問 題 の 所 在
智慧は仏教の骨目である︒智慧なくしては仏教とはなり得ないところで︑浄土教とても例外ではなく︑親驚聖人は
和讃
に︑
﹁智慧の念仏うることは︑法蔵願力のなせるなり︑信心の智慧なかりせば︑いかでか浬繋をさとらまし﹂と
示されている︒通じて︑智慧は︑仏道を求むるものが究極の世界を証悟するとき︑その主体の性における力用とされ︑
主体の上に現成されねばならないところである︒そしてそのありようについて︑各種の﹁智﹂として説かれている︑
とい
える
︒
浄土
教に
おい
ては
︑
その智慧は表面には浮きぼりされることはないといわねばなるまい︒
﹁念
仏す
る﹂
︑﹁
信ず
る﹂
など帰命の態において︑仏道が高調されるからである︒しかる場合︑智慧とはどのように沈潜しているであろうか︒
親驚
聖人
の場
合︑
われ
が浬
柴に
いた
る︑
われ
が救
われ
る︑
という主体が最重要課題となっていて︑智慧がどのような
功用
の体
であ
るか
︑
という問題は第二義的なものとなっているとみることも可能である︒前出の和讃は︑
﹁信
心の
智
﹃教
行信
−証
﹄に
おけ
る智
慧に
つい
て
四
﹃教
行信
証﹂
にお
ける
智慧
につ
いて
四回
慧﹂という言葉をもっ唯一の和讃であるが︑ここにおいて︑信心の智慧をうたうのでなく︑
﹁信心の智慧﹂がわが身
に﹁
ある
﹂こ
がと
問わ
れ︑
﹁智慧の念仏﹂もそれを﹁得る﹂ことの所由を主題として述べられるのであって︑信心と 智慧︑智慧と念仏︑というかかわりを明かされたものではない︒
われわれは︑仏の道を明らかにしていくに当り︑親驚聖人の教えが独自のものであればその独自性を解明し︑親驚 聖人の教えにおける智慧の意義を明らかにすることに意味を認める︒仏道の特殊的な一形態としての浄土教でなく︑
仏道の展開としてあるところの浄土教を見出し︑少くともその一面を確認することとなるであろうからである︒
親驚聖人の姿勢は︑客観的な真実・真理ということには言葉少なく︑真実に生きる態にその思考が集中されてあり︑
智慧の問題にしても同様︑智慧とは如何なる義か︑
という明快な言葉・文字は少なく︑所謂論考的なものはない︒こ
﹂で
われ
われ
は︑
その
主著
︑
﹁顕浄土真実教行証文類﹂の中︑教行信証四巻を所依として︑
その中に見出されるとこ
ろにおいて考究していく︒この四巻に出てくるところの﹁智﹂﹁慧
L
﹁智慧﹂の語の数は︑教巻に七︑行巻二十六︑信 巻三十三︑証巻三十八︑計一
O
四回ある︒それらの中︑御白釈には十五回あって︑智慧ということが関心事であること︑がうかがい得る︒その他で多いものは﹁論註﹂からの引文中に四十二問︑
﹁担
架経
﹂九
回
﹁大
経
L
﹁如
来会
L
︑ か 六
回となっている︒これら引文のものは同語がしばしばあることにより多くなっている︒
なお
︑利
悲の
語︑
が見
出さ
れる
引用書は︑経典五︑論書等十三である︒
二
︑ 御 自 釈 に お け る 智 慧 に つ い て
ω
御白釈の中に智慧について次の十五文がある︒
︵真仏土巻・化身土巻に夫々一文あ切︶
先ず総序には一文
ー︑
故知
円融
至徳
嘉号
転ニ
悪−
成ニ
徳一
正智
︵
P5
υ
行巻には七文あり
2︑
一コ
ロレ
札者
従一
一久
遠一
巳来
恥ニ
凡聖
所伝
雑修
雑誌
川水
一転
一逆
誇闇
提恒
沙無
風海
水一
氏一
一本
願大
悲智
慧真
実恒
沙万
低大
宝
海水
一︵
P 9
3︑
悲願
除︵
乃至
︶猶
如一
一涌
泉一
出ニ
智慧
水一
無ニ
窮尽
一故
︵P
回︶
4︑
悲願
険︵
乃至
︶猶
如ニ
正道
一
A y
−−
諸群
生入
一一
智域
一故
︵p
︶m
5︑
乗一
一一
切智
船一
浮ニ
諸群
生海
一︵
P剖
﹀
6︑
円斗
満福
智蔵
一開
斗顕
方便
蔵一
︵ P
M︶
7︑清浄歓喜智慧光︵
PM
叩︶
︵正
信偏
︶
シ テ チ
8︑
開ヰ
入本
海大
智海
一行
者正
受一
一金
剛心
一慶
喜一
念相
応後
与一
一章
提一
等獲
一二
ニ忍
一下
型
信巻には七文
9︑
真克
信楽
主紘
一一
色寸
凡札
札列
ぶニ
如来
加被
払一
札ナ
リ捕
町民
ニ大
悲広
慧払
一札
ナリ
遇底
ニ浄
払一
本是
心祝
ニ顛
剛山
一︵
P
︶W
叩︑
比三
如来
至︑
仙一
回斗
施
7諸
礼一
切煩
悩悪
業邪
札群
生札
一則
是私
一利
他真
︑い
一︵
p g
日︑信知斯心則是不可思議・不可称・不可説一一東大智願海回向利益他之真実心是名一一至心一︵
P U
ロ︑叉復明者即智明間者即無明也︵
pm
︶
日︑
ん払
一大
信海
者一
︵乃
至︶
信楽
也︒
恥如
下阿
伽陀
東品
協ぺ
一札
講和
上如
来誓
眠為
抽
b札U
智宝
船主
也︵
pm
︶
M︑
然者
願成
就一
色即
是専
︑竹
︵乃
至︶
匙心
即志
島−
一無
量光
明吉
町一
ι
ルカ札
p︵
m︶
目︑故処一心是名一一如実修行相応一即是正教色正義匙正行︐是正解︐是正業是正知町也︵
PM
︶
﹃教行信託﹄における智慧について
四五
コ叙
行信
証﹄
にお
ける
智慧
につ
いて
四六
これらのなかに一貫して見取される智慧の概念はいかなるものであろうか︒
先ず︑智慧は名号・光明との結びつきとして︑名号という名言の体であり︑光明という智覚態としてあらわされて
くる
︑ という立場がある︒このことは重要である︒或る態として認められる可能性をもち︑言葉として表示されるも とであり本質であるということは︑或る態をいうものでなく︑或る功能が内容であることを一万す︒総序に﹁悪ヲ転ジ テ徳ヲ成ス﹂といわれるのは︑悪が成じているその場において︑悪を成じている質の上にそれの場をみる功能を変質 させる功能︑この功能を智慧に意味せしめているとみることができる︒
この功能は大悲による本願を依りどころとしてはたらき出し︑真実を泉のわく如くに無作にして了ぜしめ︑無量の 徳を内包せしめるというのである︒この功能は︑仏の利他真実の行の原動力であることは明らかであって︑
その内容
は︑広慧力という原由︑利益他なる実功能︑真実に相応せしめていく世間的適応なる権用︑
それに︑果は悪の成じて
いる
場に
現成
する
︑ の四位に分けられるであろう︒広慧カは︑具体顕現の一契機として大悲という性質合伴って流動し︑
利益他は回向という形態において施設される︒これらは毒の滅という現在的功用をなし︑
それらが向けられ施される
場として︑無明及び自力の雑爽性の存在する場がとられるというのである︒
かように智の意味がとられて来た所以をみるに︑智慧なる語の頻度もそうであるが︑御門釈の前に智慧が出る文は︑
﹁論
註﹂
の引
文が
多い
︒ 叉︑詳しく引用される証巻の引文は︑智慧慈悲方便の三門の関係を示すものとしてうけとる ことができる︒これは﹁論﹂の清浄壮聞という功能を解明するものであって︑
それを﹁註﹂の上からくみとられたの であった︒そして﹁註﹂には僧肇の思想がひきつがれていると見られるところであって︑僧肇は︑
﹁聖
智無
知而
万品
倶照︒法身無象市殊形並応﹂
︵大
正犯
lm
上︶などといって︑相をとるにいたる功能を重くするのである︒それに︑住 回講師が指摘されるごとく︑善導の﹁往生礼讃﹂の考え方などが加わって︑前述の如く︑符を成徳の功能とみられて
②
いっ
たと
考え
られ
る︒
尚︑御白釈の文よりする限り︑相官慧なるはたらきの果は功徳成就としては認め得るのであるが︑
﹁利
益他
しの
他の
上の法としては見出し得ない︒これは︑親驚聖人が智をあくまで弥陀についたものとしていることを物語るものであ
って︑機の上としては︑化身土巻にいたって︑ようやく信と智とが並べられ︑報土に生まるという果が示されるのみ
である︒これとても︑智は弥陀の智であり︑はたらきをもととするのである︒
以上のことからみるに︑御白釈にみえる智慧は︑本願の内容として見出されてくるのであって︑本願の中に生かさ
れていくとき︑仏智に遇うことが明かされてあるといえる︒
三
︑ 御 自 釈 に お け る 智 慧 に つ い て
ω
御自釈における智慧について︑他の面からすなわち︑論法の面から考えてみよう︒親驚聖人の文にはAはB
なり
︑ BはC
なり
︑
CはDなりと展開していくもの︑或はXはA
なり
︑
Bな
り︑
Cなり等という形式のものがある︒智慧又
は智慧の概念に入るものが含まれであるものが︑御白釈に八文︑引用文に三文見出される︒
ω
称名正業念仏南無阿弥陀仏正念︵p e
(2)
二 戸 ︑
一 念 ︑
一行︑正行︑正業︑正念︑念仏︑南無阿弥陀仏︵
pm
川︶
(3)
専心︑深心︑深信︑堅固深信︑決定心︑無上上心︑真心︑相続心︑淳心︑憶念︑真実一心︑大慶喜心︑真実信
心︑金剛心︑願作仏心︑度衆生心︑撤取衆生生安楽浄土心︑大菩提心︑大慈悲心︒︵p
m
﹀
(4)
入大
乗正
定緊
︑
必至滅度︑常楽︑畢寛寂滅︑無上浬襲︑無為法身︑実相︑法性︑真如︑
一如
︵p
m
︶
(5)
本願︑大悲︑智慧︑真実︑恒沙万徳︵P刊同︶
﹃教
行信
証﹄
にお
ける
智慧
につ
いて
四 七
﹃教
行信
託﹄
にお
ける
智慧
につ
いて
四八
(6)
大虚
空︑
大車
︵乃
至︶
利調
乃︵
至︶
涌泉
︵乃
至﹀
正道
︵乃
至︶
大地
︑
日輪
︵乃
至︶
大風
︿p
m︶
(7)
由一一無量光明慧一生故︑願海平等故︑発心等故︑道等故︑大慈悲等︑仏道正因故︵
pm
・ − − 山 ︶
制正教︑正義︑正行︑正解︑正業︑正智︵
P
M﹀
引用文では
︶ 4
A
︵
一 法 ︑
一切
無碍
人︑
一 道 ︑
一法
身︑
一 心 ︑
一智
慧︑
力無
畏︵
P沼
華厳
経︶
ω
真応身︑慈悲海︑誓願海︑智慧海︑法身海︵pm
慶文
師法
︶ (3)
大慈悲力︑大誓願力︑大智慧力︑大三味力︑大威神力︑大擢邪力︑大降魔力︑天眼遠見力︑天耳揺聞力︑他力
徴豊力︑光明偏照摂取衆生力︵P
回元
照観
経義
疏︶
これらの語句の配列には︑語の意味や配列そのものに親驚聖人の宗教体験の内容を表わしているであろう︒
しか
し その体験が何故に記されてあるが如くに展開しているのであろうか︑
ということに注意をむけなくてはならない︒す
なわち︑これらの文において二つの方向︑並びに二つの追求がなされてあるといえるであろう︒
二つの方向とは︑宗教体験における方向のことにして︑
一つは︑仏の慈悲をうけとめてその加被を見出していくも の︑二つには︑機の上での現業から推求し念仏に進参するプロセスである︒前に出した文の同州は前者︵
A︶
に当
り︑
ω ω ω
川円
は後
者︵
B︶に当る︒この︵B﹀の中
ω
とω
とは正しく称える称名という相の意味するものを内容的に教伝にもとづいてのべていく︒仰と判とは現にあずかっている益を起点として仏々想念の一世界に入ることの一意味づけをす るものである︒これら二つの方向において︑智慧についてみるに︑智慧が先行しているものはなく︑必ず慈悲或いは 団施されるという仏業があり︑団施されてくるところに智慧が次第してあり︑木願他力の作用として現成しているこ
とを示す︒しかも万徳のことが附加されるのは︵A
︶においてであって︑仏の慈悲の終日怖をあらわすのである︒この