NII-Electronic Library Service
戦
国
期
・西
山
深
草
義
教
団
の
動
向
に
つ
い
て
(こ
N工 工一Eleotronlo Llbrary Servloe
田
辺
英
夫
一は
じ
め
に 浄 土 宗 西 山 深 草 派 総 本 山 誓 願寺
に 伝 来 所 蔵 さ れ て き た 文 書 類 の い く つ か は 「 誓 願 寺文
書
」 と し て 、 早く
か ら 「 大 日 本史
料
』 や 『 史料
総 覧 』 に 採 用 さ れ て い る 。 戦 国 期 の 深 草 義 教 団 の 動向
に つ い て は 田 辺 隆 邦 が 「 『 実 隆 公 記 』 に ロ ロ 現 れ た 西 山 教 団 」 の 中 で そ の 一 端 を 紹 介 し た こ と が あ る 。 近年
に お け る 「 誓 願 寺 文 書 」 に つ い て の 調 査 は 、 昭 和 四 す ニ 十 年 代 に京
都
市
が 行 い そ の 成 果 を 『 史 料 ・京
都
の 歴 史 』 に 、 同 五 十 年代
に は 京 都府
が行
っ て 京 都 府古
文書
等 緊 急 調 ヨ 査 報 告 書 『 浄 土 宗 西 山 派 三 本 山 誓 願寺
・光
明寺
・ 禅 林寺
古
文 書 目 録 』 と し て 紹介
さ れ た 。 深 草 義 は 西 山 上 人善
恵 房 證 空 の直
弟 子 で 円 空 立 信 上 人 を 以 っ て義
祖
と さ れ て い る 。 「 西山
三 鈷 寺傳
持
次
第
」 で は れ む 極楽
房 と 号 し た と あ る 。 證 空 に 師事
す る こ と 二 十年
余
、 三 鈷寺
に は 證 空 の 上 足 ・ 良 空静
證 に つ い で 住 し た 。 『 深 草史
』 に よ れ ば 宝 治年
間 ( 一 二 四 七−
四 九 ) に は 洛南
・ 深 草 の 地 に 真宗
院 を 開き
、後
深 草 天 皇 の 帰依
を う け 堂塔
を 完備
し た 。 加 え て 、 師 西 山 上 人 ( 證 空 ) 建 立 の 白 河 の 遣 迎 院 、 歓喜
心 院 等 を も兼
帯
し 、 更 に 誓 願寺
に 勅 住 し た と し て 戦 国 期 ・ 西 山 深 草 義 教 団 の 動 向 に つ い て ( こ1
一NII-Electronic Library Service 西 山 学 報 い る 。 こ の こ と は 師 ・ 證 空 上 人 滅
後
の 京 洛 に お け る 西 山 教 団 を代
表 し た よ う な 観 を 呈 し て い た よ う で あ る 。 し か し 拠 点 た る べ き 真宗
院 の 諸 堂宇
は 永仁
元 年 ( 一 二 九 三 ) 雷 火 に よ り 焼 失 し た 。 以 来 、 そ の 復 興 の 経 過 の な か 尭 空 道意
上 人 の 時 、 京 洛猪
熊 綾 小 路 に 建 立 さ れ た寺
が 花 園 天 皇 よ り 「 円 福 寺 」 の寺
号 を 下 賜 さ れ ( 正 和 五年
. =一 二 六 )後
に 勅 願 所 の 綸 旨 や 知 行 地 等 を 賜 っ た こ と か ら 深 草 義 の 根 本 道 場 と し て 確 立 さ れ 、 こ の 円福
寺 が 深 草義
教
団 の 中 心 と ぞ こ な っ て い た と さ れ て い る 。 上 記 の誓
願寺
や 円 福 寺 が 史 料 に 多 く 現 れ る の は 、 応 仁 の 大 乱 以 後 の 戦 国 期 で あ る 。 誓 願 寺 の 縁 起 を 伝 え て く れ る 『 洛 陽誓
願 寺 縁 起 』 は 応仁
の 乱 に 焦 土 と化
し た洛
中 で、誓
願 寺 の復
興 勧 進 を 目 的 と し て 成 立 し た の で は な い か と さ れ て い 覆 。 以 下 に 浄 土 宗 西 山 流 深 草 義 教 団 ( 以 下 は 深 草 教 団 と い う ) の 動 向 を 誓 願 寺 を 中 心 に 窺う
こ と と す る 。 二応
仁
の乱
後
に おけ
る
西
山
派
教
団
の活
躍
ま ず、 応 仁 の 乱 後 の 西 山派
各 教 団 活 躍 の様
相 を 概 観 し て お く 。 浄 土 宗 の活
躍 が 公 家 の 日 記 な ど に 記 さ れ る よ う に な る の は 、 応 仁 ・ 文 明 の 乱 を 境 と し て 、 そ れ 以 後 に 顕 著 で あ る 。 浄 土 宗 西 山派
に 限 っ て見
れ ば 、 ま ず 南 北朝
期 よ り ら き 三 鈷 寺 を 拠 点 と し た 本 山 義 の 継 承 者 で あ る善
空 恵篤
に よ る 嵯 峨 二 尊 院 を 拠 点 に し た 禁裏
に お け る 活 躍 が あ る 。 こ こ タ も で の 天 皇 に 与 え た 影 響 は 大 き く 、 文 明=
年
二 四 七 九 〉後
土 御 門 天 皇 の 勅 願 に よ り 建 立 さ れ た 般 舟 三昧
院 に 善 空 恵 篤 を 勧 請 し て 開 山 第 一 と レ 、建
立 後 の 般舟
三 昧院
は 宮 中 の法
要
・ 儀 式 は 此 処 で行
わ れ 、 こ の 慣 習 は 幕 末 期 ま で 続 い て い た 。 天 皇 の聴
聞
に 際 し て は 公 家 衆 や 女 官 た ち も 出 仕 し て聴
聞 す る 。 こ れ ら の 中 か ら 個 人 的 に 浄 土 教 の 信 奉 者 ヨ け も 現 れ て く る 。当
代
き っ て の 知 識 人 三 條 西 実 隆 は そ の 一 人 で あ る 。 彼 の 日 記 『 実 隆 公 記 』 に は 本 山義
の み な ら ず 、2
N工 工一Eleotronlo LlbraryNII-Electronic Library Service 文 明 九 年 ( 一 四 七 七 ) 三 月 = 二 日 西 谷
義
の 仏 陀 寺 邦諌
が 参 内 し て 阿 弥 陀 経 を 講 じ た こ と を 記 し て い る 。 ま た 文 明 一 四 年 ( 一 四 八 二 ) 九 月 般 舟 三昧
院 で 後 花 園 天 皇 の = 二 回 聖 忌 に 邦諌
は 本 山 義 善 空 と 共 に厳
修
し て お り 西 谷 義 と本
山 義 の 交 流 が 推 さ れ る 。 本 山 義 と 西 谷義
の 交 流 は 三 條 西 実 隆 の 仲 介 が 縁 で 明 応 七 年 ⊃ 四 九 八 ) 六月
四 日 本 山義
二尊
院 長 老 を導
師 に 、 再 建 な っ た 禅 林 寺 に 西 谷義
僧 二 〇余
人 が 円 頓 戒 を 受 け て い る 。 邦諌
や そ の 後 の仏
陀寺
の 記事
を 伝 ほ ワ ゐ モ え て い る の に 甘 露寺
親 長 の 『 親 長 卿 記 』 や 中 御 門 宣 胤 の 『 宣 胤 卿 記 』 が あ る 。 光 明寺
に つ い て は 、時
代 は 下 が る が ロ ね 親 長 の息
甘 露 寺 元 長 の 『 元 長 卿 記 』 永 正 八年
二 五 一 こ 正 月 一 一 日 条 に 、 勅 裁 で も っ て 仏 陀 寺 の住
持 彦 致 を 西 岡 光 明 寺 住 持 と し、来
る 二 五 日 の 宗祖
法 然 上 人 三 〇 〇 回忌
を如
法
念 仏 で執
行す
る よう
指
示 さ れ て い る 。 『 実 隆 公 記 』 大 永 四年
( 一 五 二 四 ) 九 月 二 二 目 条 以 下 に、 東 山義
を 伝 え て そ の 中 心 的 存 在 で あ っ た 三福
寺
の 格翁
が 参 内 し て 二 八 日 ま で 八 日 間 、 後柏
原 天 皇 に 当 麻 曼 陀 羅 を 講 じ る 等 々 。 西 山 派各
教 団 の 禁 裏 で の 活 躍 は枚
挙
に い と ま の な い あ り 様 で あ る 。 公 家 た ち の 中 か ら も 西 山 派 の 僧 に よ り 得 度受
戒 し 、 甘 露寺
親 長 は そ の 折 に 頂 戴 し た 法 名 を彼
の 日 記 に 「 蓮 め 空 」 と 署 名 し て い る ほ ど で あ る 。 刊 行 中 で あ る 山 科 言 国 の 『. 言 国 卿 記 』 明 応3
年 二 四 九 四 ) 七 月 八 月 以 下 の 条 に は 、 葬 儀 に 関 わ っ た 深 草 義 関 係 の 本 撰 (誓
) 寺 の 名 が 見 え 、 亡 く な っ た 息 子 の 中 陰 の た め 母 親 が撰
願 寺 ( 誓 願寺
) め に お参
り し た こ と を 記 し て い る 。 三誓
願
寺
の歴
史
的
経
過
に つ い て さ て 、 近 世 深 草 教 団 の本
寺 的 立場
に あ っ た 誓 願寺
に つ い て 、 現 存資
料 か ら そ の 歴 史 的 経 過 を窺
っ て 見 た い 。 ハ ユ セ サ 願 寺 文 書 L のう
ち 最 も 早 い 時 期 に 属 す る南
北 朝 期 の「 足 利 義 詮 袖 判 御 教 書 」 に 戦 国 期 ・ 西 山 深 草 義 教 団 の 動 向 に つ い て ( こ 「 誓 一
3
一 N工 工一Eleotronlo LlbraryNII-Electronic Library Service 西 山 学 報 [ 花
押
] 京都
誓
願寺
散 銭 事 早任
先 例為
当
寺
供 僧 中 一 円 領掌
不 可 有 相 違 之状
如
件
文
和
三年
六 月 廿 三 日 【釈
文 】[ 足
利
義 詮 の 花 押 ]京
都 誓 願寺
の 散 銭 の事
、 早 く 先 例 に任
せ 当 寺 供 僧 中 と し て 領 掌 は 相 違有
る べ か ら ざ る の 状件
の 如 し 文 和 三年
( = 二 五 三 ) 六 月 二 十 三 日N工 工一Eleotronlo Llbrary Servloe
が あ っ て 、 足
利
尊
氏 の 子 で室
町幕
府 の 基 礎 を か た め た、 同 幕 府 二 代 目 の 将 軍 と な っ た 義 詮 の花
押
で 署 判 さ れ て い る 。 文 和 三年
( = 二 五 四 ) は 、義
詮
が 北 朝 ・ 後 光 厳 天 皇 を 同 元 年 ( = 二 五 二 ) 八 月 に擁
立 し た ば か り で 、 南 朝 に 組 し て幕
府 奪 回 を 図 っ た 直 冬 の 党 に 一時
実 権 を 握 ら れ 、 再 び 取 り 戻 し た の が 同 二年
の 秋 で あ っ て 、直
冬
の 残 党 の残
る 政情
不 安 な時
期 で 政務
を 執 っ て は い た が 将 軍 で は な い 時 期 の 義 詮 の 袖 判 御 教 書 であ
る 。 内 容 は誓
願寺
に お 参 り の 人 た ち が あ げ る散
銭 (今
で 言 う お賽
銭
の こ と ) の 扱 い に つ い て で あ っ て 、 先 例 に任
せ と あ る こ と か ら 従 来 の よ う に誓
願寺
の 供 僧 全員
が 領有
し 支 配 す る こ と は 間 違 い の な い こ と で あ る 、 と幕
府 の 政務
を執
っ て い る義
詮 が 署 判 し て誓
願寺
で 行 わ れ る 散 銭 の支
配権
を こ の寺
の 供 僧 中 に 対 し て保
障 し て い る の で あ る 。 供 僧 中 の 散 銭 の支
配権
を 取 沙 汰 す る と い う こ と は 散 銭 そ の も の が 小 額 で は な い こ と を 示 し て い る 、 と 共 に供
僧
中 を 指 定 す る こ と は誓
願寺
住 持 が 常 住 し て い な か っ た こ と を 示 し て い る 。 し か も 「 先 例 に 任 せ 」 と あ る こ と は 文 和 三 年 以前
か ら 、 こ の様
な 例 が 続 い て い た か 又 は あ っ た こ と を 示 し て い る 。 『 深 草 史 』 に 記 さ れ る 宝 永 四 年 ( → 七 〇 七 ) 入 寂 さ れ た と いう
誓
願 寺 一 代 で あ る 龍 空 瑞 山 上 人 の 「 草 山 代次
」 に は 一 4 一NII-Electronic Library Service ( 上 略 ) 本 寺 誓 願 ノ 相 承 モ 開 祖 恵 隠 上 人 以 来 乃 至 円 空 以 来 泰 翁 上 人 二 至 ル ノ 中 問 歴
代
モ亦
未
タ 顕 明 ナ ラ ズ 故 ヲ 以 テ余
謹 ン デ 本 寺 ノ 歴代
ト 当 山 ( 真 宗 院 ) ト 互 二 勧 請 シ テ 以 テ寺
ノ 代 次 ヲ 成 シ ( 下 略 )N工 工一Eleotronlo Llbrary Servloe
と あ る よ
う
に 、誓
願 寺 は 深 草義
祖 円 空 立 信 上 人 か ら 戦 国末
期 の 泰 翁 慶 岳 上 人 ま で の 住 持 世代
は 顕 ら め る こ と が で き な か っ た の で 、 不 明 で あ っ た鎌
倉
末
期 か ら 戦 国 期 約 三 〇 〇年
間 の 空 白 期 に つ い て は 、敢
え て勧
請 世代
と し た こ と を 述 べ て い る 。 こ の こ と は 、 先 述 し た文
和
三年
の 御 教 書 に あ る よ う に 、 往 古 か ら 習 慣 化 さ れ た 誓 願寺
に特
別
の 在 り よ う と 言 っ た も の 、 言 い 換 え れ ば 誓 願 寺 そ の も の の性
格
、 が 伝 え ら れ て い た の で は な か ろう
か 。 『 深 草 史 』 に、 応 仁 の 兵 火 で 炎 上 し た 誓 願寺
に 仮 殿 を修
し た 時 ま で は 「自
他 の 宗旨
を 問 わ ず 沙 弥 ・ 禅 門 宿 住 し て 住 職 を 置 かず
、 ( 頓 意 上 人 の 時 ) 始 め て 規律
を定
め 円 福寺
の 下 流 に 属 せ し む 」 と の 記事
の あ る事
に 注 意 が 必 要 と 考 え ら れ る が 。 い ず れ に し て も 誓 願 寺 の 草 創 を 語 っ て く れ る の は 室 町 中 期 の成
立 と さ れ、 こ の 頃 ま で の伝
承
を ま と め た と 考 え ら れ る、 先 に掲
げ た 『 洛 陽 誓 願寺
縁起
』 で あ る 。 『 同 縁 起 』 の 内容
に つ い て は 広 く 知 ら れ て い る と こ ろ で あ る の で 詳 述 を 控 え る 。 ハ ロ ホ 江 戸 時代
の 地 誌 に 伝え
る 誓 願 寺 の 位 置 は、 『 山 城 名 勝 志 』 ・ 『 山 城名
跡
巡行
志 』 で は 延 暦 = 二 年 ( 七 九 四 ) 平 安 遷 ハ お 都 に よ り ま ず 山 城 乙 訓 郡 に 移り
中 世 は 京 都 上 京 の 一条
小 川 に 移 転 し た 。 『 擁 州府
志
』 に は 、奈
良 よ り 山 城 相 楽 郡 に 移 り 、平
安
遷 都 後 に 山 城紀
伊
郡 深 草 に 移 り 、 そ の 後 に 上京
元 誓 願 寺 町 に 移 っ た と し て い る 。 中 世 は 間 違 い な く 一条
通 小 川 付 近 に あ っ た こ と は 、 誓 願寺
文 書 に こ の寺
が 小 河 町 と 関 わ っ た 折 の 一件
文 書 群 と し 戦 国 期 ・ 西 山 深 草 義 教 団 の 動 向 に つ い て 二 ) 一5
一NII-Electronic Library Service 西 山 学 報 ら ヨ て 遺 さ れ て い る こ と か ら も 知 ら れ る 。 寺 と し て 一
条
小
川東
頬 地 事南 小 川
面
奥寺
地 に つ い て は 公 家 か ら も 寄 進 が あ っ て 同文
書 の 内 、 → 条 家 か ら は寄
進
誓
願
一 七 丈 五 尺 北 限 東 大 峰 辻 子 限 西 小 川 十 七 丈 五 尺 右彼
御 地 者 自坊
門 殿 被 寄進
当
寺
知 行 干 今無
相 違 云 々彼
丈
数
之 外 南 北 参 丈 八 尺 十 七 丈 五 尺 自 殿 中重
所 被 寄 進 也為
本 尊 仏 供
灯
明 料 所 永代
無他
妨
可 被 致 知 行 者 也 口 於 此 所 諸 公事
以 下 免 除 口口
可 被 致 御 家 門 派 繁 栄 御 円満
御
祈
祷 精 誠 之 由 依 仰 執 達 如 件 ( 一 四 四 〇 ) 永享
十 二 年 四 月 廿 二 日 兵 部 口 口 口 口 民 部口
口
口
口 一6
一 N工 工一Eleotronlo LlbraryNII-Electronic Library Service と の ハ を 「 一
条
家 雑 掌 の寄
進
状 案 」 に 一条
小 川 面 在家
敷
地事
任 寄 進 状 之 旨 当 寺 永 代 知 行 不 可有
相 違 之 状 如 件 四 月 廿 二 日花 押 ( 一 条
兼
良 )誓
願 寺 住 持N工 工一Eleotronlo Llbrary Servloe
ロ 摂 政 を 勤 め た 「 一 条 兼 良 の
安
堵 状 」 が 添 え ら れ て い る 。 応 仁 の乱
以 前 に さ か の ぼ る こ と 二 十 数 年前
の こ と で あ り、 寺 地 の 位 置 を 知 る と と も に、禅
林
五 山 の 優勢
な時
期 に こう
し た行
為
が 浄 土系
寺 院 に な さ れ る と こ ろ に も誓
願 寺 が 如 } 何 に 特 別 な存
在
で あ っ た か を 知 る と こ ろ で あ る 。7
現 在 の新
京
極 に 移 っ た の は 豊 臣 秀 吉 の命
に よ り 天 正 一 九 年 ( 一 五 九 一 ) 二 月 で あ り 、 こ の 時 秀吉
の 側 室 松 の 丸 殿京
極
竜 子 の 助 力 を 得 て 堂塔
を 再 興 し 、 落 慶 供 養 は導
師
に 大 覚 寺 宮 二 品 空性
を請
じ て 行 っ た の が慶
長 二年
二 五 九 ま 七 ) 三 月=
日 で あ る 。 同 文 書 の 中 に 「 誓 願 寺 供養
参 列 交名
」 一 通 が あ る 。 誓 願 寺 は 平 安時
代 よ り 浄 土 系 の 話 が 伝 わ っ て い る 。 『洛
陽 誓 願寺
縁
起 』 に よ れ ば醍
醐 天 皇 が 浄 土 三 部経
を 納 め る 、 源 信憎
都 五 〇 余 日参
篭
し て 不 断 念 仏 を 修 し 一 巻 の 誓 願 講 式 を 編 む、 清 少 納 言 や和
泉 式 部 が参
詣 し て 往 生 を 願 っ て 念 仏 し た 等 々 。 鎌倉
時
代 に な っ て 此 処 に 参 籠 し た 法 然 に 時 の住
僧
蔵
俊 僧 正 は法
然
に 帰 依 し て寺
を 浄 土 宗 に 改 め る と は の ヨ オ 『 山 州 名 跡 志 』 に あ り 、 浄 土改
宗 は 『 山 城 名 勝 志 』 に も 深 草義
祖 立 信 上 人 の 孫 弟 ・ 良 玉 と す る 一説
も あ る が 、 先 の 『 山 州 名 跡 志 』 に 深 草 の 真 宗 院 立 信 上 人 が 誓 願 寺 を 兼 帯 さ れ る こ と が あ っ て 、 こ れ よ り 西 山 深 草派
の 本 寺 と な す と 戦 国 期 ・ 西 山 深 草 義 教 団 の 動 向 に つ い て 二 )NII-Electronic Library Service 西 山 学
報 記 さ れ 、 江 戸
時
代
初 期 の 納 得 さ れ た 定 説 で あ っ た よう
で あ る 。鎌
倉
時 代 の 建 治 二年
二 二 七 六 ) に 時宗
の 一 遍 が 此 処 に 参 詣 し て 六時
の浄
業
に励
み 諸 人 に名
号 符 を 与 え 、 和 泉 式 部 の 霊 を済
度 し た と 『 洛 陽 誓 願 寺 縁起
』 は 記 し て い る 。 ま 一 遍 が 誓 願 寺 に 立 ち寄
っ た こ と は 「 一 遍 上 人年
譜 略 」 に あ る 。 こ れ 以後
遊 行 上 人 回 国 の 折 に は寺
に 七 日 間 逗 留 す る お ね 風 が 残 っ て い る と いう
。 一 遍 に つ い て の 伝 承 は 謡 曲 「誓
願寺
」 に詳
し い 。 こ の 様 に 誓 願 寺 は 早 く か ら 京 洛 に あ っ て 上 層、 下 層 、 男、 女 の 区 別 な く 開放
さ れ 自 由 に お 参 り が 出 来 る 、 ま さ に 法 然 上 人 が お 説 き に な っ た 浄 土 教 を体
現 し た よ う な 、 い わ ゆ る 大 衆 的 な寺
と し て 京 洛 の 人 々 に 親 し ま れ る 存 在 で あ っ た 。 ま た 誓 願 寺 は幾
度 と なく
火災
に 遭 遇 し、 そ の 都 度 再 興 し て き た 特 異 な 歴 史 を持
っ て い る 。 応 仁 の 乱 の 兵 火 に か か ら ぜ り 焼 失 し た の は 応仁
元年
( 一 四 六 七 ) 五 月 二 六 日 で あ っ た 。 『親
長 卿 記 』 文 明 ⊥ ハ年
二 四 七 四 ) 四 月 三 日条
に は 焼 け た ま ま の 誓 願寺
で あ り な が ら も参
詣 者 は 絶 え ず と 伝 え、 同年
八 月 五 日 条 『 実 隆 公 記 』 に は 誓 願 寺 の 釣 鐘 の 鋳 造 に 将 軍 義 政 を始
め貴
賎 の 群集
が 見物
に 集 っ て い る 記 事 を の せ て い る 。 そ の 後 も 再 興 へ の 取 り 組 み が 続 け ら れ て い た よ の らう
で 文 明 九年
二 四 七 七 ) 六 月 二 六 日 の 『長
興 宿 称 記 』 に 一8
一N工 工一Eleotronlo Llbrary Servloe
今
日 誓 願寺
御 堂 造 営 立 柱 也 、 勧 進 坊 主 号 十 穀 沙 門 興 行 也 、 勧 進帳
】条
禅
閤御
作 也 予 口 南 都申
上 所 望方
遣 之 、 今 日 室 町 殿 御 口 口 参 詣萬
疋御
寄 付 云 々 、 彼寺
兵
乱 中 焼 失 、 本尊
者
無
相違
者
也 と あ っ て 、 い よ い よ 誓 願寺
本
堂 造 営 に当
た っ て 柱 だ て の お 祝 い の 儀式
が勧
進
聖 十 穀 沙 門 の 興 行 に 依 っ て 行 わ れ た 。NII-Electronic Library Service こ の 造
営
に か か る 費 用 調 達 に 当 た っ て 、 十 方 に 喜 捨 を募
る 勧 進 帳 の 作者
は 当 時 和 学 の権
威
者
で あり
摂
政 も 勤 め た 一 条 兼良
で あ っ た 。 こ の祝
い に は 将 軍 義 政 は 祝 い 金 萬 疋 を 寄 付 し、 御 台所
日 野 富 子 は 瓜 百 個 を 贈 っ た こ と を 同 日 の ロ お ヤ 『御
湯 殿 上 日 記 』 に伝
え て い る 。 こ の 本 堂 な ど は 三 〇余
年
後 の永
正 亠 ハ 年 二 五 〇 九 ) ま た 炎 上 し た 。 そ の 復 興 工 事 の な か で は同
一 四年
( 一 五 一 おり 七 ) 八 月 造 営 勧 進 の た め 寺 内 に 於 い て観
無 量 寿 経 の 講 莚 が 開 か れ て い る 。 『 宣 胤 卿記
』 同 年 八 月条
に記
さ れ る と こ ろ で は 八 月 三 日 か ら 同 月 一 八 日 の 問 、 延 引 し て い た 祇 園会
の た め 七 日 と 一 四 日 を 休 ん で 一 四 日 間 に 亘 っ て い る 。導
師 は 西山
派
東
山 義 を 伝 え てき
た 三 福 寺 の 長 老 格 翁 と いう
僧
で 、 こ の 格翁
は 七 年 後 の 大 永 四年
( 一 五 二 四 ) 九 月 廿 ニ エ こ 日 か ら 二 八 日 ま で 七 日 間 、 こ こ で は 円 福寺
格 翁 と し て 宮 中 に参
内 し て 曼 陀羅
を 講 じ て い る こ と か ら 、 こ の 造 営勧
進 の 講 莚 は観
無 旦 里 寿 経 を 説 き 顕 わ し 、 浄 土 往 生 を 薦 め る当
麻 曼 陀 羅 を講
じ て い た の で あ ろう
。 こ の講
莚 に は 、 日 記 の 記 主 ・ 権 大 納 言 を 勤 め た 中 御 門宣
胤 や 甘 露寺
元長
と 禁 裏 に 勤仕
の 公 家 衆 と 共 に 、 雨 の 日 も 結 縁 し た 。 宣 胤 は 一 〇 日 に あ っ た 円 頓 戒 を 、 す で に 西谷
義
仏 陀 寺 邦諌
ら か ら 度 々 受 け て は い た が 、 こ の 日 も 結 縁 の 為 に と受
戒 し 小 布 施 を 遣 わ し て い る 。 こ の 時 は 本 尊 遷 座 の 勧 進 で 、 授 か っ た 法 名 は こ の 本尊
の 腹 の 中 に 納 め る と い わ れ て い た よ う で あ る 。 ま た こ の 日 の 受 戒 は 男 女 二 千 四 百 人 と い わ れ宣
胤 は 「 希 代 の事
な り 」 と驚
異 の 言 葉 で表
現 し て い る 。 境 内 に は 公 家衆
だ け で な く 、 彼 ら を 圧 倒 す る 民 衆 が 受 戒 し布
施
を捧
げ 結 縁 し た の で あ る 。 最 終 日 に当
た る 十 八 日 の結
願 に 宣 胤 は 行 けず
「 依 故 障 不 聴 聞 、 尤 無念
」 と 結 ん で い る 。 上 述 の よ う に誓
願 寺 は 階 層 を も 超 え て お参
り の あ る 特 異 な 存在
であ
っ た 。 そ れ は 戦 国期
に描
か れ た い く つ か の ミ 『 洛 中 洛 外 図 』 の 誓 願寺
に は 、 本 堂 脇 で卒
塔
婆 や 生 の 枝 を 売 っ て い る 光 景 や 門 前 の 賑 わ い に わ か る よう
に 、 中 陰 や 戦 国 期 ・ 西 山 深 草 義 教 団 の 動 向 に つ い て ( こ9
N工 工一Eleotronlo LlbraryNII-Electronic Library Service 西
山 学 報 へ あ 忌 日 に 参 詣 す る
寺
と し て 京 洛 の 人 々 の 信 仰 を 集 め て い た の で あ る 。 こ れ ま で 述 べ た き た よ う に 賑 わ い を 見 せ る 寺 であ
り な が ら 誓 願寺
の 住 持 の 名 前 は 一 つ と し て 出 て こ な い 。 た だ 先 述 し た 永享
二年
( 一 四 四 〇 ) 一条
兼
良
の 安 堵 状 は 「 誓 願 寺 住持
」 宛 の み で 個 人 名 は な く 、文
書
か ら 「誓
願寺
宗
清 御 あ ち房
」 と 名 前 が 判 る の は 、 六 十年
後
の 永 正 六 年 二 五 〇 九 ) に初
め て 出 て く る の で あ る 。 ヨ せ 誓 願 寺 長 老 と 、 個 人 を指
す
史
料
が 出 て く る の は ま だ 遅 く て、 そ の 四 十 年 後 『 言継
卿記
』 天 文 二 〇年
( 一 五 五 一 ) 二 月 七 日 条 にN工 工一Eleotronlo Llbrary Servloe
( 前 略 )
誓
願 寺 長 老 弘 松 軒 天 甫 上 人 礼 に 被 来 、 両 種 豆腐
一 折 柳 一荷
持 来 、老
母 に鈴
一 対 饅 頭 一 折 被 送 之 (後
略 ) と 、 長 老 の 名前
が現
れ る が ( 一 五 五 六 ) 二 月 七 日条
に 混 布 一 折 『 深 草史
』 に 該 当 者 を 見 つ け る事
は で き な か っ た 。 こ の 五 年後
の 『 言 継 卿 記 』 弘治
二 年 一10
一 長橋
局
迄
参 、 誓 願寺
長
老泰 翁 上 人
被 申 勅 筆
懸
字
三 之事
申 入 了 と の 、 記 事 が 出 て く る 。 、 誓 願 寺 長 老泰
翁 が後
奈
良
天 皇 の 勅筆
「 懸字
三 」 を 所 望 し て い る こ と を、 天 皇 の お 側 に勤
め る 長 橋 の 局 に 、山
科 言 継 が 仲介
し て 申 し 入 れ を し た の であ
る 。 『 言 継 卿 記 』 に は こ れ 以後
誓 願 寺 長 老泰
翁 の名
がNII-Electronic Library Service 頻 繁 に 現 れ る 。 こ の 誓 願
寺
長 老 泰 翁 と は 、 『 深 草史
』 に 誓 願寺
第
五 十 一 世 と し て泰
翁
慶岳
上 人 は 三 河 岡崎
の 人 、 大林
寺 照 翁 に 師事
し て そ の 寺 に 住 し て 当 山 に 昇 進 し て 永 禄年
中 三 河 に 退 き 岡崎
に 隠 す 。偶
々東
照 公 の 任官
を執
奏
せ ら れ た る を 以 て 寵 遇特
に厚
く 一 寺 を建
立 し 下 し 給 へ り 諏 訪 山誓
願寺
是
な り 天 正 二 年 正 月 十 三 日 保寿
七 十 五 に し て 帰 寂 せ ら れ た り と あ っ て 、 こ の泰
翁 は 岡 崎 大 林 寺 照 翁 の弟
子 と あ る が 、紙
巾
の 制 限 が あ る の で 詳 細 に つ い て は 次稿
に譲
り
た い 。 お そ ら く 、誓
願寺
は特
定 の 住 持 職 を 定 置 す る こ と な く 、 「供
僧
中
」或
い は 「 衆 僧 中 」 の 合 議 で 以 て 運 営 し て い た の で は な い か と推
測 さ れ る 。 四本
誓
寺
照
翁
上
人
に つ い て 『 深草
史
』 に 泰 翁 の 師 と あ る 、 こ の 照 翁 の事
は 『 言継
卿記
』 大 永 七 年 ( 一 五 二 七 ) 正 月 条 に 八 日( 上 略 )
今
礼
来 候 輩 円 福 寺 、 本 誓 寺 ( 中略
∀ 仏 陀寺
永
琳
、 同 良 胤、 十 五 日御
礼
参
候 方 々 、 円福
寺
、 本 誓 寺 、 仏 陀 寺 、 西光
寺
( 下 略 ) 戦 国 期 ・ 西 山 深 草 義 教 団 の 動 向 に つ い て ( こ 大 隅 一11
一 N工 工一Eleotronlo LlbraryNII-Electronic Library Service 西 山 学 報 と 西 山 派 関 係 の
寺
名 が 記 さ れ た の を 初 出 と し て 以 降 頗 出 す る 寺 名 の 中 に 照翁
の 名 が あ る 。 『 言 継 卿 記 』 は 従 二 位 権 大 納言
ま で 昇 っ た 山 科 言 継 の 日 記 で あ る 。 山科
家
は 藤 原 北家
の 一 流、 冷 泉 家 の 分 家 で 、 南 北 朝 期 冷 泉 教行
が 家 領 で あ る山
科 七 郷 に ち な ん で 山 科 の家
称 を 勅 許 さ れ た 、 代 々有
職
故
実 を 以 っ て朝
廷 に 仕 え て い た 。 言 継 は 永 正 四 年 ( 一 五 〇 七 ) の 生 ま れ で 、 日 記 は 言継
十 八 歳 、 正 五位
下 に 進 ん だ 大 永 四年
正 月 六 日 を 期 と し て 書 き 始 め ら れ て い る 。 前 掲 史 料 大 永 七 年 正 月 十 五 日 の 「 御 礼 に 参 り 候 方 々 」 は 、 正 月 八 日 に 昇 進 の お 祝 い に 来 て く れ た寺
々 に 対 し 、言
継
か ら 改 め て 返礼
の 挨 拶 に 出向
い た も の で あ る 。 ゐ こ こ に あ る 本誓
寺 は 先 出 の 『言
国 卿 記 』 に 本 撰寺
と 記 さ れ て い た寺
で あ る 。 こ の 日記
の 記 主 ・ 言 国 は 言 継 の実
祖 父 で あ る 。 明 応 三 年 ( 一 四 九 四 ) 七 月 、 言 国 の 嫡 子 ・ 定 言 は 侵 入 し た夜
盗 に 深 手 を負
い そ の ま ま 亡く
な る と いう
事
件
が あ っ た 。 そ の 時、 定 言 に林
照
院 智 源 と の 院 号 ・ 法 名 を与
え 導 師 を つ と め た の は善
長
寺 長 老 で あ る が 、 葬 儀 の場
所
は 「 向 寺 本 撰寺
」 と あ り洛
中 の 山 科 邸 の 向 い に あ っ た寺
で 、 以 後 の 中 陰 は ロ ウ 僧 (籠
僧 ) と し て本
撰 寺 が 取 り 仕 切 っ て い る 。 こ の ロ ウ 僧 の 一 人 は 「 等 善坊
」 ・ 「 ト ウ せ ン 」 な ど と あ っ て 『 言 継 卿 記 』 に は 「 統 全 」 と 記 さ れ 終 生 本 誓 寺 に 居 た 僧 であ
る 。 山 科家
は こ れ ま で は 臨 済 禅 の 建 仁寺
と の 関 係 が深
か っ た が、言
国
の 頃 か ら こ の よ う に 浄 土 宗 と の 関 係 が 強 ま る よ う で あ る 。 応 仁 の 乱 で 焼 失 し た 建 仁寺
衰 退 の 時 期 で も あ り 、 浄 土宗
関 係 僧 の 活 躍 は こ の 頃 か ら 公 家 の 日 記 に 顕著
と な る 。 山科
家 と 本 誓寺
と の 関 係 は 三 十余
年 後 の孫
の 言 継 の 頃 に は懇
意 の 度 は 深 ま っ て い た よ う で あ る 。 こ の 時 の 住 持 が 照翁
で あ っ た こ と は 大 永 七 年 ( 一 五 二 七 ) の 『 言 継 卿 記 』 四 月 三 日 条 に 一 12 一 N工 工一Eleotronlo LlbraryNII-Electronic Library Service 本
誓
寺
長 老 照 翁 上 人 香 衣 之事
申
候老 父
奏
達
申
候
則 勅 許職
事
唐
橋
へ 申 候照
翁
香
衣 之 綸 旨 可令
聴
着香
衣給
者 、 依 天 気 執 達如
件 ( 広 橋 兼 秀 ) 三 月 三 日右 中
弁
判 照 翁 上 人
御
房
と あ る 事 か ら 判 る が 、 こ の 照 翁 は 後 に 現 在 の愛
知 県 岡 崎市
魚
町 大 林 寺 に 住 し て い る 。 三 十年
後 の 『 言 継卿
記 』 三 年 ( 一 五 五 七 ) 三 月 一 三 日条
に次
大 林寺
へ 罷向
、牛
黄
円 二 貝さ つ か 一 束 遣 之 、 吸
物
入緬
に て こ 献 有 之、 予受
戒 之 師 也 廿 余 年 在 国、 空 立 軒 照 翁 上 人 云 々 七 十 ⊥ ハ歳
云 々 翌 十 四 日条
に は 大 林寺
照 翁 上 人 暇 乞 に 被 来 、 五 十 疋 被持
之勧 一 □ と あ っ て 、
前
年 九 月 に京
都
を 出 立 し 駿 河 の 今 川義
元 に 会 っ て い る 、 どう
や ら 朝 廷 行 事 の 金策
に 行 っ た ら し く 、 戦 国 期 ・ 西 山 深 草 義 教 団 の 動 向 に つ い て ( こ 弘 治帰
路 一13
一 N工 工一Eleotronlo LlbraryNII-Electronic Library Service 西 山 学 報 大 林 寺 に 立 ち 寄
り
二 十 余 年 ぶ り に 言 継 の 受戒
の 師 照 翁 に 会 い 、 帰 途 に あ た り 照 翁 よ り 金 五 十 疋 を 持 た さ れ て い る 。 「 比 余 年 在 国 」 とあ
る の で 照 翁 の 在 京 は 天 文 五 、 六 年 以 前 ま で の こ と で あ る 。 照翁
は 天文
一 八 年 ( 一 五 四 九 ) 三 月 お に 大 林 寺 で 徳 川家
康
の 父 松 平 広 忠 の 葬 儀 を 取 り 扱 っ て お り 、後
に 政 権 を執
る家
康
と の 関 係 は 見 逃 せ な い 。N工 工一Eleotronlo Llbrary Servloe
五
本
誓
寺
と山
科
言
継
に関
わ
る寺
院
こ の よ う に 、 照 翁 上 人 を 通 じ て も 判 る よ う に 本誓
寺 は京
洛 に あ っ て 深 草 教 団 の 一 寺 で あ っ た 。 こ の 照翁
上 人 の 在 ユ ル 京 時代
に か え っ て 『 言 継 卿 記 』 に 依 っ て本
誓 寺 に つ い て 見 る 。 「着
香
衣参
内
」 の聴
し を 得 た 照 翁 は そ の 綸 旨 の 中 で 「 照 翁 上 人御
房
」 と 上 人 号 を 付 さ れ て い る こ と 、 こ れ 以 後 は 一 切名
前 で は 記 さ れ ず 「 本 誓 寺 長 老 」 と し て の み 記 さ れ て い る こ と 、 ま た 本 誓寺
に は 僧 衆 が 何 人 か 居 り統
全 、 慶 存 の 名 が 頗 出 し 、 慶 存 は 後 に、 南 北 朝 期 ・ 本 願寺
覚
如 と の おド そ の 子 存覚
が 西 山 流東
山 義 阿旦
房 彰 空 か ら 教 え を 得 た と いう
安 養 寺 に 天 文 元年
( 一 五 三 二 ) に は 僧 衆 と な っ て お り 、 そ の後
天 文 一 四年
( 一 五 四 五 ) 四 月 二 日 条 に 一14
一 従 西 三 條 綸 旨取
に 来百 疋 到 同 奏 者 物 二 十 疋 被 送 了
則
綸
旨 調 遣 了如 此 聴 着 香 衣
可 令
参
内 給 者依 天 気 執 達 如 件 ( 葉 室 頼 房 ) 四 月 十 日
左
少 弁表 書 に は 名
字
也 慶存
上 人 御 房 藤 中 へ 罷向
暫
雑
談 了 従 長橋
局
御 烏 帽 子代
二 十 疋 到 則 藤 中 へ 遣 了 ( 下 略 )NII-Electronic Library Service と あ っ て 、 こ の 慶 存 は 安 養
寺
の僧
衆 の ま ま で が 天 文 二 三 年 ( 一 五 五 三 ) 八 月 二 七 日 条 に 「 着 香 衣 参 内 」 の 聴 し を 得 て い て 、 こ の 時 の 住 持 は宥
賢
で あ っ た こ とN工 工一Eleotronlo Llbrary Servloe
安 養 寺 の 僧 慶
存
前
住
宥
賢 上 人 就 常 住 不義
有 之 間 為 禁 裏 被 仰 出離
寺
之 事 可 申 沙 汰 之 由 衆 僧誓
願寺
等 申 分 之 由 有 之 と 、 「前
住 持 宥 賢 上 人 が 常住
し て い る事
は義
に 背 く事
で あ り 。 禁 裏 と し て 仰 せ 出 さ れ 、 離寺
の事
甲
し 沙 汰 す べき
」 と は ( 安養
寺
の ) 衆 僧 や誓
願寺
等 の 申 分 で あ る と 。 安 養 寺 の 僧 慶存
が 言継
に 話 を 持 っ て き た の であ
る 。 慶 存 が着
香
衣 参 内 の 綸旨
を 得 て よ り 九年
を 経 て の こ と で あ る 。 か っ て 本誓
寺
に あ っ て 慶存
と 共 に 、 言 継 の 先 亡 の 忌 日 な ど に は 来邸
し て い た 統 全 は 天 文 一 七 年 ( 一 五 四 八 ) 三 月 む ソ 廿 七 日 八 十才
で遠
行
し て お り 、 こ れ 以後
本誓
寺 の 名 は 『 言 継 卿 記 』 か ら 消 え る 。 統 全 は 本 誓 寺 に長
く 居 り 、 父 言 綱 の 子 ど も の 頃 か ら葬
儀 ・ 中 陰 や 忌 日 に は 山科
邸 に お 参 り の た め 出 入 り し て い た が 、統
全 の 晩 年 は言
綱 の 忌 日 の み と な っ て い た 。 お そ ら く 本 誓寺
に あ っ て終
生 「 籠 僧 」 の 役 を 務 め て い た の で あ ろ う 。 山 科 邸 へ 忌 日等
に参
っ て い る 僧 は 外 に 西谷
義
の仏
陀 寺 、 西 光 寺 と 本誓
寺
の搭
頭 で あ っ た の か 西 専 庵 が あ る 。 言 継 の 祖 母 は 天 文 元年
五 月 一 五 日 煩 い の 為 此 処 に 入り
、 同 日 の 暮 々 に 亡 く な っ て お り 中 陰 も 西 専 庵 で 行 い 、 こ の 時 安 養 寺 に 移 っ て い た僧
慶尊
( 存 ) が 十 疋 を 持 っ て 弔 い に来
て い る 。 ま た 浄 土宗
鎮 西 流 の 四 ヶ 本 山 の 」 、浄
花 院 の 搭 頭 松 林 院等
が あ る 。年
賀
や 特 別 の祝
い に 戦 国 期 ・ 西 山 深 草 義 教 団 の 動 向 に つ い て ( こ 一15
一NII-Electronic Library Service 西 山 学 報 際 し て 言 継 邸 に 出 か け て い る の に
円
福寺
が あ っ て 大永
七 年 二 五 二 七 ) 三 月 三 日条
に 祝 言 如 常四 条 父 子 同 円 福 寺 、 中 御 門、
法
印
礼 来 臨 酒 を す す め 候N工 工一Eleotronlo Llbrary Servloe
と あ り 『 深 草
史
』 に よ れ ば 、 こ の 時 の 住 持 は 円 福 寺 十 世 徳 翁 秀 恵 、 字 を 隆 悦 と し 四條
中 納 言 隆資
の 曾 孫 と し て い る 。 四 條 隆 資 は南
北朝
期
・ 後 醍 醐 天皇
に つ い て 戦 っ た 数 少 な い 公 家 の 一 人 で 、 正 平 七年
( = 二 五 二 ) 男 山 八幡
で 足 利 義 詮 軍 と 戦 い戦
死 し 、 公 家 と し て の隆
資 の 跡 は 絶 え て い る が そ の 子孫
が 出 家 し て い た よ う で あ る 。 四 条 家 は 山 科 家 に と っ て は 本 家 筋 に あ た り 言継
は同
じ 親 類 筋 と し て特
別 の 感 情 を持
っ て い た の か 大永
八 年 ( 一 五 二 八 ) 六 月 九 日条
に 今 日 七 時 分 に 円 福寺
遠 行 と 云 々言 語
道
断
之 次 第袖
を 面 に あ て 候事
候 と あ り 『 深 草史
』 の 没 年 享 禄 元 年2
五 二 八 ) 六 月 九 日 と 一 致 す る 。 こ の 徳 翁 の 先 住 の 賢寿
は 四條
隆 資 の孫
と あ り 、 隆 資 戦 死 の と き 六 一 才 か ら数
え
て 孫 と す る に は 隔 た り が あ り す ぎ る 感 が あ る 。然
し 興 味 の そ そ ら れ る 記事
で は あ る 。 言 継 は 本誓
寺統
全 の 死 に つ い て 、 長 い 付 き 合 い が あ り な が ら も 、 一 月 遅 れ で簡
単 に 死 亡 記事
を 記 し た だ け で あ る が 、 円 福寺
遠 行 に は 強 い惜
別 の 言 葉 を 記 し て い る 。 誓 願寺
に は 山科
家 先 亡者
の 忌 日 の 夕 刻 に よ く参
詣 を し て い る 。 そ の外
、当
時
は 西 山 流本
山義
で あ っ た 二尊
院
や 盧 山 寺 、般
舟 三 昧 院 等 に行
っ た り し て も い る が禁
裏
の 行事
と し て 出向
い て い る よ う で あ る 。 一16
一NII-Electronic Library Service
六
本
誓
寺
慶
存
が移
った
安
養
寺
本誓
寺
統
全 死 後 、 忌 日 に 山 科 家 へ参
る僧
は 安 養 寺 慶 存 が多
く な っ て い た 。 慶 存 が綸
旨 を 得 て か ら 九 年 に し て初
め て 住 持 の 取 沙 汰 が な さ れ て い る 。 し か も、 前 住 離 寺 の 勧告
を 禁裏
と し て行
な お う と し て い る の であ
る 。 こ れ ま で住
持 の 決 定 は 誰 が し て い た の であ
ろ う か 。 京 都 で 南 北 朝 期 より
活
躍 の 西 山 流 本 山 義 教 団 の 場合
、 早く
か ら禁
裏
と の 関 お 係 は あ り な が ら も 、 文 明 十 五 年 二 四 八 三 ) 「 善 空 置 文 」 に 三鈷
寺
住
持
職 の事
と し て 「 当 山 の 住持
は 是 門 の 法 灯 な り ( 中略
) 教授
の導
師 は 必ず
や 法 器 の 可 否 を 撰 び て 須 ゆ べ し 」 と あ っ て 、 決 し て 禁 裏 を頼
り
と す る事
は な か っ た 。 し か し 禁裏
と の結
び つ き の 深 ま り の 中 、 着香
衣 参 内 の 綸 旨 を得
れ ば 住 持 と な る こ と は 当 然 、 と の考
え方
が 生 ま れ て く る よう
であ
る 。 言 継 は 翌 廿 八 日 早 速 「 長橋
の 局 の も と に参
り安
養 寺 之 儀 を披
露 し た 。 長 橋 の 局 か ら は 、 本 寺 の 円 福寺
と し て申
し 入 れ す る よ う 指 示 さ れ 、 言継
は 次 に 内 侍 所 で こ れ ら の事
に つ い て 細 工 の 沙 汰 を お こ な っ た 」 九 月 五 日 に 「 安養
寺
の 慶存
、誓
願 寺 の 宗 寿 ら が 来 た 、対
面 し た と こ ろ 二 人 よ り申
す 子 細 之 あ り 」 と記
し 同 十 日 に な っ て 「 円福
寺 よ り 納 所 が使
い と し て 来 た の で 対 面 、 用件
は 安 養寺
公事
の 儀 で あ り 御 取 合 わ せ を 頼 み 入 る と の 由 、 同 じ く 慶 存 も や っ て き た 」 な ど 関連
の 記 事 が 十 月 に も 続 き 十 月 廿 七 日 「安
養
寺
慶存
被 来、 見参
、申
間 之儀
返事
也 」 で 前 住 離 寺 の件
に 関 す る 記事
は終
っ て 、 同 十 一 月 十 五 日 の祖
母安
明 院 忌 日 に 「 安 養 寺 慶 存 斎 に来
」 と お参
り し て い る の み で あ る 。慶
存
に つ い て は 、 こ の 後 弘 治 二 年 ( 一 五 五 六 ) 二 月 十 五 日 安 明 院 忌 日 に お参
り し て い る が安
養
寺
の名
は な く 「 慶存
」 と の み で あ っ て 、 言 継 が 仲 介 と な っ て 禁裏
を頼
り と し、 本 寺 円 福 寺 と 誓 願寺
も 巻 き 込 ん で の 、 慶存
の 安 養寺
住 持 職獲
得 は 不 首 尾 に 終 っ た よ う であ
る 。 戦 国 期 ・ 西 山 深 草 義 教 団 の 動 向 に つ い て ( こ 一17
一 N工 工一Eleotronlo LlbraryNII-Electronic Library Service 西 山 学 報 先 に も 述 べ た よ う に 、 安 養 寺 や 三 福
寺
は 西 山 流 祖 證 空 上 人 の 弟 子 の 内 で も 凝 然 の 『 浄 土 源 流章
』 に 、 「 孔 子 の 上 足 顔 回 に 比 し東
山
宮 の 辻 子 で 浄 教 を 講 敷 し た聴
徒 は 市 の 如 く 門 輩 は 林 と 成 る 」 と紹
介 さ れ た 東 山義
祖 観 鏡 房 證 入 の 系 統 を ひ く寺
院
で あ る 。 応 仁 の 乱後
の 戦 国 期 に 浄 土 宗 系 の 寺 院 は 天 皇 や 公家
に接
近 を 計 り 、 そ の 教 線 を 広 げ た と は お お か か た の 言う
と こ ろ で あ る が 、安
養寺
の 場 合 は そ の 動 向 を 窺う
に よ い 例 で あ り 、 安 養 寺 に伝
わ る 寺 法 と い っ た も の が あ り 、 天皇
の 綸 旨 に 屈 せ ず住
持宥
賢 は 頑 な に 、 こ れ を 守 り とう
し た も の と考
え た い 。N工 工一Eleotronlo Llbrary Servloe
七
再
び誓
願
寺
に つ い て 『誓
願寺
文
書 』 の 中 に散
銭 に 関 わ る 文 書 群 が あ る 。 応 仁 の 乱 を境
と し て 、 誓 願 寺 が 京 都 に お け る 深 草 教 団 の な か で 、 住 持 の 常 住す
る 一 ヶ 寺 と し て の 地 位 と 独自
の活
動 を 確 立 し て行
く 過 程 を 見 る事
が 出 来 る 。 最 も 早 い の が 三 章 に 掲 げ た文
和 三 年 二 三 五 四 ) の 「 足利
義
詮 袖 判 御 教 書 」 で あ り、 室 町 幕 府 初 期 の 誓 願寺
供 ロ タ 僧 中 に よ る 散 銭 支 配 を 保 障 し た 文 書 で あ る 。次
は 下 っ て 一 五 〇年
後 の 永 正 五年
二 五 〇 八 ) 十 二 月 三 十 日「
幕
府
ゐサ 奉 行 人 連 署 奉書
」 が あ る 。 一 18 一 誓 願 寺事
慈
照 院 殿 御 代住 持 錯 乱 口 刻
一 旦 被 預 置 円 福 寺 三 福 寺 口
処
参
銭
雖 被 自 専 之条
太 無 謂
所
詮 如 先 規 令 進 退可 被 専 修 理 造 営 香 花 灯 明 之 由
被 仰 下 也
仍
執
達 如 件 永 正 五年
十 二 月 三 十 日下 野
守
へ 花 押 ) 左 衛 門尉
( 花 押 )NII-Electronic Library Service 当
寺
衆
僧 御 中 と あ っ て 、 「 将 軍 足 利義
政 の 御 代 、 住持
が 錯 乱 し た の で 、 一 旦 は 円 福 寺 と 三福
寺
に 預 け 置 か れ る事
に な っ た散
銭 を い つ ま で も 円 福 ・ 三 福 「 ヶ寺
で 思 い の ま ま に し て い る の は 、 は な は だ 謂 れ の無
い事
で あ る の で 、詮
ず る と こ ろ 誓 願 寺 が 先 規 (の 文 書 が 引
き
合
い に 出 さ れ た は ず ) に あ っ た よ う に 取 り 扱 わ せ る 、 集 ま っ た 散 銭 は誓
願寺
の 修 理 造 営 や お 供 え の香
花 灯 明 の 用途
に 専 ら 用 い ら れ る べ き で あ る 」 と 、 幕 府 一 〇 代 将 軍 足 利 義 稙 の命
を うけ
た奉
行 人 飯 尾 之 秀 ・ 諏訪
長俊
ら が 誓 願寺
の衆
僧 中 に 宛 て て 出 さ れ た も の で 、 こ れ に よ り誓
願 寺 に あ が る散
銭 は 円福
・ 三 福 二 ヶ 寺 の 介 入 の み な ら ず 、 他 か ら も介
入 さ せ ず 誓 願寺
衆 僧 中 の 支 配 下 で 行 わ れ る事
を 改 め て 保 障 し た 公 式 の 文 書 、 散銭
の 支 配 権 が誓
願寺
に 還 さ れ る こ と に な っ た 室 町 幕 府 の 公 式 文書
で あ る の で 、後
世 誓 願 寺 で は 将 軍 の 法名
を つ け て 「 恵 林 院 殿 ( 足利
義
稙 ) 還補
御
奉
書 」 と し て 大 切 に 遺 さ れ た 文書
で あ る 。 文 明 九年
六 月 二 六 日 境 内 に 満 ち 溢 れ る参
詣 者 の 中 盛 大 な御
堂 立 柱 の儀
式
を 経 て 、 三 十年
後
の こ と で あ る が誓
願 寺 再 興 の 造営
工 事 は ま だ 続 い て い た よう
で あ る 。 し か し 永 正 六 年 に 再 び炎
上 し た と 伝 え て い る が 、 そ の 日 付 を確
認 で き な か っ た 。 次 の 文 書 は こ の 炎 上 の前
な の か 、 後 な の か 不 明 だ が 、 い ず れ に せ よ 散銭
支
配権
に つ い て 】 旦 は誓
願 寺 に 安 堵 さ れ た が、 円 福 ・ 三 福 の 二 寺 は 不 服 と し て 訴 え 出 た よ う で あ る 。 そ の 裁 定 が次
の文
書
で あ る 。 一19
一N工 工一Eleotronlo Llbrary Servloe
誓 願
寺
事
今 度 円福
寺
三 福 寺 雑 掌 捧 申 状雖 及
訴
陳為 理 運 之 上 者
任 去
年
還 補 奉 書 之旨
参
銭 以 下 令存
知
之専 造
営
可 被 致 御
祈
祷精
誠 之 由所
被 仰 下 也 戦 国 期 ・ 西 山 深 草 義 教 団 の 動 向 に つ い て 〔 一 )NII-Electronic Library Service 西 山 学 報 仍 執 達 如 件 永 正 六 年 六 月 廿 四 日 下 野 守 ( 花 押 ) 前 丹 後 守 ( 花 押 )
N工 工一Eleotronlo Llbrary Servloe
当
寺
衆
僧 御 中 ま ソ幕
府
の 公 式 文 書 で あ る 「奉
行 人 下 野 守 (飯
尾 之秀
) ・ 前 丹後
守 ( 松 田 長 秀 ) の 連 署奉
書 」 で あ る 。 す な わ ち 、 「 先 の 二 ヶ 寺 が幕
府 に 申 状 を 捧 げ 訴 陳 し て い る が 、 道 理 に 適 っ て い る の は誓
願 寺 の 方 で あ る 。 去年
の 還 補奉
書
(文
書
) の 旨 に 任 せ て散
銭 以 下 の こ と 、 こ れ を存
知
せ し む 」 と 昨 年 の 裁定
を 再 度 確 認 し て い る の で あ る 。 こ の 文 書 に 加 ぼ え て「 奉 行 人 下 野
守
( 飯尾
之 秀 ) の 書 状 」 が 「 誓 願寺
衆
僧
御 中 」 宛 に 、 七 月 四 日 付 に て添
え ら れ た 。 こ れ に は 「 こ の 度 の円
福 寺 ・ 三 福寺
と 誓 願 寺 と の 相論
の事
、糺
明 を 遂 げ ら れ た 処寺 家 ( 誓 願 寺 ) の 道 理 の 正
当
性
は 紛 れ な か っ た の で 、 将軍
足 利 義 稙 ( 恵 林 院 ) の 御 下 知 が 下 っ た の で あ る 。御
祝着
察 し 奉 り 候 ( 下略
) 」 とあ
り 、の 文 書 を 指 し て 誓 願
寺
は 「 恵 林 院 糺 明 之 御 奉 書 」 と名
づ け て い た 。 こ こ に 掲 げ た 文書
の う ち、
、
と 以 下 に 紹 介 す る 文 書 は 巻 子 一
巻
に 仕 立 て ら れ 、 外 題 に 「 宝篋
院 殿 御 判 物 一 通 」 と あ る 。 い つ の 頃 か に誓
願寺
の 権 利 に 関 わ る 証 拠 文 ぜ 書 、 即 ち 「支
証 証 文 」 と し て 遺 さ れ た こ と が判
る の で あ る 。次
い で 同 年 七 月 三 日 付 け の「 後 柏 原 天 皇 の
綸
旨
」 が 別 に あ っ て誓
願寺
宗清
上 人御
房 宛 に 「 こ の度
の 武 家 厳 重 の 下知
に 任 せ て 、寺
堂 之 廃 遅 を 再 興 せ し め 、 殊 に は勅
願 旧 規 を 守 る 」 よう
仰
せ 出 し て い る 。 、文
書
の 「 武 家 」 即ち
室
町 幕 府 の 保障
に 合 わ せ 、 朝 廷 の 支 持 を 得 て 、 更 に 誓 願寺
再 興 と寺
の 旧 規 ( 散 銭 の保
障 を 含 め ) を守
り 他 寺 の介
入 を と ど め る 保障
を 手 に 入 れ る の で あ る 。 こ れ に は 誓 願 一一20
一NII-Electronic Library Service 寺 縁 起 絵 二 幅 を 天 皇 の
叡
覧
に 供 し、寺
冉 興 の こ と や散
銭 に係
る 子 細 を 上 臈 の 局 よ り 見参
に 入 れ る 、 と いう
前
工 作 の あ っ た こ と が 「 東 山 御 文庫
記 録 頴 同年
正 月 廿 九 日条
に 記 さ れ て い て、 文書
の 安 堵 を 得 て 直 ち に禁
裏 へ の 工作
が 為 さ れ た も の と 推 測 さ れ る 。 そ れ と 共 に 宛名
「 宗 清 上 人 御 房 」 と 住 持 名 が 明 ら か に な る事
で あ る 。筆
者知
見 の 限 り に お い て応
仁 の 乱 後 の 住 持名
の 初 出 で あ り 、 こ の事
に は 注 目 す る 必 要 が あ る か も し れ な い 。但
し 、 こ の文
書 は 一 軸 に 仕 立 て ら れ別
の 箱 に 蔵 せ ら れ て い る 。 あ ロ こ の 散 銭 に 関 わ る 文 書 は ま だ あ っ て 次 の「 足 利 義 稙 袖 判 御 教
書
」 が そ れ で あ る 。N工 工一Eleotronlo Llbrary Servloe
「 花 押 」 誓 願 寺 散 銭
事
早 任 先 例 寺 家 一 円 弥 領 掌 不 可 有 相 違 之 状 如 件 永 正 六年
八 月 廿 十 八 日 《 釈 文 》 「 花 押 」 へ 足 利 義稙
) 誓 願寺
散
銭 の事
早 く 先 例 に 任 せ
寺
家 一 円 い よ い よ 領 掌 相 違 有 る べ か ら ざ る の 状 件 の 如 し 永 正 六 年 ( 一 五 二 六 ) 八 月 二 十 八 日 一21
一 室 町 幕 府第
一 〇代
将 軍 足 利 義稙
は 延 徳 二 年 ( 一 四 九 〇 ) 日 野富
子 に 擁 立 さ れ た が、管
領 細 川 政 元 に き ら わ れ 一時
義 澄 に替
わ ら れ る が 、 周 防 山 口 の 守護
・ 大 内 義 興 に 擁 さ れ て 上洛
、 永 正 五 年 六 月 将 軍 に復
活
し て の 一年
後
、 し ば し 政 権安
定
期 の も の で あ る 。 戦 国 期 ・ 西 山 深 草 義 教 団 の 動 向 に つ い て ( ごNII-Electronic Library Service 西 山 学 報 こ の 後 一 〇
年
余
の 間 散 銭 に 関 す る 文 書 は な く、 誓 願 寺 再 興 造営
の事
業
は 進 め ら れ て い た よう
で あ る 。永
正 八 年 ヨぜ ( 一 五 二 八 ) に名
前
は 不 明 だ が 「 当 寺住
持 」 に 宛 て た「
幕
府
奉
行
人 連 署奉
書
」 が先
述 の文
書
に続
い て い る の で 全 文 を あげ
る 。N工 工一Eleotronlo Llbrary Servloe