研究ノ l ト
土地物神について
はじ
めに
土地
物神
の前
提と
して
の利
子お
よび
利子
生み
資本
物神
から
の分
析
的下
向
三利子および利子生み資本物神への綜介的上向
同利子生み資本の物神性と擬制性について
五むすび
;i
l三
位一
体範
式の
階級
的本
質
1 1
はじめに
この小論の目的は︑土地物神を商品生産関係の物化︑物神化
の上向過程の終点においてとらえ︑いわゆる三位一体の範式
R E
H S
ユ R
Z
ヲヨロ巴の欺臓と不合理を明らかにして︑この
範式のもつ階級的本質を暴露することである︒
周知のように︑三位一体の範式とよばれる︑資本
l
利潤(利子)︑土地│地代︑労働1労賃という公式は︑資本主義的生産
土地物神について
井
八 上
周
関係の外見上の関連にのみ目をうばわれ︑ブルジョア的立場を
独善的に弁護し︑経済現象のもっともらしい説明を行なう俗流
経済学の特質を︑もっとも率直に表現したものであるが︑この
範式にあっては︑土地︑資本および労附(いわゆる俗流的意味で
の生産の一一一要素)が︑価値および剰余価値を生みだす独立の源泉
として︑つまり︑地代︑利潤(利子)および賃銀という収入の
それぞれ独立した源泉として示きれている︒それ故︑この不合
理な三位一体の範式のもつ意義は︑物として︑すなわち商品︑
貨幣︑資本として表現されている︑生産においてとり給ぶ人と
人との社会関係が︑あたかも物そのもののもつ性格に転化され
ているという︑資本主義的生産関係において成立する︑いわゆ
る生産関係の物神化が︑この俗流経済学的三位一体の範式で完
成されている︑という点にある︒
商品生産社会││資本制生産社会はその全範囲において商品
一 六
土地物神について
生産社会であり︑商品生産社会の最高の形態である
li
にお
い
ては︑生産関係は物化︑物神化されており︑かかる物神化され
た現象形態において︑資本主義の本資はおおいかくされ︑かっ
転倒されている︒それのみならず︑この物神化された現象は︑
資本主義の本質を隠蔽することに何らかの利益をもっ特定層の
人々︑およびその階級利害の代弁者たちにより理論化されてき
たのであり︑また現に理論化されつつ︑その一定の役割を果し
ている︒したがって︑商品生産社会における抽象より目六体への
物神化の上向過程を︑高日間物神より土地物神に妥るまで探究
し︑これらの各段階の物神性をその本質におい℃暴露するこ
と︑かくして本質と現象との弁証法的理解によって︑フェティ
シズムの支配を消滅させることは︑理論的のみならず︑実践的
にも有意義であることは疑ないと思われる︒また︑このような
方法によって︑最高度に物神化され︑かつ擬制化されていると
ころの三位一体範式の本質の解明がなされることになる︒
物神化の最終形態としての﹁土地物神﹂の謎は︑商品︑貨幣
︑資本︑利子年一み資本等の物神化の最終形態としてのみ︑その
本質を明らかにすることができる︒そこで以下︑利子および利
子生み資本物神からの下向的考察から始めよう︒
土地物神の前提としての利子および 利子生み資本物神からの分析的下向
﹁現実的関係を限に見えぬようにしてその正反対物を示寸こ
一 六
の現象形態は︑労働者ならびに資本家のあらゆる法的表象︑資
本制的生産儀式のあらゆる神秘化︑そのあらゆる自由幻想︑俗
流経済学のあらゆる弁護論的空語︑の基礎である﹂(﹃資本論﹄
第一
巻五
六五
│六
賞︑
沢青
木文
庫川
附八
四七
五三
マルクスは労賃の歎陥性にふれてこのようにのべている︒
この労働││賃銀という物神化を基礎として資本物神が成立す
るのであるが︑その資本物神の最高度の完成形態を示している
のが利子生み資本物神である︒利子生み資本において︑資本関
係はそのもっとも外面的で︑もっとも物神的形態たるの!の︑と
いう範式を得る︒ここでは媒介する運動がそれ自身の結果のう
ちに消失して︑あとにはなんらの痕跡ものこしてはいない︒そ
れは無から利子を生み出す魔力として現象している︒
いわゆる貸付利子説に対し︑資本利子説とよばれる近代的利
子学説は︑種々雑多な議論を展開しているが︑それらに共通し
ていることがらは︑利子の成立を歴史的社会的に規定された資
本主義的生産関係としてとらえず︑そ︑れとはむしろ反対に超歴
史的な超社会的な見地に立って︑あるいは単に個人的心理から
説明しようとし︑あるいはまた単なる技術的生産力の見地から
説明しようとしていることである︒すなわち︑一定の利子生み
資本が一定率の所得を定期的にもたらす関係を︑﹁物﹂としての
資本に移すことにより︑意識的にか︑あるいは無意識的にか︑
物神化しているのである︒だが︑このような俗流経済学はとも
かくとして︑最良の経済学者たちですら︑利子生み資本の極度
の物神性に幻惑されて︑その本質と現象との統一的把握に失敗
して
いる
︒
いうまでもなく︑資本制生産様式の本質的な一要素をなす利
子生み資本は︑資本主義的生産関係の物化の極限に立つもので
あり︑したがって︑利子生み資本の根本的理解は︑その物神性
の謎を113それ以前の商品︑貨幣︑資本におけると同様に
ll
j
解明することなくしては不可能である︒Lかも︑利子生み資本
の物神性が地代とともに物神化の終極点にあるということから
して︑利子の本質的把握はいっそう困難となる︒なぜなら︑一
般的に経済的現象は︑本質としての生産部面から迭さかれば遠
ざかるほど︑ますます物神化きれ︑すべての媒介運動をおおい
かくすからである︒だが︑この困難は広く知られているように
マルクスによって解決された︒
マルクスの方法は︑現象より出発し︑分析的下向により現象
の背後にある本質を叫明らかにL︑その後︑今度はその本質を出
発点とし︑綜合的上向により現象に復帰し︑かくして現象と本
質との弁証法的把握をなしと︑げるものであることは︑周知のこ
とがらである︒したがって︑われわれの物神化の下向的分析の
出発点もまた︑最高度に物神化されているところの具体的日常
的な利子生み資本であり︑またその利子である︒この利子は貸
付げられた資本の使用に対して貸手に支払われる貨幣額であ
り︑そして︑この﹁黛付けられうる資本﹂とは︑﹁所有として
の資本﹂を前提とし︑この﹁所有としての資本﹂は︑所有され
土地物神について たところの一定の一貨幣量にほかならない︒資本制生産の基礎上では︑資本はそれが生産部面で産業的に投下されるか︑流通部面で商業的に投下されるかを問わず︑利潤をι生み出す︒このた
め︑貨幣││!ここではある価値額の自立的表現を意味するので
あって︑その実存形態が貨幣であれ︑商品であれ︑かまわない
││!は︑その本来の使用価値のほかに︑一つの追加的使用価値
すなわち資本として機能するという使用価値を受けとる︒かく
して資本は資本として﹁商品﹂となる︒
スミスは︑﹁資本を管理しまたぽ使用する人によって資本から
えられるところの収入は利潤とよばれる︒資本をしぶんでは使
わないで︑それを他人に貸す人によって資本からえられる収入
は︑利子または貨幣の使用とよばれる︒それは︑借手が︑その
貨幣の使用によってつくる機会をもっ利潤にたいして貸手に支
払うところの補償(丹
Z25
宮口
g z o
ロ)である︒この利潤の一
部分は︑危険をおかし︑資本を使用する労苦をなす借手に当然
帰属し︑他の一部分はかれにこの利潤をえさせる機会をあたえ
る貸
手に
帰属
する
﹂︿
﹃国
富論
﹄︑
大内
兵衛
訳︑
岩波
文車
版︑
川一
O九i一O頁﹂とのべており︑また﹁貨幣の利子は︑つねに一つの
派生的収入であって︑それは︑もし貨幣の使用によってえられ
る利潤から支払われるのでないときは︑なにかほかの収入源泉
から支払われなければならない︒ただし借手が浪費者であっ
て︑はじめの負債の利子を支払うために第二の負債を寸る場合
はベ
つで
ある
が﹂
︿向
上一
一
O頁)とのべている︒このように︑
一 六
土地物神について
利子からその独自の形態をはぎとって︑それが利潤の一部分で
( 詮﹀
あることを証明したのは古典学派の功績であった︒
(註
)﹁
この
虚偽
の仮
象お
よび
欺腕
︑富
の相
異な
る社
会的
諸要
素相
互の
この
自立
化お
よび
骨化
︑こ
の諸
物象
の人
格化
と生
産諸
関係
の
物象
化︑
日常
生活
上の
この
宗教
︑
i l
こう
した
もの
を古
典派
経済
学が
分解
した
こと
は︑
その
偉大
な功
績で
ある
︒け
だし
古典
派経
済
学は
︑利
子を
利潤
の一
部分
に友
一冗
し︑
また
︑地
代を
平均
利潤
以上
の超
過分
に還
元す
る!
ーし
たが
って
両者
は剰
余価
値た
る点
で一
致
する
ーー
から
であ
り︑
また
古典
派経
済学
は︑
流通
過程
を諮
形態
の
単な
る姿
態変
換と
して
叙述
し︑
最後
に︑
直接
的生
産過
程に
おい
て
商品
の価
値お
よび
剰余
価値
を労
働に
還元
する
から
であ
る﹂
(﹃
資本
論﹄
第三
巻八
八四
!豆
頁︑
ω
沢一一
O七
頁 ﹀ ︒
この﹁利子は利潤の一部分である﹂という発見の意義は次の
点にある︒すなわち︑﹁貨幣の利子﹂は﹁貨幣の使用によって
えられる利潤﹂の﹁派生的収入﹂であり︑﹁貸付けられた資本
の使用にたいして貸手に支払われる貨幣額﹂が︑﹁貸付けられ
た資本の使用﹂から生ずる利潤の一部であるとして︑利子を利
潤に︑したがっ℃︑利子生み資本を機能資本に結びつけたこと
である︒だ︑か︑利子を利潤に結びつけることは︑利潤は剰余価
値のさらに発展した形態であるから︑剰余価値と結びつけるこ
とを意味し││占典派経済学者たちは剰余価値と利潤とを混同
した││︑かくして利子を資本制生産の木質に結びつける途を
ひらくものであった︒
一六 四
また︑さらに利子を資本家的生産関係にかかわらせたこと
は︑資本制生産様式以前の諸時代における高利貸資本による高
利から質的に区別されたところの︑近代的形態の利子を正確に
把握する途をひらいたことをも同時に意味している︒だから︑
利子は利潤の一部であるという古典派経済学の認識は苅利子は
剰余価値の転化形態にすぎないという科学的認識の入口にまで
到達したわけである︒たとえば︑マルクスはスミスの前掲のこ
とはのすぐあとで︑﹁したがって利子は︑つぎのいずれかであ
る︒すなわち︑貸しつけられた資本で得られる利潤の一部であ
って︑このばあいには︑それは︑利潤そのものの一つの第二次
的形態︑その分身であり︑利潤の形態で取得された剰余価値が
ちがう人々のあいだでさらに分配されたものにすぎない︒ある
いは利子は地代から支払われる︒このばあいにも同じことがあ
てはまる︒またあるいは借手は利子を自分間身の資本または他
人の資本から支払う︒このぼあいには利子はまったくなんらか
の剰
余価
値を
形づ
くる
もの
では
なく
︑百
円申
片山
同名
Oロ 曲
目 印 叩 口
問 昨 日
0ロ
︹譲渡にもとづく利潤︺のばあいのように︑現存する富の分配
の変更すなわち三可注目︒ロえ
F o g ‑
自
80
同者
g
広町司
王者
︒巾
ロ
官同昨日目白︹当事者聞での富の平衡の変動︺であるにすぎない︒
したがって︑利子がまったく剰余価値の形態ではないこの最後
のばあいをのぞけば(さらに利子︑か労賃からの一陀除すなわちそれ
自身
利潤
の一
形態
であ
るば
あい
をの
ぞけ
ば︒
この
あと
のば
あい
につ
いて
は︑アダムはなにも述ベていない﹀︑利子は剰余価値の一つの第二
次形態にすぎず︑利潤または地代の一部にすぎず︿これムのもの
の分配に関係するものにすぎず﹀︑したがってそれがあらわすもの
は︑不払労働の一部以外のなにものでもない﹂令剰価価値学説
史﹄
︑長
洲一
一一
訳︑
国民
文庫
︑山
一五
四
1五頁﹀とのべ︑スミスのこ
とばが︑事実上利子は剰余価値の一部以外の何ものでもないこ
とをのべていることを明らかにしている︒しかしながら︑古典
派経済学の﹁利子は利潤の一部である﹂という認識は︑あくま
でも利子の本質把握の入口までの副到着にとどまり︑その入口を
通過するこ︑とまではできなかった︒かれらが成しとヴたこと
は︑ただ︑資本を所有する者と︑資本を機能させる者との聞で
おこなわれる貸借関係の結果︑機能資本家から貨幣資本家に支
払われる利子が︑機能資本家の利潤と無関係ではありえず︑そ
の一部分であるという事実関係を︑貨幣が貨幣を生むという外
面的な転倒的な媒介する運動のいっさいの痕跡を消失せしめて
いるのの︑なる関係の背後に認めたことにとどまる︒すなわ
ち︑
の l Q
なる範式を︑︒l
︹ の
ld
﹃ー
の︑
︺ー
の︑
およ
びの
1︹ の
ー ヌ 守 司 44 1Q
︺!の︑として認識しえたにとどまる︒
スミスにあっては︑剰余価値をその特殊な諸形態から区別さ
れた一定の範臨時の形態で説明していないために︑剰余価値と利
潤とを混同しており︑マルクスは︑スミスのこのあやまりが︑
リカiドおよびすべての後継者にも残っている︑と指摘してい
(匙 )
る ︒
土地物神について
(註
)﹃
剰余
価儒
学説
史﹄
前掲
室田
一六
i
四七O頁参
照︒
ここ
でマ
ル
クス
は︑
スミ
スが
剰余
価値
を一
方で
は﹁
受け
とっ
た賃
金と
交換
に
付加
する
以上
に労
働者
が原
素材
に付
加す
ると
ころ
の価
値か
らみ
ち
びき
出し
﹂︑
他方
では
﹁雇
主が
前払
した
原料
と労
働手
段と
賃金
と
の全
資本
の総
価値
以上
の余
剰﹂
とし
てつ
かん
でい
ると
いう
矛盾
を
指摘
して
いる
︒
かれらは︑一方では経済上の諸範鴎の内的関連︑すなわちブ
ルグョア社会の内的生理構造を研究しているが︑他方ではブル
ジョア社会の現象形態そのものを︑それが現象するままに記
述︑分類し︑図式的な概念規定をおこなっている︒こうした
非常な素朴さをもった不断の矛盾のうちにあった古典派経済学
による利子の分析が︑科学的認識の入口をふみこえることがで
きなかったのは当然である︒だが︑なぜ古典派経済学はこのよ
うな不断の矛盾のうちに転々せざるをえなかったのであろう
カその根本的原因として考えられることは︑経済学の研究の方
( 註
U法そのものが不十分であったことである︒マルクスが一再三指摘
しているように︑現象と本質とは直接には一致せす︑われわれ
の認識は感性的認識より本質的認識へと発展し︑かかる本質把
握の後︑はじめて現象そのものが本質との統一において理解さ
れるのである︒しかるに︑古典派経済学者たちは本質と現象と
の弁一証法的関係を理解せず︑たとえば︑スミスにあっては︑マ
ルクスのいうように︑内面的方法と外面的方法とが併用され︑
二ハ 五
土地物神について
この二つの+刀法は相互に矛盾しあい︑相排除するに至ってお
り︑﹁二人のスミス﹂(ロiゼンベルグ)は一歩ごとに相反駁し
あっている始末である︒ここにはマルクスにおけるがごとき分
析的下向法と綜合的上向法による経済学の科学的方法は確立さ
れていない︒このために︑高度の資本主餐的商品生産関係の腔
史的特殊性の物神化である利子生み資本の本質理解は不可能だ
ったのである︒かくして︑この完成せる物神的形態を科学的に
分析し︑下向することは︑古典派経済学の分析的武器では成し
とげられなかったのであるが︑このことは︑利子生み資本の完
成せる物神性が︑その本質を最良の経済学者たちにすら窺知さ
せなかったことを意味している︒
(註
)で
はな
ぜ経
済学
の研
究方
法が
不十
分で
あア
たの
か︒
その
答と
して
は大
約次
空一
点が
指摘
され
る︒
第一
には
︑当
時の
生産
力ポ
低
く︑
い空
だ自
然科
学お
よび
社会
科学
の諸
戎果
を充
分利
用で
きな
か
った
こと
︑第
二に
︑ブ
ルジ
ョア
ジー
の視
野の
狭少
性︑
すな
わち
人
間は
階級
社会
にあ
って
はつ
ねに
階級
の代
表者
であ
るこ
とか
らす
る
必然
的結
果︒
このように古典派経済学の方法そのものの不充分きは︑その
当然の結果として︑経済的諮範鴎の物神崇拝性の本質をえぐり
だすことに成功しなかった︒マルクスは︑スミスが刺余価値を
利潤だけでなく地代にも解泊しているのであるから︑﹁始以はす
でに一般的・抽象的形態をその特殊的形態のいずれとも直接に
いっしょにしてはならないということがわかっていなければな
一六
六
らなかったはずである﹂︿﹃剰価何値小説史﹄前掲喬一七O頁)との
べている︒まさに︑一般的抽象的形態すなわち本質的形態を特
殊的諸形態すなわち現象形態と直接同一視せず︑なぜこの本質
がかの現象形態胃どして示されるのか︑逆になぜかの一現象形態の
背後にこの本質が秘められているのか︑を解明するところに︑
科学の本領はあるのである︒このためには︑資本主義的商品生
産関係の物神化が︑なぜ生ずるかが明らかにされなければなら
亡︑
︒
チ'HBU
いうまでもな︿︑内然発生的な社会的分業の基礎上で︑生産
手段が自立的な個々の生産者によって所有されている特殊歴史
的な社会構造においては︑個々の労働者の労働はその自然形態
のままでは直接社会的労働の役割を果しえず︑﹁独自的社会的
労働﹂として︑その役割を果す︒﹁社会的労働の連調が︑個人
的労働生産物の私的交換としてあらわれる社会状態﹂Qク1ゲ
ルマ
ンへ
の手
紙﹄
一八
六八
年七
月十
一日
付︑
中内
通明
京︑
国民
文庫
︑八
八頁)においては︑生産物に対象化された労働は︑抽象的人間
的労働として価値の実体となる︒と同時に︑単なる労働の生産
物は商品形態を受けとり︑商品物神の神秘性が発生する︒この
神秘性は︑これらの商品のなかに︑新たに労働力というその使
用価値が価値を生み出すところの独自な一商品が出現するに及
んで‑││これは同時に︑生産手段の資本家階級による独占とい
う︑歴史上の一新時代の到来にほかならないが
1
1︑
発 展 す
る︒資本主義制度のもとでは生産関係の基礎は︑資本家が生産
手段を所有するが︑生産従業者すなわち賃銀労働者を所有しな
い︑ということにある︒このような社会形態にあっては︑もと
もと労働者のものである生産力を労働者に対立せしめ︑本来的
には社会的統一体である生産関係の個々の部分の自立化を︑単
純商品生産関係よりさらに一段と激化する︒しかし︑これらの
統一は実現されねばならず︑この実現は物の関係を通し︑物の
運動としてあらわれる︒ここに社会関係の物化がおこなわれ︑
資本主義的生産関係の高度の物神化︑か生ずる︒生産の社会的性
質︑階級聞の基本的な社会関係は物神化される︒商品︑貨幣︑
資本︑利子生み資本︑地代等々の物神性はこ}﹂から生ずる︒資
本主義的生産関係をとりあっかう経済学が物の関係をとりあっ
かうのは︑生産関係をその物化している点においてとらえよう
とするためである︒﹁経済学がとりあっかうのは︑物ではなく︑
人と人とのあいだの関係であり︑結局︑階級と階級とのあいだ
の関
係で
ある
﹂(
エン
ゲル
ス﹁
カー
ル・
マル
クス
﹃経
済学
批判
﹄﹂
︑
Y経
済学
批判
﹄︑
国民
文庫
︑二
五二
頁)
︒
しかもこの生産関係の物化は︑抽象より目六体へ︑単純より複
雑へと︑弁証法的に発展している︒弁証法的唯物論によれば︑
事物の発展はそれ自身の矛盾の自己活動によるものであり︑そ
の原動力は対立物の闘争である︒資本主義的生産関係の発展
も︑そのもっとも単純な矛盾が発展して︑そのもっとも複雑な
生産関係にまで到達しているものである︒したがって︑高度に
発展した資本主義生産関係の物化︑物神化は︑その基礎的な生
土地物神について 産関係の物化︑物神化をそれ自身に内包しているものであり︑またかかる低度の物神化のつみかさねとして理解されてのみ︑真に理解されたということができる︒
利子および利子生み資本物神への綜合
的上向
﹁利子っき資本に特徴的なことは︑最高度の物神とそれを反
映する最高度の擬制である︒そこで︑このような最高度物神と
それを反映する最高度擬制との統一的把握が︑近代的利子っき
資本および近代的利子の完全な理解にとって︑欠くことのでき
ない基礎的要件となる﹂(飯田繁﹁利子の本質と形態﹂︑ヌγ
キン
グ﹄
第七
四号
︑二
O頁 ﹀ ︒
このような最高度の物神化の極点に立つ利子生み資本は︑そ
れ以前の種々の物神化の段階の上にあるものであり︑われわれ
は︑この物神化の段階を︑抽象から具体へ︑本質から現象へ
と︑逐次上向することにより︑統一的に把握しなくてはならな
い︒このことは︑﹃資本論﹄を﹁物神化の上向過程﹂として理
解することを意味し︑また当然のことながら︑地代論や利子生
み資本の理論を価値論の発展として把握するということであ
周知のように︑﹃資本論﹄回目頭の商品は︑資本制生産様式のも る ︒
っとも単純な︑抽象的な︑基礎的な︑かっ一般的な生産関係︑すな
わち社会的分業の基礎上での私的所有一般を表現している寸資
二ハ
七
土地物神について
本論﹄冒頭の商品の性格を︑どのように理解するか︑について
は︑﹁単純商品﹂であるとか︑﹁資本制商品﹂であるとか︑いや
そうではなく﹁範臨時商品﹂であるとかの種々の解釈がみられた
が︑マルクスが︑﹃資本論﹄官頭で論じている商品は︑資本制
生産様式のもっとも簡単な範時としての商品ーーしたがってそ
れは︑商品生産さえもの︑最も簡単な範陽商品ーーである︑と
みるのが正しいであろう︒すなわち︑社会的分業の基礎上での
私的資本主義的所有という関係にくらべて︑より基礎的な簡単
な社会関係としての社会的分業の基礎上での私的所有一般の物
化としての商品である︒この範鴎商品が︑﹃資本論﹄の出発点
である︒価値物としての商品をさらに下向して︑使用価値を経
済学の出発点とすることはできない︒物としての使用価値は何
らの社会関係をも表現せ︑ず︑商品の使用価値それ自体を研究す
るのは︑いわゆる商業教育における﹁商品学﹂の問題である︒
そこで次にわれわれの考察は︑生産物が生産物としてではな
く︑商品形態を受けとるということ︑同じことであるが︑私的
(註 )
労働がそのままでは社会的労働としての機能をつくせず︑独自
的社会的労働という資質を与えられるのはなぜか︑をまず解決
することから始めねばならない︒
︿註
)も
ちろ
ん人
間の
労働
はい
つで
も社
会的
性格
をも
って
いた
︒だ
が注
意す
べき
は私
的労
働が
二重
の社
会的
性格
を受
けと
ると
いう
こ
とで
ある
︒こ
の点
にこ
そ商
品生
産社
会に
おけ
る労
働の
独自
性が
あ
る︒
﹁生
産者
たち
の私
的諸
労働
は︑
事実
的に
︑二
重の
社会
的性
格
一六
八
を受
けと
る﹂
(﹃
資本
論﹄
第一
巻七
九頁
︑訳
川一
七四
頁)
ので
あっ
て︑
この
点を
マル
クス
は︑
商品
を生
産す
る労
働の
独自
的社
会的
性
格と
して
強調
して
いる
ので
ある
︒
すなわち︑単なる生産物(使用対象︑使用価値物)が商品形態
を受けとり︑使用価値と価値という二重の性格をもち︑その両
者の統一物としてあらわれるところに︑問題の出発点がある︒
われわれは︑単なる労働の生産物が商品形態を受けとるのは︑
ある特定の生産関係のもとにおいてである︑ということを知っ
ている︒すなわち︑自然発生的な社会的分業の基礎上で︑独
立した個々の生産者がその生産物を交換するところの社会に
おいてのみ︑単なる生産物は商品形態を受けとる︒別言すれ
ば︑﹁社会的分業にもとづく生産手段の私有社会﹂における人
々が︑かれらの肉体的生命を維持するために必要な生活資料を
消費し︑社会そのものを存続させてゆくためになされねばなら
ぬ行為は︑人々がその生産物を交換するということであり︑か
くして︑かれらの労働生産物に商品形態を与えることである︒
﹁社会的分業にもとづく生産手段の私有社会﹂は︑実は生産物
に商品形態を与えることなくしては絶対に存在しえないのであ
って︑ここに生産関係の物化
1
商品化されざるをえない必然性が厳として存在しているのである︒ここでは労働の生産物は社
会的に有用な使用価値でなければならず︑その物が他の物と交
換されるという性質︑すなわち交換価値←価値を有しなければ
ならない︒かくて︑単なる使用対象としての生産物は︑その使
用価値としての性質のほかに︑さらにその物と他の物とが交換
されるという性質をも有することとなり︑商品となる︒したが
って︑商品とはこのような特定の生産関係の物化︑物的表現に
ほかならない︒そして︑労働生産物が商品形態をとるや否や生
ずるところの謎的性質は︑実にこの商品形態そのものから生ず
るのであり︑当然のことながら︑このような生産関係以外の社
会においては︑商品世界の全神秘が消滅する︒
私的労働が私的労働としてとどまるロビンソンの島の生活に
おいですら︑﹁ここに価値のいっさいの本質的規定がふくまれ
ている﹂にもかかわらず︑商品の謎的性質は発生しえない︒ま
た私的労働がその自然的形態そのままで社会的労働たりうる社
会︑すなわち完全な共産主義社会においても同様である︒ζれ
らの社会では︑諸労働がそのままの形態で社会機構の中に入り
こみ︑労働の具体的有用的性格がそのまま労働の直接に社会的
な形態であって︑労働の二重性︑労働生産物の荷品化︑したが
って価値と使用制値との矛盾はありえず︑生産関係はなんら物
の関係をとることなく︑労働の生産物は単なる労働の生産物に
すぎず︑商品形態をとる必要はない︒そこには商品のもついっ
さいの謎的性質はない︒
商品生産社会では︑人間生存のためのあらゆる社会形態に共
通の必要事たる生産行為(H自然法則)が︑社会的労働の連調
が︑個人的労働生産物の私的交換としてあらわれる社会状態に
おいて貫徹されねばならず︑ここに﹁人聞の諸労働の同等性
土地物神に勺いて は︑労働諸生産物の同等な価値対象性という物質的形態を受けとり︑人間酌労働の支出の︑その時間的継続による度量は︑労働諸生産物の価値の大いさという形態を受けとり︑最後に︑生産者たちの諸労働のかの社会的諸規定がそこで実証される彼等の諸関係は︑労働諾生産物の社会的関係という形態を受けとる
﹂(
﹃資
本論
﹄第
一巻
七七
頁︑
訳凶
一七
二頁
)の
であ
る︒
かくして︑人間の社会的関係は物としての商品の自然的属性
として人間の限に反映させられることになり︑生産者たちの社
会的関係︑が︑生産者たちの外部にある物の関係として人聞に現
象する︒ここに商品生産社会の神秘性︑物神性︑顛倒性の第一
歩が完成する︒マルクスは︑この商品の物神性の類例を宗教に
とり︑宗教的世界の妄想境では︑﹁人間の頭脳の諸生産物が︑
独自の生命を与えられた・相互にかつ人々と関係を結びあった・
自立的な諸姿態のように見える︒商品世界では︑人間の手の諸
生産物がそうである︒これを私は︑労働諸生産物が諸商品とし
て生産されるや否やそれらにまといっくところの︑したがって
また荷品生産と不可分離であるところの︑物神山由市拝と名づけ
る﹂
(同
上七
八頁
︑訳
山一
七三
頁﹀
との
べて
いる
︒
以上により︑商品が資木主義的生産関係のもっとも抽象的な
本質的な生産関係の物化であることが明らかになった︒
すなわち︑商品生産社会においては︑自立的な私的労働の生
産物の交換を遇してのみ︑人々はたがいにその社会的関係をと
り結ぶのであり︑かくして人と人との社会的関係は物と物との
一六 九
土地物神について
関係としてあらわれ︑生産物に対象化された抽象的人間的労働
が価値の実体を形成しているのである︒マルクスは︑﹁資本論﹄
で資本制社会のもっとも基礎的な一般的な生産関係の範臨時化と
しての商品を分析し︑それが価値と使用削値という二重の性格
をもつものであること︑ついで価値の貿(抽象的人間的労働﹀と
量(社会的必要労働)を明らかにしたのち︑この価値の形態を問
題とする︒いうまでもなく︑本質は必然的に現象し︑現象は本
質の現象である︒それ故本質としての価値はその現象形態をも
たねばならず︑価値形態をもたねばならない︒諸商品は︑それ
が一定の生産関係全表現するものであるが故に商品すなわち価
値物なのであるから︑商品の価値対象住は純粋に社会的であ
る︒したがって価値が商品と商品との社会的関係においてのみ
現象しうることは当然である︒マルクスの価値形態論は︑相対
的価値形態にある商品の価値が等価形態にある商品の自然的形
態において表現され︑商品の内的矛盾である使用価値と価値が
外化して︑価値ば等悩形態にある商品の自然的形態によりその
独立した形態を獲得し︑こうして等価形態にある商品の自然形
態は︑すべての人間的労働の眼にみえる化身︑一般的社会的踊
化として意義をもつこと︑等価形態に立っている特定の商品め
自然形態がそのままで価値の独立化を表現しうるのは︑商品世
界における無数の商品の共同行為の結果であるのに︑等価形態
の物神性は︑このような商品世界の共同行為が等価形態にある
部品の自然形態そのものの属性として現象するところにあるの
一七
C
であって︑かのまばゆいばかりの貨幣形態の物神もここにある
こと︑を教えている︒
荷口問に内在するところの価値は貨幣によってその独立せる一
般的形態を受けとる︒貨幣の本質は︑まさに価値形態たるとこ
ろ
ι
存する︒したがって︑価値論を前提とせずしては︑貨幣の本質︑その必然性はなんら解明されえない︒マルクス以前のす
べての経済学者が貨幣物神の謎を解決しえなかったのは︑かれ
らの価値論そのものが不徹底であったことからして当然であ
る︒貨幣の本質は︑商品世界の共同行為により︑特定の商品が
獲得したところの社会的性質にある︒しかるに︑この等価形態
にある商品の使用価値が他の商品の価値を表現しうるといろ社
会関係が︑あたかも等価形態にある商品の使用価値の自然的性
質そのものから発生するかのようにみえる︒ここから︑いっさ
いの貨幣物神の謎に幻惑きれたブルジョア的俗説が発生するの
であ
る︒
ペグリブ﹁貨幣形態の概念における困難は︑ただ︑一般的な等価形態
ベグライフヱンを︑つまり一般的な価値形態一般を︑形態皿を︑把握すること
だけである︒形態皿は︑逆の連関では形態耳︑すなわち関田関さ
れた価値形態に帰着する︒そして形態Eの構成要素は形態I︑
すな
わち
︑
N O H Lで て
δ岡類社HH涛
δl
r対あるいは︑H割自
kr
Hいて罰百切である︒だから︑簡単な商品形態は貨幣形態の
萌芽
であ
る﹂
(﹃
資本
論﹄
第一
巻七
六頁
︑訳
叫一
七O頁ーしたがって
また貨幣の物神性は︑商品の物神性のさらに具体化された形態
にほかならない︒そして︑この貨幣の物神性はさらに資本の物
神性へと︑よりいっそう具体的に展凋されていくのである︒マ
ルクスは︑生産関係を抽象上り具体へと叙述することにより︑
同時に物神化の上向過程を叙述している︒
われわれはすでに︑生産物が商品形態をとり︑商品の価値が
その独立した形態としての貨幣形態をとることにより︑商品物
神および貨幣物神の謎的性質が発生するのをみたが︑次に価値
が資本形態をとるにおよび︑価値はそれが価値であるが故に価
値を生むという︑幽玄な資質をもっ資本物神をみなげればなら
ない︒貨幣の資本への転化は︑歴史的な過程として十五世紀末
と十六世紀の初頭以来始めて大規模に生じたのであるが︑論理
的にも貨幣は資本の最初の現象形態である︒
マルクスは﹁資本論﹄第一一篇﹁貨幣の資木への転化﹂の冒頭
を次のことばで始めている︒﹁商品流通は資本の出発点である︒
商品生産︑および発展した商品流通ー
l
i商業ーーは︑そのもと
で資本が成立する歴史的前提をなす︒世界商業および世界市場
は︑十六世紀において︑資本の近代的生活史を間開始する︒商日間
流通の質料的内容たる相呉なる諸使用価値の交換を度外視する
ならば︑そしてこの過程の生みだす経済的誇形態のみを考察す
るならば︑吾々は︑この過程の最後の産物として貨幣を見出
す︒商品流通のこの最後の産物は︑資本の最初の現象形態であ︑
る﹂
(﹃
資本
論﹄
第一
巻一
五三
頁︑
訳仰
二八
三頁
﹀︒
ではなぜ資本の研究は貨幣から始めなければならないか︒そ
土地物神について れは︑貨幣形態においてのみ価値はその独立せる形態を受けとり︑またの1巧
l q
という過程の主体にほかならないからで
ある︒この点に関して︑マルクスはまた次のようにのべてい
る︒﹁価値は︑そこでそれが貨幣形態および商品形態をあるい
は採りあるいは脱ぎ︑しかもこの変換において自らを維持し且
つ拡大する上うな︑そうした過程の支配的主体としては︑何よ
りもまず︑それによって価値の自己同一性が確認されるような
自立的形態を必要とする︒そして価値は︑こうした形態を貨幣
のう
ちに
のみ
有ず
る﹂
(同
上ニ
ハ一
賀︑
訳凶
一一
九五
頁﹀
︒こ
の上
うに
資本とは︑自己自身を増殖する︑運動しつつある価値にほかな
らな
い︒
次に︑資本はそれ自身の自然的属性により剰余価値を生みだ
すようにみえるのであるが︑このような資本物神の神秘性を打
破し︑同期倒せしめ︑その本質を暴露しなければならない︒この
ことは同時に労賃は労働の価格である︑ということばの不合理
性を解明することである︒
マルクスは資本の一般的範式︒巧ーの︑が成立することを論
証するに先立って︑者︒
14
司との
14﹃ーのとのこつの間の形
式的性格の差を措写し︑その背後にひそむところの本質的差刷
を明らかにした︒ゎl当ーの︑において︑このの︑はの
+ k v q
︑
すなわち最初に投資した貨幣額にある増加分を加えたものであ
るが︑この増加分はどこから生ずるか︑これこそ資本の一般的
範式のもつ矛盾にほかならない︒この増加分は流通過程の外部
七
士地物神について
から生ずるのではないことは明らかである︒だがまた︑単純な
商品流通の内部において︑果してこのようなことが可能なの
か︒マルクスば︑商品流還を剰余価値の源泉とし︑使用価値の
相互交換による交換当事者の利得から︑この剰余価値を説明し
ようとするコγ
ディ
ヤッ
クの
説(
これ
は使
用悩
億と
!万
民価
惰と
の取
りちがえ)や︑商品を価値以上で販売するという重商主義やト
レンスの説︑および販売することなしに購買するだけの一階級
を想定するマルサスの説︑さらに佼滑によるところの歎きこ
そ︑この増加分の起源であるとするトラシの説等のあらゆる俗
説をことごとく反駁し︑最後に︑剰余価値は流通過程からでは
なく他のどこから生じうるか︑﹁ここがロ1ドウス島だ︑ζこ
で挑ベ﹂と問題を提起する︒この問題こそ︑ァ︑タム・スミスか
らりカードに至る従来の最良の経済学者のつまづきの石であっ
た︒この問題は︑マルクスにより︑労働ではなく労働カが商品
化されているという発見によって︑見事に解決された︒
労働力の価値または価格は︑労働の価値または価格とし℃現
象し︑﹁労働力の価値﹂は﹁労働の価値﹂という賃銀の外観を
とって︑資本家により全労働者に対して安払われるようにみえ
る︒したがって︑資本物神の謎を解明するに先立って︑また資
本物神の識を解明するために︑労働!労賃の謎を解明しなけれ
ばな
らな
い︒
なぜ﹁労働カの価値または価格﹂が﹁労働の価値または価
格﹂という現象形態をとり︑労賃の欺陥性︑が完成するのか︒マ
七
ルクスは﹃資本論﹄第一巻第六篇﹁労賃﹂第十七章﹁労働力の
価値または価格の労賃への転形﹂において︑この問題が労働力
という商品の独自的な性質の解明に上って解決されることを示
している︒すなわち︑
什二重の青山味で自由な労働者は︑生産手段の独占者と法律的
にまったく平等な立場により︑かれの労働力を資本家に売り渡
す︒乙の契約は自由平等のブルジョア的秩序に合致したところ
のものであり︑そこにはなんらの搾取もおこなわれていないが
ごとくに現象する︿だが︑労働力以外のなにものをも所前しない労働
者に
とっ
ては
︑餓
死と
いう
脅迫
によ
り︑
最初
から
不平
等な
もの
であ
るこ
の契
約の
本質
はお
おい
か︿
され
てい
る)
︒﹁
資本
と労
働と
の交
換は
︑
知覚にたいし︑さしあたり︑すべての他の商品の売買とまった
く同
じ仕
方で
現わ
れる
﹂(
﹃資
本論
﹄第
一巻
五六
六頁
︑訳
倒八
四七
頁)
︒
労働力の使用価値は︑資本家と労働者の契約により一定期間消
費された後︑はじめて資本家から一定額の貨幣を支払われる︒
したがって︑労働者はつねに白分の賃銀を資本家に前貸してい
る︒すなわち︑労働者はかれの労働の終了後において︑はじめ
てかれの労貨を受けとるのであって︑かれの労賃はかれの労働
力のではなく労働の代償として現象する︒ここでは﹁労働の価
値﹂﹁労働の価格﹂という表現は︑﹁棉花の価値﹂﹁棉花の価格﹂
という表現にくらべて︑より不合理だとはみえない(事実は︑
労働
者が
資本
家に
提供
する
﹁使
用価
値﹂
は労
働者
の労
働力
では
な︿
て︑
労働
力の
機能
たる
一定
の有
用労
働で
ある
v︒
ω
八時間労働にくらべて十時間労働の賃銀が大であったり︑労働の強度の小なる作業は大なる作業にくらべて労賃が小であ
る場合︑賃銀は労働の価値または価格であるということを︑事
実において説明しているかのように現象する︒
日開逆に資本家は︑労働の価値または価格という現象形態を基
礎として︑時間賃銀や個数賃銀その他のいろいろな賃銀形態を
労働者に押しつけてくる︒これらの賃銀形態はますます労働こ
そ労賃の代価であるという表象を完成する︒
マルクスによって︑これらの現象形態はその本質を暴露され
た︒労賃物神の謎の解明こそは︑資本主義社会の歎繭性の暴露
の基
礎で
ある
︒
そもそも労働とは︑人間がそれによって自然との質料変換を
媒介するものであり︑人間一般の生産的活動であって︑あらゆ
る生産様式に共通の自然必然事である︒ところが︑ある特定の
生産様式のもとにおいてのみ︑それが労賃の源泉であるという
事実が物語るものは︑労働はここではその自然的形態が問題な
のではなく︑その社会的形態が問題であるということにほかな
らない︒このために︑ブルジョア社会の表面では︑なぜ労働者
の報酬が﹁労働の価格﹂として現象するかが︑とりあげられね
ばならなかったのである︒
次に︑この労働の価格がいかに背理であるかをみなければな
らない︒さて︑労働も他の商品と同様に市場で販売されるため
には︑販売に先立って労働なる商品が存在しなければならな
土地物神について ぃ︒だが労働は一個の抽象物にすぎず︑それ自身では独立して存在しえない︒﹁労働者が労働に自立的実存を与えうるとすれば︑彼は商品を売るのであって労働を売るのではないであろう﹂(
同上
五六
一頁
︑訳
側八
四
O
頁)︒このほかさらに︑労働が商品であり︑労賃が労働の価値である︑とすることから生ずる︑次の
ような根本的矛盾に注意しなければならない︒労働を販売する
││生きた労働と貨幣すなわち対象化された労働とを交換する
ll
!ということは何を意味するか︒たとえば八時間の労働日が
八百円の貨幣価値をもつものとL︑等価物どうしが交換される
ことにより︑労働者は八時間の労働にたいし八百円を受けと
る︒この場合には︑労働者は資本家になんらの剰余価値をも生
産することなく︑その八百円は資本に転化することなく︑した
がって資本制生産の基礎は消滅する︒それにもかかわらず︑労
働者がその労働を販売するのは︑ほかならぬこの資本制生産の
基礎においてのみである︒逆に八時間の労働に対して八百円よ
りも少なく受けとるとしよう︒この場合には︑労働者は八時間
労働に対して八時間労働以下の︑たとえば六時間あるいは五時
間等の価値を受けとることとなり︑かくして﹁資本制的生産の
基礎上で初めて自由に発展する何値法則
L (
向上)を破棄する
こととなる︒さらにまた︑より多くの労働とよりわずかの労働
との交換を︑対象化された死んだ労働と生きた労働という形態
的区別から説明づける理論も︑何の役にも立たない︒なぜな
ら︑商品の価値は︑その商品に現実に対象化されている労働の
一 七 一 一
一
土地物神について
分量によってではなく︑その商品の生産に必要な生きた労働の
分量によって規定されるからである︒ある商品が六時間労働を
表示するとしても︑もしその商品が三一時間で生産されるような
発明がなされるならば︑その商品は従来の六時間のかわりに一一一
時間の必要な社会的労働を表示するとととなる︒こうして商品
の価値は半減する︒だから生きた労働と死んだ労働との交換を
云々することはナンセンスにすぎない︒これらのことにより︑
労働者が労働の報酬として受けとるものが労働の価値あるいは
同格であるならば︑総じて資本主義社会は存在しえず︑そもそ
も労賃なる経済的範鴨も存在しえないことが明白となった︒商
品市場で労働者が資?本家に販売するのは︑実は労働ではなくし
て労働力にほかならない︒労働者はかれの労働力を時聞をきめ
て売るのである︒かれの労働についていえば︑労働が現実に始
まるや否や︑それはすでにかれのものではなく資本家のもので
あり︑したがって︑このような労働を販売することなどは不可
能である︒労働聞は価値の実体であり︑また内在尺度であるとは
いえ︑しかもそれ自身はなんらの価債をももたないのである︒
労賃の欺臓怜は資本物神を完成する︒労賃が労働の価値また
は価格という詐欺が完成されるや︑資本の生み出す増加分は︑
資本自身が生み出すものとしてのみ現象する︒われわれは労賃
の本質が労働力の価値であることを知り︑また剰余価値の真の
源泉が何であるかを埋解している︒商品の価値はその本質にお
いての+︿+冨である︒ところが資本家的支象においては︑
一七
四
商品の価値は間十回Vすなわち費用価格プラス利潤に転形する︒
この利潤は剰余価値と同じものであり︑資本制生産様式から必
然的に発生する神秘化された形態をとっている剰余価値であ
る︒このような形態においては︑﹁利潤﹂はいわゆる生産の三
要素の一つとしての資本に帰属する分配分とされている︒ここ
では利潤は不払労働の占有とは無関係に︑その独自の機能によ
る産物とみなされる︒だが事実は︑資本は一つの社会的生産関
係を表現するものにほかならない︒
さて資本物神の成立の根拠をみよう︒資水制的に生産きれた
各商品の価値は︑当
Hm
十︿+冨という範式であらわされる︒u
この生産物価値から剰余価値を控除すれば︑生産諸要素に支出
された資本価値ゎ+︿が残る︒この都分は資本家が商品に要資
したところのもの︑すなわち商品の費用価格である︒資本家が
商品に要費するものと︑商品生産︑が要費するものとは︑まった
く異なった二つの大きざである︒商品価値のうち剰余価値から
成り立つ部分のためには︑労働者が不払労働を費やすだけで︑
資本家は何も費やさない︒だが︑顛倒せる資本主義社会におい
ては︑労働者ではなく資本家が現実の商品生産者であるから︑
資本家の費用価格が商品生産に必要な現実的費用として現象す
ることとなる︒資本家にとっては︑商品価格のなかのCとVと
は前貸しされた資本額を補填するにすぎず︑剰余価値の生産の
ための費用傾格にほかならない︒今︑この一費用価格をKであら
わすと︑巧H間十冨となる︒かくしてKに対してのMは利潤と
称せられる︒利潤という表象が確立されると同時にその本質は
隠蔽せられ︑利潤概念の成立を通して資本物神も確立され︑物
としての資本が利潤を生みだすこととなる︒資本は生産手段の
総和となり︑生産手段そのものが資本となる︒あたかも金また
は銀そのものが貨幣であるかのごとくに︒しかしこのような現
象の背後にひそむ本質はまったく逆である︒資本は物ではな
く︑ある物によってみずからを表示し︑そのものにある独自的
な社会的な性格を与えるところの生産関係にほかならない︒生
産手段が資木ではなく︑資本に転化された諸生産手段が資本で
あって︑このことは︑あたかも貨幣そのものが貨幣に転化され
た金または銀にほかならないのと同様である︒資本は社会の一
階級によって独占された生産手段であり︑このようなものとし
て生きた労働力に対立するところのものとなり︑さらに労働の
あらゆる社会的生産諸力が︑労働に属するものとしてではな
く︑資本に属するものとして︑資本自身の生産力として現象す
る︒ここにおいて︑生産の本質的関係は背景に押しやられ︑真
実を模糊たらしめる︒ここに資本物神は成就される︒
きて︑剰余価値は利潤に転形され︑本来可変資本からだけ生
ずるところの剰余価値は前貸資本︑費用価格の各部分からも平
等に生み出されるように現象し︑こうしてまた︑生産過程から
だけでなく︑流通過程からも生ずるかのようにみえることが明
らかとなった︒だが︑剰余価値が利潤に転形されることによっ
ておおいかくされた資本主義的生産の本質は︑この利潤がさら
土地物神について に平均利潤に転形されることによって︑ますますその本質を秘匿する︒ここで平均利潤の本質隠蔽性について簡単に考察しょ﹀円ノ
等量の資本が等量の利潤を生みだすという平均利潤率の形成
は︑商品生産における価値規定の原則と矛盾せざるをえないの
ではないか︒この疑問はマルクスにより︑価値法則をなんらそ
こなわずに︑生産価格の法則によって説明された︒剰余価値率
がすべての産業部門について一様であるとしても︑資本構成が
相異なるとすれば︑各部門について相異なる利潤率が成立せざ
るをえない︒換言すれば︑商品がその価値どおり交換されると
すれば︑資本構成のいかんに応じて︑さまざまな利潤率が成立
する︒もし各産業部門間にこのような利潤率の差異が存在する
ならば︑低利潤の部門から高利潤の部門へと資本と労働力の移
動がおこなわれ︑このような競争による資本の移動は需要供給
の変化をとおして価格を変動させ︑現実の不均等利潤をとおし
て平均利潤への傾向をもつこととなる︒費用価格プラス平均利
潤は生産価格であるが︑資本構成の高度な部門においては︑生
産価格での販売は価値以上の実現を︑資本構成の低度な部門に
おいては価値以下での販売を意味し︑生産された剰余価値と実
現された利潤とは一致しないが︑社会的総資本全体にとっては
一致する︒かくして︑平均利潤は個々の生産部門で現実に生産
された剰余価値︑利潤とは量的にもちがうものとなり︑資本の
有機的構成や回転期間や剰余価値率のちがいがどうあろうと
一七
五
士地物神について
も︑同一の資本に対して同一期間には同一率の利潤︑があたえら
れることになり︑資本はますます生産過程におけるその本質を
隠蔽して︑物としての資格において利潤を生みだすという︑俗
眼にとって嬉しいその物神性を完成する︒なお商品の価値の生
産価格への転形によって︑費用価格に入りこむ商品の価値も生
産価格に転化する︒そのため︑いわゆる転形問題を牛一じたが︑
この点は社会の総生産部門の考察によって︑価値法則をそこな
うものでないことが明らかにされている︒
さてこの資本物神の神秘性は︑商業資本においては産業資本
におけるよりもさらに深まり︑木源的な価値生産の諸関係はい
っそう背景にしりぞけられる︒
社会的総資本の一部はつねに商品として流通過程に存在し︑
また他の一部はつねに貨幣として存在している︒このような商
品資本および貨幣資本は︑流通過程における独立した機能を果
すことにより︑商品取引資本および貨幣取引資本となり︑この
両者は商業資本もしくは商人資本として平均利潤の装得に参加
する︒商業資本の一般的範式はの│者ーの︑にほかならず︑純
粋の流通部門でのみ機能するから︑なんらの価値︑したがって
また剰余価値をも生産しない︒しかし商業資本は社会的総資本
の流通過程を媒介する適当な比心不で存在するかぎりでは︑流通
期間を短縮して産業資本の回転期間を縮少せしめ︑こうして産
業資本の利潤生産を大ならしめる︒また流通上の諸経費を節減
し︑さらに貨幣資本として流通部面に拘束される資本部分を減
一七
六
少させる︒このように商業資本は︑それ自身なんらの価値︑剰
余価値を生産しないにもかかわらず︑結局は社会的総資本の利
潤量を増大させる︒ここに商業資本が利潤(平均利潤)を獲得
する理由がある︒この利潤は当然産業部門によって生産された
剰余価値の一部分であることは明白である︒販売すべき商品
を︑商業資本家は産業資本家から価値または生産価格以下で購
買し︑価値または生産価格で販売することにより利益を入手す
る︒これが事態の本質である︒この本質は現象面においては逆
の顛倒された形態をもってあらわれる︒すなわち︑商品中にふ
くまれる価値は流通過程で実現きれるのであるが︑現象形態に
おいては剰余価値は流通において実現されるのみならず︑流通
過程それ自体から生じるようにみえるのである︒このような仮
象は次のニつの事情によって確立される︒第一に︑売買によっ
て生ずる利潤は︑詐欺︑策略︑専門知識︑熟練および市場情況
に依存するということ︒第二に︑労働時間のほかに流通時間が
付加わるという事情︒この流通時間は︑価値および剰余価値形
成に関しては消極的な役割を演ずるにすぎないのだが︑それに
もかかわらず︑労働時間と同じように剰余悩伯を生み出す積極
的原因のようにみえる︒かくて︑商業資木の物神化は産莱資本
( 吉 山 )
の物神化のより進んだ形態となる︒
(註
)価
値も
剰余
価値
も生
産し
ない
商業
資本
も産
業資
本と
同じ
資格
で平
均利
潤の
形成
に参
加す
るの
であ
る︒
マル
クス
はこ
れを
次の
よ
うな
数字
例で
説明
する
︒
一年間に投下される総産業資本を芯司の+H84H申gとし︑剰
余価値率を50%とすれば︑生産される商品資本Wの価値または
生産
価格
は芯
Cわ
十日
∞C
︿十
回∞
OB
H︼goとなる︒そして︑との
rg
cの
Wば︑gcの産莱資本のほかに︑その流通のために︑きら
にHDOの追加資本が投干きれなければなムないものと前挺され
る︒そこで︑流通資を拾象したこの場合の一般的利潤率について
みると︑それは産業資本によって生産された総利潤goによって
規定されているのであるが︑計算の基礎は産業資本に商業資本を
加えたものでなければならないQ前提にしたがって︑来業資本は
由g
︑商
業資
本は
忌む
とす
れば
︑一
般利
的潤
率ば
gc
¥5
00
HH
田町
市と
なるのであって︑したがって総利潤ECは︑リ仕業資本と商業資本
とに
たい
して
︑そ
れぞ
れぞ
同D
Hu
‑a
N
什
H¥
HC
HZ
との
比率
で分
配
されることになるοだから︑産業資本家は現実にはgoの価値あ
るW
を同
qN
O十
回∞
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UD
‑‑
)+
司(
HE
N)
Hr
gN
の価
格で
古川
人に
販売
し︑後者はそれに一般的利潤率にしたがって計算された︑その大
きさに応じて彼に帰属する平均利潤冨を付加した﹁cg︑すなわ
ち商品の価値に等しい価格で売一るのである︒
しかしここに次のような問題が生子る︒すなわち︑﹁商人は産
業家と同じだげの利潤を受けとらねばならないし︑また受けと
る︒しかし商人は︑ただ商品の購買に資本を投下するだけではな
く︑流通費にも資本を投下する︑そして︑後者のうちには一雇傭者
および商業労働者の労働にたいする支払いもふくまれる︒この費
用はひとり販売価格で償われるべきのみでなく︑さらにそれにた
いして利潤を受げとられなければならない︒そうでなければ︑商
業利潤の率は産業利潤の率よりも低ぐなるであろう︒かように︑
土 地 物 神 に つ い て
商業利潤の問題は流通費の問題によって複雑にきれる︒すなわち
川いかにして流通費が償われるか︑聞いかにしてさらに利潤が受
けとられ毛か︑という問題がこれであァ心﹂ハ一ーゼンベルグ吋資
本論
註解
﹄︑
梅村
二郎
一以
︑第
七霊
園出
︑第
三巻
第一
分冊
士一
七六
一民
)
ということである︒
つまり︑それまで捨象きれていた抗泊費円引算・簿記・通信容
のために一定の不変資本(防舗紙・郵便料等﹀と可変資本(商
業労働者の賃銀)︺の前貸が商人によってなされるとすれば︑こ
の流通費部分についても平均利潤が入手されねばならず︑かくし
て平均利潤率の低下を招来する︒これ守一さきの数字例を用いてマ
ルクスの説明を要約すれば次の如くである︒すなわち︑﹁純粋の
流通費が問︒投下されたとすれば︑総利潤50は︑総資本82+Hdc
十問︒川58にたいして分配されるとととなり︑したがって一般
的利潤ぷは弓ごと民となる︒だから︑産業資本家は︑rogの価
値あるWを同38+Hg引由
g)
十回
M(
H忠ω¥乙
Hg
印血
相¥
吋の
価格
で
商人に舟り︑商人はそれに平均利潤率にしたがって計算された︑
かれが入手すべき利潤凶匂﹀を加え︑さらに流通費8を追加し
たロ
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¥吋
十回
目ご
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HM
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とい
う価
格で
販売
する
︒す
な
わち︑商品の現実的価値呂田口ではなく︑その一名目的価値で販売す
るのである﹂と︒
これにたいし︑ロiゼンベルグは次のような解釈をあたえた︒
一純粋の流通費が︑生産部簡でつくられた商品の価値のみによっ
て回収されうることは明療である︒商品の価値はわ+︿+自で
ある︒しかるにの十︿は生産資本の不変節分および可変部分を
回収する︑だから純粋流通費はmの一部によって回収される︒し
一七七