華園聰麿著
﹃ 宗 教 現 象 学 入 門
││人間学への視線から││﹄
平凡社 二〇一六年八月刊四六判 三〇七頁 三四〇〇円+税 久保田 浩
本書は︑著者が一九八〇年代末から二〇〇九年までに発表してきた諸論考を土台とし︑それに︑新たに書き下ろされたルドルフ・オットー論の一部︑ミルチャ・エリアーデ論の一部︑並びに終章が加えられたものである︒副題から察せられるように︑著者の数多の業績の中で長年にわたって掲げられてきた﹁人間学的理解﹂が全体を貫く構成的視点となっている︒本書の重点は実は副題の方に置かれていると︑評者は刊行直後に著者ご自身より直接伺う機会を得た︒﹁﹁宗教﹂という光源によって照射される﹁人間﹂の存在および生のさまざまな相貌や特質を︑合理的な知や経験にとっての﹁余剰﹂あるいは﹁宗教﹂が開示する﹁大いなるもの﹂を見据えながら闡明する﹂︵終章︶という文章から明らかなように︑本書全体を通して一貫して認められるのは︑﹁宗教﹂を通して﹁人間﹂を闡明しようとする試みを﹁人間学﹂へと向かう一契機として捉えるという観点で 書評と紹介 ある︒
﹁光源﹂という隠喩が示唆しているように︑著者が望み見る﹁人間学﹂は︑直接には凝視し得ないとしてもそれによってはじめて人間存在の諸々の容貌が浮かび上がり可視的になると想定されている﹁宗教﹂に関する語りを媒介して成立するものであり︑著者はそれを﹁哲学的﹂ならぬ﹁宗教学的人間学﹂と呼んでいる︒本書の出発点は︑そのような﹁光源﹂として﹁宗教﹂を語ろうとしてきたのが所謂﹁宗教現象学者﹂であったという認識であり︑故に本書の目的も︑宗教現象学を宗教学の所謂学説史の中に位置づけることではなく︑それを西洋思想史︑とりわけ﹁人間学﹂の系譜の中に位置づけることによって︑ディシプリン内部の内向きの議論の枠組みから解放された︑謂わば︿思想的営為﹀として宗教現象学を再解釈・再評価することにある︒こうした解釈の視座は︑宗教現象学を学説史的・方法論的に過去のものと看做し︑それが提出してきた分析方法・結果を神学的・形而上学的だとして糾弾することに終始するような批判︱これは寧ろ︑﹁宗教学説﹂なる閉ざされた枠内に宗教現象学を組み入れ︑その中に閉じ込めようとする試みに他ならない︱を相対化し︑宗教現象学への学問的向き合い方の新たな可能性を指し示すものである︒
勿論︑従来から語られてきた学説史的言説の中に本書を位置づけることも決して無意味なことではない︒著者自身は︑宗教学の学説史的議論に深入りすることには自覚的に禁欲的姿勢を貫いているものと思われるが︑それでも︑序章と各章の第一節において︑宗教学の置かれた学問史的状況を概説し︑それぞれ
は︑必ずしも著者の表記法に従っていないことを予め断っておく︶︒
本書は︑宗教現象学を巡る学問史的状況を概観する序章と︑各章で論じられた宗教現象学者の所説を﹁﹁人間学的理解﹂という統一的な視点﹂から捉え直した終章の間に挟まれる形で︑まず本書を貫く問題意識を概説する第一章に続き︑第二章から第五章においてそれぞれ︑ルドルフ・オットー︑ヘラルドゥス・ファン・デル・レーウ︑ミルチャ・エリアーデ︑グスタフ・メンシング︱所謂﹁宗教現象学者﹂と呼ばれ︑また特徴づけられてきた学者達︱のそれぞれの﹁人間学的理解﹂を論じるという形で構成されている︒
宗教現象学に関する論争を俯瞰する序章は︑執筆された一九八九年の段階で既に﹁問題﹂として意識されるようになっていた宗教現象学を宗教学の歴史的展開の中で位置づけようとする試みである︒その点で︑本序章は本書全体の中では宗教学説史的・学問史的色合いが比較的顕著に現れ︑異彩を放っている︒既に六〇年代末に批判的に論じられ始めていた宗教現象学は︑七〇年代に入りそのキリスト教神学的な性格と過度な一般化欲求︵個別歴史性・社会性・文化性を捨象する傾向︶への疑義が公言されるようになった一方で︑﹁宗教現象学﹂概念の多義的な使用︱この概念の下で理解されている内容には一貫性が認められる訳ではない︱という実態があったことが指摘される︒このように︑宗教現象学に対する批判は︑統一的な方法的・理論的内容が必ずしも前提理解として共有されないまま︑一方で神学・哲学との関係︑他方で歴史研究等実証諸科学との関係にお の学者の宗教現象学理解の特徴に触れている︒けれども︑本書の主眼は︑右で指摘した点を踏まえた上で表現すれば︑以下のような問いを提出し︑それと取り組むように読者に促すことであると表現しても︑大過はなかろう︒即ち︑宗教現象学が多種多様な批判にさらされてきた後で︑それについて宗教学的に如何に語るべきか︑そもそも語り得るか︑もし語り得るとすればそれについて語るとはどういう営みか︑といった原理的問いである︒多かれ少なかれ閉ざされた一学問分野として措定された宗教学内部でのみ妥当するような従来の学説史的読み方を決して否定するものではないにせよ︑本書の学説史研究としての意義を過度に強調し︑宗教現象学者達を学説史的に改めて位置づける試みとして本書を繙くことは︑恐らく著者の意図に大きく反するものであろうし︑評者自身もそうした読みを再生産することの意義を高く評価するものではない︒故に以下では︑︿宗教学説﹀ではなく︿思想的営為﹀としての宗教現象学が︑一九︑二〇世紀を通して制度化されてきた宗教学の学説 00として︵のみ?︶看做され︑論じられてきたという事態そのものを︱そしてそれと表裏一体の関係として︑所謂宗教学の外部において宗教現象学は極めて低い知名度しか享受してこなかったという事実そのものを︱西洋思想史の文脈の中で如何なる歴史的事態として理解し︑またその中に歴史的かつ思想的にどのように位置づけていくことが可能か︑という新たな課題を本書は示唆し︑その答えの一つの可能性を﹁人間学﹂という鍵概念を以て提供している︑と捉えた上で論評を加えていきたい︒
まず︑各章の中心的主張を確認しておく︵以下の人名表記
の中で論じられてきたオットーの﹁感情Gefühl﹂並びに﹁畏怖Scheu﹂理解を﹁人間学的に﹂読み直している︒その際︑マックス・シェーラー︵や︑著者は挙げていないもののエドムント・フッサール︶等の現象学者達が評価した︑オットーによる﹁聖なるもの﹂に関する記述的分析と︑他方︑手厳しく批判された︑アプリオリな認識能力と捉えられた﹁感情﹂に基づく認識論的立場の二面性に着目し︑後者の﹁ヌーメン感覚sen-sus numinis﹂︵﹁ヌーメン感情﹂とも訳されている︶を手掛りにオットーの﹁宗教学的人間学﹂を読み取ろうとしている︒興味深い点は︑著者は宗教学の方法論的 0000洞察としては︑﹁神的なもの﹂﹁聖なるもの﹂と理解された志向対象によって充足されることによってある作用が﹁宗教的﹂となるとしたシェーラーの分析の方向性に軍配を挙げつつも︑人間学的 0000には︑学説史的に批判されてきたオットーの認識論的前提の方をより重要視している点である︒オットーにより︑理性の一作用︑認識の一形式とされた﹁感情﹂︵特に﹁ヌーメン感覚﹂︶理解を︑シュライエルマッハー︑フリース︑ヴントの所説と対照させつつ検討した結果として︑﹁素質﹂として人間に付与されているアプリオリな認識・表象能力である﹁ヌーメン感覚﹂の発動を︑﹁神学者オットー﹂のようにそこから神観念が生み出される源泉と捉えるのではなく︑﹁存在の不思議もしくは生の不可解さの初歩的もしくは初次的な体験と見なす﹂という﹁人間学的﹂読み替えを提示し︑ハイデガー︵﹁現象学の根本問題﹂︶の言う﹁戦慄すべき秘義のもとにある︿或るもの﹀﹂との出会いといった主張との﹁人間学﹂的共通性を指摘している︒ いて展開してきたことを著者は強調する︒その上で︑宗教学は実証研究であるべしとの要求の高まりが︑宗教現象学への期待の低下と比例しているものの︑宗教学が何らかの﹁比較﹂を行わざるを得ないとすれば︑そのための理論的あるいは方法的装置が必要であるとし︑古典的な宗教現象学において既に開始されていた﹁理解﹂﹁解釈﹂への反省作業を新たに展開させたジャック・ヴァールデンブルクの主張した︑﹁﹁宗教﹂を人間の具体的な﹁生﹂の脈絡の下で理解することを目指す﹂方向性に着目することを提案する︒
第一章は︑宗教学についての﹁一定のアイデンティティを前提した上で︑それを共有していると見なされる宗教学説の中に︑宗教研究の焦点ないし宗教を理解するための主要な枠組みとして﹁人間﹂もしくは﹁宗教と人間﹂に着目した︑あるいはその考察を中心課題とした学説﹂があり︑それを取り上げることを本書の目的として掲げている︒その際︑本書の鍵概念となる﹁人間学﹂については以下のように述べられている︒本書の目的は人間学自体の構築にはなく︑故に特定の人間学の立場や概念を用いて﹁宗教﹂を理解・説明するのではなく︱従って︑マックス・シェーラー︑ヘルムート・プレスナー︑アルノルト・ゲーレン等々の所謂﹁哲学的人間学﹂に依拠する 0000のではなく︱宗教学自体を人間の自己認識の学であると捉えて 0000000000000000000000︑﹁人間の本質的な特性を把握しようとする試み﹂を行うことであり︑それが﹁宗教学的人間学﹂と呼ばれている︒
以下の章で著者はこの﹁宗教学的人間学﹂を︑各々の宗教現象学者の所説から抽出していく︒第二章は︑宗教学説の枠組み
理解︵﹁全体学﹂﹁創造的解釈学﹂︶の鍵概念となっている﹁聖なるもの﹂が︑﹁人間の意識構造の一要素﹂︵エリアーデ︶として﹁人間の精神構造のア・プリオリな構成契機﹂とされていることから︑﹁聖なるもの﹂に関する宗教的シンボリズムの解釈学が︑必然的に普遍的性格を帯び︑﹁哲学的人間学へと道を拓﹂き︑﹁﹁世界内存在﹂︵being in the world︶という人間の特殊な実存的状況を把握する﹂営みであり得ると述べる︒つまり著者は︑エリアーデ宗教学を︑世界の中で生活する人間が自らをその中でどのように位置づけ︑意味づけ︑自らの存在を理解し︑そして行動するのか︑という問いへの一つの答えを提示する﹁人間学﹂であると解釈しており︑﹁人間の実存が﹁宗教的実存﹂においてこそ十全な充実をみる﹂というのが︑エリアーデ﹁人間学の根本命題﹂であると喝破する︒そして︑彼の所説に見られる近代批判の契機に着目し︑﹁非宗教的な文化のもとにある近代社会にもあくまでもホモ・レリギオーススの痕跡を探し求めようとする﹂エリアーデ﹁人間学﹂の必然的要請は︑﹁ホモ・レリギオーススとしての﹁人間﹂の実存的境位の始原に立ち戻﹂ることであるとし︑﹁何よりも﹁ヌーメン感覚﹂を研ぎ澄ますこと﹂︑﹁﹁途方もない・不気味なもの﹂︵das Unge-heuere︶を直に感得する宗教的感覚を取り戻すこと﹂の必要性を説いている︒
第五章は︑﹁宗教は聖なるものとの出会いであり︑聖なるものによって規定された人間の応答行為である﹂との宗教定義を行ったグスタフ・メンシングの著作に取り組んでいる︒メンシング宗教学の特徴が時代とともに︑﹁意味の了解﹂を求める営 第三章は︑ファン・デル・レーウの﹁宗教﹂並びに﹁生﹂﹁世界﹂の理解に﹁人間学的考察﹂が看取されることを論じている︒ディルタイの構造心理学の影響下で構築されたレーウの宗教現象学が︑観察者が観察者に対して自らを示すものを意味︵Sinn︶連関︵=超個人的で﹁神によって与えられた﹂構造連関=﹁全体﹂︶の下で了解︵verstehen︶する営みとして理解される限り︑観察者︵=了解者・研究者︶と現象との間のダイナミックな関係が前提とされているとして︑レーウ宗教現象学の特徴が決して静的な類型論の構築に終始するものではなく︑﹁果てしない修正の必要﹂︵レーウ︶を内包している営みであることが強調される︒そこから著者は︑宗教現象の主体と客体との相関関係︵主体と関わる限りにおける客体︑客体と関わる限りにおける主体︶に着目し︑こうした相関関係の中に置かれた客体を表す﹁現象学的﹂術語︵﹁神学的﹂には主客が逆転する︶としてレーウが援用してきたのが﹁力をもつものdas Mäch-tige﹂であったとしている︒こうして﹁力をもつもの﹂への人間への応答のみが現象学が語り得る宗教現象であることを確認した著者は︑まさにこの点にレーウ宗教学が﹁人間学﹂であり得る根拠を見出している︒そして﹁人間﹂が置かれた場である﹁世界﹂︑そして﹁人間﹂が生を営む際の根本的規定である﹁共同存在﹂といったレーウの諸概念を︑ディルタイやハイデガーの人間理解との関連で精査し︑彼の﹁人間学﹂の特徴は︑﹁﹁生﹂の現象学と﹁力あるいは力があること︵Mächtigkeit︶﹂の現象学﹂という二重性の中に存すると結論づけている︒
ミルチャ・エリアーデを扱う第四章は︑エリアーデの宗教学
もなりかねない︒故に従来の学説史的な観点ではなく︑宗教学の成立と展開を︱著者自身も本書で部分的に行っているが︱思想史的文脈の中で論じるという仕方で論じてみよう︒他の研究分野と同様︑宗教研究の﹁学説史﹂においてもまず問題となってくるのが︑何を・誰を﹁宗教学︵者︶﹂として捉えて描き出すか︑という問いである︒著者も指摘しているように︑﹁宗教現象学﹂は決して自称ではなく︑例えばオットーのようにフッサールやシェーラーからその﹁現象学﹂的特徴が指摘されるような人々も本書では﹁宗教現象学者﹂として扱われている︒この括り方は︑二〇世紀前半を通して︑宗教研究の制度化と宗教学史叙述の定型化︵M・ジャストロウ︑L・H・ジョーダン︑E・シャープ等々︶の過程において﹁宗教現象学︵者︶﹂︱その内容的統一性はさて措き︱が画定された結果生まれてきた定説に従っており︑本書で取り扱われている研究者を宗教現象学者として一括りにすること自体は定説の範囲内である︒寧ろ本書の特徴は︑従来宗教現象学者と呼ばれてきた人々を﹁人間学﹂者と呼び直していることである︒そしてこうした読み直しの中にこそ︑本書が惹起し得る議論の可能性が秘められている︒多種多様に理解され︑また非難されてきた宗教現象学全体を︑内容的に貫いているのは︑著者が謂うところの﹁人間学﹂的視点なのか︒だとすると︑宗教現象学は寧ろ︑ドイツにおける﹁哲学的人間学﹂の成立と展開︱それはまさに宗教現象学の成立と展開と同時期である︱という文脈の中に思想史的に位置づけることが可能なのか︒本書はこうした問いを︱明示的ではないにせよ︱提起しており︑︿思想的営為﹀としての宗教現象学の歴 みから︑﹁現象の分類﹂︵類型論︶へと移行していったことが指摘された上で︑﹁人間学﹂の観点から︑楠正弘の評価︵メンシングは︑宗教の根拠を倫理や哲学とは異なる情緒作用の中に見出している︶を踏まえた上で︑宗教の根拠を人間の本性に求めようとしたヒュームの立場の系譜上にメンシングを位置づけて考察している︒そうした観点から︑周知の﹁民族宗教﹂﹁普遍宗教﹂等々の類型を立て︑それらの理念的﹁担い手﹂が抱く宗教的諸観念や実践︑倫理観等を比較しようとするメンシング宗教学が︑﹁人間学﹂として捉えられることとなる︒メンシングによれば︑どのような類型の宗教であれ︑聖なるものとの一体性が希求されており︑その実現が幸福を︑その阻害が不幸として理解されているが︑まさにこうした理解こそが著者によってメンシング﹁人間学﹂の明瞭な特徴として捉えられている︒
終章では︑以上の﹁宗教的人間学﹂者たちが︑﹁宗教﹂という光源に照らし出された︑﹁人間﹂のどのような面に着目していたのかを改めてまとめている︒
以上が︑宗教現象学者を﹁宗教的人間学﹂を開陳した学者として描き出した本書の概要であるが︑以下では︑冒頭で示唆した点の延長線上で︑学説史・学問史叙述との関係︑﹁︵宗教︶現象学︵者︶﹂理解︑﹁人間学﹂理解に絞って簡単に論評を加えてみよう︒
既に述べたように︑本書を狭義の学説史叙述であると捉えることは︑評者のことばで言えば︿思想的営為としての宗教現象学﹀をとりわけ西洋思想史の文脈の中で論じ︑そこに位置づけようとする︑本書が内に秘めている画期的意義を損なうことに
︿神話性﹀が明らかになる道が開かれるのではないか︒勿論︑更に推し進めて︑社会的・政治的文脈を見据えた観点からの分析がそれに加われば︑極めて多角的な宗教学史叙述の中で宗教現象学を捉え直すための前提が準備されていくように思われる︒
周知の通り︑H・スピーゲルバーグは﹁現象学運動﹂という概念の下に宗教現象学者達の動向︱宗教現象学は﹁本来の﹂現象学には数えられていないが︱をも包摂しているが︑この概念は広範な分野にわたって認められるある新たな学知の形成の現場を名づけるために発明されたものと理解することが出来る︒宗教現象学の成立現場を宗教学と定めるか︑﹁人間学﹂と定めるか︑または現象学と定めるかによって︑描き出される宗教現象学の相貌はある特定の方向へと規定されることになる︒換言すれば︑どのような学知に関わるものであるかが画定されることになる︒本書は︑従来の内向きの学説史叙述では語られることが多かったとは決して言えない諸関係に言及することによって︑宗教現象学とは一体如何なる学知であったのかという問いへの向き合い方の転換を促していると考えられる︒随所で論じられている︑シェーラー︑ハイデガー︑構造心理学︵ディルタイ︑シュプランガー︶との比較対照はまさに︑︿思想的営為﹀として宗教現象学を捉え直そうとする試みの現れとして大いに評価されてもよかろう︒
最後に若干の疑問点を付け加えておきたい︒まず右に述べた点との関連で︑ハイデガーの﹁宗教現象学﹂への言及がないこと︑ビンスワンガーの現象学的人間学︱レーウはそれに大きく 史的位置を改めて問い直す重要な視座を提供している︒ただ惜しむらくは︑﹁哲学的人間学﹂の系譜との思想的な対照関係についてのより詳細な叙述が見られず︵シェーラー以外には言及がない︶︑そして﹁人間学﹂という概念を導入することによって︑従来の宗教学史叙述の何が欠点として明るみに出され︑何が補われ︑あるいは修正されるのかが明瞭には論じられておらず︑宗教︵現象︶学の成立の思想的文脈の解明︑そして宗教学史叙述の新たな可能性という二点における本書の意義を不明瞭にしているように思われる︒
こうした二つの可能性を更に追求していけば︑本書が論述している﹁人間学﹂との対応関係に加えて更に︑﹁宗教学﹂﹁人間学﹂そして﹁現象学﹂成立の学問史的文脈への視点も重要となってくるかもしれない︒一九世紀後半以降に誕生・展開し︑また独立していった他の諸学問分野との相互依存関係が明らかになった暁には︑二〇世紀的宗教学史叙述の語り︱﹁独立した一 00000
学問分野としての宗教学 00000000000﹂という語り︱が脱構築されることになるだろう︒例えば︑本書が取り扱う時期より一世代前のF・M・ミュラーの宗教学・比較言語学が︑同時代の発生学・地質学から刺激を受けているといったような広範な文脈ではないにせよ︑二〇世紀の宗教学知の生成を論ずる際にも︑﹁人間学運動﹂と表現し得るような︑諸学を包括し得る広範な動向を措定することは出来ないものであろうか︒また︑そのように考えるならば︑論じ続けられている︿宗教学と神学﹀というトピックも︑一九・二〇世紀における学知の生産現場に還元することで︑前者の後者からの独立といった従来の単直線的な語りの
﹁神学︵的︶﹂という概念は如何なる内容を指すものとして使われているのであろうか︒評者には︑当時のドイツ・オランダの自由主義神学の流れを考慮するとすれば︑レーウの論述の方がより﹁神学的﹂な傾向を帯びているように思われるし︑エリアーデを除く三者はいずれにせよ︑︿西欧自由主義プロテスタント神学思想運動﹀という文脈で論じられ得る思想家たちであると特徴づけることもできるのである︒最後に︑本書の意義が学説史叙述ではなく︑宗教現象学を﹁人間学﹂として解釈し直すために︑原典を読み直す作業に基づいている以上︑本邦並びに海外における従来の学説史研究との対話が見られないのは致し方のないことかもしれない︒ただ欲を言えば︑﹁人間学﹂を鍵概念として論じている研究文献︵例えば︑メンシングに関するユーセフ︵H. R. Yousef︶などの論考︶での論述や問題意識との差異が述べられていれば︑宗教現象学への昨今の再評価の動きと本書との関連がより明瞭になったであろうと思われる︒
評者はいくつかの箇所で︑首肯し得ない訳文や訳語︑また訳語の揺れに出会った︵特に︑Anthropologieが﹁人間学﹂﹁人性学﹂と訳し分けられている点など︶が︑訳文・訳語に関する見解の相違は寧ろ︑テクスト解釈上のより活発な議論が展開するための契機ともなるものであり︑本書の原理的な問題提起を損なうものでは決してない︒評者としては︑古めかしく︑改めて論ずるに値しないという評価が定まっているかに思われる宗教現象学に︑これまでの学説史とは異なる別の観点からアプローチするための大きな刺激が︑本書によって学界に与えられることを願うばかりである︒ 依拠している︱への論究が見当たらないことは何故なのであろうか︒評者には︑本書の問題設定からして︑これらの点を詳述することは不可欠の作業のように思われてならない︒次に︑﹁人間学﹂概念についてであるが︑著者は宗教学を﹁人間学﹂として論じる出発点として︑宗教現象学者の研究内容の中に︑﹁宗教を通じて﹁人間﹂もしくは﹁人間であること﹂あるいは﹁人間として生きること﹂の特徴や意義を明らかにしようとする問題意識ないし問題方向﹂を見出し︑明らかにすることが本書の意図であると述べている︵序章︶︒著者が﹁人間学﹂を構想する前提にもし仮に哲学的人間学の伝統があるとすれば︑その中に流れ込んできているはずの﹁人間﹂理解︵例えば︑D・F・シュトラウス︶の近代性と︑著者の﹁宗教学的人間学﹂における﹁人間﹂は如何なる関係に置かれているのだろうか︒また︑著者が本書で繰り返し論じているハイデガーが︑こうした﹁人間﹂の近代性を存在論的分析によって解体しようとしたことと︑﹁宗教学的人間学﹂とはどのように関連づけられるのであろうか︒こうした疑問は最終的に︑近代性を引きずらざるを得ない﹁人間学﹂概念を︑︿思想的営為としての宗教現象学﹀の成立現場の説明概念として援用することの妥当性への問いへと繋がっていく︒第三に︑学説史的な疑問であるが︑本書にはオットーの﹁有神論﹂﹁神学的﹂的立場とレーウの﹁宗教学﹂的立場とが対照的に描き出され︑後者の意義が評価されている個所が随所に見られる︒著者は﹁神学︵的︶﹂という表現によって︑宗教現象学に対して向けられてきた貶称としての使用を踏襲しているのだろうか︒換言すれば︑本書で援用されている