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Industrializaiton and Development ofEnvironmental Legislation in Prussia during theSecond Half of the Nineteenth Century : ATrigger for Activation of EnvironmentalMovements

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

Industrializaiton and Development of

Environmental Legislation in Prussia during the Second Half of the Nineteenth Century : A

Trigger for Activation of Environmental Movements

田北, 廣道

九州大学大学院経済学研究院 国際経済経営部門 : 教授

https://doi.org/10.15017/10594

出版情報:經濟學研究. 72 (5/6), pp.19-63, 2006-05-30. Society of Political Economy, Kyushu University

バージョン:

権利関係:

(2)

一住民運動活性化の引き金一

北 廣 道

はじめに

 1995年『新ドイツ史』叢書の一巻として19世 紀を担当したW.ジーマンは、「自然とのつき合 い=エコ革命」と題する1節を設け、この時期 のドイツ社会経済の特徴づけに関して再定義を 試みている。すなわち、この時代を産業革命・

市民革命の「二重革命」によって彩られる近代 化の画期と理解するだけでは飽きたらず、「人 間と4つの基本的な環境媒体、つまり森林、土 壌、大気、水とのつき合い方に生じた根本的な 変化」を加味しつつ、今日の環境危機の史的起 点ともみなせる葛藤に満ちた時代相を描写しよ うというのである(Siemann,1995,pp.131−148:

田北,2004b))。また、 G.バイエールは、「大工業 への序曲」と題する1994年論文において、ドイ ツの工業化を特徴づける後発性と、その始動後 の発展の急速さとの説明に当たり、人間・自然 関係の変化を象徴する「自然の資源化」を焦点 に据え、「社会全体の産業化」の視点から接近し ている。換言すれば、これまで西欧の近代市民 社会の成立にとって決定的要因に掲げられてき た、市民革命、産業革命、効率的な行政・官僚 組織、社会的規律化、および科学の専門化に、

「成長思想の漸次的浸透」を含意する「自然の 資源化」を付け加えて再解釈を施している

(Bayer1,1994)1)。本稿も、19世紀後半プロイ

センにおいて進行する「環境立法」の整備に着 目し、それと鉄鋼・化学工業を軸にした工業化 の加速化、あるいはそれと並行して活発化した 環境運動との関係を問うことで、「大工業の序 曲」の一端を明らかにすることを狙いとしてい る2)。環境史研究の開拓者の1.ミークは、1869年

「北ドイツ連邦の営業条例」を「近代的な公害保 全立法の出発点」(Mieck,1967,p.38)に位置づけ ているが、この「営業条例」の継承者である第二 帝政期ドイツは1970年代に匹敵するほど活発な 環境運動を経験したことが知られており、人間・

自然関係の根底的変化の進展があったことを窺 わせているからである(BrUggemeier1 Toyka−

Seid,1995,p.17)。

 ところで、筆者は別の機会に、19世紀〜20世 紀初頭ドイツにおける環境行政の辿る変化を追 跡し、19世紀中葉を分水嶺にして特徴を異にす る2局面を区分できるとする、仮説を提示した ことがある(田北,2004a:表1・1を参照)。本 論は、その仮説検証という位置も占めるので、

1)18世紀末〜19世紀後半ドイツにおける化石燃料へ  の転換の推進力をめぐって闘わされている、いわゆ  る「木材不足」論争に占めるバイエールの地位と学  説については、田北,2003,pp.47−48を参照せよ。

2)プロイセン環境立法史については、1845年「一般  営業条例」の成立史を始め重厚な研究の蓄積があ  り、本稿も、Mieck,1967,1980,1989:BrUggemeier,

 1996,pp.95−132:Henneking,1994,pp.67・111などの先 行研究に多くを負っている。

19一

(3)

       経済学研究 第72巻第5・6合併号

以下の論述の理解にとって必要最小限の範囲   論文、「環境史一歴史的な基礎範疇」は、歴史 で、その概要を説明しておきたい。       研究において環境が経済、政治・支配および文  まず、方法的には現代環境政策論との対話か   化と並んで、その4大基礎範疇の一角を占める

ら得られた、政策に関係する主体、とくに「政   に至ったことを確認し、環境史の学的確立につ 府・企業・市民(住民)」の配置に注目しつつ、. いて論じている。そこで注目したいのは、環境 接近する方法を継承した。それは、「進歩・成   と政治・支配に関わる文脈で提示される、環境 長」概念に囚われずに歴史像の再構成を目指   媒体(大気、水、土壌、森林〉と権力構造や環 す、環境史の特徴を活かす趣旨からしても好適   境保全策の始動などの問題が、「市民、行政、官

と考えられるからである3)。しかし、このよう   僚、産業の4利害の織りなす関係」の観点から な方法に注目しているのは、筆者ひとりにとど   再検討されるべきだとする主張である。「それ まらない。ドイツ学界では21世紀に入って環境   ら4者は、善玉・悪玉の黒白図式に従って行動 史研究がますます盛んになってきているが、最   しているわけではない」と述べられているよう 近の到達点を代表している業績からも類似の方   に、「企業家は、環境よりいつも利益を優先し、

法的提言を読みとれるからである。以下、近業   行政と官僚は、つねに企業の味方であり、それ 2点だけを紹介しておこう(表1−2を参照)。   ゆえ環境立法には、かならず抜け穴がある」と  ジーマンとN.フライタークの2003年の共同   いった、いわば経済還元主義的な先入観に囚わ

      表1−1;19−20世紀初頭ドイツにおける環境政策の主体配置

①19世紀前半

      く国〉(営業認可権=公法)   →    〈企業〉

       く市民〉

  (隣人権=健康・財産の侵害に異議申し立て、私法・公法の絡み合い)

②19世紀後半〜20世紀初頭(過渡期)

      〈国〉(事前認可制・民法=公法) →   〈企業〉

        てミ、      ,

       〈市民〉

     (隣i人権の名残:事前認可制の異議申し立て権の行使)

③20世紀初頭(確立期)

      〈国〉(事前認可制・民法=公法) →   〈企業〉

      (「その場所では当たり前の汚染水準」原則)

       〈市民〉

     (事後的な損害賠償請求権:それも次第に困難化)

[典拠]筆者が作成。矢印は影響の方向。(実線は法的裏付けが強固、波線は脆弱)。

(4)

表1−2 ドイツ学界における主要な研究集会・研究業績の一覧(下線は学会の対応)

1972ローマクラブ『成長の限界』

1978Zorn→アメリカ合衆国の環境史研究に触発、利益追求活動による環境破壊の史的概観 1979趣→西南ドイツ都市史研究グループ『歴史の転換における都市の供給と排出』

1981Troitzsch→ドイツ技術者協会『歴史における技術と環境』

1醜1Kellenl enz→ドィッ経濟社会史学会f経済発展と環境への影響∫

1982Sieferle『地下の森:エネルギー危機と産業革命』

1983Radkau「18世紀の木材不足と危機意識」

1986LUbbe1Stroker→『文化変容における生態系(エコ)問題』学際研究の隆盛

1988迦→ベルン大学のCh.P飴terを中心に「歴史的環境研究のためのヨーロッパ連合」を創設 1990Brimblecombe1Pfister→『沈黙のカウントダウン』(1988年最初の国際的な学際集会)

ユ991団→ドイツ企業史学会の講i演会『19世紀以降の産業と環境の関係』

1992Abelshauser→社会政策学会「科学と政策の問題としての環境にやさしい経済」

1992Br負ggemeier1Rommelspacher『ルール地方上空の青空』(ヴェストファーレン史に「環境」の章)

1993Mieck→「1650・1850ヨーロッパ経済・社会」の1節に「環境としての空間」を置く 1994Abelshauser→「歴史と社会」学会、『環境史。歴史的展望からの環境に優しい経済』

1995BrUggemeier1Toyka−Seid→『産業と自然。19世紀環境史読本』史料集 1996Radkau→「技術と環境」、 Ambrosisus『近代経済史』の一章に編成

1996Henning→『ドイツ経済社会史便覧』の「工業化の第一局面」で手工業汚染に言及 1996BrUggemeier→『無限の海、大気。19世紀の大気汚染、工業化及び危機論議』

1997Schott→『欧州におけるエネルギーと都市』(96年第3回国際都市史会議)

1998Hahn→『産業革命(ドイツ史百科事典49)』「環境史と進歩パラダイムへの批判」の節 1998Bayer11Troitzsch→『古代から現代に至る環境史関係の史料集』

2000Bernhardt→『19−20世紀欧州都市における環境問題』(98年第4回国際都市史会議)

2000一→『環境史における新展開』第19回国際歴史学会の個別テーマ

2000Radkau→『自然と暴力』(エコシステム論者と構成主義者の方法的和解)

2001圭L会経渣史堂会(第70回大会)共通論題「環境経済史への挑戦:森林・開発・市場」

2003土A経。 愚A}『社会経済史学の課題と展望』(第2編「環境史からの接近」)

2003Siemann→『環境史:課題と展望』(2002年置ュンヘン大学夏期セミナー)

2003旦幽→『環境史と環;境運動の歴史(「社会史雑誌」の特集号)』

[典拠】筆者が作成

れた解釈は、慎まねばならないのである(Sie−

mann/Freytag,2003,p.16)4)。

3)環境史家の中にも、意識してのことか否かは別と  して、「伝統社会vs近代社会」の段階論的構図に囚  われているケースが、まま見受けられる(Bragge−

 meier l Toyka−Seid,1995,pp.19・34:Gilhaus,2003)。

 政治学や社会学の分野でも、政策効果を「法規制か  経済手段か」という手段選択の問題に還元せずに、

 政策立案・決定・監視のあらゆる過程での市民参画  の意義を指摘する見解が、広く受容されるように  なってきている(田北,2004の第5章を参照)。

 また、F.J.ブリュッゲマイアーは、「環境史と 環境運動の歴史」を扱った『社会史雑誌』の2003 年特集号の巻頭を飾る論文において、環境史研 究の活性化と「歴史科学におけるその周縁的扱 い」という葛藤に満ちた現況を打破するため に、現代の環境危機を意識しつつ研究動向の集 約を試みる。そのなかで、19世紀ドイツ林業に 起源を持つ「持続可能性」概念の環境史研究に とっての可能性と限界を論ずる文脈で、次の興 一21

(5)

経済学研究 第72巻第5・6合併号

味ある指摘を行っている。「長い間支配的で あった主導概念(成長・進歩)は、その説得力 を大きく失ったが、説得力ある代替概念は、ま だ見いだされてはいない。持続可能性の概念 が、その役割を引き受けることができるやも知 れないが、そのためにはいくつかの根本的で精 緻:な方向付けが行われねばならない」(Br廿gge−

meier,2003,p.15)。産業社会を考察する主導概 念として「持続可能性」の安易な転用を戒めて はいるが、同時に「成長・進歩」概念に代わる 豊かな可能性にも言及している。その最大の批 判のターゲットが、経済還元主義的な社会・政 治闘争論であり、その担い手の既成政党に対し ては「死滅しようとしている産業時代の恐竜」

あるいは「政府のなかの博:物館」とまで、厳し い表現が与えられている。したがって、「持続 可能性」は、次の引用に明らかなように、主体 間の関係を分野横断的に、しかも対立・協調の 双方を視野に納めながら再構成する上で手がか りとなるというのだ。「心性、技術、制度、大 衆、政治、利害集団、科学の相互作用と、近代 産業社会にとって建設的な一つの複合体を取り

上げる良い機会となる」(op cit.,p.11)。

4)Brimblecombe l Bowler,1990は、19世紀後半ヨー  クにおいて大気汚染対策の主流が、精錬施設に「使  用されている最良の実践方法」の採用を義務づける  技術的な対応にあることを述べ、同時にその限界  を、規制対象となる煙の色の識別問題にも触れつつ  指摘している。しかし、工場監督官制度が改正さ  れ、「公衆衛生法」も制定された1870年代は、前後  の時期と比べ係争数は大きく減少しており、企業  家・監督官による真剣な対応ぶりをうかがわせてい  る。また、1863年イギリスの化学産業は「アルカリ  法」の制定に対して、規定された塩酸蒸気の濃縮要  求値95%を上回る98.7%の実績を上げたことが知ら  れている(Henneking,1994,p.99)。企業は誠実に取  り組んだのである。どのような状況下で、どのよう  な業種で「各主体」は環境立法の遵守に向けて協力  しつつ努力し、他方、どのような状況下で、どう  いった契機から足並みの乱れが生ずるのか、が問わ  れねばなるまい。

 この政策に関係する「主体配置」に着目した方 法を使って19−20世紀初頭ドイツの環境行政の足 跡を振り返るとき、19世紀半ばを境にして市民 の行使する影響力の低下と、20世紀初頭におけ る「政府の法的手段による企業規制」という2主 体構図への一種の逆転現象とを読み取れる。そ れが、表1−1に表現されるところの筆者の仮説 であった。この仮説は、ルール工業地域に関し て優れた業績を多数発表しているブリュッゲマ イアーらの所説を下敷きに組み立てられている

(Braggemeier1Ro:nmelspacher,1992:BrUgge.

meier,1996)5)。その要点は、次の通りである。

19世紀前半の初期工業化期に住民たちは、基本 的生活権と密接に関わる「隣i人権」一財産・健 康被害の予想される営業開設に先行する事前協 議権と、被害発生時の営業停止の要求権とを留 保する一を拠り所にして、政府・企業家双方に 多様な経路を通じて強い影響を行使していた。

しかし、1845年プロイセン「一般営業条例」の なかに「周辺住民に大きな不利益・危険・迷惑 を及ぼす可能性のある」業種を対象とした認可 制度が導入されて、住民のもつ営業認可への共 同決定権が制限されてから抵抗の主眼は、発生 した被害に関する事後的な損害賠償請求権(私 法)に限定されるようになってくる。その後、

1875年「民法典」に損害賠償請求のための因果 関係の論証義務が原告に課され、しかも本格的

5)B.オルマーに従えば、過去四半世紀におけるルー  ル工業地域を対象とした環境史研究の活性化にもか  かわらず課題は山積するという (01mer,1998,pp.13−

 14)。西欧有数の鉱山・工業地域として短期間内に 都市化を達成して環境問題・住民運動関係の史料は  膨大な量が伝来するが、政治的な分断(2つの州と

 3つの行政区域)もあって、包括的な業績は  Br廿ggemeier1Rommelspacher l992に限られてい  る。したがって、ルール地方の環境史は、両者の業 績が出発点となる(BrUggemeier,1988,1990,1990a,

 1991,1992,1993,1994)。

(6)

な工業化の進展と産業都市の急成長のなかで、

その論証も容易なものではなくなってくる。第 一次世界大戦頃には「その場では当たり前のこ ととして甘受すべき汚染(騒音)水準」なる原 則も確立して、産業都市・工業地帯の居住者の『

間に「汚染も繁栄の礼服」と受け止める諦念が 広がり、第二帝政期を特徴づけていた活発な環 境闘争も下火となった。

 ただ、筆者はブリュッゲマイアーの所説に追 随したからといって、それをまるごと継承した わけではない。1845年の事前認可制度の採用後 も、住民たちには計画の公示時の「異議申し立 て」権が保証されており,、それが「隣i人権」の 名残として、実質的に事前協議の機能を果たし たと考えた。角度を変えて言えば、19世紀ドイ ツ住民による環境負荷への抵抗は、「隣人権」に 象徴されるような基本的生活権に深く根ざして いただけに、法や権力を振り回しても、第一次 大戦頃まで容易に退けることはできなかったの である。環境史研究者の間にも、まだ根強く残 る「伝統社会から近代社会へ」といった発展段 階論的発想を捨てて、「主体配置」の観点から環 境立法の整備のもつ含意を追究する意義も、そ の辺りにある。

 最後に、以上の文脈で、ぜひ触れておきたい 業績が一つある。U.ギルハウスの2003年論文

「環境史の節目としてのヴェストファーレンの 自由化」が、それである(Gilhaus,2003)。ギル ハウスは、ジーガーラント、ザウアーラントお

よび後のルール地方と、それぞれ既存の経済社 会構造や法制的特質を異にする3つの手工業地 域を取り上げ、19世紀における環境問題の解決 手法の変化を考察し、併せて相互比較を試みて いる。「良きポリッァイ」を標榜する伝統的な 家父長制的国家は、臣民の生命・健康・財産の

安全確保を任務と捉え、初期工業化期の環境問 題解決において積極的役割を担っていた。一例 を挙げれば、鉱山・金属加工業と農牧畜業との 共生をはかるために、調整者・仲介者として採 草地経営の季節リズムに合わせて経営休止期間 を設定するといった具合である。それに大きな 変化をもたらしたのが、1845年「一般営業条例」

や1861年「一般鉱山法」の制定である。それを 境にして国家の担う仲裁者・調停者機能は大き く後退し、慣習法的な仲裁・和解から民法に基 づく個人主義的な裁判闘争へ傾斜して、産業社 会への移行を加速化したというのである。ギル ハウスは、この転換過程をE.P.トムスンの「モ ラル・エコノミー」概念を援用しつつ説明する が、その当否は措くとして、19世紀半ば頃の法 的構造の変化のなかに、環境史の時代区分の指 標を設定している点は、ブリュッゲマイアーや 筆者と重なり合う論点として注意しておきた い。ただ、ルール地方については、他の2地方

と異なり既存の農業構造の脆弱さも手伝って、

仲裁・和解型の解決方式は確認できないと結論 されているが、この点については再検討が必要 だと考えている。

 以上の問題と仮説を念頭に置きながら、19世 紀プロイセンの工業化過程で進められる環境立 法の整備の足跡を「主体配置」の観点から辿っ てみよう。

1 1845年「一般営業条例」における認可制度 の導入とその後の混乱

(1)1845年「営業条例」以前の状況

 1845年プロイセン「一般営業条例」による事 前認可制の導入以前の状況を簡単に見ておこう6)。

一23一

(7)

      経済 学研 究 既存のプロイセン諸邦における営業許可権は、

1794年「一般ラント法」によれば、無調君主の 手にあった。その後、その場の状況に見合った 対応の必要から、在地当局への権限委譲が行わ れた。1796年営業・産業活動に伴う弊害の緩和 をねらった「追加規定」は、皮靱、ガット・

膠・コルドバ皮の製造のような「住民に不快で 健康に有害な臭気を発する職種」の立地を、水 流沿いや人ロ希薄な場所に制限することを定 め、その監視を在地当局に委ねた(Mieck,

1967,pp.40−41)。しかし、この規定を既存の施 設にまで厳格に適用することには、企業家の反 発も強く、在地当局は対応に苦慮することにな る。1800年の「追加指令」は、皮革生産自体の 抑制を回避する意味から、健康被害につながら ない限り不快さを容認するという便法による解 決をはかった。「廃水処理に適切ではない場所 に、新規の二二場が位置しているとしても、近 隣住民に不快な悪臭を与えはするが、健康に大 きな影響を及ぼさないような場合、厳格にすぎ る一般的禁令に依拠して皮革生産が軽々に制限 されないように配慮すべきである」(Mieck,

1980,pp.68−69)。ヘンネキンクは、在地当局に よる営業許可発給が、時として企業との癒着と 汚染の深刻化に導いたと考えているが、そうし た先入観に囚われずに実情を見極める必要があ

ろう (Henneking,1994,p.69)。

 1810年「一般営業税の導入に関する勅令」は、

営業の自由原則を高らかにうたいあげ、財産権 行使の自由と、その活動による他人の財産・健 康の侵害という解決の困難iな問題を、在地当局 に突きつけることになった。加えて、ナポレオ

6)この点では、Mieck,1967,1980が参照されねばなら  ない。

第72巻 第5・6合併号

  ン戦争期にフランス占領下に入ったライン州で   は、認可制の模範例である1810年「フランス勅  令」が導入され、地域ごとに多様な受容のされ  方をしたため、在地当局による許可発給の可否   とその判断基準をめぐって企業家(申請者)・

 当局(許可発給権)双方に大きな混乱が生じた。

  1827年ベルリン中心部における鉄鋳造所の建設  許可をめぐる係争が、翌年国王フリートリヒ・

  ヴィルヘルム1世の声がかりにより、統一的な  営業認可法の制定に向けた取り組みを本格化さ  せた(Mieck,1967,pp.54−60)。しかし、中央政府   の意図する営業・財産権の自由と、在地当局に   とって不安の種である「近隣住民に不利益・危  険・迷惑を与える営業」への規制、との調和的  達成という大命題のもとで、作業は行きつ戻り  つを繰り返した。とくに、法の草案作成者も、

 財産・健康被害回避への配慮はおろそかにでき  ず、それに不可欠な在地当局による裁量権の留  保か、それとも認可手続きの集権化か、の争点   を辿り思惑が交錯したからである(田北,2004a,

  pp.326−329)。その到達点が、1845年プロイセ   ン「一般営業条例」における営業認可制度であ

  る。

(2)1845年「一般営業条例」における営業認  可制度の導入

 国王の提案から20年近い歳月をかけて成立した のが、「一般営業条例」における認可制度である。

ただ、この制度の意義をめぐっては、ミークとブ リュッゲマイアーら最近の研究者の間に意見の対 立がある。前者が、営業の事前認可制の導入を

「工場の建設・経営に規制の枠を施し環境保全を 保証することに好適」(Mieck,1967,p.69)と捉え

るのに対し、後者は、それを営業認可における二

(8)

表2−1:1845,1861,1869年に事前認可が必要とされた業種

1)共通:火薬・花火・発火剤、ガスの製造・貯蔵、石炭(褐炭*)タール・コークス(原料産地以外 に建  設されるという限定付き)、磁器・陶器、ガラス、石灰・煉瓦・石膏、鍛造所、あらゆる種類の化学工場、

 化学漂白、ニス、蝋引き布、ガット・弦、膠、石鹸・魚油、骨焼き・加工、蝋燭細工、獣脂、屠殺場、皮  靱、皮剥、人糞肥料、水力によって駆動される施設

2)1861年に除外*:鏡、麦芽製造、砂糖精製、チコリ製造、風力により駆動される施設、火酒・ビール醸  造、蒸気機関・ボイラー、

3)1861年に修正:精錬所・高炉(粗製金属獲得のための施設と培焼炉)、鋳造所(単純な二二鋳造ではない  限りという限定付き)、澱粉(ジャガイモ以外を原料とするという限定)

4)1861年に新設:屋根紙・布

5)1869年に新設:石油蒸留(精製)施設、動物の毛の加工

[典拠】1845年「一般営業条例」§.27(GS,1845,p.46)

   1861年「産業施設の建設に関する法」§.1(G8,1861,p.749)

   1869年「北ドイツ連邦営業条例」§.16(一BG,26,1869,p.249)

(注)*「産業施設の建設に関する法の実施のための指示を含む追加指令」1)によれば、鏡からビール醸造   に至る業種は「一般の建築・火災・公衆衛生関係の規定」に従って、そして蒸気機関・ボイラーは、1861   年「法」の§.12「それら規定に加えボイラーの設置に関する商務相の一般的決定に従って」判定が下さ   れる。それぞれの典拠は以下の通りである。Cirkular・VerfUgung mit der Instruktion zur Aus茄hrung   des Gesetzes Uber die Errichtung gewerblicher Anlagen, vom 31, August 1861(Mbl,22,pp.172−73)

  :G8,1861,p.752。3.

地的影響力の制限と認可発給権の集権化とをもた らし、結局のところ産業利害の擁護につながる制 度と解釈している(BrOggemeier,1996,pp。131・

132:Henneking,1994,p.79)。筆者は、住民利害か 産業利害かといった二項対立に囚われずに、その 時々の「政府・企業・市民」の環境行政における 力関係に注目しつつ検討する立場にたつが、後述 のようにミークに与したい。そこで導入された 営業認可制度の概要は、以下の通りである。

 第26条は、2つの理由を挙げ、特別の行政的 な営業認可を必要とする業種を列記している。

「その立地ないし経営の属性によって近隣iの土 地所有者や住民にとって、あるいは一般大衆に

とって大きな不利益、危険および迷惑が発生す る可能性があるような営業施設(の設立)」

(GS,p.46)。近隣の土地所有者や住民に「大き な不利益・危険・迷惑が発生する可能性のある 業種」および、未熟な経営ないし「道徳的観点

からみて信頼性の欠如から」公共の利益と行政 上の目的達成が困難となるような医師・劇場・

居酒屋など特定資格取得に結びつけられた職業 である。このうち、第27条に挙げられた第!グ ループの業種を、後述の61年、69年の法に挙げ られた業種との比較を交えて列記したのが、表「

2−1である。「手工業汚染から産業汚染への 過渡期」(Mieck,1989,pp.216−219)の特質を反 映するかのように、大工業というよりは、むし ろ手工業的な業種が目につく。このことは、経 営組織と労働力の存在形態の双方において1845 年「営業条例」を貫く、手工業的特質と一体の ものと理解できるのかもしれない。それは、第 6,7部の表題がそれぞれ「営業従事者のインヌ ンク」「営業補助者、職人、工場労働者、およ び徒弟」である事実からも、容易に読み取れる

のである(GS,pp.58−71)。

 それら業種に属する営業を新規に営むか、既 一25一

(9)

経済学研究 第72巻第5・6合併号

表2−2:1845年「一般営業営業条例」における認可手続き

<企業家の認可申請>

1.認可義務ある産業経営:近隣住民・土地に不利益・危険・迷惑を及ぼす経営(§,26)

2.§.27に列挙された業種→表2−1を参照 3.在地当局への認可申請(書類・図面)(§.28)

4経営立地・内容の変更時には新規の認可申請(§.33:認可の有効期限§.36)

 ↓  ↑

<在 地 当 局>

1.書類・図面の確認(不備の場合には認可禁止)と国王政府への送付(§.28)

2.国王政府の指示に基づく計画の公示と4週間の異議申し立て期間(§.29)

3.異議申し立ての処理:私法的性格の異議は裁判所の判断に委ねる(§.31)

4.その他の異議二意見聴取記録と最終的な交渉結果の国王政府への送付(§.31)

5.国王政府による決定の公示(§.33)

6.国王政府による決定への抗告:10日以内の在地当局への届け出義務(§.33)

7.企業家が在地当局関係者の場合:ラント評議員が代行(§.34)

 ↓  ↑

<国 王 政 府>

1.書類・図面(解説)の受理(§.28)

2.審査:大きな不利益・危険ありと判断された時の拒否権留保、公示指示(§.29)

3.異議のない場合:速やかに認可発給の手続き(§.30)

4異議のある場合:意見聴取記録、交渉結果報告に基づく検討(§.31)

5.火災・建築・公衆衛生関係の法令との対比:認可の可否と条件設定(§.32)

6.認可決定の在地当局への通知とそれに対する抗告権(§.33)

7.抗告の届け出後、4週間以内の商務省への書類送付(その間、認可発給の延期。§.33)

8.審査手続きの費用負担:公示など手続き費用(企業家)、根拠なき異議(反対派)(§.35)

9.公共福祉に「大きな不利益・危険」ある経営の営業停止:損害賠償の義務(§.69)

10.既に営業する産業経営に対する弟9条の適用(§.70)

11.緊急時の営業開始の延期権(§.74)

12.認可を受けない経営と認可条件に違反した営業に対する処罰(§.177,180)

 [典拠]G8,1845,pp.45.48,75−76.

存の施設に変更を加える場合には、行政当局か ら認可を得なければならない。この認可申請と 審査手続きは、第28−36条に挙げられているが、

それをまとめたのが、表2−2である。まず、

企業家は、経営内容の解説と図面からなる書類 を揃えて、在地当局に認可申請を提出しなけれ ばならない。それを受けた在地当局は書類・図 面が所定の条件を満たしているかどうかを審査 し合格すれば、その後それを国王政府(地区行 政当局)に送付する。国王政府は、その内容と 書類・図面に問題がないと判断すれば、在地当

局に指示を与えて当該計画を官報上で公示し、

4週間にわたり周辺住民からの異議申し立てに 付されることになる。ただ、ここで看過してな らないのは、第29条には「計画された施設が、

政府の判断に従えば、近隣住民や一般大衆に とって大きな不利益・危険・迷惑と結びついて おり、直ちに認可できないと判断されるときに は、申請は即座に却下されるべきである」

(GS,p.46)と明記されており、正規の審査手続 きを経ることなしに、門前払いする権限が国王 政府に留保されていることである。この政府の

(10)

留保する権限は、後述のように、実際にたびた び行使されており、一度も使用されもしない

「伝家の宝刀」ではなかった。

 万一、住民から異議申し立てがあった場合、

損害賠償請求など私法的性格の問題は裁判所の 判断に委ねられるが、それ以外の場合、在地当 局が両当事者の言い分を意見聴取記録にまと め、証人・専門家の鑑定書を添えて国王政府に 送付し、その判断を仰ぐ。したがって、在地当 局は、認可決定に直接関与することはなく、調 査・資料作成機能に特化するのである。国王政 府は、既存の火災・建設・公衆衛生関係の法と 異議申し立ての内容を考慮して、認可の拒否と 認可条件とを決定する。この政府決定は、在地 当局に送付され再度公示される。それに異議申 し立てがある場合には、認可決定の公示後10日 以内に在地当局に届け出た上で、4週間以内に 苦情書を商務相に送付しなければならない。こ の抗告審における最終決定が下るまで、企業家 は施設建設を待たねばならない。

(3)1845「営業条例」発布直後の混乱

 しかし、この45年認可制度の成立は、それに 時代的に先行して在地当局が営業許可の発給を 担当しており、しかも45年「条例」は一般原則 を定めるに留まっていたため、実際の運用に際 して条文の解釈や権限の所在をめぐり多くの混 乱を引き起こした。以下では、1846・47年の両年 に発生し、『プロイセン王国隠州における内政全 体に関する省庁誌』Ministerial−Blatt fUr die gesammte innere Verwaltung in den K6nigli−

chen Preussischen Staatenから読み取れる事例 を考えてみよう(論文末に掲載した表2・3をも

参照せよ)。

 第1に、認可申請の直接の窓口をなす在地当 局の戸惑いがある。一つは、1846年9月在地当 局から寄せられた、経営変更時の新規認可申請 を定めた第36条の解釈をめぐる問い合わせがあ り、財務相・内務相は連名で追加指令を発布し た。倒壊した産業施設の修理・補修による旧状 復帰、あるいは単なる所有者の交代のような、

立地と経営の性質(製法・製品など)との変更 を伴わない場合、新規の認可申請は不要である ことが確認されている。その際、政府当局者の 念頭にあったのは、認可申請の期間中に企業家 に損害を強要する「施設全体の放棄」(Mbl,7,p.

211)、経営中断への危惧に他ならなかった。し かし、この文言に目を奪われて政府による企業 への肩入れを結論するのは、早計にすぎる。そ れに続く一節では、「産業施設の再建の場合、

経営作業場の変更の存否に関する判定は困難な ので、国王政府の検証によって変更なしと判断 された場合でも、認可を発給することが適切で ある」(op cit.)と述べて、国王政府の慎重な対 応に注意を促している。中央政府も、少なくと

も19世紀半ば頃には、ヘンネキンクの言う意味 での重商主義的な産業振興策の走狗ではなかっ たのである。政府は殖産興業の旗振り人として 企業家の利害の擁護者であり、そして1845年営 業認可制度は産業利害に沿った内容であるとい う暗黙の前提から出発することをく、「政府(中 央・在地)・企業家・住民」問の関係の変化を 時代を追って丹念に辿らねばなるまい。

 もう一方は、1847年3月に上記の両大臣に よって発布された追加指令がある。この場合、

第27条にうたわれた国王政府の指示を仰ぐこと なく、在地当局や郡長官が独断で行う公示が問 題とされている。「抗告審の折りに大臣たちの 閲覧に供された審理記録から」(Mb1,8,p.61)露 一27一

(11)

      経 済 学研究 呈した公示手続き違反は、2つの意味から深刻 に受け止められている。一つは、国王政府によ る書類・図面審査をくぐることなく公示が行わ れることから、第29条の冒頭に挙げられた、既 述の国王政府による申請の門前払いの措置が不 可能になり、本来認可されるべきでない計画が 許可される結果になっている。もう一つは、事 後的な異議申し立てから、かえって経過を紛糾 させ「時間と金の浪費」につながることである。

この点では、在地当局に費用賠償義務で威嚇し つつ、45年「条例」第27条の遵守徹底をはかっ ている。また、1847年1月国王政府からの問い 合わせに応えて上記両大臣の名の下に発布され た指令も、在地当局による公示と関係してい る。すなわち、立地・経営内容の変更に関わる 認可申請が、「近隣住民からの異議申し立てが ないと予想される場合」(Mbl,8,p.62)の公示義 務の有無をめぐる問いかけに、第36条の遵守が

回答されている。この意味での公示義務の免除 が認可手続きのなかに盛り込まれるのは、1861 年のことだが、それには後に立ち返ろう。

 第2に、条文の解釈を明瞭にして、手続きの 形式的統一をはかる必要性を迫られた問題があ る。1847年3月上記の両大臣が、国王政府の下 す決定に含まれるべき事項を明らかにするため に発布した指令が、その代表例をなす。「この 方法によって初めて、両当事者の間に政府決定 を通じた正式で確実な関係が形成されうる」

(Mbl,8,P.62)との認識のもと、抗告前の決定に は施設の正式の名称、信愚性ある文書により裏 付けされた経営の解説、および認可条件の有無 と設定条件の3項目が挙げられている。万一、

当事者間の対立が抗告審まで持ち込まれたとき には、抗告審の決定に沿って政府決定が改めら れることが明記されている。

第72巻第5・6合併号

  第3に、それにもまして、筆者の仮説の当否   を考える上で看過できないのが、1847年2月に   45年「条例」第28条に定められた、認可申請さ  れた計画への異議申し立てに関して発布された  追加指令である。その冒頭で、この追加指令を  必要とする切迫した事態として、頻発する異議   申し立ての事実が挙げられている。「それ(官  報紙上での公示後4週間にわたるの住民の異議   申し立て権)は、経験が教えるように、次の事  態を発生させるきっかけとなっている。すなわ   ち、詳細に検討してみると支持できないことが  明らかになるだけではなく、交渉の状況から判  断して、計画の遂行を妨害するか、少なくとも  遅延させるためだけに、本筋からはずれた考え   に基づいて起こされたと考えざるを得ないよう   な抵抗が、しばしば発生している。そのような  結果は、法(制定)の意図にまったく対応して  いず、それ故にそうした事態にたいし措置を講  ずる必要がある」(Mbl,8,pp.60−61)。中央政府

 の目には、事前認可制度導入の本来の目的で  あった、近隣住民・土地所有者に対する「大き   な不利益・危険・迷惑」(第26条第1条)の発  生防止ないし軽減とは、相容れない異議申し立  てが百出しているというのである。

   しかし、角度を代えて近隣住民・土地所有者  の側から見れば、この異議申し立てこそは、発  生した被害に対する事後的な損害賠償請求では   なく、事前に財産・健康被害を回避できる唯一  の機会に他ならなかった。隣人権に基づく抵抗  が、事前協議と了解の獲得、および事後的な損  害発生時の営業停止の要求と一対の内容をなし   ていたことを考慮するとき、この認可制度導入  直後の時期に異議申し立てが頻発した事実は、

 公法・私法の一体化した隣i人権から公法的な抵  抗手段への過渡期を象徴する出来事と言えよ

(12)

う。第31条は、私法的性格の異議申し立ての処 理を裁判所の判定に委ねているが、ギルハウス の2003年論文も指摘するように、既存の生活権 全体と深く絡み合っている慣習的世界は、法の 発布によって一朝一夕に消え去る性質のもので はなかったのである(Gilhaus,2003,pp123・

126)。事実、「隣i人権」の行使制限が、営業認 可の文脈で正式に盛り込まれるには、1869年

「北ドイツ連邦の営業条例」第26条を待たねば ならない。

 生活権に根ざした隣…人権の強靱な生命力は、

1848年と1852年上級裁判所における営業認可と 近隣住民被害をめぐる係争に下された、2つの 対照的な判決にも鮮明な足跡を止めている。

1845年化学工場の塩酸蒸気により発生した果樹 被害につき損害賠償請求の訴訟を起こした原告 に対しては、工場が正式の営業認可を受けてい ること、風向きなど自然条件の影響が強く因果 関係の論証が不十分半あること、の2点を理由

として訴えを退ける決定が行われた。その後、

1852年亜鉛精錬所経営者を相手に果樹の煤煙被 害を訴えた類似の係争に対しては、対照的な判 決が下されている。その際、判断基準に据えら れたのは、営業認可の有無のような法手続では なく、「誰も他人に損害を与えて富を得てはな らない、あるいは誰も自分の利益のために他人 の権利領域を侵してはならないという単純な法 原則」であった。基本的生活権の保全が、最優 先されるべきだと判断されたのである7)。

 ところで、この事態に直面した中央政府は、

反対派住民と国王政府の双方を対象にして一組 の対策を打ち出している。一方は、異議申し立

ての適切さを証明するための証拠・論拠の提出 を、反対派住民に要求することである。これ は、第35条に定められた「根拠なき異議申し立 てから発生した費用は反対派の負担とする」と いう原則と併せて、異議申し立て権の濫用に歯 止めとなる、と判断された。もう一方は、異議 申し立てを受けた国王政府は、上述の第29条の 冒頭の文言をより所にして、「その計画は許容 できないと安易に考えずに、(反対派が)主張す る事実(不利益・危険・迷惑)が「大きい」er−

heblichと見なさざるを得ないことが、明らか になるような手続き(証拠・論拠)を踏む」(op cit.,p.61)ように勧めている。国王政府は、第29 条の冒頭に挙げられた「伝家の宝刀」を、住民 の不利益・危険・迷惑を回避するためであれば、

ただちに抜いていたのである。逆に、この指令 から判断するかぎり、1845年「営業条例」の制 定の目的は、あたかも住民抵抗の抑制と企業へ の認可手続きの円滑化とにあるように見える が、それは当てはまらない。次に、この問題と 不可分に関連した1852年の追加布告を2点取り 上げてみよう。

7)BrUggemeier 1 Toyka・Seid,1995,pp.159・162.これら 史料については、田北,2004a,pp.334−335に抄訳を載 せているので参照願いたい。

      一29一

(4)1852年の2つの追加布告:混乱の継続

 まず、9月に商務相の名の下に発布された布 告は、その史料の名称、「認可発給前に(着手 された)産業施設は許容されないこと」(Mbl,13,

p.267)からも明らかなように、事前認可発給以 前に施設建設を着工した企業家の処置に関係し ている。1845年「条例」の第177条と第180条は、

そのような企業家に下記のような罰則を課すこ とを定めていた8)。

 第177条、「営業の開始に際し特別の行政的認 可が必要であるような産業の自立的経営を、規

(13)

       経 済 学 研 究 則通りの認可を受けずに行ったり継続したりし

た者、あるいは認可(文書)のなかで確定され た条件から乖離したやり方をとった者は、200 ターラーまでの罰金刑か3ヶ月までの投獄かに

処す」(GS,1845,pp.75−76)。第180条、「第177条 の罰則規定は、次のような人物に対し適用され る。すなわち、作業場の位置や性質(経営の内 容)ないし立地を勘案した特別な認可が必要で あるような産業施設を、その認可を受けずに、

あるいは認可発布の際に賦課された条件から意 図的に乖離して利用する者、とりわけ新たな認 可を受けずに作業場の変更を企てたり、立地の 移動を行った者」(GS,1845,p.76)。

 もちろん、この罰則規定を実際に適用するに は、大きな困難が伴っていた。「その種の施設

(建設)が(今後とも)遂行されて良いのかど うかという問いかけが、すでに遂行された施設 を再度撤去するのかどうか、あるいはその経営 を妨げるかどうかという、まったく異なる問い かけに置き換えざるを得なくなっている」

(Mbl,13,p.267)と表現されるように、既存の施 設を撤去させ経営も停止させるのか、という問 題と一体となっていたからである。中央政府 は、第180条の違反者に罰則を適用すること、認 可申請の際に「その間行われた建設は一切考慮 されず、申請は建設があたかもまったく進んで いないかのように扱われる」(op cit.)こと、建

8)1899・1911年ヘルトに立地するヘルマン製鉄所と近  隣の不動産所有者の間で戦わされた裁判闘争におい  て企業側が最終的に譲歩した理由として、一部の経

営施設に未認可のものを含んでいたことが知られて  いる(田北2004a,p.323)。類例は20世紀初頭になる  と急増する。1912年デュッセルドルフの営業監督官  は、営業認可後に倉庫など「重要でない」拡大を行  うと称して認可申請を行い、認可取得後に他の目的  に改修する狡猜な企業の申請が増加していると報告  している(デュッセルドルフ州立文書館、分類番号

Regierung D{isseldor£No.34288)。

第72巻 第5・6合併号

  設許可と併せて営業認可の取得が不可欠なこ   と、の3点を再確認している。したがって、隣   人権の内容をなす事後的な営業停止の要求権の   行使に相当するほど強い姿勢を示していない   が、「ただ乗り」への厳罰主義を呼びかけ、営   業認可制の実を挙げようとしている点は看過さ   れてならない。

   次いで、その2月後に同じく商務相の名にお   いて発布された追加布告も、国王政府の作成す   る認可決定(文書)との関連で企業家による建   設着手時期を取り上げている。布告発布のきっ   かけは、国王政府の行う認可決定(45年「条例」

  第29条)に重要な項目が欠落していることから   発生する、住民・企業家双方の「疑念や不愉快   な結果」(Mbl,13,p.323)を一掃することにある。

  住民には「それによって彼ら自身が、第33条の   規定を知らされずにいたことから降りかかって   くる不利益について、申し立てることができ   る」(op cit.)ようにするために、国王政府の認   可決定のなかに、第33条によって保証された抗   告の手続き・期限を盛り込むように命じてい   る。隣i人権の名残である「異議申し立て」権は、

  十分に尊重されていたのである。

   他方、企業家には、建設に着手すべき時期を   明瞭に指示する。すなわち、「(国王政府によっ   て)下された決定によっても、まだ施設建設の   許可を獲得したわけではなく、むしろ(抗告審   の裁定後に発給される)特別の認可文書による

確定力ある決定の後に初めて与えられる」(op cit.)と述べ、住民の抗告の行方を見極める必要 性を強調する。いやそれだけではない。最終的 な認可文書の発給以前に建設に着手した企業家 にたいし、45年「営業条例」の第180条の罰則適 用を再確認している。「営業の自由」を挺子に 産業振興の推進するをはかる中央政府が、常に

(14)

企業家寄りの対応を示したわけではない。ここ でも住民の抗告権の行使と、それを通じた国王 政府の認可(条件)決定の修正とを周知徹底す ることで、利害関係者の「疑念や不愉快な結果」

の除去に取り組む調整者の姿勢が読み取れるこ とを指摘しておきたい。

1 営業認可制の混乱収束の試み:1853年「法 令」と1861年「法」「執行規則」

① 1853年デュッセルドルフ行政区における  認可手続き統一の試み

 1845年「一般営業条例」に取り入れられた認 可制度は、住民・企業にだけでなく認可手続き

に関わる在地当局・国王政府にも多大な混乱を 引き起こし、とくに問題が発生するたびに、中 央政府の指示を仰ぐ結果をまねいた。そこで、

1853年12月中央政府は、デュッセルドルフ行政 区宛に「産業施設の認可取得に関わる法令」

(Amtsblatt,38,pp.697・699)を発布し、混乱の 収束をはかるとともに、少なくとも行政区内で 認可手続きを統一しようとした。「1845年「条 例」の第27項以下に挙げられた種類の産業施設 の建設や変更(第36条)に際しての認可の申請 は、今後とも我々(国王政府)に送られるべき ではあるが、再度の問い合わせを回避するため に(以下のように処理されるべきである)」(op

cit.,P.697)。

 ここデュッセルドルフ行政区は、周知のよう

表3−1:1853年デュッセルドルフ行政区における認可手続き

         〈企業家の認可申請〉

     ↓

<在 地 当 局>

1.書類・図面の確認

2.企画の公示(国王政府の指示)

3.4週間の異議申し立て期間(理由・証拠)

4.異議申し立て時の和解の試み

5.和解不調時:意見聴取記録の国王政府宛送付 6.文書の保管

      ↓

 〈ラント 評議員*〉       → 1.国王政府からの認可文書の受理

2.建設完成の証明書の受領と仮の経営許可 3書類一式を国王政府宛送付

   ↓ ↑

 <郡 建 設 官>

1.認可条件に従った建設実施の監視 2.建設完成の証明書をラント評議員宛送付

 ↓

〈4都市の当局*〉

ラント評議員発給の仮の経営許可 と郡建設官の証明書も含む書類 と図面一式の送付

 ↓

<国 王 政 府>

1.企画公示の指示 2.認可拒否・発給の決定 3.最終の営業許可

[典拠】Aη諾sbZα琵,38,1853,pp.697−699

(注)4都市とは、デュッセルドルフ、バルメン、エルバーフェルト、クレーフェルトである。

 なお、ラント評議員は、この法令の項目G・Hによればこの4都市に置かれている。

一31

(15)

       経 済 学研 究 にルール工業地帯の心臓部に位置し、工業化の 進行に伴う認可申請と環境問題発生の焦点にあ り、いわば模範例を他地方に提供する意図を もっていたことを忘れてはならない。とくに、

1850年代には炭坑業の北漸を伴いながらコーク スを燃料とした製鉄所の建設ラッシュが起こ

り、また化学工業も科学技術の成果を摂取しつ つ1860年代以降に鮮明となる成長の兆しを示し ていたからである9)。

 ところで、この法令は全体で9項目から構成 されているが、そこから読み取れる認可手続き をまとめれば、表3・1の通りである。

 まず、1845年「条例」と比べて申請書類の提 出方法と書類・図面とに関する叙述が、詳細に なっている点が目を引く。4都市を除き、書 類・図面一式は在地行政当局に提出され、それ が完壁に揃っているかどうかを確認した上で、

それら4回忌に置かれた国王政府の役人である ラント評議員に送付される。彼らは、郡建設長 官の証明書を添付して書類・図面をデュッセル ドルフの国王政府に審査のために送付する。こ の流れ自体、それぞれの節目の責任者を指定し て、これまでより具体性を増した以外に大きな 変化はない。ただ、提出される書類・図面につ いて、いくつかの大きな変化を読み取ることが 可能である。

 第1に、土地見取り図に関しては、測量技師 か建築業者かのいずれかが作成した、しかも経 営施設の周囲10ルーテル四方(30・50メートル)

9)鉄鋼業については、Fremdling,1988。化学工業に  関してはHenneking,1994とPohl,1988を参照せよ。

Pohl,1998に従えば、化学工業の全面的な展開は  1860年代移行の時期に属するが、55年「追加法令」

 の冒頭の表現に明らかなように、すでにその発達の  初期から深刻な環境汚染を引き起こしていた(Mb1,

 16,p.188)。

第72巻 第5・6合併号

  をカバーし、建物・土地の利用方法が明記され   ることを要求している。産業施設の隣接する土  地・住民への被害に配慮してのことであった。

   第2に、業種的特性と関連して経営内容の詳   しい解説を要求されたものがある。例えば、火  災の危険のある融解・煮沸関連の産業では、加  工対象と建物設計図上に燃焼施設の場所とを、

  明記するように求められている。それ以上に注   目されるのは、化学工業が独自の項目として登  場したことである。「化学工場の場合には、特  別に目的とされる生産物の全て(科学的・営業   的名称も添えて)と、その際に使用されるよう   な、これまでとは異なる装置の用途と工法と、

 が挙げられるべきである。後者に関する報告

  は、密封して送付されること」(Amtsblatt,38,

 pp.697−698)。1845年「営業条例」第27条の営業  認可義務ある業種のなかで化学工業は、「あら   ゆる種類の化学工場」と一括して扱われていた  が、ここでは経営内容に関する特別な説明の必  純な業種に指定されており、1845一う3年間の産  業的発展を示唆している。それと同時に、製法   に関する解説は密封して提出されるよう、細心   の指示が与えられている点も目を引く。それ   は、科学技術的研究成果の結晶である製法の秘  密性を尊重することで、化学工業の惹起する環  境被害に対する住民の抵抗と当局の関与とを抑   え込むための口実となり、最終的には、後述の   1855年「追加規定」を経て化学工業が、住民の  権利を蚕食しながら急成長を遂げる足場となつ

  ていく。

   第3に、申請書類・図面とかかわる2つの留  意事項の指摘が、産業発展とかかわる新たな社  会問題の発生と関連して注意を引く。一つは、

 満16歳未満の若年労働者を雇用する、ないし雇  用の許可を受けた工場に対して、作業現場の図

(16)

面とその解説の提示を求めていることである。

この若年労働については、1839年の「規制」と 1853年「追加規定」により就学義務とも絡めて 労働条件の制限など調整がはかられてきたが、

ここデュッセルドルフ行政区が最も早期的な発 火点だった事実に注意を促しておきたい(GS,

1839,pp.156・158:GS,1853,pp.225・227)Q l824年

児童労働の実態調査に関するアンケートにおい て、定期的な工場査察の必要性をいち早く指摘

していたからである(Henneking,1994, p.105)10)。

もう一方は、「労働者と近隣住民の健康的配慮 が問題となるような産業施設に限り、我々は国 王政府の郡医から鑑定書による意見を求めるこ とができる」(op cit.,p.698)とあるように、へ労 働者と住民の健康被害が予測される場合には、

公衆衛生的な配慮から専門家の意見を打診する 道が開かれたことである。これは、1850年「一 般行政に関する法令」において在地当局の所轄 事項として、企業活動を含めた包括的な生命・

健康に関する安全管理や自然保全が盛り込まれ たことと無縁ではあるまい(GS,1850,pp.265−

267)。しかし、1869年「北ドイツ連邦の営業条 例」第18条と第ユ07条に時代的に先行して、労働 者・住民の生命・健康保全が問題とされたこと は、ルール地方のもつ「環境問題における判例 提供地」の性格をつよく印象づけたものとして 注目される。

 それに続く認可手続きのうち、国王政府が計 画の公示の指示、4週間の異議申し立て期間の 設定、および申請書類・図面に基づく審査・決 定権を一手に掌握していた点で変わりはない。

ただ、異議申し立てがあった場合の処理方法で

は、これまで以上に在地主義の考え方が前面に 出でており、それが第4の特徴をなす。「4週 間の公示期間中に異議申し立てが行われた場 合、企業家を呼んで異議内容について意見聴取 記録の作成が指示される。その記録には、異議 申し立ての理由と証拠が明瞭かつ十分に述べら れていなければならず、それと同時に企業家の 反論も、きちんと載せられねばならない。いず れにせよ、異議内容を解決するための条件を認 可に取り入れることで、両当事者間の和解成立 を試みるべきであり、残された争点は明瞭に指 摘されねばならない」(op cit.,p.698)。認可申請 が出された各在地当局には、企業家・住民の両 当事者から意見を聞き、適宜、異議申し立て内 容を認可決定に盛り込むなど、本来国王政府の 審査権に関わるような条件提示を行うことで、

最大限和解達成につとめるために必要な権限さ え与えられている。

 以上から明らかなように、在地当局に営業認 可発給権こそ与えられていなかったが、住民の 生命・健康・財産を侵害する産業汚染に関わる 営業認可問題は、ブリュッゲマイアーらが想定 したのとは違って、国王政府が大上段から一括 裁定できる性質のものではなかったのである。

むしろ、それぞれの現場の状況に通じた在地当 局により、しかも1802103年バンベルク闘争か

らも看取できるように、双方の和解・妥協を最 大限実現する形で、まずは解決が図られたので

ある11)。

 最終的な認可が国王政府から発給された後の 手続きも、この間の企業家の先走った建設着手 や認可条件に違反した施設建設をめぐる問題を

10)営業監督官の設置義務が導入されるのは、児童・

婦人労働が広く社会問題化するビスマルク時代の  1878年以降のことである(Simons,1984,pp.30−45)。

11)1802103年バンベルク闘争については、研究史・

史料とも田北,2003を参照。

一33一

(17)

       経 済 学研 究 意識してか、厳密に規制される。郡建設官は、

認可条件通りの建設が行われるかどうかを監視 し、合格の場合には証明書を発行するし、問題 がある場合には国王政府に報告する。それに続

きラント評議員は、下記の引用から明らかなよ うに、当該産業施設の仮営業の許可を与える。

「施設建設が郡建設官の証明書によって、認可 条件に即して実施され、何も疑いがないことが 明らかになったときラント評議員は、我々(国 王政府)からの追加的指令を留保した上で、仮 の施設経営をすぐに許可する権限を持つ」(Am・

tsblatt,38,p.699)。その後、国王政府の最終決 定が企業家に伝えられ、関係書類一式は自治体 の文書庫に保管されることになる。

 ところで、1853年デュッセルドルフ行政区に 導入された認可手続きは、1860年12月のデュッ セル行政区の法令を通じて2点で大きな修正を 受けた(且enneking,1994,p.83)。一つに在地当

第72巻 第5・6合併号

局は、受け取った認可申請書類・図面一式をラ ント評議員を通さずに、直接郡建設官ないし郡 医師に送付できることになった。もう一方で、

国王政府からの指示を待たずに在地当局が自主 的に計画の公示を行えるようになった。した がって、認可の可否を含めた最終決定権は、公 示期間経過後に関係書類を受理した国王政府に 留保されたが、これによって認可手続きの在地 主義と迅速な処理が一段と推し進められること

になった12)。

 そして、この認可手続きの迅速化の考えは、

1845年「条例」第33条に定められた国王政府の 決定に対する抗告手続きの統一のために商務相 が1855年に発布した、追加布告からも明瞭に読 み取ることができる。「抗告の正当性を主張す るために提出された書類、あるいはその理由付 けのために採用された処理文書は、要求事項を 付して相手方に写しの形で送付されるべきであ 表3−2:1861年「産業施設の建設に関する立法」における認可手続き

<企業家の認可申請>

1.認可を必要とする業種:(§.1)→表2−1を参照 2.書類(経営内容の説明)・図面(§.2)

a経営(立地、経営内容)の変更時の新規認可申請(§.10)

  ↓ ↑

<在 地 当 局>

1.申請書類・図面の受理:ラント評議員か市内建設時には市当局(§.2)

2.計画の公示と2週間の異議申立期間(§.3)

3.異議のない場合、国王政府への書類送付(§.4:)

4.異議のある場合:私法的性格のもの以外は在地当局による和解の努力(§.5)

5.国王政府の決定と抗告:抗告の届け出と2週間以内の理由説明書提出(§.7)

  ↓ ↑

<国 王 政 府>

1.異議のない場合:在地当局の書類受理後直ちに審査、諸法令と対比(§.4)

    1845年「条例」§.30,32

2.異議ある場合:「不利益・危険・迷惑の程度」と異議内容を検討した判定(§β)

3経営変更時の公示免除の特例:住民に大きな不利益・危険・迷惑がないと判断

【典拠]GS,1861,pp.749・753

(注) §.14 既存の法規定の廃止:1845年「一般営業条例」§.27・38(GS,1ε痴,p.753)

参照

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