― 196 ― 印度學佛敎學硏究第六十六巻第一号 平成二十九年十二月
﹁真仏土文類﹂
﹃涅槃経﹄第十二引文について
西
村
一
樹
一
はじめに
本 論 で は、 親 鸞 ︵一 一 七 三 ︱ 一 二 六 三︶ 述 の﹃顕 浄 土 真 実 教 行 証 文 類﹄ ﹁真 仏 土 文 類﹂ に 引 用 さ れ た﹃大 般 涅 槃 経﹄ ︵以 下、 ﹃涅 槃 経﹄ ︶ の 引 用 意 図 を 考 察 す る。 特 に、 十 三 あ る 引 文 のうち第十二﹁葉品﹂引文 ︵二・一六八 頁 1 ︶ の意を窺う。二
親鸞の解釈
こ の 第 十 二 引 文 に つ い て、 義 山 ︵一 八 二 四 ︱ 一 九 一 〇︶ は ﹃教 行 信 証 摘 解﹄ ︵真 叢 九・ 六 〇 頁︶ に 従 来 説 を 批 判 的 に 総 括 し ている。これによると、従来は随他意説を権仮方便に位置づ けて自力聖道門に配当し、随自意説を真実の法門として他力 浄 土 門 に 当 て、 随 自 他 意 説 を 聖 浄 二 門 を 混 説 す る と 見 て い た。これは﹃摩訶止観﹄等に説かれる天台教義に準じた解釈 で、随他意、随自他意、随自意を順次、仏の所見に導き入れ る た め の 階 梯 と 見 る 考 え 方 で あ る ︵大 正 四 六・ 二 三 頁 下 以 降 参 照︶ 。 そ の た め 随 自 他 意 説 に つ い て も、 た と え ば 僧 叡 ︵一 七 六 二 ︱ 一 八 二 六︶ は 真 言 や﹃観 経﹄ の 説 相 を 当 て て い る ︵真宗全二八・二九六頁︶ 。これに対し、義山は、 ・ ﹁十 住 菩 少 分 見﹂ や﹁悉 有 仏 性 不 能 得 見﹂ は 事 実 を 述 べ ているのであって権仮方便を説くものではない。 ・ 随 自 他 意 説 の 所 説 を 聖 浄 二 門 に 配 す る と 意 味 が 通 じ な い。 後にそれについて何らかの釈明があるべきである。 との二点から批判を加えている。こうして義山は、随他意説 を十地菩の所見に随って説く説、随自意説を仏自らの所見 に随って説く説、随自他意説を仏と仏弟子との両方の所見に 随って説く説、とする。そして、これら三説は説相が異なる とはいえ﹁仏性は唯仏知見にして因人可見の法に非ざること を顕す﹂という点では一法である。つまり、一法の三側面と し て 三 説 が あ る と す る。 本 説 は 是 山 恵 覚 の﹃本 典 研 鑽 集 記﹄ ︵下・ 二 二 六 頁︶ や 宇 野 順 治 の﹃大 般 涅 槃 経 要 文 講 述﹄ ︵一 三 二 頁︶ 等 に も 依 用 さ れ、 現 在 の 一 般 的 な 説 と い え る。 本 説 の 特― 197 ― ― 197 ― ﹁真仏土文類﹂ ﹃涅槃経﹄第十二引文について︵西 村︶ 徴は、天台の用語例に基づいて三説の所説を解釈する先行研 究に対し、三説の所説を重視して権実に配当することを批判 している点にある。本引文が三説の用語を挙げる文のみなら ず、その所説までも引用している点に鑑みればこの指摘には 賛同できる。しかし、この説を受けて親鸞の訓読および結釈 によってその所説を検討するならば、引文の三説は随他意を 中心に見るべきである。以下、 その理由を二点挙げる。 ① 引用助詞の位置 親 鸞 は、 ﹁何 を も っ て の 故 に 少 見 と 名 づ く る や、 と﹂ と 訓 読 し、 引 用 の 格 助 詞﹁と﹂ を 付 加 し て い る。 こ の 格 助 詞 に よって﹁何以故名少見﹂の発問主体を葉菩とし、一連の 文を釈尊の説法、葉菩の問い、釈尊の答えに配当する意 図があったことがわかる。次に述べるように、親鸞はこの釈 尊の答えに随自他意説まで含めて見ており、本引文全体を随 他意説﹁十住菩少見仏性﹂とその言葉の意義とに二分する 意図を持った訓であると考えられる。 ② 結釈の表現 ﹁真 仏 土 文 類﹂ の 結 釈 ︵二・ 一 七 九 頁︶ に は 随 他 意 説 の﹁十 住 菩 少 見 仏 性﹂ を 根 拠 に、 ﹁所 覆 煩 悩 故﹂ と 随 自 他 意 説 の 語が用いられている。よって親鸞は﹁少見仏性﹂の内容、つ まり葉菩の問いに対する答えとして随自他意説までも含 めて見ていることがわかる。また、能見を﹁惑染衆生﹂とし ており、親鸞は﹁少見仏性﹂の能見を惑染の衆生まで含めた 一切の因人とし、その此土見性がかなわないと見ている。し か し、 そ れ で も な お 仏 が 自 ら の 所 見 を﹁一 切 衆 生 悉 有 仏 性﹂ と説くということは、此土見性のほかに成仏道があるという こ と で も あ っ た。 そ れ 故 に、 ﹁少 見 仏 性﹂ を 根 拠 に﹁故 知 到 安 楽 仏 国、 即 必 顕 仏 性。 由 本 願 力 向 故。 ﹂ と 述 べ た と 考 え られる。この本願力向の成仏道に対すれば、此土の見性が か な わ な い の は 自 力 に 由 る が 故 と い う こ と に な る。 従 っ て、 親鸞は﹁十住菩少見仏性﹂という語を、自力聖道によって は不能見性、つまり自力無功であることを意味し、それとは 異なる体系をもった仏道、他力浄土門への帰入を勧める言葉 と見ていたと考えられる。
三
親鸞の解釈の理由
次に、親鸞が右のような解釈をし得た理由を文の上から窺 う。そこで注目したいのが、 ﹃涅槃経﹄の現流本では﹁了了﹂ となっている箇所が本引文では﹁声聞﹂となっている点であ る ︵大 正 一 二・ 五 七 三 頁 下 ま た は 八 二 〇 頁 下︶ 。 星 野 元 豊 は﹃講 解 教行信証﹄に﹁声聞﹂のまま解釈し、声聞であっても自ら仏 性を持つと知り、菩提を得るけれども、一切衆生が自らは仏 性 を 持 つ と 知 る ︵見 る︶ こ と が で き る わ け で は な い、 つ ま り 造 悪 の 衆 生 に は で き な い、 と の 意 で 読 ん で い る ︵﹃講 解 教 行 信― 198 ― ﹁真仏土文類﹂ ﹃涅槃経﹄第十二引文について︵西 村︶ ― 198 ― 証 証 の 巻・ 真 仏 土 の 巻﹄ 一 四 九 二 頁︶ 。 し か し、 こ の よ う に 読 むと ﹁この故に﹂ の意味が通じない。 この十住菩の所見について次の第十三引文には 諸 仏 世 尊 ハ 眼 ニ 見 二仏 性 一 ヲ、 如 下 シ於 二 テ掌 中 一観 中 ズ ル ガ 阿 摩 勒 菓 上 ヲ。 十 住 ノ 菩 、 聞 二見 ス レ ド モ 仏 性 一 ヲ、 故 不 二了 了 一 ナ ラ 。 十 住 ノ 菩 、 唯 能 ク 自 知 三定 テ 得 二 コ ト ヲ 阿 耨 多 羅 三 藐 三 菩 提 一 ヲ 而 不 レ 能 レ ハ 知 三 コ ト 一 切 衆 生 ハ 悉 ク 有 二 ト仏性 一。︵二・一六九頁︶ と 言 わ れ て い る。 こ の﹁故 不 了 了﹂ が 聞 見 の 意 だ と す れ ば、 ﹁不能知一切衆生悉有仏性﹂とは、 ﹁一切衆生悉有仏性﹂との 仏 説 に 対 す る 不 信 に ほ か な ら ず、 ﹁聞 見 す れ ど も﹂ と の 語 と 矛 盾 す る。 よ っ て、 ﹁故 不 了 了﹂ と は 眼 見 の 不 了 を 顕 す。 つ まりこの文は、諸仏世尊の眼見了了に対して十住菩が眼見 不 了 で あ る こ と を 示 す。 そ の 十 住 菩 の 眼 見 不 了 と は、 ﹁唯 能 自 知 定 得 阿 耨 多 羅 三 藐 三 菩 提 而 不 能 知 一 切 衆 生 悉 有 仏 性﹂ ということである。 こ の 第 十 三 引 文 に よ っ て 第 十 二 引 文 の 意 を 補 完 す れ ば、 ﹁首 楞 厳 等 の 三 昧、 一 切 の 法 門 を 得 た 十 住 の 菩 す ら 少 見 仏 性、眼見不了である。ゆえに、声聞がみずから仏性を有する ことを知って心向大し、阿耨菩提を得るはずであるとして も、仏性を了了に眼見することはできない、つまり仏果を証 し得ない﹂と解釈できる。従って、ここでは当得菩提としな がら不了眼見としており、当得菩提でありながら現実には仏 果を証しえないということになる。 また、この首楞厳三昧について﹃涅槃経﹄には一切衆生は 首楞厳三昧を有し、修行してこの三昧を得るならば阿耨菩提 を 成 ず る と さ れ る ︵大 正 一 二・ 五 二 四 頁 下 ま た は 七 六 九 頁 中︶ 。 し かし、第十二引文では十住の菩が首楞厳三昧を得たとして も了了に仏性を見ることはできないと述べている。両説矛盾 す る よ う に 見 え る が、 親 鸞 が 引 用 し た 文 意 を 採 用 す る な ら ば、十住の菩は修行して首楞厳三昧を得ても了了に見性す ることは不可能である。従って、それは心向大した声聞で あ っ た と し て も 同 様 で あ り、 ﹁了 了﹂ が﹁声 聞﹂ で あ っ た と し て も 大 意 は 変 わ ら な い。 し か し、 ﹁声 聞﹂ と あ る こ と に よ っ て、 本 文 は 十 住 菩 の み の 所 見 を 明 か し た 文 で は な く、 少なくとも心向大した声聞にまで言及した文となる。ここ か ら さ ら に﹁惑 染 衆 生﹂ ま で も 読 み 込 ん だ の が 結 釈 で あ ろ う。
四
親鸞の解釈の意義
この ﹁十住菩少見仏性﹂ の語は ﹃究竟一乗宝性論﹄ ︵以下、 ﹃宝 性 論﹄ ︶ で は 仏 性 が 説 か れ た 意 義 を 明 か す 起 点 と な っ て い る。そこでは十住菩すら少分見であるにも関わらず、なぜ 愚痴顛倒の凡夫人のために仏性を説くのかを問い、五種の過― 199 ― ― 199 ― ﹁真仏土文類﹂ ﹃涅槃経﹄第十二引文について︵西 村︶ 失を遠離せしめ、五種の功徳を得させるためであると答えて い る ︵ 大 正 三 一 ・ 八 四 〇 頁 中 ︶ 。 こ の 答 え と 同 じ 内 容 が ﹃ 仏 性 論 ﹄ 冒 頭 ︵大 正 三 一・ 七 八 七 頁 上︶ に も 云 わ れ て い る。 親 鸞 が 影 響 を 受 け た と い わ れ る 源 信 ︵九 四 二 ︱ 一 〇 一 七︶ の﹃一 乗 要 決﹄ は 右 の 二 論 を 一 乗 真 実 義 を 主 張 す る 根拠 と し て 多 く依 用 す る 。 なかでも源信は﹃仏性論﹄の﹁二空所現真如。由此空故、応 得 菩 提 心 及 加 行 等 乃 至 道 後 発 心。 ﹂ ︵大 正 三 一・ 七 九 四 頁 上︶ と いう語を重視しているが、この﹁二空所現真如﹂とは﹃仏性 論﹄が右五過のうち第三過を論ずるなかで立てる仏性の定義 で あ る ︵大 正 三 一・ 七 八 七 頁 中︶ 。 よ っ て、 ﹃宝 性 論﹄ の﹁十 住 菩 少 見 仏 性﹂ の 解 釈 は 当 時 の 一 乗 家 の 立 論 基 盤 の 一 つ で あ っ た と 考 え ら れ る。 こ れ に 対 し て 親 鸞 は、 ﹃涅 槃 経﹄ の 文 言を用い、この語を一切の因人に自力無功を示し、他力浄土 門への帰入を勧める語とする別解釈を提示したものと推測さ れる。