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き{言

ドキュメント内 真宗研究15号全 (ページ 104-138)

は じ め に

﹃親驚聖人御消息集﹄︵広木︶全十八通のうち︑初めの五通は︑この﹁御消息集﹄より後の編集と認められる﹁末燈

紗﹄︵従覚編︶の︑第二十︑十九︑十六の三通に収められ︑

いず

れも

いわゆる造悪無碍の邪義を誠める一連の消息と

して留意される︒すなわち︑﹃末燈紗﹄の第二十通には﹁煩悩具足の身なればとて︑こLろにまかせて︑身にもすま

じきことをもゆるし︑くちにもいふまじきことをもゆるし︑こ

Lろにもおもふまじきことをもゆるして︑

いか

にも

t

ろの

Lにてあるべしとまふしあふてさふらふらんこそ︑

かへすメ\不便におぼえさふらへ﹂とあり︑さらに同第 十九通に﹁元明の酒にゑひたるひとにいよ/\ゑひをす

Lめ︑一ニ毒をひさしくこのみくらふひとにいよ/\毒をゆる

してこのめとまふしあふてさふらふらん︑不便のことにさふらふ﹂と示されるごとく︑そのころ東国での造悪無碍の

横行

に対

して

︑ かかる悪無碍の人をば﹁よく/\この世のいとはしからず︑身のわろきことをおもひしらぬにてさふ ちへば﹂令末燈紗﹄一九︶といい︑又︑この世を厭い流転を悲しんで阿弥陀の誓願を信芯て念仏申す人について﹁とし

ごろ念仏して往生をね︑かふしるしには︑もとあしかりしわがこ

Lろをもおもひかへして︑

とも同朋にもねんごろにこ

L

ろのおはしましあはどこそ世をいとふしるしにでもさふらはめとこそおぼえさふらへ﹂︵同一九︶

① 

の御名をもきき念仏をまふして︑ひさしくなりておはしまさんひとメ\は︑この世のあしきことをいとふしるし︑こ の身のあしきことをばいとひすてんとおほしめすしるしもさふらふべしとこそおぼえさふらへ

L

O︶と︑あるいは︵ 二 vも ︑

また

﹁も

とも

L

のま

L

にて

悪事

をも

ふるまひなんどせじと︑

おぼしめしあはせたまはい

λこそ︑世をいとふしるしに

ても

さふ

らは

め﹂

︵二

O︶

︑ さらに﹁この世のわろきをもすて︑

あきましきことをもせざらんこそ︑

世をいとひ念仏ま

ふすことにてはさふらへ︑

としごろ念仏するひとなんどの︑

ひとのためにあしきことをもし︑

またいひもせば︑世を

いとふしるしもなし﹂︵一六︶と評して︑くりかえし﹁世をいとふしるし﹂という言葉で︑

ひろく念仏者のあり方につ

き厳しく教誠された事情について︑

とくに当時の東国教団の動静をうかがい︑歴史的・思想的背景の上より考察して

ゆき

たい

︒ まず﹃末燈紗﹄の第二十通は︑建長四年︵一二五二︶二月二十四日︵﹃御消息集﹂には﹁壬子八月十九日﹂とあり︶京都の

親鷺より東国の同朋に差出されたもので︑時に親驚は入十歳︒その文中に﹁明法御房の往生のこと︑

をどろきまふす

ぺき

には

あら

ねど

も︑

かへす人\うれしくさふらふ︑鹿嶋︑

なめ

たか

︑奥

郡︑

かゃ

うの

往生

ねが

はせ

たま

ふひ

と人

︿\

町︑

のみな御よろこひにてさふらふ﹂とあり︑第十九通に﹁なにごとよりも明法御一房の往生の本意とげておはしましさふ

らふ

こそ

常陸

国う

ちの

れこ

にこ

L

ろざしおはしますひとん\の御ために︑ソめでたきことにてさふらへ﹂とあり

﹁このふみは奥郡におはします同朋の御なかに︑

みなおなじく御覧さふらふベし﹂という記載と︑更に第二十通に収

世を

いと

ふし

るし

九七

世を

いと

ふし

るし

められる守御消息集﹄︵広本︶第一通の﹁くすりあり毒をこのめとさふらふらんことは︑あるべくもさふらはずとぞ︑

おぼえ候﹂の一節が︑奥郡に属する河和田唯円の撰述と撰定される﹃歎異抄﹄に﹁御消息に︑くすりあればとて毒を

このむべからずとあそばされてさふらふは︑かの邪執をやめんがためなり﹂︵第二一蚕︶と載せていることは︑恐らく

両通とも︑同じころに常陸奥郡の同朋に出されたものと考えられる︒

つぎに﹁末燈紗﹄の第十六通は︑年次不詳の十一月二十四日付の消息であるが︑第十九通に﹁されば北の郡にさぶ

らふし善乗房は親をのり︑善信をやうノ\にそしりさふらひしかば︑ちかづきむつまじくおもひさふらはで︑

ちか

げずさふらひき﹂︵﹃御消息集﹄四︶とある善乗一房のことが︑そのまま﹁北の郡にありし善乗房といひしものに︑

つゐ

あひむつるtふことなくてやみにしをばみざりけるにや﹂合御消息集﹄五︶と記載されることから︑同年の建長四年か︑

翌五年の消息と推察される︒これについては︑右の善乗房の事を述べて﹁凡夫なればとて︑なにごともおもふさまな

らば

ぬす

みを

もし

ひとをもころしなんどすべきかは︑もとぬみすみごLろあらんひとも︑極楽をねがひ念仏をま

ふすほどのことになりなば︑もとひがうたるこLろをもおもひなをしてこそあるべきに︑そのしるしもなからんひ

とん\に︑悪くるしからずといふこと︑ゆめノ\あるべからずさふらふ﹂と︑厳誠すると共に︑かかる東国における

悪無碍の流行に対して﹁鹿嶋︑なめかたのひとれ\のあしからんことをばいひとどめ︑その辺のひとβ\のことにひ

がふたることをば制したまはいふこそ︑この辺よりいできたるしるしにてはさふらはめ﹂とあって︑

﹁そ

の辺

﹂は

常陸

の鹿島︑行方地方を指し﹁この辺﹂を親驚の居住する京都からの事として解すれば︑

﹁こ

の辺

より

いで

きた

る﹂

とは

常陸の念仏沙汰に対して︑そのころ京都より東国へ下ったという事となるから︑この場合︑親驚の子・善驚にあてら

れよ

う︒

した

がっ

て︑

かか

る推

定よ

りす

ると

善驚の東下に先だち︑

既に

早く

より

善乗

房や

信見

房︵

守末

燈紗

﹄二

O︶

等によってくすぶっていた造悪無碍の火が︑ここに明法一男の往生を契機として再び燃えひろがることとなった︒

ところで︑造思無碍の横行をうながす縁となった明法一房往生について︑

それの親鷺への報告は﹃末燈紗﹂第二十通 に﹁明教民ののぼられてさふらふこと﹂とあり︑同じく第十九通には﹁この明教一局ののぼられてさふらふこと︑

まこ

とに

あり

︑が

たき

こと

lA

おぼ

えさ

ふら

ふ︑

明法御一房の御往生のことをまのあたりにききさふらふも︑

うれしくさふら

ふ﹂と載せられ︑親驚は上京してきた明教一房より直接くわしく聞くことができたが︑或は︑このことから更に明法と 明教との親密な関係のほども察せられる︒即ち︑これについて﹁親驚聖人門侶交名牒﹄に︑親驚の孫・如信の下と︑

常陸国奥郡の乗信の下に︑

それぞれ明教の名が載せられる︑が︑両者とも親驚の孫弟子であって︑この場合に該当でき ない︒これについて︑私は以前︑親驚に帰依した弟子として奥州富田の明教を挙げ︑彼が鹿島︑行方︑奥郡より集め

 

た志の銭を持参して上洛したことを述べた事がある︒なお︑これについて明教は﹁明法房ノ子ノヤウニモ見ユル﹂と も云われるが勿論その確証はない︒

しか

し︑

それは兎も角として︑明法については﹃末燈妙﹄に﹁明法一房などの往生 しておはしますも︑もとは不可思議のひがごとをおもひなんどしたるこ

L

ろをもひるがへしなどしてこそさふらふし か﹂︵一九︶と記されて︑明法は此の度めでたく往生したものの︑実は曾って大変な心得ちがいをし︑そののち改心し たという事である︒すなわち︑これについて守交名牒﹂に﹁明法

常陸国北部住﹂として︑また﹃二十四輩牒﹄には

﹁跡

信証

久慈西楢原﹂と載せるが︑実は︑この明法こそ﹁親驚伝絵﹄のいわゆる﹁弁円済度﹂の一段︵下ノ三︶に出 る板敷山の弁円で︑親驚が東国在住の湖︑稲田の禅室を襲ったが︑

かえって︑その徳に化して改悔・憤悔して﹁仏教

に帰

しつ

L終に素懐をとげき不思議なりし事也︑すなわち明法房是也﹂としてのせられる記載と一致するもので︑晩

年は久慈西部に住みつき︑

﹃大

谷遺

跡録

に﹂

﹁名

を明

法一

房一

証信

と改

玉へ

り︑

楢原

に居

住し

︑建

長一

二年

十月

十三

日六

世を

いと

しふ

るし

九九

世を

いと

ふし

るし

O

O

入歳にして︑奇特の往生を遂られき﹂︵巻一二︶と伝えるごとき往生を遂げたものと思われる︒もっとも﹃遺跡録L

は ︑

史料として後世に属するものであるが︑その往生の報告をうけて︑

親驚

がし

たた

めた

消息

︵﹃

末崎

紗﹄

一ズ

U︶が建長四

年二月廿四日付であるのは︑ちょうど年時的にも相応する︒したがって︑明法の往生をめぐり﹁往生にさはりなしと

ばかりいふをききて︑あしざまに御こL

ろえ

ある

こと

おほ

くさ

ふら

ひき

いまもさこそさふらふらめとおぼえさふ

らふ

﹂︵

﹁末

燈紗

L二O

︶と

それは格好の証拠として悪無碍暗一伝の具にされようとした︒かかる教団の動静の中で︑親

驚は﹁めでたき仏の御ちかひのあればとて︑わざとすまじきことどもをし︑おもふまじきことどもをもおもひなどせ

んは

よく/\この世のいとはしからず︑身のわろきことをおもひしらぬにてきふらへば︑念仏にこL

ろ一

ざし

もな

く︑

仏の御ちかひにもこLろざしのおはしまさぬにてさふらへば︑念仏せさせたまふとも︑

その

御こ

tふろざしにては順次

の往生もかたくやさふらふべからん﹂︵﹃末燈紗﹄一九︶と中される︒すなわち︑造悪無碍を主張する人たちは︑本当に

現世を厭う事もなく念仏に志のない人であって︑かつて先学が﹁コノ世ノイトハシカラス身ノワロキコトヲオモヒシ

④ ラヌトハ機ノ深信ノカケタリ︑念仏一一コ︑ロザシモナグ法ノ深信ナキナリ﹂と評した如く︑自己の機悔と如来の願心

を無視するものであろう︒

市して︑悪無碍の邪義については︑すでに源空の専修念仏の唱導とともに︑その教団内に発生し︑それは源空滅後︑

門下にとって常に一つの大きな課題であったことは﹁なによりも聖教のをしへをもしらず︑また浄土宗のまことのそ

こをもしらずして︑不可思議の放逸元断のものどものなかに︑悪はおもふさまにふるまふべしとおほせられさふらふ

なる

こそ

かへす人\あるべくもさふらはずL

︵一

六︶

とあ

り︑

また﹁浄土宗の義みなかはりておはしましあふてさふ

ドキュメント内 真宗研究15号全 (ページ 104-138)

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