新潮現代文学
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新 潮 社 版
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武 大 399 393 386 377砂の上の植物群
砂の上の値物群 港の傍に、水に沿って細長い形に拡がっている公園があ る。その公園の鉄製ペンチに腰をおろして、海を眺めてい る男があった。ペンチの横の地面に、矩形のトランクが置 いてある。藍色に塗られてあるが金属製で、いかにも堅固 に み え る 。 夕暮すとし前の時刻で、太陽は光を弱め、光は白く澱ん で い た 。 か ら だ その男は、一日の仕事に疲労した躯を、ベンチの上に載 せている。電車に乗り、歩き、あるいはパスに乗り、その 日一日よく動いた。靴の具合が懇くなり、足が痛い。最後 に訪れた屈がこの公園の近くで、その屈で用事を済ませる と、男は公園にやってきた。男は、化粧品のセールスを仕 事にしている。 彼の前にある海は、拡げた両手で抱え取れるくらいの大 ふ と 弓 きさである。右手には、埠頭が大きく水に喰い込んで、海 ︿ g の拡がりを劃っている。埠頭の上には、四階建の倉庫があ った。彼のトランクのような固い短形の建物である。白い さ び し ゅ H ろ コンクリートの側面には、鋳朱色に塗られた沢山の鉄の扉 が、一定の間隔を置いて並んでいる。 左手には、長い筏橋がみえる。横腹をみせた貨物船が、 二本の指でつまみ取れるほど小さく限に入ってくる。貨物 て H は ︿ 色 や 船は幾隻も並んで碇泊しているので、・日い需の中に重なり 合った帆柱やクレーンが、工場地常の煙突のようにみえる。 眼の前の海を、右から左までゆっくり眺め渡した彼は、a
-や 視線を中央に戻一した。そこには小さな貨物船が紡ってあり、 正常な船の上側を匙ですくい取ったような形をしていた。 そのすぐ傍に、さらに二まわりほど小さい貨物船があって、 それは後肢をもぎ取られて地面に腹這っているバッタに似 た形をしている。 彼は、その二隻の船を、暫くのあいだ眺めていた。 ﹁いま何かを思い出しかかっている﹂ それが何か、という答えをすでに彼は意識の底で知って り ん か ︿ か す いた。しかし二隻の船の輪廓が眼の中で霞んでゆき、その 替りに心に浮かび上ってきたものがしだいに輪廓を整えてゆくのを、彼は待った。 気持に余裕のあるととを味わいながら、ゆっくりと待っ た 。 彼の心に浮かび上ってきたのは、 で あ る 。 三年前、その着想に行き当ったときには、彼は繰返し思 傘 い浮かべ、熱心にそれを撫でまわした。それまで読んだ沢 山の推理小説には、彼の着想と同じものは見当らなかった。 書けるものなら、書いてみたい、と彼はおもった。定時 制高校の教師をある理由でやめて、化粧品のセールスをは じめた頃だった。 その物語の主人公は、死病に握った男と、傍を離れずに 看病する若い妻である。その男はやがて死んでしまい、物 語の中からその肉体は消え去るが、依然として主人公であ ゃ るととを罷めない。 次のような具合に、男は物語の中にとどまる。 その若い妻の貞節については、疑う余地がなかった。し かし、彼女の一つ一つの動作の継ぎ目や隙聞から、生温か い性惑が分泌物のように参み出ている。彼女自身そのとと 一つの推理小説の着想 ょうがん に気付かないにしても、やがては熔岩のような暗い輝きを もった一つ一つの細胞の集積が、彼女を突き動かすときが ひ ん し 来る。ーーその日の ζ とが、瀕死の床にいる男の服の底に、 鮮明に浮かび上ってくる。 彼の死後、彼女が別の男と一緒になるととを裏切りとは いえない。しかし、青白く脆そうでいて容易に噛み痕の残 らない彼女の皮膚ゃ、細く引締った足首を見ていると、そ れは生命力の乏しくなった彼の躯に大きな負担となり、痛 みさえ感じた。 し っ と 近い将来、彼女を独占する筈の男に、彼は烈しい嫉妬を ぞ号お 覚えた。それはやがて、憎悪に変り、名前も顔も精神内容 ふ︿ L ゅ う も何一っとして分らぬ未知の男にたいする復讐を、ひそか に心に誓った。 彼が死骸になり、脆い灰白色の置円になって素焼の壷に 入れられ、土中に埋められる。壷は湿気を吸い込み、変色 し、表面が苔のようなもので覆われるとろ、彼の復讐が完 成する。復讐の内容といえば、彼女を独占している男を殺 す と と だ 。 その方法は
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彼女を兇器にする以外にない。彼女の無意識な一つの動 作が、相手の男の生命を奪う。 一定の条件が与えられたときに、反射的に一定の動作を 6砂の上のlIIi'物群 示す彼女の肉体の動きが、男にとって致命的なものとなる。 その動作を彼女の奥深くに染み込ませるために、瀕死の彼 は、繰返し一定の条件をつくり、彼女の躯をそれに反応さ せ た 。 彼女が他日兇器に変化するための準備を終えて、彼は死 ぬ。序章は終り、そ ζ から物語は本格的な段階に入るわけ ド 花 。 しかし、そ ζ で物語は中絶し、その先に彼は考えを進め ることができなかった。 条件反射のその動作を、具体的にどういうものにしたら 適当なのか。その推理小説にとって肝心なトリックの内容 も、彼は思い付く乙とができ・ない。小説の中の妻に、その 夫が教え込む筈の動作を、彼は思い付くことができ-なかっ た 。 金 m 8 ら 彼は諦めた。しかし、捨て去った筈のその着想が、不意 よみがえ に彼の頭に建ってくる。その度 K 、彼は熱心にその序章の 部分を心の中で繰返す。物語が行詰るところまで丹念に辿 ってゆく。すでに分りきった道筋なのだが、倦きずに繰返 す 。 度重なると、彼は頭の中に浮かび上りかかったものを追 い払おうと試みるようになった。しかし、一日一彼の心の隅 に、死病の男とその貞淑な妻の影が射すと、知らず識らず のうちに物語の行諮りまで、-なぞってしまう。そのくせ、 行詰りの先には、少しも考えを向ける気持にならなくなっ た。﹁その序章の部分に、自分にとって何かの意味が隠さ れているに違いない﹂ ある日、その ζ とに彼は思い当った。 そのことに思い当るまでには時聞がかかったが、気付い て考えてみれば、隠された意味はすぐに分った。 それは、死んだ父親と彼との関係である。 その人物は、十九歳で彼の父親となり、三十四歳で死ん だ 。 しかし、死んだ後も、その人物は彼の人生の中で主人公 の役を演じることをやめ・なかった。すでに肉体は消滅して たちふさ いるその人物が、しばしば彼の人生に立塞がり、彼に命令 を下し、行先を定めたり限定したりした。 死後、十年絞っても、十五年経っても事情は変らなかっ た。彼が定時制高校の教師をやめ、化粧品のセールスマン になったのは、父親の死後十八年のことだが、その二つの 事柄にも彼は自分を操る亡父の幻の手を感じた。 その場合、死んだ父親自体が兇器となって、彼に襲いか
かつてきた。推理小説の着想の底に、彼と亡父との関係が わ だ か ま 幡っているととは、否定できない。 隠された意味が分って以来、彼はその推理小説の序章が 浮かび上ってくると、不快なそして不安な心持に捉えられ ひ ん ぱ ん た。彼が避ければ避けるほど、それは頻繁に彼を独占し、 執勧に纏わり付いた。
四
ある日、執勘に彼を訪れてくるものと、突然、縁が切れた。 それから一年ほど経った現在、海に向かって坐っている 彼の頭に浮かび上ってくるまで、それは影を潜めていたの で あ る 。 夕焼がはじまって、海がその色を映した。港の傍の公園 で、ベンチに坐ったまま、久しぶりに浮かび上ってきた推 理小説の序章を余裕のある気持でなぞってから、彼はその 日のととを思い出した。 そのBIll。
早朝、不意に井村誠一から電話がかかってきた。学生時 代の友人だが、長い間逢っていなかった。 = ぐ れ ﹁ 木 暮 が 死 ん だ よ ﹂ 井村の声が生真面目な調子でひびいた。木暮とも長い間 逢ってい-なかったので、判断に迷った。 ﹁ 病 気 か ﹂ ﹁事故だ、山で遭難した﹂ 木暮の頑丈な体格を、彼は思い出した。学生時代、木暮 は山岳部に入っていた。当時、しばしば井村と一緒に木暮 の家に遊びに行った。井村も彼もスポーツには縁がなかっ たが、木暮と交遊があったのはその陽気で人づきあいの良 い性質のためもあった。だが、それだけではない。 受話器のなかでは、井村の声がつづいていた。 ヲ や ﹁今夜が通夜だ。木暮の家で会おう﹂ その井村の芦は、通夜に行くのを当然と・おもっている口 調だった。それは、そうだ。行かずに済ますととはできな い。学生時代にしばしば木暮の家を訪れたのは、木暮に会 うととよりも、むしろその美しい妹の姿を見るのが愉しみ s a T L や だったとしても。木暮の妹恭子は、木暮と違って華著な掘 っきで、性質も内気でむしろ陰気だった。木暮の家では、 恭子は茶や菓子を運んでくるだけで活溌に会話を交わした ことも-なかったが、時折そのまま椅子に坐って控え目な笑 顔を示している ζ とがあった。そういうとき、椅子に坐っ たまま首をまわして、井村が熱心に飾り一戸棚を見詰めてい たことがある。彼が井村の視線を辿ると、飾り一戸棚のガラ スが鏡の役目をして、恭子の横顔が映し出されていた。そ 8砂の上の植物群 の井村の思い詰めた表情に、彼はたじろいだ記憶がある。 卒業してからは、木暮と疎遠になった。やがて、恭子が うわさ 結婚したという噂を飽いたが、いずれにせよ通夜で恭子の 姿を見ることができるわけだ、と彼はおもった。 その日の夜、木暮の家の玄関に立って、彼は呼鈴に指を 当てた。十五年前と同じように、一瞬ためらった後、指の 腹で強くボタンを押した。十五年前には、その瞬間にかな の う り か す らず恭子の姿が脳裡を掠めて過ぎたものだ。 家の中には沢山の客がいた。見覚えのある顔も幾っかあ しゆこう ったが、恭子の姿は見当らない。見知らぬ女が、酒肴の世 話をして立働いているのが目立った。木暮の細君だろう、 と彼は・おもった。異常なまでに肥った女で、膨れ上ったと いうのがふさわしい躯に似合わず、身軽に動きまわってい た。それが陽気にさえみえるので、一層自に付いた。 彼が部屋の入口に立ったままでいると、その女が近付い て き た 。 ﹁ 伊 木 さ ん L 彼の名を呼んだ女の眼に、悲しみの包があった。 ﹁ 突 然 の こ と で ﹂ 鄭重に頭を下げたが、その女が彼の名を知っている ζ と け 伊 ん を怪請におもう表情になった。 ﹁わたし、恭子ですわ﹂ ﹁ 恭 子 さ ん ・ ・ ﹂ あ っ け 一瞬呆気に取られて、彼は眼の前の女を眺めた。記憶に ある恭子の二倍の容積はあったし、陰気な臨調は少しも無く な っ て い た 。 ﹁わたし肥ったでしょう﹂ 恭子は、乙だわらぬ調子で言った。 ﹁ずいぶん前に、結婚-なさったという噂は聞いていました が ﹂ ﹁それが、主人は亡くなりましたの。一昨年ですわ。そし たら、急に肥り出してしまって・ E E -。それにしても、ほん とにお久しぶりね、十五年ぶりくらいかしら。伊木さんも、 そろそろ中年紳士のお仲間入りね﹂ 彼はおもわず掌を腹に当てがった。洋服地の下の腹は、 いくぶん盛り上りかかっているようにおもえた。 ﹁ゃあ、伊木。ずいぶん久しぶりだな﹂ 聞き覚えのある井村の声が耳もとでした。首をまわすと、 限の前に井村の顔があった。眼鼻や口にはさして変化はな いが、頭髪が薄くなり、三十七年間空気にさらされてきた 顔の皮膚はしぶとく厚くなっていて、まぎれもない中年男 の 顔 で あ っ た 。 ﹁井村か。きみ、こちらは恭子さんだよ﹂ ﹁知ってるとも。ぼくはもう大分前に来たんだ。恭子さん
も、すっかり豊満になった﹂ 井村は生真面目な口調で、言葉をつづけた。 ﹁恭子さんが結婚したときには、ぼくはずいぶんとがっか りしたものですよ。ご主人はレスラーみたいに大きな人だ ったそうですね﹂ か ん し ゃ ︿ ﹁まさかそれほどでもありませんけど、滴積もちで横暴で . . ・ ﹂ ﹁亡くなられたのは残念でしたね。でも、それで安心して 肥り出したのでしょうね﹂ a T
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井村の口調には、郷織する調子は無かったが、やはり中 年男のしぶときが感じられた。 そのとき、にわかに伊木一郎は躯に異変を覚えた。立暗 みに似た気分だが、ふしぎに病的な感じではない。 彼は部屋の隅の椅子に腰をおろした。異変はつ e ついてお か す り、躯の奥底で微かな海鳴りに似た音がひびき、それがし だいに大きくなり、広い幅をもった濃密な気体が轟々と音 を発して彼の躯の中を縦に通り過ぎた。膨らみ切ったたく さんの細胞が、一斉に弾け散ったような音がそれに伴った。 気が付くと、彼は脚を長々と前に投げ出し、精子からず り落ちそうな姿勢で、両手を腹の上に載せていた。無精た らしい恰好にみえた。二つの掌の下に、いくぶん突き出し てきた腹部を感じたとき、中年期に這入った自分を彼は抵 抗なく受入れた。 数十秒前の短い時間の異変は、無数の細胞の一つ一つの 内部の環境が一斉に変化を起したためかもしれない、と彼 は ・ お も っ た 。 次の瞬間、彼の眼に浮かんだのは、父親の晩年の姿であ る。三十四歳で急死した父親は、青年の姿をしていた。髪 の毛は、黒くふさふさとしていた。 その父親の姿は、ひどく若々しく見え、彼は自分が父親 よりも三年間余計に生きてきたことに気付いた。父親の死 んだ年齢と同じになった年には、彼は多くの感慨をもった が、父親が自分より年下の青年として強く意識に昇ったの は、そのときが最初であった。 ﹁若いもんが、いろいろとやっていたわけだな﹂ と、彼は目蓋に浮かんでいる父親の像に向かって、背伸 びしていない余裕のある心持で、呼びかけた。 彼は突然新しい環境に投げ入れられ、新しい出発をした と号ふん 気持になっていた。昂奮し、昂揚した気分でいたため、花 田光太郎の誘いをこだわらずに受けたのだ。 彼の坐っている椅子の前に、花田が立って、声をかけて き た 。 め H ふ︿ ﹁一緒に帰らないか。木暮の冥福を祈って、飲み直そうで は な い か ﹂ 10砂の上の植物群 花田の背後に、見覚えのある顔が三つ並んでいた。皆、 同級生だった男たちの顔だ。その・なかに、井村の顔も混っ ていた。花田光太郎は、高価そうな和服を着て、規爽とし ていた。花田はいわゆる流行作家になっていた。 伊木一郎はうなずいて、椅子から立上った。恭子に別れ を告げて、木暮の家を出た。 人通りの少-ない道に立って、花田たちはタクシーを拾お うとしていた。少し離れたところに立っていた伊木に、井 たんそ︿ 村が歎息するように話しかけた。 ﹁おどろいたねえ、女というものはいつどう変るか分らな いもんだなあ﹂ ﹁それにしても、恭子さんの場合は、特別だ-な﹂ コ亭主が死んで、とたんにむくむく肥り出したわけだねえ。 まるで家の中いっぱいに・なるくらい膨れ上ったんだが、と すると、亭主にさんざん抑え付けられていたんだなあ﹂ ﹁やはり、気になるか﹂ ﹁やっぱりね。ぼくは恭子さんに惚れていたんだ﹂ ﹁しかしね、いくら抑え付けられたといっても、死んだと たんに肥り出すようでは、大した力関係じゃないね。一亭主 とのつながりは、むしろ薄かったとおもうな﹂ ﹁ そ う ・ お も う か し 伊木一郎は、確信をもって答えた。 ﹁ そ う お も う ね ﹂ 五 その日を境に、彼は推理小説の序章から解放され、同時 に死んだ父親からも解放されたつもりでいた。 したがって、公園のベンチに坐っている彼を、一年ぶり にその馴染深い断片が訪れてきたときにも、彼は余裕のあ る心持で迎えることができたわけだ。 余裕をもって迎えたばかりでなく、物語の行詰るその先 を、彼は積械的に考えようと試みた。その時機がきたのだ、 と彼はおもった。夫が妻の肉体の司なかに疹み渡らせるため の条件反射の動作。その夫の死後、長い時間を隔てて、別 の男にたいする兇器として作用する筈の動作。・:・それは、 日常的な夫婦生活の中に求めたらよいだろう。とくに、そ の深夜の生活の中
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-。 考えをめぐらせ、それがしばしば行詰り、同じ場所をど うどうめぐりしているうち、気が付くと彼は別の考えの中 にいた。そのとりとめのない空想の中では、すでにその推 理小説は完成していた。それは大き・な成果を挙げ、彼は流 行作家になっており、華やか友生活が彼のまわりに拡がっ て い た 。彼は繁華街の高級クラブにおり、女たちに取固まれてい る。彼が、大してうまくもない冗談を口にしても、それは e ょ う せ い ぴ た い 矯声と煽態とで迎えられた。 彼の傍の席に、四人の男たちが坐っている。彼が案内し てきた、というよりむしろ引率してきた男たちで、場馴れ か が 念 しない恰好で精子に浅く腰かけ背を腸めてグラスの酒を嘗 め て い る 。 その男たちは皆、音の友人である。彼はとまかく気を使 に ぎ っていた。女たちを男たちの聞に坐らせ、座を賑やかにし ようと試みた。しかし、男たちは沈黙がちで、手持無沙汰 になった女たちはいつの間にか姿を消してしまった。 う つ む やがて、男たちは一かたまりになり、術き加減に額をつ き合せて、ひそひそ話をしはじめた。その一団と彼の席と の間に大きな隙聞ができ、男たちの前に一つずつ置かれて いる酒のグラスが、お抱え運転手に振舞ったコップ酒のよ うにみえてきた。 川 い ら だ 彼は苛立ち、自分を苛立たせている男たちに腹を立て、 半ば捨鉢な気持になって、和服の懐ろから小切手帳を取出 すと、テーブルの上に置いた。 た ﹁マダム、だいぶ勘定が溜まっていたね。払っておとう﹂ 小切手に、その男たちの一ヵ月分の給料よりもはるかに 多い数字を書き込む・ . . 華やかな空想は、進むにつれてしだいに穆陶しいものに 変ってゆき、その部分まで来ると、不意に人物の位置が替 つ ふ 花 。 彼のいたソファに花田光太郎が坐っており、一かたまり になった男たちの聞に彼は自分の姿を見出したのだ。一年 前、木暮の家を出てタクシーに乗込んだ花田光太郎は、繁 華街の高級クラブに、伊木と井村と二人の友人を案内した の だ っ た ; : : 。 ベンチから立上ると、彼は海に向かって歩き出した。海 ほ そ ' K 沿って鋪装された散歩道ができている。その道をゆっく りと横断すると、防波墜に行き当った。 の ぞ 立止って、水を覗き込む。 夕焼はその色を濃くして、水の面も赤かった。港の中の 海なので、波は静かだったが、それでも防波壁の下の水は 也 轟 置 ︿ a ' U ん か い 小さく波立っていた。藻や木屑や塵芥が黒ずんで打寄せら れ、たぷたぶと揺れていた。 水面から眼を離し、彼は海に背を向けて元の場所に戻っ てきた。ペンチに落ち込むように坐った。華やかな想念に 引込まれていただけに、反動が大きかった。セールスの仕 事の屈辱的な場面が、つぎつぎと頭の中を掠めて過ぎた。 夕焼は、さらに、その色を濃くしてゆき、その色は躯の 輪廓まで押し寄せてきて、彼は赤く濡れた心持になった。 12
色が深まる一瞬一瞬に、彼の耳は空気中に放電してゆく低 い捻り声に似た音響を聞き、空と彼の躯を包む空気の全部 が捻りを発した。そして、全身の細胞がその音響に共鳴を 起し、ベンチの上の彼の躯はこまかく揺れ動いた。 わ 憤怒に似た感情が、彼の底から湧き上ってきたが、それ はすぐに大気に蒸発し去って、あとには短の中に異変の予 惑が残った。全身の細胞が一斉に暴動を起す直前のような 予惑に捉えられた。 彼はおもわず立上った。躯の中の異変が、彼を突き動か す方向についての予感は全く現われてこない。二、三度、 地面を靴の底で踏み付けてみた。 そのとき、吹き消されたように、夕焼が終った。赤い色 は一瞬の聞に消え去り、鼠色の空間が残った。それと同時 に、彼の艇の中の予感も消滅した。夜の匂いが、公園の土 の上から立昇ってきた。 ム ノ 、 砂の上のwi物群 海に背を向けて、彼は地面から堅い短形のトランクを持 上げようとした。 眼の前に、塔が立っていた。塔の胴の中を、黄色く灯を ともした昇降機が、上下しているのが見えた。最近建てら れた観光塔なのである。 ﹁そういえば、噂は聞いていた。しかし、見るのは初めて だ ﹂ 高い塔である。遠望できる高さなのだが・::。青山↓いトラ ンクを提げ、一屑に力を纏めて二、三歩先の地面に眼を据え て歩いてゆく自分の姿勢を、彼は思い浮かべた。いつも顔 を術けて、空の方へはめったに限を上げたことがなかった の だ 。 公園の出口に向かい、彼はトランクを提げて歩き出した。 やはり、同じ姿勢になった。その姿勢に抵抗を感じ、無理 に仰向けた顔の前に、塔があった。 塔に昇ろう、と彼はおもった。 料金を払い、塔の内部に這入った。二台の昇降機が絶え 間なく上下している。ゆっくりした速度で昇ってゆく昇降 機のなかで、客は彼一人だった。制服を着たエレベータ ー・ガ│ルが、観光ガイドの口調で、観光塔の説明をはじ めた。客が一人だけの昇降機の内部を、彼はあらためて見 まわした。その職業的な口調は滑稽でもあったが、それ以 上に空々しく、腹立たしくさえあった。 れリ凶 VA , e拘 M b A T ヲ 流暢に言葉の出てくる唇を、彼は見詰めた。ひらひら 動きつづける薄い唇には、輪廓を大きくはみ出して口紅が 塗つであった。
濃い口紅の唇を、無駄なものを眺める気持で、しばらく 彼は見詰めていた。そのくせ、その口紅の銘柄に考えが向 む な き、そういう自分を虚しく腹立たしく感じたとき、昇降機 は頂上の展望台に着いた。 塔を昇っているあいだに、あたりは夜になっていた。ガ ラス張りの円型展望台の四辺には、夜景が拡がっている。 港は暗く、桟橋と貨物船の燈火が、黒と灰色の底で光って いた。反対側の市街地には、燈火の黄色い点が敷き詰めら れ て い る 。 展望台は閑散としていて、全部の観覧客が昇降機に吸い 込まれ、彼一人が残される時間もあった。彼は環の形に・な っている展望台をゆっくりと回って、暗い海を眺め光の海 を眺め、先刻躯の中で膨れ上りかかり不意に消え去ったも のについて考えていた。しかし、手がかりは無かった。 二人連れの若い男女が、昇ってきた。 ﹁まあ素敵。ロマンチックだわ﹂ 女が歓声をあげ、その声が彼の耳になまなましい肉感を もって這入りこんできた。幾つも並んでいる望遠鏡の一つ に、女はすぐ取付いて、覗き込んだ。 ﹁あたしたちの住んでいるところ、見えるかしら﹂ ﹁さあ、どうだろう﹂ ﹁あら、ネオンの文字がはっきり読めるわ﹂ ﹁うちの傍に、ほら、化粧品の大きなネオンがあったろう。 それを探してみるといい﹂ ﹁ そ う ね 、 あ れ は : ・ ・ : ﹂ と、女は化粧品の名前を口に出した。それは、彼の藍色 のトランクの中に収めてある化粧品の名前と同じものだ。 その男女は、新婚と、おもえた。たわいのない会話が、い そいそと続けられてゆく。望遠鏡に片目を押し当てている ので、絶え間なく動いている女の唇だけが、目立っていた。 その唇にも、血にまみれたように口紅が塗られてあった。 たくま 女というものの抵抗できぬ逗しさを示しているようにもみ え、見知らぬ動物の発情した性器のようにもみえた。 またしても、彼ははげしい徒労を覚えた。一日中、神経 と靴の底を擦り減らして化粧品を売り込みに歩く乙とで、 か ぜ 彼は・たしかに自分自身の生活費を稼ぎ出している。しかし そのこと以外には、その仕事は何の意味も無いように・おも え た 。 ベンチを探したが、展望台にはベンチが無かった。にわ かに躯が重たくなり、コンクリート床の固さが、足裏にゆ っくり伝わってきた。その場に、坐りたくなったとき、ま たしても彼は躯の中に突き上げてくるものを覚えた。憤怒 に似た感情だが、はっきり正体を捉えることができない。 塔を降りよう、と彼は・おもった。エレベーターの前に立 1-1
って、待った。背後では、若い男女の声が、絶え間なくつ づいていた。はやく塔を降りてしまおう、とおもった。自 分自身が危険な物体に変化してゆく心持もあった。 エレベーターは苛立たしくゆっくりした速度で昇ってき た。限の前で扉が開くと、少女が一人だけ出てきた。紺色 のセーラー服に似た洋服を着て、女子高校生の年頃である。 白粉気のない薄桃色の顔はうぷ毛で覆われているようにみ えた。しかし、その唇は口紅で真赤に塗られてあった。
七
砂の上の縞物群 ﹁余計なととだと思うわ﹂ 口紅で真赤になった少女の唇が、伊木一郎の限の前で動 いて、その言葉が出てきた。彼は無意識のうちに、その少 女に言葉を投げ付けていたととを知った。 -お そ ら く 、 鈴 め る 口 調 で 、 ﹁高校生まで、口紅を塗るととはないだろう﹂ とでも言ったのだろう。 H ぷ か 少女の眼に、反援ばかりではなく、請しげな色も混って いたと ζ ろを見れば、あるいは悲鳴に似た調子も混ってい たのかもしれない。 塔の外に拡がっている夜景に眼を向けて、彼はしばらく さ え ぎ 沈黙していた。昇降機の出入口に遮られて姿は見えないが、 円型展望台の向う側から、若い男女の声が相変らず聞えて きていた。彼と少女との聞の気配には、まったく気付いて いない。その声は、華やいだ調子でつづいていた。 彼に冷静さが戻ってきた。冷静さを取戻せた ζ とに、彼 は驚いていた。当然、彼は川村朝子の濃く塗られた唇を、 娘の前の少女の唇から連想していた。川村朝子とは、彼が 定時制高校の教師を辞める原因になった少女である。ある いは、川村朝子を思い出したためにかえって冷静さを取戻 せたのかもしれなかった。 ﹁余計なのは、君のその口紅だよ﹂ ﹁ な ぜ ﹂ ﹁そんなに塗りたくった口を見て、感心する男は、誰もい やしないからね﹂ 昇降機の扉の開閉する音が聞え、若い男女の声が消えた 瞬間に、少女が言った。 ﹁誰もいなくなったわ。乙の時刻には、との塔にはほとん ど人はい・ないのよ。居るのはおじさんだけだわ﹂ ﹁ い け な か っ た か ﹂ ﹁居ない筈の人がいて、文句を言うのだから、余計なとと な の よ ﹂ 時折、少女はこの塔に昇りに来る。塔の下の薄暗がりで、スカートのポケットから出した口紅で思い切り濃く唇を塗 り、昇降機に乗る。閑散とした展望台で、ガラスに額を押 し付けるようにして、夜の街の表面で埋めきまたたいてい る燈火を、長い時間眺めている。ガラス板が額に冷たく、 唇の上で燃えている赤い口紅を意識しながら、眺めつづけ ス % それは、少女自身のために付けた口紅なのだ、という意 味のととを、少女は言った。 ﹁思い切り、毒々しく塗るの﹂ と言ぃ、余計なことを言った、という表情が覗いて消え た 。 ﹁毒々しい、というととは分っているのか。とすると、な にか理由があるんだね﹂ ﹁ 理 由 -な ん か 、 何 も あ り は し な い わ ﹂ いそいで、遮るように、少女は答えた。 ﹁ た だ 伺 と な く 、 か 。 乙 女 の 感 傷 : : : ﹂ ﹁ そ ん な ん じ ゃ な い わ ﹂ ﹁もっと性的なにおいがするな。未知念る性への恐れとあ ζ が れ か ﹂ ﹁ 違 う わ 、 ボ
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イフレンドぐらい、いっぱい持ってる。も っと別のちゃんとした理由があるんだわ﹂ ﹁やっぱり理由があるんじゃないか。どういうことだ﹂ ﹁誰にも、教えたくないの﹂ 少女と会話しながら、彼は四年間という歳月について考 むか えていた。四年前、川村朝子と対い合っているときには、 必 ぴ 怯えに似た感情が動いた。現在のような調子では、会話は 進まなかった。それは彼が川村朝子に特殊な感情を持って いたせいもあろう。しかし、そればかりではない。四年間 の月日の聞に一つの境目があって、その境目を越したせい でもある。躯の・中に以前とはあきらかに異なった細胞が諮 っているととを、伊木一郎は、改めて確認した。 161
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ととで、作者が顔を出して口をきくのは、得策ではない かもしれない。しかし、私が書きつづけて行こうとしてい る小説の構成を、そのととが破るとは・おもわない。 必 ぞ ろ クレ!の作品に、大小不揃いで色とりどりの四角形でで き上っている水彩画がある。その色彩は、原色でもないし、 6 ぇ eH ろ 暗穆な色でもない。赤青黄の中間色、萌黄色、薄むらさき 色などの四角で、半透明のあたたかい色である。 それぞれの四角形は、大小の差はあるが整然と並んでい る。互いに押し合ったり、場所を取り合ったり、隣接の四 角に攻め込もうと隙を窺ってはいない。そして、自分の領砂の上の植物群 分である四角形から、白く半透明の細い糸を下へ下へと伸 ばしている。四角形の底面に、その糸は沢山の白滝こんに ゃくのようにぶら下り、伸びてゆく。砂地の植物の根が、 石英の微細な粒のあいだを、際問を這いながら白く細く伸 びてゆくようでもある。 色彩は、やや濁った暖かい色だが、絵全体は透明で、稀 は ︿ た た ず 薄になってゆく空気の中に作んでいる印象がある。 クレーの絵は、画家の絵というよりも詩人の描いた絵で ある。一つ一つのタプローに、それぞれ題名が付いていて、 その題名に葬れかかっている部分もあり、その点画家とし ては邪道であると言えるかもしれない。しかし、私はその 絵も好きだし、絵と切り離して題名の文字の配列だけを眺 めているととも好きである。 帆走する都会。 庭の門 ι 灰色の男と海岸。 水中の庭園。 まだその場所に居る黒。 題名だけで、イメ
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ツを掻き立ててくるものがある。あ る日、私は大小不揃いの四角形だけででき上っている絵を 眺めていた。その絵は、私が構想していた作品に似通って いた。ただ、私はその絵の中に、強烈な原色の赤を投げ込 んでみようと企んでいた。その赤を投げ込んだとき、その 絵はどういう混乱を呈するか。いや、その絵ではなく、私 自身の頭の中に詰っている様々なイメージの断片がどうい う混乱を呈するか。あるいは、その赤は直ちに吸収されて しまい、断片はかえって整然とした配列を示すようになる かもしれない。その絵の題名は﹁砂の上の植物群﹂と付け られていた。私は、書とうとしている作品の題名に、その 名を借用する誘惑に抗し難く-なった。九
との章でも、まだ作者は退場し・ないし、依然としてクレ ーにかかずらうことをやめない。長い小説のための原稿用 紙の第一枚目に文字を書きつけようとするとき、私はえん えんと連なる白い紙の前に立って、だ然とする。長いだ然 とした時間のあいだに、霧雨の微細な水の粉が乾いた地面 をようやくに黒い色に変えるに似た変化が、心の中で起る。 濡れた地面がやがて水溜りに近付こうとする、その瞬間か ら積極的な身構えに変る。 ところで白いタプローに、最初の線を描きつけるとき、 画家であり詩人であるクレーはどうするか。 ﹃最初の能動的な活動(線)は、生命のない点を突破する!それから立ちどまっては息を入れる(途中で停止し た線、もしくは、いくつもの停止の関節をもっ線)。今自 分がどんな地点にいるかを知るために振りかえってみる (線の前進に逆らう)。先の可能のいくつもの道を頭脳で考 慮する(複数の線の束)。││クレ
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﹁線について﹂片山 敏 彦 訳 ﹄ それと同じに、私も最初の一、二行を書き記し、ふたた び荘然とした時聞に見舞われる。その後の作業は、何とと の﹁線の旅﹂に似ている ζ とだろう。クレーは、つ 9 つ け て 次のように言っている。 ﹃一つの大きな河が行くてをさえぎる。われらは一つの小 舟を使う(波状形)。高いととろに一つの橋(複数のアl
ゆ 柚 た け チ 形 ) 、 : : : 耕 作 さ れ た 由 聞 を 通 る ( 縞 の あ る 平 商 ) 。 厚 い 森 ざるや p i -、照屋が車に乗って帰宅する(車輪)。彼らといっし ょに車に乗っている一人の子供の渦巻いている髪がなかな ら ぜ ん 巴 ょ う か-おもしろい(螺旋状のうどき)。それから空が曇ってあ たりが暗くなる(広がりの要素)。地平に一つの稲妻:::(
以
下
省
略
)
﹄
私の乙の小説の場合、一章から六章までは﹁広がりの要 ひ ら め 素﹂と呼べる。そして、一つの稲妻が閃く前に、螺旋状の 階段をったわって、私は過去へ下降して行く必要がある。十
18 四年前、死んだ父親の幻の手が、伊木一邸の背をじわじ わ押して、川村朝子の前に押し出した。その幻の手は彼の 背をとんと突き、彼はそのまま川村朝子の胸もとに倒れか かった。それは、次のような具合 K し て 、 起 っ た 。 ある夕方、定時制一高校の英語教師をしていた伊木一郎は、 街で彼を呼ぶ声を聞いた。 ご郎さん。一郎さんじゃないか、十年ぶりかな﹂ 声の主は、彼のすぐ眼の前にいた。顔を突きつけるよう にして、伊木の顔を覗いていた。五十年配の男である。白 い 上 っ 張 り ・ を 着 て 、 サ ン ダ ル を 履 い て い る 。 伊 木 は 一 瞬 一 戸 し わ や っ 惑った。しかし、飯の多い婁れた感じの顔の奥からその男 の背の顔が、すぐに浮かび上ってきた。 ﹁ゃあ、山田さんか。す ζ し 老 け た な ﹂ ﹁ 苦 労 し た か ら ね ﹂ 男の眉のあたりがふっと曇り、彼はポケットを探ると煙 ︿ わ 草を一本つまみ出して座えた。点火したマッチ棒を両手で , 、 e a v s b b L かとって口許へ近寄せるその手がぶるぶる烈しく震えた。 その手に、伊木は視線を当てていた。煙車から煙が立昇 った瞬間、男は、マッチ棒を放り出すように捨てると、岡砂の上の植物群 手をぐっと上衣のポケットに押し込んだ。まるで、震えた 手を慌てて隠したように見えた c そして、煙草を睦えた口 の片隅から、言葉を押し出した。 ﹁悪い酒の呑み過ぎでね、なあに、仕事に差支えはありゃ し な い ﹂ そう言いながら、伊木の無帽の頭をジロジロ眺めていた 男 は 、 ﹁死んだお父さんにそっくりになってきたね。頭の恰好も そっくりだ。そのあたまはムツカシイんだ。お父さんの頭 は、俺しか刈れなかったんだからな。一郎さんの頭は誰が 刈っているんだ﹂ ﹁誰がって、そこらの床屋でやってもらっているよ﹂ ﹁そとらの床屋で刈れるわけがない。ずいぶんミットモナ ク髪が伸びてるじゃないか。俺が刈ってやろう、一緒に来 , ‘ , ﹄ なさい。なあに、すぐ其処だ﹂ 山田理髪師に婁れが見えており、その震える手を見詰め てしまった後なので、伊木は山田の申し出を断われなく・な った。駅とは逆の方向へか・なり長い間歩き、道の両側に商 家が軒を並べていると ζ ろに差しかかった。隣の町まで、 来てしまったのだ。 理髪屈のしるしである赤と青色がねじれた棒がくるくる 廻っている広の前で、山田は立ち止った。 ハ ン サ ム 軒 。 ガ ラ ス ど と、入口の硝子一戸に金文字で書かれてある。山田は振り 向くと、具合悪そうに笑って、 ﹁これは、あまり良い名前じゃないな。乙乙のオヤジが付 けたんだ。だが、ととのオヤツは大したもんだぞ。昔は、 宮様の頭を刈った ζ ともある。それに、俺も間もなく普の ように一軒盾を持つつもりだ﹂ ﹁山田さんが戻ってきていたとは知らなかった。僕もしば らく前から、住んでいるんだ﹂ ﹁十年経って、ようやく戻ってこれた。さあ、はやく后に 入 り -な さ い ﹂ 二人は同じ町に住んでいたが、戦争中空襲で家屋を焼か れた。そして、久しく元の場所へ戻ってとれなかった。 鏡の前の椅子に伊木が坐るや否や、山田は髪の毛に勢い よく櫛を入れはじめた。櫛をもっ山田の手が、先刻のよう 傘ぐ に烈しく震えている。ぶるぶる動いている櫛を撲りつける す ように伊木の髪の毛の中に打込んで、そして統くのである。 信 さ み か み そ 旬 伊木は、不安になった。鉄をもっ男の手、剃万をもっ男 の手のととを今更のように考えた。 や しかし、山田が鉄を宙に構えると、手の震えは全く止ん だ。彼はもう一方の掌をひらひらと伊木の頭のまわりに舞 わ せ な が ら 、
﹁見れば見るほど、一郎さんの頭は b 父さんにそっくりだ ね。乙乙が、とう、ぐっとうしろへ張出して、ととのとこ ろが平たくなって。丁度、飛行船の形だな。こういう形の 頭は、俺でなくては刈れやしない﹂ 冴えた鋲の音がひびきはじめ、その音と一緒に山田の話 しかける声が絶え聞なくつ e つ い た 。 ﹁お父さんが死んで、もう何年になるかな﹂ ﹁十八年くらいになる﹂ ﹁早いものだ-な。三十の半ばで亡くなったんだから、今生 きていてもまだまだという齢だがな。もっとも、お父さん が死んだときには皆とう言ったもんだ。普通の人の八十歳 くらいの分をもうやってしまっているから、若死とは言え な い 、 と ね ﹂ ﹁食べるととと、女の方だけは、人の二倍はやっていたそ う だ が ﹂ ﹁そうそう。亡くなる前の頃は、どういうものか俺ばかり 誘われて、あちらとちらへ引張って行かれたもんだよ。あ の頃のお父さんのととは俺が一番よく知っているな。とに かくハデな生き方をした人だった﹂ ::伊木一郎は時折、いやむしろしばしば、彼の父親を 知っていたという人と出遭った。それらの人々は、それぞ れ彼の父の像を心の中 K 持っていた。父親と面識のないま まに、彼の父の像を作り上げている人も、その中には含ま れ て い た 。 そして、その像の中には、伊木一郎にとって必ず何かの 形で練が隠れていた。その糠は、彼を刺すのである。 おまえの父親は、何をしていたか、という関いにたいし て 、 彼 は い つ も 一 戸 惑 う 。 画 家 。 株 屋 。 香水を作っていたととがあるんだって::・。 蕩 児 。 そしていま、山田理髪師は、﹁ハデ・な生き方をした人﹂ と言った。その言葉には、皮肉な意味は慰されていないよ うだ、と彼は慎重に相手の言葉を噛み分けてゆく。 ﹁あれだけ、つき合いの広かった人が、どういうものかね。 終りの頃には俺としか遊ばなかったからなあ﹂ それは、単純な自慢の口調である。 ﹁ととろで一郎さん、今なにをしているね﹂ ﹁ぼくか、ぼくは夜学の先生だ﹂ ﹁ ふ う ん ﹂ つ ぐ 山田は、不満気にしばらく口を喋んだ。 ﹁一郎さん、いま幾っかね﹂ ﹁ 三 十 三 に な っ た ﹂ 20
砂の上の納物群 ﹁ ひ と り 身 か ね ﹂ ﹁ い や ﹂ ﹁ふうん、子供はあるかね﹂ ﹁男の子が一人。小学二年生だ﹂ ﹁ふうん。お父さんがその年には、一郎さんはもう中学校 に入ってたろう。まあ、ともかく頭の形は、瓜二つだな。 俺がうまく刈ってあげるよ。しかし、考えてみれば早いも んだなあ。俺は一郎さんの頭は、あんたが小学生の時から 刈っているわけだからな。そうだ、あんたの子供も今度連 れてきなさい﹂ 情熱をこめて、山田は伊木一郎の頭を亡父そっくりに刈 り上げた。その結果、その頭は、見劃れぬ、少年染みた形 し ゃ に変ってしまった。それは、父親にとっては酒落れた髪型 ろうば υ であったのだ。理髪屈の鏡に映った頭をみて、伊木は狼狽 か わ と と した。革砥に剃万を叩きつけるようにして研いでいた山田 は、伊木の傍へ戻ってくると、 ﹁これは、まるで瓜二つになってしまった。一郎さん、あ んた、これから夜学を教えに行くのかねえ﹂ たしかに、教師にはその髪の形は不似合である。しかし、 彼が狼狽したのは、そのためばかりではない。 彼の脳裏に、一人の少女が浮かび上っていた。それが教 え子の一人で、川村朝子という名だということに、彼は気 付いている。この理髪屈の椅子に坐り、刈りとった髪の形 を見るまでは、彼にとって川村朝子はちょっと気にかかる 程度の少女に過ぎなかった。いや、その程度だと思い込も うとしていた。その程度でなくては困る、と伊木が自分の 心に言い聞かせていた、と言ってもよい。 脳裏に浮かび上ってきた少女の像を、彼は首を振って追 い払おうとした。がくがくと首を左右に振り動かした。頭 が軽く、頭が寒く、少年染みた髪型になった自分の頭が彼 の阪に鮮明に浮かんできた。追い払おうとした少女の像が、 逆に絡み付いてきた。 鏡の中には、亡父と瓜二っと山田が言った顔が映ってい る。その顔に向かって、伊木一郎は問いかけた。 ﹁死んでから十八年も経つのに、あなたはまだそ乙らをう ろついているのですか﹂ そのとき、鏡の中の顔は、すうっと天に昇って消えた。 率 、 顔を剃るために、山田理髪師が一郎の坐っている椅子をが くりとうしろに倒していた。 十 彼と川村朝子との聞に、このような形で死んだ父親が介 在していた。しかし、その後のととには、その幻の手は働
いていない、と彼は・おもっている。その後、彼は定時制高 校を辞めるととになったのだが、それは噂のためだ。ただ 噂だけのためで、辞職を勧告されたわけではない。探る限、 a g け 答める限、鳴る限、好奇心に光る限、たくさんの眼が彼を 追い詰め、居たたまれなくした。 e 嗣 ' v 臨'轟,金 R , v 酔 彼のしたととといえば、烈しく爵隠しながら、川村朝子 のいる居酒屋に通っただけのととだ。彼女はその家の娘で、 后の仕事を手伝わされるのを嫌って、夜学に通っていると いうことだった。 しかし夜学から帰ると、庖で働かされていた。彼は毎回、 た め ととあたらしく踏らいながら、川村朝子のいる居酒屋に出 か け て い っ た 。 川村朝子のことで、彼の記憶に残っているのは、その真 赤な唇だけである。最初、彼女のいる広に足を踏み入れた とき、彼の予想では、川村朝子は白粉気のない顔でぎごち なく屈の隅に庁んでいる筈だった。しかし、彼女は真赤に 唇を塗り、身軽に屈の中を歩きまわり、物馴れた酒場女の ような口をきいた。濃い化被は、彼女を醜くしてはいなか った。平素よりももっと、可愛らしい愛矯のある顔になっ ていた。ただ、いかにも人工的な趣がつきまとっていた。 そして時折、ひどく成熟した、むしろ四十女といってよい 表情が、その顔に現われる瞬間があるように見えた。その 顔は、手がかりの付かぬものをいきなり眼の前に突き出さ れたように、彼にはおもえた。 真赤に塗られた唇を眺める彼の限には、不可解な色、一 種怯えに似た色があった。そして、その色が消え去らない うちに、噂が立った。 彼は辞職し、以来、川村朝子の庖へ足を向ける ζ と が で あ っ せ ん きない。山田理髪師が、彼に化粧品セールスの仕事を斡旋 した。理髪師や美容院を訪れ歩いて、A-A会社製の化粧 品を売り込む仕事である。 22
十
﹁はやく降りて、君を一人にしてあげなくちゃいけないわ け か ﹂ 塔の上で、伊木一郎は少女の唇に視線を当てて、そう言 っ た 。 ﹁いいのよ、あたしも降りるわ﹂ & い い ろ 並んで昇降機に這入ったとき、彼の提げている藍色のト ランクに、少女は眼を留めた。 ﹁トランクをぶらさげて、乙の塔に昇る人もめずらしいわ ね ﹂ ﹁ : : : : : ・ ﹂砂の上の植物鮮 ﹁ 旅 し て き た の L ﹁ い や ﹂ ﹁ちょっと、持たしてみて﹂ ﹁持ったって、仕方がないよ﹂ 彼はトランクを庇うような素振りになって、少女の手に 渡さなかった。 ﹁ 何 が 入 っ て い る の ﹂ 彼は、エレベーター・ガ
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ルの耳を障った。昇降機を出 て、塔の外の薄暗がりを歩いているとき、少友がふたたび 部 ね た 。 ﹁教えてくれる約束でしょう。何が入っているの﹂ 立止って、彼は答えた。 ﹁ 化 粧 品 だ ﹂ ﹁ 化 粧 品 て : ・ : 、 口 紅 な ん か も ﹂ ﹁口紅も、入っているな﹂ ﹁ほかには、何が入っているの﹂ か ぱ ん ﹁何も入っていない。化粧品のセールスマンの鞄だから ね ﹂ 不意に、少女は甲高い声で笑い出した。陽気な笑い声だ があまりに長く続き、そこにいくぶん異常な気配があった。 ﹁それじゃ、そのトランクの中には、口紅もいっぱい入っ て い る わ け ね ﹂ ﹁そういうことになるね﹂ ﹁へんなおじさんねえ。そのくせ、あたしが口紅をつけて いると、文句を言うんだもの﹂ 少女は一層堕気になり、彼の腕を引張って、 ﹁なんだか愉しくなっちゃったわ。ダンスをしに行きまし ょう、連れて行って﹂ ﹁、ダンスはできない。コーヒーでも飲みに行こう﹂ ﹁ コ ー ヒ ー な ん て 嫌 。 h p 酒を飲みに行きましょうし 彼は黙って、歩き出した。少女は、並んでついてくる。 広い通りに出て、街燈の連なっている道を歩いて行った。 ﹁お酒を飲みましょうよ﹂ 少女がもう一度言ぃ、彼はふたたび立止って、少女の顔 を眺めた。限に濡れた光があり、大人の顔K-なっていた。 ﹁きれいな子なんだな﹂ と彼はおもい、改めて訊ねてみた。 ﹁君、本当に高校生か﹂ ﹁ 高 校 三 年 よ ﹂ ﹁仕万がない、酒を飲みに行こう。その口紅を落したま え ﹂ ﹁お酒を飲みに行くなら、口紅は落さない方がいいわ。そ れから、仕方がないことはないでしょう。男は、いっぱい あたしを追いかけてくるわ。おじさんだって、あたしと一緒に行く乙と嬉しいでしょう﹂ きょうまん その口調には、騎慢なところはなくて、奇妙な素直さが あった。その奇妙さは何か、と考えた彼は、少女の口調に 悲しみに似たひびきを見付けたようにおもった。 がた︿ 少女は、頑-なに口紅を落そうとしない。 スタンド・パーに少女を連れて行って、彼はウイスキー を飲みはじめた。少女はすぐに酔ぃ、椅子に坐ったまま陽 気に笑い、た然とした時聞が挟まり、また陽気に笑うとと を繰返した。彼も酔い、限の前の少女の顔が赤い唇だけに なり、その唇と川村朝子の唇が重なり合い、時折川村朝子 のものと擦り替った。 その唇が、不可解なまま記憶の中に埋もれていたととに、 よ 彼は屈辱に似た気持を喚ひ起された。 ﹁教師をやめてからも、なぜ彼女の屈に行かなかったのだ ろ う ﹂ 限の前に大きく拡がっている赤い唇にたいして、その不 可解さにたいして、兇暴な気持が起り、一瞬、襲いかかる 姿勢になった。
十
誘ったのは、むしろ少女の方である。そして、彼がその 誘いに応じたのは、兇暴な襲いかかる気持の余韻が残って いたためといえる。 しかし、犯している気持は、少しも彼には起らなかった。 旅館の一室で、少女は一瞬の聞に裸体になった。古い制 服を改造したと・おもわれる紺色の外出着を脱ぎ捨てると、 もう少女は居なくなった。剥き出しになったのは、重たく からだ 熟した女の躯だった。 大きく膨らんだ乳房に、濃い口紅がよく似合った。 布団に横たわった彼は、女の躯を引寄せた。顔と顔とが = ぴ 間近に向かい合い、女が笑顔を見せ、それは余裕と煽とを 示しているようにみえた。 彼は一一層強く女の躯を引寄せ、二つの躯はそれぞれ横腹 を下にして触れ合いながら並んだ。顔が密着するほど近付 き、女の顔が鼻ばかり K な っ た 。 ぴりょう その鼻の形 K 、はじめて彼は気付いた。鼻梁の通らぬ、 の ん き まるい、陽気な鼻である。横になった顔の中のその団子鼻 は、わずかに傾いでいる。彼はその鼻をつまみ、正しい位 置に持ち上げてみた。指を離すと、鼻全体がわずかに傾ぐ。 一瞬、女の顔に子供っぽい表情が現われかけたが、それは すぐに消えた。暗い、侮辱を受けたような光が眼巴浮かび、 烈しく躯を押付けてきた。 こ わ ば その誘いに応じようとすると、女の躯はぎごちなく強張 24砂町上の値物群 ︿ぴ り、頚の付根から両肩一帯に堅く力がともった。その部分 を解きほぐすように、彼は軽く指先で叩いたが、それは反 射的な仕業で、すでに彼は体内に衝き上げてくるもののた めに余裕を失っていた。彼の指でなだめるように叩かれた 女が、戸惑った恥じらうような笑いを見せたときにも、そ の笑いの意味を深く考える余裕はなかった。 彼が女の片腕を、頭上に押上げて、露わになった阪商に 唇を押当てようとすると、女は烈しく拒んだ。肩をすぼめ ひ 巴 て、肘を脇腹にめり込ませて拒んだ。彼は、女の大きく膨 れた乳房を眺め、爪を立て、ふたたび片腕を押上げはじめ た 。 いや ﹁ 厭 ﹂ ﹁ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ﹂ ﹁ と わ い ﹂ 船山舶に、彼はその試みを繰返し、ついに女は大きく頭上 に持上げた腕を畳の上に落した。そこに脱ぎ捨ててあった 肌着を五本の指が掴むと、その腕は硬直して動かなくなっ た。躯も、少しも揺がない。女の動作に異常なものを感じ、 彼は軽くその躯を揺すぶって、訊ねた。 ﹁ ど う し た ん だ ﹂ ﹁ ど う し た の か し ら ﹂ 女は困惑した笑いを見せて、言った。 ﹁ い つ も と 違 う わ ﹂ やがて、女の躯から離れて、彼は便所へ行った。部屋に 戻ってきたとき、女は布団の上に坐り、背をかがめていた 0 ・ ﹄ + ' 指先で、しきりに敷布の一部分を擦っている。赤い色が、 染み付いていた。女は指先に唾をつけて、その赤い色の上 を擦っている。その作業に熱中していて、彼が戻ってきた ととに気付いていなかった。 ﹁ ま さ か ﹂ つ ぶ や と、彼は咳き、限を凝らした。 その女の姿態は、女から少女主一戻っていた。と同時に、 なまなましく女を感じさせるものでもあった。隠れずに傍 の に立っているのに、覗き見している気分があった。彼は咽 喉の奥で、無意味な音を立ててみた。 狼狽の気配が、あきらかに動いた。いそいで、少女は赤 い色の上に坐った。
十
四 ﹁君の住まいを聞いておとうか﹂ ﹁ ・ •••••••••• ・ ﹂ ﹁それじゃ、ぼくの住まいを教えておく必要があるかな﹂ ﹁いいのよ、そんなとと﹂紺色の手製の洋服に躯を包み込むと、少女は街の中に姿 を消した。少女を犯したという感覚は、しばらく経ってか ら、ゆっくり彼の中に拡がっていった。彼は繁華街に出て、 喫茶屈の椅子に坐った。時計の針は、まだ午後九時をすこ しまわったところで、街路を往き来する人影が、ガラス窓 越しに動いていた。 彼はその人影を日比ず、彼の眼には黄色い電燈の光に照ら された旅館の部屋の空間が映っていた。その部屋に入るま ル ﹄ では、彼は少女に鼻面を把って引きまわされていた。 しかし、頚の付根から肩にかけての強張った筋肉の拡が り。脇腹に喰い入るようになった肘。敷布に付いた赤い色 は、出血にちがいないが、どういう種類の血だったのか。 ﹁いつもと違うわ﹂という言葉は、自分が少女であるとと を恥じての苦しい蛾だったのだろうか。 いったい、少女である ζ とを恥じるという心の動きが、 あるものだろうか。まだなまなましい記憶の断片と、いく つかの疑問が積み重なってゆくうちに、犯した感覚がしだ いに彼の中に拡がっていった。 つな しかし、それは罪悪感とか責任感には繋がら・なかった。 そして、夕焼の中に坐っていたときのあの状態に、ふたた び置かれているのを彼は知った。 彼は、赤く濡れた心持になった。彼の耳は空気中に放電 してゆく低い捻り声に似た音響を聞き、喫茶庖の椅子の上 で彼の躯はとまかく揺れ動いた。ふたたび、憤怒に似た感 情が、彼の底から湧き上ってきた。 細胞内部の環境が、そこに拡がる風景が、みるみる変化 してゆくのを、彼は痛切に感じ取った。その瞬間、彼の眼 に映ってくる外界の風景にも異変が起りはじめた。 ガラス窓の外を通り過ぎてゆく通行人の中に、時折、動 物の姿が混りはじめたのである。 赤茶けて色槌せたたてがみを、使い古し擦り減った歯ブ あ ご ラシのように短く立てて歩いている動物がいる。顎の下か ら咽喉にかけて余った厚い皮がゆったりと垂れさがり、色 つや 艶のよいその皮が波打つようにだぶついている動物がいる。 血をしたたらせ・ながら、咽喉の奥で声をたてて走り過ぎて ゆく動物がいる o あるいは、桃色に膨れ上った局部をふさ ふさした美しい毛並の間から見え隠れさせて歩いてゆく動 物 も い る 。 彼は立上って、藍色のトランクを持ち上げた。肩一に重み がかかり、その重さが一日の労働の記憶を喚び起した。絶 え聞なく動きまわるのだが、豊かな実りに繋がらないその 動きが、虚しさを誘い出した。なにかが、また躯の中で爆 ぜ た 。 かす そのトランクを投げ出す考えが頭を掠めたが、彼はかえ 26
砂の上の植物群 ってその把手をしっかりと握り締め、いまガラス窓の外を 通り過ぎた動物のあとを追った。 前を行く両脚の聞を見詰め、彼は長く舌を垂らし・ながら、 その動物のあとを追った。藍色のトランクを提げた片方の 肩をいからせて追いつづけた。 不意に、前を行く動物が歩みを止め、振向いた。 ﹁ 何 か 、 ど 用 で す の ﹂ 女の声が聞え、彼の前に人間の女がいた。盛装した人妻 風の女で、答める眼で、彼を見ている。しかし、その恨の 奥にはおそらく彼女自身も気付いていない、相仰があった。 彼は、兇暴な襲いかかる姿勢になった。暗い、港の傍の公 園にいる心持がした。素早く、あたりに眼を配った。 しかし、明るい光が、彼の眼に流れ込んできた。明るく てんぽ 燈火を点した庖鏑が、道の両側に並んでいた。 H ん , e ん わ 辛うじて踏みとどまると、感動部に詫びを言った。 ﹁失礼しました。人違いでした﹂ その地点から彼の家の門口に着くまでの時聞に、彼は冷 静さを取戻す ζ と が で き た 。 ﹁遅かったのね、疲れたでしょう﹂ と、彼の妻が言った。 ﹁仕事が終ってから、久しぶりに井村を訪ねてみた﹂ ﹁井村ですって、井村誠一さんね。木暮さんのお通夜のと き以来でしょう。それで、タど飯は﹂ ﹁うん、井村と一緒に済ませた﹂ と答えてから、まだ晩飯を食べていなかったととに気付 いた。彼はすぐに布団に潜ったが、やがて烈しい空腹を覚 え た 。 十
五
翌朝八時頃、伊木の家の門口で訪れる声がした。男の声 で あ る 。 彼は朝の食事をしていた。丁度、妻が漬物を出しに台所 に行ったと ζ ろだったので、伊木は立上って玄関に出た。 た た き 三和土の上に、若い警官が立っていた。 ﹁ 伊 木 一 郎 さ ん で す ね ﹂ ﹁ そ う で す が ﹂ あいまい 暖昧な表情で、答えた。少女を犯したという感覚が、あ らためて彼の中で拡がった。しかし、あれは法律に触れる 形で、犯したわけではない。合意の上でのことだ。それに、 少女は彼の住所を聞こうとはしなかった。そのあと、彼は 長く舌を垂らして、盛装した人妻風の女を追った。それは 痴漢の姿だったかもしれないが、何どとも起りはしなかっ た 。一瞬の聞に、それだけのことが彼の頭の中を掠めて過ぎ な ぜ た。それでは、何故、警官が玄関の三和土の上に立ってい る の か 。 ﹁どうかしたのですか﹂ 平気を装って、伊木は訊ねたが、怯えと答める調子が僅 か に 混 っ た 。 ﹁井村誠一という男を知っていますね﹂ ﹁井村がどうかしましたか﹂ ﹁本署に留置されています。井村誠一があなたを身柄引受 人に指名したという連絡がきましたので、本署まで行って もらいたいのですし 若い警官は、丁寧にそう言った。 ﹁ 承 知 し ま し た ﹂ 彼はすぐに支度をはじめた。 ﹁井村さん、どうしたのでしょ。あなた、きのうの夜、会 っていたのでしょう﹂ ﹁別れてからあとのことだな。いずれにせよ、大したこと はない。身柄を貰い下げに行けるくらいなのだから﹂ 井村と会っていたという嘘が露見すると困ると・おもって、 警官には詳しく訊かず、急いで出掛ける支度をはじめた。 手早く外出の服装を整え、家を出た。家を離れてから、訊 ねてみたが、若い警官は何も知ら・なかった。 井村誠一は、寝不足の腫れぼったい顔で、椅子に坐って い た 。 ﹁ ど う し た ん だ ﹂ 井村は黙って苦笑してみせた。 ﹁ ど う し た ん で す ﹂ 彼は本署の中年の警官の方を向いて訊ねた。警官はすで や O
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認解の付いた軽い調子で、むしろ榔織するように答えた。 ﹁ 強 姦 未 遂 で す ﹂ 28十
都会の空は、珍しく青かった。空気が冷たかった。路上 で立止った井村は、ハンカチで顔と頚筋をゆっくりと拭う と、生真面目な口調で言った。 ﹁迷惑をかけて済まなかった﹂ ﹁どうしたのか説明してくれ﹂ 井村は腕時計を眺めた。針は九時十分前を指していた。 ﹁どうせ、会社は遅刻だな。朝食を食わす盾を探して、そ こで話すよ。ところで、僕は会社に電話をかけておく。迷 マ l y ヤ ン 惑ついでに、君、僕の家に電話して、一緒に麻雀をして徹 夜になったと言ってくれないか﹂ これで井村も、前の夜、伊木と会っていたことになった。砂の上の植物群 その偶然を、奇妙に感じた。午前九時という時刻に、喫茶 庖が一軒屈を開いていた。終夜営業の后なのか、ストーブ が赤く燃えていた。 ﹁還が悪かった、いや魔がきしたんだ﹂ と、井村はハンカチで額を拭ぃ、 ﹁昨日が、木暮の命目だったのを知っていたかい﹂ ﹁きのう、木暮の通夜の日のととを思い出していたよ。君 の乙とも考えていた。漠然と、一年前とはおもったが、命 日とは知らなかった﹂ ﹁社用で酒を飲んでね、家へ帰る電車の中で、ふと命目だ ったととを思い出したのだ﹂ 強姦未遂、という言葉を、伊木は思い浮かべた。命日を 思い出して、木暮の家へ行く。木暮の妹恭子に会う。恭子 の夫は亡くなっており、恭子は井村が学生の頃あこがれて い た 女 だ : : : 。 しかし、井村の説明は全く違っていた。 電車の中は、そう混雑していたわけではない。井村は窓 際に立っていた。傍に、人妻風の二十七、八歳にみえる女 性が立っていた。彼は木暮の命日を思い出し、つ e ついて木 暮恭子のととを思い出した。青春の日々のととが、鼻の奥 に淡い揮発性の匂いを残して掠め去って行った。 その瞬間から、傍の女の存在が、強く意識されはじめた。 それも、きわめて部分的な存在として、たとえば腕を動か すときの肩のあたりの肉の具合とか、乳房の描く彊線とか、 胴から腰へのにわかに膨れてゆく曲線とか、尻の量感とか ::、そういう離れ離れの部分のなまなましい幻影が、一 つ の 集 積 と ・ な っ て 覆 い か ぶ さ っ て き た 。 いつの間にか、彼は青春の時期の井村誠一になっていた。 肘を曲げて、軽く女の腕に触れてみると、女は躯を避けよ うとしない。さらに深く曲げた肘で、女の績腹を擦り上げ るようにして、乳房を下から持ち上げた。身を堅くした気 配が伝わってきたが、相変らず女は躯を避けようとしない。 割引房の重たさが、ゆっくりと彼の肘に穆み込んできた。次 の瞬間、彼はその肘を離し、踏らうことなく、女の腿に掌 を 押 し 当 て た ・ . . 企 m m d E dゐ 伊木の唖然とした顔をみて、井村は言った。 ﹁大学生の頃、僕はずいぶん痴漢的行為をやったものなん だ。誰にも言わ・なかったけれど。いや、その行為が僕の青 春だったともいえる﹂ ﹁しかし、君は内気だったのにな﹂ ﹁君は痴漢になった乙とはないんだな﹂ と井村が言ぃ、伊木は一瞬時同踏して、答えた。 ﹁無いね。大学生の頃にはそういう経験はまったく無い﹂ ﹁そうだろう。内気だから痴漢になる。気持が内攻して、