「生活空間再生論」研究における「科学」認識論と「生活空間」の存在論理的意味. 自然科学の科学的認識には、研究対象の「実在根拠」は問題となりえない。 ところが社会科学では、その研究対象が地理的−歴史的状況と絡み合う「価 値」や「意味」から構成されるので、研究者の「価値判断」も含め、様々な 「価値判断」が介入しうる。そこで社会科学の科学的認識には、ヴェーバー の事例の通り、「認識根拠」が最終的には重要ではあるが、研究対象の「実 在根拠」も看過しえないのである。 社会科学の「研究の有意義性」の「実在根拠」という条件から、その科学 的認識にあたり、研究者が予め研究対象に「存在論」的解釈をくわえ、その 解釈が科学的認識に影響を及ぼす事態になる8)。この点については次節でさ らに検討をくわえ、そのうえで「生活空間再生論」の基礎となる「生活空間」 の「存在論」的解釈を試みたい。. 4 「生活空間」の「存在論」的意味とは 社会科学の研究対象の「存在論」的解釈 社会科学の科学的認識には、つ ねに研究者個人の価値判断が――そこに歴史的−地理的状況下の一般的な価 値判断も重なり合いながら――つきまとう。そこで、社会科学の「科学的」 認識には、自然精密科学と等価な客観的・普遍的真理は、おそらく獲得され えない。それでも、ヴェーバーがその社会科学認識論において探究したよう に、社会科学の研究者が認識の論理整合的な――理念型のような――「根拠」 を提示する手続きによって、研究対象について研究者相互間や他の多くの認 識主体間でも――条件づけられてはいるが――「客観的可能性」が共有され うる。 そして社会科学の科学的認識では、 「認識根拠」と同時に、研究対象の「実 在根拠」も提示されねばならない。この「実在根拠」とは、研究者が研究対 象に付与する「価値判断」である。この「価値判断」は、研究対象の「意味」 や「価値」に対する研究者の哲学的考察であり、 「存在論」的解釈であると みなせる。 伝統的に哲学的考察の関心や焦点は、その歴史において「認識論」と「存 在論」の間を揺れ動くようであり、 「認識の真理」を問うか、 「存在の意味」 地域創造学研究. 13.
(14) 論文. を問うかは――フッサール現象学などのように両方を統合する試みもあるが ――容易に統合しえない主題なのかもしれない。社会科学者はまず、自らの 研究対象である社会事象の「存在論」を解釈したうえで、さらにその解釈を ――無限後退の陥穽に触れそうだが――論理整合的に構成できないだろうか。 次に、これまでの議論を踏まえ、生活空間再生論の「生活空間」の仮設的定 義について、その「存在論」的解釈を試みたい。 「生活空間」の「存在論」的意解釈の意義 「生活空間再生論」研究の「実 在根拠」の一端として、 本稿ではまず「生活空間」に焦点をあて、それに「存 在論」的解釈をくわえる。 「生活空間再生論」は、文字通り「生活空間」の 再生から出発して、グローバル社会(近代世界システム)の再編成までを視 野に収めた社会構想である(安村 2009) (図5) 。この研究の出発点となる「生 活空間」の「存在論」的意味の明示は、 「生活空間再生論」研究の「実在根拠」 を明らかにするために不可避の作業とみなせる。. 図5 「生活空間再生論」の研究対象. 「生活空間」の「存在論」的意味は、その再生構想の策定にあたって、取 り込まれねばならない先験的な前提条件であり、またその構想の実践にあ たっても基本的な指針となるべき根本的要件である。先取りをして言及すれ ば、「生活空間」の「存在論」的意味は、資本主義と近代化によって破壊さ れつつある人間社会の「持続可能性」にとって、核心的な問題点であるとも 考えられる(安村2010a;2010b) 。この問題点は、「生活空間再生論」が構 想される原点ともいえる。 14.
(15) 「生活空間再生論」研究における「科学」認識論と「生活空間」の存在論理的意味. そうした「存在論」的意味の解釈は、エドムント・フッサール(1954)の 超越論的現象学における「生活世界」 (Lebenswelt)の解明とまさに符合する。 「生活世界」はまた、フッサール現象学を社会学に援用して現象学的社会学 を構築したアルフレッド・シュッツ(1932;1970)によっても考察されてい る。しかし両者の「生活世界」の解釈は、完結していない。フッサール哲学 (1954)では、 「生活世界」を探究する意義とその表象の概略は丁寧に議論さ れているが、 「生活世界」 の本質的特徴は明確に解釈されていない。フッサー ル哲学の主眼は、超越論的心理学の「認識論」と生活世界の「存在論」との 統合にあったが、その 「認識論」 に比重がおかれたようにみえる。またシュッ ツ(1932)は、最終的にその研究の道筋をヴェーバーの理解社会学の再構成 による「社会的世界」 (sozialen Welt)の考察に軌道修正した。 そこで本稿では以下に、フッサールやシュッツの「生活世界」の議論を踏 まえながら、「近代」という「長期的」な時間軸(Braudel 1980)の歴史的 −地理的現実の背景も念頭において、 「生活空間」の「存在論」を解釈し、 その「存在論」的意味を明らかにしたい。 「生活空間」の「存在論」的意味 フッサール現象学(1954)における「生 活世界」とは、自我−主体としての個人が自らの身体を定点として、主観的 に、かつあるゆる他者と間主観的に捉えられ、そこに生きられるはずの根源 的地平である。それは、フッサール現象学にとって、現象学的還元の超越論 的「認識論」を通して到達する人間の生活の基礎的場という「存在論」的意 味を有する。少なくともそうした観点から――その具体的な特性やニュアン スに相違があるにせよ――「生活空間再生論」は、フッサールの「生活世界」 を「生活空間」の「存在論」的解釈の手がかりとみなす。 フッサール現象学は、前述のように、 「生活世界」の具体的な本質的特徴 に言及していないが、それでもフッサール(1954)の議論には、「生活世界」 の成立の前提となる、二つの根源的条件が読み取られる。ひとつは、 「生活 世界」の空間が個人と個人の社会関係の成立ではじめて存立する、という条 件である。この条件についてシュッツ(1970)は、 「われわれ関係」 (Werelatinship)とよぶ。この「社会関係」の成立という、一見して自明な条件 地域創造学研究. 15.
(16) 論文. には、現象学的にみれば、意識や行為の志向性、相互作用、間主観性、身体 などが複雑に絡み合う事態について、緻密な「存在論」的考察が求められる。 そしてこの「社会関係」の成立は、生活空間再生論においても、「生活空間」 の構成に根源的前提として考察されねばならない。 もうひとつの「生活世界」の根源的条件は、その基盤に「自然」が存在す る、というよりもむしろ、 「生活世界」が「自然」の一部だ、という事実で ある。ただしこの条件は、 フッサールによって明確に提示されていない。フッ サール(1954)は「自然科学の自然が現実に経験される自然、生活世界の自 然でない」として、ガリレオ力学が創始してその後に普及した機械論的自然 観と自然主義的認識を激しく糾弾する。が、この糾弾の背後には本来の「生 活世界の自然」、つまり、人間がその中に生存して日常生活を営む大地とし ての「自然」がある、と看取しうる。こうした「生活世界」の存在の基盤と しての「自然」という条件も自明ではあるが、それは現象学的意味が投影さ れた「生活世界」の「存在論」的条件として強調されてよい。なお「生活空 間再生論」ではこの条件について、人間と自然が共生する「生態系」も「自 然」と並置し、生活空間の基盤となる「自然・生態系」の根源的条件として 表すことにする。 かくして、「生活世界」の存在論的解釈による、その二つの存在論的条件 を通して、 「生活空間」は「社会関係」の成立で構成され、「自然」を基盤と して存立する日常生活の場である、という仮設的定義が誘導される9)。そこ で、如上に「生活空間再生論」研究の射程を示した図5には、個人が社会関. 図6 自然・生態系を基盤とする「生活空間」. 16.
(17) 「生活空間再生論」研究における「科学」認識論と「生活空間」の存在論理的意味. 係の中で営む「生活空間」とその他のすべての次元の社会諸空間の基盤とな る「自然・生態系」が付加され、図6のように差し替えられる。 以上で議論された「生活空間」の「存在論的」意味としての「社会関係」 と「自然・生態系」の事態は、近代化という「長期的」な歴史過程で崩壊し、 周知のように、現代社会にはその崩壊に纏わる多くの深刻な社会問題が発生 している10)。あらためて繰り返せば、近代とその原動力といえる資本主義の 根本問題、さらにはその根本問題を踏まえた「長期的」な歴史過程を探究し、 それに対抗しつつ「生活空間」の再生から人間社会全体の再編を構想するの が「生活空間再生論」の目論みなのである。. おわりに 本稿では「生活空間再生論」研究の科学的認識がいかに可能かを議論し、 さらにその考察の結果を踏まえて「生活空間」の存在論的意味についても検 討した。こうした哲学的考察の結果の正当性はその考察自体で検証されえな いが、経験科学が新たな研究領域に挑戦しようとするさい、そうした考察は 不可欠な作業である。経験科学の批判的基礎の哲学的考察を回避し、既存の 方法やモデルを暗黙裏に適用したり、事実の「ありのまま」の記述や解釈に 終始したりする――あえて惰性的で呑気ともいえる――研究態度は、おそら く新たな研究領域を切り開けない。 実際にあらゆる経験科学の革新的成果は、挑戦的な批判的基礎研究に支え られていた。例えば物理学におけるアインシュタインの相対性理論やハイゼ ルベルクの不確定性原理、あるいは社会学におけるヴェーバーの理解社会学 やデュルケームの社会学的方法の規準など、すべての経験科学の革命的な展 開は、挑戦的な哲学的考察とみなされる。そして経験科学の哲学的考察は、 その研究課題の意味を熟知する当該領域の経験科学者自身によってしか遂行 されない。 「生活空間再生論」研究もまた、 「高度近代化」に対抗する新たな挑戦に取 り組むために、経験的研究と並行して哲学的考察を実践せねばならない。本 稿では、重大すぎる主題にたいして十分な議論が尽くされていないが、 「生 地域創造学研究. 17.
(18) 論文. 活空間再生論」研究の「科学的」認識について、「認識事実」の論理整合的 な「根拠」を明示したうえで、関係者間の対話を通じて達成する方向性が提 案された。その認識論的考察から、社会事象を探究する「生活空間再生論」 研究には、 さらに「実在根拠」の「存在論」的解釈の不可欠性が結論され、 「生 活空間」の存在論的意味として、その成立に「社会関係」の構成と「自然・ 生態系」の基盤とが根源的条件となる、という結論も導出された。 本稿は、「生活空間再生論」研究における批判的基礎論研究の予備的考察 と位置づけられる。これらの結論には稿をあらためてさらに綿密な考察をく わえねばならない。とりわけ「生活世界」の存在論的解釈については、さら に徹底的に考察したいと考えている。 注. 1)カッシーラー哲学とレヴィン心理学の詳細については、安村(1989)を参 照されたい。 2)こうした「なぜ」の問いから出発する認識は、 「決定論」的認識となる。決 定論とは――E. H. カー(1961:93)の簡明な定義の通り――「発生するす べての物事には一つないしは複数の原因があり、そして同じ一つないしは 複数の原因をもつある物事が同一の事態であれば、すべての物事は同一に 生起したといえよう、という信念」である。 3)自然精密科学では一般的に、「法則」は個別事象に当て嵌まるダイナミクス であり、「理論」は複数の事象を包含する一つのダイナミクスである、と区 別される。 4)したがって「理論」は「事象の抽象化」や「感性的知覚の事実」とは結び 付かない。「理論」それ自体は、事象や事実自体と直接に結び付くものでは ないのだ。 5)この意味で、つまり実験から事象のダイナミクスが組成されるという意味で、 しばしば実験で実証された理論について指摘される「所与の諸条件でのみ 有効」の注釈は、一面的である。実験で具現された理論は、対象事象の普 遍的本質であり、その事象の生起を普遍的に支配する。ただし当該事象の 現象的側面では、複雑な現実の諸条件ゆえにその普遍的理論はほとんど単 独で作用せず、それぞれの作用は日常的認識においてあまり認知しえない。 6)リッケルト=ヴェーバー(西南学派)とカッシーラー=レヴィン(マール ブルク学派)の認識論は、両者とも新カント派の哲学に立脚するので、認 識論の形態がともに「主体−客体」図式の構造となるのは、むしろ当然で ある。ヴェーバーは、自然科学においても、その理論構成が研究者の思惟. 18.
(19) 「生活空間再生論」研究における「科学」認識論と「生活空間」の存在論理的意味 から発進する機構を次のように指摘する。「……数学や自然科学の真に偉大 な認識の場合も、事情は歴史の場合と全く変る所がないのである。数学や 自然科学の偉大な認識はいずれもまず想像の中で“直感的に”仮説としてひら め き、 つ い で 事 実 に 即 し て“検 証”さ れ る の で あ る 」 (1906:195) 。 な お、 Yasumura(1988)では、ヴェーバーの「自然科学」認識論の読み込みが不 十分であり、ヴェーバー社会科学認識論とカッシーラー自然科学認識論の 同型性を強調するに留まってしまった。 7) 「必然的妥当性」をもたない「理念型」を根拠とする社会科学的認識の認識 結果の妥当性について、ヴェーバー(1904:180f)は「訓練を積んだ研究者」 や「教養ある文化人」による根拠に基づいた議論の結論に委ねてしまった。 8)ヴェーバーは、「認識根拠」と「実在根拠」について、その明示の仕方にま で言及していないが、 「実在根拠」の一部も「理念型」に盛り込まれている、 とみなされる。 9)人間社会の成立条件に「社会関係」と「自然」が深く関わる哲学的解釈に ついては、ルカーチ(1923:219−21)が「人間存在を形づくっている対象 性形態をたえず変革する歴史」 (p. 220)という文脈から、 「人と人との関係(対 立)」と「人と自然との関係(対立)」を論じている。 10)こうした「生活空間」の存在論的意味に関連して、 「生活世界」の崩壊を問 題視したハーバーマス(1981)は、「コミュニケーション的行為の理論」で その再生を構想した。ハーバーマス理論に対する批判的議論については、 横田(2010)をみられたい。また「生活空間再生論」と「資本主義」問題 との関係、ならびに「自然・生態系」問題との関係については、それぞれ に安村(2010a)と安村(2010b)を参照されたい。. 文 献. ヴェーバー, M. 1904a「社会科学および社会政策の認識の「客観性」」出口勇蔵 訳『ウェーバー 社会科学論集』(1982)河出書房新社. --------- 1904b『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』大塚久雄訳(1989) 岩波文庫. --------- 1906「文化科学の論理学の領域における批判的研究」盛岡弘通訳『歴史と は科学か』(1965)みすず書房. -------- 1913『理解社会学のカテゴリー』林道義訳(1968)岩波文庫. --------- 1920『宗教社会学論選』大塚久雄・生松敬三訳(1972)みすず書房 カッシーラー, E. 1910『実体概念と関数概念』山本義隆訳(1979)みすず書房. -------- 1921『アインシュタインの相対性理論』山本義隆訳(1976)河出書房新社. -------- 1969『哲学と精密科学』大庭健次訳(1978)紀伊國屋書店. シュッツ, A. 1932『社会的世界の意味構成――理解社会学入門』 [改訂版]佐藤. 地域創造学研究. 19.
(20) 論文 嘉一訳(2006)木鐸社. (H. R. ワーグナー編)森川眞規雄・浜日出夫訳(1980) -------- 1970『現象学的社会学』 紀伊國屋書店. フッサール, E. 1954『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』細谷恒夫・木田 元訳(1995)中公文庫. 安村克己 1989「カッシーラー哲学とレヴィン心理学――社会学の科学基礎論に 関する一考察」『応用社会学研究』(立教大学社会学部)31:1−18. 「生活空間再生論」構想の見取図――玉野井芳郎「地域主義」を手 -------- 2009「 がかりとして」『地域創造学研究』(奈良県立大学)Ⅲ:43−82. -------- 2010a「生活空間再生論における資本主義研究――玉野井芳郎「広義の経 済学」を手がかりとして」『地域創造学研究』(奈良県立大学)Ⅳ:47−77. -------- 2010b「生活空間再生論における生態系の意味――槌田「エントロピー論」 を手がかりとして」『地域創造学研究』(奈良県立大学)Ⅶ:135−162. 横田榮一 2010『ハーバーマス理論の変換――批判理論のパラダイム的基礎』梓 出版社. リッケルト, H. 1899『文化科学と自然科学』佐竹哲雄・豊川昇訳(1939)岩波文 庫. ルカーチ, G. 1923『歴史と階級意識』[新版]平井俊彦訳(1962)未來社. レヴィン, K. 1948『社会的葛藤の解決』末永俊郎訳(1954)東京創元社. -------- 1951『社会科学における場の理論』猪股佐登留訳(1956)誠信書房. Braudel, F. 1980 On History, trans. Matthews, S., University of Chicago Press. Carr, E. H. 1961 What Is History?, Penguin [1990]. Kluckhohn, C. 1949 (1985) Mirror for Man: The Relation of Anthropology to Modern Life, University of Arizona Press. Lewin, K. 1936 Principles of Topological Psychology, MacGrow-Hill. -------- 1948 Resolving Social Conflicts, G. W. Lewin ed., Harper & Row. Weber, M. 1904 "Die 》Objektibität《 sozialwissenschaftcher und sozialpolitischer Erkenntnis," Archiv für Sozialwissenschaft und Sozialpolitik, 19. Yasumura, K. 1988 "Weber's Sociology and the Exact Sciences: The Common Characteristics of Both Epistemologies," Annals of the Japan Association for Philosophy of Science, 7 (3): 131- 146. 謝辞 拙稿は、2011年4月16日に開催された「地域創造学研究会」 (奈良県立大学) の発表原稿に基づいて作成されています。参加された神木哲男奈良県立 大学元学長をはじめ、戸田清子准教授、石川敬之准教授、玉城毅講師、 亀山恵理子講師の各氏からは、貴重な意見や示唆をいただきました。心 から深謝の意を表する次第です。 20.
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