第 V章 平 城 宮 の 内 裏
1 平城 宮「 内裏」及 び 内裏 地 区をめ ぐる研 究 史
― ― 平 城 宮「 内裏 」・ 内裏地 区 に関 す る学 説 の紹 介 と検 討
,及
び研 究課 題 の設定 ――平城宮の内裏地区は
,第
一次大極殿院・朝堂院地区や第二次大極殿院・朝堂院地区,あ
るい は東院地区などと並んで,平
城官において もっとも重要な区画の一つである。発掘調査によっ て内裏地区において検出された多数の遺構 はI期〜Ⅷ期の, 8期
にわたって変遷 し,そ
の うち の1期〜 Ⅵ期 までが平戎宮の時代に属することについては,既
に詳 しく述べた。 また平城官の 時代に属する内裏地区の遺構の変遷 とその歴史的な変遷の意義についてはのちに詳 しく論ずる。ここでは
,ま
ず これまでに行われてきた平城宮「内裏」および内裏地区に関する主 な研究ある いは学説 を紹介 して,若
千の検討を加 え,平
城宮「内裏」および平城宮内裏地区に関する問題 点を明 らかにしたい。平城官の「内裏」について最初に見解を提示 したのは
,関
野貞である。関野 は,『平城京及大 内裏考』 において,史
料 に見える平城宮に関連 した宮殿の使用例を検討 した上で,『続 日本紀』に現れる「中官院」「中宮」の機能が「 内裏」 とほぼ同 じであることか ら,「中宮 院」「中宮」
イま「内裏」の別称であ り
,平
城官内に存在 した他の官殿である「東院」や「西官」等 との対比か ら,「中官」とい う呼称は,そ の位置が宮城の中央にあることによるものであると理解 した。な お「中官」については,「内裏」や「中宮院」 と異な り,「内裏」に存在する工殿やその他の殿 舎な ど,「内裏」 とい う区画の中にある個別の殿舎を指す狭義の用法があ つた とも考 えている。関野は
,文
献史料の検討に次いで平城官の遺跡について実地踏査を行い,文
献史料 に見 える宮 殿の現地への比定を試みてい る。それによると,「内裏」の遺跡は,「京域の最高位 に位置 し前 面・ 左右へ次第に低下する極めて高燥の地」である小字東大宮・寺前 と小字大宮の一部にかか る地 にあ り,そ
の規模は東西約70丈 。南北約100丈で,ほ
ぼ平安宮内裏の規模 に一致すると考 えている。関野が「内裏」に比定 したのは今 日第一次大極殿院地区 と呼ばれてい る区画に当た る。 さらに関野は「内裏」に関する史料 を整理 し,「内裏」の構造について も詳 しく述べている。「内裏」には内外両郭が存在 し
,内
郭 には複廊・長廊,外
郭には築垣がそれぞれ続 り,両
郭の 中には諸殿堂が配置 され,そ
の間には「内庭」 と呼ばれる比較的狭除な小庭 園があ り,そ
こには多少の花木が植えられ清泉が引かれていた。内郭の南正門は「中官閤門」 と呼ばれ
,そ
の内 側,「内裏」の最南には平安宮の紫震殿 に相当する内裏の正殿である「大安殿」が南面 して建 っ ていた。「大安殿」 はまた「正殿」 とも「南殿」 とも呼ばれた。その北には「中安殿」と「内安 殿」がある。「中安殿」は平安官の仁寿殿 に相当 し,「大安殿」に次 ぐ殿舎で,一
方「 内安殿」は さらにその後 ろにあって平安官の常寧殿 に相当する殿舎である。 また「中宮院」 の中には「中平内 F 大 貞 d及
醐嫉 辞
′孝9
平査 調 唯輔 雛 卿 悧 上
F 報 査平
宮西院」 と呼ばれた太上天皇 の御在所 もあ り
,そ
こには正寝 であ る「大殿」 とその前 面 にあ る「細殿」 が あ り
,さ
らにそれ らを続 り囲 む垣 があ った。関野 は,以
上 の よ うに,第
一 次 大極殿 院地 区 を「内裏」(「中宮院」・「 中宮」)に 比定 し,そ
の南 に広が る南北 に長 い朝堂 院風 の区画 (第 一次朝堂院地区)を「南苑」 に当て,そ
の東方 にあ って大極殿 や十二堂 の上壇 の一部が残 る南北 に細長い地区 (第二次大極殿廃地区及び第二次朝堂院地区)を
朝堂 院 と考 えた。 なお「中宮 院」 や「中宮」 とともに現在 に至 るまで平城官 の構造 を考 える上 で重要であ りなが ら
,そ
の性格 や比 定 をめ ぐって問題のある「東宮」 と「西宮」 は,「 中官院」「中宮」 を「 内裏」 の別称 と解 した 関係 か ら,上
記 の三 つ の区画 の東 と西 に想定 した。以上 の よ うに,関
野 は,平
城 宮 の「 内裏」につい て文献史料 のみな らず
,当
時地表 に現 われ てい た遺跡 に も検討 を加 えたが,今
日内裏地 区 と称 してい る区画 に関 して殆 ど触 れ る ところがな く,わ
ずか に「東官」 の候補地 の一 つ とし て考慮す るに留 ま り,皮
肉に も関野が行 った画期的 とも言 える実地踏査 に基 づ く宮殿 の研 究か ら内裏地 区は除外 され る結果 とな った。関野 の文献史料 と実地踏査 に基づ く平城官 の研究が発表 されて も
,そ
ののち関野 の研 究 を批 判・ 検討 す るよ うな研究 は現 われず,ま
た現地 で発掘調査 を行い,平
城 宮 の遺構 を確 認 しよ うとす る試 み も行われ なか った。 しか し偶然 の機 会 によ って平城宮の遺構 が発見 され る ことが全 くなか ったわ けではない。例 えば
,大
正11年 史蹟名勝天然紀念物録存法 によ って平城 官 跡 は史 蹟 の指定 を受 け る ことにな り,翌
12年 に所管官庁 であ る内務省 は,平
城官跡 の保存 を図 るため の工事 を,史
蹟指定地 区 内にあ る現在 の第二次大極殿 院地区及 び第二次朝堂廃地 区を対 象 とし て実施 した。 この工事 の途 中 で平城官 に関わ る と考 えられ る遺構 や遺物 が発見 された た め,工
事 を追 いか け る形 で奈良県嘱託上 田三平 によ って平城官 における初 めての発掘調査が行 われた。
その結果
,三
箇所 で建築遺構 が確認 され た。 この時 の保存工事及 び調査 成 果 の報 告 書 で あ る『 史蹟精査報 告第二
平城官 阻調査報 告も で は
,
これ ら三箇所 の遺構 をそれぞれ「大極殿 北方 建築 基壇」,「 西方 の礎石」,「 東北 の礎石」 と称 してい る。上 国は,こ
れ らの遺構 につ い て,そ
れぞれ次 のよ うに述 べてい る。 まず
,大
極殿 跡北方 で板石 を検 出 した「大極殿北方建築 基壇」は
,「
西方 の礎石」 との関係 か ら,大
極殿 北方 の東西 に長 い土壇 を もって広が る建築遺 構 の南 辺 に当たる可能性 があ り,「
唐 の宮城 の千 秋殿万春殿 に相 当す る殿堂」 か とも想像 してい る。次 に「西方 の礎石」 は
,
礎 石 の大 き さか らみ て大建築 ではな く,「回廊 の如 き装飾的 な建築か 或 は殿堂 の附属建物」ではないか とし,ま
た「東北 の礎石」 については礎石 自体 が「西 方 の礎 石」 とほぼ同様 の もので,両
者 は と もに「回廊 の如 き建物 であろ う」 とした。上 田は決 して明 瞭 な形 で述 べ てはい ないが,
これ ら三者 の建築遺構 が一連 の もので,全
体 として回廊 の よ うな 長大 な建築 とな る もの と想定 してい た と考 え られ る。 その想定 は今 日か らす る と,全
く正 鵠 を 得 てい たので あ り,上
田が検 出 した遺構 は,内
裏地 区第 Ⅲ期 以降 に属 す る南面 及 び東 西 両面の 築地 回廊 の一部であ ったのであ る。 しか し上 田は,そ
れ らを具体的に平城宮の どの施設 に当て るか につい ては検討 してお らず,こ
の時発見 された遺構 が平城宮の「内裏」 と深 い関 わ りを持 つ ものである ことが認識 され るには, さ らに後代 の発掘調査 の成果 を待 たねばな らなか った。また昭和
3年
1月 には,関
野 が「東宮」 の候補地 の一つ として取 り上 げてい た小字 石 田の地 において,石
材 の取得 を 目的 とした試 掘 が行 われ,多
数 の 自然石 が並 んでい る状態 で発見 され た。 当時奈良県技師であ った岸熊苦 は,
この ことを聞 き及 び,土
地所有者 であ る溝辺文 太郎 と′5θ 熊 吉
と もに同年4月 まで発掘調査 を行 い
,内
裏地 区 の東方 にあ る平城宮 の基幹 排 水路 で,今
日東大 溝 S D 2700と 命名 してい る石組 溝 を発見 す るに至 った。 しか しこの調査 において も検 出 され た 東大溝 と平城宮 「内裏」 との関係 は勿論,そ
の遺構 が平城宮の何 の遺構 で あ るのか も明 らかに3)
され ない ままに調査 は終了 され た。
以上 の よ うに全 く偶 然 の機 会 に平城宮 の「内裏」 に関わ る遺構 が地表 に露 に されたに も関わ らず
,大
正 に行われ た上 田三平 の調査 において も,ま
た昭和 の岸熊吉 に よる調査 において も,現在 か ら見 る と平城宮 の「 内裏」 を理解す る上 で重要 な遺構 が実は確認 されてい たのであ るが,
今 日の内裏地 区 に平城 宮 の「 内裏」 に関わ る遺構 が存在 してい ることを確認 す るには至 らなか った。
そののち平城官 の「内裏」 に関わ る遺構 は
,学
術 的 な発掘調査 とは異 な る,今
日言 うところ の事前調査 によ って再 び地表 にその姿 を現す ことにな る。 すなわち第二次世 界大戦終了後 の昭 和28年12月,特
別史跡平城官跡 の北辺 に当たる通称一条通 り(小字松本)にお い て, 日米行政協 定 に基 づ く道路拡幅工事 が計 画・ 実施 され,そ
の工事 の最 中に,平
城 宮 に関 す る遺構が発見 さ れ た。 同年末 よ り奈 良県教 育委員会が緊急 に発掘調査 を実施 し,さ
らに翌 29年 1月か らはその 調査結果 に基づ き文化財保護 委員会が国営 によって発掘調査 を継続 した。 その結果,多
くの掘 立柱穴や凝灰岩切石 を用い た溝・ 礎石 な どが見 つか り,少
な くとも三 回の変遷 を もつ と考 え ら4)
れ る数棟の建物群 が確認 され た。報告書『 平城官跡』 では
,そ
れ らの柱穴 や礎石 あるいは礎石 の据 え付 け痕跡 を,
掘 立柱建物2棟
(重複関係があ り,いずれ も改修の痕跡が認められると考えた)とそれ よ りのちに属 す る吸 灰岩礎石建物
1棟
の もので,い
ずれ も一条通 りに沿 う長大 な東西棟 建物 と考 え,特
に後者 につい ては複廊 や回廊 の可能性 を否定 した。 しか しこれ らの建物 が平城 官 の「内裏」 に関連 す る遺構 であ る ことは勿論,平
城宮 中の如何 なる建物 で あ るのか,あ
るいは既 に上 田三平 によ って大正 に確認 されていた三箇所 の建築遺構 との関係 な どについて も全 く 検 討が行われてお らず
,そ
の ことは報告書 の副題が「朝堂院北方地域 の調査」 とされた ことに も端 的に現れてい る。 困み に, この調査 で確認 された遺構 で,報
告書 で述 べ られ てい るよ うな 長 大 な建物 として現在 も考 え られてい るのは凝灰岩礎石 を用い た礎石建 ち建 物 で,
これ は Ⅲ期 の内裏地区北辺 を区画す る北面築地 回廊 S C 060に 当たる。 なお この調査 で検 出 された遺構 はV期
を除 く残 る5時
期 に属 す る ものである。以上 の よ うに検 出 され た遺構 が
,
平奴官 の 「内 裏」 に関 わ る もので あ る と認識 されずに終了 した調査 ではあ ったが,
この調査 によ って平城宮 の遺構 が朝堂院跡(第二次大極殿院地区及び第二次朝堂院地区)の 北方 に広が ってい る ことが確認 さ れ,改
めて平城宮跡 の発掘調査 と保存 の必要性が認識 され るに至 った。平城 官 「内裏」 につい ての研 究史の上 では,関
野 以来 あ ま り重要視 されて こなか った内裏地 区 に も,何
時期 に も及ぶ 重復す る遺構が残存 してい る ことが明 らか とな った ことは,大
きな成 果 で あ った。平城 宮跡 にお け る継続 的 な学 術調査 は
,昭
和30年 か ら奈 良目立文化 財研 究所 に よ って開始 さ れ,そ
の第1次調査 が同年8月 に第二次大極殿院回廊 の東南隅 を対象 として行 われた。 同調査 の報告 である『 平城宮跡第一次・伝飛蔦板蓋官跡発掘調査報告も は,発
掘 調査対象 の関係か ら,内裏地 区の遺構 や平城官 の「 内裏」 について直接言及 してはいないが
,の
ち に述 べ る『 平城宮6)
発掘調査報告 Ⅱ』(以下『 報告』 1と 略す
)へ
と継承 され,
また このの ち長 い あい だ平城官 の中 枢 部 に関す る定説 の地位 を得,さ
らに今 日において も平城官の変遷 を考 える うえで,大
きな影文化財保護 委員会『 平 城宮跡』
『 平城宮跡 第一次 。伝 飛鳥板蓋宮 跡発掘調査 報告』
r」F
朝 一戸 次 第 院 唱 一
・堂 提 第 院 朝 の
︑ 堂 次 説
響 を与 え続 けてい る
,い
わゆ る `第一 次 内裏・朝堂 院
,第
二次 内裏・ 朝堂 院″説 の うち
,朝
堂院 につい て第一次 と第二次 とが あ る との考 え方 を提示 してい る。 それ は
,第 1次
調 査 において, 現在 第二次朝堂院 と称 してい る地 区の北端 に位置す る第二次大極殿院 を続 る築地 回廊 の東西隅 を発掘調査 した結果,検
出 され た築地 回廊 の礎 石 は創建 当初 の もので はな く,創
建 当初 の凝灰 岩 の礎 石 をのちに 自然石 の礎 石 に置 き換 えた もので あ る ことが判 甥 した として,築
地 回廊 は建 物 を一 度 は完全 に解体 した上 で規模 を踏襲 して行 った再建 に と もな う可能性 が強 い と考 えた ことに よる。 その よ うな解体・ 再建 は例 えば『 続 日本紀』 にみ える天平12年 か らの恭仁遷都 に と もな う解体 であ り
,天
平17年 の平城 還都 に際 しての朝堂 院 の再建 に よる可能性 が あ る とした。しか し出土遺物 の中に奈 良時代前半 に遡 る ものがない ことか ら
,褒
灰岩 の礎石 を用 い た当初 の 遺構 はむ しろ平城還都後 の創設 で,再
建 は『 続 日本紀』 にみえ る天平宝宇 5。6年
の平城宮改 作 に よ る可能性 も残 る と も見 てい る。 以上 の よ うに大極殿 院 回廊部分 につい て再建 を認 めた場 合,官
の中央部 に位置 す る区画 が和銅創建 の朝堂院で,官
の東寄 りにあ る朝堂 院 は第二次の も の と考 え られ るとした。調査 の範 囲が大極殿院を続 る築地 回廊 の一部 に留 まった ことか らして も,明
瞭 な結論 を下 してはい ない が,可
能性 としては,最
初 の朝堂 院 は官 の中央 に存在 す る区 画 で,そ
の東 に位置す る朝堂 院 は天平勝宝 の創建 にかか り,天
平宝宇 に大 改修 を行 った もので あ る と考 えるのが最 も妥 当で あ る と した。奈 良国立文化財研 究所 に よる平城 宮 の発掘調査 が開始 され てのち
,そ
の成果 を うけて最初 に 平城官 の内裏地 区 あ るい は「 内裏」 につい て注 目すべ き見解 を述 べ たのは,第 3次
調査 に関す7)
る報告 を収録 した工藤 圭章「昭和35年平城宮跡
3,4,5次
発掘調 査概要」 で あ る。 第3次調査 は,既
に述べた大正13年 の上 田三平 に よる発掘調査 の結果検 出・確認 され た「東 北 の礎石」 の 再発掘 を行 い,さ らに その西方へ調査 の範囲を及ば した。その結果,「 東北 の礎石 」の西 に これ と並行す る凝灰岩礎石 の据 え付 け掘形 とそれに沿 う凝灰岩切石 で造 られた南北溝 を検 出す るに 至 った。工藤 は,同
報 告 の中 で,第
3次調査 で検 出 した凝 灰岩 の据 え付 け掘形 と大正 13年 に確 認 されてい た「東北 の礎 石」 とは一連 の遺構 で,「築 垣廊」 と考 えた。また凝 灰岩 の溝 はそれ に と もな う雨落溝 とみ るのが妥 当 とし
,さ
らに この「築垣廊」 は,昭
和29年 に一 条通 りで発掘 され た,長
大 な東西棟建物 の うち最 終 の時期 の造営 と推定 され た凝 灰岩礎石使 用 の建物 や大正 13年 に確認 された 「西方 の礎石」「大極殿北方建物基壇」 とも関連 す る遺構 で,
これ らは一連 の「築垣廊」であると考 えた。 そ して この「築垣廊」 によ って囲 まれ る区画 は,同
様 の「築垣 廊」 を続 らす平安官 の内裏 内郭 に規模 的 に も類似 してい る ことか ら,平
城 宮 の「 内裏」 に比定 す る ことがで きる とした。 この よ うな「築垣 廊」 に よ って囲 まれた一郭,す
なわ ち内裏地区の内郭部分 を平城官 の「内裏
Jに
当 て る考 えは,さ
らに第3次調査 に引 き続 い て,そ
の西方で行 われ た第6次以降の調査 によ って次第 に定説 の地位 を得 るよ うにな ってい った。一方で,『平城宮跡第一次・ 伝 飛 鳥板蓋宮跡 発掘調査報 告』 で 示 され た 朝 堂 院 に関す る第一 次 。第二次 の考 え方 を承 け
,平
城 官 の「内裏」・ 朝堂 院が ともに第一次 の ものか ら第二次の も のへ と移 った とす る見解,す
なわ ち `第一次 内裏・ 朝堂 院
,第
二次 内裏・ 朝堂 院〃説 が
,昭
和 37年 に刊行 された『 報告I』 に おい て提示 された。『 報告I』 において `第一 次 内裏・ 朝堂 院,第二次 内裏・ 朝堂 院〃
説 の論拠 とされ たのは
,第
一 に官城正面 (朱雀大路の正面であ り,平
城官の 中心)の
一郭 (第一次大極殿院 。朝堂院地区)には,
その東方 にある朝堂 院推定地 と同様 の上壇 が F52工 藤 圭 章
「 昭和35年 平城宮跡3, 4,5次発掘 調査概要」
﹈ 蝉 劇
鰤 裏 ︒ 朝 堂 院 ︐榊
側 期
東西 に存 在 してい る こと, また第1次調査 におい て朝堂 院地域 (第二次大極殿院・朝堂院地区
)が
和銅 創建時 に まで遡 及 で きない ことが確認 され た こ と
,さ
らに平城官 中央 に存在 してい る地域(第一次大極殿院・朝堂院地区)の規模 が藤 原官 に近 いのに対 して, 東 の地域 (第二次大極殿院・朝 堂院地区)の規模 はそれ と平安官 との間 に置 かれ るべ きであ ること
,な
どで あ った。『 報告I』で は, これ らの諸点か ら平城宮 の中央地域 を朝 堂 院 に比定す る ことがで き
,中
央 の地 域 と東 の 地域 とは造営 の時期 を異 にす る遺構 で,前
者 が和銅創建 以来 の第一次 の ものであ るのに対 して 後者 の朝 堂 は中央 の朝堂 に遅 れて造 営 され た第二 次 の もの と推定 した。一方,内
裏地 区 につ い ては,既
に述 べた第3次調査 の結果,築
地 回廊 を続 らす一郭 が東 の朝堂院地域 の北 に存在 し,これが平安官 との比較 な どか ら「 内裏」 であ る と推定 され
,ま
たそれが掘立柱 の廊状遺構 と重 複 して建 て られてい る ことか ら,平
城 官 の後半 の時期 に属 す る と考 えた。 そ して内裏地 区に営 まれ た「 内裏」 は文献 的には「東宮」。「東 院」 の延 長上 にあ り,称
徳朝 に「内裏」 として拡充 発展 させ た もの と推 測 した。以上 の諸点か ら
,
朝 堂 。「 内裏」 について第一次 の もの と第二次 の もの とを推定 し, `第一次 内裏・ 朝堂 院〃 か ら `第二 次 内裏・朝堂院〃への遷移を想定 した。そ して その うち朝堂院の移建時期 としては
,東
に位置す る第二次朝堂 廃地区にお ける瓦 の出土 状況 か らみ て,天
平末年 ない しは天平勝宝年 間 の可能性 が高い もの とし,ま
た内裏地 区の「 内 裏」 につい ては,第
二次大極殿院回廊 の東南隅部分か ら出土 す る瓦 の様式 が宝亀年間 に下 る と 見 られ る ことな どか ら称徳朝 の改作 に よる もの とみ た。 なお第二次朝堂 院へ の移建後,中
央 の 第一次朝堂 院 が どの よ うに扱 われ たか につい て は,検
討 の余地 が あ る としなが ら も,平
安官 に お け る朝堂院 と豊楽院の並存 に先立 って平城官 において中央 と東 に朝堂 を並列 させ る構想 が あった もの と考 えてい る。
ここで 内裏地区の遺構 の理解 に限 り
,現
段 階 にお ける平城宮 の発掘調査成果 に基づいて,『報 告I』 の見解 を簡単 に検討 してお くことにす る。 この報告が書 かれた時期 には,ま
だ平城官 の 東張 り出 し部 (東院地区)が確認 され てお らず,昭
和40年 に始 まる東 院地 区の調査 に よ っては じ めて平城官 の東張 り出 し部 の存在 が確 め られ,そ
れ が『 続 日本紀』 に言 う「東院」 に当た る と 推定 され るに至 ったのであ った。従 って,同
報 告で,内
裏地 区 には当初,孝
謙天皇 に特 別 に関 係 の深 い「東 宮」 や「東院」 が あ り,そ
れ を同天皇 が重昨 して称徳天皇 とな った時 に「内裏」として拡大 ・ 発展 させた とす る推定 は,「東 院」 の発見 によ って誤 りであることが明 らか とな った。 また
,こ
の時期 には内裏地 区に移 る前 の「内裏」 があ った と推測 していた第一次大極殿 院地 区 につい て も発掘調査 が及んでお らず,のちに そ こが平城宮創建 の当初 においては「内裏」的 な遺構配置 を持 たない
,
第一次 の大極殿 廃 で あ る と推定 され るに至 る と,
`第一次 内裏・ 朝 堂 院″ か ら `第二次内裏・朝堂院〃へ移 った との理解の うち,少
な くとも「内裏」 に関 しては0
訂 正 が必要 とな った。 やがてのちに述 べ る『 平城宮発掘調査報告 』(以下『 報告 』 と略す)に おい て第一次 内裏 。第二次 内裏 と言 う理解 その ものが否定 され るにいたる。
また『 報告 Ⅱ』 と同時 に刊行 された『 平城官発掘調査報告 Ⅲ十
̀(以
下『 報告Ⅲ』 と略す)では
,
躯覇馨纂警 内裏地 区の第9次調査 まで の発掘調査 の成果 に基 づ き
,ま
た既 に紹介 した内裏地区にお け る従Ⅱ』
来 の発掘調査(大正年間における上国三平の調査や戦後平城官跡の保存・発掘調査の契機 となった文化財 保護委員会による国営発掘調査)等 の成果 に も検討 を加 え, さ らに平安官 の内裏 についての基礎 的 な研究 も行 うな ど
,内
裏地 区及 び平城宮 の「内裏」 に対 して総合 的 な検討 が行 われ た。 まず 内■
53
「 東院 」の
裏地 区で検 出 され た遺構 につい ては
, I期
〜 Ⅲ期 の3時
期 に大 別 で き,そ
の うち平城官 の時期 に属す る遺構 はI期と Ⅱ期 の2時
期 で, Ⅲ期 は平城上皇 の時期 に当た る とした。平城宮 の時期 に属す るI期とI期
の うち, I期
こそ「内裏」 の遺構 であ る とし,内
裏地 区 の内裏正殿 を中心 とし,掘
立柱 の複廊・ 回廊 によ って囲 まれ た区画 とその東北方 の掘立柱建物 につい て,そ
の配置 と変遷 を明 らか に し
,四
周 を築地回廊 で囲 まれた「内裏」 を復元 した。一方,内
裏地 区 にお い てはI期・I期
を通 じて前後五 回の造営が行 われ, I期
の「内裏」 の遺構 以前 に これ に先行 す る下層遺構 としてのI期の遺構 が重複 して存在 してい る ことを明 らか に し,
Ⅱ期 のいわゆ る「 内裏」 の遺構 が平 城宮遷 都 当初 に遡 る和銅創建 の遺構 であ るのか疑 間 を塁 した。 なおI期の 下層遺構 につい ては,『 報告I』 で は「東官」。「東院」との関係で理解 しよ うとしたが
,そ
れ には消極的 な考 えを示 してい る。 これ に対 して「内裏」 の遺構 とした
I期
の遺構 は,平
城官 に属 す るI期の遺構 が存在 し,ま
た出土 した軒瓦 の型式 や土器 の年代,あ
るい は掘立柱 の耐用年限 な どか ら考 えて,平
城官 へ の遷都 当初 に遡 る とす る ことは困難 で,出
土 した軒瓦 の年代観 か ら 天平17年 の平城還都 に と もな う宮城 の復興 に関係す る もので はない か とみ てい る。 また平安官との比較 か ら,「内裏」 の殿 舎 の配置 や内裏正殿 の改造 の過程 には
,
平 安宮へ変化 す る以前 の 内裏 として平安官 内裏 との相違 点 と同時 に共通 点 を確認 す る ことが で きた とす る。同報告 で は再 び奈 良時 代 の文献史料 に登場 す る「 内裏」の用 例 に検 討 を加 え,「 内裏」とは天 皇 の御在所 を指す言葉 で あ り
,従
って天皇 が居 してい る官殿 の固有名称 ではない との考 え方 を 示 した点 は注 目され る。また宮殿 の固有名称 としては,「中官」・「東 院」。「東 内」。「西宮」 等 が あ り
,そ
れ は官 内にお け る位置 よ って呼 ばれた もの とした。「 内裏」 は中国風の用語 であ り, それが天平宝宇年 間 を境 として『 続 日本紀』 におけ る用例 が多 くな る ことか ら,奈
良時 代の前 半 期 は宮 内におけ る天皇 の居所 が一箇所 に固定せず,場
所 を異 に して次 々に造 営 され た ことが,「 内裏」 の呼称 を定着 させ なか った もの と推定 してい る。 この点 は
,明
らか に『 報告 Ⅱ』で朝 堂 院 とともに「内裏」 について も `第一 次 内裏″か ら `第二次 内裏〃への遷移を提示 したのに 対 して問題 を提起 した もので あ り,奈
良時 代後半 の「内裏」 が 内裏地 区 に存在 してい た ことに ついては追認 した ものの,そ
れ以前 の「内裏」 については固定 的 に捉 えない との見解 を示 した 点 でやや異 な る ところが あ る もの と見 られ る。以上 の よ うに『 報告 Ⅲ』 では『 報告I』 で提唱 された `第一 次 内裏 。朝 堂 院〃 か ら `第二次 内裏・朝堂院″への移行 を基本的には認 めつつ も
,そ
こで述 べ られ た第二次 の「内裏」 の前身 や それ以前 の第一次 の「 内裏」 については批判的な見解 を示 しつつ詳 し く触 れ る ことを避 けた のに対 して,む
しろ内裏地 区における「内裏」 の造営 について述べ,そ
の時期 を天平17年 の平 城官へ の還都 を直接 の契機 とす る ものであ る として,第
二 次「内裏」 の前身が孝謙天皇 に関係 す る「東 院」 や「東 官」 で,そ
れが称徳天皇 の重確 によって「内裏」 とな った との理解 を訂正した と言 える。
これ以後平城官 の発掘調査が進展 す る中で
,昭
和40年 の国道24号 線 奈 良バ イパス予定地 での 事前調査 に よ って平城 官 が東 に張 り出す ことが判 明 し,
この東張 り出 し部 が「東官」・「東院」と推定 された。 この ことは
,従
来判然 としなか った「東 院」 の宮 内で の位置 をほぼ確 定 した も ので,既
に触 れたよ うに「内裏」研究 に とって も大 きな影響 を与 えず にはおかなか った。 また『 平城宮発掘調査報 告』 が次 々 と刊行 され る中で「内裏」。朝堂院に関す る問題が次第 に明確 に
=54
発 見
されて きた。 これを承 けて行 われ た第一次大極殿 院地 区 と内裏地区の調査 が進展 す る過程で,
内裏地 区において も遅 くとも神亀年 間 には造営が行 われ
,第
一次大極殿院地 区 と内裏地 区の創 建 の時期 には時間的 な隔 た りが余 りない と理解 され るよ うにな ってきた。『 報 告 Ⅲ』 で 「 内裏」と推定 した築地 回廊 で囲 まれ た上層遺構 と
,そ
の下 に平城官 の造営当初 まで遡 る掘立柱 の塀 で 囲 まれ た下 層遺構 が存在 してい る ことが一層 明確 とな り, また上層遺構 の造営年代 について も 内裏所用 の軒瓦である6311‑6664型
式 の製作年代か ら見 て,従
来 の天平末年 か ら神亀年 間 に 遡 る と考 え られ るよ うにな った。一方,第
一 次大極殿 院地 区で も平城官造営 当初 に築地 回廊 で 囲 まれ た区画の中に巨大 な簿積 の擁壁 が設 け られ,そ
の壇上 には3時期 以上 に及ぶ変 遷 を示 す 基壇建物等 があ った ことが判 明 して きた。昭和44年 には
,昭
和38年 に行 われ た内裏北外郭地 区におけ る第13次 調査 で,そ
の東 辺部 で検 出 され た土坑S K870か ら出土 した「西宮兵衛」木簡 に関す る報告書が,『 平城官木衝 一 解 説』 と して公刊 され た。同報 告 では
,
木筒 の内容 を検討 した結果,
これ らの木簡 は 「 西官兵 衛」 の詰所 に関わ る記録 で,「西官」 の諸 門は兵衛 に よって警備 されていた こと,
また天平末 年前後 に内裏地区が「西宮」と呼 ばれ,そ
れ は「東院」「東官」に対 しての呼称 であ った可能性 の あ ること,な
どを指摘 した。 しか し兵衛 によ って守 られ た「西宮」 がいか な る性格 を有す る 施設 であ るのかについては後考 に待 つ として,断
定 を避 けてい る。昭和49年に至 り
,
阿倍義 平 は,「 平城 宮 の内裏 。中宮 。西官考」 におい て,上
述 した平城官 跡 にお け る最新 の発掘調査成果 と出土遺 物 の再検討結果 に基 づいて平城官 中枢 部 の変 遷 につい て新 しい見解 を発表 した。 阿倍 は,第
一 に,『報 告 Ⅱ』で示 され,そのの ち若干 の訂正 を受 けた ものの,以
後 も基本 的 な認識 とな ってい た,平
城 官 の中枢 部 にあ る大極殿 。朝 堂 院 に は歴史的 な変遷 があ り,第
一次の ものか ら第二次 の ものへ と遷移 した との理解 を踏襲 す る点,第
二 に,12) 13)
先学の指摘の うち本多辰次郎 。大井重二郎 らの見解で,「内裏」 と「中官」 とは同一 の もので はない との見解を継承する点
,第
三 に,平
城宮内裏地区の周囲を囲む外郭内の上羨か ら発見 さ14)
れ た「西宮」関係木簡 に関す る『 平城 宮木簡
一
解 説』 での研究成果 を認 め る点
,第
四 に, 15)の ちに『 奈 良国立文化財研究所基準資料
I瓦
編2解
説』 において明確 に提示 され る ことになる,内裏所用軒瓦 と第二次朝堂 院所用軒瓦 の年代観 を訂正 す る意見 を採用 す る点
,の 4点
を確認 し た上 で,
平城官 中枢部 の変遷 につい て独 自の論 を展 開 した。ここでは その うち 内裏地 区 及 び
「 内裏」 に関す る部分のみを紹介す る。 まず奈良時代 の内裏地区の遺構 については
,上
層 と下 層 の2期
に大 き く分 け られ,下
層 の時 期 は掘立柱塀 で方形 の外 区画 を作 り,さ
らに その 内に小 区画 を設 けて内部 中央 に大 きな建物1棟
を建 てる時期 で,上
層 の時期 には下層 の時 期 の構築物 を全て撤去 したのち,新
たに平坦面 を造成 して この上 に築地 回廊 を儀 らせ,そ
の内部 に掘立柱 の建物や塀・ 廊 を配置す る。2期
に大別 され る遺構 の うち,上
層 の遺構 は建物 の配置 や構造等 か らみて「内裏Jに
比定す るのが妥 当であ り,そ
の造営年代 については,
この時 の造営 に とも な う6311‑6664型
式軒瓦 の年代観 が訂正 され従来 よ り遡 ると考 え られ るよ うにな った ことに 基 いて,神
亀年 間頃 と考 える。上層遺構 はそのの ち幾 度 かの変更 が行 われ てい るが,基
本的 な 建 物配置 は変更 され ることな く,従
って その造営時期 である聖武朝 か ら廃絶 す る奈 良時代末 ま で性格 に変化 はな く,同
じ性格・機能 の ままで聖武朝 以後平城廃都 まで存続 した と考 え られ る。なお上層遺構 は『 平城宮木簡
一
解説』 で示 され た「西宮兵衛」木簡 に対 す る理 解等 に基づ
第一次大輿 殿院地区・
内裏地区で の発掘調査 の進展
『 平城宮木 簡 ― 解 説』
阿 倍 義 平
「 平城官の 内裏・ 中宮
・西宮考」
『 奈良目立 文化財研究 所基準資料 I瓦編2解 説』
き「西官」であ る とす る。「西官」は天平12年 の恭仁遷都 以前 か ら内裏地 区に存在 し
,の
ちの称 徳天皇 の「西官」 もここに営 まれた と考 える。上層遺構 が以上 の よ うであ るのに対 して,下
層 遺構 は,上
層遺構 が造 営 され るまで整 備 されず,正
式 に使用 され る ことはなか った。 しか し下 層遺構 の区画がのちに上層遺構 に踏襲 されてい る ことか ら,下
層遺構 は「 内裏」 の先駆的 な区 画 であ るが,「
内裏」 としての機能 を もたなか った とす る。なお 内裏地区の南 にある第二次大 極殿 院・ 朝堂 院地 区 に も
,内
裏地 区 の下層遺構 に相 当す る時期 に掘立柱 に よる区画や建物 が存 在 してい る ことか ら,内
裏地 区 と第二次大極殿 院・ 朝堂 院両地 区 とを南北 に一体 とした大規模 な区画が平城宮造営 当初か ら存在 し,両
者 は密接 な関係 を もって造営 され た と考 え られ る。 そ して第二次大極殿 ・ 朝堂院地区の造営 に使用 され た軒瓦で あ る6225‑6663型
式 の年代観 か ら みて,
当該 地 区で も内裏地 区の造 営 とあ ま り時 を経 ず に造 営 が行 われ た (神亀年間に本格的に整 備 され,「内裏」。大極殿院・朝堂院 としての機能を有するようになる)と考 え る。 阿倍 は,以
上 の よ うに内裏地 区の下層遺構 が「内裏」 ではなか った とす るばか りか
,平
城宮造営 当初 の元 明・ 元正 両天皇 の時 には「内裏」 が設置 されなか った と考 えてい る。 それ に代わ って この時期(平城宮造 営当初か ら聖武朝に内裏地区が「 内裏」として整備されるまで)に 「 内裏」 の役害」を果 た していたの は,内
裏地 区 の西方 にあ る第一次大極廃地区で, ここが奈 良時代 の前半 に文献史料 に顔 出す る「中官」 であ る とす る。 阿倍 は
,そ
の前提 として「内裏」 として現れ る「西宮」 が内裏地 区に 比定 され る ことを指摘 す る。第一次大極殿 院地 区は平城宮造営 当初 に建設 され,周
囲を築地 回 廊 で囲 まれ た区画 で,内
裏地 区が「内裏」 として整 備 され る まで,
これに匹敵す る区画は見 あ た らない点 か らみ て「 内裏」 に準 ず る ものあ るいは匹敵 す る ものであ るが,「内裏」 その もの ではな く別 の官殿 である とす る。「内裏」一「西官」 が 「東宮」 に対す る平城宮 内での位置上 か らの命名 であ る とみ られ るのに対 して,「中宮」 はそれ らとは命名 の原理が異 な り,
元 明・ 元 正両天皇 の場合三后 (皇后・皇太后 。太皇太后)に
係 わ る官―「中宮」 とい う規定が両天皇 の御在 所 の官殿 名 として援用 され,内
裏代 として設 け られ た もの で あ る とみ る。 だか らこそ第一次大 極殿 院地 区 には朝堂 院 が付設 され る ことが予定 されず,内
裏地 区 の整備 が当初 か ら計 画 され て い た。 しか し聖武 天皇 の即位 が遅 れた ことによって,元
正天皇即位 に当た って第一次大極殿院 地 区に も朝堂 が付加 され る ことにな った と理解 した。第一次大極殿院地区にあ った「中官」 は 天平宝字年間 に大改造 を受 けて「中宮院」 と呼ばれ るよ うにな り,廃
帝 とな るまで淳仁天皇 が 居住 した「 中官院」 は淳仁天皇 の「内裏」 に準 ず る機能 を果 た した と した。 この点 も第一次大 極殿 院地 区 を 「 中宮」 と呼ん だ との推定 を可能 にす る とす る。「 中官」は元 明・ 元正両天皇 に 関係 の深 い官殿 で あ り,「中宮」 こそ元 明天皇・ 元正天皇 の御 在所 であ った と考 える。なお阿 倍 は,『報 告 Ⅲ』 で天皇 の御在所 の変遷 に ともない 「内裏」が転 々 と別の所 に移 る とした推 測 は誤 りであ り,「 内裏」 は御在所 を示 す ものではな く
,
平城 官 内の一箇所 に固定 され,
その官 殿名称が「西宮」 であ った とす る。従 って阿倍 の理解 による と,御
在所 は普通名詞的であるの に対 して,「
内裏」 は固有名詞的 な用法が されてい ることにな る。以上 の よ うな内裏地 区及 び 第一次大 極殿 院地 区 に関す る理解へ と阿倍 を導いたのは
,内
裏地 区の大 き く2時
期 に分 け られ る遺構 の うち,上
層 の築地 回廊 で区画 された遺構 が配置や構造等 か ら考 えて「 内裏」 と考 え ら れ るの に対 して,下
層 の掘立柱塀 によ って周囲を画 された遺構 が「内裏」 とは考 え られない と 理解 した点 にあ った と言 える。′jび
阿倍 は
,の
ち昭和59年 に発表 した「古代官都 中枢部 の変遷 について」 で,後
述 す る『 報 告 』 の刊行 を承 け, これを批判 しつつ平城官 中枢部 の変遷 について再 び検討 を加 えた。 阿倍 の論点 はきわ めて多岐 にわた り,
特 に詳細 な検討 を加 えて論 じたの は,『報 告 』 におい て示 され た 平城官 中枢 部 の変 遷 に関 す る新 しい 見 解 の主 た る論 拠 とな った屋 瓦 の問題 であ った。 阿倍 は,『 報告 』 が第二次大極殿 院・朝堂 院地 区所用軒 瓦 で あ る
6225‑6663型
式 の年代 を,
従 来 よ りも下 げて恭仁官 か らの還都後 としたのに対 し,後
期難 波宮 出上 の軒瓦 との並行 関係等 を根拠 として,天
平初 年 と考 える従来 か らの 自説 をあ らた めて述 べ た。 また後 述 す る今泉隆雄 に よ る 宮 の造営体制 に関す る研究 に関連 して,天
平末年 の造 営 が全 く文献 史料 に登場 して こない点 に も注意 を喚起 してい る。 以上 の よ うな『 報告 』 へ の批判 の上 に立 って,新
たに第二次大極殿 院・朝堂 廃地 区で確認 され た下層遺構 の問題 を取 り上 げ,「平城官 の 内裏・ 中宮・西宮考」 で 示 した平城官 中枢部 の変遷 に関す る自説 を基本的 には堅持 しつつ,新
しい変遷案 を提示 した。その うち内裏地 区に関係す る点をみ る と
,基
本的 には前説 を踏襲 してい るが,後
述 す る『 奈 良国立文化 財研 究所 年報1975』 で示 された内裏地 区 にお け る遺構変遷案 に沿い
,若
干 の修正 を加 えてい る。 まず内裏地 区での造営 は平城宮創建 当初 の元 明朝 に遡 り,そ
の時点では掘立柱塀 で 囲 まれ た区画が設 け られ,そ
の内部 には中心建物 と補助的な建物群が北方 にあるだけで,協
殿 や 内部 区画 を欠いてい る。 それはのちの「内裏」 の前 身であるがあ くまで「内裏」 に予定 され た「西官 」であ って,「 内裏」として機能 してはい ない と理解す る点 は前説 と何等変化 がない。この時期 「内裏」 に代 わ る もの として
,前
説 同様 に第一次大極殿 院地 区 の「中官」 が機能 した とす る。しか し「中宮」 はただ単 に「内裏」 に代 わ る存在であ ったのではな く,「内裏」 と大 極殿院 の二 つ の機能 をほぼ兼 ね備 えた新 しい空 間 として建設 され た もので
,そ
の北方擁壁上 に そ びえ る大規模 な建物 は大極殿 で あ った。 次 の元正朝 に な る と内裏地 区の区画施設 は掘立柱塀 の ままで区画の位置 を南 にず らし,そ
の 内部には「内裏」的 な配置 を とる建物が造営 され る。この時期 は聖武天皇初期 まで続 く。元正天皇か ら聖武天皇初期 まで続 く「内裏」の遺構 に対応 して南 に存在 す る掘立柱塀 と掘立柱建物 か らなる下層 の遺構 については,「内 裏」 の 区画 と一 体 で朝堂 院 としての配 置 を採 り
,の
ちの朝堂院の前身 に当たる。やがて聖武朝 の うちに,南
の第二次大 極殿 院・ 朝堂 院 区画が掘立 柱か ら礎石建 ちへ と造替 され た と同 じころ
,内
裏地 区 で も 区画施設 が掘立柱塀 か ら築地 回廊 へ と変 更 され た。 内裏地 区で は神亀年 間か ら造営 が開始 され, 第二次 大極殿 院・ 朝堂 院地 区で も上層 の遺構群 が天平初期 には既 に完成 してい た。 そ して孝謙 朝 まで は ここが「 内裏」 で あ った。淳仁 朝 に至 り,内
裏 区画 内部 の建物配置 が変更 され,正
殿 が南 に移動 し,そ
の東西 にある脇殿 が各1棟に減 らされたのに対 して,】 ヒの区画では内部 の建 物 が増 加 す る。称徳天皇 の「西官」には この改造 され た「 内裏」 が相 当す る とみ,『 報 告 』 で 称 徳天皇 の「西官」 に比定 した第一 次大 極殿 院地 区 の第I期の遺構 を「中官院」 に当てた。 な お光仁・ 桓武両天皇 の御在所 につい ては明確 に述 べてい ないが,当
該論文 に挿入 された図12に よる と淳仁 天皇以降 「内裏」 は一貫 して内裏地区 に存在 したよ うに猫かれてい る。既 に触 れ た よ うに
,昭
和51年 に刊行 され た『 奈 良国立文化財研究所年報1975』 において,第
78次 北調査 までの調査成果 に基 き
,昭
和 50年 に開催 され た第1回内裏検討 会で まとめ られ た内 裏地 区全体 に関す る遺構変遷案 が,宮
本長二郎・ 川越俊―・高瀬要―「平城官跡 と平城京跡 の 発掘調査」 として公表 され た。 この時 同報告 に収載 され た変遷 図「推定第2次内裏変遷 図」 が,阿 倍「 古代 宙都 中枢部 の変遷につ いて」
『 奈良国立 文 化 財 研 究 所 年 報
1975』
′σ7
『 平城宮発 掘調査報告
Ⅷ』
岸俊男「 口 本歴史の焦 点―平城京
―」におけ る試案
雄 堂大 難 靭 脚 ど 今
F 極 考
これ以後
,平
城官 中枢部 の遺構変遷 について論 じられ る際 に内裏地 区の変遷 として最 も一般的 に使用 され る図 となる。 同報告 による と,奈
良時代 の 内裏地 区の遺構変遷 は大 き くA〜 Dの
4 期 に分 け られ,そ
の うちのB期
とD期
は さ らに3期
ない しは2期
の小期 に細分できるとす る。若 干 の相違 点 はあ る ものの
,そ
の大筋 は本報告書 で示 した1期〜 Ⅵ期 の, 6時
期 の区分 と基本 的 に一致 す る。 すなわち,従
来下層遺 構 と理解 され てい た,周
囲 に掘立柱塀 が続 る時期をA期
と
BI期
の2時
期 に分 け,
またその うちのBl期
には既 にその内部 の建物配置が平安官 内裏的 な構造 を とってい た として,従
来 「内裏」的構造 が築地 回廊 によ って周囲を画 され る時期 には じめて現 れ る との理解 を修正 し,「内裏」的 な構造 を有 す るに至 る時期 を遡 らせた点が従 来 の 理 解 と基本的 に異 なる点である。従 って これ まで内裏地 区が「内裏」 となることと,遺
構 とし てその周囲 を画す る施設 が築地 回廊 とな る こととが同一 の現象であ るかのよ うに捉 えてきた点 が修正 を迫 られ るに至 った。 なおA期
か らD期
に及ぶ各時期 の絶対年代 については明確 に述 べ てい ないが,遺
物 の検討 の結果B期
の上限 が神亀年 間 である ことが ほぼ確定 した としてい る。これ と相前後 して
,昭
和51年 には内裏地区の北方 にあ る内裏北外郭 に関す る発掘調査 を取 り19)
ま とめた『 平城宮発掘調査報告 Ⅶ』(以下『 報告』Ⅶ と略す)が刊行 され た。 同報告には内裏地 区 の】ヒ辺 に当 たる地域(主として内裏地区の北を限る北面築地回廊とそれに先行する掘立柱塀が該当する)
の調査成果 も含 まれてい る。 同報告に よる と
,内
裏北外 郭 の遺構 は大 き く第I期か ら第 Ⅲ期 に 及 ぶ3時
期 の変遷 をみ せ,こ
の うち第I期と第E期
が奈良時代 に属 す る (内裏地区の北辺におい ては,第
1期 が掘立柱塀の時期,第 Ⅱ期が築地回廊の時期で, 第Ⅲ期が築地回廊の殆ど失われた時期に当 る)。内裏北外郭 には
,
第1期には まだ区画施設 を設 け られていないが,
既 に一つ の区画 を な し建物 が配置 されてい る。第I期に入 る と周囲 に築地 を続 らした区画 の中に建物が配置 され,官衝 としての構造 を明確 にす るとともに
,さ
らにその外 周に も内裏外郭全体 を画す る築地 が設 け られ る。 第I期
は さらに3小
期 に細分 され るが,第 1小
期 と第2小
期 の間 には内裏北外 郭 の 東 辺 に上壊S K820が
掘 られ,
ここか ら出土 した木簡 によって,
天平末年頃内裏地 区は 「西 宮」 と呼 ばれてい た と推定 され る ことや, また内裏地 区所用軒瓦の年代が従来推定 されてい た 天平末年 よ り遡 り,天
平初年以前 で養老年 間 に遡 る可能 性 のあ る こ とが示 され た。 この うち前 者 は既 に昭和44年 に刊行 されてい た『 平城官木簡一
解説』 にお け る理解 を継承 した もので,
また後者 につい ては昭和50年 に刊行 された『 奈良国立文化財研究所基準資料I瓦編
2解
説』 に よる内裏地 区所用軒瓦 の年代観 の修正 に基 づいてい る。以上 のよ うに『 報告 Ⅶ』では
,『
平 城 官木筒一 解説』及 び『 奈良国立文化財研究所基準資料
I瓦
編2解説』 の見解 と内裏北外郭 に お け る遺構変遷 の検討 に基づ き,内
裏地 区 にお け る第二 次 「 内裏」 の造 営 を聖武天皇 の即 位 を目標 とす る神亀年間の造営に当てる ことにな った。
以上 の よ うに内裏地区におけ る「内裏」 の造営 (本報告書で言 う1期以降に相当する
)の
年 代 を,瓦 や木簡等 の出土遺物 の検討の結果
,従
来 の見解 よ りも遡 らせて考 え るよ うにな って きた中で,今泉 隆雄 は,昭和 55年 に発表 した「平城宮大極殿朝堂 考 」におい て
,奈
良時代の政治史 との関連2の
か ら平城官 中枢部 の変遷 を理解 しよ うとした。今泉 は
,昭
和54年 段 階 にお ける発掘調査 の成 果 に基 づ き,そ
れを丹念 に整理・ 阻疇 した上 で独 自の考察 を展開 してい るが,平
城宮 の中枢部 に あ る二 つ の大極殿 院・ 朝堂 院 について考 え るに当 っては,岸
俊男が試 案 として提示 した,平
城21)
宮 の「 内裏」・ 朝堂院の問題 を皇権の所在 とい う政治史的な観点か ら捉 える視点を継承 し
,
さ′
58
らに関野貞の考 えの中 に既 に存在 していた二つの朝堂 区画の並存 を平 安官 における朝堂 院 と豊 楽院の並存 か ら理解 しよ うとす る観 点
,
あ るい は『報告I』 で示 され た平城宮の「内裏」・ 朝 堂 院には歴史的 な変遷 が あ るとの考 えを基本的 に継承 し,第
一次 か ら第二次への変遷 を聖武天 皇 の即位 との関係か ら理解 しよ うとした点 な ど,従
来 の研 究成果 を総 合 的 に継承・ 発 展 させ た もので もあ った。今泉 の見解 にお け る新 しい視角 は,史
料 に現 れ る「朝 堂」 の語 を再検 討 して 平城官 中枢 部 にお け る朝 堂 区画 の並存 を理解 しよ うとした点,あ
るい はその検討結果 を利用 し て「中宮」 が本来 「内裏」 ではな く,天
皇 出御 の場 としての性格 を もっていた ことを明 らかに した ことにあ る。今泉 の平城官 中枢 部 に関す る論 点 は多岐 にわ た るが
,
その うち 「内裏」 に 関す る点 に限 って要 約 す る と,内
裏地 区の遺構 が整地層 に よ って上 下二 層 に分 け られ,そ
の う ちの下層遺構 が和銅倉U建 期 に まで遡 る と考 え られ るのに対 して,和
銅 創 建期 の「 内裏」 を第一 次大極殿院地 区に想定 す る ことがで きない ことか ら,下
層 の遺構 を平 城 宮創建 当初 か らの「内 裏」 と考 え ざるを得 ない とす る。 一 方 また上層 の遺構 につい ては,『
奈 良国立文化 財研 究所 基 準 資料I瓦
編2解
説』 の記述 や阿部 の説 と同様 に,内
裏地 区所用 の軒 瓦 が平城官第I期
に属す る ことか ら,養
老5年
に始 まる造営 による とみ る。 そ してその歴史的 な意味 につい ては,藤
原 不比等 の死後緊迫 の度 を強 めた政治状況の中で,退
勢挽 回 を図 った藤 原氏 と元 明・ 元正両天皇 が近い将来 にお け る首皇太子 の即位 を画策 し,そ
れ に と もな って官 内改作が始 め られ た と理解 す る。 す なわち上層 の遺構 は,聖
武天皇 の即 位 にあわせて整備 され た と考 えるので ある。従来 の見解では,内
裏地 区 を画 す る施設 の掘立柱塀 か ら築地 回廊 へ の変 更 を養老 か ら天平 にか けて 行 われ た改作 の所産 で あ る と考 えて,内
裏地 区 にお け る「内裏」 的 な様 相 の成立 が,そ
の周囲を画す る外郭施設 の築地 回廊への変更 と相即的 な関係 にある と一般 的 に理解 していたが
,今
泉 は内裏地 区の外郭施設 の築地 回廊へ の変更 とその内部 の「内裏」 的 な構造へ の変更 とを切 り放 して考 え,外
郭施設 の変 更 を「内裏」 的 な構造 の成立以後 の こと と解 す る点 に独 自の理解 がみ られ る。 なお当時既 に内裏地区ばか りでな く,そ
の南 に存在す る第二 次大極殿院・ 朝堂 院地区 の遺構 に も上・下三層 が あ り,そ
の うち下層 の遺構 は内裏地 区下層 の遺構 と同様 に掘立柱塀で 画 され た区画 であ る こ とが知 られ るに至 ってい た時期 で もあ った。 この点 につい て今泉 は,第
二次大極殿 院・朝堂 院地 区の下層 の遺構 を上層 の遺構 の前身区画 と考 え
,和
銅創建 に まで遡 る もの とみてい る。一 方 上層遺構 については,養
老年間に始 まる宮 内改作 の最 も重要 な部分であ る との理解 を示 してい る。従 って,今
泉 の理解 では,外
郭施設 が凝 灰岩 を用 いて礎 石建 ちの様 式 を もつ築地 回廊 や築地 に作 り替 え られ る上層遺構 の造 営 の時期 が,内
裏地 区 と第二次 大極殿 院・ 朝堂 院地 区 にお い て若 干 ずれ る ことにな る。 しか し発掘調査 に よ って得 られ た知見 や 出土 した遺物 か らは,両
地 区 におけ る造営時期 のずれを積極的に示 す ものはない と言 って よ く,む
しろ両者 で用い られ た軒瓦 が ともに
6225‑6663型
式 であ る ことや その装飾 の統一性 と言 った 点か らす る と,南
北 に連 な る内裏地 区 と第二次大極殿 院・ 朝 堂 院地 区 で の上層遺構 は同一時期 の造営による もの とみ るのが妥当であ る と思われ る点で,大
きな問題 が ある と言 える。 さらに 今泉 は,上
層 の遺構 につい て,天
平末年 には「西宮」 と も呼 ばれ た とす る『 平城官木簡一
解説』 の見解 に従 い
,そ
れ は天平12年恭仁京への遷都以前 に も遡 る もの とした。上層 の遺構 は 内部 の構造 の変化か ら大 き く2時
期(本報告書で言 う第 Ⅱ期から第Ⅳ期 と第V期 。第Ⅵ期 との2時期)に分 けて考 える ことがで き
,そ
の うち奈良時代の後半 に相 当す る時期 の遺構 (第V期・第 Ⅳ期に 159今泉「8世 紀造宮官司 考」
今泉「 律令 制都城の成 立 と展開」
今泉「 再び 平城宮の大 極殿・朝堂 について」
相当)に ついては
,基
本的 にそれ以前 の遺 構 を踏襲す る ものの,内
裏正殿地 区 が縮 小 され るの に 対 して,後
官 区画が規模 を拡 大 す るな どの変 化 も見 られ, この時期 の内裏地 区の遺構 を称 徳天 皇 の「西宮」 で ある と推定 してい る。 なお第一 次大極殿 院地 区 については,大
き く3時
期 の遺 構 変遷 を認 め,そ
の うちの二番 目の時期 を淳仁 天皇 が天平宝字6年
か ら8年
にか けて「 内裏」とした「中官院」 に比定す るが
,三
番 目の時期 につい ては「 内裏」的 な構造 を持 つ と しなが ら も,光
仁 天皇 の「 内裏」 の可能 性 もあ り,成
案 はない とす る。第一 次大極殿 院地 区 に関 す る今 泉 の理 解 の前提 にあ る ものは,二
番 目の時期 の始 ま りを天平宝字元年 の改作 によ る もの と見 る 点 にあ る。 しか し二番 目の時期 の廃絶 とそれ に よる三 番 日の時期 の造営時期 を宝亀年 間 の前半とす る点 には問題があ り
,の
ちに第一次大極殿 院地区 に関す る正式 の報告書 であ る『 報 告 』 で示 され た見解 とは異 な ってい る。なお今泉 は
,昭
和58年 に発表 した「8世
紀造官官 司考1で ,平
城遷都 か ら平安遷都 に至 る間 に推移 した造官担 当官 司につい て詳論 し,そ
の中で平城官 にお ける造営のための官 司体制 と造 官 改作 の問題 に関 して述 べた。 この中におい て 自論 を補強 した り,あ
るい は先論 の一部 につい て再検討 を加 えた りしてい るが,特
に新 しい見解 は示 されてい ない。 ただ聖武天皇即位 を 目指 しての造営 と考 える養老5年
か ら天平初年 にか けての改作 について,催
造 司 とい う特 別 の造 営 官 司が途 中か ら造営省 の上 に置 かれ る体制 を採 り,平
城官 の改作の督励・ 関与 を行 った と して, 先論 で主張 した聖武天皇即位 に ともな う造営が,特
別 の体制 で行 われ た ことを述 べ てい る点 は自論 を補強 した点 として注 目され る。
今泉 は
,翌
昭和59年 に「律令制都城 の成 立 と展 開1の
中で,再
び平城宮中枢部 の変遷 につい て触 れ,二
つ の大極殿院・ 朝堂 院区画の並存 について新 しい見解 を提示 した。 それは,創
建 当 初,平
城官 の中央 に営 まれ た第一 次大極殿 院 。朝堂 院 は非 日常 的 な国家的儀式 や饗宴 の場 で あ ったのに対 して,そ
の東 に造営 された第二次大極殿院・ 朝堂院地 区は 日常的 な朝政 に用 い られ た もの とみて,二
つの大極殿院 。朝堂院 区画 の並存 を機能的 な分化 によ って説 明 しよ うとす る もので あ った。 この発想 は,今
泉 も述 べ てい るよ うに,前
稿 で,二
つの異 な る朝堂 の型式 が あ り,そ
れが その機能 と密接 に関連 してい る とみ た ことにあ った。 しか しそ うした理解 に至 った 背景 には,第
二 次大極殿 院・朝堂 院地 区の発掘調査が進展 し,そ
の下層 に上層 とほぼ同 じよ う な構造 と規模 を もつ掘立柱塀 で画 され た区画が存在 してい る ことが確実にな って きた こ とにあ る。 それは,並
存 す る二 つ の朝堂 院 区画 の 内部構造 の相違 に関す る新 しい理 解や「内裏」 の位 置 を も考 慮 した ものであ る。 今泉 は,平
城遷 都 当初 において大極殿院・朝堂 院区画が二 つ並 存 したのは,儀
式重視 による新構 造 の大極殿 院・ 朝堂 院 が唐長 安城大 明宮含元殿 を模倣 して第一 次大極殿 院・ 朝 堂 院地 区に平城官創建 時 に造 営 され た ことにあ る とした。 内裏地 区 につ い て は 特 に言及 す る ところはな く,従
来 の見 解 の よ うに検討 す る ことはで きない。 なお第二 次 大 極殿 院・朝堂 院地 区 の外郭施設 や建物 が掘立 柱 か ら礎石建 ちへ と変 更 された時期 につい て は,前
説 とは若千異 な り,天
平年 間 の前半 に改 めてい る。 さ らに今泉 は,昭
和64年 に発表 した「再 び平 城官 の大極殿・ 朝堂 につい て」 におい て平城官 の大極殿 。朝堂 の問題 について再度論 を展 開 したが,「内裏」 については直接論 ず る ところはな く
,
ほぼ旧来 の見解を踏襲 して述べ るに と ど ま ってい る。平城宮跡 で は昭和54年 ころか ら
,第
一 次朝堂 院地 区 と並行 して第二次大極殿院・朝堂 院地 区′δθ
で も発掘調査 が行 われ るよ うにな った。昭和54年 と昭和57年 には まず第二 次大極殿院地区の調 査が行 われ
,大
極殿 とその後殿 お よび築地 回廊等 が検 出 され る とと もに,そ
の下層 に掘立柱建25)
物等 の存 在 を確 認 す るに至 った。一 方恭仁 宮跡 で は昭和 52年 に大極殿 跡 が発掘 調査 され
,そ
の規模 が判 明 した。 これによ って
,平
城官か ら恭仁宮 に移建 され た大極殿 が遺構 の上 か ら第二次 大極殿 院地 区 に あ る大極殿 で はあ りえず,第
一 次大極殿 院地 区の擁壁基壇上 に建つ建物 であ ることが確定 した。
以上 の よ うな平城宮跡 や恭仁宮跡 における発掘調査 の進展 に ともな う成果 を吸収 しつつ
,昭
和57年 に第一 次 大極殿 院地 区の報 告書 で あ る『 報告 』 が刊行 された。 同報告 は第一次大極殿 院地 区 にお け る遺構 の変遷 とその歴史的な理解 を示 し
,さ
らに進 んで平城官中枢部の変遷 につ いて も詳細 な考察 を加 えた。 同報告 で示 され,
こののち平叛官 中枢部 の変遷 を考 える上 で大 き な拠 り所 とされ るに至 った画期 的 な見解 は,既
に触 れた恭仁 宮大極殿 の発掘調査 の成果 を盛 り 込 み,第
一 次大極殿 院地 区第I期の擁壁上 に存在す る建物 S B 7200を 平城遷都 当初の大極殿 で ある とした ことで あ る。 また従来平城宮 の中枢 部 につい て検 討 を行 う際,特
に内裏地区や第二 次大極殿 院・朝 堂 院地区の造営年代 を考 える上 で きわめて重要 な論点 の一つ とされた軒瓦 の編 年 に も若 干 の修 正 (第二次朝堂院所用軒瓦であ り, かつ内裏地区のⅢ期に周囲を画した築地回廊に書か れた6225‑6663型式軒瓦の年代をこ期からⅢ期に下げる)を
行 って い る点 も同報告書 で提示 され た 重要 な見解 であ る。 以下 では,ま
ず同報告で述べ られた平城官 中枢部 に関す る見解 の うち,内
裏地 区 に関 係 した部分 に限 って整 理 してお く。 内裏地 区
,第
一 次大極殿廃地 区あ るいは第二次 大極殿院・ 朝堂 院地区にお ける所用軒瓦 の検討 か ら,
内 裏 地 区での「内裏」 の造 営 は第一次 大極殿 院地 区 に後 続 す る形 で平城官軒瓦編年 第I期の時期 に着手 され,そ
ののち軒瓦編年第 Ⅲ 期 の時期 に第二 次大極殿 院 。朝 堂 院地 区の造営 に と もない改築 され た。 内裏地 区 に造営 され た「内裏
Jは
「 中宮」 あ るい は 「中官 院」 とも称 され,
あ るい は また天平18。 19年頃 には 「西 官」 とも呼 ばれ た。 内裏地 区が「中宮」・「中宮院」 とい う別称 を もつ 「内裏」 であ った ことに つい ては,次
の よ うな根拠 を掲 げ る。 まず史料 に見 える「 中官」。「中官院」 の機能 や構造 を検 討 す る と,「 中官 」。「中宮院」は儀式 や宴会 を行 う場 であ る とともに起居 の便 を有す る空間で,しか も院 と呼 ばれ る小区画に分割 されていた と考 え られ る。 しか し従来平城遷都 当初 に第一次 の「内裏」 が営 まれ た と考 え られて きた第一次大極殿院地 区第 1期の奈良時代前半 に属 す る遺 構 は
,文
献 史料 に見 える「中宮」。「 中官院」 の構造 とは一致 せず,既
に触 れたよ うにむ しろそ の中心建物 で あ る S B 7200は 平城遷都 当初 の大極殿 であ った と考 え られ る。 これに対 して,内
裏地 区の構 造 は史料 か ら伺 うことので きる「中官」 や「 中宮 院」 に近 い ことか ら
,中
官 は従来 第一 次 の 「 内裏」 と も推定 され て きた第一次大極殿 院地 区 で は な く,内
裏地 区 に比定す るのが 適 当であ る。 また淳仁 天皇 の「内裏」 である「 中官 院」 は淳仁 天皇 配流 の記事 か らみ て内裏地 区 に求 め るのが適 当であ るか ら「 中官 院」 も内裏地 区 に求 めて問題 ない。一方 「 内裏」が天平18。 19年 頃 に「西宮」 とも呼ばれた ことについ ては,『平城 官木簡
一解説』 で述べ られた見 解 を踏襲 す る ものの
,称
徳天皇 の「西宮」 につい ては,大
極殿 が失 われ たのちの第 Ⅱ期 の第一 次大極殿院地 区を当て る。 その根拠 として,第
Ⅲ期 の第一次大極殿 院地区が平城上皇の内裏で あ る「平城 西官」 で あ る と考 え られ る こと,ま
たその時代 には「東院」や「東宮」が存在 して い ないに も関わ らず「西官」 と呼ばれたのは,既
に奈良時代か らこの地 区が「西官」 と呼 ばれ第二次大極 殿院・朝堂 院地区での 発掘調査 の 進展 恭仁宮大極 殿跡の発掘 成果
発 告 宙 報 城 平 査 調 d F 掘 X
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