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『宗教研究』新第5巻第2号(*40号)

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(1)

――目次―― 1,口絵,異本父母恩重経解説 2,仏陀時代の政治状態(上),羽溪了諦,Ryōtai HATANI,pp.1-28. 3,吠檀多精要と十五章篇(上),金倉円照,Enshō KANAKURA,pp.29-48. 4,起信論の成立に関する史料について(下),鈴木宗忠,Sōchū SUZUKI,pp.49-70. 5,名と不滅観(上),原田敏明,Toshiaki HARADA,pp.71-87. 6,法華義疏を通じて聖徳太子と大陸仏教との関係序説(1),花山信勝,Sinshō HANAYAMA,pp.88-118. 7,胎蔵界曼荼羅の三角印について,池田澄達,Chōtatsu IKEDA,pp.119-121. 8,切支丹史中フランシスコ会の伝道(下),姉崎正治,Masaharu ANEZAKI,pp.122-139. 9,ウェルギリウスの地獄界,アエネーイス第六歌研究,黒田正利,Masatoshi KURODA,pp.140-148. 10,著作を通して観たる エストリン・カーペンター,増谷文雄,Humio MASUTANI,pp.149-155.

11,未開人心理の一研究,L. Lévy-Bruhl, L’Âme primitive, 1927,古野清人,Kiyoto HURUNO,pp.156-160.

12,新刊紹介,巻尾pp.1-6.

(2)

る:呑九:の 琴智鍔 玉 梓丁:四 詑 乙 る 毎行窄 で ○五 ご の

嵐 紋魁尾 本軟一捕 の(工 父子f 一 中 わ 朝

(3)

ユ丁3

羽 渓 了 諦

﹁ 従来東西に於けろ原始件数の研究は.主として偽陀の生涯・人格・思想及び数囲に限られて、沸 陀を中心とする之等の宗教文化が産出せらるゝに到った必然的根披に封する討究は、殆んど閑却せ られた覿がぁる。勿論すでに公にせられた研究成果の中には多少この間題に細れたものもないでは ないが、その多くは単に原始件数の思想及び散財とそれ以前若しくはその常時のそれ等上の比較若

tくは関係を諭するに止って、未だ以て原始係数文化仝斑に捗って、その起源を究明したものは絶

無と謂ふべきである。 抑舌代に於ては、その地域の如何一で閉はす、票数とその他の一般文化とが密接不離の闘係一で保っ てゐたことは.今更いふを妻ん小甘い。殊に舌代印度に於ては、この傾向が最も顕著でぁつた。従っ て舌代印度に出現した偶数ふ亦常時の一般文化を背景として興わ.常時の曜想と要求と一で反照して 一でるのでぁるから.彿教の木賃特徴一で光附す右には、それが依って起っ七背景たる価陀時代の政治・ 併陀時代の政治状鮎

俳陀時代の政治状態 ︵上︶

(4)

lT4 ■ l い先決‖餌でやしわに左らn。 琵歌・m心想・酢曾刷比・緯酷組織などの東和を究明了?1とか.一一・・ か、■・Q見地から∴ノち仰陀怖代の政治状琴ど槍ペ、それが倍数の興起に別して如何な云背蕊的役 割と左つたかを研かにして、・以て此の由見解淡の一端−二伏しょぅとm心、㌦l− 〓 彿陀時代む印比l︰択ける政治状琴ピ討検するに光って、その政治的舞董となつた常時の地瓢豆就 いて・明確な知識を有することが必要でぁる。常時印度が所謂中風︵巴ソ萱⋮写d且を中心として、 南迫︵巴P≡音l︼lp︶と北近︵巴ぎ・萱−1p︶とに院分せられてをつ仁こ1しに柚かであ・りが、今この地痙 的三精分の範園一で推定することは、容易でない。 大概か、る地埋的精分は・彿陀時代よbも遠か以前l︰行はれてわたのであつて、アイクレヤ址憲 Aitarつ︸ニぎニーm蔓八・一四には既に同じく三精分が川わ・トれてをる。之に徒へば.拘接.般闘経 ぎr一lP卦a−P放がゾシヤぎ仰日放及びクシーナラU″i.−−⋮放と北ハに中部地力︵梨巳き1蔓∴ごdに任 し.南部地方︵梵P蜃薫P・di恥︶はナ\アントS告邑故によつて占められ、雪山l±2P⊇1tきを越え 々、. た北力拘接已古妻・ぎ⋮放及び北方†ドラU−−⋮・冨drヂ畔の囲土が.北部地方︵≡⋮づ衰︶と押 せられたのである。 市郎北方のサトケソト放の名はアイクレヤ梵書〓・二五にもシ†ク.ハトハ兄誉壬⊃1雪㌻二三⋮三−∋ 怖指弾代の政治胱怨 _ ■■

(5)

】丁5 〓王・五・円・ニーにもホされてわて.前者に於いては彼等が有名ハ㌧ブて7タ一字弓一一;炎上・・クて 攻撃せられて.その財貨を分捕られたことが侍へられ.後者に於ては∵彼等が馬前︵Aぎ⋮e≧一声︶の 名に備へて恋いた馬をブ.ごブタ族に依って奪掠せられたことが侍へられ、而もシ†クバト♪焚書− 三・五●四・〓にはブごブタのクタフシ†ン一74冒u首n㌃が贋大ハu範囲にその勢力を布和して. 馬飼を行ふため.ヤムナーY昌≡1い河−現今のJ一一mヨ芦河岸に於て七十八頸の馬.恒河GP音声の

近傍で五十五頸の馬を綴ったことが傍へられてをるから、最初サトケント眈は現今のジームナ河及び

伝河の上流域に跨ったブニフク王国を去ること除b速くない南方に任してゐたのであらう。併t之 等の焚書に於ける上述の記事は、いづれもそれ以前の青侍設を引用したものであるから.梵事由代 には彼等は更にそれよりも造か南方に移つtゐたと考へられる。昔時すでに南方ガグルブハ壬守 ≧亭−現今の官r腎− に於て、王国を建設したブホジャ学令族と此のサトケント我とは、同 族であつて、而も南方ギ〆〝ブ♪の王国と血族関係がぁつたやうに何へられて亨○から︵ソぎココ弓 l一L−ごPきー?⊥rこテ∴声︶。或は常時サーブソト族はブホジャ王国中に包括せられてゐたかも知れな い︵声Pぞe訂一︼dh与≡liむH已旨:ニコdぎ写−甲−P︶。若し果Lて然bとすれば、昔時の南部地方は抑 圧耶≦臼d︼一yP山を南に越えた地方を指すことゝなる。 .次に北部地方に住んでみたといふ北方拘櫻飯t北方†ドラ放とは、ヒ†−ラヤ・山を越えた北方 ● 簡托時代の政治簸癒 ∵ ▲

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lT¢ 俳指呼代の政治状鹿 ● 四 の地域を占めてゐ佗ことは、前掲のアイクレヤ.焚書の記銘によつて明かである。大燈拘接廠は吠陀 時化から引積いて現今のデ,−De−riに近いイング.ハッタ︵ゴ乙芦号t三Ⅰ−−㌢∋pr邑l一戸︶を王府とせる 王国を建設してゐたのであるが.その一部はと†−ラヤ一ぜ越えた北方に扱ってゐたのでぁる。而し て†ドテ族は者描荘︵龍田写巴g巳P︶ − 現今の中部バンジ†−ブに於けるシアールコトS訂−1邑をま 庶として▼其の隣接地方に任してゐたのでぁつて.此のま府の名は大飯ホ詩 ヨ已−旨︼−計已芦〓・二 二・一四にも本生J竪FkP四谷二三〇頁及び五啓二入三頁・二八九頁にも記されてをる。彼等も亦二 部に分れ、南方†ドラ人はバンジ†−ブに任してゐたが、北方マドラ人は北方拘楼人と同じくと†− ラヤ山脈を越えた北部地方に任してゐたのでぁる。故に北部†ドラは、チム†−氏が推定したやう に、ほゞ迦葺瀬尾内乱1一l#に細密するでぁらう︵声崇eヨer主計dぎ已訂beヨ一声︼○ド︶。.而して之と隣接 してをつた北方拘拝も亦多分迦立輔荘若しくは其の隣接地方に在ったこと.は疑ひを容れない。 要するにアイクレヤ梵審の所謂北部地方はと.†−ラヤ以北の地域を指し、南部地方は頻度耶山以 南の地域を指してをるのでぁる。併し其の所謂中部地方はその住民としてロハ拘梯・般閑雅裁とケシ†・ 於ける杓作東方の国土を銅新してをつたのでぁり.ウシーナラ狭は佐に冷†・りやうに小誌時々の蛍 る。拘穆政の任地に就いては先きに述べた通りでらタ、般閉経族はと﹁−ラヤ山脈と喧河との別に 族とクシ.−ナラ族とを畢げたばか♭でぁつて.其の境域を精確に知るこ上の出凍ないのは退城であ

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17丁 北龍.い・りトー†−タヤ山・で山−︰返え仁侠出版地帯上化してわハト・いて∴・′−γり.

篤い持に︰

依っては北部時代に於ける中部地方の東西両境・で定めることが㍑凍互いけjt北ハ、‖ハブシ†放の名が中 部地方の住民として記されてをることに依って.その東境一竺推知し狩るのでぁる。ケシ† くl㌢放 は現今の︼ハOS己ロに加齢する橋爪弼只⋮掛mbi・ぞま府とした披踵く已づ仇三ノ、各戸放でぁつてシ†クバ ー♪梵審㌘b冨訂アH〓.Pド一日にはタブ〆−ラカ・アールエUdd已p㌻賀.一つiと同時代の人物とし ● て、ブロタィ・カタシ†−ムペヤー︶reこ︼︵⋮宗mg苫−−1︼ハ岩音日beypとは﹁倍賞細の住人﹂の莱 − の 名一で奉げ、而も前者はジ†ナカJ⋮乙ハ芦王の宮庭に於けろ有名な一人物でぁつたのであるからケシ▼放 のま肘王る倍賞弼城は夙にジ†ナカ王時代以前に存在してをったに違ひない。而して此の都城lま現今 のA〓nrさ註の西方約三十哩配る︼ハ︵彗1︼一に粕督するのでぁるから多分允許時代に於け争中部地力の東 端は、恒河とジェムナ河との合流する地凱に位するアルラ♪−ノード附近に迂してゐたので・のらう。 以上ほアイクレヤ梵諜の記嚢に基いて、能ふ限卜常帖に於ける地理的三振分の境域を推定せんと 試みたのでぁるが、此の文献を以てLては﹂ その中部地力の西端は全く発知することが不可能でぁ る。ところが、幣蟹巳己≡の法典には此の難が町l瞭に指ホされてをるのである。その扶助ハlTニー

な♭に

に 、 用祁小 定 は中国へ彗l乙h︶・乙c£の範囲が可精確限せらiLてをるのであつて、之に依ると 国はと†−ラヤ山を以て北方の境とし、抑圧耶山一で似て市方を根b、光は鉢茫耶伽−J・コ︶・お声 − 現 俳陀時代の政治飯南 五

(8)

!7さ 犬 彿柑時代の政治状忠 今のA︼王寺冨d.西はギ・ナシ†ナ.≦コ卦=P−沙鹿沙絆鹿野rまY邑河が現今のラージブターナ夢早 p邑−1芦に於ける大沙濃中に渦去る地域−−を以て囲まれた国土を指したのである。席数の法典は西 暦紀元前こ有年以後に於て原型に作られたものであるけれ共.その中の記事の大部分は温かそれよ む以前の時代に屈するものでぁることは、一般畢宕の認ひる所でぁる。少くとも.中観に闘する此 の紀蠍は、偽陀時代よりもー好古いものであらゎばならぬことは.後に諭する所に依って畑かにな るだらう。従って此の記殊に基いて、傭陀時代に於ける中国の境域を定めることは出来ない。 三 然らば、傭陀時代に於ける中間の境域は∵何に依って知ることが出凍るかといふに、巴別種戴大 品玉●〓ニには之に就いて信用し得ペ.き記事が載せられてぁる。之に依ると.傭陀の高弟大迦訪延 宣己l罫書且盲lpが阿紫詮覇道Aノ,≡ti・DP粁k︼1官−一邑1P に於て布教を開始した時には.そこには未だ 偶数があまり何指し.てゐなかったと見えて、比丘の款が乏しかった男、彼によつて出家せしめられ た優婆塞倍耳管已ハ一書P膏は壷ちに道具︵眉R昌pを︶の式串㌢授けられることが出水なかった。 蓋L俳陀の規定せられた原則に徒へば.進具の式事を行ふには少くとも十人の比丘衆を必要とした からでぁる︵くぎー︸pヨ嘗p;㌻一−ぎ貞PH.・芦:Hニー一●︶。かくて彼はその出家彼三年㌢種過して、辛うじ て其の原則に位ふて.逓典を得たものでぁるから.其の抜放は一度此しく傲陀に見えlし.市亭・り4

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179 拉に於ては、進奥の式姉・′、の他・い串に榊†る原則・ゼ発かにすることの許可′イ一得んと欲し.之を英・り 師大迦防延に謀って、その同意を符、自ら昔時各桁城S蔓11蔓iの祀園Jき・Y⋮に任せられた彿陀 の許に赴き、その師の名に於て、そ打希望を陳べた研が、傭陀は寧りに同意して、中国以外の名速 攻の地に於ては、五人の比丘衆によつて進具の式事を行ふことが出来るやうに改定せられた。そこ クかヌ;誓pす音戸城を以で、西はトフーナT︼一ぎと名くる婆推門村・で以て.北はクシーラ, ■ を越えた†♪−サーラー己已一翼−みを限りとし、東南はケラ一フプチィー竺乙⋮ti河を以て、商はセ で、此の際.中国の境界を確定するこ・とが必要であつたから.彿陀は束はカジ†ンオーフl′、号音乙p城 ・ドハジ†d乳r乙き官と耕する山を似て境とし、之等を越ゆれば造園でぁわ、之等以内が中国でぁる と指定せられたのである。 一 此の中国の境界は、彿陀が勝手に定められたのではなくして、大橋常時の地理的通念に随はれた のであらうと思はれる。之と同℃場合に、係数が定められたものとして、中国の範囲が他の併典に も垂二示されてをるが、いづれも一致を欠いてをることは、研究上甚だ退城でぁる。十詞絆窮二十 玉音管玉九糞︶に.よるト・南方には白木泉落・西方には住婆羅門象落、北方には優戸羅叫之を去 ること温からゃして蒲泉薩羅樹.東方には伽郎と名くち嬰鹿央落、東北には竹河があって、之等以 外が迭観。更に四分梓第三十九︵列五・五三枚‡︶によると、東方には白木調固、南方には前書渚、西方 . ヽ 靡柁時代の毅治軟毛 七

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180 . 入 俳鴨時代の政治状態 には一師梨仙人種山、北方には柱固かぁつで、之等以外が除方。給うにディギヤ.−ヴグーナ ︵Dす﹁ 邑ぎ、已.b叫9乱l写d賢一.ヨr警1ごには.東方にブヌグケルト∴ナ買ぇミ弓≒−幸二城,その東にブ ヌグカタシ†冒且已ハP首戸山があ♭、南方にはケラープチ㍉−S弓腎邑城、その東に同名の河があり, 西方にはスLrクーナSt−⋮p及びタメストフーナカ.q−孟t︼−引−5k芦 といふ嬰羅門射がゐ♭、北方には クツーラ已獣r戸山があつて、之等を越ゆれば逸観であると僻・へられてをる。 中国の境界に関する以上四種の記録は甚だ混雑してをるから.今之等の異同を一目瞭然たらしめ るために、その衷を作らう。 をるやうであるが、仔細に之等,で封照研究してみると.・後に詑明す・仲野サに.′一誌せり草‖は的基山什−㌧1∴ ・硝鴇Th分掌悩料3耳 詩境お3耳 かやうに巴渓梵の彿典に倍ふる所咤 詩濾二旨き宅風量 ■諷・掛ぎ好︳雲i量 嬢∵詩 沖 卦S已已言’t︻笥

沖且

︹芸弊︾如︺ ぎ官官一り寓 ソ㌻h訝巳㌢ ︹十抽乱芸︺ 癌軸浄封 ︵亜∵富二璽︶ ヰ 司 P氷果彙

詔七おニー 撃雲芸壷 ︹遥坤苺︺ ℡算望国 電車長

去誓忘E︵

霹 瓦 e諷r中古 二見するとその地名その方角に於て、各甚だしく相違して

︹Dγ苫.■巳ぎ乙 ㌢Tぎ邑裳 00彗ざpG遡 St茅膏喘封コ耳 已葛生ぎ官岐南3耳 句u忌中k中吉︳E ゴー且’ヨrdh警旦選

(11)

18l に於てこそ相違あれ.四糀の記敦に示されてをる地名には共通のものが多く.而も・くの方角も一変 してをるものが秒くないのでぁる。而して巴別枠鼓は分別訣部の所侍であ♭、十詞揮は一切布部の. 所何であ♭、四分梓は法蕨部の所倍であむ二74ギヤーすグーナはその侍詑の多くは巴.利聖典のそれ と共通してをるが、大乗方贋部に屈するものでぁつて、之等臭った諾部の中国の境界に附する侍祝 が大位に於て姦して㌢るとすれば・此の傍設の本源はよほど古代に成立したものと観ねばなら乃。 殊tか∼る中尉の境界規定の動機が前述しセやうな信用し得べき歴塵的串件に開聯してをる払であ るから.その起原は何うしても傭陀時代にぁつたと認定せぎるを待ないのであう。かくて傭陀自ら 規定せられた中国の範囲が、其の後分裂した諾部の彿教徒によつて忠賓に侍持せられたのであるが、 歳月の経過と共に典った部派の見解に従って、その何設に多少の相違を生じて、欄掲の衷の如き結 果となつたのであらう。 一t■ 之等四祝の中、比較的最も精確に虎詑を何へてをると認められるものは、巴別種薮の記銀であつ で、之がそのま1本生可︵J言F■1.p一声︶を光めとしで、畢菅︵冒dd−−旦10川,︶の註杯事たるス†ソガラ・ ざアーシーl−︵P甘,g巳邑邑きl−ワ一声︶等に引用せられてをる革質から覿ても、少くとも釣附の偶数 徒に依って息賓に相承せられた印度相乗の此の詑が西暦第五世紀に至っても依然として彼等の問に 耗封の楷成を保ってをつたこと一で知♭得るの†ある。故に今此の巴別冊説を基本として、他の三倍 併托時代の政治状鷲

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先づ東方の連環として奉げられてをる︼ハ争すl芦城の名は.巴別件典に於ては.梓戎大品の外∵ 中尼珂耶痕三軍元入頁及び埼1月珂耶第五巻玉田賓に出で.殊に本生音節四筆三一罰に於ては、 や来迎であつた鉢避耶伽よhソ・b.二ほ東方的四百哩の地域▲一手癒直せられたこと、な♭、従って .■l − ・l 此の城が傭陀時代に於てすら古い朗であつたことが告げられてをるけれ共、之等の巴利楽典では.

それが現今の如何な・心地方に舶督するかを知ることが出水ない。然るに、玄共の西域記第十笹に掲

げられてをる翔朱荘砥羅︼ハ音量一ぎこ−俗解殉蝿掲推︼︵Py声音︼p.?−−は.僅かに巴利の︼ハ号音号 −Pの輔化七たものと取ることが出水る。而して玄輩の記銘に依れば、之は中印度の束境に位す詫 曹巴でぁつて、カソニソガム氏は今のR号−已−已を以て之に督て、其の音名︼ハ亘.首−は厚菅︼£争 g㌢の袋形したものであると論じた︵Cu㌢号ヨ盲eぎtG長与:−⋮言責︶。フユルカッソソ零rJ g孟華氏もカソニソガム氏の指定地附近であらうと考へ︵J.声:=芸p●琵︶、りでデポズR︼一3 Pくidれ氏も亦現今の芋蔓l 官rの東方約六五!七〇哩の地鮎に位してゐたに違ひないとま張し烏 のであるからハJ∵戸﹂デm∵岩望ご扁.かγごlハ各式乙pは大概カソ一;ガム氏の指定した眉甘已一巴に細督 すると見て大差なからう。若し巣して然bとすれば、彿陀時代に於ける中国の東端は摩蟹時代に於

彿陀時代の政治状態. と比較対照しっ∼中国の境域を究明しょう。 四

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188 横着の中祖ヒ問†・匂記免が前者よりもー屏舌代に戌†ろも・りであること■で知り得・0。 巴利絆汲に於ては漉の︼ハ富者一。を越ゆれば冒一−読l已芦.ぁりと記されてをるが.之は玄炎の西域 記第七巻敬重囲の催に一対邑の名耕として示されてをる摩河婁羅の封音と軌て差支はないけれ共. 玄莫の所謂犀糾婆推邑はベンガルに於ける現今のS︼一己;b乙より西方約六哩鈍るヨ邑rに柏餅する から︵W星jOコY一−呂Cl云コgこⅠ・ワ三巴別枠寂の示す方角に適合せない。若し≡乙−・室町i を女性の形 ● として取れば﹁大成間﹂とか﹁大家屋﹂といふ義を帯つ言東となるけれ共著L之が写−︼−訂已芦 の視次の

形でぁるとすれば﹁大要鹿林﹂といふ悪政に解され得るのであつて而も原本には之が村名で今っとも

地名であるとも記されてゐないのであるかキ多分之は︼ハ号音乙⊇城の東方に存在した大嬰兼林を

・指定したのであらう。併し十詞枠には﹁東方有婆灘果落.字伽郎.伽郎外是連固、﹂と記されてあつて. 此の地名の詮表が甚だ不明瞭でぁるため之を解するに困難を成するが、併し惟ふに華麗は婆羅︵望rP︶ の祝宴でろつて.摩河婆鹿の摩詞︵大︶の昔を略した形でぁり、その大喝羅袈落の字が伽郎であつ た4いふ意味ではなからうか。而して伽郎︵G己芦︶は︼ハ富者已Pの路音と宥催すことが可能ではろ

るまいか。若此の是が許さる、誉ば、十票の記銘はカジ†ソガラ禁若芽にあつた大婆

山 産林に因んで、婆毘奈落と名けられてをつたことを侍へる鮎に於て研か巴別枠就のそれと相違して

をるけれ共.其の指示する所の文境は、正しく巴利梓充のそれと一致すると謂はねばならぬ。 簡陀時代の政治鋏癒

(14)

l糾

彿柑時代の政治放電

然るに、ディギヤーケ〆−ナの示す充填は.−︶一息⋮r︻家−1p城でぁつて.前者と全く興った地名が 奉げられてをる。けれ共・此の地は前者よりも温かに東方に位してをること一で知b得る。玄炎の西 域記薪十巻に記されてをる奔那伐郊那固が即ち此の字首く邑−喜1芦に相節す今1とほ,その望臼が 和一致するばかりでなく−阿育王経第三巷には此の固の名辞が正樹長と許され.それに袖幕する梵 語才弓⋮d−・邑が少しく特化すれば・増長曾ヨd−1書Pとなることに依って.推定することが出奔 る︵T.W蔓眉○ロYuSC訂ng−言Ⅰご.︼芦︶。而して玄英は弼蝿掲維即ちーハ与す︼pより東進して宛伽 G乱笥河.を渡b、更に六百余里︵約盲二十哩︶にして此の由に通したのである。カソニソガム氏は 此の甲ピ以て今のPb−一p措定したが︵A.G.〇=ndi言き︸多少その翌日に於て両者相似迫ふて・を るけれ共、芽bnPではあまりに務伽河に接近t過ぎてゐて、玄英の記銘に適合しない欠鮎がある。 此の故に反封した7エルガクツソ氏は之が今のR戸ngpur︵R己1gp宅︶に和督すろと軌たのは︵J・勾・ゝ・甲 −笥タワ琵.︶.寧ろ正しいであうフ。果して此の勺u首∃d11⋮が現今の声⋮gて1一rに雷るとすれば. 廠陀時代の中国の東境は、巴利梓就に所謂声音首−pよタも更に東北首哩以上に達することゝなる。 併しディガヤーすダ﹂ナは巴別枠就大品よトも後世の成立に係るものであろから.彿陀時代の中観は 失破巴別枠叔並に十諦梓に随ふて、肖甘首lp城を以て其の束境としたと軌盲べきであらう。勿論、 沃辞中阿令弟入︵至・凹七芸︶同前九︵至・五〇芸︶及び妹阿合琴一十九︵長三・六九−七〇牧︶に改

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185 かれてあるやうに、著し彿陀が金剛観に於て﹁説法せられた=とが 剛団が玄奨の所謂東印度金耳国人汽弓竃・岩≦r首 相推察蘇伐︶に相督するとすれば.併陀自ら恒河 の海に注ぐ地方まで遊化せられたことになるのであるから、勺u且弓雪dh芸事を似て常時の中尉東境 .と宕催して笥敢て差支ないやうでぁるが、之等南国名を同一視するこどは単なる想定に過ぎないの . であつて、巴利月岡夜には全く之に細管する国名を侍へてをらないのであるから.今の場合として ● 欄已別枠絃の所何に随ふて、︼ハ号音P︼p・ざ以て中国の充填と机た方が∵写ろ精確に近いであらう。 ■ 次に巴別枠荒に於て中凶の東南境として指示せられてをる空音星−︵S已︼買邑︶河は.他の文献 七於ては絶えて見普らない。併し之が十詞梓に所謂竹河及びディガヤーブグーナに所謂㌢r芦.星⋮河 に相管することは、仮令その方角は各興ってをつても、大概推定することが出奔る。後者が螢昔上 野−︼・≦仁と相通することは柄かでゐ♭、前者は多分長い菜を有する栓樹の一種たるS㌢−p︵㌢邑,︶ 樹の形状が竹に類すろ所から㌫㌢一p≦庄一で竹河と祝辞したのではあるまいかと考へられる。併し決 デ一方ヤーブ〆−ナは此の河を以て中歯の穀雨遽を指虚してをるけれ共、巴別枠鼓に於てはその甫 洋傭兵に於ては、この外に斯る河名を見出し得ないから.その所在地を槍ペる手掛ゎがない。 境に位する市邑としてぎ首一息k・といふ名辞が示されてをる。・翌Fは﹁自﹂を悪政し、︼ハ薫1ぎ は﹁耳飾﹂若しくは﹁塔の尖瞥の鶉を持ってをるが・また尖塔の形をした克といふ意味をも有し ヽ 俳托時代¢政治競艇

(16)

lS6 怖陀時代の欽清秋広 一四 の形状に韮いて、之一で﹁木﹂と詳したとすれば、十︰紬柑に於て市境として指定せら て亨りから.そ れてをる白水髭洛は.正しく此のSりlをlづ乞lハPに舶蕾す一心と茄促し得ろけれ北ハ、足れ亦現今のいづ れの地を指†か一で知ることが出家へ㌧い。四分律わ白水訊駒も必す之に和許す一りに泣ひないが、その 方角は光速となつてをる。 要するに.S∑∑芸l■i河にせよ.Sりt已ハ卓‡ハP邑にせよ.いづれもそい用心地■で推定すろことが出 水ないため.之等の記蝕によつて、中観の市境暫定め・わことは不可能でJG一㌔併しながら、車にし て他の方面から、之を碓足し得るのである。かの火迦桝廷が祁致して・でつた桝として、巴利紳終に 記さる∼阿柴拉市泣ゝノゴ=こ・D≧︷喜一言墓ぅに就いて一考†れば、nら此のm馳郎淡の迫が聞かれ・Q LJ想ふ。大槽面−整址は頗る廣大ハ与劉であつて.俳此ハに於ては北ハの郡市として.位柿月 ︵巳ぎーC と 犀醸沙底︵巴ソ≡i呈岬︶とが記載せられて一ざQ︵J三訂︼ノ・.−′三︰l一旦至≒亨︼ごJ.り声︶。位輯毘は右名な 占盲1でふ∵り、仲仕沙底は梵語の芦安り≡註に舶館し、小火州の字−コ⋮一いr河⋮作に於けろシぎ喜一貰 に外ならない︵J.声ゝ.p声きコ:≡−ヱ。従って位相児に耶に阿整比と呼ばれてゐた北部地方の主 都であり.館放沙底は特に阿整捉梅迫と印せられてゐた南部地力の′ヰ肘であつたらしい。而して其 の市部地方のま加であつた買︼一軒邑に和茸す一Q現今の買−乙ご⋮i−封ほ相接耶山脈そのもの∼中に位 してをらのであろから、此の閥は相性耶山脈北方の中央印作り︼部とノ、㌣㌻〓≡lニ抗伎せろ市部咄カ

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18丁 と一で包祇してゐたに違ひハ㌧い。従って此の阿牢拉南畝は其の上学部が郷度耶山脈の北方に︰在つだの でみる。而もそれが中国以外の南進と呼ばれてゐたのであるから、彿陀時代の覇道は頻度耶山を越 えた南方を指すのではなく.此の山脈そのものゝ中に在った摩粒沙底地を中心として、山脈に珪せ る北方の﹁部をも合んだ南部阿梨琴ぞ始めとして・それより以南の地方を指したこと 邑rど∋OP召ic訂己宣1・きー≡・写−7.P︶故に倣陀時代に磨ける中尉の長南遽は、粍碓に言へば二位 前月を中心とする所謂阿紫提と、摩酸沙底を中心とする所謂阿粟粒両道との境界般に在った ないが、大任に於て倣陀時代に於ても頻度耶山脈を以て中開の南端と宥催したと推定して然るべき でぁらう。先きに所在地不別として取扱ふたS乙乙弓已i河もS告k声音︼⋮邑旦多分頻度山耶腋北 部の荒地に在った小河小邑で㊦って世人の注意を惹くに足らなかった焉.全く他の文献に現はれ ヽ なかったのであらう。 かやうに彿陀阻代に於ける中国の南端は頻度耶山脈の北部に達したけれ共.常時Or山芋の如きは ぢほ中国以外に在ったこと哲机過してはならぬ。本生辞第一巻八〇頁には、最初鹿と法とに鈴供し たと侍へられ一三商人が鬱迦雅亡打k已P− 現今のOr訂−1上ぢ中国︵ソ︻告ぎp・﹂r且へ先行したと 記されてをるから、常時オブブナ地方が中国の範囲外に置かれてぁつたことは疑ひを容るペき除地が ない。併し彿弟子中説法第一として有名でぁつた富棒邦∴巴ぎ宣声翠才一且 が西方柁鹿部︵琶uヨ毒 、 霹陀時代の政治胱正

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18$ =ハ

僕鴨時代の政治状態

㌢膏︶人の問へ布致した顛末が巴託児の彿典・で通じて侍へられ曾壱tl芦こメp・C⋮菖皇ヨ三こき

p.警ご欝合筆三丁竺・七1豪亜、せ1ま象mPら彗ヨ而して此の蛇濃が恥星河の洗

争1㌢ゑ冨宇島主軸管するとすれば︵雲毒毒俳軟ぬの研究﹂=小三貰︶.之は現今の西印度の厳戒 不良妄言誉牛島の商事を指すことになるのであるから、か∼る南方の逸極まで俳弟子が布教した串 賓に基いて考察すると・常時の中国は多分阿欒堤北泣から西方陶岸に至るSUYirp︵現今のR邑1碍 ・l・・■■l に抑する地方︶・に達してゐたのであらう。先きに指摘した本年謂及びス†ソガラ.ギブーシーて■に 引用さヤ妄る中国逸境の記事に次一いで、中国の長さ三百由旬︵竺千言哩︶、その幅二百五十由旬 ︵約千音辛哩︶、その周囲丸首由旬︵約六千三首虚︶であると附加せられてをるが、若し︼︷告首一戸を出 費鮎として西方へ通する温行が、恒河に沿ふてC書官を経て只宰mb⋮に赴き、更にそれよbく? d訂−−GOn註︼;及び占已を通じてSO魯・に達するとすれば.︵字苛冒ざ芝d家Indぎpワ︼○王・レ 昔時中観の充填から西境1腋密にいふならば西南現1−に到る道程はほゞ巴利註辞書に示す中国 の幅に相皆するであらう。故に常時中国の西南境はSUYぎに及んでゐたと想定して然るべきである。 真に巴別枠蕨に於て中国の最画法として︰ゴーぎと挿する婆廠門村を奉げてをるが.之と同じ地 名が出陀那dd穿き﹂コl●P七人頁と本生辞第六璽ハニ及び六五頁とに現はれてをる。而して前者 に於で堕それが東庄冨︼l掛図に於け卑婆廠門村として侍へられ、彿陀自ら此の村へ遊行せられた

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lS9 ことが説かれて・で乙けれ共.果して之が巴別枠厳に於け・匂同名ソI婁だ日付に舶ぢつ一りも山であ一りか 何うかは朗ろ疑はしい。何と定れば、欄陀時代の末鮮既は杓〃邦招錐jハニ∴=キン・及び托準才一・デで 中心として澤迦故地カわ市カ.伐柏ノ∵ニi刷り北方トにしこんたシし一い∵一冊レ右什攣り︰小て芳川 を全く加述して・どろからであ・0。柁者に琵へば.÷−わに箱石であ・つて、誓鉦〓ヤしは1;く・而も此 の他に聞聯せ・ヱ刑絃の記串に依ろと︵J麦ミニ一p・い⋮エー此の地“丑毘封ノ■1Lつ=㌢川に於ける描結 花︵ソ蔓二勘︶城の北方六十山旬を虹った地鮎に於て.とてーラヤ山㍍にけ∵√−∴工︰1て一?∼か・㌧ 足れ亦中別の西過として指定せる巴利持戒の記放−二油分しべいっ㍑一三ん沃彿陀畔代の末黒鉱地力の 北部にほ近した研に化したものと軌るペきであらう。その′い.つれにしても.巴別枠潤め訳レ一り地方

で互いことは蛸かである。

そこで、りてデガズ氏はアレキナン〆−大王の印毘侵入の辟・ソH旨⋮敬が・ハソジトブに於ける 印伎河の支流たるクーガーR芸河岸に定住してゐたとい・電設に逝いて・此の≡コこi非1しシー宗 族と・竺⋮−民放と取.ソⅠきi 其の任してゎた.;ジ﹁ブに同じく≠ぎと名けられた繋鉦対が ぁったのであらうと推定したがハJ・ヲ⋮妻−つ・芦︶若し此の推ハ止が正しいL与れば、丁度その位 都が巴利津波の示す方角に加計すろはかりでなく.⋮⋮⋮尺既が障った別王女拝顔王高名の堪った郡 j 市若しく−ま射請を経つといふことは.古今亭の例に乏し′、ないのであろか・トー・−新郎比地若しくは 終陀時代の政治加療

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彿柁時代の政治状態 ● 一入 l錮 新移住地に開設せられた斬らLい都市若Lくは村落が、罫に古いものに従ふて、その名耕一で附せら れたに過ぎないことは、いづれの場合も同捺である。− 或は巴利相殺に所謂≠≡.戸村はバンジ† −ブに於け・わラーヰー河岸に在ったのでぁるかも知れない。併し根命此の推定を承認しても、東経 族が何時如何にしてバンジ†−ブ地方へ移住したかといふ閃超に学Qと、文献に去いて精確な解答を .提出することが出水ないのである。若し強ひて想像を蓮せば、末経基は歴粥陀別の阿吼世王の秀に 征服せられて、その共和園としての猫立を失ふたやうであるから︵字§dPrk弓盲rmiさ邑どlurき︼≡.ワ ざ︶.その後彼専末尾族はバンジ†1ブへ逸れて、再び燭立し、先住地に在ったトフナー村と同名の取 落を創設したのではあるまいかとも考へられるけれ共.併し大位写l︼糾放と冒︼︼Ci放とが同一氏 族でぁると取られ得る根披は、その名榊の曹晋に於て両者細似通ふて官Qことゝ・前者は武功に富 み、遊戯として角力一ピ好む力士裁として侍へられ︵Jぎb、H.p.芦︶−後者も同じく解式の束性蛾んで ぁつて.アレキサンダー大王の攻単に封抗して−男作に断ひ.一時大王を死地に陥らしめたと愕へ られてをることゝに外ならないのであつて︵トW.巳cCri邑エゴーニ︼l■鼠OnOニndi::一∈已1−竺ぎきワー 声︰戸口J童雪巳こⅠ已G2ぎり空︶.両者の歴史的関係に就いては、何等の設披がないのである。殊 に希膿の記俄に於ける巳已−Oi族が.ハ一三−崇号iの文典に於けるマーラブ巳㌢言放に細管す・〇 といふ見解が.滋初バツ〆ルカル氏に依って論証せられて以来、一般邸老の承改する所となつてを

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るのである︵J︰l㌧⋮三︼−㌢乙u2ぎり寧︶。故に一て・、ス氏の投出した推定詑は.特に今の場合.抄㍍から

す興警警′一考すべき侶讐祁Lてをるけれ共、惜しいか壷誉笠に苧たので雪て.

到底精確な畢設といふことは出来ない。若し同氏の詭を正しいと軌て.之に徒ふなむば.未牒放が パンジ†−ブ地方へ移住したことは阿閻低王の末雁旅征服以後と推定せねばならないから.此の中観 の範囲規定は傭陀時代以後の成立となり彿陀昔時用ゐられたものと謂ふことが出来なくなる。併し ながら此の規定の侍へられてをる巴別枠戴大品の記事を仔細に考案すると.之は疑ひのない歴史的 革質でらつて傭陀自ら中観の境界を指定せられたのである七倍せざるを得ないのでぁる。若し巴別 枠渡大品が彿陀の指定せられ地名を息質に侍へて亨。とすれば.ヰ囲の西境として記されて官○ト フーナ軍廠門村は何うしても.ハソジ・﹁ブ地方か.然らざれば■一ブージブクーナ地方かに求めねば尤ら ないのであるが、之等の地方に於て之に和督する地域を見出すことは今のところ全く絶望でぁる。 惟ふに、彿陀時代のトフーナ軍産門村としては−文献上すでに紹介した睨陀邦に於ける米軍飢の 同名の婆雄門村以外には絶えて見普らないのであるから、或は此の村落がその方角一で誤って指示さ れたのであるかも知れない されてゐない・が 締締羅城の北方六十由旬︵釣四要一十唾︶を距った他動に於て、ヒマーラヤ山脈に 岬接してゐたといふのでぁるから、之は多分ヒ†−ラヤ山脈に接する高地に到一?阜で拡ってをつたと ・ 僕柁時代の政治状態

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由3 二〇 併陀時代の政治状臆 想はれる北部未鹿q旨rp買主釣族地方に在って、姐陀邦に謂ふ所の末輩園の哩廠門朴と同一のも のであるかも知れへuい。四分種の指示する遽棍の地名は頗る乱准であつて.信用し軽いが、北方の 速攻として社団を歩げて一でることは.此の際注意を彿ふべき必要がある。大醗巴利語のT︼一引コP︵T・ ︼−引写︶に和皆する梵語はSt︼−茸盲であつて∵アィギヤーケグーナに記了併の竺一号さ婆廠門朴は正し く巴別枠就に示すT11ぎPと同名同地でぁることは明かである。ディギヤーケグーナには中国の両地 として.此の外已p邑訂琶kpといふ嬰維門村を指示してをるが、之はその字魂に基いて考察しても、 望−引盲村に近接して位してをつたに達ひない。かやうに梵巴譜を封照した後、四分柑に桝絹枝随一ど 取ると∵之が梵語の空身え竺一昔糾︶関係したものでぁることが列る。即一り祉は確立を怠映するST 1−Pを語根として成立した梵語竺1甘封の悪評に外ならないのでぁる。十詞柑に於ては佳婆羅門細と 記されてをるが、仕は杜の誤焉とも考へられ得るけれ共、併しSt訂には椎立若しくは固着す ろ意味を持ってを一匂から.Sこ−曾芦.を住と鶉辞したのでゐ石かも知れない。それは兎も角も.此の場 合巴梵淡いづれも同一地域を指示してをることは推賞でぁる。.而して四分粋が此の地を中国の北逸 に指定したことは、此の拙か欠砿北部末腫故地方に在ったことを暗示するものではあるまいか。勿 論精確に言へ.ば、此の地はヰ闘の東北逸墳に常るけれ共.他の許侍が之をその西逸に指示したこ亡 ユりも.準質に近いと謂はねばならぬ。故に若し彿陀白身にエつて此の村が中風の逸墳の一として

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193 指定せられたとすれば.基の枝件数々肘内に於て.之が佃承せられた田lに、その方角を誤伸するに 至ったと解すペきであらう。俳陀時代この村には俳化の宙ムてゐなかったことは.彿陀が阿難その

他の比丘準で件ふて此の村へ遊行せられた際、此の村に於け一〇婆廠門の家長が彼等が此の地で飲料

水を得ることの出水ないやうに窓計を逆らしたと何へられてをることに依って知ることが出凍る

︵旨n∫言−P︶。かゝる無数の適地が、彿陀によつて中国の東北墳に指定せられたことは、宅しも怪

しむに足らない。

以上学出ぎ嬰巌門村に就いて、種々論越し凍ったが、つ阜→り此の村によつて中欧の西軍で定め

ることの不可経であることが到ったに過ぎない﹂不幸にしで、傭典に指示せられてをる速攻の名耕

を以てしては、中国の西境を知ることが出水な.いのでぁる。朝し摩蜜の法典に於ては、上述したや ぅに、中国の画境として仮にSl−r雲邑河が現今のR督u罫1P地方に於ける大沙洗中に.消え去る地

域が指定せられてをるので

に於ける印度河の支洗たるC︼一e−−詳河遽かであつたらと想像せぎるを行ないのでぁる。 叔彼に四分枠を除いた他の三倍に於て.中国の北境として指示せられてをる慶戸廠二旨ぎ山に就 いて一言しょう。すでに記したやうに.ナイタレヤ焚書八・一四には中園に任する氏族としてと−鐙 戸部羅亡乳−1罵−とい.ふ名が泰げられてをるが、ゴバー♪梵審GO勺邑−pHr巴−ヨヱ盲︶〓●九には此の優 ● 構柁時代の政治批正

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_ 二二 彿陀時代の政治状態 l鋸・戸都度扱が丁度雲ざ笹︵北力人︶.の直前に列せられてをるから.彼等は多分中尉の最北喝即ちと† −ラヤ山を南へ越えた低山腋地帯に任してゐたのであらう。而してR邑−款巳士乳grp︵乙・bヽP色p望 邑写一戸多 望芦、ワP︶に於ては、恒河が高地から洗出する併.巡殖の登場たる日昌PEl乙・山の 近所に宕叫−一弓,山が位してをると記されてをるが、技に所謂宕叫n弓P 山が今岡摺としてをるとこ ろの∴q卑;山に相督するも.のであることは.両者が共に中国の滋北境に位してをるばかりでなく、 雨着の琴晋が極めて析同してをるこぅによつて推定するに紛らあると倍する︵ヨ・♪ぞ已章一,阜≡・ 氏邑出どOr︸○=ndぎpすuり一声︶。 之を要するに﹂彿陀時代の中国は恒河の洗出すると†−チャの低山服地帯を以て北境とL、頻度 耶山脈とクジ†インとの閉、寧ろ前者に近い所にその南境がゐ♭、ビバール州の束墳に世するラージ †♪−ルを以てその来迎とし、多分カツナ1淘に漸せる地方を以てその西南境としたらしい。只その 西城の不明であることは退城であるが、おそらくバンジ†−ブ若しくはラージブターナの中部に達し てゐたのであらう。これに依って取ると.巴利註群書に侍へられてをる中観の長さ三富由旬︵約二 千一首哩︶は如何なる追行を取るにしても除り長きに過ぎると謂はねばならぬ。惟ふに之は壊世の 附記でぁるから、北方は迦塵珊薙より南方はゴトバーイブ︵GOdl■旨弓i︶河流域に於けるアー,ヤ人の 任地全概の長さを示したものでぁらう。従ってその周囲丸首由旬も亦之と同ほの計算でぁつたらう

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と思ふ。それは兎も角も、傭陀時代の中国は7−リヤ人の任してゐに北方印度全穏の大部分を匂帝 してをつたことは柄かでぁる。而して此の中国に開聯しで、南北両道が区分せられたことは.彿典 に於て屡々中観に於ける或地方から両道若しくは北進へ赴いた人に就いて、又両道若しくは北逝か ら中国の或地域へ到った人に就いて侍へられでをることによつて存明することが出水る。即ちメー ザリー臣ヨr⋮といふ噂羅門が合衛城から両道に赴き.阿詑迦卜哲訂地方に任したといひ︵切u〓書i・ 号音こ弓︼望丁ふ︶同.城の商人通が北温へ赴いたといひ︵ぎ㌢ぎぎm3tpTミ一声︶二商人が南方の鬱迦雁 亡kk已pから中国へ行ったといひ︵l冨㌻︸.9芦︶調馬師が五首頭の馬を倖ふて北近から囁雅捺斯欝・ として現はれてセる所から眉すると之等の名辞は通俗的に慣用せ㌻れたものでぁるらしい。 一首払へ到達したと記されて々る︵J蔓:、ワ︼芝。僻又彿典に於て之等の地方的院分の名群が頻々 五 上述した所に依って.俳陀時代7,−ヤ人によつて占領せられでをつた北方印度の大部分が中国 . と挿せられ.之に開聯して南北雨造の地方的芯分の行はれたことが明かになつたから.更に進んで ■ 常時之等の三地方に於て、如何なる政治的区分が現はれてをつたか一宮研究しょぅ。 件数興起の時代を去ること速イない以前に於ける印度の政治的区分が、垂二偽典に於て十六大図 M 望琶ヨ已丘⋮p乙P︶として表示せられて一ぜる。金の知る限り此の十六大団に就いて何ふる原始傭典 俳托時代¢政治競走

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二田

悌陀時代¢政治状態

轡は巴利埠一尼何耶︵A≡p・琴1く毒琵宗⋮⋮︶と中阿合第五十五・拝啓鎧︵彗、七1隻︶と俳論 人仙経︵芋五三雲︶与雪。之等の巴漢雨絡の記鋭を比較すると多少明かでない鮎も雪が、大

恐に於て両者一致してをる。今巴別所侍と二種の注評とを封照して十六大国の名祁を列馨しゃぅ。

〓ハ、内岩b且p︵創浮、甘詫惹︶ 以上の彿奥の外、閑邪教の最古の慧ハB訂習象・吾中にも十六大観の衷が掲出せられ、その未申. A首−試蔓貫冒鼠Fざつ邑P︵ゴ音︶−苫i︵まj⋮︶・芝1︵匡訂︶、冒si・R邑P等の名称は、悌 典に於ける表と共通してをるけれ共、その他の九観の名禰、即ちE望3壱︶−芦ざこ∈ヨゝ邑こ宇 臣︵穿旦昌㌢︵富音可︶−ど真空芭−A邑P︵A邑昌・ぎbぎ1貢ぎ冨P鳥は全く薪らしいものば

かりであつて、而もその多くは西印度及び南印度の速墳に位す々閑々・ざ指示してをるやうである。

例せば冒gPが島史︵苫⋮−琶︶第九章及び大紋史芝−㌻竃璽ハ章に現は.れでをる﹂∋息づに 相督するとすれば、それは南印度︵現今の]評ng羞に於ける王国であり︵W・G音r盲。彗l富壱、ワ 芦︶・害㌢y’は網元群数錨窮九汲臼度菩提︵金剛智︶の将に於ける摩較耶観及び玄炎の西域記釣十に 二⊥首雪︵鴛伽、轟詭︶ 四、内○乳P︵拘隣払、倍搾羅︶ 七、ロ己︵枝扱︶ ︼○、P明色中︵鱒閻払、串左︶ ニラA辺邑Fp︵阿拉具、阿詑迦︶ 二、賞品乙富︵僅錫陀、控伽陀︶ 五、≠邑−︵妖誓︶ 八、く’一邑︵灰蛙、関珪︶ 一一、望F乳雷︵蜜梓沙︶ 一四.A⊇邑︵阿和拇麓、嘲帝︶ 三、六邑︵迦P︶ 六、ソ㌻ご芦︵抜擢、大力士︶ 九、同‘2︵拘機、倶唱︶ 〓﹁習r−盲i︵森羅咤、虎魚西部︶ 一五、曾nd富r飢ス喰掲、夜鵬那︶

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1打 ● 於ける牡鹿矩咤閉に細管し印度半島の長南端に位した尉であゎ︵:ぎ3る巨Y雪9毒℡l−.写望− 芦︶.巳㌢⋮は西域記第十一に於ける摩胎嬰固に粕督し.現今のポムペー管領に於ける六鞍;並に ぎ日ud賢dの地方を包み,更に穿Odpの一部にも捗った地域を占め︵NDヒ由.こ至り華︶・R邑︼p は覚陪の試買−−Pの特化したものとすれば.之は西域記第十一に於ける契咤国に相督し.今のポム べー管領に於するC−−訂︼一地方を占め︵T.一手tt3●PYu芸9書コ甲−−●ワ冨.︶、前の座職婆固と共に南印 度の西北滋に位した観でゐ♭、増量1pが若し阿育王の第二勅文に記さ■られてをる夢見官 に相督 するものとすれば.之は南印度に在った王国であり.AY乙1pか若しA蔓−号の特化した形であると すれば、之は西域紀第十一に於ける阿奉養園に相督し.今のポムベイ管領の北端に近い︼ハー一首l一一地 方.若しくは中部Si邑︼1、若しくは5eぎ︼−地方を占め、西印度の西博に位した観でらる。かやう ● に同部敦屏傍の十六大固は、偶数所侍のそれに比較すると.邁かに速く印度伊南墟及び画境に達す る地域を嘉し、彿陀時代には全く知られなかった団々の名を合んでをるのであるから、同じく十六 大同といっても、之は彿陀時代以後に属する政治的区分であると謂は.ねば互らぬ。. 割って前端の巴渓雨謹の俳典に於ける十六大国の麦を対照してみると.明かに漢評の方が巴別の. ・も伊よbも後世の所個でぁることが到る。何となれば.漢詩では巴別のG昌d−−冨に細管せしめて. 喩月と夜顧加とを教示してをるからである。喩月は位かに矢部YOnpに和音す声音菜であつで、之 ● 靡托時代の政治状態

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ヽ 何となれば、此の表に於ては、彿陀時代すでに杓薩厳によつて併呑せられた迦アも︵ソl告ぎ・nぎ盲 目.勺.⋮.︸すでに摩伽陀によつて征服せられた怒伽も︵D亨P≠こ●ワ︼=●︶.なほ共に殉立せる寵妾な民 彿陀時代の政治炊疋 一〓ハ は言ふまでもなくIOコ㌻を印度夙に詮表したものであつて、夜嘲耶︵T毛呂P︶と同棲に、舌代印度 に於てはかゝる富来を以た希臓人を表示したのである。アレキチン〆−大王の東征に徒ムた希股人 の∵部が.大王西紆の彼も失費パクト‖ノγ︰曾中心として在任し、その彼印度西北現とは特に政治上 文化上密接な関係を保ち、喧陀錐の如きもl時彼等の勢力範囲となつたのでぁるから.漢評価典に 於ては斯る名稀を以て低陀羅地方を指示したのでぁらう。故に扶繹に奉げられてをる十六囲の名稀 は.少くともアレキサンダー大王西鈴以後の侍特に係るものと訂はねばぢらぬ。例又決評には巴別 の表中に相督するものを見出すことの出凍な心奔畢と蘇歴との両国名を端げてをるけれ共、之等が 果して如何なる観を拇示してをるかは殆んど見普をつけかねる。併し若し奔繋が関都蜜典に於ける ヲ至言占に和宮し、蘇摩が岡里典に於けるSuヨ一−蔓弓Pに細管 するとせば.漢評の表が巴別のそれ よりも薪らしい成立に係るものであることが〓盾明白となる評である。 要するに.比較的古い偶数及び関都敦の聖典によつて輿へうれる十六大囲の未申.巴別所侍のも のが最も古い型ヤ腐存してをることは殆んど疑を容れない。併しながら.此の巴制空典に於て示さ ′ れる政治的勢力の分布状焙は、すでに〓盲したやうに、決して彿陀常時のものといふことは出水ぬ。

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1卵

裁として取扱はれてを巧からでぁる。本堂諾に於ても突破之等は碑文せる‡因として記載せら臣・

・或は怒伽と牌伽陀とⅥ雨王が断へす互に千曳を交へて.互に勝敗を紛近したことを僻へ︵Jぎぎlく. ワ空︶.或は迦戸王と拘藤尾王との間に起った我等に就て侍へてをる︵J冨ぎ︼−写琵1:声︶。然る

に彿陀時代に到っては、迦戸及び怒伽の両民族は政治的燭立を失ふたのでぁるから、此の未は僅か

に沸教興起以前に於ける政治的区分を哀したものであらねばならぬ。多分夙に喝羅門畢宕によつて

何承せられてゐた政治的労力の分布表が、・その▲J⋮初期の偶数徒によ 但し、■此の衣は沸教興起以前の政治的区分を示すとはいへ、傭陀時代亨のょり速く遡.るものでない ことを知ねばならぬ。何となれば、此の表中七現はれてをる迦戸はなほ潤立国と右腹.されてをるが. 既に陳べたやうに彿陀時代は拘薩凝固に併呑せられてをつた.のであつて.その併呑せられた時期は. 彿陀と同時代の拘薩綴国王改新匿吋琵=diの父王摩珂拘薩農ヲ≡−巴ハ○邑pの時代であつたからでぁ ある。本生辞の侍ふる所に依ると.摩珂拘謹鹿がその王女拘帝展望卑︼ハ害己eまを摩伽陀国王頻毘 沙庇巨日夏乳・pに嫁せしめた際、沐浴香水料即ち持参金として、百前金の歳入を生す迦戸のご巴を 奥へたといふことでぁるから︵JP露:1.p.き︶、此の時すでに迦戸は拘醗羅闘の領地となつてをつ

たことを知り得るのである。故に此の十六大国の衷は彿陀時代を遡ること僅か一代前まで絞擬した

政治的封欺を示してをるものと謂はねばなら氾。

■ 悌指呼代¢政治状英

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二八 俳指呼代の政治状態 珊 然らば.か∼る政治的勢力の分布状鮭は何時頃から始まつたのであらうかといふに、此の衷に於 て覇文民放として取扱はれてをる扱者は、常時茸提討くide︼⋮学院卒巳乙=1.1i萩などの入相放を 糾合して、臼ち盟まとなつで.有力を聯合図を建設してをつたのであるが.彼等がか の覇立を寛得したのは笠提討王国の没落以後であつたのでぁる。彿典に於ては、茸提討王国の滋後 の王は.尼細∵ヨ旨iの王子迦雅避只告rpJ巳1乙ハpであつたと侍へられてをる︵呂告in冨−1ナワ芳J・ 冨計二ヨーp.一声︶。而して本生鮮全部を通じて、扱者族の名の現はれてなるのは只一回のみであつて ︵旨を百二ヨ.ワ§.︶.而も何等特殊な侍設を構成してをらない所から観ても、本確認の根本資料成立の 、時代には、なは彼等は政治上霞軒上その他一般文化脚係に於て始んで無力な民族であつたことが判 るのであるや故に扱者が猫立民族として示されてをる此の政治的随分の衷は、本生辞の根本資料成 立時代以後 − 更に具偲的に言へば.茸提河王国滅亡以後.摩討拘薩維王時代に至るまでの状況を 示してをるものと断定して然るべきであらう。 傭陀時代に到ると.此の衷に抵はされてをる政治的瞑分の胱慮が少しく舜化を凍したけれ共、そ り中の二三の民族を除く外は.大倍に於で依然として狗立を推挿し、群雄割披の状勢を呈してをつ たのであるから、彿陀時代の政治朕燈を理解する準備として、先つ之等諸民族の歴史並に勢力範園 を討究することが必要でぁる。

(31)

金 倉 園.周

ヽ、、、、、、、、ヽヽヽヽヽヽ 伝書契︵さだゐなんだ︶の﹁吠棟多精要﹂は、ばえとりんくがその﹁梵文牧草読本﹂第二版︵明

学年︶に琵琶姦加して批判的の出警苧、序で㌫かぃ艶文姦正←て才一般葦史

ヽヽヽ 第一琴夢二部﹂に附戟として蕎麦し︵明治阻十﹁年︶.翌四十二年にはがるペの再訂によりて二度同 ︵一︶ ﹁牧草諌本﹂に端載せられたる等の事情によりてか、印度単著の臥に靡く玩ばれ、近世吠棍多設を ヽヽヽヽ 諭するに際しての唯一の質料と倣さる∼かの覿があぇ。此間には田上ケじえこぶ大佐の苦心に成る ポムベイ版の乾布をも考慮に入るべきでぁるが︵此事は初版明治二十六年.二版明治由十四年.凹 版大正十四年であるが先着の序文によればこ版に於て改む.る所は極めて群い。︶此審が﹁其形式に於 七明析稗喝内容に於†深奥なるが焉にかく一般に喜ばる∼﹂とするは不可無しとするも、此を似

て恰も近世吠概多に於て軟論詑を合梗せる唯一の代表的作品と焉すが如きに至っては俄に吾人の費

︵二︶ 飢 成し難い出である。此審が絶対不こ諭︵霹邑監象t・︶に立脚することは.内容よら見て旦引用香 吠織多精華ミ十五†篇

吠檀多精要と十玉章篇 ︵上︶

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空02 三〇 眈柵多捕嬰ご十正章鳥 ヽヽヽ よbしても.又錆敬朗よりしても、更に恒苦楽の他の若鮎じょり推理す一りも極めて明であつて柾・で抑 . む可き除地は無いが−然も仰.根本絶封不二諭より正に本番に移って此訟敏速の一般一旦断せんと† ヽヽヽヽヽ るが如き磋度は畢術的に精確なものとは言ひ難い。蓋し根本絶封不二諭の代来者しやんからを凡そ ヽヽヽ 紀元八〇〇年前後とし.位書架を凡そ一五〇〇年前稜とすれば、両者の懸隔は既に七有年を算する。 而t此期間に於て、畢に絶封不二諭一般派に関して言ふも.多数の追随者を出し.研究せらる可き 多くの文献が残ってゐる。準備斯くの如くなれば、従に根波蝕き卒想を以て彼此の批判・で加ふるに 先立ちて、資料を息賓に研究し.思想費連の跡を辿る方針にて準まぎれば.蓬に﹁吠拉多稲妻﹂の 甘﹁r二乃 哲学史上の意味は明にせられ無いであらう。 ヽヽヽ 恒書架の年代の如きも、それが印度に於ては普通でぁるやうに、精椎な鮎は不幸にして不明でぁ るが.今それに脚聯して一般に知られてゐる酢項を先づ歩げて見やう。其一つは.彼が﹁吠根多輔 ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ 要﹂以外に椅lの著作を斉した恥野である。そは即ちま.つすうだな・さらすわちいの﹁不二成就論﹂ ︵〇ヽヽヽヽヽヽ に封する綱要沓であつて﹁不二成就諭教義粕要﹂とも辞す可きものである。まづすうだなは、邸者

の言ふ夙に従へば十東低紀竿六世紀始の人で宝玉〇年以讐なければ苦ないとせらる鵠徒

ヽヽヽ って恒書斐は少くも彼と同時以後の人でなければならない.。又十六世紀には既に﹁吠栂多棺ぎの へ六ノ 琵群が現はれてわろから・彼は一五〇〇年■で事Q=とが泣く無いと曳・・I−︰れ・りら比姉は大橋他・り1i

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即3 へl−一 軒とも矛盾しないから新しい滋野に放て之が覆されハ㌧い限・りは研究の出費凱とーそ認容せらいわば ヽヽ ヽヽヽヽヽヽヽヽ ならない。更に﹁吠舵多楠要﹂は紆敬朗第二に於てあどわやあなんだの名・で畢ぐるが、此人はしや ヽヽヽ︵人︶ んからの﹁吠税多結託﹂に﹁光明荘厳﹂と挿する散文の注疏を著せる人として知られてゐる。 ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ かく見凍れば、恒箭繋が▲︺ろすうだへ与及ゐどわやぁなんだに思想的に影響せらるゝことが多かっ たであ▲らうといふことは、少くも明に推理せられ得る卦でぁる。而して此二先究は其畢問の系統一で 辿って見ても.軌も地封不二諭の流れを汲める人々でぁる。然るに副って﹁吠棉多桔要﹂に就て基 引用文を調べて見るに、此審は極めて簡閲なるに比して其引用は甚だ豊富なるにも係はらす.未だ 一回も彼等の著書を引用せろに遭遇し無い。此串賓は果し.て如何なることを意味するであらうか。 ヽヽヽ 放列するに、僅書架が此著を成すに未だ前二者の作が成らぎるに匪寸るか、既に成れるも之を何等 要ぁるを知るのである。 らう。故にしても﹁吠穂多粍要﹂自性の思想の淵源すると−−ろを知る男には.其引用を精査するの るが、或は除りに時代が接近せるが点上、仰未だ舷記として一般の東軍で得難しとなせるが秀でぁ い。第二の場合に就て考ふるし.前二者の著作が﹁吠椀多精要﹂の内容と密接仁る関係七放くとせ かの理由に披って引用せぎりしかであら・ろ第一の想像は前彼の事情から見て屈めて可能性が乏し ヽヽヽ ヽヽヽヽ ﹁吠舵多桔要﹂の引用の典披を決定せるはがるべも言へるが如くじえこぶ大佐の功椅に録せねば 映捜多恕虚言十五革煎

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− 一t 即 ︵九︶ ならぬが今此標準恕とも言ふべき出版によつて引用の文献㌧回数とを痢げて見れば次の如くである。 タメニシ†ウド ブリ♪ド チ†−ソドーギア クイチリーヤ カタ ケーナ ムソグカ †−ソグーキャ シーエークーシュアタラ 梁薄伽梵歌 梨供吠佗 †−ソグーキヤ・カーブカー ︵他にカバブルヤをすと解せらるるもの一同︶ 一同 吠柁多掃婁亡十正課∬ 七同︵他に該審を冶すと解すペきもの一同︶ 十同︵他に該沓を指すと解すべきもの四岡︶ 六同 一同︵他に該沓を指すと解せら一心ゝもの一同︶ 一同 先回︵他に該書を指すと解せらるゝもの一同︶ 六同 二同︵他に該書を指すと解せられ、又タイプルヤにも和皆文 の費見せらるゝもの一同︶ ●

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ヽヽヽヽ 何此他に七えこぶ大佐が基出典・で経め行なかった引用文が二偶存するが、英一はク.ご一シ;ド的 のもので、恐らくカタシークキに閲係す一。。他の一は大佐の見た十六の焉本中の田本には之を放く 邦 頑丈の詔引でぁつて、散文の﹁梵明荘位就﹂や.又﹁不二成就論﹂には恐らく正接の関係が無いも ▼ス法典 吠咄多経● 取伽粧 ブ,ハトサ∴/ヒクー れて出るものに一致す一つによる︶ ヽ ヽ ヽ ヽ

ハスクア了ブタ

ク.二7−シ†サー♪スリイ ヴーキアスグー

ナーイシーカ〝ミアシプデ

パンチ†〆シイ︷十五畢焉︶ 映織多軸虚言十玉章篇 み本文と解せられ∵じえこぶ版に於てはぬらしんは・さらすわちいの註将には出るも.之 を本文とは焉さない。・− 詑群が本文に混入せろか?︶ 一同 四同︵此中一阿はムクチカー・ク.ごーシ†ヤプドの文と一致す︶・ 一同 三岡 ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ 四囲︵但しばえL⊂Lソんく=がるべ版は二同︶ ヽヽヽヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ︵まーだわの﹁仝哲学詑灸成﹂に此聾の引用なりとせら ヽ.ヽヽヽヽヽヽヽヽ 一同︵但し.此引用はばえとりんく−1がるペ版に於ての \

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三06 三四 吠柁多誠忠き十五節扁 のである。依て今︼れらの別に出所の知られに文献に就いて、特に年代上執れの文献が﹁吠疏多栴 要﹂と故も嘉接な聞係に克つか一で、考究して見やう。 先、﹁ク・二.シ†ツド﹂はjl:南新八和以上に及び.引用同数も鼓も彩多であ・りが、木琶が吠塙多畢痕 の典籍でぁる以上、之は普然の特典であり、又殆ど大部分は古きクバー:†ツドの引用なるが秀に、 年代上からも直接の閲係を定むる助と成らない。又↓車種伽梵歌﹂と﹁吠税多紅﹂とはク.ご;十ク

ドと共豪梗塞況の≡偶のP邑一撃≡−−と呼ばる遠に要撃らるゝもので空か電此際何等

特典性のある引用では無く、各々1.岡宛なるは怒ろ少きに失する程である。年代上の陥らも柵常に 古く特殊の関係は決定し難い。又﹁†−ソヅーキヤ・カーリカー﹂﹁梨供吠陀﹂﹁†ク法典﹂﹁紀伽鮭﹂ の引詮あるも軌も年代的に見て特殊の関係を推定する資料とは成し難い。﹁ブリ♪トナソニヒクー﹂ ︵一−︶ の引用は既に逓たるが如く引用として仮に問題を有し、又内容にも疑問の存する沓であるから、今 は之を除外するを兢常とする。 ヽヽヽ 次に﹁ハスクアてフカ﹂﹁ク.二7−シ†サーハス㌢イ﹂﹁ケーキアスグー﹂の三番は、何れもLやん ヽヽ から阿闘梨に関係の深い木でぁるが、此中﹁:クアてフカ﹂ ヽヽ られた短茹である。即ち普通伸訣としては.此番は作者不明でゐ♭,之に封す・三一例の計肺がしや ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ ヽヽヽ んからの作といム=とに成ってゐるが、ふいつえごわあど・ほおろの﹁印度哲草文献索引考L並にへ

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ヨ汀. ヽ いか・㌢引い・い㌣㌣中り∵吠梢多粘委譲﹂に於ては.﹁;ク:ラカ﹂は之一ゼ作者の名と見てゐる。 、ヽ、、、ヽ、、、、、、 、 ヽヽヽ 而てはすたぁまらかはしやんからの初期の弟子の一人に教へらる∼人である。然るにかゑる敦授は. 印度勢匠の敢ホに基いて、﹁バスクア丁フカ﹂は駆に﹁覚中西未欣尭﹂︵︵、′mでCb乙≡i−ニ訂︼至l一︶︶な るが故に、掌中の阿畢竺ポすが如く.極めて明瞭なる物空ポ†璧喩に他ならす.従って作者とは何 .︵〓−︶ヽヽヽヽヽ 等の同係へuかるペしと断じた一りが如きでゐ・〇。要之.何訟に徒へば怖々しゃんから時代の作品と成 b.然らぎれば年代不明の審と属されてぉる妖借主一日ひ得る。−ヌ、﹁ク.ハデー・シ†サー.;リイ﹂ ヽヽヽヽヽヽ はしゃんからの作品と押せら巧∼もの∼一つで 分は伯仲︹井ぎむかと扱はる1にも係はらす・今論者は之一で異作の〓上野エペきもの一考ふる老に 屈†も、固▲一曲序で此郵に江く文人って諭する除畷を有し如⋮いが然し信やぺき根址の盲担ぐる 、、、、、ヽヽヽヽヽヽ ハ与らば、偶改上しヤんかぅの破瓜とせられ又考上るに特に妊ふペき推賞なる理由なきすれえしゅわ ら朋Ⅶ奥の‡﹁ナ﹂Jシ.カγ、lけシ㍉デ﹂に此善が正に十人岡に捗って引用せられて眉る串警Jゐ ■− 霊卜1すとJ;−Lは住に円十六亜1ち成一晶文の小作品でぁつて・之亦しゃんからの作品 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ︵一︻一 と伸へられ現に彼の二.小品集﹂中に牧儲せられてゐるが、他の諸作品と等しく眞疑未決の沓でぁる。 ヽヽヽヽヽ 次に怒げた﹁ナーイシーカルミアシシデ﹂は三岡引用せらろゝが、此番は今言︵る如くしやんから 、ヽ、、、、ヽ ヽヽヽヽヽヽヽヽ の荘弟すれえし.わらの著作で争○。彼は主んだなみし中らと同一人であ,亡侍へられ・嘗て研塁 吠繊多綿鑑亡十玉章算

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208 ヽ一ヽヽヽヽヽヽヽ ヽヽヽヽヽ 薩挙派一派の互匠くま−りら・ばつたの弟子でぁつたが、老後改心してしやんからに帥解した宕と ヽヽヽヽヽ ヽヽヽヽヽ 言はる∼。然らば即ち.此著はヌしゃんからを鮭る串速からぎろべく、前に冨へるしやんからに蹄 せらるゝ三着と共に.其思想の紺蘭する所空不す一発料とは成・ニきも、未r敷も﹁吠税多棺要﹂ ● と緊密なる関係に立っものとは論じ難い。 斯くの如く見凍れば.叔後に奉げたる﹁パソナ†〆シイ﹂こそは引用香車に於て蓑年代上敷も﹁吠 税多精製﹂と密様な関係にあるものたることを推定し得る。﹁パンチ†グシイ﹂の年代に関すること 基地は次項に諭するが、それと排せ考ふ一〇に、以上に伐て形憩的に見て﹁吠槙多粕要﹂と﹁パンチ† グッイ軋十玉章貸﹂とが不可分離の関係にあることが推理せらる1。少くとも.﹁吠税多摘要﹂成立 の常時には、絶封不二諭の吹緬多寧派にぁらては.﹁十五輩焉﹂が極めて重要なる職位を認められ、 常時此流派の著作が移しかりしにも閉はらす.他に抽でて此書のみがク.ごシ†ツド ヽヽヽ 権威と相並で一般に釆要成せ㌧れ、又、恒書集自身もかく認識したことは.碓賓に断定せらるヽで ぁらう。徒つで亦.根本絶対不二紛より﹁吠楔多楷要﹂に至る此派の思想費珪の過程に於て﹁十玉 章篇﹂が無成するを許されぎる地位を保有することも明にせちるるであらう。此串は﹁吠折多粕要﹂ と﹁十玉串菊﹂との内容上の関係を切にすれば一府椎葉にせらるゝのであるが、それは第三現に至 つで之を試る棟定でぁる。 吠織多柑嬰ご十玉来質

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夏○) 村﹁十五井砦Lの形他誌に入るに先立ちて.﹁咋損多精婁﹂に於一〇此群の引用に就いて少しく述べ ヽ′ ヽヽヽヽ ヽヽ.ヽヽヽ 筑分割法に此派の遽親しゃ■んからに於て詑かれたること.嘗て余が他の機に於て諭蘭したるが如 なる原索より瓜なろ原索︵五大︶の成立方法を説く五重分割法︵−︸鼓ci打⋮竃︶を述ぶるに際して﹁十 ︵一も︶ ﹁吠椀多粕要﹂第十玉章︵第百二十五現︶に﹁十玉章焉﹂節一章琴一十七幼が引かれてゐる。之は細 と♭んく=がろペ版に依て基度数を共にする。以下引用の朋序を追ふて之を述ぶれば ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ て就きたい。1前糾の引用巷説の下にも注意せるが如く、此沓引用の回教は、じえこぶ版とばえ ヽヽヽ ヽヽヽヽ 玉章焉﹂を先第一の櫛設として引用したものであつて、じえこぶ版、がるべ版共−こ之を認むる。五 .\ ︵〓ハ︶ くである。−−第二は即ち﹁吠椀多精要﹂第二十四衰た﹁十五黄蔚﹂第七茸第七十五胡が引用せら ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ れてゐる。此引用はばえとりんく−−がるべ版には之を放くが、若し抑入すれば節百七十五項の次に ヽヽヽヽヽヽ 藍卸せらる可きものでぁる。此版の許註.︵四一二頁︶に披れば、ばえL⊂Lソんくの見たるカルカ,ク ヽヽヽヽ の訪出喝伯林の一手焉本、倫敦の四焉本には此引用文の存せぎりしことを知ろ。じえこぶは基出 版の基礎とせる十六の典籍中、極めて別瞭にして正確なる一帯本と他の一本とに撃し之・で原典に採 用tたものである。然るに彼が基脚注及最後の詐註にも断はれるが如く、此引用と証滞文との瑠給 ヽヽヽヽヽ は他の場合に比して緊密の関係・ど軟く状焙にもあら、又袈出所はしゃんからに録せらるゝ作口⋮﹁ケ ーキアブリ,チ﹂中にも究め狩らるゝ閉係上.﹁十玉章訂﹂の引用としては鼓も剛他の残る物に威す 吠綿多捕嬰ミ十玉章篇

参照

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   ︵大阪讐學會雑誌第十五巻第七號︶

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古物営業法第5条第1項第6号に規定する文字・番号・記号 その他の符号(ホームページのURL)

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