正直で︑親切で︑寛容で他人を尊敬する人間
ω
川w ω ω
省略
と言い︑保護者側でも︑敬愛しあえる人間︑罪意識をもち︑自分と他人に正直な人間︑社会に役立つ人間等で教育者 側とほぼ一致している︒すなわち︑
よき市民として尊敬され︑社会の一員としての責任を果しうる人聞を望んでいる
アメ
リカ
の教
と育
宗教
々育
二五
アメ
リカ
の教
育と
宗教
々育
一 一 六
ょう
であ
る︒
セントクレア高校の校長も︑
﹁人間として恥ずかしくない市民︑権利と共に責任のとれる人間﹂を目標
にしていると述べていた︒
これらを総合的に判断してみると︑
それぞれの学校や立場でその目標も多様ではあるが︑その中に流れている基調 は﹁よき市民として尊敬され︑社会に役立つ人間であり︑個人の自立心と責任感を育成する全人教育﹂である︒
一
ーコ仁3にし
て言
えば
︑
良﹁
き市
民の
育成
﹂で
ある
︒ しかしこういう目標や方針が特に生徒心得に列記してなかったり︑学校 や教育に掲示してないことは︑全人教育に重きを置いていないことを意味するのではなくて︑教育において︑全人教 育の必要性は理の当然であって︑こと更掲示したり︑列記するまでもないことと︑もう一つには︑
アメリカの国民性
として抽象的項目よりも︑具体的生活体験の場を通して︑即ち︑教科︑教科外活動の学校生活を通して︑直接それが 全うされるべきことを示していると思う︒
四︑宗教々育の定義
宗教々育という語には多面的な響きがある︒
︶ 4
A
︵ 宗教教理を教えるもの
(2)
宗教的︑道徳的規律によって導くもの
(3)
宗教的信念をもって教育するもの
アメリカの教育と宗教々育を考察する場合︑右の項目が全て該当するようである︒だから広義の意味において︑即 ち道徳的︑全人的教育を含めて︑それが宗教と何らかの関連をもっ場合は︑すべて宗教々育と解し︑ここでは取り扱
って
行こ
うと
思う
︒
五︑公立学校及び私立学校の宗教々育観
先に考察した如く︑教育目標も定式化されていないが︑その意図する所は︑市民として尊敬される人間の育成にあ
る︒その市民としての態度とは︑民主的な遺産・アメリカの歴史と伝統︑義務と責任を尊敬することであり︑権利︑
所有物︑他人の意見を尊重する立場である︒精神的には敬度の念をもった人間︑喜こんで奉仕できる人間である︒︑︑へ
スル地区の教育長が指摘するように︑﹁公立学校の場合には︑宗教的教義を教えることは実際上許可されていないが︑
宗教を教えることは︑人間教育のために必要である﹂と発言し︑﹁宗教上の教訓をたれる全能の神に対して敬意を表
する﹂という精神的基礎の上に立つてのよき市民を意味していることを強調しているのである︒
一方私立高校には
ω
教会系とω
非教会系の種類があり︑教会系がその大部分を占め︑非教会系は全私立校の5⑤ %にすぎない︒非教会系の私立校の設立目的は︑大学進学を白指す優秀校であるので︑学校存立の目標は
ω
良い大学へ
入学
する
︒
ω
科目
︑か
公立
より
多い
︒ (3)
一学級当りの生徒数が公立より少ない︒判全人教育となっていて︑
第四番目に全人教育を揚げている︒教育方針としては仙どの宗派にも属していないが︑キリスト教主義教育をする︑
ω
高度
の学
問的
訓練
︑
ω
正課
とし
て労
働を
課し
︑
正し
い価
値観
を育
てる
︑
判自分のことだけを考えず︑むしろ
他人を満足させることに喜びを感ずる人間にする︑といって四項目のうち学問的向上を主張しているのは第二番目一
項だ
けで
あっ
て︑
その他の項は全部何らかの意味で︑宗教々育を意図していることが注目される︒この学校では叉聖
童日が正課に入っており︑他に選択科目にも聖書が設けられている︒
@ 教会系私立校の場合は︑きびしい規律︑礼儀正しいしつけをモヅトlにし︑毎週一時間の宗教の時間がある︒又逓
時間の宗教や礼拝が行なわれている高校もある︒
アメ
リカ
の教
育と
宗教
々育
七
アメ
リカ
の教
育と
宗教
々育
二八
公立校の場合には︑宗教が一宗一派に偏してはならないのでという点では同じであるが︑
それでも宗教という言葉
を表面に出して︑それが必要なものと考えられ︑教育者の精神的支柱となっているのである︒
日本では宗教という言
葉すら使わず︑倫理とか︑道徳とか︑又はもっとあいまいに精神的という言葉にすりかえられ︑具体的意味をもって いない︒又教育者の精神的支柱に宗教が関与していないように思われる︒これがアメリカの私立校になると公立校よ
りも
︑ 一層具体的に宗教とはキリスト教であると宗派を全面に打ち出し︑人間教育はキリスト教で行なうことを明確 にし︑宗教々育が具現しているのであ唱︒
六
︑ 学 校 生 活 上 に 現 わ れ た 道 徳
︑ 人 間 教 育 アメリカの従来からの基本的考え方として︑学校は学習を︑家庭は情操を︑教会で宗教々育をというのがある︒こ の分化された考え方は今でも根本において変りがない︒しかし現今の世相の急激な変化によって︑多少はこれが崩れ てきており︑家庭の分野でなされなければならないものが︑学校にもち込まれてきている︒特に貧困家庭や夫婦共働
きの
家庭
が増
し加
︑ そのような家庭では︑親が親としての責任を放棄し︑家庭の教育がおろそかになる場合が多い︒
その
ため
︑ しつけについて︑学校がその代りをする必要性に迫まられ︑学校におけるしつけの面の指導が重要視され
て会
﹂て
いる
︒ 小学校においては︑道徳を組織的に教えている学校はなく︑専ら﹁しつけ﹂教育に専念している︒このしつけ教育 は想像以上に厳しいものでアメリカ全土の小学校は殆ど大同小異である︒
ストリームズ小学校も例外にもれ︑ずきびし
いも
ので
あっ
た︒
小学校一年生が国語の時間に二班に分れて先生の指導を受ける時︑他の班は自習になる︒この時は静かに自習する
ことを先生が要求する︒少しでも話し声が聞えたりすると︑先生はすかさず注意する︒
一方の班は学習であるが︑私
が参観している前を通って行かなければならない︒その時一人一人は﹁エクスキューズミィ﹂を言って通る︒
とこ
ろ が︑黙って通ったり︑聞きとれぬような小戸で通過した生徒は︑もう一度やりなおしを命ぜられるのであった︒音楽 室へ行ったり︑学校食堂へ行ったりする時でも一列に並び︑先生の誘導に従って無言で廊下を歩くことを要求されて
︑R−olv中れ
このように小学校一年生の入学早々でも︑常に個々別々の生徒として指導するのではなく︑集団の一員として行動 ずるようにしつけられる︒個人の行動は他人に迷惑をかけないという根本的方針に従い︑具体的な日常の問題から習 慣ずけられ︑従来のよき市民としてのモラルを低学年の間に徹底してゆこうというきびしい態度が教師側に一貫して 流れているのである︒その学校の校長先生の話によると︑
﹁規則尊重︑公共のために働く人への感謝といったものを︑
宗教的倫理として教えて行きたい﹂ということで︑単なる表面的モラルではなく︑
そこに宗教的なものとのつながり
を持って︑倫理観の奥に宗教的心情を育てようというところに大きな特徴をもっている︒
アメリカ教育の実際は即ち︑抽象的な言葉による忠告ではなく︑行動を通して︑具体的な事を教えるところに特徴
がある︒そしてこれはデュl
イの思想が多大に影響を及ぼしていることも見逃がせない︒
デュ
l
イのプログマティスム︵実証主義︶が教育を風麻酔した時代があった︒それはその根底に︑人間の尊厳︑自由︑
平等があり︑児童中心主義︑興味中心主義であって︑残酷な訓練主義の教育に反対するものであった︒
しかし今や現
場教師の中では︑デュlイを全面的に支持するものは少なくなってはいるが︑デュlイの良い面だけは教育上に生か
されているのが現状である︒
十八世紀にアメリカに興った信仰復興運動により︑教育上にも幾多の影響を及ぼし︑
@ ﹁神はおさなごを罪のないも
アメ
リカ
の教
育と
宗教
々育
九
アメ
リカ
の教
育と
宗教
々育
。
のとは思っていない︑子供達は生れつき︑怒りを発しやすいものである︒な︑ぜなら︑この怖ろしい罪悪は幼少の頃に 深く人間の心に宿る﹂から﹁子供には大人の邪悪な性質がしみ込んでいる︒子供も大人と同じように訓練をほどこす べきだ﹂というキリスト教の教育観によって︑青少年教育が一段と進展したのであるが︑その弊害である訓練主義に
デュ
lイの反対があった︒古い訓練主義とデュ
lイの実証主義が︑民主主義の精神と相まって︑これらが︑その各々
の長所を生かし︑弊害を除き︑止揚された立場が︑
アメリカのしつけ教育の実際として現われている︒そのしつけ習
慣形成の方法とは
(1)
教師自身の習慣を高め︑それを見習わせる
ω
品畳
間悪
を明
確に
し︑
賞罰
を与
える
(3)
行動を通して考える
(4) きびしさと愛情を示す 教育者の態度となって現われている︒小学校以前の習慣ずけも叉大切だとして︑
@
ω
日常生活の基本的行動︑5才までの子供に身につけておきた
い態
度や
習慣
には
︑
ω
対人
関係
︑
制家族の一員として︑判社会の一員として︑
ω
宗教
々育
のた
めに
︑
のうち宗教々育の項で︑
ω
教会へ喜こんで行く習慣︑的判食前と就寝時の祈り︑付動植物の 愛育を習慣形成上必要なことと認めており︑幼児期︑小学校の時代に習慣として教育しようとするのである︒
中学︑高校の場合も学校生活上に多様な方法で︑人間教育︑宗教々育が実施されているのを見ることができる︒
セントクレア高校でも︑毎朝のショートホ
l
ムの時間に︑校長先生の放送を通じての諸注意がなされる︒実際廊下 など歩いていても話し芦は殆ど聞かれぬ位静かであるが︑
校長先生の注意に﹁廊下はもっと静かに歩いてほしい﹂
﹁授業から授業へと教室を移動する時はもっと敏速に﹂と要求されていた︒教室内でも私語はすかさず注意されるし︑