はじめて法華弘通の旗印として額はし奉る怒り︒とれ全く日蓮が自作にあらや︑多費塔中大牟尼世律 分身の諸備すりか党ぎたる本曾たり︒きれば首題の五字は中央に掛り︵中隼中軸︶︑四大天王は費塔の四方に座
し ︵
外 護
外 輪
︶ ︑
韓 迦
多 賓
本 化
の 四
菩 薩
屑 を
並 べ
︵ 本
悌 本
脇 士
︶ ︑
普 賢
文 殊
等 合
弗 利
日 蓮
等 座
を 屈
し ︵
大 衆
容 麗
︶ ︑
日天月天第六天の魔王龍王阿修羅︵天龍諸部︶︑其外不動愛染は南北の二方に陣を取り︵明王部衆︶︑悪逆の謹多 愚痴の龍女一座を張り︵二箇諌暁衆︶︒三千世界の人の露命を奪ふ悪鬼売る鬼子母神十羅剃女等︵羅利衆︶︑加之 日本園の守護紳売る天照太神八幡大菩薩︵日本祖廟﹀︑天神七代地神五代の紳ぺ綿じて大小の紳祇等︑韓の神
列 る
︒ 其
余 の
用 の
紳 宣
に 漏
る べ
き や
︵ 園
紳 冥
揖 ︶
︑ 費
塔 圏
に 一
式 く
︑ 接
諸 大
衆 皆
在 虚
昼 一
苫 云
︵ 虚
空 舎
相 ︶
︑ 此
等 の
悌 菩薩大要等︑組じて序品列座の二界八番の雑衆等一人も漏れや此御本傘の中に位し給ひ︵法界綿揖︶︑妙法五字 の光明に照され本有の隼形とたる︑是を本隼とは申怒り︵輪園具足︶︒
いはど経題を書いたどけでは本隼としては飴りにも単純であるから︑字形の上に意匠を加へ︑更に経中に説く 年
の 比
︑
日本偽数挙協曾年報︵第十三年︶
七 56
五月十五日﹂の銘文の存するととが普通の本隼と相異してゐる︒弘安四年五月といへば蒙古の大軍が日本侵略の ために出費した謹上にあるから︑恐らく日蓮悪人が護園の祈りを捧げて作ったものと考へらる
L
のであって︑と れをば日蓮宗では大日本園護僚の本掌と呼んでゐる︒
今情k
日蓮宗と真宗との闘係を見るに︑雨者は既に平安時代の中葉︑営時の深薄たる教界から隠遁して異撃に 法を求めんとする一圏の内にその蔚芽を認むるととができる︒即ち一は念悌者の流れであり︑他は持経者の流れ であるが︑かうしたこつの潮流は還に鎌倉時代に至って一は専修念悌の開立とたり︑他は日蓮婁人の唱題とたっ 売︒かくして出来上ヲ売二宗が共に関東に行はれ︑地盤の同一たる関係から︑題目本隼の出現が一方真宗の悌名 本隼の影響を受けたととは明らかに看取せられると共に︑更に伊豆玉津の妙法華寺に偉来する霊像の十界憂茶羅 の如をは真宗の光明本隼を手本として出来上つ売ものと考へられるのである︒尤も巌密にいへば光明本隼と重像
倹た
ねば
なら
ぬが
︑ の十界長茶羅につき︑雨者の中いづれを前とし︑いづれを後とするかの前後の問題については︑猶今後の研究を
しかし双方の聞に闘係交渉のあったととは何としても否定するととはでき汝い︒
第三章
神社紳樫と悌数本骨骨との史的交渉
上来︑明治維新以前に於ける紳枇の紳韓並に悌教の本隼につき︑それよ\その護展の概要と︑紳韓及び本隼の
種
kたる形式を一瞥し売のであるが︑今雨者の護展順序乞封照してみる怒らば︑置に符節を合せたるが如く齢りに もよく相似た経路たるととに驚くものである︒即ち紳怖いづれも影響たき日本及び印度の古代に於て︑
一方
印度
に於て塔︑塾樹︑伸座︑法輪︑悌足跡︑主賓標を初め経行所︑馬︑摩耶夫人等を象徴的に使用し売所の器物本隼 は︑恰も臼本に於て鏡︑玉︑武器︑石等を一脚轄としもん器物紳樫とはいかにもよく相似てゐる︒とれら相互の聞に は決して影響や関係はないから︑宗教の護生及び護展過程に於ける偶然の一設と見・なければ友らぬ︒
しかるに欽明天皇七年我が大和朝廷へ悌教の公渡以来︑外来の悌較文化は日本に於けるあらゆる文化面へ接蝿 し侵潤したものであって︑我園故有の所謂古神道に影響したととは申すまでもたい︒とれによって紳世に於ける 器物紳韓の中にも︑舎で見るとと友き如意費珠︑悌舎利︑鎖塔︑経典︑五輪塔等の如き悌教的色彩あるものを生 やると共に︑従来神鏡として紳耐に秘め蔵められた鏡面に︑悌菩龍像を添附して所謂懸悌怒るものを生み出すに 至った︒きればかくの如く悌教から神世への影響が大部分を占むるものであるが︑しかし一面懸悌の如きは榊世 より悌教への影響と考へられぬととは友い︒共に ー︑古く悌教そのもの
L特異性として包容性を有するとと
2︑悌教の教理内容として本誼思想を有するとと
3︑我園の閤民がその性能として︑あらゆる外来文化を吸牧し阻暢しとれを同化する力に宮めるとと等
以上のコ一つの理由によって︑我園に紳伸を調和せしめ売本地垂述思想の護生を見︑
とれ
によ
って
︿能
一脚
枇に
於け
る器物紳瞳から影像紳瞳へと改費せしめたととは︑賓に悌教が一神世へ興へもん影響の中︑最も大たるものであら う︒本遮思想が奈良時代に萌芽し︐次第に護展して還に鎌倉時代にその果賓を結んだととは︑践にせ善之助博士の
﹁日本に於ける本地垂遮の起原及び稜達﹄に見ゆる所であるが︑本遮思想の稀薄怒る営初に於ては︑紳像若しくは 紳影にしても俗糧危るものが多く︑本遮思想の濃厚に・なれば唱なるほど俗樟より法韓へと推移したものである︒而 57
紳偽分離以前に於ける舵寺本骨干の史的交渉
一 七 一 一 一
日本偽教事協曾年報︵第十三年︶
一七 四 58
してそれは勿論紳粧の本殴に安置する正鵠についての俗障なるや借煙たりやの吟味であるが︑神世の本地堂や紳 宮寺に於ては︑その本隼が祭紳の本地を頴はしたものである以上︑それは何れも悌菩薩の像であって︑それが法 韓であるととは申すまでもない︒
かくして奈良時代末葉から史上に見え出した紳吐の影像一紳韓は︑日本固有の器物紳韓と共に並び行はれて︑迭 に江戸時代に至ったが︑その聞に於て紳祉に於ける紳韓が悌教から受くる第二の影響として見逃すととのできぬ のは︑賓に親驚聖人の創始した伸名本零の影響であらうと思ふ︒親鷺聖人の悌名本傘は前にもとけるが如く︑悌 教本隼史に見ゆる特異友存在であるから︑それが紳枇への影響は勿論のとと︑貫く一般各宗祇への影響も甚大で あるから︑とれらを検尋してその史賓を究明し︑以てとれを本稿の結語としたいと思ふ︒
﹁蹄命謹十方無碍光如来﹂︑﹁南無不可思議光悌﹂︑﹁南無阿繭陀伸﹂等の阿繭陀悌の名競を以て本隼とする偽名本 隼は親饗墓人により創始せられてより認に七百年︑今猶真宗十誠の本山より各祇の末寺及び門信徒に下附せられ て今日に至ってゐる︒而してとの本禽が他宗及び紳吐へ封し︑
いかたる影響を興へたものであらうか︒今とれを
順共
に年
代を
迫ふ
記て
述し
もん
い︒
先づ最初に影響左うけたものは日蓮宗の開祖臼蓮上人であるが︑とれについては既に説く所である︒弐には時 宗の開祖一遍上人︵皇紀一八九九
i
一九四九︶を奉げねばたらぬ︒一遍上人が熊野樺現の紳勅によって︑
南無阿踊陀伸一藷一定 の名器の算を荷ひ︑人類救済に遍歴遊行しつ
L︑此の算を賦って決定往生の記別を授けられたととは飴りにも有
まで
もた
い︒
名であるが︑浄土教信者にとっては︑か
aA
る六字の名競が︑調陀一⁝怖の本骨格名親として瞳拝せられたととは申す
つい
で 第三次に至って漸く影響せられたのが親鷺墓人の師法然上人によって開宗された浮土宗である︒私共は常識的 に念伸者の法然上人が悌名本隼を用ゐられたととは自明の原理の如くに考へてゐるけれども︑その史詮は一︑とし て護見されない︒昨秋本山知恩院に於て計らやも西山詮宰上人の真蹟と倖へられた名競の一幅を拝見したが︑恐 ら︿とれが此宗に於ける最古のものであらう
o
絹地一ヱ枚を糧いだ堅一尺六寸横八寸強の大きさであって︑左の如 き三象形式の三名競である︒
南無
観世
音菩
薩︵
蓮座
︶
汝 若 不 能 念 者 膝 穏 無 量 毒 偽 如 是 至 心 令 灘
・ 不 絶 兵 足 十 念 稽 南 無 阿 禰 陀 偽 稽 偽 名 競 於 念 セ 中 除 八 十 億 劫 生 死 之 罪 臨 終 正 念 金 花 木 藤
寛元四年十一月三日
仮 名 菩 薩 沙 門 謹 空
南無
阿繭
陀悌
︵蓮
座︶
南無勢至菩薩︵蓮座︶
下段の銘文は観経下K
品の
文と
︑ 善導散善義の文であって︑
とれら銘文の筆蹟はいかにも古拙を帯びてゐる 59
が︑一ニ名器の文字は何と友く筆勢が弱く︑世に詮忠一上人筆の断簡と稿へられものに比して︑運筆の上に多少の相 異がある︒しかし若しかりにとれが詮昼の翼蹟で友く︑たとへ南北朝時代以後の筆蹟であったとしても︑営時に
紳悌分離冊以前に於ける枇寺本骨干の史的交渉
一七 五