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清沢満之とその門下との「対話」

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はじめに   今から百十余年前、明治期を代表する真宗大谷派の僧侶・清沢満之(一八六三~一九〇三)のもとへ多くの煩悶青年が集い、現代にまで名をとどろかせる信仰共同体が生まれた。――その名を「浩々洞」という。

  中核を担ったのは、暁 あけがらすはや(一八七七~一九五四)、多田鼎 かなえ(一八七五~一九三七)、佐々木月 げっしょう(一八七五~一九二 六)の三名であり、「三羽烏」と称される。一九〇一年一月より、雑誌『精神界』を刊行して「精神主義」を唱道するとともに、十一月からは毎週日曜に「精神講話」と呼ばれる集会が開かれるようになった。それ以降も、曽我量深(一八七五~一九七一)や金子大榮(一八八一~一九七六)などを輩出し、同派の近代教学はこの門をくぐった人物を中心に展開してきた。また、西田幾多郎(一八七〇~一九四

五)や正岡子規(一八六七~一九〇二)、倉田百三(一八九一

~一九四三)といった同時代群像との交流も注目される。 ()1

《研究論文》

清沢満之とその門下との「対話」

──安藤州一『清沢先生   信仰坐談』を読み解く──

親鸞仏教センター研究員

          

(2)

  従来、この浩々洞を拠点に展開された「精神主義」は、清沢の思想の到達点、あるいは代名詞として扱われることが大勢であった。本稿執筆の眼目は、その「精神主義」がいかなる思想であるのかを改めて問い直すところにある。

一  問題領域と入射角   (

1

)新たな潮流と問いかけ   二〇〇三年に迎えた没後百周年を機に、清沢満之研究はかつてない隆盛を迎えた。代表的なものとして第一に挙げられるのは、現代フランス思想の研究で知られる今村仁司

(一九四二~二〇〇七)による、「哲学者」としての側面に焦点を当てた一連の研究であろう。すなわち、清沢の生涯を貫く思想の基軸を、初期の「宗教哲学」――特に『宗教哲学骸骨』(一八九二年)、「他力門哲学骸骨試稿」(一八九五

年)という二つの「骸骨」――によって構築された理論的構想のうちに見いだそうとする視座である。

  しかし、それにも増して、とりわけ近代仏教史研究のフィールドにおいて再燃しているテーマが「精神主義」の問 い直しである。「精神主義」研究は、かねてより近代仏教史研究のみならず、伝統下の近代真宗教学(親鸞教学)においても中心的なテーマであり続けたが、没後百周年以降には、新たな入射角より、いくつもの注目すべき問いが投げかけられている。そのなかでも、ひときわセンセーショナルな問いかけとなったのは、山本伸裕『「精神主義」は誰の思想か』(法藏館、二〇一一年)、近藤俊太郎『天皇制国家と「精神主義」――清沢満之とその門下』(法藏館、二〇

一三年)という二冊の書であろう。

  山本の研究は、『精神界』誌上に掲載された「清沢満之」名義の論考のなかに、門弟によって成文・編集された文章が多数混入されているにもかかわらず、従来はそれを一括して「精神主義」と呼んできた問題性を鋭く指摘し、さらには一部の門弟の編集には、明らかな思想的付加や書き換えが見られる点を厳しく批判する。それゆえ、混入した不純物を取り除き、「純粋」な清沢の抽出を試みようというのである。このような視座に対しては〝どこまで「純粋」でありえるか〟といった疑念を抱かざるをえないが、見落としてはならないのは山本がこの問題を、あくまでも ()2

(3)

清沢という人物の思想を再評価し、新たに語り直していくための「下地」として提起している点である。それゆえ、この問題提起の背景には、今村と同様、初期の「宗教哲学」論考を基盤に清沢の生涯を貫く思想を紡ぎ出し、その全体像に迫っていこうという展望がある点にも目を向けなければならない。

  一方の近藤は、「信仰とその歴史的立場の総体的把握」という研究視座、より端的に言えば、歴史のなかで信仰を問う方法を基本姿勢としており、特に天皇制国家との関わりにおいて「精神主義」とはいかなる思想であるかを追究する。また、従来の清沢批判論を背景にしつつ、どこまでも「精神主義」を運動として捉える点に特徴があり、問題射程はつねに「清沢満之とその 00門下」である。それゆえ、決して単純な清沢批判論にはとどまらず(少なくとも個人の

人格に対する批判ではない)、そこにおいて問われるのは、我々が「精神主義」あるいは「清沢満之」と呼んできたものは一体何か、さらにはそれに関わる自己自身の宗教性はいかなるものか、である。そして、清沢からその門下には――いずれの人物においても――ある側面がかなり忠実に 000000 継承されたと見定めたうえで、たとえ門弟の発した問題発言であっても、その思想上の要因を「精神主義=清沢」の基本的立場にまで遡 さかのぼって批判を加えていく。

  両者はその立場や考究の方向性は全く異にするものの――ゆえに異なる角度から――近年の清沢および「精神主義」研究に対し、緊張感を与え続けている。筆者もその問いを突きつけられた一人にほかならないが、自身の視座を述べるならば、最終的な展望は山本のそれに近いが、〝「精神主義」はいかなる思想か〟という当面の課題に関しては、近藤の指し示すように「清沢満之とその門下」という領域で考究したいと考える。

  すなわち、目指す方向(方法)は、清沢自身の言葉のみを抽出する「単/純」化ではなく、むしろその門下たちの思惑や意図までをも掘り起こす「複/雑」化である。

  (

2

)「波紋」という視点

  本稿の課題と方法を明確にするために、さらに取り上げておきたい重要な研究がある。それが先の二名に先立ち、 ()3

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まさに没後百周年のムーブメントのさなか、奇しくも同じ出版社の同シリーズ(日本仏教史研究叢書)初弾として出版されていた、福島栄寿『思想史としての「精神主義」』(法

藏館、二〇〇三年)である。

  福島が問いを投げかけるのは、従来「近代仏教」の思想史研究において主流であった二つの流れ――①テクストの内在的読解に基づく思想家像の再構築論、②天皇制イデオロギー仏教批判論、および仏教近代信仰論――における分析の視座・方法に対してである。そこには同書のタイトルが示すように〝方法としての「思想史」〟そのものの問い直しも企図されているが、清沢および「精神主義」研究、なかんずく筆者にとって重要な問題提起となったのは、テクスト分析における「言説」の視点の必要性である。

  すなわち、あるテクストの唯一の「真意」を解釈的に固定するのではなく、テクストが「いかに読者に読まれ、また波紋を投げ掛けたか」という視点を導入する必要があるというのである。そして、それによって清沢とその門下とをイデオロギー批判的に「一刀両断」することや、逆に両者を分断することで清沢のみを「救出」するような陥 かんせいを 免れられるのではないかというのである。  筆者自身は、先の分類で言えば、①の「内在的読解に基づく思想家像の再構築論」の立場に身を置くと自負しているが、だからこそこの「言説」という視点、とりわけ「波紋」という視点に着目したいと考える。そして、その視点を導入するうえで、きわめて有効と思われるテクストが『清沢先生  信仰坐談』(以下『信仰坐談』)なのである。

二  『信仰坐談』とはいかなる書物か   『信

仰坐談』は、浩々洞という「場」から生まれた〝清沢版『歎異抄』〟とも言うべき語録である。著者は門弟の安藤州一(一八七三~一九五〇)で、師の没後に刊行された。そして、世に出されて以降、同時代に大きな「波紋」を広げるとともに、後世の清沢全集にも収められるなど、その思想と人格を確かに伝える書として多くの「読者」を獲得してきた。とりわけ、没後百周年を記念して刊行された新版の『清沢満之全集』(大谷大学編、岩波書店)に、本人の著作ではないこの語録が選ばれた意義は大きい。 ()7

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  本稿では、第一に『信仰坐談』自体の読解を目指していくが、それとともに、この書が現代に至るまでいかにして読み継がれてきたかという点にも目を向けたい。書物は、読者が存在しなければ、後世に伝わることはないであろう。本稿で探究するのは、清沢と著者、そして読者との 00間における呼応関係である。それゆえ考究の出立点は、おおよそ次の問いに約 つづまる。――彼あるいは彼らは、一体何を聞き、そして何を遺そうとしたのか。

  (

1

)東片町時代の浩々洞   ある人物の思想の真意をたずねるとき、無論、第一には本人の著作を厳選してひも解くことが望ましいであろう。ところが、清沢自身が『阿含経』、『エピクテタス語録』、『歎異抄』の三書を「予の三部経」と称したように、語録は、時に本人の著した書よりも思想の深意を伝える。

  『信

仰坐談』は、清沢が没した翌年の一九〇四年三月に浩々洞出版部(のちに無我山房へ改称)から初版が刊行された。その内容は、前月までの半年間(一九〇三年九月~)、 『精神界』誌上で連載された「東 ひがしかたまち時代の先生」(全六

回)が一冊の書としてまとめられたものである。著者の安藤州一は、三羽烏よりも少し早い一八七三年、大分県・浄雲寺(真宗大谷派)の門徒の家に生まれた。やがて篤信の父の願いで得度し、大谷大学の教授などを歴任した後、晩年は同寺の副住職を務めている。浩々洞に入ったのは一九〇二年七月十二日、「東片町時代」の始まった約一ヶ月後である。欧米視察に出ていた近 ちかずみじょうかん(一八七〇~一九四

一)より本郷森川町の寓居(現・求道会館)を借りていたところ、この年の春(三月)に近角が帰国したため、浩々洞は六月一日にすぐ近くの東片町へ移転したという。

  東片町時代の浩々洞については、「ここが最も浩々洞の真髄を発揮した場所で、通常浩々洞といえば東片町を指している」とも評されるが、のちほど紹介するように、その「真髄」を伝えたのは、ほかならぬ『信仰坐談』であったと考えられる。安藤は後年、自らが入洞した経緯について次のように述懐している。

私が浩々洞に入ったのは、深い理由はない、洞の同人 ()11

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が暑中休暇に皆郷里に帰るのに、あとの留守番がない、そこで佐々木君等と往復交際して居た私が、その留守番に入ったのである。曽我君や金子君が洞に入ったのは、まだまだ後のことである。

(『清沢〈資料〉』一七八頁)

  深い理由はなく、暑中休暇の間に留守番に入ったところ、そのまま同人になっていたというのである。なお、ここで「佐々木君等と往復交際して居た私が」とあるが、安藤は三羽烏のなかでもとりわけ佐々木との親交が厚く、「多田君は右党、暁烏君は左党、佐々木君は正統と名づけたい」と評するなど、深い信頼を寄せていた様子が窺える。

  (

2

)特別の空気

  この書の性格を最も的確に表すものとして、金子大榮が清沢の生誕百年(一九六三年)の折に残した次の言葉が挙げられよう。 こうして、先生を追憶する私にも、ただ一つ遺憾なるものがある。それは、直接先生の膝下にありて、その警策をうけなかったことである。〔中略〕安藤州一師の『信仰坐談』等を見ると、浩々洞には特別の空気があったように思われる。その空気こそ先生の人格によりて作り出されたものであろう。その空気を呼吸することにおいて、真に先生の教説をしることができたのではないであろうか。(「自覚――清沢満之先生を憶う」、『親鸞教学』第三号、

『清沢〈論文〉』一三五─一三六頁)

  ここで金子は、浩々洞には「特別の空気」があったと言い、その空気――「師・友の情」とも言い換えられる――を呼吸することにおいて、真に清沢の教説を知ることができるのではないかと問いかける。実際、その空気に触れた者は、浩々洞という場を「議論と大笑いのサンガ」と称し、あるいは「恰 あたかも古代の僧伽を目前に見るが如くに感ぜられた」とも言い表す。そして、何よりこの言葉は、『信仰坐談』という書物のなかにも「特別の空気」が流れている ()15

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ことを指し示すであろう。

  一方、『信仰坐談』の著者安藤は、浩々洞に流れる空気を次のように表現する。

洞の門には、山茶花の花こぼれ、掃えども掃えども、紅白の花片は、つねに籬辺に横われり。疎々の修竹は、数本の梧桐と相並びて奥庭の一隅に立ち、秋気已に動くと雖も、残熱尚余威を逞うするの日は、幾度か我をして、「階前修竹時揺影、唯是清風不到人」の歎を起さしめき。隣園の栗樹は、枝葉陰々として、洞の半庭を圧せり。嗚呼東片町の林園家屋、今尚去年の風光を留む、しかも此中に在て、懇切の教訓を垂れ給いし先生は、今や已に在らざるなり。

(第一篇、岩波『清沢全』九  三八四─三八五頁)

  ここに引いたのは、『信仰坐談』第一篇の後半部分である。それ以前の前半部分には、清沢の人物像が「高山」の譬喩をもって称讃されている。

図 1  『精神界』第3巻第9号

「東方町時代の先生」初回

  ところが、『精神界』での連載時、その第一篇は先に引用したものがすべて 000であった(図

風光が留まっているという。 「場」であった。そして、その場には、清沢亡き後も同じ 言うなれば、清沢という「人」ではなく、浩々洞という は「東片町の林園家屋」に吹く風や、差し込む陽光である。 「山茶花の花」こぼれる「洞の門」の情景であり、あるい が亡き師の「教訓」をたずねる際、最初に想起されたのは 1参照)。すなわち、安藤   このように、『精神界』で連載された原稿(全六十二篇)は、単行本化(初版は全七十篇)されるに当たり、語録に加筆がほどこされたり、巻頭に序文や伝記が置かれたりする ()18

(8)

などの変化が見られる。また、初版から三年半後に出版された第三版(一九〇七年十一月、全八十篇)には、さらなる増補が認められる。そして、新版の全集(岩波書店)はこの増補三版が依拠本となっているのだが、この点については、後述するとおり注意が必要である。

三  『信仰坐談』の波紋   (

1

)浩々洞内への波紋   先述のとおり、安藤が浩々洞に入ったのは、東片町へ移転した翌月の一九〇二年七月である。ところが、清沢のもとで親しく薫陶を受けるようになるまでに、さらに一ヶ月を要したようである。そして、清沢はその年の十一月に真宗大学学監を辞職して大浜の自坊(西方寺)へ帰郷し、それが予期せずも「永遠の別離」となったことが、『信仰坐談』(増補三版)最終の第八〇篇に記されている。

  それゆえ安藤が清沢のそばにいたのは、わずか三ヶ月にも満たない。『信仰坐談』は、このごく短い期間に聞き取られた語録である。しかし「聞く」という一事において、 ともに過ごした時間の長短は問題ではない。現にこの書は沢柳政太郎(一八六五~一九二七)や暁烏敏、曽我量深など、清沢の親友や身近な門下生たちからも、その教訓や面影をよく伝えるものとして多大な評価を受けている。

A  信仰坐談は清沢師の晩年に侍してその円熟せる教訓に浴したる安藤氏のものせるもの、たしかに師の偉大なる面影を写せるものなり。余は世の修養に志せる者にすすむるに此小冊子を再三熟読せんことを以てするものなり。

(沢柳政太郎『信仰坐談』推薦序文〔増補三版〕、

岩波『清沢全』九  三八二頁)

B  安藤君が洞に来て、日夜に先生の側におるのだから、先生にいろいろのことを聞いた。殊に私達と異なって、先生と議論するようなことをせず、謹んで聞いていたのでよく先生の言葉を覚えていた。同君の著『清沢先生信仰坐談』は、この間に君の見聞したことを書いたものである。だから、浩々洞時代の先生の面影は同書 ()19

()

() 20 21

(9)

に最もよく記されてあるように思う。

(暁烏敏「浩々洞時代の清沢先生」、『伝記叢書  清沢満之』

〔観照社、一九二八年〕一九三頁)

C  安藤州一君の『清沢先生信仰座談』は先生最初の言行録、第一の伝記である。後世先生の完全なる伝記が編纂さるるの日には此書は亦一の史料である。然るに此書の中には著者自身は勿論、暁烏、多田、佐々木、和田等と諸君の名が現われて居るが、私は遂に録せらるべき光栄を有せなかったのである。

(曽我量深「自己を弁護せざる人」、『曽我量深選集』

第二巻〔彌生書房、一九七〇年〕二二五頁)

  順にたどっていくと、沢柳(A)は「たしかに師の偉大なる面影を写せるものなり」と称讃したうえで、「世の修養に志せる者」に再三の熟読を勧める。暁烏(B)は、安藤が自分たちとは異なり、清沢と議論するようなことをせず、「謹んで聞いていたのでよく先生の言葉を覚えていた」と述懐し、浩々洞時代の清沢は『信仰坐談』に「最も よく記されてある」と評す。そして曽我(C)は、この書を「先生最初の言行録、第一の伝記」と称して、自らがそのなかに記録されなかったことを惜しむのである。  また、『信仰坐談』の初版が出版された翌月号(第四巻第

四号)の『精神界』巻末「報道」欄には、「本誌の読者は此書を座右に供えられたきことと存候」と記されており、浩々洞をあげて強く推奨されていたことがわかる。

  (

2

)同時代人への波紋   さらにこの書は、浩々洞の内輪だけにとどまらず、外部の同時代人たちにも大きな波紋を投げかけている。

  例えば、夏目漱石(一八六七~一九一六)の蔵書目録のなかに本書の名があり、漱石自身が傍線を引いた箇所も確認できるという。また、哲学者の西田幾多郎(一八七〇~一 九四五)も、日記のなかに「清沢〔満之〕氏の信仰座談をよむ」(一九〇五年五月九日)と書きとめ、あるいは金字塔となった『善の研究』(一九一一年)の草稿と目されるノート(「純粋経験に関する断章」断片十三)のなかに、以下のよ ()22

(10)

うな記述を確認することができる。

宗教はつまり没理想である。予め立てた方針を何処までも固執するようなことは為ない。清沢氏の信仰座談の中に警察の注意で途の左方を行こうと思うたが、左から馬車がくるので已むを得ず右方をいったということがある。

(新版『西田幾多郎全集』第十六巻〔岩波書店、

二〇〇八年〕一五六頁)

  ここで西田は宗教の問題をめぐって清沢の名とともに『信仰坐談』の一節を参照する。また、このノートは成立年不明とされているが、ここで参照された「警察と馬車」のエピソードは、増補三版(一九〇七年十一月)の段階で加えられた語録(第七五篇)である。それゆえ「信仰座談をよむ」と日記に記された一九〇五年(この時点では初版)以降に改めて新たな一冊を入手していたことがわかる。

  このように『信仰坐談』は、浩々洞外の種々の人物たちにも読まれており、それらの痕跡を通じて、同時代に広げた波紋の大きさを窺い知ることができるのである。

  (

3

)後世への波紋――全集への収録   それでは、この書はいかに読み継がれ、後世にいかなる波紋を投げかけてきただろうか。そのことを確かめるに当たり、見逃すことのできない指標は、『信仰坐談』が数々の著書や研究論文で引用されてきたことと相俟って、各時代の清沢全集に収録されてきたという事実である。

  清沢の全集は、これまで没後の記念年にあわせて四度編纂されてきた。すなわち、無我山房(全三巻、浩々洞編、一

九一三~一九一五年、十周年)、有光社(全六巻、浩々洞編、一

九三四~一九三五年、三十周年)、法藏館(全八巻、暁烏敏・西

村見暁編、一九五三~一九五七年、五十周年)、そして岩波書店(全九巻、大谷大学編、二〇〇二~二〇〇三年、百周年)という四つの版が存在する。『信仰坐談』はそのすべてに何らかの形態で入っており、最初の無我山房版では第三巻「日記及語録」に収録の「清沢先生言行録」(全三二七)のなかに、増補三版の全八十篇(第二四七~三二六)が書名を明記せず、他の門弟たちの追憶とともに掲載されている ()23

(11)

(安藤の名は明記)。続く有光社版では、その「清沢先生言行録」が二つに分けられ、第五巻「日記語録」附録の「清沢先生言行録  第二集」のなかに収録されている。そして冒頭には、編者(おそらく編集代表の原子広宣)の名により、以下のような言葉が添えられている。

明治の親鸞と呼ばれた先生の言々句々は実に胆に銘じ、在りし日の先生の聖姿を彷彿させるものがあります。噛みしめれば噛みしめるほど尽きせぬ味わいを覚えます。敢えて御精読をお薦めして已みません。

(有光社『清沢全』五  二五五頁)

  三番目の法藏館版では、清沢が生涯に名のった五つの号

(建峯・骸骨・石水・臘扇・浜風)に基づき編年体で各巻が構成されている。『信仰坐談』は、第八巻「臘扇時代

(下)」の「追憶・資料」篇のなかに、三羽烏など他の門下や友人の追憶とともに収録されている。増補三版のほぼ全篇(七十九篇、大半は「浩々洞座談」の節に収録)が収められているものの、やはりここでも書名は伏せられている。   したがって、『信仰坐談』が清沢の全集に、書名を明記のうえ、単独の書物として選出されたのは、最新の岩波書店版がはじめてである。ただし、収載されたのは、第六巻「精神主義」ではなく、第九巻「信念の交流――書簡」であり、しかも文庫目録や詩歌などとともに、あくまでも「資料」としての附録的な位置づけである。しかし、それにつけても、従来の全集に厳密な資料検討を加え、清沢の自筆原稿を中心に編まれたこの全集に、本人の著作ではない本書が収録された意義はきわめて大きいであろう。

四  著者が聞いたもの   (

1

)霊活なる信念

  『信

仰坐談』の初版が刊行された際、同じ月(一九〇四年

三月)に発行された『精神界』の巻末には、一頁全体を使い、次のような広告(図

「著者望外の光栄」とあるため、執筆者は安藤に違いない。 2参照)が出されている。最後に

本書は、著者が先生に侍するの日、幾度か其信念の奥 ()24

(12)

底を敲き、先生に得たる所を記載せるもの也。先生は常に、霊活なる信念を以て、恰も快刀の乱麻を断つが如く、生死問題、妻子問題、パン問題を解決し、如来の霊光に浴して、現在安住の境に至るの道を説き云えり。本書の記する所は、此霊活なる信念の直写なり。世上若し、信念の枯渇に悶え、安慰の甘露を求むる人あらば、願くは此書に就き、先生の信念を透して、如来の霊光に逢着せよ。読者若し之に由て安慰を得ば、独り読者の喜びなるのみならず、亦著者望外の光栄也。

(『精神界』第四巻第三号、巻末広告)

図 2  『精神界』第4巻第3号

巻末広告

  ここで安藤は、この書を清沢の「信念の奥底を敲 たたき、先生に得たる所を記載せるもの」、あるいは「霊活なる信念の直写」と言い表す。そして、読者に対しては「先生の信念を透 とおして、如来の霊光に逢着せよ」と呼びかける。「法に依りて人に依らざるべし」とは仏教の伝統的な教訓であるが、「聞く」べきは「霊活なる信念」であり、逢着すべきは、清沢個人の人格ではなく「如来の霊光」でなければならないと言うのである。そのことが『信仰坐談』の第一篇では「余、清沢先生に侍するの日、幾度か其胸中を敲 たたきて、高潔なる品性の滋潤を蒙り、霊活なる信念を聞けり」と言われる。

  ところで、「霊活」というのは、若い頃より清沢がしばしばプラトン哲学などを説明するときに用いた語である。また、清沢が東京へ上る直前に著した『臘 ろうせん記』(一八九八

年八月~翌年四月)には、次のような思索が見られる。

蓋し文字言句は猶如金 ハリガネ、而して安心は猶如電気也 88888。金線(或は其他伝導体)なくば、電気は伝搬され能わざるなり。然れども、金線は電気にあらず、電気は金 ()25

()

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()

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(13)

線にあらざるなり。而して確乎たる(所謂金剛堅固の)信心は、彼の不可思議の霊的勢用なり。彼の霊的勢用にして存在せんか、一条の金線は以て電気を活伝し得べしと雖ども、若し夫れ彼の霊的勢用欠乏せんか、百千の金線ありと雖ども、其の能を為す能わざるなり。

(『清沢全』八  三七二頁)

  ここで清沢は、まず文字言句を金線(伝導体、現代で言う 電線)、信心(安心)を電気に譬 たとえたうえで、その「金剛堅固」の信心は、「彼の不可思議の霊的勢 せいゆうなり」と言う。「霊的勢用」とは、阿弥陀如来の本願の用 はたらきを形容したものと考えられるが、清沢はそれが欠乏していては、電気を「活伝」するはずの金線がどれほど多くあったとしても、「其の能」を果たすことはできないと言う。安藤が清沢の「霊活なる信念」をとおして逢着したものは、ここで「霊的勢用」と呼ばれるものにほかならず、清沢の言葉を伝導体として、わが身に「活伝」したのであろう。

  (

2

)安慰の道

  また、安藤は清沢の説いたものを「現在安住の境に至るの道」と言い表す。その道は『信仰坐談』の序文(自序)では、より端的に「安慰の道」と表現される。

衣食の欠乏は形骸の憂なり、懊悩の鬱塞は中心の痛みなり。〔中略〕余嘗て清沢先生に侍するの日、屢次中心の懊悩を披瀝して安慰の道を問う。先生、余のために安慰の道を説くこと頗る懇切を極む。今や先生亡 しと雖ども、一度び先生の慈訓を追懐すれば、直ちに懊悩の雲を披き、恍として如来の霊光に揺蕩せらるるを覚う。〔中略〕余先生に得る所の安慰を以て、天下中心の痛みに悩む者に頒たんと欲す。乃ち不敏を顧みず、当日聞く所を録し、名づけて『信仰坐談』と言う。

(『清沢全』九  三八二─三八三頁)

  安藤は清沢のそば近くに仕えた日々、自らの「中心の懊 おう

(14)

のう(痛み)」を披歴することによって「安慰の道」を問い、それを具体的な言葉として聞き取った。そして師亡き今も、その遺した言葉(慈訓)を追懐することにより、ただちに懊悩の雲が晴れ、「如来の霊光」に揺り動かされるという。ならば、この書の第一の「読者」は、ほかの誰でもなく、著者の安藤自身であったに違いない。そして安藤は、自らが師をとおして獲得した「安慰」、すなわち「霊活なる信念」を、自分一人にとどめず、「天下中心の痛みに悩む者に頒 わかたん」と欲した。

  『信仰坐談』は、そのような意欲と動機から、

「当日聞く所」をつづった信念の記録である。

  (

3

)師弟の「対話」

  ここからは、具体的に語録の中身に入っていきたい。『信仰坐談』の前半(第一~三九篇)では、「現在安住」(第

三、四篇)や「精神主義」(第一〇、一七篇)、「理屈以上の信仰」(第三七、三八篇)といった清沢を象徴する思想にまつわる言葉が収められ、あるいは日頃より「談話」を好ん でいたこと(第二二篇)や、自らには厳しくとも他人には寛容であった人間性(第二六篇)、さらには学監を勤める真宗大学の構想(第二八、二九篇)などがつづられている。また、宗教の問題をめぐり、「護 球」(第一二篇)や「雪 せっちん

(便所)」(第二三篇)、「饅 まんじゅう」(第三三篇)など、日常的な譬えを駆使してわかりやすく語られていた様子が書きとめられている。それらの言葉は、若い頃の「宗教哲学」論考はもちろんのこと、『精神界』に掲載された諸論説に比してきわめて平易である。次に示すのは、それらの言葉が語られた情景を鮮明に伝える一場面である。

一夜月明らかにして、竹間涼露を滴つる頃、先生に縁端に侍して、雑談数時を経たりき。時に余、先生に向かいて曰く〔中略〕先生の快時は、何時の頃に在りしやと。先生曰く、余は従前は思いぬ、帝国大学の寄宿舎生活時代尤も快なりしと、されど今日は、しか思わざるなり、唯如来慈光の下に、現在尤も楽しきを覚ゆ、是れ如来に由て、現在安住を得たるものの徳なりと。

(第四篇、『清沢全』九  三八六頁) ()28

()

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(15)

  東片町時代の清沢は、自らが重い結核を抱えるのに加え、六月には長男の信一を失い、四ヶ月後には妻・ヤスを大浜で亡くしている。また、学監を務める真宗大学でも、年の初めから学生騒動などの混乱が続き、やがて十月には、学生たちが大学主幹の関根仁 にんのう(一八六八~一九四三)を排斥しようとする運動が起こる。そして清沢は、その責務を負い、辞職して翌月には大浜西方寺へ帰郷することとなる。そのような「惨 さんたんの極」において、清沢が「現在尤 もっとも楽しきを覚ゆ」と語り、さらにはその境涯を「現在安住を得たるものの徳」と称したことをこの語録は伝えている。

  そして、内容もさることながら、それにも増して注目すべきはその形式である。すなわち、収められた言葉の大半は、大衆に向かって語られた「講話」ではなく、縁 えんばなや居間に座して行われた「雑談」であり、あるいは問いと答えの連続する「対話」である。次に示すのは「精神主義」の立場を象徴する「消極主義」について語られたものであるが、この語録も同様に、ごく近い距離間で交わされた師弟の「対話」であることがわかる。 先生曰く、京都の真宗大学を以て、東京巣鴨に移転せしに就き、欣喜押ゆる能わざるの一事あり。積極主義の沸騰点に達せる東京市中に在て、消極主義を唱導すること是なり。〔中略〕余問て曰く、積極主義何が故に非にして、消極主義何が故に是なるや。先生曰く、東京市中に行われ居る積極主義は、金銭のために進むものなり、名誉のために奮闘するものなり、衣食のために妄動するものなり。是を名けて積極主義という。〔中略〕余が所謂る消極は、凡夫の我情的活動を離れて、如来の霊的活動に合一するの過程なりと。

(第一〇篇、『清沢全』九  三八九─三九〇頁)

  ここで、金銭のために進み、名誉のために奮闘し、衣食のために妄動するような「積極主義」に対し、清沢は自らの立場、すなわち「消極主義」を「凡夫の我情的活動を離れて、如来の霊的活動に合一するの過程なり」と言い表す。ただちに「合一」するのではなく「過程」と述べている点には注意が必要であるが、このような言葉が、やがて安藤の懊悩に「安慰」として浸透していく。そして「積極主義 ()30

(16)

の沸騰点に達せる」東京の地での青年教育は、教団革新運動時代からの志願であった。

五  「倫理以上の安慰」をめぐる諸問題   ところで、安藤が筆を執りながらも、「清沢満之」という名のもとに発表された「成文」が一つだけ伝わる。

  ――「倫理以上の安慰」。

  東片町時代の一九〇二年九月に、『精神界』の「講話 00」欄(第二巻第九号)に掲載されたその論考は、「倫理をこえた精神主義の信仰的自覚を、満之の持続する課題である倫理との関連で語ったもの」とも称され、ある時は「精神主義」の真髄を語ったものとして、またある時は、同時代の「倫理と宗教」をめぐる論争への呼応や、世間からの「精神主義」に対する批判への応答として、ことさらに重要視されてきた。その一方で「宇宙間一切の出来事に関しては、私は一も責任を持たない、皆如来の導き玉ふ所である」といった表現、いわゆる「無責任主義」に対して厳しい批判が投げかけられるなど、清沢の自筆原稿ではないにもかか わらず、時代や立場を越えて大きな波紋を広げ続けてきた「精神主義」論考の代表格である。  ところが、これにまつわる安藤の回顧録や、『信仰坐談』の言葉に照らし合わせてみると、従来指摘されてきた様相とは違った側面が浮かび上がってくる。

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1

)私の苦悩

  清沢の没後三十年に当たる一九三三年、安藤は『現代仏教』誌上で「浩々洞の懐旧」と題した回顧録の連載を始める。そこでは、浩々洞の誕生から清沢の死を経由して、やがては崩壊していくまでの軌跡と背景が縷 回顧されている。特にその序盤では、安藤が清沢のもとで直接薫陶を受けた東片町時代の光景が鮮明に語られている。

  当時、浩々洞には「責任観念の苦悩」を抱えた多くの煩悶青年が、その「洗除」のために清沢のもとを訪れていたという。しかし、苦悩を訴える人よりも、それに解決を与える清沢の方が「なかなか大なる苦悩を持って居られた」と安藤は追懐する。そして、連載を重ねていくうちに、や ()31

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がて「私(自分)の苦悩」についても語り始める。

  安藤が真宗大学を卒業したのは二十七歳の時(一九〇一

~一九〇二年頃か)であったが、その最後の年に広島県(福

山市)の寺へ養子に入ったという。当初は「学問は十分にさせる」という約束で、安藤自身もそれを信じていた。ところが、いざ大学を卒業してみると、「研究院に入学してはならぬ、是非寺に留まって法務に従事せよ」と強要されたという。少年時代から深く「詩的想像の世界」を憧憬していた安藤にとって、寺院生活は「現実生活の汚濁」とも言うべき世界であり、その境遇に落ち着くことはできなかった。そこで、養父母と妻が止めるのを振り切って、無理やり京都へ再遊して研究院に入り、その結果、養家とは離縁することになったという。さらにその時、思いも寄らない事態が起こる。離縁した妻に、懐妊の徴候があることが判明したのである。

他人の苦悩は分からぬが、私自分の苦悩は頗る深刻であった。寺院生活には思い残すことは無い、しかし自分は我子の保育の義務を尽さぬ、自分の妻を棄て行か ねばならぬ、これが私の苦悩である。責任煩悩の猛火に焚かれる重盛の問題が今私の身上に湧いて来た。然るにこの問題に対して、私の苦悩を解決して呉 れる人が無い。通り一遍の説教はして呉れるが、私の罪悪観を洗い清め、責任煩悩を打消して呉れる人に出遇わぬ。私は道徳問題に泣いて居る、こんな時に道徳の話をして呉れるのは、一層私を苦しめることになる。此時に清沢先生に出遇うたのである。

(『清沢〈資料〉』二三四頁)

  安藤が「清沢先生に出遇うた」のは、このような「責任煩悩の猛火」に苦しみ、倫理道徳の問題に苦悶する只中であった。そこに、清沢の言葉が倫理を超えた「安慰の道」として響いたのである。それこそが、後に「倫理以上の安慰」として成文化され、世に波紋を投げかけた論考である。

  (

2

)「語録」と「講話」の対応

  先の回顧文のなかに、「責任煩悩の猛火に焚かれる重盛 ()39

(18)

の問題が今私の身上に湧いて来た」という言葉があった。平重盛(一一三八~一一七九)とは、「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず、重盛の進退此 ここに谷 きわまる」という言葉とともに、日本の歴史上で倫理の問題――主君への忠誠と親への孝行のはざま――に煩悶した人物の象徴として語られてきた武将である。

  実はこの重盛が『信仰坐談』の第四一篇で取り上げられている。そして、さらに注目すべきは、それとほぼ同じ内容の文が「倫理以上の安慰」の冒頭にも引かれている点であり、重盛は「倫理上」に立脚地をもつ「賢者」として、次のように紹介されている。

平重盛は、日本の史上でも、賢者と呼ばれた人である。しかし宗教の眼から見れば、まだまだ至極した人とは言われぬ。なぜならば、「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず、重盛の進退維に谷まる」と歎息して、自ら死を祈るなどは、倫理上から見れば、一寸賢者の様に見えるが、あんな事位に進退谷まりて、手も足も動かぬ様になりて、終に死地に陥 ると言うは、いかにも気の毒な事である。要するに、重盛は倫理上に立脚地を持て居たから、あんな苦悶に陥りたのである。

(「倫理以上の安慰」、『清沢全』六  一二一頁)

  これ以外にも、『信仰坐談』の中盤以降(第四〇~六六

篇)には、「倫理以上の安慰」と対応した内容の語録が散見する。以下、その一端を示す。

【例Ⅰ】蓮如上人曰く、「仏法は無我にて候う」と。若し蓮如上人をして、今日に生まれしめ、今日の語を以て言わしめば、必ずや、「仏法は凡てを如来の威神力にまかせて、全く無責任なり」と申し給うなるべし。

(『信仰坐談』第四二篇、『清沢全』九  四一四頁)

蓮如上人が仏法は無我にて候と仰せられたが〔中略〕若し蓮如上人にして今日の世に出で今日の言にて仰せられなば必ずや、仏法は如来の威神力にまかせて無責 ()40

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任なりと申さるるでありましょう。

(「倫理以上の安慰」、『清沢全』六  一二一頁)

【例Ⅱ】若し余にして責任などを感じなば、昔既に自殺して相果つ可かりしなり〔中略〕されど如来に憑る身は福なるかな、凡て責任の重荷を卸して如来の御計らいにまかせ、如来の慈光の下に、昌平の生活を送ることを得と。

(『信仰坐談』第五二篇、『清沢全』九  四二一頁)

若し私にして、「責任」と言うことを感ずるならば、モー昔に自殺して居らねばならぬ位である、しかし宇宙間一切の出来事に関しては、私は一も責任を持たない、皆如来の導き玉ふ所である。

(「倫理以上の安慰」、『清沢全』六  一二一頁)

【例Ⅲ】夜と昼と同時に起こる可き筈なく、春と秋と同時に来る可き筈なし。自我と如来とは、恰も夜と昼との如し、 春と秋との如し。同時に一心が、如来に還り、また自我に還るの理由なし。自我に還りたる時は、四隣闇黒、天地の事、皆自我の眼中に映ず。されど一たび如来に還りたる時は、一心は悉く如来の光明に占領せらるるが故に、煩悩妄念は、皆其立ち場を失うて、全く跡を消滅す可し。

(『信仰坐談』第六六篇、『清沢全』九  四三二頁)

元来宇宙の間に、一つ所に、同時に夜と昼が起こり、同時に春と秋とが起こる筈はない。それと同じく、我々の心の上にも同時に如来の所為と自我の所為とを感ずる筈はない。〔中略〕如来の心に還りて居る時は、自我は全く滅却せられて、宇宙間のこと皆如来の成さしめ玉ふ所となる。若し煩悩の余習に依りて、如来を忘れて自我に還りた時は、天地は悉く自我の眼に映して自我の境界と成る。そこで責任を感ずる様になり、従て苦悶に沈む事が多い。

(「倫理以上の安慰」、『清沢全』六  一二三頁)

(20)

  (

3

)個の「煩悶」から世の「波紋」へ   このように、『精神界』に清沢の「講話」として発表された「倫理以上の安慰」であるが、実は師弟の「対話」から編まれたものであり、その内容は『信仰坐談』と対応している。そして、従来の研究では「倫理と宗教」をめぐる論争や、世間からの「精神主義」批判などに応じて出された言説と見なされることが多かったが、それ以前に、安藤の苦悶した倫理問題に対して語られた「対話」的言辞であったという事実を、決して見落としてはならないであろう。また、種々の批判が浴びせられる「無責任」という語も、その目的は社会に対する責任意識の放棄ではなく、目の前の「責任煩悩の猛火」で苦悶する青年に、一歩踏み出す勇気を与えることであったに相違ない。そして、そのような一対一の「対話」から生まれた「講話」――「倫理以上の安慰」をめぐり、安藤自身が次のように述懐している。

この私の苦悶を見兼ねて、覚えず先生の口頭に現われ たのが、「責任ということを言うなら、私は百遍切腹しても申訳が立たぬ」との一語であった。「倫理已上の安慰」という先生の一文は、其の時に出来たものである。先生が私を慰撫して話されたことを、私が筆を取って文章に綴り、先生が閲覧して二三の文字を修正したが、殆んど私の原稿のままであった。

(「浩々洞の懐旧」、『清沢〈資料〉』一八五頁)

  ここで注目すべきは、成文した安藤自身がその文章を「先生の一文」と称している点である。自らが聞き取った言葉こそが、師の教訓にほかならなかったのである。

  ところで、ここで「其の時」と言われるのは、安藤が入洞して間もない「明治三十五年八月中頃の、浩々洞の縁端に坐しての夜話」を指す。そして、その情景が『信仰坐談』の第四八篇において鮮明に伝えられている。

余、一夜幽鬱の雲に閉じられ、如何にするも、自ら苦悶を排する能わず。即ち進んで先生の側に侍し、安慰の道を問う。先生曰く、凡て窃盗をなすものは、表面 ()42

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如何に平気を粧うも、心中必ず苦悶多きものなり。爾じ断じて如来の仕事を盗む莫れ、宇宙間一切の活動は、皆是れ如来の活動なり。爾じ若し、あの一事は自己の罪なり、あの一事は自己の畢生の過ちなりと思わば、是れ如来の仕事を盗むものなり、盗むが故に苦悶を離るる能わず。汽車に乗りたる時は、凡ての荷物を汽車に投じて、自己は安心して一身を汽車に托すべきなり。

〔中略〕如来を知らざる間は、一切のこと、皆自己の責任の如く感ぜられて、その重さに堪えざるなり。一たび如来を知る時は、昨日まで自己の罪悪と思いしもの、直ちに転じて如来の活動となる。夜の転じて昼となるが如く、氷の解けて水となるが如し。歓喜此に生じ、感謝此に湧くと。此の夜先生、訓諭尤も懇切を極む、殆んど慈母の小児を慰むるが如し。

(『清沢全』九  四一八頁)

  このように、目前で煩悶する一人の青年への慰 として語られた「安慰の道」であったが、誌上に「倫理以上の安慰」として公開された際には、同時代においても大きな波 紋を呼んだ。とりわけ倫理道徳を「最上安心の道と心得て居る人」には「非常の脅威」であると安藤は述べる。最も著名なエピソードとして、帝国大学(現・東京大学)の総長を務めた加藤弘之(一八三六~一九一六)から清沢に寄せられた疑問が挙げられよう。それに対して清沢は、病躯の自身に代わって暁烏を加藤のもとへ遣わしたけれども、結局は要領を得られなかったと、『信仰坐談』(第五〇篇)のなかでも紹介されている。それ以外にも、この「倫理以上の安慰」に対する「種々質問」が寄せられていたようであり、やがて清沢自身もそれらの疑問に対する応答を『精神界』誌上に発表することとなる。それが、一九〇三年一月に出された「倫理以上の根拠」である。  そこでは、倫理はその根拠が「人と人との関係」であるので、それのみでは「相対有限の範囲」を脱することができないと指摘したうえで、倫理の実行が「絶対無限即ち倫理以上の根拠」の上に立たなければならないと論じられる。この論考は、全体をとおして「相対有限/絶対無限」という宗教哲学的な用語が頻出し、「万里蒼然たる如来慈光の春に包まれて、苦悶は転じて感謝となる」といった詩的・ ()44

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情的な表現の散見する「倫理以上の安慰」とは明らかに文体が異なる。そして、ここで「倫理以上」と論じられる「根拠」の内実は、『信仰坐談』においては親鸞の「心を弘誓の仏地に樹て、情を難思の法海に流す」という言葉を引用しつつ、「激しく倒れたる時」に「再び起ちて進む」ことのできるような、如来に立脚した大地として確かめられる。

  ちなみに、先ほどの第四八篇で追懐された夜話には続きがある。

明朝、余楼上に在りて仏前に勤行す。たまたま和讃を繙きて、曇鸞章の、「無碍光の利益より、威徳広大の信を得て、必らず煩悩の氷とけ、すなわち菩提の水となる」。「罪障功徳の体となる、氷と水の如くなり、氷多きに水多し、障り多きに徳多し」の二節を読みしに、何とも言い得ざる霊感に打たれぬ。余少年の時より、極めて無味乾燥の感を起こせし此の和讃が、此の時、一読再読、頓に春潮の湧くが如く、胸中滾々として歓喜の泉を生ず。即ち階を馳せ下りて、先生の前に伺候 し、今朝読む所の和讃は、昨夜訓諭の意なりやと尋ねしに、「其の事に候う」とて、先生もまた深く喜び給いぬ。

(『清沢全』九  四一八─四一九頁)

  安藤は、清沢から「霊活なる信念」を聞いた。それは無味乾燥の文字言句に「霊感」が流れる、換言すれば「霊的勢用」に感電するような出来事であった。後年、安藤はその時の体験を「此の時私は千仞 じんの海底から浮かび出たような気持ちであった」と回想している。

六  聞いた者の課題   (

1

)清沢満之とは何者か       ――近代のソクラテス――

  安藤は、『信仰坐談』の中盤以降に「倫理以上の安慰」の内容と対応した語録をつづった後、終盤(第六八~七〇

篇)では古代ギリシアの哲人・ソクラテスの名を挙げて、自らが出会った人物が何者であったかを確かめる。 ()49

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嗚呼、先生は近代のソクラテスなり。我豈敢えて『ダイアローグ』を企てんや。然りと雖も、世人若し先生の高説を聞かんと欲せば、宜しく此篇を熟読すべき也。先生の語は、縦令い余の筆を透して現わるるとも、其識別の容易なる事、豈亦砂金の水中に在るが如くならざらんや。

(第七〇篇、『清沢全』九  四三五頁)

  ここで安藤は、清沢を「近代のソクラテス」と称する。清沢がソクラテスの「哲学者」としての生き方やその「実行者」としての側面、すなわち「青年教育を以て主眼」としていた点に敬服していたことはよく知られる。その一方で、清沢の「哲学者」としての側面をめぐっては、初期の「宗教哲学」の頃は、スペンサーやドイツ観念論、とりわけヘーゲルの影響を強く受けていたことが知られる。そして、この二つの様相に関連して『信仰坐談』(第六八篇)のなかに次のような逸話が伝えられる。

余、先生に問て曰く、先生は屢ヘーゲルの哲学を談じ、またソクラテスの信念を賞讃す。二人に対する先生の 尊敬は、毫厘も軽重あらざるかと。先生曰く、ヘーゲルに対する尊崇の念は、近時少く減退せるを覚ふ。されど、ソクラテスを信ずるに至ては、前後更に変ずる所なしと。

(『清沢全』八  四三四頁)

  ヘーゲルには「哲学」、ソクラテスには「信念」と言葉が使い分けられてはいるが、いずれにせよ、晩年の「精神主義」の時代に至ると、ソクラテスへの尊崇の念がまさっており、しかもその「信ずる」思いは「前後更に変ずる所」がないと明確に語られている。それゆえ、清沢の「哲学者」としての相貌を解明するには、初期の「宗教哲学」だけを切り取るのではなく、晩年の「精神主義」にまで貫かれるものを追究しなければならないであろう。

  さて、先ほどの第七〇篇において安藤は、「我豈敢えて『ダイアローグ』を企てんや」と断りつつも、自らを「対話篇(問答篇)」を著したプラトンになぞらえ、師との出会いを結実させる。安藤が「聞いた」言葉を書き遺したのは、自らに訪れた出会いを個人的な体験にはとどめずに、時代を超えて反復可能なものとするためであったのではないか。 ()52

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そして「先生の語」は、たとえ「余の筆」をとおして現れるとしても、その識別は、あたかも水中で光彩を放つ「砂金」を見つけるかのように容易であると述べる。ならば、その「砂金」をすくい取る(聞き取る)のは、後世の「読者」の仕事にほかならないであろう。

  なお、清沢はソクラテスの「青年教育」の方法について「無一物の師、無邪気の弟子、問難往復以て事理を討究する、是れ開発的教育に至当の方法たらずや」と称讃する。浩々洞で繰り広げられた師弟の「対話」は、この「問難往復」による「開発的教育」の実践にほかならない。

  (

2

)「道を求むるもの」への注意

  実は『信仰坐談』の初版(一九〇四年三月発行)は、先の清沢を「近代のソクラテス」と称した第七〇篇で完結していた。ところが、増補三版(一九〇七年十一月発行)では、その後にさらに十篇(第七一~八〇篇)が加えられている。それらの語録は、初版刊行の翌月(一九〇四年四月)より『精神界』に連載された「清沢先生の余影」(全四回)から の転載である。  連載の動機や背景については、初回の冒頭で、清沢の没後に浩々洞の「食堂の団欒 らん」では、「信念修養の談」をめぐって「真の喧嘩」と見なされるような激論が繰り広げられていたと述べられる。「浩々洞の懐旧」には、清沢の生前より三羽烏を中心に「食卓会議」と呼ばれる議論が頻発していたことが追懐されているが、没後はますます激化をたどっていったようである。そこで、その「是非曲直を先生の説に匡 たださん」として、改めて師の言葉を追懐し直した語録が「清沢先生の余影」である。  それゆえ、このなかで扱われる内容は「信前/信後」の問題(第七一、七二篇)や、世の疑問・論難に対する態度

(第七三、七六篇)、あるいは講演や法話に臨む姿勢(第七四、

七五、七八、七九篇)など多岐にわたるが、総じて言えば、遺された門下が、師亡き後に問われる課題と言い表すことができるであろう。そのなかでも特に注目すべきものとして、次に示す「数 じゅ(珠数)」の譬え(第七九篇)が挙げられる。浩々洞の日曜講話を終えた後、聴衆のなかにいた一人の書生の質問に対する応答として発されたものである。 ()56

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時に先生、右手に持ち給える珠数を挙げ、其親珠を指点して曰く、君看よ、此珠や唯是れ一箇の珠也。されど、右側と左側とは、自ら其観を異にし、上面と下面とは、自ら其色彩を異にす。しかも珠の本体に於ては是れ一なり。宇宙の真実本体は唯一なり。しかも、左側のみを見て右側を知らざる人あり、右側のみを見て左側を知らざる人あり。此の如き観察より、異同論争を生ずること、世間まま有り勝ちの事なり、道を求むるもの注意せざる可からずと。

(『清沢全』九  四四五頁)

  ここで清沢は、数珠を手に持ちながら、物事を一方の側面、つまり偏った見地から観察すれば、唯一の「真実本体」を知ることができず、それゆえ世間では頻繁に「異同論争」が生じているという問題を指摘し、「道を求むるもの」に対して注意を促す。安藤は「浩々洞の懐旧」のなかで、清沢の没後、門弟たちの間で師の教訓の受け取り方、とりわけ一元論か二元論かをめぐって様々な問題が起こり、それが原因で浩々洞は次第に崩壊の途 みちを進むことになった と回顧している。そして安藤は、まるでそのことを予期していたかのように、この言葉を終盤、しかも師との死別をつづった「最後の御言」の直前に記録する。

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3

)聞いた「後」の課題   現在、我々が手に取ることのできる『信仰坐談』、すなわち新版の全集(岩波書店)に収録の増補三版では、全八十篇がたずねられた後、ただちに 0000次の言葉が続けられる。

清沢先生曰く

  吾人は日常不如意の事あるなり。如意を得んと欲せば分を知らざるべからず。是れ自己省察の起る所以なり。自己省察の結果は修善の心となる、修善の心は、他力の信心に入り、他力の信は、報謝の心に転じ、報謝の心は、自信教人信の心となり、自信教人信は、自行化他の念に入り、 ()60

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自行化他の念は、復修善事の心に反る。

信仰坐談完

(『清沢全』九  四四六頁)

  ところが、もとの単行本においては、この言葉は独立したページに別枠で示されており、特別な意味を窺わせる

(図

る。 あり、あるいは先に「霊的勢用」と呼ばれていたものであ 「開発」を実現させる根拠こそが「絶対無限なる妙用」で 涯を貫いて――「開発」し続けるという。そして、この 交互に「刺戟策励」することによって、我々を――その生 げきさくれい 大浜での療養期(一八九八~一八九九年)に著した『臘扇善を勤めずにはいられない心が湧き起こり、信仰と修善が 3参照)。これは、清沢が東京の地で浩々洞を開く前、わけではない。むしろ、信を獲ることにより、いよいよ修 であり、信を獲得すれば、そこで「すべてお任せ」となる 「悟後修行の風光」とも言い表されるような「後」の問題 信心と修善の関係は、「信後の修養を務むべきなり」や 事」として書き記されたものである。清沢において他力の 特に「信仰と修善の関係」から展開して「連鎖的循環行 記』のなかの言葉(一八九八年十月二十六日の記述)であり、

  そして、実はこの言葉は、初版本には載っておらず、「清沢先生の余影」でも取り上げられてはいない。にもかかわらず、増補改版するに当たり、最後を締めくくる言葉として選ばれているのである。言うなれば、『信仰坐談』の「後序」とでも称すべき一篇であろう。したがって、この書が現代に伝えるものは、一人の人間のうえに「聞く」 ()61

図 3  『信仰坐談』(増補三版)跋文

(27)

という出来事が起こった事績だけではない。信仰の問題は、決して「聞いた」ところで終わらないという、「後」の課題をも突きつけるのである。

  そして今、『信仰坐談』につづられた言葉を振り返った時、改めて気づかされるのは、安藤は清沢から「現在安住の境に至るの道 0」、あるいは「安慰の道 0」を聞いたと言い、「境地」ではなくあくまでも「道程」として受けとめていたという事実である。

  それゆえ、「精神主義(消極主義)」の基本的な立場をめぐっても、『信仰坐談』のなかでは「如来の霊的活動に合一するの過程 00」と言われ、あるいは『精神界』創刊号の巻頭文においては、その立場が「此の如き立脚地を得たる精神の発達する条路 00、之を名けて精神主義と云う」と標榜されている。そして、ここで立脚地と言われるものは、絶対無限(者)に接することによって獲得される「処世の完全なる立脚地」を表すが、それを安藤は「倫理以上」の立脚地として聞き取ったのである。 おわりに

  ――「精神主義」とはいかなる思想か。

  本稿では、この問いを根本的な動機として、清沢門下の安藤州一が著した『信仰坐談』を読み解き、浩々洞に流れる「空気」を確かめつつ、「精神主義」として世に伝播した言論が誕生する背景の一端をたずねてきた。『信仰坐談』は、浩々洞という「場」で繰り広げられた、師弟の「対話」から生まれた「対 ダイアローグ話篇」である。そして、著者の安藤が師の清沢をとおして聞きひらいた「霊活なる信念」を、個人の体験にはとどめずに、「天下中心の痛みに悩む者に頒たん」と志願して書き遺されたものであった。そして、世に出されて以降、同時代へ大きな波紋を投げかけるとともに、多くの読者を獲得しながら現代にまで読み継がれている。また、最終的に全八十篇となった本書には、著者の安藤による編集意図が、少なからず見受けられた。

(末尾に仮題を付した語録一覧を収録したので参照されたい。)

  そして、本稿で確認したように、『精神界』誌上に清沢名義の「講話」として発表された「倫理以上の安慰」は、 ()62

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(28)

安藤が「浩々洞の縁端に坐しての夜話」をもとに成文したものである。それゆえ、種々の批判や疑問が寄せられつつも、「精神主義」の代表的作品として読み継がれてきた論考であるが、その原点が師弟の「対話」であったという事実を、決して見過ごしてはならないであろう。「倫理上」の問題に煩悶する一人の青年への慰撫として語られた言葉が、結果的に、世に大きな波紋を投げかけることになったのである。のちに安藤は、その時の体験を「千仞の海底から浮かび出たような気持ちであった」と回想するが、それとともに自らが成文化したこの一文を、師の教訓として憶念し続けている。言うなれば、清沢から聞き取った言葉が、生涯を貫く「道」となったのである。このような視点は、三羽烏をはじめとする他の門弟たちが遺した言葉においても――その思惑や意図に個人差があるとは言え――、同様に導入していく必要があるのではないだろうか。

  ところで、「遺した全著作よりも大きい人物であった」とは、和辻哲郎(一八八九~一九六〇)による漱石評であるが、清沢もまた、しばしば「高山」のような「大きい人物」であると譬えられ、その一方で門弟たちは、自らが語 ることができるのは師の小片に過ぎないと自覚していた。そして安藤は、清沢の信仰には一見矛盾するように映る様相が同時に成立するが、それを言語に表す際には別々になるので、「一方だけ切り離して観察する時は誤解を生ずる」と注意を促している。  近年の研究では『精神界』に清沢名義で発表された論考中に混入した門下の編集(成文)に対し、それを取り除いて「単/純」なる思想を抽出しようとする志向が主流となりつつある。それは清沢という個人の思想を精確に見極めるためには、当然、重要視されるべき方法であろう。しかし〝「精神主義」はいかなる思想か〟を解明するに当たっては、それぞれの門弟たちが清沢から何を聞き、何を遺そうとしたのかという「複/雑」なる要素を掘り起こしていかなければ、その深層(あるいは真相)には達しえないと筆者は考える。  水中に沈んだ「砂金」をくみ取るためには、まずもって我々自身がその水のなかに身を浸す必要があるだろう。そのことによって、一人一人が時代を超えた「新たな対話者」となりえるのではないだろうか。 ()65

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凡例一、清沢の言葉は、大谷大学編『清沢満之全集』(岩波書店、二〇〇二~二〇〇三年)から引用した。『清沢全』と略記し、巻数・頁数の順に漢数字で示した。一、『資料  清沢満之〈資料篇〉』、『資料  清沢満之〈論文篇〉』(福嶋寛隆・赤松徹真編、同朋舎出版、一九九一年)は、それぞれ『清沢〈資料〉』、『清沢〈論文〉』と略記した。一、引用に当たり、旧漢字・旧仮名遣いは、適宜、句読点・ルビ・送り仮名等を補いつつ、可能なかぎり通例字体・現代仮名遣いに改めた。片仮名は平仮名に変換した。一、引用文中の傍線・波線は筆者による。また、『信仰坐談』および『精神界』論考の原文に付されていた傍点は省略。

筆者はすでに拙稿「西田幾多郎と浩々洞――「宗教論」成立の背景」(『場所』第十四号、二〇一五年、西田哲学研究会編)において、西田と浩々洞との関わりを調べ、その「宗教論」成立の背景にはつねに浩々洞との関わりを示す痕跡が見られることを明かした。①『現代語訳  清沢満之語録』「解題」「解説」(岩波書店、二〇〇一年)、②『清沢満之の思想』(人文書院、二〇〇三年)、③『清沢満之と哲学』(岩波書店、二〇〇四年)など。特に「哲学」を主題にした③のなかで最も具体的な考究が 展開されている。それ以外にも、新版『清沢満之全集』(岩波書店)の第一巻「宗教哲学」、第三巻「哲学論集」の「解説」を手掛けるとともに、そもそもテーマ別に組まれた全九巻のうち五つの巻の題目に「哲学」という語が付されているところにも、今村の視座が少なからず反映されていると考えられる。『「精神主義」は誰の思想か』八頁参照。この展望は『清沢満之と近現代思想――自力の呪縛から他力思想へ』(明石書店、二〇一四年)のなかで、「復権」という言葉を用いつつ提示されている。

  私自身も、研究者として宗教哲学者・清沢満之の「復権」を希望する一人である。しかし、私が「復権」と言うのは、あくまでも清沢の思想構造を可能な限り混じり気のないかたちで再構成し、そこで再構成されたものを手掛かりに、現代においてこの国に連綿と受け継がれてきた宗教思想の展望が開かれることを期待したいという意味である。

(三七頁)赤松徹真「近代日本思想史における精神主義の位相――清沢満之の信仰とその陥穽」(二葉憲香博士還暦記念会編『仏教史学論集』永田文昌堂、一九七七年)、福嶋寛隆「「精神主義」の歴史的性格」(『日本仏教』第五十・五十一号、一九八〇年)、など。また、近藤の研究は、自らの背景にある先行研究に対して行われた、久木幸男による「検証」 ()1

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