情勢の変化に適応できた特殊潜航艇(甲標的)
-攻撃兵器から防御兵器へ-
中 村 秀 樹 はじめに あては外れるものである。日本海軍が米海軍に対抗し得るはずだった唯一絶対の漸減邀 撃艦隊決戦構想は、日本海軍自らが実証した航空兵力の優越性によって崩壊した。 ハワイ、マレー沖で航空機の優位を見ても、戦艦中心の考えの抜けきらなかった日本海 軍に対し1、真珠湾で太平洋艦隊の戦艦全てを撃沈破された米海軍は、やむを得ず残った空 母と潜水艦を活用した。それは日本海軍同様、戦前の艦隊決戦主義とは違った用法であっ たが、絶大な効果を上げ、今日空母と潜水艦が海軍の主力となる基礎となった。機に臨み 変に応じることなく、既存の用兵思想を払拭できないまま頽勢に陥った日本海軍とは対照 的である。 しかしその硬直性が指摘される日本海軍にあって、情勢に応じて兵力整備を変化、戦況 に適応させた部隊がなかったわけではない。その好例が特殊潜航艇である。 真珠湾攻撃に特別攻撃隊として参加した特殊潜航艇の 1 隻は、湾口で空襲の 1 時間以上 前に米駆逐艦に撃沈され、日米戦争最初の犠牲となった。この戦争最初の捕虜も特別攻撃 隊から出た。その後特殊潜航艇は、北はアリューシャンから南は豪州、西はアフリカの東、 マダガスカル島に到る海域で使用された。一部の潜水艦作戦を除けば、日本海軍の全作戦 海域を網羅している。そして、終戦時には、本土決戦に備える海軍戦力の中核に成長して いた。他の水上部隊や航空部隊の戦力が枯渇していたこともあるが、兵器改良、用兵の改 善など、関係者の努力の成果でもある。 しかし、特殊潜航艇の実態は余りよく知られていない。部隊が小規模であった上秘密保 持が厳重であったため、戦争中でも関係者以外に情報が制限されたためである。例外的に 真珠湾の九軍神やシドニーの豪海軍葬が紹介されることはあっても、具体的な事実は知ら されることはなかった。戦後、関係者によって何冊かの文献が発行され、あるいは機関紙 に体験談が紹介されるようになって、その実態が次第に明らかになった。しかし、特殊潜 航艇の出現、成長の経緯及び全作戦を網羅したものはなく、またその多くは世代の関係で 30 年以上前のものである。その後明らかになった事実を反映した再検証が、そろそろ必要 1 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 ハワイ作戦』(朝雲新聞社、1967 年)482 頁。であろう。そして記憶の正確な生存者がまだ多いここ数年が、特殊潜航艇の研究をまとめ る最後の好機であり、この時期に特殊潜航艇の研究をすることの意義は小さくないであろ う。 本研究は誕生から終戦までを対象に、特殊潜航艇の実態について、その成長、進化する 過程と参加した全作戦を網羅しつつ、改めて検証するものである。 1 誕生と成長 満州事変直後の 1931(昭和 6)年 12 月、艦政本部第一部第二課長に着任した魚雷の権 威岸本鹿子冶大佐は、対米戦に備えて新兵器の必要性を痛感していた。同大佐は、朝熊利 英造兵中佐に、速力 30 ノット、航続距離 6 万メートル程度の有人小型潜航艇の研究を命 じた。速力の根拠は、約 20 ノットと見積もった米戦艦速力の 1.5 倍であり、航続距離は 彼我主力の砲戦決戦距離を基としたものである2。研究の結果次の三案を得た。 同大佐は 33(昭和 8)年、途中の反対阻止と機密保持のため、軍令部総長伏見宮大将に 直訴、総長宮は必死の兵器でないことを確認の上裁可された3。総長の後説明を受けた岡田 啓介海軍大臣は、最も安価な第一案を採用した4。その結果、戦術目的に使用されることと なり隻数不足の潜水艦を補うため、その母艦として建造された②計画5の「千歳」「千代田」 及び③計画6の「日進」と合わせ、艦隊決戦における洋上補助兵力を構成することとなった7。 3 隻の母艦に 12 隻づつ搭載されて決戦海面に事前に進出、主力艦決戦に先立ち敵主力艦隊 2 資料整理部技術班「特殊潜航艇が生まれるまで」(昭和 22 年 9 月 24 日)(防衛研究所図書館所蔵)。 3 乗員生還のための装置を追加することで、速力は徐々に低下し、最終的に 21kt 程度になった; 名和武『甲標的誕生の頃』(特潜会報第 2 号、昭和 48 年 4 月 19 日) 4 岸本鹿子冶「談話収録 昭和 35 年 11 月 水交会」(防衛研究所図書館所蔵)。 5 まる 2 計画と略称された第二次補充計画。満州事変後の国際情勢に応じ 1933(昭和 8)年策定。 6 第三次補充計画。軍縮条約失効後の大和、武蔵等の建造、航空隊増勢等を含んだ軍備拡充計画。 36(昭和 12)年策定。 7 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍軍戦備(1)』(朝雲新聞社、1969 年)596 頁。 案 用 途 動 力 水中速力/航続距離 水上速力/航続距離 第一案 戦術用 電池のみ 30kt(56km/h)/60km 25kt(46km/h)/50km 第二案 両 用 ディーゼルのみ 30kt(56km/h) /500 浬(926km) 25kt(46km/h) /300 浬(556km) 第三案 戦略用 電池・ディーゼル併用 20kt(37km/h)/30km 15kt(28km/h) /150 浬(278km)
の前程数万メートルの位置で母艦から発進、計 36 隻が各 2 本の魚雷で敵主力を攻撃する。 攻撃後は現場にとどまって主力艦決戦を待ち、その後母艦が収容する、という構想で整備 された兵器であった。 母艦となる千歳型は機密保持のため、水上機母艦として建造された。第一段作戦の比島 攻略等に水上機母艦(第一状態)として参加し、第二段作戦前に甲標的母艦(第二状態) に改造される計画であった8。 同年 8 月実験訓令が出され、伊予灘、宿毛沖で実験が開始された。搭乗員は加藤良之助 少佐と原田新機関中尉であった。翌 34(昭和 9)年 12 月に実験が終了し、標的は呉工廠 魚雷実験部の秘密倉庫に格納封印された。 国際情勢が緊張してきた 37(昭和 12)年改良計画の検討が開始された9。翌 38(昭和 13)年、母艦の竣工が迫ったこともあり、改良計画が着手された。この二次試製では、関 係者を少数に限定できた一次と異なり、中央における中佐級実務者の他、母艦からの発進 実験等現場での参画者が多数に上り、機密保持はより厳格となった。これは、特殊潜航艇 がその存在を知られただけで、奇襲兵器としての価値を失うからであり、発想当時から留 意され、真珠湾攻撃に関する公式発表まで厳重に秘匿されつづけた。 潜航艇自体も、「対潜爆撃標的」、「A標的」、「TB 模型」等の秘匿名称が用いられたが、 39(昭和 14)年 7 月「甲標的」と改められた。(以後甲標的と称する) 甲標的の二次試製にあたっての計画はつぎのようなものであった。 ① なるべく早期に呉工廠において二基試製の上、有人実験を実施する。 ② 右実験終了せば速やかに標的10搭載艦千代田を使用して標的発進実験を行う。 ③ 右諸実験の結果、甲標的が兵器に採用された場合には、なるべく速やかに標的 48 基(搭載 3 隻分として定数 36 基、予備 12 基)を呉工廠において建造する。 ④ 呉軍港付近の適地に標的の格納並びに整備等に必要なる基地を設定整備する。 ⑤ 水上機母艦 3 隻(千代田、千歳、日進)に第二状態工事(標的搭載並びに発進等に 要する諸施設)を実施する。 ⑥ 右諸項と併行して搭乗員の養成を行う11。 39(昭和 14)年 7 月 7 日付海軍大臣訓令により試製標的が建造され、まず一基が翌 40 (昭和 15)年 4 月に完成し、無人実験に次いで有人実験が実施された。搭乗員は関戸好密 8 小山貞「甲標的(特殊潜航艇)について回想 第二次試製兵器採用」17 頁(防衛研究所図書館所 蔵)。 9 吉松田守「大東亜戦争と日本海軍潜水艦 第二編 大東亜戦争中の潜水艦戦備 そのニ 海上特 攻戦備」(防衛研究所図書館所蔵)。 10 当時、甲標的を標的と略した。 11 小山「甲標的について回想」21-22 頁。
大尉と堀俊雄機関中尉であった。実験の目的は、甲標的の単独試験及び母艦からの発進試 験を以って甲標的並びに母艦施設の性能を検討し、なお外洋で襲撃運動を実施して、甲標 的の実用性をも確かめることであった12。 同年 6 月甲標的の実験と千代田の改造工事が終了し、7 月から千代田からの発進実験が 8 月まで実施された。一次試製では、訓練から実験終了まで約 2 年 2 ヶ月であったが、二 次では約 1 年で終了できた。艦政本部(本部長豊田副武中将)は自信を得て海軍省に採用 の意見を出し、10 月ついに制式兵器として採用が決定された。ただし、当時は洋上襲撃 という用法が前提であり、真珠湾等で実施される港湾襲撃という用法には全く性能が不足 していたというのが、関係者の認識であった13。 更に、洋上での運用にさえ疑問の声があった。比較的平穏な海上模様でも、縦横の動揺 がひどく安定した航走ができず、潜望鏡で目標を捕捉することが困難で、常時司令塔を露 出する等の問題が指摘されている14。 10 月には 3 号艇から 12 号艇までの、12 月には更に 13 号から 36 号までの製造訓令が 出された15。また前述の「呉軍港付近の適地に標的の格納並びに整備等に必要なる基地を 設定整備する」という計画実現のため、音戸の瀬戸を東に抜けた倉橋島の先端部、大浦崎 に基地が建設されることとなった。同基地は機密保持上P基地と呼ばれ、甲標的の製造、 整備及び訓練基地として使用された。終戦直前の 45(昭和 20)年には特攻作戦基地とし ての機能も有していた16。 同基地は訓練海面にも近く、機密保持上も好条件を備えていた。当時の海図17から、付 近海域は、海底地形はほぼ平坦であり、数十メートルの水深であることが判る。底質は泥、 砂、貝殻等で、地形、水深ともに事故の際に被害を局限できることが期待できる。また北 東には潮流の速い猫瀬戸(水深 80 メートル以上、幅約 1,000 メートル)があって、港湾 進入、出撃帰投に不可欠な狭水道通過の訓練に適している。操縦訓練は、基地の南東方向、 情島、斎島、安居島及び亀ケ首を結ぶ海面を 4 区分して実施された18。 40(昭和 15)年 11 月 15 日 搭乗員に対する講習(1 期 14 名)が開始された。講習は 以後、41(16)年 4 月 1 日(2 期 32 名)、同年 10 月 1 日(3 期 37 名)と順次拡大して行 12 日本海軍潜水艦史刊行会『日本海軍潜水艦史』(日本海軍潜水艦史刊行会、1979 年)772 頁。 13 小山「甲標的について回想」76 頁。 14 『日本海軍潜水艦史』773 頁。 15 小山「甲標的について回想」76 頁。 16 小山「甲標的について回想」84 頁。 17 「安芸灘西部 1/25000 海軍水路部 軍機第 230 号(昭和 17 年 9 月 8 日)」(防衛研究所図書 館所蔵)。 18 元特潜会 植田一雄氏談(2004 年 10 月 25 日)。
き、終戦まで 20 期の講習が実施された。 この頃航空機の発達が著しく、実戦において当初の作戦が実施できるか疑問が出てきた。 敵航空機の活動が予想される敵主力艦隊の前程数十浬で、脆弱な甲標的母艦が甲標的を発 進させることは困難だと見積られた。その代案として考えられたのは、敵根拠地付近まで 潜水艦に搭載して進出し、港外で発進、港内に進入して停泊中の敵艦を攻撃する、という 構想である。これは、訓練の合間に行われた搭乗員間の自由討議(雑談)の中から生まれ た発想といわれる19。これが事実なら、若年の中少尉が、限られた情報で適切な情勢判断 をしたことになり、特筆すべき慧眼といえる。しかし、この説には次の疑問点も指摘され ている。 ① 経験の浅い若年の中少尉が、戦略的な判断ができたとは考えにくい20。 ② 当時の訓練は厳しいもので、甲標的に関する興味関心以外のことを考える余裕が講 習生達にあったとは考えにくい21。 ③ 連合艦隊司令部参謀長宇垣纏少将は、司令部内で疎外されており、懇意の軍令部潜 水艦担当者有泉竜之助中佐と図って、甲標的を真珠湾攻撃に使用することを発案し た可能性がある22。 ④ 41(昭和 16)年 8 月 山本五十六連合艦隊司令長官が下士官を含む講習員全員に 訓示している。機動部隊航空機搭乗員に対しては、幹部にさえ直接訓辞をしていな い長官が訓辞をする異例さは、真珠湾攻撃参加が前提だったからではないか。 ⑤ 同年 10 月 4 日、山本長官が千代田艦長原田覚大佐に攻撃計画を諮問、早くも翌 5 日艦長が回答している。また、9 日には真珠湾事前偵察員が決定した23。この日程 の不自然な迅速さは、計画が既定だったからと見られる。 しかし、港湾襲撃の発案が上意下達か下意上申かに拘わらず、搭乗員の勇気と献身の価 値には変わりはなく、攻撃を受けた連合軍側でさえ彼らを高く評価している24。 港湾襲撃に方針を定めた後は、更に具体的な計画と訓練を実施した。港湾進入の際、最 大の障害は防潜網である。これを突破する方法には 3 つの方法が考案された。防潜網は海 底まで隙間なく敷設されているわけではなく、海底付近には隙間があると見られた。その 19 八巻悌次「甲標的(特殊潜航艇)について」32-35 頁(防衛研究所図書館所蔵)。 20 元特潜会 植田一雄氏談(2004 年 3 月 2 日)。 21 同上。 22 同上。 23 原田覚「原田日記」(防衛研究所図書館所蔵)。 24 シドニーを攻撃し戦死した甲標的の乗員を豪海軍は海軍葬で弔い、遺骨は交換船で日本に届けら れた。また、ディエゴスワレスを攻撃した秋枝艇の活躍を英海軍中佐 Richard Conpton-Hall は著書 Submarine Warfare Monsters & Midgets (West Street Poole Dorset,UK Blandford Press,1985) で賞賛している。
隙間を通過するため、甲標的の艇首に橇状の金具を装着し、艇首を海底に接触させこする ように防潜網の下を通過する方法がそれである。今ひとつは、海面と防潜網の上部の間隙 を飛び越える方法である。速力とメインタンクブローのタイミング等、難しい課題があり 現実的には実現困難だったであろう。最後は、艇首の切断器と艇の行脚で防潜網を切断し て突破する方法である。 港湾進入のために、改造された点は、カッターや橇のほか、操舵用空気の追加である。 甲標的甲型は、操舵に圧搾空気を使用しており、長時間の行動、それも細かい操舵が予想 される港湾進入には大量の空気が必要と見られ、一部の電池を降ろして空気ボンベが追加 された。 搭乗員及び整備員は、すでに 2 期生まで 45 名(艇長 12、艇付 20、整備員等 13)が養 成済であり、更に 3 期生が講習中であった。しかし、練度は基本訓練を終えたのみという のが実態であり、高練度を要する港湾侵入に必要な技量はなかったと見られる。 2 攻撃兵器としての甲標的 開戦早々甲標的は実戦に投入された。真珠湾、シドニー、ディエゴスワレスと続いた敵 根拠地への攻撃の後、連合軍の反攻がガダルカナルで始まると、その増援兵力攻撃のため 泊地攻撃が実施された。場所が根拠地から泊地へと変化するが、攻撃的な用兵である点は 変わりない。目標は停泊艦船で、母潜水艦に搭載されて進出する方式であった。航続力不 足の甲標的が自力では作戦海面まで進出できなかったためであるが、母潜の行動を制約す るため潜水艦に非効率な作戦を強いることにもなった。戦訓から甲標的の性能と作戦形態 への再検討が行なわれ、以後甲標的の改修と用兵の変化が進むことになる。 本項で扱う甲標的は甲型で、性能は次のとおりである25。 排水量 46 トン 全長 23.9 メートル 水中速力 19 ノット/50 分 水上速力 6 ノット/14 時間 魚雷発射管 2 乗員 2 (1)準備不足の初陣(真珠湾攻撃/第一次特別攻撃) 初陣の真珠湾攻撃では、甲標的は先遣部隊26隷下の特別攻撃隊として参加した。母潜の 25 特潜会『嗚呼特殊潜航艇(写真集)』(特潜会、1984 年)10 頁。 26 第 6 艦隊(潜水艦部隊)の軍隊区分。第 1~3 の 3 個潜水戦隊等からなる。
改造、訓練とも開戦準備のあわただしい中で実施され、十分な準備が実施されないまま出 撃した。特別攻撃隊の編制は次表のとおりである。 特別攻撃隊(指揮官第 3 潜水隊27司令 佐々木半九大佐) 潜 水 艦 甲 標 的 艦 名 艦 長 艇 長 艇 付 伊 1628 山田 薫中佐 横山正治中尉 上田 定二曹 伊 18 大谷清教中佐 古野繁美中尉 横山薫範一曹 伊 20 山田 隆中佐 広尾 彰少尉 片山義雄二曹 伊 22 揚田清猪中佐 岩佐直治大尉 佐々木直吉一曹 伊 24 花房博志中佐 酒巻和男少尉 稲垣 清二曹 甲標的の作戦状況は、全艇未帰還だったので細部は不明である。湾内で 1 隻29、湾口で 1 隻30の甲標的が魚雷攻撃を実施したことは、交戦した米艦によって確認されたが、命中 魚雷はなかった。この他、後に発見された 3 隻がいずれも魚雷を未発射だったことから、 5 隻の甲標的は戦果を挙げていないと判断される31。 作戦が不調だった原因には、甲標的の性能上の欠陥、魚雷の不良、ジャイロ等装備の故 障及び搭乗員の練度等が考えられる。 もともと戦術用途で作られた甲標的は、広い洋上で短時間の作戦を想定していたため、 運動性能が悪い上32航続力が不十分であった。操舵に圧縮空気を使用していたため、電池 をおろして高圧空気を増設する改造をして若干の行動時間の延伸を図ったが、性能上の基 本的欠陥は改善されないままの出撃となった。主要機器のジャイロコンパスの信頼性も不 十分で、ジャイロ故障のまま発進した酒巻艇は、真珠湾入口浮標付近で座礁、露出したと ころを33、米艦に発見砲撃されている34。 27 数隻の潜水艦で潜水隊(潜隊)を編制し、数個の潜水隊で潜水戦隊(潜戦)を編制、その上に艦 隊があった。 28 正式名称は伊号第 16 潜水艦であるが、伊 16 あるいは伊 16 潜と略される。 29 USS Monaghan, Report of Engagement with enemy on December 7, 1941,NAVAL HISTORICAL CENTER(hereafter cited as NHC),Washington Navy Yard,DC. 30 USS St. Louis , Report of 10 December 1941,NHC
31 米海軍機関紙「Naval History」1999 年 12 月号に、空襲部隊の撮影した航空写真の画像分析の 結果、甲標的が湾内で米戦艦を雷撃したとの研究が発表されたが、以上の事実関係および甲標的の 性能上、ありえない。
32 旋回半径 400m、低速では舵効で修正できないためトリムが不安定となる。 33 酒巻和男『捕虜第一号』(新潮社、1949 年)26 頁。
甲標的はそもそも、広い洋上で短時間の運用を想定して整備されてきた兵器であるため、 運動性能と航続力には制限があった。またジャイロコンパスのような重要機器の信頼性が 低く、特眼鏡による間欠的な観測で補完して航海することは困難であった。艇内には海図 台もなく、艇長が手元に折り畳んで持っていたであろう海図と陸上を見比べつつ、変針点 を確認するだけで精一杯だったはずである。また、小型で前後に長い甲標的は安定したト リムを保持することが困難であった35。さらに艇首の魚雷を高圧空気で発射するため、発 射管内の魚雷が空気と入れ替わった瞬間、軽くなった艇首が水上に持ち上げられる。その 直後開放された発射管に海水が流入し、急激に重くなった艇首を水中に突っ込むことにな る。 運動性能の制限とは、小回りが効かないということと後進ができないということで、狭 い水道で大角度の変針は絶妙のタイミングを捕えないと失敗し、やり直しが効かない。岩 佐艇が予定外の行動をして、北水道に直接進入したのは、この辺の事情によるものであろ う。航続力の不足は、短時間しか行動できないことを意味し、仮に湾口の防潜網が開放さ れていても、攻撃後会合点までたどり着くことは出来なかったであろう。 魚雷は計 4 発が発射され、命中魚雷はなかった。後述するようにミッドウェイ作戦後の 試験発射でも、不良魚雷の多いことが問題になったことから、真珠湾で使用された魚雷に も問題があったことが推察される。 次に、搭乗員の練度はどうだったのだろうか。 米軍によって甲標的(酒巻艇)から海図36が回収されている。それを見ると、大角度変 針が多く、新針路距離を見越した転舵点37が計画にないことからも、当時の搭乗員の船乗 りとしての経験不足が推察される。また、5 名の艇長のうち、事前に夜間狭水道航行訓練 を実施したのは、最も練度の高かった岩佐大尉のみで、それも 1 回のみと伝えられている 38。講習が洋上襲撃を前提にしていたため、港湾進入訓練が不充分だったのは当然である。 つまり、艇の性能も、搭乗員の練度も、狭隘で警戒厳重な真珠湾に進入し、停泊艦を攻 34 USS,“Report of Pearl Harbor Attack,”Helm, December11,1941,NHC
35 浮力が零(中正浮力)で、かつ船体の前後左右の釣り合いがほぼ均等である必要がある。この状 態を良好なトリムと言うが、それを得て維持するのにはある程度の排水量があった方が容易であり、 甲標的のような小型艇では過敏なため、良好なトリムを得ることは至難である。水面付近では司令 塔を露出した浸洗状態となりやすい。 36 「ハワイ特別攻撃隊隊員所持の海図」(防衛研究所図書館所蔵)。 37 水という流体中にある船舶は、舵を取ってもすぐには回頭せずしばらく直進する。その間進んで しまう距離を新針路距離といい、その分手前で舵をとる計画とする必要があり、真珠湾のように狭 隘な地形では必須の配慮である。また、その回頭も大きな円を描くため、航海計画の線上からは外 れることになり、狭い海面で大きな角度の変針は座礁の危険がある。 38 元特潜会 植田氏談(平成 16 年 8 月 19 日)。
撃するには不十分であったということである。真珠湾で実撃戦果のなかったことは止む得 ない結果であった。 戦果はなかったが、1904(明治 37)年誕生以来多くの犠牲者を出しながら成長してき た潜水艦部隊にとっては、甲標的の戦闘が初めての実戦であった。おそらく岩佐艇の魚雷 が始めての実戦発射魚雷である。大東亜戦争最初の戦闘は、空襲より 1 時間以上前に実施 された甲標的に対する米駆逐艦の攻撃39であり、日米を通じ最初の戦死者はこの艇の乗員 であった。そして、日本最初の捕虜もまた甲標的の乗員であったことなど、甲標的が日本 海軍の魁としての役割を果した。 (2)作戦準備で得られた初戦果(シドニー、ディエゴスワレス攻撃/第二次攻撃) 横山艇からの奇襲成功電40、伊 69 の観測41、米軍電報の傍受42及び米国の発表等から、 当時は真珠湾で戦艦を撃沈する戦果があったと判断された43。また、残った搭乗員の強い 希望もあり、42(昭和 17)年 3 月新編された第 8 潜水戦隊(以下 8 潜戦)が第二次攻撃 を担当することとなった44。8 潜戦の軍隊区分は次のとおりである。(区分、指揮官、兵力 の順) 甲先遣支隊 8 潜戦司令官(石崎昇少将) 伊 10 伊 16 伊 18 伊 20 伊 30 報国丸 愛国丸 乙先遣支隊 14 潜隊司令(勝田治夫大佐) 伊 27 伊 28 伊 29 丙先遣支隊 3 潜隊司令(佐々木半九大佐) 伊 21 伊 22 伊 24 なお、乙丙両先遣支隊はシドニー攻撃時合同して東方先遣支隊となり、3 潜隊司令が指 揮した。 第二次攻撃は準備不足のまま臨んだ真珠湾と異なり、可能な限り作戦準備に務めている。 作戦準備は、甲標的の改善と訓練に大別される。真珠湾での戦訓を考慮し、実施された甲 標的の改善点は次のとおりである45。 ① 母潜が潜航中でも甲標的に出入できる交通筒の新設 ② (対潜防禦)網切断器の装備(航続距離約 15 パーセント低下)
39 USS Wards, Report of Pearl Harbor Attack December11,1941,NHC
40 キラ(-・-・・ ・・・)連送を母潜の伊 16 が受信、トラ(・・-・・ ・・・)連送の誤送信と思われ、 奇襲成功と判断された。 41 エンタープライズ搭載機に対する米軍の味方撃ちを誤認。 42 米海軍平文電報に、港内の機雷掃海、対潜捜索の指示があった。 43 先遣部隊戦闘詳報(特別攻撃隊 AI 攻撃 昭和 16 年 12 月 24 日)(防衛研究所図書館所蔵)。 44 『戦史叢書 潜水艦史』157 頁。 45 「先遣部隊戦闘詳報第 7 号 先遣支隊特型格納筒 攻撃関係事項」(防衛研究所図書館所蔵)。
③ 魚雷発射管前扉を艇内から離脱可能とする46 ④ 操舵装置の改善による旋回圏の縮小47 ⑤ 操舵動力である空気消費量の減少48 ⑥ ジャイロコンパスの信頼性向上 ⑦ 電気装置絶縁対策のための装備位置変更 ⑧ 充電装置の改善 ⑨ 潜水艦と筒の間に電話のほか「バザーマ マ 」新設49 ⑩ 魚雷の漏気防止(第二空気50の圧力低下) その他、豪州海軍により引揚げられた写真からは、スクリュープロペラガードの装備も確 認できる。 事前訓練としては、千代田、日進を母艦とした訓練実施後、母潜との協同訓練を実施し た。訓練内容は次のとおりである51。 ① 通信訓練 ② 発進並びに会合訓練 ③ 障碍物突破 ④ 防禦網突破、防材乗越、海底匍匐52 ⑤ 海峡通過訓練 ⑥ 艦船に追尾する湾口進入法 ⑦ 襲撃教練 ⑧ 筒と母潜との協同襲撃 訓練の結果、攻撃隊指揮官は、攻撃後収容のための会合についても自信を持てたようで ある。反面、事前訓練は相当激しく、松尾中尉に面会した母親が病気だと心配したほどの 消耗振りであったという53。 42(昭和 17)年 4 月 15 日午前、6 艦隊司令長官小松輝久中将は「生命を無駄にしては ならぬ。生命を大事にすることは、命を惜しみ生きながらえんとすることではなくて、最 46 従来は魚雷の射出の勢いで蓋を押し出す方式。 47 旋回圏の縮小は実現しなかった(植田氏談平成 16 年 4 月 14 日)。 48 油圧式に改造(同上)。 49 装備されなかった(同上)。 50 酸素の秘匿呼称。 51 実際には協同訓練は実施されなかった(植田氏談平成 16 年 4 月 14 日)。 52 防禦網を突破するため、比較的網が緩いと思われる海底に艇首を接触させた前傾姿勢で前進、網 の下を潜り抜けること。 53 佐々木半九、今和泉喜次郎『鎮魂の海』(読売新聞社、1968 年)144 頁。
もよく生命を生かして使うことである。死を急いではならぬ」と諭している。更に同日午 後、山本連合艦隊司令長官も、「戦局は真珠湾に対する第一次特潜攻撃当時とは、大いにそ の趣を異にしている。各級指揮官は攻撃効果確実と信ずる場合に限り特潜を使用せよ。ま た特潜艇員も、死を軽視して軽挙妄動してはならぬ」と、訓辞をしている54。当時はまだ 戦況に余裕があったためか、上級指揮官に人命への配慮が見られる。 この第二次攻撃から潜水艦部隊のみによる自己完結の作戦となった。偵察、攻撃目標と 時期の選定等、一連の活動が潜水艦部隊のみで実施された。作戦の前提となる情勢把握も、 搭載機の飛行偵察又は潜水艦自身の潜航偵察によった。第二次攻撃は豪州方面とマダガス カル島の二方面に対し、平行して実施された。豪州方面の経過は次のとおりである。 伊 28 の喪失や伊 24 搭載甲標的を電池爆発事故のため交換するなどの事態を経ながら、 東方先遣支隊(乙、丙先遣支隊が合同)は、スパ、オークランド、シドニーの飛行偵察を 実施した。その結果、有力艦の在泊が確認されたシドニーに攻撃を集中することが決定さ れた。 5 月 29 日、甲標的搭載の潜水艦 3 隻は、シドニー沖に達した。甲標的の搭乗員は次のと おりである。 母艦名 艇 長 艇 付 伊 22 大尉 松尾敬宇 2 曹 都竹正雄 伊 24 中尉 伴 勝久 1 曹 蘆邊 守 伊 27 大尉 中馬兼四 1 曹 大森 猛 同日夜、伊 21 塔載機がシドニー港内の偵察を実施、戦艦55、巡洋艦を確認したので、31 日の攻撃が決定された56。 シドニー湾口 7 浬の地点から、甲標的 3 隻が発進した。松尾、伴艇は漁船に追尾して港 内進入を果たしたが、中馬艇は防潜網に絡まり、行動の自由を失ったため自爆した。 中馬艇自爆前、すでに磁気探知器等により甲標的の存在を知った豪海軍は、警報を発し ていた。そのため、松尾艇は魚雷発射の機会を得ないまま、掃海艇の爆雷攻撃で撃沈され た。伴艇は停泊中の米巡洋艦シカゴを雷撃したが、魚雷は艦底を通過し岸壁に命中、係留 中の宿泊艦クッタバルが沈没した。 攻撃は失敗といえるが、甲標的の勇敢な行動に感銘を受けたシドニーの豪海軍司令官は、 収容した 2 隻の 4 遺体に対し、海軍葬をもって遇した。当時、豪州内において相当強い反 54 佐々木『鎮魂の海』169 頁。 55 実際には戦艦は不在であったが、夜間であったことと事前情報による先入観から、艦種を誤認し た(伊 21 水偵搭乗員 伊藤進氏談平成 16 年 5 月 13 日)。 56「先遣部隊戦闘詳報第 7 号 先遣支隊特型格納筒 攻撃関係事項」(防衛研究所図書館所蔵)。
対があったにもかかわらず、である57。 次にマダガスカル島の状況。 ディエゴスワレス攻撃を担当したのは、甲先遣支隊である。同支隊は 5 月 30 日伊 10 潜 の塔載機により港内夜間偵察を実施、戦艦 1、巡洋艦 1 その他の在泊を確認したので、31 日の攻撃を決定した58。甲標的搭乗員は、次のとおりである。 母艦名 艇 長 艇 付 伊 20 大尉 秋枝三郎 1 曹 竹本正巳 伊 18 中尉 大田政治 1 曹 坪倉大盛喜 伊 16 少尉 岩瀬勝輔 2 曹 高田高三 このうち、伊 18 潜は進出途上機関故障に見舞われ、攻撃に参加できなかった。そのた め秋枝艇、岩瀬艇の 2 隻のみが発進、詳細は不明ながら、英戦艦ラミリーズ、油槽船に魚 雷各 1 が命中、油槽船は沈没した。わずか 45 トン、乗員 2 名の甲標的の戦果である。そ の技量と忍耐がもたらした大戦果を英海軍士官59も賞賛している60。 1 隻はマダガスカル北西の母潜との会合点に向かったが、途中東岸で座礁した。6 月 1 日、マダガスカル島北部で陸路移動中の乗員 2 名が英軍捜索隊に発見され、降伏を拒否し て戦死した61。軍刀、拳銃だけの抵抗に 15 名の英軍は戦死 1 負傷 4 の損害を出している。 この勇敢な 2 名は伊 20 潜艦長宛の書類を携行していたことから、秋枝大尉と竹本兵曹と 見られる62。 この第二次攻撃で戦艦撃破他の初戦果を挙げたことは大きな成果である。この大きな初 戦果は、拙速だった真珠湾攻撃とは異なり、事前準備に努力した結果であろう。真珠湾で は 20 パーセントに過ぎなかった港内進入成功率が、第二次攻撃では 60 パーセント以上と なり、湾内最深部までの進入に成功している。艇の性能改善のうち、ジャイロコンパスの 改善、操縦性能の向上に加え、交通塔の新設も効果があったと考えられる。交通塔のおか げで、潜航中でも母潜から随時艇内に入れるため整備が容易となったほか、発進前の艇内 待機時間も短縮できる。これは、搭乗員の疲労軽減に重大な影響があったはずである。搭 乗員の練度も、防潜網突破や艦船追尾、狭水道通過訓練という、港湾進入に即した訓練を 実施したことが、進入成功の要因であろう。生還者を得られなかったが、これは発進から 57 佐々木『鎮魂の海』192 頁。 58 「先遣部隊戦闘詳報第 7 号 甲先遣支隊作戦経過概要」(防衛研究所図書館所蔵)。 59 潜水艦艦長を 3 回歴任し、英国海軍潜水艦博物館館長を務めた Richard Conpton-Hall 退役中佐。 60 Richard Conpton-Hall, Submarine Warfare Monsters & Midgets (Blandford Press,1985) p140。
61 佐々木『鎮魂の海』254 頁。
攻撃後の会合までの行動が、甲標的の性能上も無理な計画であったためであろう。 (3)初の生還者(ガダルカナル作戦) 42(昭和 17)年 8 月、ガダルカナル、ツラギへの上陸で連合軍の反攻が開始された。 特にガダルカナルの争奪戦は、ソロモンの消耗戦となって、日本海軍の戦力を低下させる ことになる。その一環として、甲標的によるガダルカナル島ルンガ沖の米軍泊地に対する 攻撃が実施された。この作戦では初めて生還者を得られた。 当初は、「『マルボボ』63ニ甲標的基地ヲ設置甲標的約 6 箇ヲ繋留シ置キ潜水艦 1、2 隻ヲ 配シテ夜間動力補給好機ニ乗ジ敵艦船ヲ攻撃セントスル計画」だったが、現地進出及び現 地整備の困難性等の理由から、取りやめられた64。しかし、甲標的基地を作戦海域の近傍 に維持しようとする考えは、以後の作戦で実現される。 先遣部隊電令作第 236 号電により、8 潜戦は丙潜水部隊と軍隊区分され、ガダルカナル 島に対する敵増援阻止任務を与えられた。丙潜水部隊指揮官(8 潜戦司令官)は伊 10、伊 176 を哨戒隊と兵力部署し、ガダルカナル島南東方哨戒、敵増援部隊捕捉攻撃、敵情通報 の任務を与えた。 ルンガ攻撃隊指揮官(1 潜隊司令)は 1 潜隊(伊 16、伊 20)及び伊 24 により「特型格 納筒65ヲ以テスル『ルンガ』泊地敵増援部隊攻撃」を命じられた。千代田の任務は「『トラ ック』ニ在リテ特型格納筒訓練整備並ニ『ルンガ』攻撃隊支援」であった。 作戦準備の一環として 10 月 29 日から次の訓練が実施された。これは第二次攻撃の戦訓 を考慮している。 ① 長時間耐久訓練 ② 隠密露頂訓練 ③ 特型格納筒全射線(97 式魚雷 2)発射教練 ④ 碇泊艦襲撃教練 ⑤ 通信訓練 本作戦攻撃参加各艇の状況をまとめると、次のとおりである66。 月 日 甲標的 母 潜 記 事 11 月 7 日 第11号 伊 20 輸送船に魚雷 1 命中(帰還)(2227 トン撃破) 63 ガダルカナル島北西端の日本軍占領地区内。 64 第 8 潜水戦隊司令部「本作戦ニ至ル経緯 丙潜水部隊戦闘詳報第一号」(昭和 17 年 12 月 19 日) (防衛研究所図書館所蔵)。 65 甲標的の秘匿名。 66 『潜水艦戦史』204 頁。
11 月 11 日 第 30 号 伊 16 事故のため操縦不能となり自沈(帰還) 11 月 19 日 第 37 号 伊 20 横舵故障で攻撃できず(帰還) 11 月 23 日 第 12 号 伊 24 発進後消息不明(未帰還) 11 月 27 日 第 10 号 伊 16 発進後消息不明(未帰還)(輸送船(6,198 トン)撃破) 12 月 2 日 第 8 号 伊 20 輸送船に魚雷一本命中(帰還)(米側記録なし) 12 月 6 日 第 38 号 伊 24 発進後消息不明(未帰還) (米側記録では 10 号艇に撃破され着底した輸送船に魚雷が命中した。その後哨戒艇 PC477 に撃沈される。) 12 月 13 日 第 22 号 伊 16 駆逐艦雷撃、命中せず(帰還) 最初の第 11 号を例に、作戦の細部を再現してみる。これは初の生還者(艇長 國廣信 治中尉 艇付 井上五郎上曹)によるもので以後の甲標的作戦に、貴重な戦訓をもたらし たと思われる。また甲標的の具体的な作戦行動の細部を知る好個の記録でもある。 7 日午前 1 時 30 分頃ガダルカナル島マルボボ沖で母潜(伊 20)から甲標的に搭乗、1 時 45 分母潜は深度 15 メートルとして異状の有無を確認、コンパス整合67、艦位確認の後 発進、針路 090 度(東)深度 30 メートル速力 10 ノットでルンガ沖へ航行する。4 時 30 分頃ルンガ岬を確認、6 時 45 分推定位置で針路 180 度(南)とし泊地へ接近する。 7 時頃海岸椰子を確認すると共に敵駆逐艦を発見、攻撃を準備するが、輸送船攻撃を優 先して攻撃を断念、艦底を通過して回避する。この駆逐艦のため 5 分間隔の露頂(潜航の まま潜望鏡だけを海面に出すこと)が出来ない状態のまま、陸岸へ向かう。20 分後露頂観 測を実施。同時に目標を発見、距離 1200~1500 メートルで一本目の魚雷(下管)を発射。 軽くなった艇首が上下して狂った照準を修正して、二本目を発射。この際、一本目の雷跡 を視認している。魚雷発射後は全没してもトリムが重くなって、最微速(3 ノット)では 深度保持は出来ず、145 メートルまで沈下した。 針路 350 度68(北微西)で離脱中、命中音を聴知。護衛艦艇による爆雷攻撃の中、安全 潜航深度付近69を微速(4.5 ノット)で離脱を継続したところ、9 時 30 分頃爆雷攻撃が止 む。そのまま全没(露頂せず、船体を完全に水中に沈めた状態で、発見され難い反面周り の情況がわからない)状態で推測航法(コンパス指示、速力及び経過時間から航跡を推測) で航行、回避に成功と判断し 11 時露頂して位置を確認。正午に浮上するが、12 時 45 分 飛来した敵機の攻撃を受けたため再び潜航して回避する。 14 時 30 分で砂浜に乗り上げる。注水して艇を自沈処分した後、上陸してカミンボの基 67 甲標的のコンパスと母潜のコンパスの指示を整合、誤差や故障のないことを確認する。 68 北微西、予定針路は 315 度だったが、350 度と錯誤した。 69 安全潜航深度が 100 メートルのところ、80~110 メートルで航行。
地へ移動、そこから戦闘詳報を打電している。ただ、上陸後のジャングル内移動は困難を 極めている70。 ガダルカナルでは、8 隻が出撃して 5 隻の搭乗員が生還した。うち 2 隻が故障して攻撃 を中止しており、結果として攻撃を実施できたのは 5 隻であり、米軍の記録から成果が確 認されたのは 2 隻である。攻撃後は既述のとおり 11 号は着岸しているが、沖で艇を処分 して遠距離を泳いで生還している例もある。 この作戦までは従来どおり動力が電池のみの甲型であるが、作戦が甲標的の性能に適合 していた。ルンガ泊地は警戒された敵の根拠地ではあるが、外洋に開放された泊地である ため第一次、第二次攻撃のように港湾進入、脱出の必要はなく、航海上の障害はなかった。 問題は敵警戒艦艇のみであった。また、近距離に味方の陸上拠点71があったことも生還で きた理由であろう。第二次攻撃までの複雑狭隘な港湾侵入に比較し、遥かに運動の楽な合 理的な作戦といえる。泊地の停泊艦船攻撃は、航行艦船襲撃に比べ容易である上、搭乗員 の練度も向上していた。 味方根拠地への帰還は性能上可能であったが、それが機能に制限のある設備72であり、 敵の制空制海権下であったため、搭乗員は生還できても艇を放棄しなければならなかった。 艇ごと生還するには、数十浬に過ぎないの航続力の延伸、すなわち自己充電装置が必要で あった。 3 防御兵器としての甲標的 ガダルカナルの敵反攻阻止に失敗した後、日本は守勢に転じ甲標的も防御兵器として使 用されるようになる。 42 年(昭和 17)年 6 月頃から甲標的を基地防禦に使用する構想が台頭し、そのため自 己充電装置を有する改造計画が実施された。既成の 53 基を甲型としてその 1 基を改造、 乙型として翌 43(昭和 18)年 7 月に完成した。その結果、更に操縦室内を改造する必要 が認められ、丙型として量産された。 このようにして、甲標的は改造が進み、局地防御用として一定の性能向上が得られた。 また、潜水艦を母潜として使用することの非効率73が指摘されていたことから、潜水艦搭 70 山県(國廣)信治『死線を越えて ルンガ泊地攻撃』(特潜会報第 4 号、昭和 50 年 4 月 19 日)。 71 ガダルカナル西部カミンボ。 72 カミンボには、ジャングル内に通信と人員待機だけの機能しかなかった。攻撃後ここで待機中の 搭乗員は、迎えにきた潜水艦に収容され帰還した。 73 甲標的発進まで、作戦を秘匿するため母潜は攻撃が出来ない。攻撃能力の劣る甲標的のために、
載を止めて、基地からの独立した作戦へ移行した。 (1)性能、作戦、後方体制のバランス(フィリピン作戦) フィリピンでは上級指揮官の第 33 特別根拠地隊(以下 33 特根)司令官が、甲標的を熟 知している元千代田艦長原田少将であったため、無理のない適切な作戦が実施された。そ の結果、甲標的の作戦としては、最も成功したものとなった。また、この方面の作戦は、 航行中の目標に対する襲撃であった点も注目に値する。 ここで使用された甲標的丙型の性能は次のとおりである74。 全長 24.9 メートル 直径 1.8 メートル 重量 50 トン(予備浮力 2.5 トン) 発射管 45 センチメートル 2 門(2 式魚雷) 潜望鏡 3 メートル 1 本 発電機 40 馬力×1 電動機 600 馬力×1 電 池 特 D 型 232 個 軸馬力 水上 30 馬力 水中 600 馬力 速力 水上 6.5 ノット 水中 18.5 ノット 航続力 水上 6 ノット/300 浬 水中 18.5 ノット/0.9 時間 4kt/30 時間 安全深度 100 メートル 乗員 3 名 連続行動日数 3 日 44(19)年 8 月~10 月にかけてダバオ(2 隻)、サンボアンガ(2 隻)、セブ(6 隻)に 甲標的が配属された。米軍のフィリピン進攻に備えた基地防御のための兵力である。しか し、10 月 20 日米軍のレイテ上陸に伴い、サンボアンガの甲標的はセブに集中された結果、 ダバオを除く甲標的 8 隻は 33 特根司令官の指揮下に入ることとなった。 セブを主基地として、後方支援態勢を確立しつつ、作戦海面をシキホール島、ミンダナ オ島、ネグロス島に囲まれた海面とし、前進基地をネグロス島南のヅマゲテに設営した。 セブで整備完了した甲標的はズマゲデに進出、待機する。スリガオ監視所が敵船団通過を セブの 33 特根に報告、33 特根はズマゲデ待機中の甲標的に攻撃を指示、前記海面で襲撃 する態勢を整えたのである。 作戦状況は次のとおりである75。戦果判定は友軍情報のみであり、米側の記録による確 認が取れないものが多い。 母潜の行動が制約されることは不合理だとの考え。 74 庭田三述『建艦秘話』(船舶技術協会、1965 年)85 頁。 75 市川「セブ甲標的隊作戦記録」14-17 頁(防衛研究所図書館所蔵)。
年月日 戦 果 記 事 44(昭和 19)年 12 月 8 日 大型駆逐艦 1 隻 撃沈 オルモック 12 月 18 日 輸送船 2 隻 撃沈 シキホール 不確実 45(昭和 20)年 1 月 3 日 大型駆逐艦 1 隻、輸送船 2 隻撃沈 ミンダナオ 敵同士衝突 1 月 5 日 駆逐艦、輸送船、不明各 1 隻撃沈 ミンダナオ 1 月 25 日 輸送船 3 隻、水上機母艦 1 隻撃沈 ミンダナオ 2 月 13 日 大型駆逐艦 1 隻撃沈 ミンダナオ 2 月 21 日 大型巡洋艦 1 隻撃沈 ミンダナオ 3 月 17 日 輸送船 2 隻撃沈 ミンダナオ 3 月 21 日 輸送船 1 隻撃沈 ミンダナオ 不確実 3 月 23 日 輸送船 1 隻撃沈 ミンダナオ 3 月 26 日 艇、陸上施設を破壊して陸上戦闘に移行。 戦果確認が不正確とはいえ、当時は控えめな戦果判定を実施したため、好調な作戦と 見られた。その要因は、次と考えられる。 ① 原田司令官が現地で実施した訓練で練度を向上させた他、支援器材や整備員も充実 していた。 ② ヅマゲテの陸軍部隊指揮官長尾居家伶大佐が兵学校で銃剣術を指導した縁で、陸軍 の協力を得られて支援体制も充実しており、作戦準備は十分であった76。 ③ トラック等への回航での失敗(曳航)の教訓から専用の輸送艦(塔載方式)を準備 し、現地へ安全に進出できた。そのため、セブに 8 隻が集中できた77。 ④ セブからズマゲテへの往復は、敵機の探知を避けるため夜間航行とし、両地では昼 間沈座78して秘匿に努めた。(基地における沈座回避は、潜水艦も常用している) ⑤ 前進基地への往復海域及び攻撃海面ともに、内海であり小型の甲標的の行動に支障 がなかった。また、前進基地から攻撃海面までの距離が近かった。 ⑥ 搭乗員は講習や訓練に十分な時間が掛けられており、従来になく、高練度の搭乗員 が配置された上、整備員の練度も高かった79。特に、島良光大尉(兵 70)が高練度 の整備員と、整備器材を伴って着任してからは、一気に充実したと言われる。準備 76 岡田貞寛『海軍思い出すまま その 9』(誠斗会会報No10、2001 年)。 77 島隊 2 隻はマニラまで曳航され、以後輸送艦で輸送された(植田氏談平成 16 年 4 月 14 日)。 78 港内の浅い海底に潜航着底し、停止した状態で居ること。動力も使わず、発見される危険も少な いので、潜水艦や甲標的が空襲時に多用した。 79 柏木公弥『回想 セブ甲標的隊』(特潜会報第 4 号 昭和 50 年 4 月 19 日)。
不足の第一次はもちろん、かなりの準備をした第二次攻撃に比較しても、搭乗員の 練度は高い80。 ⑦ 丙型が登場して約 1 年 3 ヶ月経過し、搭乗員も整備員も丙型の取り扱いに習熟して きた。 以上のように、フィリピンにおける甲標的の作戦は、指揮官に人を得たこともあり、指 揮通信体制、乗員の練度と疲労管理、支援基地と前進基地の整備等、当時としては理想的 な体制をとることができた。また、8 隻という兵力は戦争全期間を通じて最大規模の兵力 であった。もちろん数十隻を揃えないと十分な効果が得られない性質の兵器ではあるが、 当時としては最善の条件を関係者の努力で整備した功績は評価できる。 (2)丁型の登場と局地防御(沖縄作戦) 沖縄戦は、来攻してきた敵を防禦部隊が邀撃する作戦形態であった。当初丙型のみが配 備されたが、後に補充された丁型(蛟竜)が初めて実戦に参加した。 丙型を更に設計変更して大型化したものを当初「甲標的丁型」と称したが、45(昭和 20) 年 5 月 28 日兵器に採用され、「蛟竜」と命名された81。丁型は従来の甲標的より大型化し、 乗組員も増加82した。航続力も十分なため、水雷兵器ではなく準艦艇扱いを受けることと なり、艦政本部 2 部(水雷)から 4 部(造船)に所管が換わった。この背景で名称が甲標 的から蛟竜と改められた83。 丁型(蛟竜)の性能は次のとおりである。 排水量 59.3 トン 全長 26.25 メートル 最大直径 2.04 メートル 安全潜航深度 100 メートル 水上速力 8 ノット 水中速力 16 ノット 水上 150 馬力 水中 500 馬力 発電機 150 馬力×1 航続力 水上 8 ノット/1000 浬 水中 16 ノット/40 分 2.5 ノット/125 浬 45 センチメートル魚雷発射管×2 乗員 5 名 連続行動日数 5 日 44 年(昭和 19)年 8 月、鶴田伝大尉指揮の丙型 8 隻が沖縄に進出、本部半島北側の運 80 先任搭乗員を比較すると、第一次岩佐大尉講習後 1 年、第二次秋枝大尉同 1 年半に対し、島大尉 は約 2 年が経過している上、更に現地で数ヶ月の事前訓練を実施している。 81 『戦史叢書 海軍軍戦備(2)』174 頁。 82 丙型の 3 名から 5 名へ増加した。 83 小山「甲標的(特殊潜航艇)について回想」88 頁。
天に基地を建設した。この甲標的隊は第二蛟竜隊と呼ばれた。運天に先着していた第 27 魚雷艇隊とは指揮官同士が同期であったこともあり、後方支援等の協力を得られた84。 運天は、本部半島の東側に位置し、東は屋我地島、北東は古宇利島に面した複雑な地形 の海岸を有する。東シナ海への出撃にはその両島に挟まれた狭隘な水道を通過する必要が ある。一方、複雑、狭隘な地形及び温暖な季候で繁茂した植物の存在は、基地や甲標的の秘 匿に適していたと思われる85。 搭乗員は、准士官以上 9 名、下士官 24 名であり、整備員は准士官以上 3 名、下士官兵 48 名であった。 設営隊(山根部隊)及び地元住民の協力による基地建設が進み、10 月には横付桟橋、引 揚船台、発電機室、防空壕等が整備されて来たが、10 日、米空母機の空襲を受け基地施設 を破壊されるとともに、4 隻が沈没した(隣接の魚雷艇隊は 13 隻を喪失)。これ以後、基 地再建にあたっては主要施設の地下化が図られた。 45(昭和 20)年 3 月 4 日、丁型 3 隻(自力回航)の増強を受け兵力は 7 隻となった86。 23 日昼の空襲では、甲標的は沈座して被害を免れたが、基地施設に甚大な被害を受けたほ か、夜の空襲で充電中の 1 隻を撃沈されたため、米軍の沖縄進攻を 6 隻で迎えることにな る。 24 日米軍の艦砲射撃が始まり、25 日連合艦隊は「天 1 号作戦警戒」を発令した。この ため増援兵力として沖縄へ進出中の甲標的 3 隻は大島へ回航された87。同日、沖縄方面根 拠地隊司令官太田実少将は出撃を下令、第 1 小隊 3 隻88が同夜出撃した。翌 26 日慶伊瀬島 北方で敵戦艦を雷撃、爆発を確認したが 2 隻が未帰還となった。同日、米軍沖縄進攻企図 明白として連合艦隊は「天 1 号作戦発動」を発令した。残る第 2 小隊は 1 隻を充電中空襲 で撃沈されたため 2 隻で出撃、27 日に残波岬沖で巡洋艦を撃破、2 隻とも被害を受けなが ら生還した。30 日、31 日各 1 隻が出撃したが、故障等で引き返し、その際 1 隻が座礁し て喪失した。4 月 5 日、残る 2 隻が出撃したが警戒厳重で接近できず、遠距離から魚雷発 射したが成果はなかった。6 日基地と残った 2 隻を破壊、陸上戦闘に移行して甲標的の作 戦は終了した89。この間の戦果は、戦艦 1 隻に魚雷 2 本命中、巡洋艦に 1 本命中である90。 沖縄戦では、作戦が甲標的の行動圏内の海域で実施されたこと、攻撃目標がほぼ停止(漂 84 主計長は両隊を兼務した。 85 筆者現地調査の所見。 86 特潜会『嗚呼特殊潜航艇』(特潜会、1983 年)122 頁。 87 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 沖縄方面海軍作戦』(朝雲新聞社、1968 年)347 頁。 88 丙型 1 隻、丁型 2 隻。 89 特潜会『ああ、沖縄蛟竜隊』(特潜会報 1 昭和 47 年 4 月 1 日)。 90 『戦史叢書 沖縄方面海軍作戦』348 頁。
泊乃至低速移動)という状況であったため、無理のない作戦が実施できた。その反面、基 地の所在が敵に知られている他、帰投時も敵の追尾を受ける状況であった91。空襲時には 艇は付近海中に沈座して回避できても、基地機能が喪失しては戦力発揮が困難となり、兵 力不足もあって、敵の大艦隊に打撃を与えることは出来なかった。 近傍に敵の機動部隊があって、多数の小型機(大型機に比べ、精密な銃爆撃が可能)が 基地を襲撃するという情勢では、他の条件が揃っても戦力発揮が困難ということである。 これは、もし実施されていれば、本土決戦でも同様の事態が予測された。また、近距離の 夜間襲撃では、隣接の魚雷艇がほぼ同程度の戦果92を挙げており、状況によっては建造、 訓練が容易な魚雷艇の方が、甲標的より効果的な兵力となることもある。 真珠湾から沖縄までの 5 つの作戦の特徴をまとめたものは、別表のとおりである。戦果、 生還者等に作戦の着実な進歩が見られる。戦況の悪化を考慮すれば他では見られない傾向 であり、注目に値する。 (3)その他の作戦 上記 5 作戦の他、各地に局地防禦のために配備が実施又は計画された。全て基地からの 独立行動による作戦を企図し、戦闘の機会には恵まれなかったが貴重な防禦戦力として、 期待された。 ミッドウェー島に進出の予定で関戸少佐93を隊長に訓練、整備に従事し、基地物件とと もに 42(昭和 17)年 5 月 24 日、千代田とともに主力部隊の殿艦として行動した。ミッド ウェー島占領後は同島陸上防御部隊の第二特別陸戦隊(トラック島より別行動)の指揮下 に入る予定であったが、ミッドウェー作戦は失敗し、6 月 20 日頃呉に帰投した。帰投後「関 戸少佐の発言により長期行動後の搭載魚雷の精度を検討するため、各艇の魚雷を呉工廠魚 雷実験部の協力の下に、安芸灘において実射したところ、殆ど跳出、大偏射を来たし、真 珠湾等の攻撃に際し戦果のあがらないのは折角突入しても魚雷のためだと感ぜられるとこ ろがあり調停諸元、射法の改善に関係者一同奮起した」94とのことで、甲標的のみならず、 魚雷にも問題のあったことがわかる。 ミッドウェー作戦と平行して実施したアリューシャン作戦で占領したキスカ島に、第 51 警備隊隷下の特務隊として甲標的 6 隻が配備された。水上偵察機、水上戦闘機とともに、 91 第二蛟竜隊主計長 住田充男 談話(2004 年 2 月)。 92 3回延べ 23 隻が出撃、巡洋艦 3 隻撃沈、駆逐艦 1 隻撃沈、同 1 隻撃破。喪失 3 隻。 93 第二次試製の実験搭乗員であり、第一次攻撃隊員よりはるかに古参の士官である。 94 山縣信治「甲標的の戦闘経過に関する通報」1958 年 4 月 4 日(防衛研究所図書館所蔵)。
貴重な防禦戦力であったが、濃霧や寒冷、吹雪の悪条件の他、敵の空襲による妨害により 基地整備が思うようにはかどらず、甲標的を運用する条件が整わなかった。滑りが荒天の ため砂に埋まる事態や、空襲、荒天による損害のため、ついに甲標的の運用を放棄するこ とになる。米軍進攻前、甲標的と基地は破壊して日本軍はキスカを撤退し、ここでも甲標 的は戦闘をせずに終わった95。 43(昭和 18)年 12 月、門義視大尉指揮の丙型 5 隻が、トラックからラバウルに進出し たが、到着できたのは 1 隻のみであった。丙型を最初に配備されたのがこのラバウルであ る。従来の輸送には、甲標的母艦または潜水艦を使用できたが、これからは輸送手段が問 題になる。呉工廠と甲標的部隊が検討した結果、輸送船による曳航方式とされた。曳航中、 甲標的は水中状態で、減速すると浮上してくる状態であった96。現地の工作部で唯一到着 した甲標的を限られた設備で苦労して整備し97、来襲した敵艦隊攻撃に出撃したが戦果は なかった。 44(昭和 19)年 1 月、大友広四大尉指揮の 2 隻がハルマヘラに進出したが、味方の誤 爆で 1 隻を喪失、他の 1 隻については、消息不明である。 同年 4 月内地からトラックへ進出を企図した丙型 5 隻のうち、2 隻は輸送中に喪失(輸 送船が米潜に雷撃)、迂回航路を取った 3 隻のみがサイパンまで到着した。しかしここで 米軍の上陸に遭遇して、6 艦隊司令部とともに玉砕した98。 同年 8 月、丙型 8 隻が 2 梯団に分かれて横須賀から父島に進出した。途中、台風に遭遇 したため、各梯団の 1 隻づつが到着したに過ぎなかった。隊長篠倉修大尉は整備長ととも に空路で先行して輸送指揮をとっていない。その後 1 隻が到着したため、父島の甲標的は 3 隻となった。しかし整備も不充分なまま、空襲に曝され戦闘の機会のないまま終戦を迎 えた99。 45(昭和 20)年 1 月、後藤修中尉指揮の 2 隻がマニラに向かったが、行先を高雄に変 更された。そのまま終戦まで高雄に在ったが、戦闘に参加する機会はなかった。 同年 4 月、中平善司中尉指揮の 2 隻が奄美加計呂麻島に進出したが、1 隻は空襲で沈没、 残る 1 隻も戦闘することなく終戦を迎えた。 いずれも、防禦戦力として期待されながら作戦にはまったく寄与できなかった。その原 因として次が考えられる。 95 山縣信治『キスカ島の思い出』(特潜会報第 2 号 昭和 48 年 4 月 19 日)。 96 真嶋四郎『五期講習員の回想』(特潜会報第 14 号 昭和 60 年 4 月 5 日)。 97 日本海軍潜水艦史刊行会『日本海軍潜水艦史』(日本海軍潜水艦史刊行会 1979 年 9 月 25 日) 786-787頁。 98 特潜会『ラバウル・トラック甲標的始末記』(特潜会報第 1 号 昭和 47 年 4 月 1 日)。 99 久戸義郎『第一甲標的隊苦闘のあと』(特潜会報第 16 号 昭和 61 年 4 月 5 日)。
① 進出計画の不備 現地に進出することにさえ失敗しては、作戦どころではない。敵航空機や潜水艦の脅 威下を低速の輸送船で曳航する等輸送手段と時期に問題があった。父島の場合は、指揮 官が別行動をとっている。 ② 支援体制の不備 基地からの自立作戦には、整備その他後方支援体制がことに重要となる。キスカの場 合自然条件と敵の妨害により基地機能を喪失した。沖縄の場合、近距離に位置する敵艦 隊の艦砲射撃と艦載機の銃爆撃で妨害を受けた。機能に問題があっても基地が整備され ていればよい方で、父島など他の場合、基地整備すら満足に実施していない。 ③ 兵力不足 進攻してくる敵は、有力な艦隊を伴う多数の輸送船団である。小型の魚雷を 2 本しか 装備していない限定的な戦力の甲標的は、多数をそろえる必要がある。しかし、せいぜ い数隻しか準備できずに終わった。成功したと見られるフィリピンでも 8 隻にすぎず、 上級司令部の作戦準備段階での認識不足がより深刻な問題であった。 ④ 作戦指導 甲標的のようにデリケートな特徴をもつ兵器の使用は難しい。ミッドウェーのように、 とりあえず持っていくような安直な発想では有効な作戦は無理である。能力を理解せず、 潜水艦と同じような運用をしては、効果があがるはずがない。父島、トラックの例にも その傾向が見られる。 おわりに 日本海軍は漸減邀撃艦隊決戦構想に基づき、兵力整備(軍備)と訓練を重ねて大東亜戦 争を迎えた。しかし、戦争の実態はことごとに戦前の予想を裏切るものとなった。短期決 戦を企図したが長期戦となったため、艦隊同士の戦闘だけでなく、国家の継戦能力に関わ る交通破壊戦や戦略爆撃が大きな意味をもつようになった。海上作戦そのものも、1 度の 決戦で勝敗を決することはなく、島嶼争奪に伴う戦闘が連続した。その戦闘は航空兵力、 特に空母機動部隊が重要な役割を果たした。しかし日本海軍は、主兵力として整備した戦 艦、重巡洋艦を空母護衛等に活用することなく遊兵化させ、無理な作戦を続けた航空部隊 と潜水艦部隊は、消耗を重ねる結果を招く。 甲標的も、艦隊決戦兵力として整備されていたが、作戦の実効性に疑問が呈され、開戦 前に洋上襲撃から敵根拠地攻撃に用法が転換された。その着想は悪くはなかったが、甲標 的の性能と搭乗員の練度が不充分なまま強行した真珠湾(第一次攻撃)では成果なく、改
修と事前訓練に努めたディエゴ・スワレス(第二次攻撃)でやっと戦艦撃破他の戦果を挙 げることができた。しかし、甲標的の性能上無理な作戦で生還者を得られなかった。狭隘 な水道通過の必要がなく、近傍に味方拠点のあるガダルカナルの作戦ではやっと攻撃後の 生還者を得た。フィリピン以降は航続力が増大した丙型を使用して自立作戦が可能となる。 艇ごと生還できるようになったのである。フィリピンでは指揮官に人を得、情報収集、指 揮通信、後方支援、行動計画等各分野で最も条件の整った作戦が実施され、甲標的として は最大の戦果を挙げることが出来た。ジリ貧となった感のある他の兵力に比べ、このよう に甲標的は戦訓を取り入れ改造と訓練を重ね進歩していった。しかし、元来弱小兵力で物 的人的資源の絶対量が不足していたため、全般の戦況に影響を与えるに至らず、本土決戦 準備の段階で急速整備されて、海軍兵力の柱の一つとなって終戦を迎える。小さいが、数 少ない成功例に数えられる日本海軍の事績である。 甲標的が貴重な成功例となった要因は、いくつか考えられる。 甲標的が武器体系として小規模であったため、性能上の問題点の把握と改善が容易であ ったこと。関係者に高級将校が少なく、若い将校が中核だったため、柔軟で機敏な対応が とり易かったこと。部隊規模が小さく、意思疎通がよかったこと。搭乗員に滅私報国の意 志が強く、犠牲的行動を厭わなかったこと。緒戦の真珠湾攻撃以来、部隊の士気を高いま ま維持したこと、などである。これらは、ちょうど戦艦、重巡洋艦部隊とは反対の条件で あり、逆に水上部隊の失敗の原因を探ることができるかもしれない。 今日この教訓を考える時、かつての艦隊決戦主義に匹敵する対潜水艦戦中心主義で成長 し、実戦の洗礼を受けることなく 50 年以上を過ごした海上自衛隊には、日本海軍の先例 に学ぶべき点が多く、また真剣に学ばねばならないであろう。 (防衛研究所戦史部所員)