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世界的貧困とグローバルな正義の基礎(1)

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Kyushu University Institutional Repository

世界的貧困とグローバルな正義の基礎(1)

小園, 栄作

九州大学大学院法学府 : 博士後期課程

https://doi.org/10.15017/4371024

出版情報:九大法学. 120, pp.59-116, 2021-03-09. 九大法学会 バージョン:

権利関係:

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世界的貧困とグローバルな正義の基礎(1)

小 園 栄 作

序論

第1章 世界的貧困への分配的正義アプローチ  第1節 シンガーの積極的援助義務論

  第1項 初期シンガーのラディカルな援助義務   第2項 後期シンガーの穏当な援助義務論   第3項 積極的義務論の可能性と限界  第2節 ロールズの契約論的義務   第1項 ロールズの国内的正義論   第2項 ロールズの国際的正義論   第3項 第8原理の援助義務批判

  第4項 ケイパビリティ・アプローチの観点  第3節 ミラーのナショナリズム論

  第1項 ネーションとしての責任   第2項 結果責任と救済責任

  第3項 正義のズレ (以上本号)

第2章 世界的貧困への匡正的正義アプローチ

 第1節 ポッゲの中核的主張根源的不平等と3つの不正   第1項 暴力的な歴史

  第2項 天然資源からの補償なき排除   第3項 グローバルな制度的秩序

 第2節 ポッゲのグローバルな制度的秩序の改革案   第1項 主権の垂直的分散

  第2項 国際資源特権および国際借入特権改革

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  第3項 グローバル資源配当   第4項 医薬品特許改革

 第3節 ポッゲのグローバルな正義論の批判的再検討   第1項 強いテーゼの経験的立証不足批判   第2項 証拠の優位と強いテーゼの実践的意義   第3項 人権および加害に関する概念的批判

  第4項  制度的アプローチにおける人権の射程と不正なグローバルな制 度的秩序の押し付けによる加害

  第5項 民主制基底的な改革案の実現可能性への異論   第6項 正当な資源取引の条件民主的正統性 結論

引用・参考文献一覧

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序論

本稿の主題は世界的貧困とグローバルな正義である。世界的貧困の問 題状況の悲惨さは筆舌に尽くしがたい。現在の我々の世界では、世界人 口の10%に相当する約7億3,600万人が1日1.9ドル未満で生活する極度の 貧困状態にある(そのうち半分以上がサハラ砂漠以南のアフリカで生活して いる)。また、2017年には世界人口に占める栄養失調の割合は2年連続で 上昇して10.9%に上っており、その絶対数は2016年の8億400万人から 2017年には8億2,100万人に上昇している(ここでも再びアフリカが最も高 い割合を占めており、人口の21%に相当する2億5,600万人に上る)。さらに、

2015年において、世界全体で6億6,300万人が清潔な飲料水を得ることが できず、20億近くの人々が基本的医薬品へのアクセスを有していない。

かてて加えて、1億5,200万人の子ども(世界の子どものほぼ10人に1人)

が児童労働者であり、2017年には540万人の子どもが5歳になることなく 亡くなっている。

日本を含めた豊かな社会に暮らす我々は、如上の貧困で苦しむ人々の 生活を、リアリティをもって観取できない。我々がアメリカで年間約700 ドルの生活を想像してみたところで、おそらく現実はそれより遥かに悲 惨なものだろう。それほどまでに我々と世界の貧しい人々との間の状況 は異なっている。本稿の目的は、富裕諸国の我々はこの世界的貧困問題 に対してどのように対処するべきかという問いに対してグローバルな正 義の観点から1つの解答を示すことである。とりわけ、我々は世界的貧 困に取り組む(ある特定の)義務があるということを示すことを目的とし ている。

一般的に、豊かな社会では貧しい人々に対する援助は慈善の問題とし て捉えられてきた。そして、貧困が正義の問題として惹起されるのは、

各々の生活が互いの行為と密接に結びついているがゆえに特別な義務を

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負う国内社会においてだけであると考えられてきた。しかし、近年の急 速なグローバル化の進展は国境を越えた人・モノ・サービスなどの移動 を容易にするだけでなく、そのような移動を規制するグローバルな秩序 を生みだすことによって、国境を越えた人々の新たな関係を形成してい る。このグローバル化は、国際的あるいは国内的な政治経済的制度およ び政策などを通してだけでなく、我々一人ひとりの行動を通しても互い に多大な影響を及ぼすことを可能にするために、我々がそうした国境を 越えて影響を及ぼす互いの行動を正義に基づかせることを要求している。

例えば、我々一人ひとり(とりわけ、大量の資源消費を伴う富裕諸国市民)

の消費活動は、それらの需要に応える企業の生産活動と相俟って児童労 働問題、食料問題、環境汚染、地球温暖化問題などを助長している。と りわけ、世界規模で喫緊の課題となっているのは地球温暖化問題である。

気候変動に関する政府間パネル(IPCC)が2018年10月に発表した特別報 告書によれば、現状のままの温室効果ガスの排出が続けば、2030年に産 業革命以降の世界平均気温の上昇が1.5度を超えるとされており、その場 合には極度の旱魃にさらされる人の数が1億1,430万人増えるという。こ うした問題の原因は我々一人ひとりの行動の帰結であるがゆえに、この グローバル化によって我々の運命が一体となりつつある世界で自身の行 動の仕方に責任を持たなければならなくなっている。もはや我々が現在 生きている世界は我々が他国の見知らぬ他者と政治的・経済的・社会的・

文化的・道徳的に無関係であると言える世界ではなくなっているのであ る。

第1章では、このように多種多様な面でグローバル化が浸潤する世界 で世界的貧困を正義の問題として考えるための理論的基礎を提供してい る3つの従来の立場を批判的に検討する。第一に、富裕先進諸国の我々 は大きな犠牲を払うことなく世界の貧しい人々を救済する力があるがゆ えにそうするべきであるというピーター・シンガーの積極的義務論を取 り上げる(第1節)。次に、仮想的な契約状況を想定し、それらの当事者

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が同意すると考えられる社会を統制する正義の原理を導出するという契 約論的方法論で国際社会における富裕諸国の貧困諸国に対する援助義務 を基礎づけるジョン・ロールズの議論を取り上げる(第2節)。そして最 後に、グローバル化が急速に進む現在の国際社会で今なお中心的な役割 を果たす国民国家を重視し、ナショナル・アイデンティティを共有する ネーションとしての我々が他のネーションに対して持つ責任を考察する ことによって富裕諸国の貧困諸国に対する責任を導出するデイヴィッド・

ミラーのナショナリズム論を検討する(第3節)。これらの立場はいずれ も異なる道徳的価値に基づく見解ではあるけれども、どの立場も世界的 貧困を伝統的な正義概念の分類分配的正義と匡正的正義におけ る分配的正義の領域に属する問題として捉えている。分配的正義の概念 は、端的に言えば、何らかの正義の基準(原理)にしたがってさまざまな 財の分配の正/不正を判断することに関係している。シンガーの場合は 積極的義務に基づく原理に、ロールズの場合は契約によって当事者が合 意した原理に、ミラーの場合は基本的ニーズにそれぞれ従って富裕先進 諸国から貧困諸国への地球規模の財の(再)分配を擁護しているという 点で世界的貧困問題をグローバルな分配的正義の問題として論じている。

これに対して、第2章では世界的貧困問題を正義概念のもう一方の分 類である匡正的正義の問題として論じるトマス・ポッゲの議論を検討す る(第1節および第2節)。分配的正義の文脈では事前に正義の基準に基づ く理想的な財の正しい分配状況が想定されており、我々はそのような基 準を充たすように財を分配しなければならないとされる。他方、匡正的 正義は何らかの損害によって原状が損なわれた場合にその損失を回復す ることに関わる概念である。ポッゲによれば、富裕先進諸国が貧困諸国 に対する圧倒的な交渉力の優位の下で築いている現在のグローバルな制 度的秩序は、予見可能かつ回避可能なかたちで広範に及ぶ深刻な人権の 欠損を世界の貧しい人々にもたらすがゆえに、著しく不正義である。そ して、富裕先進諸国の我々はそのような不正な制度的秩序の押し付けに

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加担することによって貧しい人々に対して危害を加えている。したがっ て、我々は貧しい人々を人権の欠損から保護することによって自身の加 害を補償する責任を負うのである。ポッゲの見解は、我々は他者に危害 を加えてはならないという消極的義務に違反して貧しい人々に危害を加 えているがゆえに世界的貧困に対する責任を負うと主張する点で、加害 者が被害者の損害を回復する(補償する)という匡正的正義の文脈で展開 されている。そして、分配的正義の文脈で展開される従来の世界的貧困 に対するアプローチは、貧困発生の原因が我々の消極的義務違反にある という加害性の観点を適切に考慮していないために分析的に誤っている という問題だけでなく、我々の世界的貧困に対する義務の履行を適切に 喚起しえないという問題をも含んでいる。なぜなら、加害の有無に関係 なく我々の世界的貧困に対する義務を主張する従来のアプローチは、消 極的義務に基づくアプローチよりも規範的拘束力が弱いからである。本 稿では、この消極的義務に基づくポッゲのアプローチを、世界的貧困に 対する我々の責任を基礎づける、より適切なアプローチとして擁護する。

そのために、ポッゲの主張の規範的、概念的、および実践的側面に関す る批判的議論を考察する(第3節)。

世界的貧困の問題はいくつかの理由で我々の眼界の範囲外にある。1 つは、先述の通り、豊かな人々と貧しい人々の状況の非対称性のゆえで ある。我々は世界人口の10%が被っている絶対的貧困の窮状がどのよう なものかを想像しえない。日本の状況を考えてみよう。我々が享受して いる食料、飲料水、住居、医療、教育、その他我々の生活に必要なあら ゆる財・サービスなどは極度の貧困状態の人々と比較にならないほど豊 かである。我々の社会ではモノが不足していることよりも、食品ロスや ファストファッションなどの問題のようにモノが溢れていることの方が 問題になる。

また、日本の場合は物質的に豊かな状況にあるというだけでなく政治 的・社会的状況の特殊さもある。新聞やニュースで頻繁に取り上げられ

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るアフリカや中東の紛争およびテロ、そしてそれらが引き起こす難民お よび移民の問題はヨーロッパやアメリカなどの他の豊かな社会において 深刻な政治および社会問題として顕在化しているのに対して日本ではま るでそのような問題はテレビや新聞のなかでしか起きない非日常的出来 事のようである。

もう1つは、そのような世界の状況に対する相対的および絶対的な政 治的・経済的・社会的豊かさと安定にもかかわらず、我々日本人が実生 活においてさまざまな政治的・経済的・社会的問題によって忙殺されて いるということである。政治的不正、経済成長、雇用、医療、介護、教 育、保育、女性差別、LGBT、子どもの貧困など我々の眼前にある逼迫 した問題の枚挙にはいとまがない。こうした問題に対処する多端な日常 生活のなかで南スーダン、イエメン、シリア、北朝鮮、ロヒンギャなど の困窮者の問題は後景に追いやられてしまう。「確かに彼らの窮状は悲惨 なものであるが、我々は我々自身の生活で手一杯である」と。こうして、

世界で恒常化している破滅的な非日常的日常が我々の日常のなかでアク チュアルな問題として意識されることは極端に少ない。テレビのニュー スや新聞でそれらの問題が紹介される順番は、まるで我々の問題への対 処の優先順位をそのまま示しているようである。世界的貧困の問題が ニュースのトップに来ることはめったにない。

我々が現に生きている社会で直面している問題が世界的貧困に比べれ ば大した問題ではないということではない。それらは確かに肝要な問題 であるし、我々の拠って立つ基盤的生活における問題を蔑ろにして自身 の生活を不安定にすれば、世界の問題に対処することもできなくなる。

しかし、我々の煩忙を極めた生活は視野狭窄の理由にはならない。なぜ なら、ポッゲのグローバルな制度的秩序という巨視的観点から世界的貧 困の問題を捉えることは、まさに我々富裕な社会の人々が世界の貧しい 人々と道徳的かつ因果的に無関係ではないということを示していると考 えられるからである。本稿の主眼はこの意味で我々にとって世界的貧困

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の問題が「対岸の火事」ではないということを示すことである。

第1章 世界的貧困への分配的正義アプローチ

第1節 シンガーの積極的援助義務論

第1項 初期シンガーのラディカルな援助義務

ピーター・シンガーは、現在の世界における一ひとかた方ならぬ貧富の格差を 目の当たりにしている我々がどのように行動しなければならないかとい う問いに、真摯にかつラディカルに、向かい合った先駆者である。今か らほぼ半世紀前の1972年にシンガーは「飢えと豊かさと道徳」という論 文の中で、当時の東ベンガル(現在のバングラデシュ)で生じていた飢饉 を取り上げながら、富裕先進諸国の我々が遠くの見知らぬ貧者に対して 援助する義務を負っていることを強く主張した。

「飢えと豊かさと道徳」におけるシンガーの行論は非常に単純明快であ る。彼はまず、「食料、住居、医療の不足による苦しみや死は悪いこと だ」という多くの人が受け容れるだろう前提から始める。次に、シンガー はこの前提と同様に異論の余地がないと思われる次の原理を提示する。

すなわち、「何か悪いことが生じるのを防ぐことができ、しかも、それと 同じくらい道徳的に重要な何かを犠牲にすることなくそうすることがで きるならば、我々は、道徳的に言って、そうするべきである」と。

彼はこの原理の適用事例として池で溺れる子どもの例を挙げている。

この例では、あなたが浅い池の側を通り過ぎようしたときに子どもが溺 れていることに気づいたならば、その子どもを助けるべきであるという ことになる。というのも、あなたは溺れている子どもを助けることによっ て服や靴が泥で汚れたり、会社に遅れたりするかもしれないが、それに よって子どもの命が助かることと比べれば、それは取るに足りないこと だからである。あなたは「それと同じくらい道徳的に重要な何か」(=自

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分の命)を犠牲にすることなく子どもを助けられる場合に、そうしない ことは間違っているのである。

我々が以上のような議論を正しいと考え、シンガーの原理を受け容れ るならば、我々は従来の道徳的概念枠組を修正しなければならないと彼 は主張する。我々の社会では、通常、貧しい人を援助するために寄付す ることは慈善行為だと考えられている。つまり、それが意味するのは、

一方で、我々が寄付をすることはよいことであり、称賛されるべきこと であるが、他方で、我々が寄付をしないからといって非難されることは ないということである。しかし、シンガーの原理を受け容れるならば、

我々は必要でないもの(外食やお洒落のための衣服など)にお金を使うの ではなく、貧しい人を援助するために寄付すべきであるということにな る。それは慈善でもなければ、「義務以上のもの(supererogation)」でも なく、我々の義務であり、我々がそうしないことは間違っているのであ る。

シンガーの慈善と義務の新たな線引きの仕方は、我々の通常の道徳的 思考に背馳しているように思われる。このことに関してシンガーは、我々 が飢餓救済のために現在よりも多くのことをすべきだという考え方を広 めることには、道徳的枠組み変更のリスクに見合うだけの価値があると 主張する。

では、シンガーの論証が正しく、彼の原理と道徳的概念枠組みの変更 を受け容れるならば、我々は貧しい人々に対してどの程度まで寄付する べきなのだろうか?シンガーの答えはこうである。すなわち、「我々は限 界効用の水準に達するまでつまり、それ以上寄付すれば、私が寄付 によって軽減しようとしている苦しみと同程度の苦しみを、私自身や私の 扶養家族に与えてしまうことになる水準に達するまで寄付すべきで ある」と。この寄付の水準に従うことによって、我々はベンガル飢饉に よって困窮している人々と同様の状況に我々自身を近づけることになる。

しかし、我々にとってこの限界効用水準までの寄付をする義務は受け入

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れがたいだろう。そこでシンガーは、彼が提示した原理の弱いバージョ ンに基づいた寄付の水準を提案する。その場合、我々は必ずしも限界効 用の水準まで寄付しなければならないということにはならないだろう。と いうのも、限界効用の水準まで生活水準を落とすことで、「何か非常に悪 いことを生み出すことになると考える人もいるだろうからである」。しか し、この原理の弱いバージョンを受け容れた場合でさえ、我々は現在の 消費生活を根本的に変化させることを要求されるとシンガーは主張する。

「今日の消費社会は人々が飢餓救済に寄付するのではなく、取るに足りな いものにお金を費やすことによって成り立っているが、我々はその消費社 会が衰退し、そして、おそらくは完全に消え去るのに十分なくらい寄付 をしなければならないだろう」と。このように、弱いバージョンとはい え、シンガーの想定する援助水準は非常に高いものである。

第2項 後期シンガーの穏当な援助義務論

「飢えと豊かさと道徳」におけるシンガーの議論は、我々の倫理的実践 に関して大風呂敷を広げているように見える。おそらく我々の大多数は、

我々が直面している貧困問題との類比として挙げられた、池で溺れてい る子どもの例において、子どもの救助を躊躇うことはないだろうが、だ からといって、遠くの見知らぬ赤貧の人々を助けるために、日常生活に おいて、道徳的に重要な何かを犠牲にして寄付するというようなことも ないだろう(限界効用水準までの寄付についてはいうまでもない)。自分自 身を貧しい人と同じ水準にまで窶すほどの寄付をすべきであるというシ ンガーの主張に対して、我々は「やり過ぎだ」と直感的に反発を覚える。

しかし、仮にシンガーのラディカルな寄付の水準に対するこの直感的 反発が妥当なものであるとしても、我々の援助義務に関するシンガーの 論証に対する十分な反論にはならない。我々は確かに貧困に関連する苦 しみや死は悪いことであると考えており、かつ富裕な社会に暮らしてい る我々自身は、「道徳的に重要な何か」(もちろん、その対象は人によって

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異なり得る)を犠牲にしたとしても、絶対的貧困の状態にある人びとと同 じ境遇に陥ることはない。それ程までに、富裕先進諸国の我々の状況と グローバルな貧者の置かれている状況は非対称的である。この状況と我々 の倫理的前提とに照らして、我々は貧困による苦痛や死を防ぐために大 きな犠牲を払うことがないならば、そうするべきだとシンガーは主張し ているのである。我々は、シンガーの寄付の水準の不合理さを理由に貧 しい人への援助義務を退けるのではなく、自身の規範論理的不整合性に 関してもっと真剣に考える必要があるだろう。

しかし、それでもやはり、シンガーの議論は我々の倫理観からあまり に乖離しているように思われる。我々はアフリカやアジアやラテン・ア メリカなどの国々では、いまなお多くの人々が我々の想像もつかないよ うな生活水準において糊口を凌いでいることを、あるいは凌ぎきれずに 夭逝していることを知っている。また、それは良くないことだと思って もいる。しかし、我々の多くは自身の豊かな生活を犠牲にしてまでそれ らの貧しい人々を助けるために寄付しようとはしない(時には、そうする こともあるかもしれないが、決して頻繁にではないだろう)。

結局のところ、シンガーの主張する倫理的実践は、シンガーのような 倫理観を持ち合わせていないと不可能なのだろうか。シンガーは功利主 義者である。功利主義においては、その古典的なバージョンの理論の嚆 矢であるベンサムが述べているように、ある行為は、その行為が行われ た結果、利益が考慮される当事者にとっての「効用(utility)」、すなわち、

「利益、便宜、快楽、善、または幸福〔これらは現在の場合、すべて同じ ことになるのであるが〕を生み出し、〔これもまた同じことになるのだ が〕危害、苦痛、害悪または不幸が起こることを防止する傾向をもつも の」を促進する場合に正しく、そのような行為をしなければならないと 考えられる。とすると、帰結主義の立場を取る功利主義者ならば(ここ では、この功利主義者は、計算の結果、それほど負担にならない額の寄付に よって貧しい人の命を救える蓋然性が十分にあると考えているものとする)、

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私が自らの豊かな生活のためにお金を使う結果として、私が援助団体に 寄付すれば救われたかもしれない誰かが、貧困で死ぬことは正しくない と考えて、慈善団体に寄付すべきだと考えるかもしれない。このような 功利主義者であれば、シンガーの限界効用水準までの寄付も正しいと考 えるかもしれない。そうだとすると、シンガーの主張はこのような功利 主義者にしか意味をなさないのではないだろうか?

この点に関して、シンガーが初めて貧困問題だけを扱った著書『あな たが救える命』における主張は、初期の主張と比べて幾分マイルドになっ ている。しかし、論証の形式自体はほとんど変わっていない。再度、確 認しておきたい。

第一の前提 食料、住居、医療の不足から苦しむことや亡くなるこ とは、悪いことである。

第二の前提 もしあなたが何か悪いことが生じるのを防ぐことがで き、しかもほぼ同じくらい重要な何かを犠牲にすることなくそうす ることができるのであれば、そのように行為しないことは間違って いる。

第三の前提 あなたは援助団体に寄付することで、食糧、住居、医 療の不足からの苦しみや死を防ぐことができ、しかも同じくらい重 要な何かを犠牲にすることもない。

結論 したがって、援助団体に寄付しなければ、あなたは間違った ことをしている。

「飢えと豊かさと道徳」の議論で見てきたように、我々の多くは、第1の 前提に反対しないであろうし、第2の前提に関しても、一般論としては 概ね受け入れられるかもしれない。では、第3の前提についてはどうだ ろうか?『あなたが救える命』の第6章で、シンガーは、「1人の命を救 う費用は200ドルから2000ドルの間だと信じるに足る理由がある」と述べ

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ている。仮に1人の命を救うのに2,000ドルかかるとしても、その金額は 前提3を揺るがすほどではないだろう。というのも、我々が2,000ドルで 得ることのできるものを犠牲にすることが、貧者の苦しみや死と同等だ と考えるのは困難だろうからである。

第1、第2、第3の前提がそれぞれ一見するともっともらしいことが 確認できた。以上のことから、我々はシンガーの主張する結論を受け容 れて、貧しい人へ寄付するべきだということになるのだろうか?また、

それが正しいとして、仮にあなたが200ドル寄付したとすれば、あなたは 道徳的に正しいことをしたといえるだろうか?「飢えと豊かさと道徳」

において既に確認したこの議論の含意を思い出してほしい。我々が200ド ル寄付しただけでは道徳的に正しいことをしたとは言えないだろう。シ ンガーはこのことを次のような例えを用いて説明する。あなたは慈善団 体に200ドル寄付したとする。あなたは自分の行いに満足してお祝いに シャンパンで一献傾けようと考える。シンガーはそこで待ったをかける。

あなたはそのシャンパンに使うお金でさらに別の人の命を救えるではな いか、と。そして、これはあなたが必要でないものに使うお金を節約し、

それらを寄付することで自分や自分の扶養家族に対して貧者の苦しみと

「同じくらい重要な何か」をもたらすようになるまで延々と繰り返され る。まるで、あと一息のところで必ず転げ落ちる大石を山頂まで押し上 げるシーシュポスの罰のようである。おそらく、永遠に繰り返すシーシュ ポスと違って、限界効用水準までという限界点があることさえ、我々に とっては福音にはならないだろう。

そこで、我々は何とかしてシンガーの援助義務を否定しようとする。

シンガーは『あなたが救える命』のなかでさまざまな援助や寄付に対す る反論に対して応答しているが、哲学的に重要な反論の1つは、道徳的 相対主義によるものである。それは、とどのつまり、すべての人に適用 可能な普遍的規範など存在しないのだから、我々は自らの信念に従って 行動すればよいというものである。すなわち、貧しい人々に対する道徳

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的義務があるかどうかという判断は、本質的に主観的・恣意的なもので しかなく、各人によってなされるしかなく、他の人によって強制できる ものではない、と。シンガーは次のように問う。猫の手を熱してその悲 鳴を聞いて楽しんでいる人を前にしても同じように言えるだろうか。「寄 付をしないことが、これらの暴力行為と同じだと言っているわけではな いが、もしある状況で道徳的相対主義を退けるのであれば、すべての状 況で退けるべきなのだ」と。

もう1つ重要な議論は、援助義務の公平な負担に関わる。この問題を 説明するためにシンガーは、池で溺れている子どもの例を次のように翻 案する。ここでは、池で溺れているのは10人の子どもで、親や保護者は いないが、あなたと同様に子ども助けることができる状況にいる大人が 他に9人いる。あなたが溺れている子どもを助けて安全な場所に移動さ せて、他の子どもはどうなっただろうかと池の方を見ると、件の9人の うち子ども助けていたのは4人だけで、他の5人はその場を立ち去って いた。あなたは、公平な負担を理由にして、残りの5人の子どもを助け ることを拒否することができるだろうか?シンガーの答えは、もちろん、

否である。「生命の危機に瀕した子どもたちの救助を手伝えるにもかかわ らず自分の公平な負担を拒む人がいることは、子どもたちの責任ではな い。こういう人たちが何らかの行為をすること、あるいはしないことに よって、私たちが容易に救いうる子どもをそのまま溺死させてしまうこ とが正しくなるわけではない」。さらに、シンガーはこう続ける。公平な 負担を主張する人は、「まるで地団駄を踏みながら『フェアじゃない!』

と言う子どものようなものだ」と。シンガーは、公平さが重要ではない と主張したいのではない。もちろん、それは重要であるが、公平な負担 を強調しすぎることには実践上問題があるのである。とりわけ、貧困問 題においては、豊かな社会で生活しているすべての人が公平に援助義務 を負担していないというのが現実なのだから。

以上、改めてシンガーの援助義務論に対する反論とそれに対する彼の

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応答をごく簡単に取り上げた。シンガーの主張における爾じ よ余の問題に関 してはここでは措いて、話を進めることにしたい。仮にシンガーのこれ までの主張が正しいとして、富裕先進諸国の我々は一体どの程度の援助 義務を負っているのだろうか?シンガーは、人々の倫理的実践に対する 意欲を削ぐことなく、また、倫理的生き方に対する諦念や疑念を生み出 すことなく、最善の効果をもたらす寄付の水準として、富裕先進諸国の

「暮らしに困らない程度の経済状態にある人々は年間所得の五%を寄付 し、富裕層にはそれ以上の額を寄付すること」を提案している。これは

「飢えと豊かさと道徳」において、シンガーが主張した内容からすれば、

不十分である。しかし、道徳律が実践されるためには、我々がこれまで の進化の過程の中で培ってきた人間本性と合致していなければならない といことを考えると、これは倫理的な生活を始める第一歩となるとシン ガーは主張する。

第3項 積極的義務論の可能性と限界

我々がなぜ見知らぬ遠くの貧しい人への義務を負っているのかという 倫理的議論を展開する上で、シンガーの基底にあるのは積極的義務の概 念である。我々と極貧の人々との間には明確な非対称性があること、我々 は彼らの苦しみをわずかな負担によって除去できることを証明すること によって、我々の援助義務を基礎づけようとするシンガーの論証は典型 的な積極的義務の形式である。積極的義務に基づく援助論は、我々には 義務があるということを、その義務履行の負担の軽さによって、まさに 文字通り積極的に認めることができる点で優れている。しかし、その義 務の履行に求められる負担が軽いか重いかというのは人々の判断に任さ れており、我々の寄付に関する現状が示しているように、それは容易に 退けられるのである。だからこそ、シンガーは寄付の水準を緩和するこ とに(彼の本心に反して)着手したのである。

このことと関連した積極的義務のもう1つの問題は、その規範的拘束

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力である。「誰かを死ぬにまかせること」と「誰かを殺すこと」との違い に関して、いみじくもシンガー自身が論じているように、それぞれの場 合に我々が負う義務の拘束力は異なる。前者において、我々が負う、「で きるだけ多くの命を救う義務」は、積極的義務に基づいて確かにあると 言えるが、それはやはりわずかな負担でできる範囲から逸脱しない限り 負うものであり、厳格な遵守が求められるわけではない。一方で、「殺す なかれ」という他者に危害を加えない消極的義務は、明らかに、前者よ り厳格な遵守を求められるのである。通常、救える人を救わなかったと 言って法律で罰することはできないだろうが、誰かに危害を加えたら法 律に基づいて罰せられるという点にこの規範的拘束力の違いが表れてい る。

以上の問題点は、積極的義務に対する一般的問題であり、シンガーの 援助義務論に特有の問題点という訳ではない。しかし、シンガーの貧困 問題へのアプローチに対する批判もある。デイヴィッド・ミラーは、シ ンガーの立場を「個人倫理的アプローチ」と標語化する。それは、「私は 個人として別の政治的共同体の人々に対して、とりわけ生命そのものが 極度に脅かされている人々に対して何をなさなければならないのかとい う問題」に関わる。ミラーによれば、このアプローチの問題点は、「他の 人々の行動をまるで関数のように扱ってしまうことである」。つまり、シ ンガーは、先進諸国の富める者が途上国の貧しき者に対する援助義務を 負っているという関係性に焦点を当てることによって、途上国の貧者を 搾取することによって私腹を肥やす当該国家の腐敗した統治エリートな どの責任を等閑に付しているという指摘である。これと関連して、個人 倫理的アプローチのより根本的な問題として、現在の悲惨な世界的貧困 が発生している原因を巨視的視点から究明していない点をミラーは批判 する。世界的貧困の発生には、人々のライフチャンス「どれくらい の自由を享受しているか、どれくらいの経済的機会を有しているか、ど の程度の健康管理を期待できるか、など」 に多大な影響を及ぼす、

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グローバルな市場や世界銀行や

IMF

などの国際機関、国際援助組織など のグローバルな諸制度が関与しているということに鑑みれば、「この問題 を個々人の道徳的義務という観点で考えることは見当はずれのように思 われる」とミラーは述べる。

積年の貧困研究の中でシンガーは、初期の積極的義務に基づく援助義 務論に比べて、徐々に我々の援助義務を多角的観点から複合的に基礎づ けようと試みており、その議論の射程は必ずしもミラーが「個人倫理的 アプローチ」と呼ぶ枠組みに絞られているわけではない。2006年にニュー ヨーク・タイムズ紙に掲載された「億万長者はどれだけ寄付をするべき かそしてあなたは?」において、シンガーはグローバルな経済制度 や国際的承認慣行が途上国の貧しい人々にとって正義に悖るものである とするポッゲの主張に言及している。また、『あなたが救える命』ではさ らに踏み込んで我々の貧しい人々への危害について、ヨーロッパの商業 漁船の例や国際企業の独裁者との資源取引の問題や地球環境問題に触れ ながら、決して我々が脛に疵を持たないわけではないことをシンガーは 指摘している。だとすれば、「貧しい人々に対する我々の義務は、単に見 知らぬ人々に援助を行う義務であるだけでなく、彼らに対して我々がも たらした、また今なおもたらしている損害を賠償する義務でもある」と。

しかしながら、最終的にこのような問題への対策として、シンガーが主 な焦点を当てるのは、やはり、個人による援助であるという点でミラー の批判は適切であるように思われる。

顔も名前も知らない、日常生活では意識することもない遠く離れた異 国の貧しい人に対して我々が負っている義務に関するシンガーの議論を、

その沿革を含めて略述してきた。それは単純明快で論争の余地がないと 思われる積極的義務に基づいた論証形式を用いる一方で、我々の道徳的 思考枠組みに対してラディカルな修正を迫る挑戦的なものであった。そ れは寄付の水準を実践的観点から緩和した後も変わらない。結局のとこ ろ、緩和された寄付の水準はシンガーにとって「よい人生を送る」ため

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の「第一歩」に過ぎず、我々はその先に進まなければならないからであ る。シンガーの主張に対する周囲の反応は毀誉褒貶(あるいは「毀貶」)の 嵐であったが、許多の批判的反応にもかかわらず、彼の主張は一定の倫 理的な魅力と説得力をそなえている。資本主義経済の下で生きる我々に とって、より多くの富を得てより豊かな生活を送ることは望ましいこと であり、よいことであるという考えは一般的であるように思えるが、シ ンガーはこのような物質的な富を追求する仕方での「よい人生」とは異 なる生き方をすべきではないかと我々に問う。それはつまり、倫理的に 正しく生きるという意味でよく生きるということである。貧困問題に関 して言えば、我々は貧しい人々を援助することによって、倫理的に正し く生きるべきではないだろうか、と。しかし、よいことをすべきである という積極的義務の倫理的高尚さに魅せられるとき、我々はその陥穽に はまっているのかもしれない。我々が直面している人類史上比倫を絶す るほど大規模な世界的貧困問題が我々に突き付けている問いは単に倫理 的に正しく生きるにはどうするべきかという問いだけでなく、次のよう な問いも含むのかもしれない。すなわち、世界的貧困を発生させている グローバルな制度に加担しない、あるいは、それによって苦しむ人々に 対して補償し、それらの正義に悖る制度を改革することで倫理的に間違っ た生き方をしないために私たちは何をすべきだろうか、と。

第2節 ロールズの契約論的義務 第1項 ロールズの国内的正義論

富裕先進諸国の我々が僅かな負担で極度の窮乏に苦しむ人々の状態を 改善することができるならば、道徳的に言って、我々はそうするべきで あり、我々がそうしないことは不正である。シンガーがこのように主張 するとき、彼は正/不正を個人の行為に関して判断している。一方、現 代正義論では、正義の主題、つまり、正義に適っている、あるいは不正 義であるという判断が下される対象は社会の政治・経済的諸制度である。

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というのも、現在の世界では、どのような社会的諸制度の下に生まれて くるかということが人々の人生に多大な影響を及ぼしており、社会制度 が人々を処遇する仕方が正義に適っているのかどうかが問われなければ ならないと考えられるからである。このように社会の諸制度を正義の主 題とする現代正義論の議論枠組みを規定したのが、アメリカの政治哲学 者ジョン・ロールズである。以下では、ロールズがどのように自身の正 義の構想を展開したのかを概観するとともに、そのなかで彼が国際的正 義の文脈で貧しい国に対する我々の義務をどのように論じたのかを見て みたい。

1971年に出版されたロールズの主著であり、現代正義論の古典となっ た『正義論』において、彼は自身が擁護する「公正としての正義」の構 想について論じている。ロールズの『正義論』における企ては、それま で倫理学において影響力をもっていた功利主義に代わる、自由かつ平等 な市民が保持すべき個人の基本的な諸権利および諸自由を擁護するとい うことである。ロールズは、人々の人生のスタートラインや暮らし向き や将来の見通しに大きな影響を与える社会の「基礎構造」を正義の主題 とし、その基礎構造が満たすべき個人の平等な基本的諸権利および諸自 由と社会的・経済的な平等からなる「正義の二原理」を導き出している。

『正義論』におけるロールズの議論は、20世紀初頭以降、メタ倫理学や道 徳的相対主義の台頭によって瀕死状態となっていた規範的政治理論を、

正義、自由と平等、権利と義務などについて合理的に論じることが可能 であることを示すことで復活させたと評されている。

欧米の倫理的伝統を長らく支配してきた功利主義に取って代わるべき、

「公正としての正義」の構想を擁護する上で、ロールズは、「ロック、ル ソー、カントに見られるような、社会契約というよく知られた理論を一 般化しかつ抽象度を一段と高め」るという理路を用いている。17世紀か ら18世紀にかけて、トマス・ホッブズ、ジョン・ロック、ジャン=ジャッ ク・ルソーなど多士済々たる思想家によって展開された社会契約論が答

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えようとしている問いは、政治社会や国家の正当化根拠は何かというも のである。この問いへの応答として、一般的に、伝統的な社会契約説は、

(政治社会ないし国家以前の)自然状態を規定し、そこで人々が生得的に有 している自然権(自己の身体・財産・生命への権利など)の侵害が横行する ことから、それら権利をより有効に保障するために社会ないし国家形成 の必要性が高まり、人々が社会契約を結ぶようになると説明する。

ロールズは以上のような社会契約説の論理構造やそれを構成する諸観 念を借用することによって、一定の正義の原理の導出や正当化問題に答 えようとする。しかし重要な相違は、古典的な社会契約論の自然状態に おける合意が「特定の社会に入るためのもの、もしくは特定の統治形態 を設立するためのもの」であるのに対して、公正としての正義では、「社 会の基礎構造に関わる正義の諸原理こそが原初的な合意の対象となる」

という点である。

ロールズは、まず、社会を他の社会から独立した自己充足的で、「相互 の相対的利益を目指す、協働の冒険的企て」と見なすことから議論を始 める。そして、正義の役割は、社会的協働によって生じた相対的利益(や 負担)の分配を適切に行うための基準であると述べる。公正としての正 義の構想は、この基準となる原理を導出するための社会契約説の一種で ある。

公正としての正義において、伝統的な社会契約論における自然状態に 対応するのが「原初状態」である。伝統的な社会契約論者は自然状態を 実際的なものあるいは仮説的なものとして措定したが、ロールズの「原 初状態」は「純粋に仮説的な状況」である。原初状態の重要な特徴とし て、以下のことが挙げられる。原初状態において基礎構造を統制する正 義原理を定式化する契約当事者たち(=「自分自身の諸目的を有しかつ(さ らなる想定として)正義の感覚を発揮できる合理的な存在者」としての道徳的 人格)は、「誰も社会における自分の境遇、階級上の地位や社会的身分に ついて知らないばかりでなく、もって生まれた資産や能力、知性、体力

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その他の分配・分布においてどれほどの運・不運を被っているかについ ても知らないというものがある。さらに、契約当事者たち(parties)は各 人の善の構想やおのおのに特有の心理的な性向も知らない」ということ である。ロールズは、このような自己に関する情報の一切を遮断する制 約のことを「無知のヴェール」と呼ぶ。これによって、「諸原理を選択す るにあたって、自然本性的な偶然性や社会情況による偶然性の違いが結 果的にある人を有利にしたり不利にしたりすることがなくなる」。無知の ヴェールによる情報遮断によって、自分自身や自身の贔屓する集団の利 益から離れた不偏的な観点から原初状態における交渉を可能とすること で合意の公正さを担保し、誰にとっても公正な正義の原理を導き出すこ とが可能になるとロールズは主張する。

ロールズは、無知のヴェールに覆われた契約当事者たちが、原初状態 で選択する原理として、次の2つを提示する。

第一原理 各人は、平等な基本的諸自由の最も広範な全システムに 対する対等な権利を保持するべきである。ただし最も広範な全シス テムといっても〔無制限なものではなく〕すべての人の自由の同様

〔に広範な〕体系と両立可能なものでなければならない。

第二原理 社会的・経済的不平等は、次の二条件を充たすように編 成されなければならない。(a)そうした不平等が各人の、正義にか なった貯蓄原理と首尾一貫しつつ、最も不遇な人びとの最大の便益 に資するように。(b)公正な機会均等の諸条件のもとで、全員に開 かれている職務と地位に付帯する〔ものだけに不平等がとどまる〕

ように。

原初状態で選択される、これら「正義の二原理」が社会の「基礎構造」、

即ち、社会において基本的な権利や義務、社会的協働が生み出した相対

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的利益の分配を決定する主要な社会的制度(「思想の自由や良心の自由を法 律で保護すること、競争的な市場、生産手段の私的所有、一夫一婦制の家族」

など)を統制し、人々を公正・公平・平等に扱うことを要求する。そし て、第二原理は、「社会的・経済的不平等(たとえば富や職務権限の不平 等)が正義にかなうのは、それらの不平等が結果として全員の便益(と りわけ、社会で最も不遇な〔=相対的利益の取り分が最も少ない〕人々の便 益)を補正する場合に限られる、と主張する」。

社会の権利や義務および社会的協働の利益の分配方式を決定する、こ の正義の二原理に従って分配される対象としてロールズが用いるのが「基 本財」である。基本財とは、「合理的な人間が他に何を欲していようと も、必ず欲するだろうと想定されるもの」であり、「個人の合理的な〔人 生〕計画がどのようなものであるかに関わりなく、その持分が少ないよ りも多いほうを選好されるものがいくつか存在すると想定される」。社会 が意のままに配置することができる主要な社会的基本財の対象には、「権 利、自由、機会および所得と富」などが含まれている。

以上のような概念的諸装置を用いて、ロールズは自らの公正としての 正義の構想を展開した。この正義の構想の目的は、先に述べた通り、功 利主義に代わる正義の構想を打ち出すことにあった。功利主義にとって の正義の基準とは、いわゆる、最大多数の最大幸福原理(「功利性の原理」)

である。確かに功利主義は、この原理の下で、利害関係者一人ひとりの 幸福をそれが程度において等しければ平等に尊重しなければな らないという意味で各人を等しく扱うが、その一方でこの原理は、社会 全体の幸福という大義名分の名の下に個人の権利や自由を侵害すること を要求するかもしれないという危険性を孕んでいる。これに対してロー ルズは、「すべての人びとは正義に基づいた〈不可侵なるもの〉を所持し ており、社会全体の福祉〔の実現という口実〕を持ち出したとしても、

これを蹂躙することはできない」と主張した。つまり、全体の幸福、あ るいは社会の大多数の人々の利益に藉しゃこう口して、少数の人々に犠牲を強い

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るようなことは正義に適った社会ではあってはならないのである。ロー ルズ曰く、「他者の権利を剥奪することで得られる快楽は、それ自体で不 正である」。彼が、公正としての正義の構想のなかで示した正義の二原理 が保障する諸自由は、まさにこの意味で不可侵なるものであり、正義に 適った社会における「〈対等な市民としての暮らし〉(equal citizenship)を 構成」するものなのである。

このようにロールズは、現代正義論における正義の役割を、権利と義 務および社会的協働によって生み出される相対的利益を分配する上で重 要な役割を果たす基礎構造を律することとして位置付け、正義に適った 社会において、すべての人が「不可侵なるもの」、つまり基本的な諸権利 および諸自由を保障されるべきであることを力強く主張した。しかしな がら、『正義論』における正義の射程は、まさにそれが社会的協働の存在 する社会の基礎構造に焦点を当てていることから窺えるように、もっぱ ら特定の(リベラルな立憲民主主義制の)国内的正義についてであり、諸 国家間の正義についてはその射程範囲外に置かれている。とはいえ、諸 国家間における国際的正義について全く触れられていないというわけで はない。『正義論』の第58節では、国内では既に正義原理が適用されてい るという想定の下、当該諸国民を代表する当事者が国際的な原初状態に 一堂に会し、国内の場合と同様に無知のヴェールに覆われた公正な契約 状態で、諸国家間の権利要求を裁定する基本的原理を選択するという仕 方で公正としての正義の議論を「〈諸国民の法〉(the law of nations)」へ拡 張している。ロールズによれば、諸国民の法において選択される原理は、

他国からの内政不干渉および自国の事柄に関する自決権、専守防衛のた めの集団的自衛権への参加も含む自衛権、およびそのような権利に拘束 力を持たせるための条約の保持などを含む、「国家としてまとまった自主 独立の民衆(人民)は一定の基本的で平等な権利を有する」という平等 原理である。

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第2項 ロールズの国際的正義論

『正義論』における「諸国民の法」の議論は、国際社会における権利お よび義務や社会的協働の利益の分配に関する国際的正義について論じる ためというよりは、反戦や戦時下における徴兵に対する良心的拒否を、

契約論的な観点から(宗教およびその他の観念に依拠することなく)政治的 原理として論じられることを示しながら、正当化するためであった。そ のため、ロールズが国際的正義論をより一般的に展開したのは、1993年 にオックスフォード・アムネスティ・レクチャーズにおいて「万民の法」

(「諸人民の法」とも)という講演を行って以降である。1980年代末以降、

ロールズが発展させようとしてきたこの「諸人民の法(The law of peoples)」 の構想は、さまざまな加筆修正がなされながら、最終的に1999年に『万 民法』として出版された。

諸人民の法とは、「国際法と国際慣習の諸原理や諸規範に適用される、正 しさ(right)と正義(justice)に関する特定の政治的構想のことである」。そ して、この構想の理念は、ロールズが「現実主義的ユートピア」と呼ぶも のである。すなわち、「現実の政治的可能性の限界」諸国家間には相 対立する異なる正義が存在し、パワーゲームが支配する国際社会において 我々が望みうるのは各国間の利益の調和や平和に関する暫定協定のみであ るという現実主義的限界を拡張することによって、世界に存在するさ まざまな形態の国内諸社会が、相当程度に正義に適った立憲民主制の社会 としての条件を具備し、そのような社会であれば選択すると考えられる正 義の政治的原理を遵守することによって平和と正義を達成する「諸人民の 社会(Society of Peoples)」(ロールズが描く現実主義的ユートピアとしての国際 社会)を形成することである。

ロールズによれば、我々がこのような現実主義的ユートピアを目指す 動機は、戦争、ジェノサイドおよび貧困などの人類史上の巨悪は政治的 不正義から生じており、こうした正義に適った諸人民の社会を設立する ことによって政治的不正義を廃絶することでそうした巨悪をも無くすこ

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とができるという考えによる。そして、ここで言う政治的正義の観念は ロールズが「政治的リベラリズム」と呼ぶものから展開されている。政 治的リベラリズムとは、相当程度に正義に適った諸人民の社会は、道理 に適った多様な宗教的、道徳的あるいは哲学的な包括的教説が存在して いるという「穏当な多元性の事実」によって特徴づけられており、その ような多種多様な包括的教説を有する人民(あるいは市民)が互いを自由 で平等な存在として尊重し、諸人民の社会において社会的協働を築くた めに「根本的な政治的正義の諸問題」(憲法の必須事項および社会の基礎構 造の正義の問題)を考える際には、特定の包括的教説ではなく、道理に 適った合理的な他の存在者も受け入れるだろうと考えられる公共的理由

(理性)基づいて議論がなされなければならないということである。その ような道理に適った政治的正義の構想が、特定の包括的構想を有する自 身と他の存在者とが自らの構想を互いの自由を侵害することなく追求す るための公共的基盤となる(『正義論』で展開した公正としての正義の構想 がまさにこのような道理に適った政治的正義の構想の1つであるとしている)。 諸人民の社会では、「人々が有する諸々の包括的教説を無知のヴェールの 背後に置くことで、穏当な多元性の事実を特徴とする社会において重な り合うコンセンサスの焦点となり得る、またそれにより、正当化の公共 的基盤として役立ち得る、そうした正義の政治的構想を見つけ出すこと ができるのである」。

『諸人民の法』におけるロールズの国際的正義論は、「理想理論」と「非 理想理論」との2部から成る。まずロールズは、国内社会の種類を5つ に分類する。すなわち、「道理をわきまえたリベラルな諸国の人民」、「良 識ある諸国の人民」、「無法国家」、「不利な条件の重荷に苦しむ社会」、お よび「仁愛的絶対主義」である。理想理論の目的は、リベラルな人民と 良識ある人民が相当程度に正義に適った立憲民主制社会の条件を充たし ており、したがって、それらの人民から成る諸人民の社会が現実主義的 ユートピアであることを示すことである。理想理論では、第1段階にお

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いて国内で既にリベラルな正義原理を契約論的観念から導出している社 会を代表する当事者(リベラルな人民)が、国際的な原初状態で、同様に リベラルな社会の人民とともに諸人民の社会を嚮導する正義原理を選択 する過程が描かれる。そして、理想理論の第2段階において、リベラル ではないが良識ある諸国の人民がリベラルな諸国の人民によって諸人民 の社会に受け入れられること、および、良識ある諸国の人民が第1段階 で選択された原理に合意し、それらを受容・遵守するはずであるという ことが示される。非理想理論では、諸人民の社会に参加するには適格で はないと判断される2つの社会、すなわち、無法国家および重荷に苦し む社会に対して、「秩序だった諸国の人民(well-ordered peoples)」(すなわ ち、リベラルな人民と良識ある人民)が為しうる正当な対処、およびそれ らの社会が諸人民の社会に参加するのに必要な相当程度に正義に適った 制度を創設するために秩序だった諸国の人民が負っている義務に関して 扱っている。

ロールズはリベラルな諸人民と良識ある階層制社会の人民からなる諸 人民の社会で選択される国際的正義原理は、国際法においても常識となっ ている原理内政不干渉、条約の遵守、および自衛権と戦争における 正義などを中心に構成されており、『正義論』で示された正義の二 原理と比べると見劣りするように思える。実際に、先に述べた通り、諸 人民の法においては、(「諸国民の法」において諸国家が選択すると考えられ たのと同じように)各国人民間での平等原則が志向されており、秩序だっ た諸国が正義の共通善的観念を実現していれば差し当たり問題はなく、

平等な基本的諸権利および諸自由および社会的・経済的平等の実現は国 内社会の正義の問題であるとされている。

諸人民の社会を規律するこの8つの原理のうち第5原理、第7原理お よび第8原理は、秩序だった諸国の人民が、諸人民の社会の構成員とし て適切な条件を充たしていない社会、つまり、自由で平等な市民たちと 社会的協働の営為に励むための公正な条件を備えていないという意味で

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道理に適っておらず、対外的に好戦的であったり、対内的に全人民に人 権を保障するなどの正義の共通善的観念を実現したりしていないという 意味で良識があるともいえない社会に対処する際に指針となる原理であ る。ロールズは、『諸人民の法』の非理想理論において、そのような社会 として無法国家および重荷に苦しむ社会を挙げて、秩序だった諸国の人 民のそれらの社会に対する正当な外交政策について論じている。

非理想理論の第1段階は非遵守理論と呼ばれる。この非遵守理論では、

他の国々に対して合理的な自国の利益追及のために侵略的態度を取る無 法国家に対して、秩序だった諸国の人民が、いかなる外交的態度を取る べきかという議論がなされる。

非理想理論の第2段階は、不利な条件のために重荷に苦しむ社会に関 するものである。重荷に苦しむ社会は、第1段階で論じられた無法国家 のように他の国々に対して合理的な自国の利益追及のために侵略的態度 を取るわけではない。それにもかかわらず、この社会が諸人民の社会の 正式な構成員として認められないのは、「秩序だった社会をつくるために 必要となる政治的・文化的伝統、人的資源とノウハウ、そして多くの場 合、物質的・技術的資源を欠いている」からである。そのため、秩序だっ た諸国の人民は、将来的にこの重荷に苦しむ社会が諸人民の社会に加わ ることが可能となることを目標に据えた外交的措置を講じなければなら ない。その際に秩序だった諸国の人民は、諸人民の法の第8原理に基づ いて重荷に苦しむ社会への援助義務を履行することになるが、この第8 原理に基づく援助義務は具体的に秩序だった諸国の人民に対するどのよ うな行動指針として機能するのだろうか?

ロールズは、ここでの援助義務が何らかの分配的正義原理例えば、

格差原理などに基づいたものでなければならないとは考えていない。

というのも、通常はこのような分配的正義原理には「援助終了の目安と なる明確な達成目標、目的、終止点」が存在しないが、諸人民の法の理 念は相当程度正義に適った社会から成る諸人民の社会における平和と正

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義の実現であって、重荷に苦しむ社会がそのような条件を充たすことが できる程度の援助で十分だからである。そして、ロールズは、不利な条 件の重荷に苦しむ社会が困窮している原因に関して次のように述べる。

すなわち、「ある国の人民に富がもたらされる要因、そしてその富がとる 形態は、その国の政治文化、および、政治的・社会的諸制度の基本構造 を支える宗教的・哲学的・道徳的伝統、加えて、その国の構成員の勤勉 さや協働的才能によって変わるものであり、また、これら全てが、その 人民が持つ数々の政治的徳性によって支えられているのである」と。つ まり、国家の経済状態のよさを規定するのは、第一義的に当該国家の適 切な政治文化および人口政策などであって、当該国家の保有する天然資 源の種類および量ではない。このように主張する際にロールズは、資源 が乏しい日本が経済的に大きな成功を収めているという歴史的事例や、

ある国の貧弱な政治的・社会的構造の欠陥および食料生産の減少に対す る適切な政策の失敗に飢饉の原因があるとするアマルティア・センの研 究に言及している。したがって、第8原理に基づく援助義務の達成目標 は、「重荷に苦しむ社会が自分たちの抱える問題を道理に適った社会の一 員となることができるよう、その手助けをすること」であり、それが達 成できた時点で、援助を打ち切ることは、「重荷に苦しめられてきた社会 に、自由と平等とをもたらすこと」という最終目的と両立するとロール ズは論じている。

以上のように『諸人民の法』では、それ自体は決してリベラルではな いが、相当程度に正義に適った社会から成る諸人民の社会がいかにして 可能となるのかを、ロールズは描こうとした。そのためにロールズは、

『正義論』で用いた契約論的概念装置を国際的な文脈で再構成し、諸人民 の社会において道理に適っているさまざまな宗教的・哲学的・道徳的な 包括的教説を抱懐する(という穏当な多元性の事実の下で)諸社会の人民 の自由と平等を保障すること、およびそれらの社会内部で各々の正義構 想を発展させるための正義原理を正当化しようと試みている。我々の社

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会的世界には確かに多種多様な価値が存在している。各国が各々の善の 構想を追求することが可能であることそれ自体は好ましいことであると 考えられるのと同時に、それは多元的価値を有する我々が協働によって 為しうることに対する軛ともなる。しかし、諸人民の社会における単な る暫定協定ではない恒久的な平和と正義を実現することは、我々が現に 生きている現実の諸条件を拡張することによって可能となる現実主義的 ユートピアなのである。ロールズ曰く、「可能なるものの限界は現実的な るものによっては与えられない」のであり、「我々は推量と憶測を頼りと して、たとえ現在は無理であっても、より幸福な諸条件に恵まれた未来 のいつの日か、思い描かれた社会的世界が実現可能となり現実に存在す ることになるかもしれないということを、可能な限り論証しなければな らないのである」。

第3項 第8原理の援助義務批判

ロールズが描いた「諸人民の法」としての国際正義の構想は、リベラ ルな社会が、良識ある社会、重荷に苦しむ社会および無法国家などの非 リベラルな社会とともに相当程度に正義に適った諸人民の社会を実現す るために、現実的条件を多分に考慮に入れているがゆえに、我々がその ような条件を改善することによってそこから漸進的に到達することが可 能なユートピアを描くことができるという点で政治的実行可能性が担保 されるという魅力がある。穏当な多元性の事実の下で各国が抱く幾多の 包括的教説を括弧に入れ、そのような包括的教説を有する諸国家間の公 共的正当性基盤としての政治的正義の構想を描くことは、国際社会にお ける平和と正義の実現に向けた重要な一歩となるだろう。しかしながら、

ロールズが諸人民の法という現実主義的ユートピアを描く理路における いくつかの想定に対しては様々な厳しい批判の目が向けられている。こ こでは、世界的貧困問題と関連するロールズの国際的正義構想における 問題点に焦点を当ててみていくことにする。

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参照

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