九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
On Bashō's Haiku, Beginning with "Araumi ya"
(Concluded)
小島, 吉雄
https://doi.org/10.15017/2332963
出版情報:文學研究. 39, pp.97-106, 1950-03-31. The Kyushu Literary Society バージョン:
権利関係:
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うき我をさぴしがらせよ閑古鳥
といふ句がある︒前にもしるした如く︑これは伊勢の大智院で作った句でや
うきわれなさびしがらせよ秋の寺
といふのが初作であって︑それを︑のちに﹁閑古鳥﹂と改作したのである︒すなはち︑秋の句を奥に縛拠したのであ
/ろが︑この結句を置きかへたことによって︑句がらは奥行きのあるものとなり︑句慌は心理的な深さをもつことにな
つた︒しかし︑芭蕉の遡逢した率変から言へぱ︑﹁秋の寺﹂の方が風涯であって︑﹁閑古鳥﹂の方は事変ではない︑
空想的所産である︒ここにも彼の虚孵があるわけであるが︑識者に典へる効果は前述の如く﹁閑古鳥﹂の方がはるか
に催れてゐるのである︒刎案の草庵集にょ肌ぱ︑この﹁閑古鳥﹂の句に︑
一
芭蕪の﹁荒海や﹂の句について九七
嵯峨日記に芭蕉の﹁荒海や﹂の句につ 1
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芭蕪の﹁荒海や︲一の句について九八
山ざとにこは叉たれをよぶこ烏ひとりすまんと思ひしものを
といふ西行の句を前書とした自筆があったといふことである︒嵯峨日記にもまたこの歌をしるしてゐるところから思
鍾ふに︑芭蕉は︑この句に西行的な山里の侘びを象徴せしめようとしたものの如くであつ冨事没を忠震に篇さうとし
たのでもなく︑印象をありのままに再現しようとしたのでもない︒どうすれば自分のこの寂塞感を効果的に表現し得
るかといふことに骨身をけづってゐるのであって︑その苦心のあとがこの改作過程に看取出来ると思ふ︒つまり︑観
念的な孵想にいかにして具象的な衣を荒せようかといふところに努力を桃ってゐるのであって︑そのためには必ずし
も事変に從はす︑時には空想をもたくましくしてゐるわけである︒彼の作品を訓ぺてみるといふと︑さきにあげた日
光の句や荒海やの句ばかりでなく︑かういふ風に到るところに︑彼が篇変詩人でない證嬢が發見出来るのである︒と
ころが︑これらの句に於ける芭蕉の表現は︑詩趣をきはめて為誕的に憐成してなる︒一見したところではむ全くの嘉
疫句に見える︒しかし︑よく調べてみると︑それは︑あくまで嘉汗富しくであって︑本幹叫の爲笈ではない︒自己の罷
駿とか印象とかは︑もちろん︑その創作に援州せられるのであるが︑その慨験の再現ではないのである︒﹁荒海や﹂
の句の場合でも︑リアリスチッタな表現をとってゐるけれども︑さきに謹述するとほり篤涯の句ではない︒芭蕪は天
の川を通じて彼の感傷を佐渡へ投影してゐるのである︒
尤も︑彼の作品を年代順に見てゆくと︑若き日の芭蕉には︑笠惰変感にたより︑印象を重んするところもあったや︒
うで︑たとへぱ︑甲子吟行に︑富士川のほとりに拾て子を見たとき︑・
渡をきく人捨子に秋の風いかに
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海くれて鴨のこゑほのかに白し
といふ風な句を作ってゐるのであるが︑後年にいたるほど︑この印象を鋪象する傾向があり︑観念の象徴化に骨身を
けづる風が兇える︒もとより︑後年に於ても芭蕉には多くの客観的嘉生的御がある︒殊に︑元祗六七年の交から輕み
の句瓜径︑王張するやうに揃ってい宛もそれに鯉するが如く︑
鴬や竹の子薮に老いを鴫く 駿河路や花髄も茶の匂ひ
のやうな鞠生的句が数多く生れてゐる︒輕みといふことについては︑故頴原退藏博士らはこれによほど深い意義を附
興して︑芭蕉一代の經歴の上に於てとれを高く評価しようとせられてゐるが︑芭蕉は所謂輕みの伽を作ってゐるのと
亀・色竜平行して︑同時にさうでない何をも作ってゐるのである︒﹁藤の没﹂とか﹁炭俵﹂とかいふ句集に出てゐる右のやう
な嘉生的伽のほかに︑﹁笈日記﹂の伽をも作ってゐるのである︒すなはち︑
この秋や何で年よる雲に鳥
秋深きとなりは何をする人ぞ
といふやうな州がそれであるが︑芭蕉の芭蕉たる所以は︑そして︑われわれに深い感動を典へる伽は︑篤生初により
も︑むしろかういふ主観句にあるのであり︑芭蕉の枇界槻を打ち出した句にあるのであって︑その主観がすぐれた象
徴的表現を得てゐるところに芭蕉の魅力があるのだとわたくしは老へる︒去来抄にしるすところによれば︑
芭蕪の﹁荒海や﹂の句について九九
と吟じ︑主た熱田の海ぺでは︑1F
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芭蕪の﹁荒海や﹂の句について一○○
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病雁のよさむに落ちて旅腰かな
あまのやは小海老にまじるいとど哉
の二伽を猿簔に入集するとき︑凡兆と去来との間に雨句の優劣について論争があつたが︑芭蕉はそのことについて︒←
﹁病雁を小海老などと同じごとくに論じけり﹂﹂
︑
と笑ったといふ︒このことは︑芭蕉が小海老の句よりも病雁の何を尚く評慨してゐたことを・塒示するものだと思ふの
↑であるが︑病雁の句には槻想があり︑小海老の州はただ嬬生の妙を示すに過ぎない︒言はぱ︑芭蕉自身が槻想の句を︑
篇生の句よりも高く評慣してゐたと推想し得るのであって︑師翁の精榊を蚊もよく感得してゐたと言はれる去来も・
この時﹁小海老の句は珍しといへども︑その物を案じたる時は予が口にも出でむ︒病雁は格高く趣かすかにして︑い
かでか愛を案じつけむ﹂と言ってゐるo病雁の何は芭蕉でなければ生み得ない句であるが︑小海老の句は凡兆の徒輩︐
でもまた達し得る鴨のものである︒芭蕉の本領は.軍なる為生刎にあるのではない︒また︑︑同じ去来抄に︑
うづくまるやくわんの下のさむさ哉
といふ丈草の句を死病の床から﹃丈準出来たり﹂と芭蕉がほめたと書いてゐる︒この句もまた軍なる蝿生句ではな;
い︒芭蕉の關心は︑強く主観の裏打ちある州にあったのである︒
そこで︑芭蕉の作品を通観して言へることは︑彼の創作態匪は︑概念的な内容に出來るだけ具象的な衣を藩せる︑
いひかへればb主観的な氣分に客観性を附與して︑具象的な詩的泄界を緋成するにあったといふことである︒そし︒
て︑そのことをまた芭蕉は畢生の念願としてゐたといふことである︒繰り返して言へぱ︑芭蕉の作品は非常にリァリ.
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スチックに見える・けれども︑よく味はってみると︑決して箪純なリアリズムではない︑現焚的な腫笈を重んぜず?
場合によっては︑主観のために客観的興笈を犠牲にして悔いないのである︒察想なすら自由に働かせるのである︒
閑かさや堵にしみ入る蝉のこゑ
この州の場合︑﹁閑かさや﹂といふところ腰巴蕉の深い感情がこめられてゐるのである︒この伽は︑はじめ︑
山寺や石にしみつく蝉のこゑ
となってゐたといふo山寺といふところでの伽であるから︑﹁山寺や﹂と地名を澄いたわけであるが︑﹁山寺や﹂で︲
は︑ただありのままの印象直叙である︒軍なる篤生の柵である︒ところが︑︒﹁閑かさや﹂と改作せられると︑軍なるゞ
印象直叙でなくなる︒芭蕉の心持といふものが︑・そこに惨み出てくる︒︑壬観が象徴性を帯びて表出せられてくる︒韮押
し︑芭蕉俳諸の特色といふものは︑かういふところにあるのであらうと恩ふ︒
ところで︑更に︑問題となってくるのは︑これらの作品に盛られてぬる芭蕉の︑王概であるが︑その主襯は著しく感︲.
傷的でぬるといふことが注意せられ私ぱならない︒言ひかへると︑感傷性が芭薙作品の底を質流してゐるといふこと
が出来ると思ふ︒若き日の芭熊は必ずしもさうでないかも知れない︒けれども︑蕉瓜を大成してのちの芭蕉には︑こ.
の感傷性が濃厚なのである︒たとへぱ︑さきほどから例にしてゐる﹁荒海や﹂の句の場合で・も︑銀河の序を通じて型
解するときには︑やはり感傷的内容をもってゐるのである︒
一鰐︑芭蕉の感傷性は︑彼の恢界糊から必然的に生まれてくるものなのである︒しかもその枇界柵は︑大畷︑・沙
の﹁奥の細道﹂の旅の頃に確立せら肌てゐる︒奥の細道の旅は芭蕉の蕊術の上に荊期的な意義をもたらしたものでゅ
芭蕪の﹁荒海や﹂の句について一○一
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︑︑.芭蕪の﹁荒海や﹂の句について一○二
るが︑その﹁奥の細道﹂の岡頭に︑●一月日は百代の過客にして行きかふ年もまた炊人なり
といふ文章がある︒これは.自然や人生を旅といふ立場︑言ひかへれば︑無常流韓のすがたに於て認識してゐること
を述べたのであって︑奥の細道の一篇は︑かういふ︑王想を力弧く於開させて︑人生の旅蹄に於けるほるぽそとした無
常流雛の寂馨感を表出したものである︒このことは︑称て﹁奥の細道兇諜﹂といふ拙文中にも述べておいたことであ
ったが︑つまり︑芭蕉はこの一鮪に於て宇宙人生を無常流稗の旅のすがたと見るのであって︑これが芭蕉の世界観で
/あり︑この悩製観と以て自然をながめ︑人辨をとりあげてゐるのである︒從って︑奥の細道の文章は︑事焚をありの
ままに番かす︑描篇も票焚に忠誕でない個所が多いのである︒巻末に﹁蛤のふたみに別れゆく秋ぞ﹂といふ句を以て
文を結んでゐるのは︑何頭の﹁月日は百代の過客にして﹂に照膳してゐるもので︑奥の細道の大旅行は一往経ったも
のの再び次の旅が始まらうとする︑すなはち︑人の樅は旅の連縦だといふことを除情深く啼一不しながら︑この紀行文
は結ばれてゐるわけである︒荻原井永水氏は︑その﹁歩いてゐる芭蕪﹂といふエッセイの中で︑奥の細道の芭蕉は︑
パッセンジャーの心持に徹して.ぬるといふ意味のことを述べてをられるが・これは非常な卓説であって︑奥の細迩の
︑族に於ける芭蕉は︑絶患すその眼を過去に向けてゐる.のであり︑過去を現焚の上に認識するところに芭蕪の特色があ
るやうに思へるのである︒過去を現迩の上に二重蔦しするのは︑感傷主義者である︒芭蕉はすなはち感傷主義渚だっ
たわけである︒
さて︑この奥の細道に於ける芭蕪は︑そのままこれを俳諦の場合にも推しうつして老へることが出來る︒すなは
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明治の歌人伊藤上千夫は︑極度の近覗眼であった︒自然の鉄色に對しても.これを朧朧としか把捉出來なかった︒
厚しかるに︑彼には幾多の叙哉歌がある︒そのうちでも︑九十九里演を歌った歌は特に有名であるが︑たとへぱ︑
天地の四方のよりあひを垣にせる九十九里の演に王拾ひをり
といふ風に︑その蔦すところは極めて大まかな大概である︒しかも︑大自然の猟醜を主観的に捉へて︑すぐれた作品︾
を作り出してゐるQわたくしは︑いま︑芭蕉の俳句を論じながら︑ふと水千夫を聯想したのである︒左千夫と芭蕉と↑
に︑その製作態度や氣韻に於て一脈の相通するものを感じたからである︒どちらも主観的色彩が強い︒かういふ主槻.
的作品の人を動かす力の有無は︑かかってその主観の深浅大小にある︒いひかへれば︑その作品の内減する人格とか
精祁力とかがその作品の偵値を決定するのである︒芭蕉は主観詩人であ・リ︑感傷詩人であることは︑今まで襖だと述
ぺ來つたのであるが︑その主観が低劣であり︑感傷が浅浮であるならば︑吾人の心を狼く動かさないであらう︒しか
し︑芭蕉の感傷に徹した氣醜はへ生やさしいものではない︑高度の厳耐性なすら保持してゐる︒この彼の精榊力の商.
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さが︑モの作品の裏づけとなってゐる点をわれわれは兄落してはならない︒
ところで︑去來抄にかういふ文章がある︒
芭蕪の﹁荒海や﹂の句について・一○三
ち︑人生を旅だとする枇界観から生じてくる感慨的な情潴をとの作品の中に其罷的に織成していったのが︑芭蕉の俳譜だと言へると思ふのである︒11111
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芭蕪の︲﹁荒海や﹂の句について一○四 矯鼻やここにもひとり月の客去来
先師上洛の時︑去來日︑酒堂は此句を月の猿と癖し侍れど︑予は客勝りなんと申す︑いかが侍るや︒先師日︑漣
とは何事ぞ︑汝︑此伽をいかがおもひて作せるや︒去来日︑明月に山野吟歩し侍るに︑矯頭一人の騒客を見付け
たると申す︒先師日︑ここにもひとり月の客と己と名乘り出でたらんこそ幾ばくの風流ならん︑ただ自稚の句と
なすべし︒此句は我も珍重して笈の小文に書き入れけるとなん︒予が趣向は猶ほ三一尋もくだり侍りなん︒先師
ちとの意を以て見れば︑少狂者の感もあるにや︒退いて老ふるに︑自稚の伽となし見れば︑狂渚の様もうかみて︑は
じめの何の趣向にまされる事十倍せり︒誠に作者そのことろをしらざりけり︒
この文章は︑いろいろの問題を含んでゐるが︑就中︑芭蕉の制作意識がうかがはれて面白い︒すなはち︑芭蕉は︑作.
軒の意側と識者の享受と相蓮することあるべきを認めて︑作品価値は作者の意岡と遊離して識者の享受効果におかれ︲
るべきを明らかにしてゐるのである︒わたくしは︑さきに︑芭蕉は︑概念的内容を表現するに︑努めて具象的ならむ
と庶幾し︑時には事変を杠げて虚を排へることすらあると言ひ︑しかもその虚鱗が享受者側には江感的迫力を以て感〃
受せられるやうな効果をあげるやうに工夫してゐると述べたが︑さういふ芭蕉の制作意識は︑この文索の物語る如
く︑作者の意岡よりも誠者の享受効果を重んする立場に基撚をおいてゐると言ふくきであらう︒
また︑芭蕉の丈學が俳成の文學であることは︑上來述べ來つたところによって明らかであらうと思ふが︑それにつ
いても︑去來抄に次のやうな文章がある︒
先師日︑發句は物を合はす虹ぱ出来るなり︒其の能く取り合はするな上手といひ︑悪しきを下手と一云ふなり︒
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さて︑以卜一は︑芭蕉の﹁荒海や﹂の句を契機として︑彼の作品の性格と︑その制作意識とを械討してみたわけであ
るが︑上述のやうに眺めてくるといふと︑芭蕉は︑客観的存准としての自然に決して忠笈だったと唯一言へない︒時にj
は︑自己の︑王槻を以て自然を色づけし一﹂ゐる︒從って︑自画を筌しうして︑對象たる自然に素直に波入してゐるとい
ふことは出森ない︒絶えず感傷的な色眼銃で自然な槻てゐるとさ二言へるかも知れない︒もし︑芭蕪が私意をはなれ︐
.て自然に汝入してゐるといふ風に感ぜられるならば︑それは芭蕉蕊術の雄術にかかった享受者側の錯受でなければな・
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らぬ︒︲ この文から推定すれば︑芭蕉は俳句がもともと趣向をもとにした鱗成の文騨であることを十分に意識してゐたのである︒この意識の下に彼の文學が制作せられてゐるのである︒
造化にしたがひ︑造化にかへれ
と書きしるしてゐる︒そして︑これら里言葉はb私意なは︒なれて同然肥随脳することを意味してゐるのだと従来は解
ぜられ來ってゐる︒︲すると︑このことと︑今までわたくしの述べ來つたこととは︑矛爪衝突することとなる︒然ら
芭燕の﹁荒海や﹂の句について一○五
ところが︑芭蕉の言葉としても三冊子に︑松のことは松にならへ︑竹の郡は竹に智へ↑
といふことが︑しるし側へられてゐる︒また︑笈の小文雁は︑被間野が︑
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芭蕪の﹁荒海や﹂の句について・一○六
ぱ︑この矛盾衝突を如何様に解決すぺきであるか︒ここに於て︑わたくしは史に︑芭蕉の自然随順といふことについ
″てり改めて老へ直してみる必要を感ずるのであるロ今あげた三冊子や笈の小文の言葉もい果して從來解耀せられ來つ
たとほりに解して差支へないのであらうか︒これについては︑稲を改めて論じてみようと思ふ︒
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