イヌとワンピースと好漢
杉村博文
1“狼狗”と“连衣裙” “狼狗”は「シェパード」である。形状が“狼”に似ているので“狼狗”と言う。“连衣裙” は“布拉吉”を“衣”に連なる“裙”と意訳して「ワンピース」である。それでは「シェパード 一匹」「ワンピース一着」はどう言うか。即ち“狼狗”と“连衣裙”に対応する量詞はなにか。 “狼狗”は相貌は“狼”だが,語構成上も意味上も“狗”であり“狼”ではない。よって量詞 には通常“条”が用いられる。“狼”の量詞は通常“只”である。“条”も用いられるが,それ は“狗”に“条”が用いられることからの類推ではないかと考えている。実例を挙げる。 1) 我……散步;还像巴黎人似的有一条狼狗伴随,十分诗意。(孟伟哉:酋长笔记) 2) 在谷地光秃秃的雪坡上,静静安葬着老猎人,还安葬着一条名叫贝蒂的猎狗;也有人说 它是一只狼。(王凤麟:野狗出没的山谷) “连衣裙”は語構成上は“裙子”である。しかし意味的には“衣服”か“裙子”か判断に迷う ところがあり,ネイティヴチェックでも“衣服”の量詞“件”と“裙子”の量詞“条”が共に成 立する。小学館『中日辞典』は“连衣裙”の量詞に“条、件”と併記しており,北京の商店の値 札では“条”が用いられている。下例3)は“连衣裙”を“裙子”と認めながら量詞に“件”を用 いた面白い例である。 3) 一次,我出差给她买回一件连衣裙,她挺高兴,去参加舞会时,女同事们也夸裙子漂 亮、合身。(叶大春:三瘾录) 量詞によるカテゴリー化と百科事典的分類とは別物であり,前者が固有文化の個別言語におけ る端的な反映であることは夙に指摘のあるところだが,“狗”が“狼”と袂を分かち“裙子”に 伍するのはなんとも愉快,そしてやはり不思議である。「量詞は,典型的なタイプから周辺的な タイプのもの,あるいは本来的なタイプからメタフォリカル(隠喩的)なタイプのものまで,と もかくなんらかの特性をめぐって「同類」と見立てられる事物を括りあげる作用を果たします」 (木村英樹著『中国語はじめの一歩』,ちくま新書,pp.117-118)という観点に立ち,“狗”が “裙子”と同じく“条”で括られる動機を探ってみたい。 2 体形,狗肉,尻尾 管見に入る範囲で言えば,“狗”を“裙子”と同類に括るのは“细长,长条”という形状的特 性である。たとえば中国で出された工具書の類はしばしば量詞“条”を簡単に“用于长条的东 西”と説明した上で,“条”が適用される事例として“衣服”や“狗”(時には“牛”まで)を 挙げる。“衣服”はとりあえず置くとして,“狗”はそのどこを捉えて“细长,长条”と言うの だろう。確かに“狗”の体形は他の動物に比べ,特にその走る姿などは“细长,长条”であると 言えるが,体形からと言うなら“条”で括られてよい動物は他にも多いし,何よりも問題なのは, 中国語においては四本足の動物の量詞が体形に基づいて決まるのではないということである。 H19.07.18OUFS
SUGIMURA“一匹马”“一头牛”“一口猪”“一只猫”……どれ一つとして体形に基づくものはない。これ は“蛇”や“鱼”などが体全体の形状から“条”で括られるのとは大いに趣を異にする。とすれ ば“狗”に限ってそうだというのは説得力に欠けることになる。では,体形でなければ“狗”の どこが“细长,长条”なのかというと,二説ある。 阿辻哲次著『漢字の字源』(講談社現代新書,pp.84-85)に以下のような一節がある。 「 羊 頭 狗 肉 」 の 「 狗 」 は 犬 の こ と で あ る 。 今 の 中 国 語 で は イ ヌ を 「 狗 」 と い い , 「犬」という字はほとんど使われないが,古代ではこの二字に意味のちがいがあって, 「犬」は成犬を,「狗」は硬い毛が生える前の子犬を指していた。そして後者はしば しば食用とされたのである。[…]犬が食用とされたことは,現代の中国語にも反映 されている。 中国語の物を数える表現では,数詞と名詞の間に「量詞」をはさまなければならな い。量詞とはちょうど日本語で「一冊の本」「一枚の紙」という時の「冊」「枚」に あたる単語であるが,中国語の量詞は日本語のそれよりもはるかに複雑で,数えられ る名詞の形状や特性などによって使い分けられるのが普通である。[…] さて犬であるが,犬を数える時には「条」という量詞が使われ,「一匹のイヌ」なら 「一条狗」という。「条」という量詞は犬の他に道路(一条路)や人間の生命(一条 命)を数える時にも使われ,そこから帰納すれば,それは「ある程度の長さをもつ細 長い物」を数える時に使われる量詞と考えられる(人間の命は時間軸の上に展開する 直線状のものと認識される)。そしてその量詞が犬に使われるのは,もともと犬が肉 屋の店頭にダランとぶら下げられていた姿に由来するとされるのである。(下線杉 村) 「由来するとされる」と言っておられるので,阿辻氏ご自身の説ではないようだ。仄聞すると ころでは,このように教えている中国人教師もいると聞くから,案外多くの人がこのように考え ているのかも知れない。この説の立証は歴史的·方言的調査にゆだねるしかないが,とりあえず 筆者の知る範囲で言えば,『紅楼夢』と『水滸伝』に“一条狗”は見られない。歩いている “狗”も屠殺された“狗”もどちらも“一只狗”である。 4) 凤姐……由不得回头一看,只见黑油油一个东西在后面伸着鼻子闻他呢,那两只眼睛恰 似灯光一般。凤姐吓的魂不附体,不觉失声的咳了一声。却是一只大狗。(红楼梦) 5) 离那酒店走不得四五里路,旁边土墙里走出一只黄狗,看着武松叫。(水浒传) 6) 智深猛闻得一阵肉香,走出空地上看时,只见墙边沙锅里煮着一只狗在那里。(水浒传) 例6)は皮を剥がれて(?)鍋の中にある“狗”であるが,なお“一只狗”であることに注意さ れたい。『児女英雄伝』になると“狗”に“条”を配した例が見られる。 7) 当院里两条大狗,因抢着一个血淋淋的东西,在那里打架。(儿女英雄传) 『八百詞』は“狗”の量詞を“条,只”とする。これは“条”が“只”よりも使用頻度が高い という意味であろう。ちなみに“狼”に対しては“只,条,个”となっている。実例を調査する と確かに『八百詞』の記述の通りで,“狗”には“条”,“狼”には“只”が基本である。しか しどうもそれだけで話は終わらない。多くのネイティヴが“一_毛茸茸的小狗”の下線部にふさ わしい量詞は“只”であると答え,“一条狗”は「大きい」イヌのイメージを喚起すると言うの
である。邵敬敏は“描绘色彩”を帯びた表現では“一只狗”よりも“一条狗”のほうが選ばれる 傾向にあると言っている(〈量词的语义分析及其与名词的双项选择〉,『中国语文』1993 年第 3 期)。そこで飼犬を「何という奴だ」と叱りつけるようなとき,即ち描写と無関係なときには “你这条狗!”よりも“你这只狗!”が,そして“你这只狗!”よりも“你这个狗!”が更にふ さわしいことになる。ここでもし旧白話の“一条大汉/长汉”を想起すれば穿ちすぎになるであ ろうか。 8) 知州道:“他是金刚般一条大汉,你敢近他不得!”(水浒传) 9) 酒家道:“你这条长汉,倘或醉倒了时,怎扶的你住?”(水浒传) “一条”とくればすぐさま“一条好汉”が思い浮かぶが,水滸伝などで実際に多いのは“一条 大汉”という表現である。さらに“一条好汉”自体,本来,長大な肉体(の持ち主)を形容して 使われる表現である。そのため下例のような「ひととなり」を述べた環境に“条”は出ない。 10) 史进道:“我是个清白好汉,如何肯把父母遗体来点污了。你劝我落草,再也休题。” (水浒传) 11) 原来宋江是个好汉,只爱学使枪棒,于女色上不十分要紧。(水浒传) 児女英雄伝では“条”が性別を超え「身体」の量詞として使われている1。 12) 一个人既作了个女孩子,这条身子比精金美玉还尊贵,……(儿女英雄传) 現代作品になると“我们的司令员是一条硬汉。他从不掉眼泪,也从不叹气……”(周立波:湘 江一夜)のように,ひととなりに“条”を配した用例が見られるが,本来の用法からはすでに大 きく逸脱している。参考までに水运宪著『祸起萧墙』という中編小説に見られた全用例を挙げて おく。例 16)は体格と関係のない用法となっている。 13) 三张双人沙发上整整齐齐地坐着六条大汉。 14) ……,老傅这条从不害病的壮汉,一倒床就是几天几夜没醒过来。 15) 这条五大三粗的汉子,竟象小孩似地央求起老乡长来,…… 16) 几十年了,这条铁铮铮的汉子,心端性直,绝无邪佞。 この“条”と“大汉”に関る問題は最後の章でもう一度取り上げることとし,その前に“一条 狗”の二つ目の説明を紹介する。 木村英樹氏は認知言語学的視点から「換喩」という概念を用いて“一条狗”を説明する。 哺乳類でも“条”で数えられるものがあります。“一条牛”(1頭のウシ)や“一条 狗”(1匹のイヌ)の例がそうです。しかし,ウシやイヌが細長くてしなやか,とい う説明はどうにも説得力に欠けます。この場合はむしろ,尻尾を数えていると考える 方が妥当でしょう。その証拠に〈細長くてしなやか〉な尻尾をもたないブタやパンダ には“条”は用いられません。日本語でも,ウシを「1頭」,ハトを「1羽」という ように,身体の一部分を数えて全体の数にあてるという,一種のメトニミー(換喩) に類する表現法があることを考えれば,尻尾に目をつけて“一条牛”と数える方法が 1 現代作品に用いられた例を挙げておく。 春柳嫂子虽然已经二十老几,眼角也刻上了细密的鱼尾纹,但是那一张桃花脸,却仍然十分 艳丽而不褪色;一条身子,没有生过儿、育过女,又一年到头在河上打桨摇橹,行船撒网, 吸收着阳光。(刘绍棠:渔火)
あっても不思議ではありません。(上掲書,p.116-117) この説明を支持する現象として“一条驴”がある。ロバはウマ科の家畜であるが,尻尾は牛の それに似ているのである。ここでもし“老虎”“狐狸”“老鼠”なども立派な尻尾をもっている が量詞は“条”ではない(“只”である),特に“狐狸”は“狐狸尾巴”(悪事の証拠)という 慣用表現が示すように,隠そうとしても隠しきれないほど大きな尻尾をもっているがなぜ……と いう反論があれば,“条”の事例は“条”の内部で,“只”の事例は“只”の内部で,それぞれ に解決が図れればそれでよく,「いかなる特定の事例においても,どのような意味拡張が可能で あり,どの意味拡張が不可能であるかを予測することができるといったような,意味拡張に関す る範疇規則の定式化を試みることは認知言語学の精神に反している」と答えることができる(J. R. Taylor著『認知言語学のための 14 章』,紀伊國屋書店,1996,p.153)。量詞“条”にとって, 哺乳類が細長くてしなやかな尻尾をもつことは必要条件に過ぎず,十分条件ではないのである。 尻尾説を繰り返せば,“牛/狗”と“蛇/鱼/绳子/裙子……”は同じく“条”のグループに 属する。しかし両者は“条”から放射線状に等距離に位置しているのではない。“蛇/鱼/绳子 /裙子……”は自らの形状特性にもとづき直接“条”に連なるものであるが,“牛/狗”は自ら の部分である“尾巴”の形状特性を介して量詞“条”と関係を結んでいる。この間の事情を木村 氏は「個々の項目が何がしかのイメージや特性を介して連鎖的に類縁性を結んでいて,その結果, 全体としてなんとなく1つのカテゴリーが形成されているといった感じ」と表現する(p.143)。 以上“一条狗”の由来をまず体形に求め,次に屠殺されて吊るされた形状に求め,最後に尾の 形状に求めてきたが,体形に求めるのは陸上哺乳動物に対する量詞選択の一般的傾向に抵触し, 屠殺され吊るされた形状に求めるのは現時点では民間語源説の域を出ない。尻尾説は有力である。 しかし“一条牛/狗”を「ウシ1頭」「ハト1羽」に擬すのであれば,先ずは“一尾牛/狗”で なければならないが,これは過去にも現在にも存在しない。更に,もし“一条牛/狗”成立の動 機づけとして木村説を採れば,この“条”はおそらく部分の量詞が全体の量詞となった唯一の事 例となるだろう。ちなみに“鱼”には“一条鱼”という直喩的量詞も,“一尾鱼”という換喩的 量詞もともに成立しており,“牛”には換喩的量詞“一头牛”が成立する。よって尻尾説も問題 なしとは言えないのである。 3 “一条大汉”と“浪里白条” ここで一旦迂回し,『水滸伝』の“一条大汉”と“浪里白条”を視野に入れることで“一条 狗”の四番目の解釈を試みてみたい。“一条大汉”についてはすでに“条”が長大な肉体に対し て使われることを紹介したが,“浪里白条”は梁山泊の英雄張順のあだ名である。 17) 张横听了说道:“好教哥哥得知,小弟一母所生的亲弟兄两个,长的便是小弟;我有个 兄弟,却又了得:浑身雪练也似一身白肉,○得四五十里水面,水底下伏得七日七 夜,水里行一似一根白条,更兼一身好武艺,因此人起他一个名,唤做浪里白条张 顺。……”(水浒传) この“浪里白条”というあだ名の意味はよく分かっていないらしい。高島俊男氏の『水滸伝の 世界』(大修館書店,1987,p.341-343)に以下のようなコメントが見られる。 「浪裏」は波のなか,水中,ということで問題ない。むずかしいのは「白跳」である。
張順のアダ名が最も古くあらわれるのは『大宋宣和遺事』だが,その一本では「百 跳」,別の一本では「白條」になっている。ふつうの解釈は,「白條」が正しく, 「條」は正確には「鰷」で,わが国のハエにあたる細長い淡水魚,つまり「水中の白 いハエ」というアダ名だというものである。そうかもしれないが,そうでないかもし れない。あといくつか考えられるところをあげておこう。宋元のころ,喬相撲という 見せ物があった。異常に背の高い男,もしくは何尺もの高い足駄をはいた男が組打ち をして客を笑わせる芸であったようだ。これをやる芸人でシコ名を「一條黒」とか 「白條兒」とかいうのがいたことが『西湖老人繁勝録』に見えている。「黒い大男」 「白い大男」の意である。大男のことを「一條の大漢」というのは水滸伝にもしょっ ちゅう出てくるところである。だから「浪裏白條」は「水中の白い大男」という意味 かもしれない。張順は全身雪のように白くて身のたけ六尺五六寸の大男であったこと は水滸伝にも描写がある。しかし『宣和遺事』の一本では「百跳」になっているし, 「宋江三十六賛」や水滸伝の諸刊本では「白跳」になっている。「三十六賛」は「雪 浪は山の如く,汝能く白跳す」と「白跳」を動詞としている。『帝京景物略』や『金 瓶梅詞話』に「跳百索」という語が見えるが,これは縄飛びのことである。「白跳」 「百跳」は同じことと考えてよいから「三十六賛」は「荒波のなかで縄飛びをするよ うに身軽に行動する」という意味にちがいない。とすれば「浪裏白跳」は「水中の縄 飛び」の意とも考えられる。 “白鰷”なのか“白条”なのか“白跳”なのか,『水滸伝』の考証家ではない筆者にとって三 者のうちどれが本来であるのかは実はどうでも良く,それぞれが“自圆其说”できるかどうかだ けが関心の対象である。本稿では“白条”で“自圆其说”を試み,“浪里白条”と“一条大汉” “赤条条”“白条猪/鸡”,そしてできれば“一条牛/驴/狗”までをも一本の糸で連ねてみた い。 “白鰷”の難点は“白鰷”とする版本がないことに加え, ①“水里行一似一根白条”の“根”という量詞である。『水滸伝』で量詞“根”が生物に 対して使われた例はない。 ②竜虎犬猿から蛇蠍鼠蚤まで,まがまがしいあだ名が居並ぶ中で「ハエ」は優しすぎる。 ③“浪里白条”を同じ構成法からなる他のあだ名“云里金刚”“旱地忽律”“鼓上蚤” “白日鼠”と対照すれば,“白跳”が動詞ではなく名詞であり,且つ“浪里”と“白条”が意表 を衝く組合せである可能性が高い。“旱地忽律”が“水洼忽律”,“白日鼠”が“夜里鼠”では 「馬から落馬」と同じで,「水中のハエ」も同日の談となる。 “白跳”の難点は, ①「跳百索」から「白跳」への派生過程が不明である。 ②「波間の縄飛び」は表現としては面白いが,“白跳”を動詞とすることは他のあだ名と 釣り合わない。 ③“浑身雪练也似一身白肉”という特徴があだ名に反映されないのは文脈上採用しづらい。 “白条”は最も無理が少ない。“白条”からしなやかに伸びきった白く強靱な肢体(1.9m を 超える)をイメージして欲しい。長身の“白大汉”を“白条”と形容することに文法的な無理は
ない。“白条”という語構成は現代語の“长条”“高条”“细条”に平行しており,文法上“白 条”は下例 18)の“白亮亮的一条”に類する表現が圧縮されたものであると考えてよい。 18) 再睁开眼,屋里还亮着灯,她看见二爷又像前两夜那样脱光了衣裳,赤条条站在她面 前,白亮亮的一条。(尤凤伟:石门夜话) 表現的にも「波間に潜った白い大男」というのは“旱地忽律”(陸地に上がったワニ)を逆手 に取り,“云里金刚”に平行する素直な命名であると言える。 『水滸伝』の量詞“条”の適用範囲は広く,形状的特性に由来する量詞として“棒/枪/禅 杖”など「棒」に対して使える。通常,棒は皮を剥がれてつるつるの態である。服を脱いで素っ 裸の様を“赤条条”と形容するのは例18)にすでに見えているが,同じ様を“赤条精光”とも言 う。 19) 洗澡时,不防水略热了些,烫了脚……他赤条精光,赶着秋菱踢打了两下。(红楼梦) 屠殺され毛や羽を抜かれて,胴体だけになった“猪/鸡”は“白条猪/鸡”と言う。“条”は すっぽんぽんで棒状のイメージを喚起する。とすると,“一条大汉”“浪里白条”“赤条条” “白条猪/鸡”は「すっぽんぽん(で棒状)」のイメージで結べそうだ。では“一条狗/牛/ 多”はどうだろう。「すっぽんぽん(で棒状)」の形象を喚起する特性をもつだろうか。 牛とロバはいずれも視覚的に目だつ毛をもたない。馬のふさふさとした鬣や尾のような装飾も もたない。人で言えばまさにすっぽんぽんの態と言える。僧侶に対する代表的な罵語は“秃驴” であるが,単に蔑みの意を伝えるだけであれば“秃狗/秃猪”でも不都合はない。なぜ“秃驴” なのか。ロバには馬の仲間でありながら馬にある前髪がない。尾も牛に似て先端に一撮みの毛を 残すだけである。つまり僧と“驴”は“秃”という特徴を共有する。これが“秃”が“驴”を, あるいは“驴”が“秃”を求めた理由であるとは言えないだろうか。 犬については分からない。牛やロバと同じイメージ(“秃”)を喚起する特性が犬にあって “条”が選ばれたのかも知れないし,やはり体形や尾に由来するのかも知れない。既述のとおり “狗”は二つの量詞をもつ。量詞を計数的と描写的に二分すれば,“狗”にとって“只”は計数 に偏し,“条”は描写に偏した量詞であると言える。“牛/驴”にとっては“头”と“条”が対 応する。描写的ということになれば,“条”自体が複数の形状的特性を有する以上,“一条牛/ 驴”と“一条狗”が異なる動機づけをもっていても不思議ではない。 (すぎむら・ひろふみ 大阪外国語大学)