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員宗連合墜曾研究紀要
一 第 十 五 輯 一 一
昭 和 45叩 11月
︵ 口 絵 解 説 ︶ 坂 東 報 思 十 一 寸 安 置
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本木像は廿四輩第一番性信の旧蹟東京都台東区東上野町六丁目報恩寺に安置せ られる親驚聖人像である。もともと報恩寺は結城郡横曾根︵現水海道市豊岡︶の 地にあり、所謂横曾根門徒の中心道場であったが、慶長初年江戸開府とともに都 内に移転した。従ってこの像は、横曾根以来の伝統をになっており、伝えて宗祖 六十三才帰洛に際して性信にさずけるところという。ところで本像に於いて通途 の但像と異なる点、か二つある。一はその特徴とする首にまかれる帽子︵もうす︶ がないこと、他は右手に払子をもたれていることである。実はこれらによって説 をなすむきもあるが、幅子のないのは盛岡本誓寺の蓮冠御影と称されるのにも例 があり、払子の存在は、当寺故地水海道市の支院の性信像、性智尼像︵室町︶に それぞれみえ、延暦三年在銘の高田専修寺別院の顕智像もそうである。何よりも 頭部のいわゆる大もん頭ともいうべきその形、小さ眼い、特に高い頬骨と長い鼻 の下等、それらは銃御影以下が示す典型的な聖人の顔貌の特質であり、全体とし て南北朝を下らぬ聖人像の秀作となすことが出来よう。なお報恩寺では本像を真 宗寺院通途の脇壇でなく、正面須弥壇上に弥陀仏と並んで安買するという特異な 形 式 が と ら れ て い る 。 ︵ 藤 山 ︶ ん 上 古 同 肩 幅 ヤ ト 丸 一 日 田 H Z b p 部 七八糎 四O
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妙好人の内省的自律性について
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1 1 主として宗祖について|| 本 実 円 ︵ 一 ︶ 崎岡
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明 ︵ 一 一 一 一 ︶ 麿 ︵ 二 一 ニ ︶ 道 ︵ 一 歪 ︶ 庄 ︵ 四 一 ニ ︶ 旭 ︵ 五 回 ︶精神主義をめぐる二三の問題::::
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1 1 宗教的自覚の観点から||宗組の法体大行説の思想背景︵承前﹀
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四法建立の基礎的問題
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J 善 導 大 師 集 記 、 五部九巻一々の集記年次を決定することは非常に困難なことである。したがって、順序次第も主と してその教義の内容から、あるいはその文飾の巧拙より論じられている。今ここで﹁法事讃﹂をとりあげたのは、善 導著作五部九巻の中で、比較的に、 その集記年次を想定するについてふさわしい文があると思うからである。 ﹁法事讃﹂にて注意した文は、巻下末尾の随意の文と、それより少し前にある皇家万福などの三事を願う、二文で あ る 。 ま ず 初 め に 随 意 の 文 は 、 応 レ 知 。 送 レ 経 致 = 何 処 づ 送 至 一 一 摩 尼 宝 殿 中 寸 送 v経 致 一 一 何 処 ﹁ 送 至 一 一 龍 官 大 蔵 中 吋 送 レ 経 致 一 一 何 処 ﹁ 送 予 ユ 四 方 石 窟 宝 函 ① 中 吋 と あ る も の 是 で あ る 。 右随意の文は、善導が摩尼宝殿・龍宮大蔵・西方石震の三ケ処へ送経されたことが窺える。この﹁法事讃 L は送経 の 法 要 に 造 ら れ た も の か 、 または以前から造られていて随意の文が加えられたのか、 い つ 、 ど こ へ 、 だれが経を運ん で行ったのか全くわからない。そこで右の三ケ処がいったいどこかということがほぼわかれば、この問題をとく手掛 かりになるのではないかと思い、以下に試論として述べてみたい。 ﹁ 法 事 讃 ﹂ 製 作 年 次 の 一 考 察﹁ 法 事 讃 ﹂ 製 作 年 次 の 一 考 察 @ 第一に摩尼宝殿のことである。摩尼は宝珠と訳されている。ある説には日空肢という意味もあるという。 日 空 殿 へ 、 まさか善導が送経したとは考えられない。 また摩尼宝殿というのは摩尼教の廟を指したのではあるまいかという疑い も一応は起る。善導当時には少なくとも西域地方には摩尼教が伝わっていたであろう、しかし摩尼教が支那へ公伝し ③ たのは武后の延載元年︿六九四︶であって、華同一等滅後十三年日ごろにあたり、しかも異教たる摩尼教の宝殴へ送経せら れたとも思えない。そこで﹁大集経﹂に眼を転じてみたい。 ﹁大集経﹂の護塔品に西塵尼耶以下の二十支提所の聖人所処名をあげ、その第二十支提所には、 復以閤浮提内、子関国中、水河岸上、牛頭山辺、近河岸側、 ④ 王﹁守護供養、比大阿羅漢・得果沙門・五通神仙諸聖住処。 程 摩 婆 羅 呑 大 聖 人 支 提 住 処 、 ザ属吃利詞婆達多龍 ⑤ とあり、耳目訳﹁華厳経﹂の菩薩住処品にも子闘国を辺夷国と名づけ、玄界の﹁西域記﹂の塑薩旧那国の条下には牛頭 ⑤ 山を程室館伽山と記している。現在のコ l マリが牛頭山である。護塔品に一言う水河岸上の水河は﹁正法念経﹂の程摩 ⑦ 帝河であり、現在のカラ・カシユにあたる。程摩婆羅香大聖人の名をとって塵摩帝と言ったのであろ切。 程一惇帝河の近河岸側に塵摩帝寺があり、西紀四
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一年には法顕が三ヶ月間滞在した寺で、玄界もまた詣でたところ である。この程摩帝寺は、伝説として三世諸仏・菩薩・阿羅漢などの因縁の場所であり、遣法を敬崇し、大乗を遵守 すべき聖地として、支提ともあるいは霊尽ともいわるるところであった。この子関からは五十余部の大乗経典がもた らされたことをみても、大乗仏教東漸の中継地として重要な役割を果している。 たとえば﹁華厳経﹂の党本も子聞か らの入手であったことは今さら申すまでもないことである。﹁子闘国史﹂によると牛頭山の伽藍は伏闇耶毘耶王が建立したと伝え、牛頭山寺と塵摩帝寺との二伽藍があったこ とは、玄引が実地に見たことと一致している。 ﹁
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開 国 懸 記 ﹂ を み る と 、 げにこの地は三世諸仏の因なり、特に牛頭山は諸仏の宮殿なり、コ一世諸仏はすべてこの処に集りて有情を利益し、 ⑨ 諸仏国より千二百の菩隆は牛頭山に来集し、法会を修して還へり給へり。 とて、牛頭山を指してゴ二世諸仏の宮殿﹂と讃えられている。 ﹁華厳経﹂の入法界品に甚深難解の徳に喰えて、摩尼 の語が盛んに出てくるのも不思議である。 法顕や玄非が親しく見聞した仏教隆昌のすがたも、十九世紀末より二十世紀初頭にかけて繰り出された西域探険隊 の報告によれぽ、往昔のすがたは既に消え、見るかげもなく荒廃していたという。 四 五O
年ごろには吐谷海の菓利延 が北親大武帝の派遣した高涼王那に追われて子聞に逃亡し、 王那は子闘を制圧して牛頭山下の伽藍の大部分を焼き払 ⑩ ぃ、国土を荒涼させ、再び伽藍の建立をみなかったといわれる。また六世期初頭に突如として印度に現われたエフタ ル の た め に 、 グプタ王朝も崩壊の危機に直面した。 エフタルのミヒラグラ王︵五O
一 ー ー 五 回 二 ︶ は 関 賓 の 塔 寺 を と こ ご とく破壊してしまった。その勢カは東は子閥、西は波斯におよび、末法々滅の時きたるの感を深くさせた。このミラ グラの破仏は、早くも子閣の那連提耶舎によって﹁蓮華面経﹂︵五八四︶の主役として訳出されている。 ⑪ ラ王の破仏は末法のとき来るの危機感となって、陪・唐の仏教界に大きな影響をあたえた。支那浄土教にあっても道 ⑫ とくに善導にあっては多くの写経・浄土変相が作成されて、西域その他へ送られたのも間 このミヒラグ 神 ・ 善 導 へ と う け つ が れ 、 接的にその影響があったからではないかと思う。 善一等が送経した摩尼宝殿とは、牛頭山の支提を指しているのであろう。 第二に龍宮大蔵とはどこであろうか。西域に仏教が流入したのはおよそ一・ご世期ごろといわれている。芝、ず店側賓 ﹁ 法 事 讃 ﹂ 製 作 年 次 の 一 考 察﹁ 法 事 讃 ﹂ 製 作 年 次 の 一 考 察 四 に根拠をもっ有部の小乗教が、 シルクロードを通って北道の亀五および高昌で栄え、南道に出ては、子闘を中心に大 乗 教 が 伝 え ら れ た 。 北道の亀誌に関して玄界の﹁西域記﹂を見るに、屈支国の条下には伽藍百余所、僧徒五千余人、小乗の説一切有部 を修学し、国の東の境、城北の天嗣の前に大なる龍池があり、龍駒を産するという、滑子河岸に照枯麓・阿審理弐伽 ⑮ 監の仏像の荘厳はほとんど人工に越えていたと記録されている。玄幹訪印当時の亀+訟の仏教がなお盛んであったこと が し の ば れ る 。 一 九
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三年四月、大谷探険隊の渡辺哲信・堀賢雄両氏は亀惑に到着、品用控北西のキジル千仏洞を探訪きれた。 し カ、 し千仏洞は既に荒廃していて、仏頭片・経典片のみの落ち穂ひろいの有様であったという。 また宋欧陽惑の﹁輿地広 記﹂の記事と千仏洞附近の地形を比較して、その記事の正しいことを認められている。それは、 過大龍谷千仏洞、蹴山至突騎雁州、西至躍換城、由北山口二百里。 ⑬ という記録である。突騎雁州とは亀五東方の荒巻であるし、援換城とは姑墨のことであるから地形は正しい。 大龍谷千仏洞とはムザルト河︵沼子河︶が庫草︵亀弦︶の方へ南曲する地点で、砂岩の崖上に掘削され、 河の両岸に そって大小およそ百数十の洞窟と、さらにその背後の渓谷に第二第三群の造窟があり、盛時にはおそらく二OO
内 外 の洞窟が、丹青さんらんとして渓谷に輝いたであろう。その景観は見るものをして、さぞ、龍官もかくやとばかり映 っ た こ と と 思 わ れ る 。 第一回大谷探険隊の千仏洞での収穫があまり芳しくなかったかわり、第二凹の橘瑞超氏は一九O
五年に吐魯番附近 の吐陥溝の窟院祉から多くの古写経を発見、その中には年次不明の﹁往生礼讃﹂の断筒、践尾に、 ⑬ 願往生比丘善導願写弥陀経云云とある断簡を発見せられていることは、あまりにも有名で改めて申すまでもない。その他に﹁無量寿経﹂・﹁観無量寿 経﹂・﹁阿陀弥経﹂・﹁諸経札機儀﹂異本ウイグル語﹁観無量寿経﹂などの断簡を発見、中でも﹁諸経要集経﹂は、 ⑮ 元康六年三月十八日写巳 と記す、二九六年という古写経であった。 吐魯番近くの吐谷溝や交河城の古祉の砂中から数多くの写経類その他が出土し、特に善導の真筆と目される﹁阿弥 陀経﹂の断簡の発見は、北道の高昌や亀五へも善導の送経が届いていたことを物語るものである。もし亀認のキジル 千仏洞が荒廃さえしていなければ資料も出たであろう。善導が龍宮大蔵と指すところは、 おそらく亀慈のキジル千仏 洞であったろうと想像される。 第三に西方石窟である。西域において石窟と言われるものは、先のキジル千仏洞と敦煙の千仏洞である。 一 八 九
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年 三 月 、 イギリスの軍人パワが亀惑において貝多羅葉に書かれた、党本の古経を発見したのがきっかけとなって、世 界の注目は中央アジアの探険に向けられたのである。主なる探険隊をあげれば、 イ ギ リ ス の ス タ イ ン 、 フ ラ ン ス の ベ リオであった。この両氏は敦位のみでおのおの数千巻におよぶ出土品を持ち帰っている。 第三回大谷探険の橘瑞超・古川小一郎両氏も一九一一年から翌年にかけて、敦煙鳴沙山の莫高窟を訪れ、完結した ⑫ ﹁阿弥陀経﹂およひ﹁法事讃﹂を入手されている。 莫高窟は前秦の建元二年︵三六六︶に僧楽停が初めて一窟を造ったとも、また、。へリオ将来の敦惇本﹁沙州地誌﹂の ⑬ 断簡をみると、東菅の永和九年︵一二五一二︶に初めて造られたともいう。いずれにしても年を追おて造窟が進むにつれて、 経典・仏画などの、平常に必要なものが整備されたものと考えられる。その莫高窟がいつごろ密封されたのか、 ょ く はわからないが、矢吹博士の説では、宋の真宗︵九九八一O
一 一 一 己 ・ 仁 宗 ︵ 一O
二 一 五 ︶ の 記 録 が 最 も 新 し い か ら 、 そ の ﹁ 法 事 讃 ﹂ 製 作 年 次 の 一 考 察 五﹁ 法 事 禁 ﹂ 製 作 年 次 の 一 考 察 ム ノ 、 ⑮ 頃の西一度の東方侵略の難を免れるために、寺僧が石窟内に穏したものではないか、 と 想 像 さ れ て い る 。 善導の西方石窟宝函と言われるのが、 莫高窟であろうという資料は殆んどないと言っていい。 強いていえば先の ﹁阿弥陀経﹂と﹁法事讃﹂が現われたことと、石窟という千仏洞の存在することのほかには何一つない。 前述の亀忍・子聞は﹁絹の道﹂の東西交通の重要なオアシスであると同時に、大・小乗仏教東漸の中継地でもあっ た。その西域を締めくくるところは敦惇である。この三ケ所は仏教流伝に重要な役割を果したところである。普導の 送経また三ケ所であり、西方石窟は敦但莫高窟を指しているのではないか。左に岩井大慧氏の文をあげて、この項を 終 わ り た い 。 ここに摩尼宝敵、龍宮大蔵と並び書せる西方石窟宝函とは、果して何処を指しているかは、速断は許さぬけれど も、これを前述の西方石窟から出土した事実と対比し、彼此思ひ合せ考ふるとき、頗る興味深きものあるを想は @ ざ る を 得 な い 。 随意の文が現在の和闘・庫車・敦埠をそれぞれ指すだろうという想定が許されたとしても、 ﹁法事讃﹂がすでに作 成されていて、後に随意の文が臨時に加えられたものか、作成と同時であったものか不明である。 ただ皇家万福以下 を願う文は、すくなくとも﹁法事讃﹂製作年次を割り出す唯一のものであろう。その文は次のごとくである。 叉願此功徳、資ニ益大唐皇帝寸福基永岡、聖化無レ窮。 叉願皇后慈心平等、哀ニ思六百サ 自 マ ヌ 願 皇 太 子 承 一 一 関 心 厚 地 ﹁ 同 一 一 山 岳 無 τ移 、 福 命 唐 々 無 レ 尽 。
右の文は大唐皇帝・皇后・皇太子の福徳を願う、中でも皇后の文は前後と異るようである。議ロ導の生涯は隔の大業九 年︵六一一一一︶より唐の永隆二年三月に至る六十入年間である。その聞の大唐の三皇が誰であるかということを見ればよ ぃ。善導の生涯には高祖・太宗・高宗と代がかわっている。高祖が崩御したのは善導十四歳である。次の太宗の代に 三皇がそろうのは、太宗即位の翌貞観元年︵六二七︶に入歳の承乾が皇太子となり、文徳皇后とあわせて三皇となる。 文徳皇后は貞観十年六月に崩御、そのとき善導は二十四歳の若年であった。 @ ﹁瑞応伝﹂によると、受戒ののち妙開律師とともに﹁観経﹂を看ると伝えている。もし満二十歳受戒とすれば﹁続 @ 高僧伝﹂に記すように、寅寓を周遊して修学中か、あるいは訪縛中の時機と考えられる。同じく﹁瑞応伝﹂に西河に おいて東都英法師と善導との会談の記事があり、華厳の道英であれば文徳皇后に次いで貞観十年九月に示寂している。 この記鋸によれば善導はすでに道紳のもとにあって修観中のころであろうし、著作に恵念する時機ではなかろう。 文徳皇后はまれにみる淑徳高き賢夫人であったらしく、高祖・太宗によく奉事し、 また高祖の妃績にも承順して惇 ることがなかったといわれ、﹁女則十篇﹂﹁馬后論﹂などの著述さえあったほどの婦人であった。 かかる賢夫人に対し て、善導が皇后慈心平等・哀感六宮という願いをかけるであろうか。 ⑮ く帰依されていたことも知られている。 まして太宗とともども、道紳の高風を慕って深 太宗が貞観二十三年五月に崩御するや、貞観十七年に皇太子治が即位して、王妃を立てて皇后とし、永徽三年七月 ︵六五一︶には後宮劉氏の生んだ十歳の陳王忠を皇太子に立てた。 ﹂ こ に 三 皇 が そ ろ う の で あ る 。 ﹂ の 年 は 善 導 す で に 四 十 歳 の 壮 年 で あ っ た 。 ひる、かえって、先の太宗は文徳皇后崩御の翌年に、十四歳の武氏を才人として後宮に入れ、太宗崩御のあと多くの 妃績たちとともに感業寺に尼僧の生活をおくつていた。永徽三年五月の太宗の忌日に、高宗は感業寺に詣でたおり、 ﹁ 法 事 讃 ﹂ 製 作 年 次 の 一 考 察 七
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t 法事讃﹂製作年次の一考察 八b たまたま、高宗を見た武氏は紅一民潜々としてくだり、高宗もまた落涙した。これが奇縁となって、実子のない王后は 粛淑妃と高宗との聞を嫉妬して、二人の仲を割かんがために武氏を後宮に入れるよう高宗にとりはからうのである。 かくして武氏は後宮に入って昭儀となり ついに永徽六年十月︵六五六︶高宗は王后および粛淑妃を廃して庶人とし、 昭儀武氏を冊立して皇后とした、 の ち の 則 天 武 后 で あ る 。 武氏皇后となるや、恩義のある王后および粛淑妃を故あって惨殺し、武氏の皇后冊立に反対であった太宗以来の重 臣楕遂良も、安南の愛川に左遷されて、そこで卒し、あまつさえ追削された。 また文徳皇の兄長孫無忌も同じく佐川州 に 流 さ れ 、 つ い に 殺 害 さ れ て い る 。 ﹁旧唐書﹂や﹁資治通鑑﹂に記している武后の行動を、 そのまま信ずるわけにはゆかぬとしても、もしそれが事実 にちかいとすれば、この武后の残虐行為にこそ、皇后慈心平等・京慰六官と願わざるにはいられなかったのではない か。善導の大著﹁観経四帖疏 L は意提夫人を主人公とする王舎城の悲劇が発端となって説かれた﹁観経﹂の註釈書で ある。章提夫人は仏陀に告白して、 唯 願 世 尊 、 為 レ 我 広 説 下 無 一 一 憂 悩 一 h 処 。 我 当 ↓ 一 往 生 吋 不 レ 楽 − 一 間 一 浮 提 濁 悪 世 一 也 。 此 渇 悪 処 、 地 獄 ・ 餓 鬼 ・ 音 生 盈 満 、 多 二 不 善 要 願 我 未 来 不 レ 間 一 一 悪 声 ﹁ 不 レ 見 一 一 悪 人 工 / 向 ニ 世 尊 ﹁ 五 体 投 地 求 哀 憤 悔 。 唯 一 勝 、 仏 日 、 教 レ 我 観 一 一 於 清 浄 業 向 吋 と訴えている。善導は簡潔に、 ③ 一 士 一 口 一 一 願 我 末 来 一 巳 下 、 此 明 下 夫 人 真 心 徹 到 厭 一 一 苦 裟 婆 吋 欣 一 一 楽 無 為 一 永 帰 中 常 楽 勾 と解釈していられる。右の文は、現実の三悪道の苦悩にあえぐ女質の章提が仏道に救われてゆく過程を示すものであ る。武后の目をおおう残虐行為は、 王舎城の悲劇に勝るとも劣らぬ地獄絵図を、ここ長安域内に繰り広げられたので あった。この現実の救いようのない相が、善導の目にはどのようにうつったであろうか。@ 顕慶元年正月︵四四六︶皇太子忠を廃して梁王となし、武后の実子五才の代王弘を皇太子とした。 しかもこの年式后 は李哲を出産している、後の忠宗である。このころ善導は四十四歳になっていた。 この李哲の出産に対して特別な関心をはらったのは一世を風醸した玄拝であった。玄界は李哲の出産満三日にして、 三帰を受け、法服をつけて僧数に加え、仏光王と名、ずけられんことを高宗に奉表して、その請いは聞きとどけられて、 @ 満一ヶ月後の十二月五日にとり行なわれている。満三ヶ月後の玄弊の上奉には、如来の嗣あるを喜ぶ、とか、人王の 胤を移して法王の子となし、とも述べている。 このような玄界の言葉からも、玄弊の意図が奈辺にあったのか理解に苦しむところである。玄非も善導より以上に、 王宮の悲劇はよく承知していたはずである。思うに北魂大武帝︵五七
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︶・北周武帝︵六七四︶の二大破仏をうけて、漸 く末法思潮が問題とされつつあった折から、玄界の帰唐は当時の仏教界に新息吹を与えたにちがいない。 まして太宗 ・高宗の篤い庇護を蒙って訳経に専念できた玄弊にとって、再び法難が繰り返えされることなく、仏教興隆の命運を、 仏光王の生誕という一事に、全期待をかけたのではあるまいか。 皇太子弘は生れながらにして病弱であったらしく、西明寺建立の動機は、 ⑫ 顕 慶 元 年 、 高 宗 為 一 一 孝 敬 太 子 病 愈 一 所 レ 立 、 大 中 六 年 改 為 一 一 福 寿 寺 サ というのであった。孝敬太子は誼で、上元二年︵六四七﹀に武后のために斡州で二十四歳を一期として毒殺されたとい ぅ。善導が皇太子福命唐々と願っているのは皇太子弘のことであろうと思う。 次に冥衆祐助・幽趣得脱の文は、 叉 願 天 曹 ・ 地 府 ・ 閣 羅 ・ 伺 命 、 滅 一 一 除 罪 障 一 注 一 一 記 善 名 寸 @ 又 願 修 羅 息 一 一 戦 誇 ﹁ 餓 鬼 除 一 翫 虚 ﹁ 地 獄 与 − 一 畜 生 ﹁ 倶 時 得 一 一 解 脱 吋 ﹁ 法 事 讃 ﹂ 製 作 年 次 の 一 考 察 九﹁ 法 事 讃 ﹂ 製 作 年 次 の 一 考 察
。
と 言 わ れ る も の で あ る 。 こ の 文 は 、 ただ冥衆や幽趣のこととしてのみに解してよいのだろうか。善導の真意は当代の王宮を含めて、現実社 会の動乱の世相を語っているのではないかと考えられるのである。 太宗の﹁貞観の治﹂は稀にみる世界的文化を形成した善き時代であった。 し か し 、 その文化は均田制のうえに築き あげられた、貴族を中心とした政治であった。 大宗晩年には二回の高勾麗討征も失敗におわり、その遺志は次代の高宗に引き渡され、永徽六年には高勾麗を討ち、 顕慶元年より西域では西突厩が反抗したので、同年二月には蘇定方・斐行険をさしむけて平定した。そのときの浮虜 ⑥ 人畜合せて四十余万という。また三年後には高勾麗・百済を完全に平定した。唐朝の西域経給は、貞観十四年に漢民 族の植民地であった高昌を討ち、貞観二十年には亀蕗を討って、同二十二年安西都護府を亀葱に置いた。 かくのごと く全国に六都護府を置き、六三四の折衝府があり、主として関内・河東・河南に多く、関内に二七三、京兆に一三一 と、およそ半数にちかい折衝府が長安を中心として配置されていた。これらの壮丁は農民の徴発であり、京兆では農 民の寛郷への移住は壮丁の減少をきたすという理由から禁止されていたけれども、貞観十八年には止むをえず寛郷へ かつ根碓を所有し、水利潅翫を害し、農業を妨げ、 の移住を認めねばならなかった。永徽中には世業口分田の売買を禁止したため、貴族・豪富などが土地兼併を行ない、 ために農民の貧しい者は失業して他郷へ逃亡する者もあっ加。 広大な土地をもっ唐朝は毎年どこかで災害が起る。たとえば、永徽四年入月には、 @ 院 石 一 十 入 千 同 州 之 鴻 朝 、 有 レ 戸 如 レ 雷 。 といって、武后は驚いて政治のよしあしを側近に尋ねたほどである。翌五年五月よりは、 丁丑夜大雨水源暴溢漂溺麟遊懸人及当番街士死者三千余人。六月恒州大雨呼陀河溢溺五千余家。笑丑蒲州扮陰懸@ 暴 雨 漂 溺 居 人 浸 壊 直 合 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 丙 寅 河 北 詰 州 大 水 。 ま た 、 氷 徽 五 年 十 月 に は 、 @ 雇 ニ 薙 州 四 万 一 千 人 一 築 ニ 長 安 外 郭 一 三 旬 而 畢 。 顕 慶 元 年 九 月 に は 、 @ 括 州 暴 風 海 溢 溺 ニ 四 千 余 家 吋 とあるが、右は一例を示したにすぎない。 唐代は前述のように、均田制・府兵制・租調庸の制度下にあり、うちつづく遠征と、農民の徴発は農業の生産を低 下させ、貧しい者は耐えられず、他郷へ兆亡する者、あるいは流民となる者が多かったといわれている。 善導の息修羅戦詩の願いは、 かかる時代の現実のすがたを悲痛するあまり述べられたのではないかと考えられるの で あ る 。 以上を要約すれば、善導大師の﹁法事讃﹂製作年次は、 おそらく高宗・武后・皇太子弘の三皇がそろい、中でも代 王弘が皇太子となった顕慶元年を基点として、 そおとおい時期ではないと思われる。善導四十四・五歳ごろの著作で あ ろ う 。 ② ① 註 ﹁ 法 事 讃 ﹂ 巻 下 ・ 冥 聖 全 一 ・ 六 一 七 頁 ﹁ 仏 教 学 辞 典 ﹂ 四 二 二 頁 ⑤ ① ③ ﹁ 仏 祖 統 記 ﹂ 第 三 十 九 ・ 大 正 四 九 ・ 三 七
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頁 上 ﹁ 大 集 経 ﹂ 大 正 十 三 ・ 二 九 四 頁 ﹁ 華 厳 経 ﹂ 第 二 十 九 ・ 大 正 九 ・ 五 九O
一 良 上 ﹁ 法 事 讃 ﹂ 製 作 年 次 の 一 考 察﹁ 法 事 讃 ﹂ 製 作 年 次 の 一 考 察 ⑩ ⑨ ③ ⑦ ⑨ ﹁ 大 唐 西 域 記 ﹂ 巻 第 十 二 ・ 大 正 五 一 ・ 九 四 三 頁 下 ﹁ 正 法 念 処 経 ﹂ 巻 六 十 七 ・ 大 正 一 七 ・ 四
OO
頁 下 コ 向 僧 法 顕 伝 ﹂ 大 正 五 一 ・ 八 五 七 頁 中 | 下 寺本椀雅訳﹁子岡国史﹂子調国懸記二六頁 ﹁ 子 岡 国 史 L 一 二 六 頁 深 田 久 弥 ・ 沢 和 俊 共 著 ﹁ シ ル ク ロ ー ド ﹂ 一 六O
頁 山田龍城著﹁大乗仏教の成立史的研究﹂五六七頁以下 ﹁ 続 高 僧 伝 ﹂ 大 正 五0
・ 六 八 四 頁 上 ﹁ 仏 祖 統 記 ﹂ 巻 一 一 一 十 九・大正四九・三六五頁中 ﹁ 大 唐 西 域 記 ﹂ 巻 第 一 ・ 大 正 五 一 ・ 八 七O
頁 ・ 中 ! 下 ﹁ 新 西 域 記 ﹂ 上 巻 ・ 四 三 六 頁 以 下 前 掲 書 上 巻 ・ 一 七 二l
一 七 一 二 頁 前 掲 書 下 巻 ・ 附 図 第 十 一 ﹁ 二 楽 叢 書 ﹂ 第 一 号 ﹁ 西 域 文 化 研 究 ﹂ 五 四 | 五 五 頁 ﹁ 激 燈 文 書 の 意 義 ﹂ 参 照 ⑫ ⑪ ⑬ ⑬ ⑪ ⑬ ⑬ ⑬ ⑬ ⑫ ⑧ ⑧ @ @ @ @ ⑩ 岩井大慧著﹁日支仏教史論孜 L 二 七 二 頁 ﹁ 法 事 讃 ﹂ 巻 下 ・ 真 聖 全 一 ・ 六 一 ム ハ 頁 ﹁ 瑞 応 伝 ﹂ 巻 第 十 二 ・ 大 正 五 一 ・ 一O
五 頁 中 下 ﹁ 続 高 僧 伝 ﹂ 巻 二 十 七 ・ 大 正 五0
・ 六 八 四 頁 野上俊静著﹁中国浄土コ一祖伝﹂一一四一一五頁 ﹁ 観 無 量 寿 経 ﹂ 真 聖 全 一 ・ 五O
頁 ﹁ 観 経 四 帖 疏 ﹂ 序 分 義 ・ 真 聖 全 一 ・ 四 八 五 頁 ﹁ 大 唐 大 慈 恩 寺 三 蔵 法 師 伝 ﹂ 巻 第 九 ・ 大 正 五0
・ 二 七 一 下!二七二頁上 ⑧前掲書・大正五0
・ 二 六 六 頁 @﹁長安士山﹂巻第十 @﹁法事讃﹂巻下・宣︵聖全一・六一六頁 @﹁旧唐書﹂巻第四・高宗上 @築山治コ一郎著﹁唐代政治制度の研究﹂三四二文 ⑬⑩﹁旧唐宝百﹂巻第四・高宗上 ⑧⑬﹁資治通鑑﹂巻二百・唐紀十五真
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ー そ の 論 理 性 に つ い てl
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比 百 固 ま 日 ︵ 本 願 寺明
派 '-' 一 般 に 名 号 八 口 問 自 由 仏r a
白 ﹀ と い え ば 、 仏 、 ① である。したがって薬師如来の名号、阿弥陀如来の名号、 菩 瞳 の 称 号 を 指 し 、 同時に所称の法を意味するものであることは周知 という諸種の名号が存ずることも言を侯たない。 さ て 、 真 宗 教 義 、 つまり親驚の教学において、名号がその核心をなしている、 と規定することには誰しも異論はな いであろう。とすると、真宗における救済の論理を攻究するということは、名号を論理的に解明することでもあると い え よ う 。 しかしこの場合の論理とは、形式論理を指すのではなく、仏教独自の論理であることを確認しておかなけ l t J ま £ う 工 、 。 ’ 才 ’ IfFJJ このことを弁えないで救済の論理を形式論理的に探求するとしたなら、全くの徒労に帰するであろ し た 、 が っ て 、 名 号成立の論理が衆生救済の論理でもあるということができる。親驚は名号を南無阿弥陀仏と規定してい弘この名号 ぅ。なぜなら、名号そのものがすでに、縁起空の論理構造によって成立しているものだからである。 は阿弥陀仏の覚体と不二なる法として、衆生救済を成就するために衆生に廻施されるべきものがらとして本願に誓わ 真 宗 名 号 論真 宗 名 号 論 四 れ た も の で あ っ た 。 したがって、衆生は廻施された名号南無阿弥陀仏︿空|←有﹀の義意を間信するとき、名号の義 意︿論理﹀通りの自己に目覚めるのである。それは叉、名号南無阿弥陀仏の持つ論理性に臼己が深くかかわるとき、 はじめて可能になる。名号の論理は抽象的、概念的なそれではない。自らは現実の桂柏の中にしか生きる道のない人 いわば現実を貫く具体的な論理である。決して、 ③ 鷺でさえ超越しえなかった歴史的限界として、安易に排斥されるべき性質のものではないことを、この論理の中に確 ﹁ 以 名 摂 物 し が 親 聞を根源から洞察し、包摂していく智慧の用き、 認してゆきたいと思う。ここに敢てその一端を述べ諸賢の御批判を願う次第である。 名号による救済の真実性が語られるとき、勝易二徳論は欠くことのできないものとなっている。実はこの教法の勝 易性こそ、浄土教における救済の真実性の尺度ともみることができよう。教法が一切の法に勝れていても、実践的に 難であれば、特殊の機にのみ適応するものであり、なんら普遍性は持ふり得ない。逆に実践的立場において易ではあっ ても、教法そのものが余他のそれと比較して劣であったなら易であるということは全く意味がない。 したがって、宗 教的価値の領域にあっては、勝であるということは、必然的に、実践的立場における易修性を意味するものでなくて はならないのである。救済不可能な悪践が救いの法中にみいだされたとき、その法はまさに勝であり、易であるとい われ、救済が普遍化するのであった。勝易の徳は別箇の徳ではない。勝は易とかかわらずしては勝といわれえない存 ④ 在である。この相関関係を認識することなくして別箇のものとしてみるなら、仏教における機法のかかわり、か損なわ その勝易二徳を包括する名号について司選択集﹄の指向するところによれば、 ⑤ 万徳之所帰﹂であるから﹁勝余一切功徳﹂であり、﹁念仏易故通於一切、諸行難故不通話機﹂であるという。 れ て し ま う で あ ろ う 。 さ て 、 ﹁ 名 号 者 し か し 、
常識的にみれば、名号は名号であり、万徳は万徳である。 とすると、万徳の所帰たる名号とは、具体的にいかなる性 格のものであるのか、ということを我々はまず間わなくてはならない。古来、名体不二といわれ、全徳施名といわれ てきたのは、このことを解明する過程での所産であった。 しかし、名体不二、全徳施名といっただけで名号が真実で あり、救済の力用が具備されていると規定することは早計である。実は名号を解明するといういとなみも、このこと に集約されるといってもよいであろう。もと、全徳を名に施すということは、名体が不二であってはじめて可能なこ と で あ る 。 し か し 、 不二という独自の論理性に疎縁な者にとっては、容易に首肯しがたいものでもあろう。これはひ とり名号の理解という過程における陸路ではなく、仏教そのものを理解するうえでの、 いわば形式論理的蹟きである といえないであろうか。切言すれば、名号の本質を理解するということは、 不二の論理性を理解しうるか否かにある といってもよいであろう。凡そ、二而と不二が同時に成立するということ自体矛盾である。 し か し 、 その矛盾が矛盾 のままで成立する基盤が縁起空という独自の場である。不二という言葉は、こを前提としながら、それを積極的に否 定し、同時に一をも否定する言葉である。実はここに阿弥陀仏の覚体と名号が不二であるということの深い意味が存 す る 。 かりに、名体がこであったなら、その名号は単なる媒介的存在であり、階梯的なものとして廃捨されよう。こ こでは、救済の具体的側面ともいうべき万徳と、名との必然関係が成立せず、救済も究寛されない。叉単に名体が一 であるとしたら、衆生救済という辺まで普遍化しないであろう。この両者の立場を揚棄する場が即の論理であり、更 ⑥ にそれの具体化されたものが名号法であったといえる。﹁況我弥陀、以名摂物。是以耳問、口語、無辺聖徳撹入識心﹂ ① ﹁諸仏皆徳施名。称名即称徳﹂という指摘はしばしば引用されるものであるが、これこそ徳と名との不即不離の関係 を示したものであり、このことが可能になるのは、徳と名が不二なるものとして成就されたときにである。このとき 衆生救済が万人共通の法として普遍化するのであった。換言すれば、衆生救済を意図して積功累徳された万善万行は、 真 宗 名 号 論 一 五
真 宗 名 号 論 一 六 それ独自では衆生との接点をみいだすことはできない。そこで選択されたものが名号法であるというべきであろう。 したがって、その万善万行は名に施されるものとして成就されたことを看過してはならない。 ﹁ 名 体 不 二 と 云 え ば 、 即する面だけを考えて、離れる面のあることを忘れがちであるが、今はその離れる面の意義が重要なのである。正覚 の体に即自的な万徳は、衆生はこれを領受することはできない。即自的な万徳が対自的となり、その人格を離れて独 立した法として顕わされるとき、衆生ははじめてこれを己が所有とすることができる。如来と衆生との聞に授受され @ る法として成就されることによってはじめて回向ということが可能になる﹂という指摘によって、覚体と名号との相 関関係を明瞭に知ることができよう。殊に、この離れる面ということが、名号の名号法たる由縁でもあり、真宗教義 を指して﹁表現の宗教﹂といわれることがあるのもこの意味において妥当である。自己を顕現するためには、自己白 身を表現しなければならない。阿弥陀仏の名号は、阿弥陀仏の自内証が顕現されたものであり、阿弥陀仏自身の自己 実 現 で も あ る 。 し た が っ て 、 かく表現された名号を間信領受したとき、名号法という表現のもつ性格は真に究寛され る の で あ る 。 しかしこの場合の表現とは実智が権智として、 一如が如来した相ともいうべき独自の宗教表現を意味す るものであることは言を侯たない。 したがって、その表現の論理的構造は、真空妙有といわれるような仏教独自の縁 起空の論理性を内的構造とするものなのである。この論理性を内に持つ名号法によってこそ、阿弥陀仏の覚体と現実 の生との交りが可能になるのである。 る 。 真宗教義の中で名号が語られるとき、相対八衆生﹀と絶対八仏﹀とを結ぶものとして扱われることが多いようであ つまり生仏の背反状況に寄せて相対と絶対と単純に区別し、相対から絶対には到り得ないが、絶対は相対を包括
するものであり、その具体的カ用が名号であると説かれる。 したがってその名号は、絶対の相対化として把握され、 如来をして絶対者と呼称されることさえ少くない。このことに誤りはないであろう。 しかしこの論理展開は仏教独自 の 絶 対 観 に 立 脚 し て い る 、 という前提条件を不可欠のものとする。たとえば、絶対者の概念も、 ⑥ ﹁それ自身において充足した完全なもの﹂と規定されている西洋哲学の立場から推すと、直ちに仏︿如来﹀ ﹁ そ れ 自 身 に お い て 存 立 し ﹂ をこの範暗に組み込むことは明か軽率であろう。という意味は、仏と衆生とは決
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て離すことのできない関係的存在 であるから、自ら次元を異にする、 ということである。実はそこから仏教独自の絶対観が導きだされてくるというこ とができよう。真宗における名号も、このことを認識しなくては正しく把捉することは不可能である。もと、仏教に おいて絶対を意味する言葉としては、真如、 一如、法性、実相、等が挙げられるであろう。知られるように、真如の 原語八Z
岳 山 ﹀ と は 、 ︿物があるが如くにあるすがた﹀︿物があるが如くにおかれているあり方﹀の意味であるといわ れ 、 そ れ は 縁 起 ︿ 司 自 立 件 吉 田 国B
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の理法の流動するすがたでもあるという。 とすると、相対の別に絶対が存す るというような二元的絶対観でないことが知られる。切言すれば、真如は真如という絶対的固定性を当体としないと いう処にその特異性が認められるであろう。 つまり、絶対と相対が即という関係で結合しているということであり、 それは因縁所生法をもって一切の存在の法則とする独自の立場でこそ容認されるものである。又、それは同時に存在 の基盤が空であることを意味している。ここに事物の固定的実体性は悉く否定され、動的︿空的﹀な基盤で一切の存 ⑩ 在が把握されるに到るのであった。この立場に立脚したとき、如来と衆生とのかかわり、或いはそれを可能ならしめ る名号の内的性格を理解する道が聞かれるのである。なぜなら、名号はそのような存在の法則の中で説示されたもの だからである。名号が名体不二といわれるのは、 それが真空の妙有の相として、無二智の清浄世間智として歴史的世 界に向下することを指向するものでもある。 ﹂ こ に 本 願 と い う も の が 、 具体的現実として眼前に顕現されるのであ 真 宗 名 号 論 七真 宗 名 号 論 八 る。親驚にとって本願と名号とは不二一体のものであった。﹁本願名号正定業﹂﹁本願名号信受して﹂等の言葉はそれ ⑪ を顕わしているといえよう。 周知のように、本願とは原語︿
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﹀ に 相 当 し 、 ﹁3
・ 回 目 巳 ’ 左E
︿ 前 に 置 く ﹀ か ら 作 ら れ た 名 詞 で 、 ︿心を前に置く﹀という意味から八願い﹀︿誓い﹀︿誓願﹀の意味で用いられている。 したがって 八本願﹀は八以前の誓願﹀という意味であり、これは阿弥陀仏が仏となる以前、ダルマカ l ラ菩薩であった時にたて ⑫ た誓顕である﹂という。したがって、本願とは阿弥陀仏に限定していわれるものではなく、本願という一種の思想形 ⑬ 態を意味するものでもある。したがって﹁縁起の光が限りなくわれわれの能所の存在を照らすときに能所が空ぜられ、 ⑬ 我執我所執が打破られ、すなわち般若波羅蜜化が限りなく行なわれる﹂実践形態を仏の本願といい、本願を宿願とする ⑮ そういう般若波羅蜜化せねばならない約束・必然性をすでにかねてもっている﹂ことを 立場からは﹁縁起の道理が、 意味するのであるという。要するに地蔵、薬師、阿弥陀、等の本願といって﹁経典に説かれているものは、そういう ⑮ 精神の動行の象徴である﹂という説示こそ本願の思想性をよく語るものであろう。きて、それを我々の救済の根源で ある阿弥陀仏の本願に集約していえば、衆生救済︿般若波羅蜜化﹀の具体的力用として可聞可信の名号法が誓われた の で あ る 、 といえよう。しかしそれが何故名号法でなければならなかったのか、 ということが古来論議されてきた が、大要次のように集約することができるであろう。 ら凡夫に代って正覚を成就し、 ﹁無有出離之縁、不善造悪なる凡夫の救済を意図して、弥陀自 その覚体を衆生に施与せんがために、 覚体と不二なる法として名号法を選択した﹂ と 。 殊 に ﹁ 証 言 願 の 不 思 議 に よ り て 、 やすくたもち、となえやすき名号を案じいだしたまいて、この名号をとなへんも ⑫ のをむかへんと御約束あることなれば﹂という文が一般によく引用されていることからも名号法の普遍性という面、が 重視されていることがわかる。この意味において名号は一種の表現法であるといえよう。 しかもそれは阿弥陀仏の本 願そのものの具体的顕現でもある。更にいえば、阿弥陀仏の名号とは、 ﹁ 普 済 諸 貧 苦 誓 一 不 成 正 覚 ﹂ と い う 法 蔵 菩 薩 白らの正覚と衆生往生の不二の誓願に基く法蔵自身の救済意志の具現化、普遍化として法蔵菩陸によって誓われた︿設 我得仏!不取正覚 V 救消の究克相であるともいえよう。このように、法政主探の救済意志か名号法として具体化し、 崎 衆生の而前に表現されたことは、﹁其心寂静志無所著﹂といわれる法蔵の白内証が如来した相でもある。それは迷妄 生死の私均、相反した清浄平等不ム一︿生死超克﹀なる仏智とかかわる言葉として現実となる。しかもその言葉は、 ⑩ ﹁以知実相故則知三界衆生虚妄相也。知衆生虚妄則生真実慈悲﹂という深い立場より衆生を洞察して衆生に恵まれた ものであった。実はここに浄土教興起の必然性ともいうべき基盤が存する。古来より浄土教教 F 義の中心課題が如来と 衆生との関係を明かすことにあるといわれるのも由なしとしない。この小論の直接意図するところも、生仏のかかわ りを明かすものとして名号の論理構造を攻究することに外ならないのである。さて、名号を宗教表現として扱い、注 意しているものに﹃大行の弁証法﹄がある。それによれば﹁仏と人間との非連続の連続、即ち矛盾的自己同一的媒介 は表現による外ない。一言葉による外ない、仏の絶対悲願を表わすものは、名号の外にないのである﹂ ﹁ 絶 対 者 と 人 間 との何処までも逆対応的なる関係は、唯名ロヴ的表現によるの外にない﹂と西田博士の所論をもって結論守つけているよ @ うである。吏に名号がかような表現的立場をとるものであるなら、それは単なる媒介にすぎないのではないか、とい う点について、﹁表現の媒介的立場は仮設的ではありえない﹂﹁表現はどこまでもそれを媒介として接しうる実在展開 @ の原理であるしとしている。このような立場に立っとき、我々は吏に救済の原理を明かすものとして名号のもつ論理 性に着目してゆかなければならない。そのことは同時に、名号という表現法のもつ論理的構造を探求することにもな るであろう。そこで、殊に親驚か﹁証巻﹂末尾において引用している﹁論註﹄の文のうち、善巧摂化章以下所明の智 慧慈悲方便について注目してみたいと思う。私はこの辺りが救済の原理及び名号の論理性が展開されている重要な箇 処であるように考えている。 ま ず 善 巧 摂 化 章 で は 、 菩薩の巧方便回向に寄せて救済の論理を述べ、 次に障害提門で 真 宗 名 号 論 九
真 宗 名 号 論
。
養 恭 敬 自 身 心 ﹂ ﹁智慧門不求白楽、遠離我心貧著自身﹂﹁依慈悲門抜一切衆生苦、遠離無安衆生心﹂﹁依方便憐思一切衆生、心遠離供 @ を 超 克 す る こ と を 示 し 、 ﹁ 安 清 浄 心 し それは必然的に ⑮ ﹁楽清浄心﹂の﹁随順菩提門法﹂を成就することを﹁順菩提門﹂で説示している。ここに語られている と智慧慈悲方便によって﹁菩提円相違法﹂ ﹁ 無 染 清 浄 心 ﹂ 智慧慈悲方便こそ、衆生救済の原理を論理的に展開したものであるが、 それは次の名義摂対章において明確に示されマ
。
。
向説智慧慈悲方便三種門摂取般若、般若摂取方便、般若者達如之恵名。方使者通権之相官称。達如則心行寂滅。通 権則備省衆機。省機之智備応而無智。寂滅之恵、亦無智而備省。然則智恵方便相縁而動、相縁而静。動不失静智 恵之功、静不廃動方便之力也。是故智恵慈悲方便摂取般若、般若摂取方便。応知者、謂応知、智恵方便是菩薩父 母、若不依智恵方便菩薩法則不成就。何以故、若無智恵為衆生時則堕顛倒。若無方便観法性時、則証実際 ⑮ と。ここに示されている般若と方便の相即こそ、如←如来という関係に外ならない。それはまた実相に体達した智慧 ︿般若﹀はその智慧に違背する現実に対してかかわらずにはおれない、 という動的性格を示している。それが慈悲で あり、その、智慧慈悲に基く衆生救済︿真実化﹀の意志が方便として我々の前に具現されるとき、はじめて衆生救済 ⑮ の通路、か開示され、﹁依法性順二諦故﹂﹁摂衆生入畢寛浄故﹂なる救済が究寛されるのである。このように般若と方使、 智 慧 慈 悲 方 便 、 とは互いに相即相入する相依相関的存在であり、同時に衆生救済の法則︿菩薩の法則﹀でもある。実 は、名号南無阿弥陀仏による救済も、般若根本智を体得した法蔵菩薩の慈悲方便の究寛されたもの、救済意志の普遍 化されたものとして把えることができるであろう。ここに、名号をもって阿弥陀仏の救済意志の表現と規定する立場 も認められるのである。親驚が﹁この一如よりかたちをあらわして方便法身とまうす、そのおんすがたに法蔵比丘と @ なのりたまひて不可思議の四十八の大誓願をおこしあらはしたまふなり﹂と述べていることは、般若根本智より方便後得智が流動する態として、阿弥陀仏が把えられていることに我々は気づくのである。般若が内的必然性としてそれ 自身のうちに方便を擁するということは、真実はそれ自身真実化の力用を具足するということを意味するものではな と い え よ う 。 つまり阿弥陀仏の名ロすには とすると、阿弥陀仏の名号も又不実なる衆生を真実化︿救済﹀せんとする、般若の智慧の積極的流動相である 、 、 。 し カ それ自身﹁達如之恵名通権之智称しという論理構造を有することを確認 しかもこの論理は、自己の内面と、自己の生と深くかかわらずしては、決して成立しない具体的な論 し て お き た い 。 理であった。その故にきわめて現実的な論理性をそれ自身のうちに有するのである。 れを把与えるとしたなら、容易に把ええないであろう。なぜなら、 したがって抽象的、概念的にこ それは、名号ともっとも遠い処でそれとかかわろう としている姿にほかならないからである。実はここに名号独自の論理性が存するともいえるであろう。 以上大雑把な展開に終ってしまったが、更に後日を期することにして一応摘筆したい。 ① 註 叉 、 果 号 、 尊 号 、 徳 号 、 嘉 号 、 等 と も い わ れ る こ と は 周 知 で あ る 。 尊 号 と い う は 南 無 阿 弥 陀 仏 な り ︿ 唯 信 抄 ﹀ 九 字 ・ 十 字 も 同 義 異 名 で あ る 。 梅 本 克 巳 著 ﹃ 唯 物 論 と 主 体 性 ﹂ 一 七
O
頁 、 ﹁ 親 驚 に つ い てl
異 端 と は 何 か | L 村 上 速 水 著 ﹁ 親 驚 教 義 の 研 究 ﹄ 六 八 頁 参 照 名 号 者 万 徳 之 所 帰 也 。 然 則 弥 陀 一 仏 E i − − 一 切 内 証 功 徳 : 一 切 外 用 功 徳 皆 悉 摂 在 阿 弥 陀 仏 名 号 之 中 。 故 名 号 功 徳 、 最 為 勝 也 。 然 則 仏 名 号 功 徳 勝 余 一 切 功 徳 。 故 捨 劣 取 勝 以 為 本 願 敗 。 念 仏 易 故 通 於 一 切 、 諸 行 難 故 不 通 諸 機 。 ③ ③ ① ④ 真 宗 名 号 論 ⑨③(百) (f:⑨ 然 則 為 令 一 切 衆 生 、 平 等 往 生 、 捨 難 取 易 為 本 願 欺 ︵ 真 聖 全 一 の 九 四 三 ︶ 真 聖 全 二 の 二 九 、 元 照 律 師 ﹃ 弥 陀 経 義 疏 ﹄ 行 巻 引 用 真 聖 全 二 の 三 一 、 法 位 ﹃ 大 経 義 疏 ﹂ 行 巻 引 用 村 上 速 水 著 、 前 掲 書 一 九 九 一 只 守 哲 学 事 典 ﹄ 、 ︿ 平 凡 社 刊 ﹀ 七 一 一 頁 事 物 の 固 定 的 実 体 性 を 否 定 す る と い う こ と は 、 存 在 の 消 梅 性 を 指 向 す る も の の よ う に 把 握 さ れ や す い が 、 事 実 は そ の 逆 で あ る 。 木 典 行 巻 に ﹁ 大 経 を 真 実 教 と 指 定 し 、 論 註 を 承 け て 、 説 如 来 本 願 為 教 宗 教 、 即 以 仏 名 号 為 教 休 、 と 一 応 し 本 願 と 名 号 の 関 係 を 示 し て い る 。 ⑪真 宗 名 号 論 藤 田 宏 達 者 ﹃ 原 始 浄 土 思 想 の 研 究 ﹄ 一 一 一 七 九 頁 厳 州 市 に い え ば 、 本 師 側 、 か 架 し て 思 想 と い え る か ど う か 吟 味 を要するが、今は一般的意味でいい、更めて問わない。 ⑬ゆ⑬山口益著﹃空の世界﹄一一一頁以下参照 ⑪ 歎 異 抄 十 一 節 、 貫 一 一 聖 全 二 の 七 七 九 ⑬古来法蔵注目薩の地位について異説があるが、鶏訳大経に 其心寂静志無所著、とあるのは、八地以上の浄心の菩薩 を示しているものとする。龍樹・羅什・曇驚、等の諸師 は八地以上としている。神子上恵龍著﹃真宗学の根本問 題﹄一四頁以下詳説 論 註 善 巧 摂 化 章 、 宣 ︵ 聖 全 一 の 一 一 一 一 一 一 九 稲城選恵著﹁大行の弁証法﹄救済論稿 Z G 日 八
O
頁 、 ﹃ 一 二 木 清 L 全集巻一八﹁親驚﹂に啓発されるところが多 稲 城 選 恵 著 、 同 右 、 八 三 一 頁 星野元豊著 25 叙哲学﹄一八三頁﹃しんらん全集﹄巻七 所収論文がこの点に蒜討している。又、神子上恵龍著前 畑 向 幸 一 同 等 参 照 ⑬ ⑬ ⑧ ⑬ ⑫ ⑧ ⑧⑫⑧論註下巻、真聖全一の一二三八 J 三 四 二 青 山 小 ⑧真聖全一の三四二、ここでは方便の意味が二種に使用さ れている。智慧・慈悲・方便の場合とこの三者を合一し て方便とし、般若に対置される場合とである。 論註上巻、真聖全一のご八五、参照 唯 信 抄 文 意 、 真 聖 全 二 の 六 コ 一O
、尚、方便法身と実相 身、為物身との関係について種々論議されるが、ここで は避けざるをえない。又、﹁真宗研究﹂七号所収論文、 ﹁阿弥陀仏観私考﹂︵藤光永氏﹀がこのことについて触 れ て い る 。 参考文献については一三会げないが、殊に中山延二氏の 著書に砕発されることが多かったことをここに記した ※ ⑬ @アメリカの教育と宗教教育
真
岡
光
︵ 十 口 問 回芭 麿
一
、
序
現在わが国では、物質的発展の目ざましきに反して、精神面の向上が忘却されてきたことが、 クローズアザプされ る に 及 び 、 その結果、国家的な大問題として、人間回復が絶叫されている。 わが国より、社会的、産業的な面におけ どのように受けとめられているか る科学化や機械化が更に進んでいるアメリカにおいて、人間教育がどのように位置ずけられ、人間教育と宗教教育が ① 一九六入年にアメリカへ留学した折に訪問したセントグレア高等学校、ベセル高 等 学 校 、 フ ォ ! ト カ ウ チ 中 学 校 、 ストリームズ小学校を中心に、実際に体験した学校教育と宗教教育の関係を考えて み た い と 思 う 。一
一
、
学校とキリスト教の歴史
② 十七世紀における最初の移住者達によってもち込まれたキリスト教の伝統 ︵宗教的理由にもとずく熱烈な実験精 神︶は社会の各層に浸透し、十八世紀に入るやキリスト教各派は自派における聖書の解釈を絶対に正しいと信じたた ア メ リ カ の 教 育 と 宗 教 々 育ア メ リ カ の 教 育 と 宗 教 々 育 四 めに、激しい宗派心が生れてきた。この宗派心が最初から教育に大きな影響を与えたのである。どの宗派でも自分の 立場を維持するために教育に最も力を入れ、教会はきそって学校を設立した。叉地域社会の設立した公立学校でも、 そ の 教 育 方 針 は 、 その地域で正統と認められた宗派が担当した。その上高等教育の普及を一般に教会の仕事と考える よ う に な っ て き た 。 牧師達は地域社会における知性の代表的な指導者になっていた。その牧師達を多数教育して世におくり出すため、 牧師を教育する大学の必要性が急激に高まり、次々と大学が設立された。 一 ュ l イ ン グ ラ シ ド で は 、 ハ ー バ ー ド 大 学 、 イ ェ l ル大学、プリンストンのニュ l ジ ャ ー ジ ー 大 学 、 オランダ改革教会派のラトガ l ズ大学、英国々教派のウイリ アムアンドイエリイ大学やコロンビア大学等である。これらの植民地の大学は、ことごとく牧師としての教育を施す ために設立されたものであった。 その後中等学校教育の義務制がとなえられるようになったが、これもやはり、 キリスト教神学の話を受け入れさせ る の が 目 的 で あ っ た 。 このようにアメリカの学校設立の目的は、 キリスト教の教理を説く場合に、市民にそれだけの学力と英語能力をつ けさせるためであり、大学は、 キリスト教を伝導するための牧師を養成する場として必要であった。
一
一
、
アメリカの教育目標
アメリカの高校及び小・中学校の教育目標や方針はどのようになっているかを知ることは、著しく困難である。殆 @ どの学校が出しているハンドブック︵生徒心得︶にも目標や方針など見当らない。ルイジアナ州バトンルージュ市内 の中学校でも生徒心得の中に教育目標をのせているのは一校にすぎないほどである。 セントクレア高校でもただ﹁真理と正義﹂公
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白 ロ 円 四 円 目 的 宮 ︶ と だ け 単 語 を 三 つ 使 用 し て い る だ け で 、 @ はなはだ要領を得ない。プレスコット中学校 を例にとってみると、教育目標はω
ふさわしい技術と望ましい理解力、態度の育成 (2) 健康の維持と増進の助長ω
市民としての権利、義務の理解 例経済社会の奉仕を賢明に得たり、利用したりする知識の習得ω
他人と一緒に働くことにおいての倫理観、価値観の尊重 川w
J
帥 省 略 と掲げ、教育者側と保護者のアンケートを見ると、教育者側は ︶ 4 i ︵ 個人としての正しさをもち、人間関係の良好なよき市民ω
個性豊かで信頼しうる人間 制自分の生き方が追求でき、親しみと協力的態度を備えた人間 (7) 知性と責任をもって尊敬される人間 (9) 敬度の念をもった人間。
ゅ
正直で、親切で、寛容で他人を尊敬する人間ω
川w ω ω
省略 と言い、保護者側でも、敬愛しあえる人間、罪意識をもち、自分と他人に正直な人間、社会に役立つ人間等で教育者 側とほぼ一致している。すなわち、 よき市民として尊敬され、社会の一員としての責任を果しうる人聞を望んでいる ア メ リ カ の 教 育 と 宗 教 々 育 二 五ア メ リ カ の 教 育 と 宗 教 々 育 一 一 六 ょ う で あ る 。 セ ン ト ク レ ア 高 校 の 校 長 も 、 ﹁人間として恥ずかしくない市民、権利と共に責任のとれる人間﹂を目標 に し て い る と 述 べ て い た 。 これらを総合的に判断してみると、 それぞれの学校や立場でその目標も多様ではあるが、その中に流れている基調 は﹁よき市民として尊敬され、社会に役立つ人間であり、個人の自立心と責任感を育成する全人教育﹂である。
一
ーコ 仁3 に し て 言 え ば 、 ﹁ 良 き 市 民 の 育 成 ﹂ で あ る 。 しかしこういう目標や方針が特に生徒心得に列記してなかったり、学校 や教育に掲示してないことは、全人教育に重きを置いていないことを意味するのではなくて、教育において、全人教 育の必要性は理の当然であって、こと更掲示したり、列記するまでもないことと、もう一つには、 アメリカの国民性 として抽象的項目よりも、具体的生活体験の場を通して、即ち、教科、教科外活動の学校生活を通して、直接それが 全うされるべきことを示していると思う。四、宗教々育の定義
宗教々育という語には多面的な響きがある。 ︶ 4 A ︵ 宗教教理を教えるもの (2) 宗教的、道徳的規律によって導くもの (3) 宗教的信念をもって教育するもの アメリカの教育と宗教々育を考察する場合、右の項目が全て該当するようである。だから広義の意味において、即 ち道徳的、全人的教育を含めて、それが宗教と何らかの関連をもっ場合は、すべて宗教々育と解し、ここでは取り扱 っ て 行 こ う と 思 う 。五、公立学校及び私立学校の宗教々育観
先に考察した如く、教育目標も定式化されていないが、その意図する所は、市民として尊敬される人間の育成にあ る。その市民としての態度とは、民主的な遺産・アメリカの歴史と伝統、義務と責任を尊敬することであり、権利、 所有物、他人の意見を尊重する立場である。精神的には敬度の念をもった人間、喜こんで奉仕できる人間である。、、へ スル地区の教育長が指摘するように、 ﹁公立学校の場合には、宗教的教義を教えることは実際上許可されていないが、 宗教を教えることは、人間教育のために必要である﹂と発言し、 ﹁宗教上の教訓をたれる全能の神に対して敬意を表 する﹂という精神的基礎の上に立つてのよき市民を意味していることを強調しているのである。 一 方 私 立 高 校 に はω
教会系とω
非教会系の種類があり、教会系がその大部分を占め、非教会系は全私立校の5
⑤ %にすぎない。非教会系の私立校の設立目的は、大学進学を白指す優秀校であるので、学校存立の目標はω
良い大 学 へ 入 学 す る 。ω
科 目 、 か 公 立 よ り 多 い 。 (3) 一学級当りの生徒数が公立より少ない。 判全人教育となっていて、 第四番目に全人教育を揚げている。教育方針としては仙どの宗派にも属していないが、 キリスト教主義教育をする、ω
高 度 の 学 問 的 訓 練 、ω
正 課 と し て 労 働 を 課 し 、 正 し い 価 値 観 を 育 て る 、 判自分のことだけを考えず、むしろ 他人を満足させることに喜びを感ずる人間にする、 といって四項目のうち学問的向上を主張しているのは第二番目一 項 だ け で あ っ て 、 その他の項は全部何らかの意味で、宗教々育を意図していることが注目される。この学校では叉聖 童日が正課に入っており、他に選択科目にも聖書が設けられている。 @ 教会系私立校の場合は、きびしい規律、礼儀正しいしつけをモヅト l にし、毎週一時間の宗教の時間がある。又逓 時間の宗教や礼拝が行なわれている高校もある。 ア メ リ カ の 教 育 と 宗 教 々 育 七ア メ リ カ の 教 育 と 宗 教 々 育 二 八 公立校の場合には、宗教が一宗一派に偏してはならないのでという点では同じであるが、 それでも宗教という言葉 を表面に出して、それが必要なものと考えられ、教育者の精神的支柱となっているのである。 日本では宗教という言 葉すら使わず、倫理とか、道徳とか、又はもっとあいまいに精神的という言葉にすりかえられ、具体的意味をもって いない。又教育者の精神的支柱に宗教が関与していないように思われる。これがアメリカの私立校になると公立校よ り も 、 一層具体的に宗教とはキリスト教であると宗派を全面に打ち出し、人間教育はキリスト教で行なうことを明確 にし、宗教々育が具現しているのであ唱。 六 、 学 校 生 活 上 に 現 わ れ た 道 徳 、 人 間 教 育 アメリカの従来からの基本的考え方として、学校は学習を、家庭は情操を、教会で宗教々育をというのがある。こ の分化された考え方は今でも根本において変りがない。しかし現今の世相の急激な変化によって、多少はこれが崩れ てきており、家庭の分野でなされなければならないものが、学校にもち込まれてきている。特に貧困家庭や夫婦共働 き の 家 庭 が 増 加 し 、 そのような家庭では、親が親としての責任を放棄し、家庭の教育がおろそかになる場合が多い。 そ の た め 、 しつけについて、学校がその代りをする必要性に迫まられ、学校におけるしつけの面の指導が重要視され て 会 ﹂ て い る 。 小学校においては、道徳を組織的に教えている学校はなく、専ら﹁しつけ﹂教育に専念している。このしつけ教育 は想像以上に厳しいものでアメリカ全土の小学校は殆ど大同小異である。 ストリームズ小学校も例外にもれ、ずきびし い も の で あ っ た 。 小学校一年生が国語の時間に二班に分れて先生の指導を受ける時、他の班は自習になる。この時は静かに自習する
ことを先生が要求する。少しでも話し声が聞えたりすると、先生はすかさず注意する。 一方の班は学習であるが、私 が参観している前を通って行かなければならない。その時一人一人は﹁エクスキューズミィ﹂を言って通る。 と こ ろ が、黙って通ったり、聞きとれぬような小戸で通過した生徒は、もう一度やりなおしを命ぜられるのであった。音楽 室へ行ったり、学校食堂へ行ったりする時でも一列に並び、先生の誘導に従って無言で廊下を歩くことを要求されて