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紳悌分離以前に於げる一枇寺本等の史的交渉
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次 回 目 緒 言 第一章神社神慢の慶遜及びその種骨相 第一節神霊郎神僅︵神緯陣式神座の存績による紳腫空位︶ 第 二 節 器 物 紳 憧 一 、 鏡 ニ 、 玉 2 一 、 武 器 四 、 石 五 、 雑 物 A 、偽教の影響なきもの B 、悌教の彰響あるもの 第 一 一 一 節 影 像 料 値 第 一 環 彫 刻 A 、偽教の間接的影響を受︿るもの B 、偽教の直接的影響あるもの 第 二 項 緒 重 第 四 節 紳 漉 締 腫 第二章品開数本隼の園田選及びその種々相 締 品 開 分 離 以 前 に 於 け る 一 位 寺 本 骨 干 の 史 的 交 渉下
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2 日 本 偽 教 挙 協 曾 年 報 ︵ 第 十 一 一 一 年 ︶ 一 一 八 第一節空位本寧︵無色無形の理品開︶ 第 二 節 器 物 本 掌 第 三 節 影 像 本 館 第四節文字標幡本写 第 五 節 偽 名 本 写 第 六 節 経 題 本 寧 第三章神枇紳樺と悌数本寧との史的交渉 特に偽名本隼の影響 以 上
緒
ユ 一 日 高きは神宮より低きは村一位無格枇に至るまで、世格の高下を問はや社殿の大小左濯ばや、いかたる紳祉に於て も 、 必 や や 蕗 同 記 ぜ ら る L 祭神と、それを表現する所の有形的存在即ち一脚障といふものがある。か a A る祭神と神障 とは祭神を離れたる紳障も友く、紳胆闘を離れたる祭神もたいから、雨者は極めて密接たる不離一障の関係裡にあ るととは申すまでもないが、しかし榊開は祭神を表現する物韓そのものであるから、神社の本質を成すものとし て最も傘重ずべきものである。しかるに一方伸教に於て、︷一部祇の如何を聞はや J、寺格の高下を論ぜ守、有しくも 寺院と稽し悌堂と名けらる L ものには、吾等の合掌し供養し躍拝ずる所の本傘といふものがある。本傘とは言は ど信仰の封象売る伸菩薩の精神をそのま L に具現象徴した形韓に名くるから一、悌教の本隼と紳祉の紳轄とは各 k 社寺の主障として、全く性質を同じくし軌を一にするものといはねばたらね。か く し て 神 社 に は 一 紳 開 あ り 、 伸 閣 に は 本 骨 与 が あ っ て 、 共 に 躍 拝 供 養 の 封 品 黙 と し て 存 在 す る も の で あ る が 、 今 、 神社に於ける紳開が、我が園上古に於ける神世の萌芽成立と共に如何たる経路によって護展し来り、いかたる種 類の護生を見たか。そしてまた悌軟に於ける本傘が印度、支那、日本と順次に護展ずる過程に於て、如何なる種 類のものを生み出したか。そして神世に於ける紳悼と、悌教に於ける本傘とが、互に性質を同じうする関係から、 永き歴史の上に、如何たる交渉開係を結んだものであらうか。言はど紳祉費展史に見ゆる紳惜の種 k 相と、悌較 文化史に見ゆる本隼の種 k 相とを相尋ね、進んでとれら紳樫本命相互に於ける交渉関係の史賢を究明し、更に進 んで親掛溝墓人の悌名本等が各宗一般の本隼に影響し、やがて叉た神世の紳轄にまで及ぼした事費を温求し考設し て見たいと思ふ。国より予は一紳砥史については門外漢であって、何等造語もたく、会く盲目のかきのぞきにすぎ 友いが、盲目蛇に長ぢやの品開の如く、僅少友る資料を提げ、敢えて此の一文左草するとと L し 売 。
第一章紳赴仁於りる紳曜の襲運とその種々相
神韓とは緒言にもいへるが如く祭神主武一揖する物鰹そのもの左指していふが、現行法に於ては之を事マ怖とい ふ 。 郎 ち 紳 の 御 影 を 留 め 奉 る 物 柄 で あ る か ら 一 、 と れ を 事 ﹁ 霊 の 御 形 ﹂ と も ︵ ﹃ 大 神 宮 儀 式 解 ﹄ 一 ︶ 或 は 正 障 と も 、 御 形 とも霊臆とも言ってゐる。﹃伊呂波字類抄志﹄に神障とあるから、とれを一脚膿と呼んだととは飴程古い頃からであ ら う と 思 ふ 。 .−− r, 露代を成す物躍については、普通には、鏡、玉、創、神像のやうた祭神の御事蹟に縁故ある器物の場合が最も ヌ サ 多いけれども、品川霊世又は後世創立の紳祉にあっては、幣や紳符等を以て霊代となす場合も砂友くは友い。今、 神偽分離以前に於ける一位寺本曾の史的交渉 一 一 九日 本 偽 致 事 協 曾 年 報 ︵ 第 十 三 年 ︶ 一 二 O 4 神社に於ける霊代即ち紳韓の護達とその種類についてものせんとするに営り、 省護令の第六鵠第三僚の保文である。即ち 只特別ノ必要アル場合一一於テノミ、営該紳吐ノ紳職ハ、官園幣世−一アリテハ内務大臣ノ許可ヲ程、府勝一位以下 ノ紳粧品アリテハ、地方長官ノ許可ヲ得テ之ヲ拝観スルコトヲ得 といふ保文が現存してゐる以上、著明たる紳祉の本殿を押し開いて、紳韓として何物が安置されてゐるかを研究調 査するととが出来友いから、勢ひ園書、記録、報告等の文献によらねば友らぬ。殊に明治大正以後に於ては、神 韓と紳像とを直別し、現に神社の紳瞳として祷杷の封象とたり、衆人に恭敬躍拝されてゐるものは、絶封に紳聖 観されて園賓たどには指定されねが、曾て神社若くは把宇の紳睡であったものが今は唯一個の紳像として存在す る場合は、その作品の優秀たるものを選んで園賓の規定を適用されると聞いてゐる。しかるに現に寺院若くは悌 堂に安置し、躍拝の封象として恭敬合掌されつ L ある悌教本隼に封し園賓規定を適用するのは、いかにも片手落 のやう友感がある。けれどもかうした片手落は却て悌教研究者に便利左輿へるものであるが、紳枇の紳盟副ち紳 粧の本偉といはるべきものは、寺院の秘悌以上に拝見の困難を伴ふから、神社及び杷宇に於ける紳韓の研究は賓 に容易友業では友いのであって、唯その輪廓さへ得れば大韓目的を達したとと L せ ね ば 危 ら ぬ 。 飴談はとにかくとして、今一神祇史を通観して、一脚祉の費還に伴ふ紳轄のいろんた形式︵種 k 相︶を、予輩の管見 左以て大別し分類すれば、凡そ左の四種に該捕し得られると思ふ。 一番に困った問題は大正二年内務 第一節 紳霊郎紳韓︵神簸式静座の存続による神種空位︶ 私共が本嘗に紳︵神社に奉杷され売紳 k ︶を拝むといふととは、眼識の封象としてでたく、ま売耳識の封境とし
てでたくて、全く想念上の所翻として直接に神霊を仰ぐものであるから、それを表現する所の有形的存在︵紳韓︶ があるものとすれば却て第二義的に堕する虞れがある。されば﹃八幡宇佐官御託宣集﹄に﹁神託一去、我韓者有也、 D O D O D O D O D O O O O D O D O D O 空 也 。 以 二 正 道 − 矯 v醐 閥 、 有 者 垂 遮 示 現 令 v奉 v拝 v之廟枇也、昼者本地幽玄不 v奉 v見 v之紳樟也、乃至、叉室者真空冥 D D O O D 0 0 0 0 0 0 0 0 0 位 制 止 霊 紳 、 盛 空 間 韓 之 妙 身 、 皆 是 正 道 也 。 ﹂ と い ひ 、 ﹃ 軍 人 問 答 ﹄ ︵ 古 事 類 苑 神 祇 部 一 、 ニ O 五 了 所 引 ︶ に も ﹁ 木 像 モ 重 像 主県ノ紳璽−一感通スルコトナシ云云﹂といふは全くとの見地に立脚するものといはねばたらぬ。従って想念の封 象としての紳には、官然紳韓即ち偶像を用ゆる世話はいらぬ。との意味に於て我が圏の古へ、萌芽護生期に於け る 紳 祉 に は 概 ね 紳 寵 式 一 神 座 の み を 作 っ て 、 そ の 外 に 別 に 一 神 間 闘 を 遺 る 必 要 は 無 か っ た の で あ る 。 顧 み る に 天 孫 降 臨 の 御 時 、 高 皇 産 量 一 紳 が 詔 し て 、 ﹁ 我 は 郎 ち 天 津 一 紳 寵 ︵ 鶴 一
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叫 ん 約 一 袖 一 主 主 糊 脚 M 吋 明 日 一 一 潟 、 ︶ と 天津磐境︵州首蜘幻猷⋮段措抗日⋮︶とを葦一原の中つ園に樹て、我が子孫のために粛き奉るべし、汝天児屋根命、天太 玉命も亦先天津紳寵を持ちて、葦原の中つ園に於て、我が子孫のために粛き奉れ﹂との給ひ、叉犬、紳武天皇が大 倭園畝傍の檀原宮に於て、即位元年に皇天二組の詔に従ふて紳寵を建て L 榊祇を祭らせ給ひ、ついで崇紳天皇六 年に大倭笠縫邑に磯城紳寵を立てさせ給ふたととは明らかに此の意味を示すのであって、此の時は紳座としての 磐境及び紳寵はあるけれども、別に紳醐植をば作らや、直接に神の御胸にしたしんだのである。而して上古の紳鑑 といへば祭把の絡つ売後概ねとれを撤却する筈であるけれども、時により所によって、そのま L 存槙して現今に 至った場合も注いではない。との一脚祉とそは賓に本臨もなく亦一脚腫もち仏くて全く宰位のま L である。如是にして 神鑑式紳座の存積によって紳韓友き神世は、一一回古川芽護生期の神社を物語るものとして、大に原始的友意味が含 5 まれてゐるやうに思ふ。 紳品開分離以前に於ける枇寺本隼の史的交渉日 本 悌 教 挙 協 合 年 報 ︵ 第 十 三 年 ︶
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6 お ほ み か かの奈良鯨磯城郡三輪町三輪山鎮座の倭大物主櫛珪玉命を杷った官幣大祉大紳紳一世の如きは、太古より本殿の 設けも友く、唯四高坪の紳域神山三輪山が存在するのみであって、その外に紳韓らしさものはも仏い。そとで一方 大紳紳世は三輪山そのものが紳鰻だと言はれてゐるけれども︵﹃町人袋底梯﹄下︶、しかし三輪山が紳械として往時 のま与に残ってゐる事賓から推考すれば、官然とれを神経式紳座の存寵と見ねば友らぬのであって、とれを以て 紳韓と考へるととは出来たいものと思ふ。 埼玉豚児玉郡青柳村大字二ノ宮に鎮座する官幣中世金佳奈紳世︵叉た金鎖紳一位ともかく︶も亦紳域神山そのもの があるのみであって、その他に本殿もたく、従って紳躍もないから、此の紳世も亦大神神社と同例で、一紳範式紳 座の存積と見ねばならぬ。 遠江閣の秋葉一神社は﹁遠江風士記偉﹄によると、その祭神は火迦具土紳であるといふ。往時秋葉山は火迦兵士紳 の鎮座しまします所であるど、民衆によって信ぜられてゐたから、此の山の外に紳腫らしきものは無かったとい ,ふ。
車問島懸の巌島紳世の御山神社は現に御山の頂上にある。垂仁天皇の御代巌島大神が最初此の鹿に降臨し給ふた 奮跡だと惇稽されて紳世とたったといふから、所謂神経式紳座の存授によって、此の神社が創立されたといはね ば た る ま い 。 信濃の諏訪紳世上宮は拝殿のみあって、本殿はたい。或人は設乞怒して諏訪湖水そのものが肺樫であるといふ。 けれどもとれは考へ方によるのであって、同町小杉孝重氏所蔵の古固によると、拝殿の奥に自然の森林左描をて 紳祇の鎮座し給へる特殊の地域を額はしてゐるから、此も亦紳鑑式紳座であると考へるととが出来る。さすれば該紳祉にも紳瞳のないととは明らかである。 京都市上賀茂に鎮座まします官幣大世賀茂別雷神世は毎年五月十五日に祭典左奉行し、所謂葵祭として有名で あるが、その祭日より三日以前、即ち五月十二日夜中に﹁御生神事﹂といふ極めて紳秘的危行事がある。それは営 & あ れ や ま 宮より二町斗り乾の方に営りて、御生所山︵又は紳山とも分土山とも榊韓山ともいふ︶と稽する官官降臨の奮地が ある。その御生所より神霊︵紳瞳にあらや︶をば本殿へ還し奉って、然る後十五日に至って、賑 k しく祭典左ば執 行するのである。灰かに拝承する所によると、紳霊乞本殿へ迎へ奉る渡御の儀については、真夜中に敷人の紳官 によって昼間を園み、その中に無色無形の神霊そのものを奉安して、賀茂祉の本躍に御送り奉るの古式であると いはれてゐる。﹃古今神事類編鮮六﹄に ﹁叉諸世上代ヨリ御正樫無物一世アヮ、神名而己ヲ惇テ而モ紳洞アル事、宗廟ノ末世ヲ始メ多例也﹂ とあるが如く、由来加茂別雷神社には御神霊を粛き祭る所として別に一脚韓を用ゐ守、凡帳のみ打ち置かれもんもの であると灰かに靖聞する。 弐に岡市下鴨に多 k 須玉依日賓命、鴨建角身命を奉記した所の賀茂御租紳吐も亦、賀茂別雷神一世と同じく毎年 五月十五日に祭典を畢行ずるが、此れも亦祭日より三目前、十二日に﹁御蔭祭り﹂といふ紳事がある。郎ち比叡山の 麓、八潮に近い所に賞宮降臨の霊地があって、此れそ﹁御蔭山﹂と呼んでゐる。十二日午前十時より本社より行列 ふ ゆ き し て 、 と の 地 に す L み 、 か く て 午 後 一 時 御 蔭 山 の 御 神 儀 ︵ 神 霊 ︶ を 神 馬 に 俸 げ て 本 祉 に 一 紳 幸 す る の 行 事 で あ る 。 ﹃ 親 長 卿記﹄文明八年の僚によると、﹁紳韓事、多 h A須敵乱入放火之時粉失了、子時世務等不ニ尋出−乃至鴨枇先年回誠之 時、紳瞳紛失之慮、近日出現一
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﹂とあるから、中世時代の御組紳祉には、無論紳憶の存在を肯定せねば友らぬ 7 神係分離以前に於ける一位寺本傘の史的交渉一
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日 本 偽 致 事 協 曾 年 報 ︵ 第 十 三 年 ︶ 一 二 四 8 が、上賀茂別雷神祉に神秘的た﹁御生一紳事﹂があり、下鴨御組一紳世に﹁御蔭まつり﹂があるとすれば、御祖神社も亦 古代に於ては偶像的友紳韓を用ゐるととを要せ示、私共の想念の上に親しく神霊そのものを感躍し瞳拝してゐもん ものであらうと恩ふ。 上来現存紳祉に於ける紳韓たきもの L 内 、 予 の 知 れ る 一 一 一 一 一 に つ き 記 述 し た が 、 と れ は 紳 韓 そ の も の L 分類から いへば或は除外さるべき筈であらうけれども、現に紳祉の社格としてとれを二類十階に分類し、内務所が﹁無格 位﹂を以て一種の吐格として敷へてゐるやうに、今神霊のみを勧請して別に紳韓を置か放い紳祉、即ち紳世創立 の本源的意味を持った神社をば、椴りに紳韓空位と稿して、紳樫の分類中に加へてたい売。 第 二 節 器 物 紳 韓 悌教の渡来以前、所謂古神道時代に於ける神社の紳韓といへば概ね器物であるが、とれに代ふるに人格的な影像 を用ゆるやうにたったのは、恐らく悌敦渡来以後、その影響左受けてからのととであらう。器物の神髄には大略 左の如き種 k 相のあるととがわかる。 一 、 鏡 。 い つ ﹃古事記﹄に神鏡奉粛の勅願をあげて﹁此の鏡は専ら我が御魂として、五口が前を拝くが如、いっき奉れ﹂といへる が如く、八開鏡は天照皇大紳の常に持た吃給ひし鏡怒るを皇孫措置 k 杵律に譲り給ひて、との鏡を見るとと吾れを 見るが如くせよと仰せられたから、後にその鏡を以て皇砲の御霊代として神宮に粛き奉つ売のである。とれ即ち 紳鏡奉安の曙矢といはねばならぬ。﹃類襲名物考、神祇十﹄には﹁鏡ヲ以テ紳韓トスルハ古人ノ惇へ=鏡ト紳トノ 訓意向ジ﹂によるものであるといふが、しかしそれよりも寧ち榊勢大榊宮に紳鏡奉粛したととから此の風習を事
ん だ も の と 見 ね ば 怒 る ま い 。 ﹃ 倭 姫 命 世 記 ﹄ に よ ら ば 天 照 皇 太 一 紳 の 御 霊 御 形 ︵ 紳 韓 ︶ は 八 即 応 鏡 で あ り 、 豊 受 大 榊 は 園 鏡 で あ り 、 多 賀 宮 は 鏡 で あ る と い ふ 。 ま も ん ﹃ 皇 太 一 脚 宮 儀 式 帳 ﹄ に よ ら ば 太 神 宮 の 末 世 売 る 荒 祭 宮 、 伊 雑 宮 、 瀧 原 官 、 回謹榊祉、蚊野一粧の紳瞳はいづれも鏡であるとする。また﹃宮寺縁事抄﹄には石清水八幡宮に御正瞳として華形鏡 九面あっ売ととを載せ。﹃春日槽現験記﹄第十九巻にも﹁正安三年十月廿五日子時、悪黛世頭に刷乱入して、大宮四 所の御韓たの/\二面、若宮六面合せて十四面の紳鏡乞盗取売てまつりて一式云﹂といって、正韓としての紳鏡のと とを言っている。近くは東本願寺の別段渉成園の中に市姫と稽する古老木があるが、柱時その下に市姫紳吐と名 ︿る小間があつもん。現今は一位左圏外に移して市内河原町六僚に在るが、同世の一脚躍は鏡画中に華表の浮び出づる 紋 様 入 の も の で あ る ︵ ﹃ 集 古 十 種 ﹄ ︶ 0 また東本願寺の萱庫に、大正九年六月近江園紳崎郡中野村村田太七氏の上納 した榊鏡一面を識するが、とれには南無阿踊陀悌の六字名競があって、本願寺額如上人の筆と倖へられてゐる。 荏 柄 天 一 脚 銅 鏡 ︵ 盟 問 問 一 慨 博 ︶ に は 天 神 の 束 帯 像 B P ・ − 梅 花 及 び 企 業 を 刻 し て 賓 治 二 年 義 順 の 銘 が あ る o 東京府西多摩郡 三田村の御撮世には奮地主紳祉の紳轄として、建久三年、鹿永元年、弘仁二年の紳鏡がある。かうして紳韓とし ての鏡面が由緒古く社格の高い紳世に存するばかりでたく、津 K 浦 K の地方小枇に至るまで普及したものであっ て、その事置は、近く近江園紳崎郡内の紳枇取調書によって見ても明らかである o 今 同 郡 に 於 て 鏡 乞 正 腫 冒 と す る 神社を示さば左の如くである。 一 、 堺 一 、 此 村 /¥ 幡 宮 村 素 謹 荒 木 大 明 神 男 命 ︵ 山 王 ︶ フロ フ巳 鏡 鏡 9 一 、 川 曲 村 元 鏡 神偽分隊以前に於ける一位寺本態の史的交渉 一 一 一 五
日 本 偽 致 事 協 曾 年 報 ︵ 第 十 三 年 ︶ 一 一 一 六 10 別 宮 白 山 一 万 鏡 一 、 和 田 村 一 、 長 勝 路 村 天 宮 元鏡三ツ 一 万 一 鏡 三 ツ 瀦 熊 野 皇 太 紳 一 、 山 上 村 歳 宮 大 明 紳 鏡 紳鏡 猶 そ の 他 ﹃ 古 事 類 苑 ﹄ 一 押 紙 部 四 を 初 め と し て 、 諸 種 の 圏 費 目 録 、 えてゐるが、今はすべて之れ左略する。 一 、 垣 見 村 天 漏 宮 日本金石年表等至るととろに榊鏡神髄のととが見
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玉 玉を以て紳世の榊盟としたととは、既に﹁古事記﹄中の臆紳記に﹁故其天之日予特渡来物者玉津賓一式而、珠二貫﹂ とあるを初見として、﹃筑前宗像駐日記﹂によらば、宗像大紳が居崎山より降臨し給ふの時、青蓮玉を奥津宮の表 に置き、八坂噴紫玉を中津宮の表に置き、八問問鏡を遁津宮の表に置いてとれ左紳瞳と怒したといふ。近くは近江 園榊崎郡内神社の﹃取調書﹄によると、七塁村天御中主紳末枇の稲成明榊の一脚四回が玉であり、山本村正八幡宮の末 世山祇祉の紳閣が玉璽である。市して同じ玉を以て紳韓とするにしても、悌教渡来以後祭記した一紳祉には、ま a A 伸教的友色彩をもつものもある。例へば江戸駒形町清水稲荷祉の如をは、如意賓珠を以て紳樫としたととによっ て も 明 瞭 で あ る ︿ ﹃ 江 戸 名 所 園 舎 ﹄ 十 六 ︶ 。 委 し く は ﹁ 古 事 類 苑 ﹄ 紳 祇 部 の 所 設 を 参 照 さ れ も 凡 い 。 器 武器を以て紳悼とする中にも、弓あり、矢あり、創あり、矛・などあって一定し友い。 武例へば名古屋市熱田匿の熱田紳宮は掛巻も三種紳器の其一友る草薙賓創を粛き杷れる紳宮として有名である が、神韓としての神剣は、正殴︵搬一語性︶に封し、西方の渡用殴に奉粛されてゐる。奈良勝丹波市町官幣大杜石 上神宮の紳揮は布都御魂創であり、日本武偉の御跡として知らるる甲斐園
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摩郡大八田村諏訪神社の霊代は頭槌 剣であり、山城園乙訓郡の乙訓坐火雷神祉の神韓は丹塗矢である。﹃皇太神宮儀式帳﹄によると、皇大神宮同殿に 坐紳二桂がある。左方は祭神天手力雄命であって、弓を神髄とたし、右方は祭神高幡豊秋津姫命であって、創を 紳韓とするといふ。また﹃大倭紳祉の註進昧﹄によると、相殿紳二座の内の八千文榊は文の紳鯉であるといふ。か うして武器の神髄というても、上越の如く、全く多種多様である。四
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石を以て紳韓とするものも亦非常に多い。例へば薬師寺景戒の﹃日本霊異紀﹄下巻に﹁女人産ニ生石−以 v之 矯 d v 神 而祷縁﹂の不可思議た惇設をかかげ、﹃扶桑略記﹄二十四裏書に延暦十八年十月十五日の大宰府解を引いて﹁叉長 比費明紳吐、住吉明神社、如二大鼓−鳴動、御韓美石出ニ賓殿 ω在二地上二武一さといふ。とれ皆石の紳韓に闘する不 思議友記事である。叉党相模園大住郡大山阿夫利神社は中古以来石傘大構現として有名であるが、本宮には祭神 大山積命の御魂代として五尺計の自然石が祭られてある。 ﹁皇太神宮儀式帳﹄一管度合郡神世行事の下には、左の如き紳世をかかげて、その神障をばすべて石であると設 い て ゐ る 。 11 小 朝 熊 神 世l
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紳 櫛 玉 命 児 | | 石 苔 坐 轟 神 ーl
石 坐 神悌分離帥以前に於ける社寺本寧の史的交渉 七12 日本偽数挙協舎年報︵第十三年︺ 3 大 山 罪 命 子 | | 石 枇
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−−曾奈比 k古命
1 1石
鴨 祉 1 1 1 1 1石 巴 目 和 居 命 | | 石 村社、無格一位以下の紳枇に至つては、石を神間として掘調肥するものが極めて多く、近くば近江園榊崎郡内紳取 世調書によると、左の如き紳枇はすべて石を以て紳憧としてゐる。 薗 相 紳 一 、 川 並 村 一 、 佐 生 村 一 、 小 幡 村 一 、 石 塚 村 一 、 和 南 村 一、社葉尾村 一、妙法寺村 若宮八幡宮枝宮 八 幡 宮 一 二 八 坐 坐 坐 石 石 石 石 石 一 位 共 石 霊 石 石 その他、性的紳を祭神とする神世及び澗宇に至ては、その紳惜の殆どすべてが石であると謂ってよい。近くは市 内寺町今出川上ル二丁目の出雲路幸紳は、その紳韓が男O
石であるととは飴りにも有名であるが︵﹃源卒虚表表記﹄ 等 に 見 ゆ ︶ 、 し か し と れ ら に つ い て は 拙 著 ﹃ 田 県 宗 史 の 研 究 ﹄ 所 載 、 ﹁ 性 的 一 脚 と し て の 弓 削 道 鏡 ﹂ の 僚 下 に 設 く か ら 一 、 参 照理 −
R 杵傘 牛頭天王素斐鳴駐 山 王 若 宮 八 幡 宮 多 度 末世 世 山玉、天紳、龍神 春 日 大 明 駐 榊 /I、
開 森されんととを望んで会く。 五 、 雑 物 A 、悌教の影響を受けざるもの 以上神社に於ける器物紳障として鏡、玉、武器、石等についてその大韓を一瞥したが、その他のものにも亦、 いろんたものがある。今それらを一括して雑物の名の下に一言し売い。占んもそれらは悌教の影響あるものと、然 らざるものとのこ種に分類し得られるけれども、先づ悌教的影響放きものより説いてみやう。 ﹃ 古 事 類 苑 ﹄ 神 祇 部 固 に よ ワ て 、 悌 較 的 影 響 た き も の を 抄 録 す る と 、 子 鈴 ︵ ﹃ 韓 日 本 紀 ﹄ 七 、 逮 義 ︶ 、 勿 ︵ 伊 勢 豊 受 大 紳 は 凶 d w h 込 A V 一 座 、 相 殴 紳 三 座 の 内 、 天 児 屋 根 隼 の 紳 瞳 ︶ 、 賓 瓶 ︵ 土 御 租 紳 二 座 の 内 、 宇 迦 之 御 魂 紳 の 神 髄 ︶ 、 缶 ︵ 酒 殿 紳 形 岳 坐 の 内 、 か め 聾 字 賀 能 比 責 命 の 紳 韓 ﹀ 、 瑳 ︵ 北 御 門 世 形 瓶 坐 の 内 、 若 雷 神 の 榊 韓 ︶ 、 瑠 璃 壷 ︵ ﹃ 御 鎮 座 本 紀 ﹄ に 見 ゆ る 宇 賀 魂 の 紳 韓 ︶ を 初 め と し て 、 釜 二 口 ︵ ﹃ 日 本 紀 略 ﹄ 四 、 天 徳 四 年 の 僚 ︶ 、 し ほ が ま ︵ ﹃ 都 の っ と ﹄ ︶ 八 握 巌 稲 ︵ ﹃ 大 倭 紳 世 註 進 航 ﹄ に 見 ゆ る御麓紳の紳瞳﹀、五本骨の扇子︵﹃武江神事録﹄に見ゆる武州天川天神の紳韓︶、兜︵江戸氷川明紳世︶等の紳韓が 奉げられるけれども、単にそれだけに留らや、猫その他に於ても種 k 雑多たもの L 存在をば知ったのである。繁 雑ではあるが、以下予の探訪し得た史料の一部を抄出すれば左の如くである。 ー、越中園井波町山見八幡宮の御神韓は、周圏三丈に飴るサイカチの大樹であるといふ︵﹃井波誌﹄一三三頁︶ 2 、大和園字智郡南字智村大字丹原丹生川神社の祭神は女神丹生都比費であるが、その紳閣は衣冠であると い ふ 。 ︵ ﹃ 特 選 紳 名 牒 ﹄ 六 七 頁 ︶ 3 、山口鯨萩の松陰神枇は吉田松陰を祭神とするが、その霊代即ち紳韓は故松陰愛用の硯であるといふ。 13 神偽分離以前に於ける舵寺本写の史的交渉 一 二 九
日 本 偽 敬 挙 協 合 百 年 報 ︵ 第 十 一 一 一 年 ︶ 一 三 O 14 4 、新潟懸蒲原郡下関村大倉神世の紳韓は琵琶と杖とである。 5 、和歌山懸那智村郷社飛瀧紳世は謀風そのものが紳韓である。 6 、和泉園大烏郡堺寺町引接寺は、貞和三年借知演の、住吉神社の紳託により、住吉一世務園夏の土地寄附に よって建立されたものであるが、その時建立された悌殿に佳吉明紳を勧請して、とれを開口枇内宮と稽 へた。その明神の紳四回が松風之硯であったといふ。されどその引接寺及び開口一世はその後に至り慶頚し て 、 今 は 跡 方 も な い 。 ︵ ﹃ 紳 悌 分 離 史 料 ﹄ 下 八 三 頁 ︶ 0 7 、新潟懸蒲原郡蒲葡村の河内祉は、大蛇を退治したといふ雲上佐一郎額仁公の骨を以て紳韓とする。 ﹃ 太 政 類 典 ﹄ 第 一 編 第 百 二 十 一 一 一 巻 に よ る と ﹁ 其 他 村 k ノ小開=至リテハ紳名ノ不分ノミナラズ、一世競ノ不分向モ 有之、中−一ハ酢和一恥恥ヲ祭リ、淫桐不少、ソノクセ世敷甚ク多ク一式去﹂とあるから、かうし売雲上位一郎式の人 骨神髄が随分と存在したととであらう。かくして近代になると、榊、幣︵ヌサ︶、巾、札守の類が神社に紳韓とし て癌同記された事賓は枚奉ずるに遣が注い。今近江園紳崎郡内神社取調書によって、同郡内に於ける幣、巾、金巾、 札守等左御霊代とした紳粧を、参考のため抄出すれば左の如くである。 凪 言 。幣を榊障とする神世 一 、 市 田 村 若 宮 八 幡
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巾 主 木 五 を { 立 紳 流 出 糧 問 と 村 村 す る霊
}\ 幡 宮 宮村大明神掃位、白山大明神及建部大明神金 市 一 、 七 村 一、下日吉村 一 、 堺 村 一 、 七 一 、 和 国 一 、 今 一、北之庄村 一、枝郷算所 一 、 新 15 一 、 三 俣 一 、 奥 回 堂 北 祭 日 若 宮 市 中 旦 里 堂 村 村 大 出 雲
皇位軍
大 市 中 若 将 四 座 日 官 ︵ 改 鏡 ︶ 末 世 山 祇 同 末 座 ︿ 改 鏡 一 一 一 ツ ︶ 社 社 上下二位 神偽分離以前に於ける紅寺本館の史的交渉 粛 世 武 功 臣 世 天 御 中 主 神 村 山 玉 大 山 咋 紳 八 幡 宮 天 御 中 主 命 村 村 天 満 宮 天満宮末世祇園 村 紳 世 枝枇山王十騨寺 若 宮 車 問 県 子 末 世 素 費 鳴 命 五 箇 村 皇 孫 隼 祇 園 素 斐 鳴 命 村一
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16 一 、 下 一 、 千 一 、 池 日 本 偽 教 皐 協 曾 年 報 ︵ 第 十 一 一 一 年 ︶ 坂 村 野 村 天 一 紳 之 枇 幡 宮 一、今回居村 田 村 一 、 寺 村 一、中小路村 村 村 村 村 一 、 紳 一 、 甲 一 、 西 一 、 林 田 崎
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八 一 一 一 河 謹 枝 一 世 正 八 幡 宮 一 一 プ 河 部 校 一 位 伊生南大神宮 寺 村 今 代 岡 田 一 一 一 ケ 村 鎮 守 若 宮 天 神 塞 一 一 一 河 部 大 明 神 崎 之 紳 制1
天 市中 山 王 天 満 幡 宮 一 、 川 並 村 正 j¥ 宮 枝 宮 大 圏 主 命O
金巾を紳樟とする紳世 一 、 川 並 村 一、北之庄村 正 幡 五箇神社同肢末紳七柱 }\ 宮O
札守を紳韓とする紳世 一、北野屋村 一 、 七 旦 大郡大明紳枝世金毘羅 綾御前 村 天御中主紳末世一
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、悌教の影響を受くるもの 紳悌調和に闘する現象の史上に現はれたのは飛鳥時代︵天武持続前後︶であって、﹃績記﹄に﹁文武天皇二年十二 月 乙 卯 ︵ 二 十 九 日 ︶ 謹 ニ 多 集 大 神 宮 寺 子 度 合 郡 こ と あ る を 以 て そ の 初 見 と す る 。 ︵ 辻 義 官 之 助 氏 著 ﹃ 本 地 垂 語 読 ﹄ 参 照 ︶ その後越前に無比一脚宮寺、鹿島に神宮寺、伊勢園多度に神宮寺、二荒山神宮寺といっ売やうに敷多の一脚祉に紳 宮寺の創立を見事んととは、やがて鎌倉時代に完成し組織立てられた本地垂遮思想の萌芽として軽 k に附するとと は出来たい。而して更に進んで、紳世に於ける器物紳瞳の上に著しく悌教的た影響を輿へたのは、紳悌習合に著 しき護達の跡を示した藤原時代以後では・ないかと思ふ。史を緒くと此の頃からして神社に悌合利奉納のととが見 え出してゐる。即ち﹃日本紀略﹄によると、天層二年九月一一十二日、五十五位に伸舎利奉納の事賓があり、各借一 人を使者ーとして遣はされ・たといふが、その後村上天皇の鹿和年問、国融天皇の天藤年問、一一保天皇の永延年問、 後一保天皇の寛仁年間にも亦悌舎利奉納の事が見えてゐる︵﹃日本後記﹄︶。かうし売事賓はやがてそれが紳世内に 奉賛さるる紳韓として、私共の躍拝の封象となるべきととは言を侠たたい。 かの日本三景の一−として知らるる松島の揮竃紳一世は、粛杷の紳韓が悌舎利であっ売が、江戸幕府の頃、同一世の 間宮藤塚知明がとのととを知り、自ら取り出して破壊したので、幕府は迭に知明及びその一族をば極刑に慮し売 といふ︵﹃紳悌分離史料﹄上二九四頁下回義照氏談参照︶。近くは京都北野紳祉の本社内陣には、曾て︵榊備分離以 前﹀その北面に悌舎利を奉安し、とれを御襟懸舎利と稿してゐたといふが、とれも亦事件悌舎利生瞳拝の封象とし た事賓といはねばたらぬ。︵鷲尾順敬博士の﹃紳悌分離調査報告﹄参照︶ かうして悌舎利を奉安し、之を紳韓とする事は、やがて塔婆を神髄とする迄に護展せしめやには治か友かった。 17 神 偽 分 様 以 前 に 於 時 り る 一 位 寺 本 骨 干 の 史 的 交 渉一
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日 本 悌 教 事 協 曾 年 報 ︵ 第 十 一 一 一 年 ︶ 一 三 四 l8 思ふに五重、コ一童、瑞紙、多賓、いづれの塔をも聞はや、悌塔と名けらるる以上、営然悌舎利を奉安すべき筈 である。若し一遺身合利︵韓傘の御用︷日︶がない友らば、伸骨の代用として法身舎利︵経典︶左以て塔内に牧めねばな らたい。ざれば塔と合利とが離るべからざる闘係にありとすれば、備会利の紳韓があらはれたから、績いて塔の 紳鰹が額はれてくるのも営然である。 信濃園諏訪神社上宮は第一節一紳開空位の僚下に設けるが如く、もと本殿もたく紳韓もたかっ売。しかるに鎌倉 時代に至るや、拝殿奥の嬰地に銭塔一基を作りとれを霊代とし一紳韓とし売。銭塔とはいへど白舗の塔のととであ って、石材が大理石であったらしい。然るにとの塔も織田信長の時、一朝にして兵火のために破壊されもん。それ がため、その後に至って上宮に榊韓がたく下宮に紳腫があるといふので、二者の聞に激しい争ひを生じたが、建 に上宮の世人が諏訪忠晴に請ひ、鎖塔左再建したのであるといふ。 しかもその塔は明治維新の紳悌分離に際し、 上諏訪の温泉寺に運ばれてしまった。 とれは悌塔を以て紳四聞とした賓例であるが、﹃臨尻﹄九にも亦五輪塔形を以 て神社の神髄としもんととを載せてゐる。かうして悌教の影響を受けた器物紳醸の例は、その他にも見ゆるととろ であるが以下二三を示さば左の如くである。 ー、﹃紳伸分離史料﹄下八八五頁伊東尾四郎氏の報告によれば、九州太宰府天満宮の榊韓は菅原道真の木像で は放くして、道真自筆の法華経八巻であるといふ。左還後三年の間一室に閉ぢ籍。て書いたと停へてゐ れど、果して道真の真筆かどうかは一見の上怒らでは明瞭で友い。けれどもかかる偉設をもつもん法華経 八巻が同祉の紳障であうもんととは明瞭であって、器物神障として注意すべきであらう。惜しむらくは、 該経は紳悌分離の際、宮司︵五僚家の人︶の手によって焼亡されたといふ。
2 、大和関榛原町大字土井足にコ一十八一世俗女明紳といふ紳一世がある。祭神は女神であって、その名を摘津波 能賞紳といふ。市して同祉の紳韓は、営地の古老の倖設によると、親驚塾人の母士口光開尼の愛用し売費 冠であるといふ。予は昭和四年の春同地へ放して、親しくその事賓を知るととを得たが、その附近に吉 光開尼の古墳と惇へるものの存するととは、とれと相封して注意すべきでああらう。 3、佐賀牒藤津郡五町田村士口浦紳祉には、紳障として蓮如上人の五帖一部の御文が奉記されてあるといふ。 ︵龍谷大墜教授杉紫朗氏の報告による︶ 0 第三節 影 像 神 田 恒 第 一 項 彫 刻 影像紳輯は彫刻と精霊の二種に別れるが、便宜上彫刻の方を紳像と呼び、精霊の方を紳影若くは御影の言華左 用 ゐ る と と に し 売 。 神宮寺その他の紳悌習合設に基く諸現象は、それによって営然奈良朝時代末葉に於て、神障としての紳像の出 現を信ぜしむるに足るものであるが、しかし今日に於てその遺例の鷲見されてたいのは甚だ遺憾である。 延暦二十年の勘記にたる多度榊一世の紳宮 4 寸 た る ﹃ 多 度 神 宮 寺 費 財 帳 ﹄ の 冠 初 の 記 文 に よ る と 、 以去天平賀字七年歳次実卯十一一月庚成朔廿日丙辰紳位以東有 v 井、於道場満願締師居住、敬ニ一造阿踊陀丈六−子 時在人託 v 紳 一 宮
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中略|成是託説、睦忍数週猶踊託一耳一宮、於認満願締師紳坐山南謹伐掃謹ニ立小堂及紳御像一競ユ 多度大菩薩−ーー中略戎美濃園近土牒主新麿、三霊塔奉 v起、失費範十一年十一月十三日朝廷使令下二四人−得度上 rn 神悌分離以前 K 於ける一位寺本軍の史的交渉 一 一 一 一 五日 本 偽 品 献 血 中 協 曾 年 報 ︵ 第 十 三 年 ︶ 一 一 一 一 六 20 ’とある。文中に﹁遺ニ小堂及神御像−競ニ多度大菩躍乙と見ゆる神像は、天平賓字七年から費誼十一年の聞に出来た ものと考へられるが、恐らくとれは紳宮寺の小堂に安置されもんものであって、多度神社の本般に安置され売紳瞳 と し て の 神 像 で あ る と 解 す る と と は 出 き ぬ 。 然 る に ﹃ 皇 太 一 紳 宮 儀 式 帳 ﹄ の ﹁ 一 管 一 紳 宮 愚 院 行 事 ﹂ の 項 に は 、 月讃宮 院 正殿四直
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︵ 略 ﹀ 此 一 種 伊 非 諾 寧 、 次 稽 伊 # 珊 傘 、 己 上 奈 良 朝 廷 御 世 定 師 、 和 静 止 帯 ん 炉 、 体 仲 品 加 除 一 勲 動 耕 一 和 国 一 動 仲 D D D D D O O D 衣 目 金 作 帯 二 太 刀L
肌 v 之、戎稽荒魂、己上内人物忌定供奉 といって、明らかに月議命の彫像紳韓のととを載せてゐる。思ふに本書の奥書に延暦ご十三年とあるから、延暦 の官時既に一紳像存在の事賓を示す所の文献、として注意せねばたらぬ。 しかしたがら紳像の遺品として今日現存の最古として知らる L は、奈良西ノ京薬師寺所臓の榊像彫刻三伺であ らう。一は借形八幡の一脚像であって、園頂柄衣一木遣の彩色も美しい木像である。他は紳功皇后御像と、臆紳天 皇の皇后仲津姫命御像であるが、との雨像は僧形八幡紳像の脇侍として、三骨守備を連想せしむる三障の紳像とし て元と薬師寺八幡宮に安置されたものである。該八幡宮は寛平年中に柴紹大法師によって勧請されもんものである から、それは大韓その頃の謹願売るや明らかである。 弐に近江園野洲郡小津紳枇は延菩式内の古祉として知らる与が、本殿の祭紳宇迦乃御魂命の紳像は、木彫着色 坐像であって、貞観時代末期の作品として有名である。頭髪の一部を振分髪にして顔の左右に垂れ下り、その儀 をうしろへナペらかし、左の片膝を立て、賓珠を持つ党左手を軽くその上に載せ、右の片足を折って座してゐる 姿である o 伸教事術の匂ひ豊かで、前にあげ事件薬師寺の女神像と封比さるべきものであらう。・次に京都市右京直松尾の官幣大枇松尾紳祉には男女三描の紳像がある。とれも亦薬師寺や小津榊駐の紳像と共 に、我園現存中最古の紳像として、共に貞観時代の作品である。 如是く紳悌調和に基づく諸現象の一として、貞観時代より紳像の出現を促したが、との風潮はやがて藤原、鎌 倉時代に至って、盆 K 盛 ん と ・ な り 、 遺 品 も 亦 多 き を 加 へ る に 至 っ た 。 さて紳像の遺品につを悌教的影響の濃薄によって、悌教の間接的影響を受くるもの︵言葉が不十分であるが﹀ と、その直接的影響を受くるものとのこ種に分類するととができるやうに思ふ。即ち前者は紳像の俗韓怠るもの、 例へば衣冠束帯の像の如きがそれである。後者は紳像の法韓︵借形︶たるもの、例へば僧形八幡の如きが即ちそれ で あ る 。 今つら/\紳像について考ふるに、前に設ける薬師寺八幡宮安置の僧形八幡の如きは法障であるが、同じ薬師 寺八幡宮の紳像にしても、一脚功皇后と沖津姫命の御像とは俗憶であり、まもん小津紳枇の宇迦乃御魂命像や松尾神 世所蔵の男女三韓の紳像の如きも亦俗瞳であるから、悌教的影響の度合については、後者は前者に比して多少の 相異あると・とは認めねば怒らぬ。さればといって、たとひそれが俗瞳にしても、とれをば人格的に見る悌教の行 儀に影響されたととは勿論である。 21 古来神一世内の紳宮寺若しくは本地蛍に安置された本隼に劃してはとれを本地悌と稽へる。例へば讃州金毘羅宮 の本地悌としての園費十一面観音像の如堂、加賀白山比時一神祉の本一地として、同十一面観君臨︵朝時一諮問︶の如 抽 脚 偽 分 離 以 前 に 於 け る 一 位 寺 本 隼 の 史 的 交 渉 七
日 本 偽 数 準 協 舎 年 報 ︵ 第 十 三 年 ︶ 一 三 八 く、また羽前園出羽神社の祭神稲食魂一脚の本地が塾観墨田であり、日光大擢現の本地が馬頭観音であるが如く、か うした本地悌をばそのま L 神社に於ける紳韓︵御霊代︶だといへるだらうか。とれについては、本地備は神社の本 地堂若しくは紳宮寺に安置さる L 本寧であり、一紳韓は紳世本監に於ける御霊代であるから、雨者は決して混同す べきで友い。たとひ本殿に於ける紳瞳が悌菩薩像であっても、それは本地堂に於ける悌菩薩像とは全然直別さる 22 ぺき筈である ο しかるを、世に往 k 紳瞳と本地堂の本隼とを混同するものもあるがとれは大に注意すべきであら ぅ。そとで予は紳宮寺の本地伸と橋するものを悉く除外し、専ら紳枇の本殴に粛記され売紳像につき、予の親し く拝見し若しくは検察した史料の内から、参考のためその種類の若干を抄出すれば左の如くである。 像 神 A 、悌教の間接的影響を受︿るもの|!神像が俗形友るもの|| ー 、 紳 慢 ︵ 字 迦 乃 御 魂 命 ︶ 2 、 神 像 ︵ 男 女 神 ︶ 3 、 男 神 像 ︵ 束 帯 の 立 像 ︶ 品 、 童 子 像 5 、 木 彫 男 神 像 6 、 同 ︵ 束 帯 之 立 像 ︶ 7 、 神 像 紳 償 ︵ 乾 漆 木 像 ︶ 8 、神像紳挫︵日本武掌束帯之像︶ 9 、 男 神 像 ︵ 武 援 一 躯 三 瓶 四 個 哲 一躯﹂ 一躯︵卒安時代︶ 一躯︵卒安時代︶ 躯 躯 躯 近 江 園 小 津 純 一 枇 巌 京 都 市 松 尾 神 枇 歳 京 都 市 大 回 府 軍 八 神 祇 巌 某 一 位 同 一 位 以上二貼東京博物館出陳 宮 崎 勝 宮 崎 郡 瓜 生 野 村 盤 戸 紳 一 枇 相 模 園 小 田 原 町 鶴 森 明 神 奮 綴 ︵ 片 岡 永 左 衛 門 氏 報 ︶ 富 士 墨 田 三 氏 厳 大 藤 康 手 日 図 近 江 図
近 江 図 神 崎 郡 川 鴎 村 荒 木 大 明 神 山 形 燃 北 高 櫛 村 紳 明 日 枇 同 留 湯 村 八 幡 神 枇 同 吉 川 村 大 日 璽 寧 抽 刊 紙 同 沼 津 村 七 森 神 一 位 東 京 市 深 川 八 幡 宮 石 清 水 神 批 一 一 一 枇 宮 日 、 女 神 像 ︵ 神 功 皇 后 像 ︶ 日 、 男 神 像 一 回 、 女 神 像 一 回 、 遺 胞 神 石 像 一 弘 、 東 照 宮 紳 像 神 鶴 一 日 日 、 女 神 像 玉 依 姫 命 像 ︵ 建 長 一 一 一 年 十 月 十 六 日 遁 ︶ B 、悌教の直接的影響を蒙るもの
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紳韓が悌菩薩像若しくは法韓友るもの l|
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大日如来像を紳韓とするもの 大和園生駒郡北倭村 躯 置 豊 殖 躯 」 y---J 近 江 愛 知 京 都 奈 良 勝 吉 野 ー 、 静 陸 大 日 如 来 像 山 形 燃 水 海 村O
阿摘陀如来像を神髄とするもの 2 、 神 慢s
、同 4 、同 5 、同 6 、同 7 、同 8、
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向 調 陀 如 来 像 阿禰陀係金剛像︵本枇内陣安置︶ 調 陀 三 軍 悌 新 潟 勝 卒 嶋 村O
地購像を紳瞳とするもの 宮3 日 、 神 僅 大 智 明 擢 現 ︵ 地 帯 断 像 ︶ 神 悌 分 離 以 前 に 於 け る 一 批 寺 本 骨 干 の 史 的 交 渉 法 楽 寺 蔵 図 建 都 神 一 位 蔵 伊 藤 遼 輝 師 蔵 策本願寺内事局諸問 水 分 柿 枇 蔵 大 日 霊 寧 紳 批 伯 省 大 山 一 三 九日 本 品 開 教 挙 協 曾 年 報 ︵ 第 十 三 年 ︶ 24 口、山形燃にて地蔵像を神睡 T とするもの
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妙見像その他を紳韓とするもの。
A M 、 市 岡 ! 可 A − 稲 川 町 3 、 市 甲 唱E a F S 山 叩u
、問 除 。 、 ム 網 γ , E A Z 刷 岬 a o 、 市 m − 可A 謡 m η s 、 品 悶 1 ・ ’A − 稲 川 町 回 、 同 問 、 同 加 、 同 幻 、 同 盟、神 。 。 、 品 m−
o a 司 稲 間 町 僅 強 妙 見 像 役 小 角 像 不 動 明 王 像 不 動 明 王 像 箆 沙 門 像 錘 慢O
牛頭天王その他を紳韓とするもの 僅 牛 頭 天 王 ︵ = 一 商 六 樗 木 像 ︶ 慢 島 常 忠 良 公 法 陸 像 睡 虚 空 厳 重 同 慶 像O
樺迦悌像その他を紳障とするもの 担 、 灘 迦 偽 像 邸 、 章 駄 天 像 川 出 、 紳O
観 音 像 を 榊 韓 ー と す る も の 睡 叡 菅 山 形 燃 吉 川 村 同 岩 根 津 村 新 潟 豚 板 屋 村 山 形 勝 内 岡 本 楯 村 京 山 尾 張 美 濃 図 武 儀 郡 大 阪 市 新 潟 勝 笹 口 演 鹿児島知世田町 新潟廊下鍛冶屋村 都 東 一 四 O 十 四 批 園 常 立 寧 紳 一 位 磐 根 神 枇 式内一位多佼純一拡 大 一 位 八 誕 事Z 締 感 神 院 祇 圏 一 位 津 島 神 一 拡 大 矢 田 神 枇 卒 野 杭 全 神 位 須 賀 枇 竹 田 紳 枇 本 山 紳 枇 新 潟 豚 温 出 村 熊 野 枇 間 関 岡 村 伊 達 山 神 枇 山 形 勝 築 津 村 子 安 静 枇幻、岡 田、同 却、岡 田、同 泊、同 四、岡 田、同 叫、同 出 、 向 日 間 、 同 幻 、 同 却 、 同 却、岡
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、同 日 制 、 同 位、岡 山 師 、 向 日 叫 、 同 円 必 、 同 M 四 、 同 抑 制 、 同 25 神 品 開 分 離 以 前 に 於 け る 一 位 寺 本 骨 婚 の 史 的 交 渉 同 南 中 野 村 安 静 岡 石 川 村 渡 静 岡 島 村 森 神 間 岩 根 津 村 岡 神 間 石 田 村 江 神 間 沼 山 村 明 同 大 町 村 黒 静 岡 後 津 村 溺 静 岡 翻 普 寺 村 伏 神 岡 宇 郷 村 尾 紳 同 大 浦 村 吉 太 同 川 前 村 山 静 岡 海 堀 村 山 抽 仲 間 丹 念 一 一 村 山 静 岡 下 柳 渡 戸 村 山 静 岡 上 ノ 畑 村 月 山 神 岡 大 淀 村 初 黒 紳 関 長 盤 村 鎮 守 静 岡 楯 岡 村 淡 島 太 向 坂 本 村 藤 波 大 同 志 殿 村 月 讃 神li
山形勝紳世調査報告によるi
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’ 月 中 松 黒 義 務 科 書 室 模 小 二 子 月 月 月 問 量 土 神 神 量 士 量 士 単 位 置 土 枇 枇 神 枇 枇 量 士 枇 枇 量t
量土砥草土枇日本偽教挙協舎年報︵第十三年︶ 26 川 崎 、 神 樫 叡 m u 、同 像 52 51 50 柿 同 神 印、抽円盤 町 祉 、 同 町、問 音
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勢至及び摘勃菩薩像を神瞳とするもの 僅 勢 至 菩 薩 像 種 調 勃 菩 薩 像O
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日月燈明備を紳韓とするもの 時 s 、・闘嗣 I ’D 叫 i 岡、同 印、同 印、同 N U 、同 3、
1 0 仁 出 ド 。 。 、 立 叫 H u cokurO
雨賓童子を紳瞳とするもの 雨 賓 室 子 強 四 近江園神崎郡川曲村荒木大明神別宮白山 筑 前 園 筑 紫 郡 大 宰 府 町 太 宰 府 神 社 山 形 勝 楯 跡 神 一 位 同 高 岡 紳 枇 宇 佐 八 幡 宮 奈 良 薬 郎 寺 鎮 守 本 一 位 八 幡 宮 同 東 大 寺 鎮 守 八 幡 宮 同 生 駒 郡 北 倭 村 大 字 高 山 八 幡 宮 山 形 勝 野 川 村 日 月 新 潟 耐 耕 平 嶋 村 神 明 同 大 潟 村 神 明 同 富 尚 村 利 明 間 本 図 上 村 神 明 岡 上 野 間 上 村 天 稗 枇 内 科 同 吉 岡 、 富 島 、 縮 問 、 中 津 四 村 向 江 口 村 神 明 枇 官 官 官 官 明 鎮守紳現官 官位、同
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薬師悌及十二一紳持像を紳樟とするもの 75 74 73 72 71 70 69 68 67 66 65 同 問 問 問 同 問 問 同 同 同 紳 慢 察 官市 偽 像 27 a o 、 白 叩 負 匡 円 4 3 剛 山 時 蜘 開 叫π
、問 問、同 問、同 朗、岡 田 刷 、 岡 田、同 薬 師 品 開 像 薬 師 及 十 二 紳 勝 神 品 開 分 離 以 前 に 於 け る 一 位 寺 本 寧 の 奥 的 交 渉 同 茅淳山村鎮守 神 明 宮 山 形 麻 薬 師 静 岡 水 深 村 高 田 静 岡 柳 津 村 大 年 静 岡 砦 根 海 村 貧 国 神 間 沼 津 村 卒 野 静 岡 大 浦 村 磯 前 神 同 岩 谷 津 村 岩 谷 神 間 湯 野 津 村 湯 津 抽 仰 向 土 生 田 村 生 回 大 同 尾 花 津 村 八 尺 太 同 名 木 津 村 磯 崎 神l
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右山形燃批寺取調類纂によるll
新 潟 懸 小 荒 川 村 十 二 天 同 柴 橋 村 十 二 天 問 土 曜 仲 村 白 山 一 批 地 内 久 斯 同 川 端 村 久 志 同 板 屋 越 村 久 新 静 岡 高 根 村 久 志 静 岡 吉 浦 村 今 川 久 斯 紳 一 四 三 最 士 紳 神 枇 枇 最t
量士置土低位置土 枇重土枇置土軍士批最土日 本 偽 致 事 協 曾 年 報 ︵ 第 十 = 一 年 ﹀ 一 周 回 28 朗、問 察 側 十 二 神 持 間 野 潟 村 鎮 守 ||以上新潟勝養徳文庫蔵純一位回見記録一による lli 安 房 図 勝 山 町 後 十 量士 組 、 同 薬 師 如 来 像 町 氏 神 ︵ 太 政 類 典 ︶ 薬師の文字は普通クスシと訓じ、俗に醤者のととである。諸悌の中に於て特に病策の治療を司どるから薬師如 く す 来と呼んだのである。されば新潟鯨下に、久斯世若しくは久志祉と名くる神社のあるのは全く薬祉に外怒らぬの であって、薬師如来を祭神とする神祉の謂である。されどとれにも例外があって、常瞳圏内に見ゆる延喜式内一位、 東茨城郡磯潰町園幣中世大洗磯前薬師菩薩紳祉と、那珂郡平磯町大字磯崎圏幣中世酒列磯前薬師菩薩紳枇との二 一世は、一世名に薬師如来の文字を冠してはゐれど、それとは全く関係が友く、雨祉ともに大己責紳、少彦名紳の二 紳を祭神とゑし、前の大洗磯前世の如きはその紳韓が石であるといふ。︵内務省窺版﹁特濯紳名牒﹄参照︶ 以上は紳祉の一脚韓につき、悌、菩薩、天部等の如き悌敢闘係のものをば唯雑然として記述したにすぎ・ないが、 とれによって悌教関係の神像のいかに多く現存せる事賓を知って頂けば結構である。 第 二 項 精 霊 紳祉に於ける一紳像榊韓の遁額に闘しでは、既に奈良時代にその萌芽を愛し︵文献による︶、貞観時代よりその遺 品に接し、かくて時代の経過と共に弐第にとの傾向を盛ん友らしめてゐるが、精霊紳韓剖ち紳影若しくは御影の 出現は、恐らく源子鎌倉時代にたってからであらうと思ふ。横潰原富太郎氏の所離にか L る清瀧樺現重像一幅は 鎌倉時代の紳影として最も有名たものであるが、その園相は母屋の中央から障子を牟ば開き、右手は桂にかけ、 左手に賓珠を捧げ、賓冠を頭上に飾り、身には荏を纏うた誠に旺巌極り友ぎ一紳影である。上段の銘に﹁元久元年
四月十九日奉見夢清瀧御韓也、以此童女賜ニ此草子外題二宮賀宇夜具野新類之布美一アことあるから本幅の製作年 代も明瞭である。もと京都の東南醍醐山上の清瀧堂に奉安してあったものだといふ。而してとれと略同時代のも のに和歌山牒高野山金剛峰寺所蔵の紳影二幅がある。一は狩場明紳像で他は丹生明紳像である。狩場明紳は弘法 大師の高野山を聞くに際し、大師を導いた明紳であると停へられてゐるが、丹生明紳はもと/\高野の霊地を領 有した地主紳であって、高野山一帯の土地を大師に譲り興へたから、それより永く高野山の綿鎮守として、岡山 に記られ売女一紳である。きれば丹生明神と狩場明紳は母子であるとも又た夫婦であるとの設もある。前者は赤ら 顔にて青を小袖を着、弓箭を携え、大小二頭の犬を従へもん筋骨還しい搬入の姿であるが、後者は純日本的な桂衣 左纏った官女姿であって、その封照は極めて面白い。 如上の三黙と殆ど同時代の製作と思はる L ものに、奈良の春日神社所臓の御紳影二幅がある。内一幅は夙に春 日明紳鹿烏立御紳影と稿せられ、明神の神馬に乗り給ふ御姿であるが、他の一幅は貞享年中霊一冗天皇の御寄附に 成った鹿座御神影といはる L ものである。猶同祉には別に御小松天皇の御寄附といふ春日明神鹿島立御榊影一一帽 を惇へてゐるが、同幅の巻軸に﹁永徳三年九月ういたちのひ筆はしめたり﹂の銘があるから、とれのみは南北朝ま で時代が下ってゐるのである。かうした諸幅は何れも私共の信仰の封象として榊聖観さるべをは申すまでもない が、それらはまた一面精霊事術史上に於ける重要たる位置を占むるものとして注意せねばたらね。 かくて紳影護生の事例を鎌倉時代にとれを見るととを得、売が、現在、それ以前の遺品に接するととが出来ない から、棺像御影︿榊影︶は先づ以て鎌倉時代に初まり、それより漸弐に時代の襲遼に伴ふて護展し売ものであらう と 思 ふ 。 29 紳 品 開 分 離 以 前 に 於 け る 一 位 寺 本 寧 の 史 的 交 渉 一 四 五
参 影 響 考 響 を 今 17 16 15 14 1ミ1字11 10 9_ 8_ 7_ 6_旦 4_ 3_ 2_ 1 ま で う 種 .. ーー ョ , ー ョ ー ー ・ ー ー で あ け k 同 天 位 住 住 新 白 鷹 同 絡 天 問 問 春 丹 狩 ! に る た た 浦 吉 脊 羅 山 神 荷 照 員 生 揚 華 僑 か 俗 る 諏 吉 玉 大 樫 天 大 皇 神 明 醍 俗 ら 形 神 宮 ー 出 現 現 明 太 鹿 嵐 E証 明 簡 の 、 御 影 神 島 神 本 皇 官 中 紳 島 座 島 市 申 寺 御 俗 影 に
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御 と 形 て 、 影 に 神 ー そ っ 像 定 の い の せ 中 て 場 ぬ に 、 合 が 於 手 と 、 て 近 同 し 或 な じ か は も く し 悌 の 、 紳 教 を 悌 像 の 一 教 若 直 括 の く 接 し 聞 は 影 て 接 紳 響 示 的 影 を さ 影 を う ば 響 園 け 左 を し た の 蒙 て 借 如 つ 杷 形 く ? と る 御 で と と 影 あとと~ る は そ 詰 。 申 のe
す と も ま と あ で が り も 銃 、 主 主 に 聞 い 悌 接 。 教 に 今 の 影 日 本 品 開 教 挙 協 合 年 報 ︵ 第 十 三 年 ︶ BO 一 一 一 双 双 一 一 一 一 一 二 一 一 一 一 一 一 i惰 幅 隙 幅 幅 陳 腐 幅 縮 幡 随 隠 幅 幡 幅 幅 幅 一 四 六 歌 山 漬 原 富 太 郎 氏 議 高 野 山 金 剛 峯 寺 巌 横 手 小 ・ ・ 同 奈 同 同 駿 津 妙 海 寺 栂 尾 高 山 寺 俸 ﹃東寺賓翰古器目録﹄所出 河 内 図 血 管 関 八 幡 宮 藤 加 賀 白 山 蔵 京 都 聖 護 院 歳 尾 州 家 蔵 住 吉 純 一 枇 繊 同 東 向 観 音 寺 藤 高 蓮 寺 議 良 春 意申 置土 議 日t
可 沼 衆 議 浴 北 東 野日 目 、 同 日、同 別、問 幻、同
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、問 問 山 、 同 川 師 、 同 初、同 叫 山 、 問 問 ω、渡宋天神賛写臆親王 加、吉野山中八舵之紳像︵如意輪寺八神像といふ︶ 問、棒尾春日住吉ニ紳影 却、天満宮神影狩野探幽筆 目 白 、 阿 豆 佐 美 天 純 一 枇 御 影 問、民宗光明本掌左方部 路 、 ﹃ 百 練 抄 ﹄ 八 安一万一万年六円月十六日蓮花王院総枇錫=座八幡巴下廿一枇一其外日前宮、熱田、巌島、気比等枇、和船仲 h u 酔 酢 = 恥r
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M抽、﹃古事談﹄敦賀親王泰治=大菩薩御彰二腫二鐙信形一僅俗形 豆勢有家壷 飛騨守惟久壷 土佐光周壷 土 佐 光 融 制 壷 揖 官 級 に て 楊 に か λ る 厨 信 賃 荒井千春萱 幅 隠 l隔 幅 幅 脂 幅 幅 幅 幡 携 常 賓 池 同 板 加 上 や 向 枇 厳 藤 嘉 庸 藤 橋 勝 順 蕨 土佐光輔壷 問 江 村 蔵 積 院 巌 高 野 山 東 住 之 江 蘇 京 卒 河 天 神 枇 蔵 一 一 ||七l
一 一 八 ま で ﹃ 考 古 室 譜 ﹄ 抄 出 | | ﹃ 本 朝 壷 史 ﹄ 上 ﹃ 康 富 記 ﹄ 所 出 ﹃ 羅 山 文 集 ﹄ 十 五 了 ﹃新編武蔵風土記﹄百二十了多摩郡の下 信 州 松 本 薄 祉 ︵ 報 告 に よ る ︶ 幅 幅 幅 陪 31 以上列車の中、殆どすべてが俗形榊影であって、最後に見ゆる松本ス、キ吐の紳影と、﹃百練抄﹄及び﹁古事談﹄ の記事のみが、悌教の直接影響を受けた僧形御影をあらはしたものとして注意すべをであらう。 抽 押 傍 分 離 以 前 に 於 け る 一 位 寺 本 骨 骨 の 史 的 交 渉 一 四 七日 本 偽 致 事 協 曾 年 報 ︵ 第 十 三 年 ﹀ 一 四 八 32 第 四 節 紳 鵠 紳 韓 従来悌教の影響をうけて人格的な相好国漏怒る神像を拝し、紳影を躍し奉ったのであるが、時代の費謹に伴ひ、 ﹁天満大自在天神﹂とか﹁八幡大菩薩﹂とかの神器を掛軸大の一幅にかいて、とれを紳像若しくは神影と同じゃうに 合掌供養するの風習が現はれてきた。とれ正しく紳競紳簡である。 ﹃拾遺都名所聞緒﹄四、城南神社の下に﹁桓武帝麗筆の紳名を営世の榊韓とす﹂た
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言ってゐるが、現に城南神 社にはさうした紳読の遺物もたく、まもん桓武天皇麗筆の紳競・なんでいふととは、常識上考へられ・ないから一笑に 附せねば怒るまい。けれども﹃沙石集﹄出離神明樹事の保下に於て、三井寺の長吏会顕借正のととを説く所の c c o c o c D O D O D 0 0 0 0 0 O D ﹁日本画中ノ大小ノ諸紳ノ名ヲカキ奉リテ、此ノ一間ナル所−一請ジ置奉テ、心経三十巻神兇ナンド謂シテ、法 楽 − 一 備 ヘ テ 出 離 ノ 道 、 偏 且 和 光 ノ 御 方 便 ヲ 仰 グ 外 、 別 ノ 行 業 ナ シ 云 一 宮 ﹂ の記事は、後世紳競紳醐躍を産み出すべき一つの過程として一躍考慮に入れねば怒らぬと思ふ。金額といへば文治 六年延暦寺座主とたり、建久四年九月入寂した人であるが、とれを間接若しくは直接の動機として、紳鵠を大幅 にかいてとれを槽拝するの風を生じたのは、予の採集した史料によると、恐らく鎌倉時代中葉以後のととであら う と 思 ふ 。 それに関聯して是非述べねば怒らぬのは天満天神の信仰境運の事賓である。平安時代には専ら怨恨の紳と考 へ、罪悪の罰すべきもの左懲すといふ荒神の意味に考へられた菅紳が、鎌倉時代の中葉から、南北朝時代の絡にか けて、完罪を救ふ紳として、一心一向に祈念する者にはいかたる所願でも必十成就せしむるといふ慈悲救済の神と怒り、迭には後生すらも救ふといふ絶封慈悲の封象としての紳とたった。それがために﹃北野縁起﹄、﹃北野事蹟﹄ といったやうな天満宮の縁起が、衣から弐へと世に現はれたが、一方亦天神講式︵﹁北野誌﹄︶怒るものが編纂され た。該講式の本文によると、 ﹁ 的 詩 v貴 ユ 天 満 天 神 之 威 ﹁ 始 自 − 一 元 久 元 年 之 夏 ﹁ 城 北 之 紳 問 、 毎 月 設 三 十 八 日 之 舎 三 百 云 ﹂ とあるから、天紳講舎も元久元年の夏から始められ売ものであって、それが南北朝時代、室町時代に至ると唯一 個鹿に於てのみ天神講を晶画んだものではたく、建都た津 K 浦 k までもその講舎が盛行されたととであらう。され ば第三節の格に紳影の敷 K を列島唱した中に、天満宮御影がその大部分を占めてゐるといふととは、一面天満天神 の信仰の普及を物語ると共に、他面、此れら天神の霊像が地方に於ける天紳講舎の本掌として祭杷され売事賓を 示すものとして注意せねば怒らぬ左思ふ。永享六年禅僧愚極の作った﹃天満大自在天神賓捜記﹄によると、 夫天満大自在天紳七字之費競者、諸悌心瞳衆生妙用也。天満則詮ユ本樫−也。所謂悌榊無魚、不 v 随 ニ 諸 敢 − 也 。 自 在 則 二 一 脚 用 − 也 。 所 謂 臨 v 費無 v 護 、 本 際 立 ︿ 、 大 之 一 字 、 上 讃 ニ 天 満 之 韓 − 云 云 とあるが如く、天満宮の紳影そのものよりも寧ろ﹁天満大自在天神﹂の神競に威力と債値とを認めた黙と、猶此の 外に、一幅の御影を遺るには必やや悌壷師に依頼せねばたらや、従って入費もかさむといふととから、影像の簡 易化経済化を目標として、夫紳援を採用した賄、かうしたこ難から、天神競の流行を一屠盛んならしめたもので あ ら う 。 33 かかる理由から、室町時代の執筆と考へられうべき天満天神の紳競が、いかにも揮山に現存してゐるのであっ て、予の限幅を得た神崎町の内でも、殆ど大部分がとれを占めてゐるのでもそれがわかる。 神 品 開 分 離 陣 以 前 に 於 け る 枇 寺 本 骨 干 の 史 的 交 渉 一 四 九
日 本 偽 致 事 協 曾 年 報 へ 第 十 三 年 ︶ 一 五
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34 先づ予の探り得たもの L 中で一番古いと考へらる L の は 普 寧 克 庵 筆 の ﹁ 天 満 大 自 在 天 神 ﹂ ︵ 京 都 、 甫 輯 寺 戴 ︶ の 七 字であらう。瓦庵といへば畠山天皇の文臆元年に来朝し、弘長三年に蹄宋してゐるから、その閣の書寓にか L は るととは申すまでも友い。 次に禿氏枯群氏所識の幅中に、天奥の黒印を捺したる﹁南無天満大自在天神﹂の九字の賓競がある。天輿は南北 朝時代の五山借として知られてゐるから、営時のものたるや疑ひはない。以上は鎌倉、及び南北朝時代の紳競遺 品 で あ る が 、 室 町 時 代 に 怒 る と 、 京 都 市 吉 田 一 紳 一 世 k 家鈴鹿氏所離の紳読に﹁木瓜紳﹂と墨書した大幅がある。思ふ に吉田一脚吐本世の北に木瓜紳祉といふ小一粧があるが、恐らくはその祭一脚の名であらう。室町時代初期を下らぬ臆 永頃のものと考へられる。ついで禿氏一師群氏所戴の中に、輸相模様の料紙に﹁慈悲高行菩薩﹂とかいた二幅がある。 何人の筆蹟であるか不明に属するが、筆蹟に非凡友ととろがある。慈悲寓行菩薩といへば春日明一脚の世話口薩競であ るから悌教の影響をうけた紳競として注意すべきであらう。室町時代初期を下るものでない。﹃親長卿記﹄には 0 0 0 0 0 9 0 長享三年三月二十八日、天満大政威徳天は威徳天神殿、只天敷、其故︵不明︶後小松屋筆名競南無大政威徳天ト被
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君
主
と あ る け れ ど も 、 四五年以前、予が四閣の屋島寺にて拝見した所の停後小松天皇の天神競には、﹁天満大自在天神﹂ とあっ売から、今の﹃親長卿記﹄の所設とは異ってゐる o 南都安位寺経魔法印の晴矢と惇へられる三吐託宣文は、とれを瞳拝の封象売らしめんが・ために、天照皇大紳宮 の六字を中央とし、雨脇に八幡大菩薩と春日大明紳の紳競をか t A げ、その下に三社託宣の文を書添へて、とれを 一幅の掛軸と放したものが随分多い。かうして三世及びその託宣文をかいた一幅とそは、亦とれを一種の紳競紳樫と見て差支へは・ない。とれが流行し盛行したのは室町末葉から江戸時代にかけたものであるが、最初にそれが 始められたのは室町時代の文明頃であらう。予も亦文明前後の一一帽を所持してゐる。 三河閤豊川妙巌寺は嘉吉三年開山義易の創立であるが、義易は同寺の境内に鎮守堂を建てヘ茶釈尼天を勧請 し、豊川明紳と稽へもん。現今の鎮守堂には茶釈尼の木像を本律として安置するが、首ヰ寸には別に創立首時に安置 したといふ開山直筆の紳暁がある。 鎮 守 町 板 尼 天 大 菩 薩 東海義易︵花押︶ 義易の自筆であるととは疑ふべくも友い。 曾て数年以前、金津圃書館の神祇史料展観で、本願寺蓮如上人の真蹟と惇へる紳競一幅を見た。石川廓石川郡 正八幡神社の所蔵するととろであって、文字は﹁南無拝師明紳﹂の行書六字である。それが果して蓮如上人の真筆 であっ売かどうか官時の集憶を喚起し得友いが、しかしその雷時のものであうたととは明らかである。 ﹃ 親 饗 聖 人 二 十 四 輩 記 ﹄ 第 六 に は 、 相 模 国 錬 倉 荏 柄 天 一 紳 の 賓 物 の 中 に 、 ﹁ 南 無 天 満 威 徳 天 神 、 鶴 漏 丸 六 歳 書 之 ﹂ の 一 幅あるととを報じ、親鷺墓人の幼少の虞蹟として注意してゐるが、聖人にさうしたもの L あった史賓もたく、ま ちんありさうた理由も友いから、後世に至 h りて聖人に般託したととは明らかである。 けれども親饗聖人幼少の筆と傍へる天満夫紳暁は、世に随分あるものであって、かの江州堅田本訳本稿寺にも ﹁南無天満大自在天神、鶴潟丸﹂の一幅を所蔵するが、予は親しくとれを拝見して蓮如上人の異蹟放るととを知つ 35 抽脚悌分離以前に於ける一位寺本隼の史的交渉 一 五
日 本 偽 殺 事 協 曾 年 報 ︵ 第 十 三 年 ︶ 一 五 36 ち ん 。 蓮 如 上 人 員 蹟 の 十 字 名 競 ︵ 大 幅 ︶ と い へ ば 、 い づ れ も 下 段 の 銘 に ﹁ 愚 禿 親 饗 敬 信 隼 競 ﹂ の 文 字 が あ っ て 、 素人には親鷺聖人の異筆の如くに考へられるけれども、しかし事賓蓮如上人の真蹟売るに於て何等の疑ひもな い。思ふにとれは蓮如上人が宗祖の代筆を友さるつもりでの御執筆であるから、宗祖の同県蹟を低本としてそのま L を謄第し、決して自名を加へたかったがためであらう。坊聞に敷多存在せる蓮如上人員践の六字名競を見て も、それには何れも自署のないととを特色とするが、︵山城木津願泉寺所識の六字名鵠のみは蓮如上人の自署あれ ど、とれは特別のものと考へられる︶とれは蓮如自らが筆を執るのではゑい。宗祖の代筆をするのだといふ蓮如 上人の、名旗本隼を製作する時の敬慶たる態度の表現として一一暦床しく思はざるを得たいのである。 かくの如く堅田本幅寺所臓の天神競を初めとして、美濃園本波養教寺にも︵明治四十三年本源本願寺﹃費物集費 合目録﹄による︶、又もん長演八幡宮にも、九字の天神競に、﹁鶴充丸六歳書之﹂を書を添へたものが現存するから、 室町時代にはさうしたものが親饗聖人の御名によって仮託せられ流行されたととは明らかである。 一 見 、 室町時代の末葉戦闘時代にたると、豊臣秀頼の八歳の書と惇へた豊圏紳競一幅︵鈴鹿三七氏蔵︶がある。とれは 代筆ではたくて全く秀頼の自筆と考へられる。かくて江戸時代になると、敬神障依の封象として盛んに紳披を用 ひ、とれを紳韓とするの風習を生んだが、江戸時代末葉から明治大正時代に友ると、由緒ある紳一世では、神崎肌を 木板若しくは石版を以てとれを印刷し、冥加金にようて参拝者に頒布したものである。 今、以上述べ究所の諸神読をば除き、予の探訪し得た史料の内から、紳競に閲するもの一一一一一を例誼として抄出 すれば左の如くである。 ー、俸後湯成天皇御笈筆 ﹁ 南 無 天 満 大 自 在 天 神 ﹂ 騒 四 関 屋 鳥 寺 嬢
宮、後水尾天皇御震筆