「西官」 は「中官」 や次 に検討す る「東官」 な どとは異 な り
,比
較 的 多 くの史料 が残 存 して お り,『 続 日本紀』 以外 に も『 正倉院文書』 や平城宮 出土木筒 な どに「西官」 は散見 され る。そ こで「西宮」 については史料毎 に検討 を行 うこととす る。
まず『 続 日本紀』 におい ては,「西官」 は称徳天皇 の在位中 に限 って登場 す る。 藤 原仲床 昌 の乱に勝利 して淳仁 天皇 を廃 し
,重
碓 して再 び皇位 に即 い た称徳 天皇 は,在
位 中一貫 して「西 宮」 を御在所 としてい た。『 続 日本紀』か ら「西宮」の構 造 につい て知 る ことがで き るのは,ま
ず その内部 に「 前殿」 及 び「寝殿」 と呼 ばれ る2棟の中心的 な殿舎 が存在 していた ことであ る。
「前殿」 では称徳天皇 あ るい は法王 とな った道鏡が官人達 の朝 賀や大 臣以下 の賀拝 を受 けてい る ことか ら,「 前殿」 は朝儀 におけ る天皇 出御 の殿舎であ る「 大極殿 」
,あ
るい は平安宮 内裏の 紫庚殿 に相 当す るよ うな,「西官」 における儀式 や饗宴 な どに際 して 天皇 が 出御す るための殿 舎 で あ った ことがわか る。また「前殿」に対 してその南 には百 寮官 人達 が居並 び うるほ どの大広 な庭 が存在 してい た ことも想定 す ることがで きる。一方,称
徳 天皇 の崩御 した場所 として見 え′θ整
宮 宮
西
『 続 日本紀』
にみえる称 徳天皇の御 在所「 西官」
前殿 と寝殿
るこ とか らす る と,「 寝殿」が「 西官」内におけ る称徳天皇 の居所 であ った ことは明 らかであ る。
また「寝殿」 の規模 につい ては
,慶
雲 の 出現 に よ って僧600口を屈 した斎が「寝殿」 に設 け ら180)
れてい ることか ら
, 600人
に及ぶ僧を収容 しうるほ どの大規模な空間を有 していた ことがわか る(例えこの斎が「寝殿」だけでなく, その周囲の殿舎や庭を含めた空間をも利用して行われたのであっ たとしても,その規模の大きさが知 られる)。 以上か ら称徳天皇の御在所である「西官」の構造はお およそ次のように考 えることができる。すなわち「西官」の南部には百官が並 び立 ち うるほ ど 広大な庭が存在 していた。一方「西官」の中心付近には,南
の庭 に対 して前後に「前殿」と「寝 殿」が存在 し,「前殿」は南方の庭 と一体 となって行 う朝儀な どに使用 されるときの天皇出御の 殿舎で,「寝殿」 は称徳天皇の居所であ った。ところで称徳天皇の御在所であった「西官」 は
,遅
くとも『 続 日本紀』の編纂段階にあってF闘
異」は1ま「内裏」 と考 えられていたらしい。 それは,『続 日本紀』に藤原仲麻 呂の乱に際 して「内裏」
に宿衛 した檜前忌寸たちが爵
1級
を賜 った ことが見 えるが,
この「内裏」 とは平城官 内にあ り,しか も当時既 に称徳天皇によって御在所 とされていた「西官」の ことと考 えられ ること
,ま
た 宝亀8年
5月 には「自宝字八年乱以来,太
政官印収於内裏,毎
日請進,至
是,復
置太政官」 と182)
の措置が採 られてい ること
,な
どか らである。 また称徳天皇の在位中において もその御在所が「 内裏」 と呼ばれていた ことは,『正倉院文書』に収める
,称
徳天皇在位期間中に作成 された数 多 くの文書に明 らかである。従 って称徳天皇の御在所であった「西宮」 は「内裏」 とも呼ばれ ていたとすることができる。以上の とうりであるとすると,『続 日本紀』の編纂者 は称徳天皇の 御在所を「内裏」と記 さずに,な
ぜ「西宮」と記 したのか とい うことが疑問 となって くる。 この184)
点については阿倍義平に解釈が見 られ るが
,必
ず しも明確 な解答 とはな っていない。後述する ように,称
徳天皇の在位中には「西官」 とともに「東院」が「常官」 としての機能 を有 してお り,そ のよ うな意味では称徳天皇の御在所 は一定 していなか ったとみ ることができる。『続 日本 紀』の編纂者は,称
徳天皇の在位中における「西官」 と「東院」の並存の事実を承け,一
方を「内裏」 とすることを避けて両者を当時の官殿名称にしたがって表記 したのではなか ろ うか。
称徳天皇の御在所であった「西官」 については
,
これを内裏地区に比定す る考 え と第一次大 極殿廃地区第I期
の遺構に比定す る見解 とがある。第一次大極殿廃地区第I期
の遺構 について は,先
に淳仁天皇の「中宮院」に比定できるとした。 また「東院」は通説のよ うに東院地区に 比定 して問題ないであろ う。従 って称徳天皇の御在所である「西官」 については内裏地区に存 在 していたと考 えてよい と考 える。先に指摘 したように,『続 日本紀』以外 の奈良時代の諸史料,すなわち『 正倉院文書』。『東大 寺要録』や平城官跡出土の木簡 などに もしばしば「西宮」が見 えてい る。
135)
『 正倉院文書』 には「西宮」 が
3箇
所 に現 れ る。一 つ は写経所大般若経本奉請文,二
つ は納『 正倉院文
186) 187)
書』の「西 櫃 本倹定井 出入帳,三
つは本経疏奉請 帳 で ある。 まず第一 の写経所大般若経本奉請文 は,阿
倍宮」
義平が「西官」の聖武朝前半か らの存在を何わせ,「西官」を内裏地区に比定する有力な史料 と した ものである。同文書は大般若経寺所蔵の大般若経の「西官」への貸 出と返却について記録 した もので
,そ
れによると同経の貸出・返却について以下のような経過が判 明す る。天平16年 4月16日にまず「西宮」に大般若経 の初快か ら第30峡までの300巻が貨出され,そ
れか らほぼ 2カ 月たった 6月17日 に返却 された。 この時 また4月16日に貸出された300巻の うちに含 まれ′95
「 西宮兵衛」
木簡
なが ら何 らかの事情 によって実際には貸出されなか った
2巻
と新 たに大般若経の残 り300巻,合わせて302巻が再 び「西官」 に貸出され
,こ
の302巻の大般若経は天平18年4月19日までに 返却 された。そ して翌19年正月15日には本経の所蔵者である大般若寺に返却 された。上記のよ うな大般若経 の貸出 と返却に関する経過を記 した本文書か らは,大
般者経が天平16年4月 と6月に二度に渡 り「西宮」に貸 し出され,「西宮」で使用 されたのち
,
天平18年4月 には全巻が「西宮」か ら返却 されたことが確認でき,「西官
Jが
天平 16年 4月 頃か ら同18年 4月 頃にかけ て存在 していた ことが半J明する。 しか し本文書に見 える「西宮」が どこに存在 していたかは明 らかではな く,平
城宮内に存在 していた「官」の一つである「西官」 と同 じものであるのか否 かに至 っては全 く不明であると言わざるを得ない。 また阿倍 も注意を喚起 しているが,天
平16 年 4月 の段階の主都は難波宮にあ り,も
し阿倍の言 うよ うに この「西官」を平城官に存在 し,しか も「内裏」 に相当するものであるとして も
,主
都が難波宮 にあった天平16年4月 の時点に おいて「西宮」で合計600巻もの大般若経が必要 とされ る事態 を想定 しうるものか否か疑間が ある。従 って ここでは本文書に見 える「西官」の性格や具体的な比定については留録 しておき たい。残 る二つの史料 もともに写経所 における経典の貸 出 と返却について記録 した帳簿である。文書の年代は天平感宝元年 5月21日 と翌天平勝宝
2年
6月26日で,
ともに造東大寺司長官市原 王の宣によって「西宮」 に経典が奉請 されてい る。天平16年か ら同18年にかけて存在 した「西 官」 との関係は明白ではな く, また後述するよ うに,
これか ら2・3年
のちの天平勝宝4年
の 段階においては天皇の御在所 として「東宮」 と並んで存在 していたことが確認できる「西官」との関係 も明 らかではない。ただ造東大寺司長官市原王が宣 してい ることか らすると,「西宮」
は天皇の御在所であった可能性 も十分考 えられるが
,他
に推定する手がか りがない。以上のよ うに『 正倉院文書』に散見 される「西官」についてはこれを直接平城宮の「西宮」 とすること はできない。 なおいずれの時期において も『 正倉院文書』には「内裏」。「内」 な ど明 らかに天 皇の御在所を指す と見 られる言葉がきわめて多数見 えてい るに も関わ らず,
もし「西宮」が天 皇の御在所 を指すのであれば,な
ぜ ことさらに「西官」 なる名称をこれ らの文書において使用したのか と言 う点が疑間であ り
,今
後の慎重な検討が必要であ る。平城宮跡か ら出土 した木簡に も「西宮」に関するものがある。特に「西官」 の位置を考 える
188)
資料 として従 来 か ら注 目され て きたのは,「 西宮兵衛」 に関 す る木簡 で あ る。「西宮兵衛」 の木 簡 は内裏地 区 の東外郭東 北隅 で検 出 され た土残S K820か ら出土 した もので,「 西宮」 の周囲 を 画 す る施設 に開 く門 を警 固す る兵衛 の食料請求 に関す る伝票 で ある。 これ らの本簡はその出土 の状況 や他 の文書木簡 あるい は荷札木簡 に記 され た年紀か ら
,天
平末年頃で,天
平19年 をあ ま り隔 た らない時期 に属 す る ものであ ると考 え られてい る。「西官兵衛」 の木簡 が出上 した遺構 が廃棄物処理 のための上城 で,他
の遺物 とともに一括 して投 棄 された もの と考 え られ ること,またその位置 が内裏地 区の外郭 内部であることな どか ら,「西 宮」 とは内裏地 区の ことであ る と推定 され
,ま
た「 西宮」の構造 については,南
面 に正門 と考 え られ る「南門」が開 き,そ
の東 寄 りと恐 ら く西寄 りには「角 門」 と呼 ばれ る腋 門 があ り,東
面 には三 門が開 き,各
門 は南 か ら「東一 門」「東二 門」「東三 関」 と呼ばれ
,西
面 に も東面 と同様 に三 門が設 け られてい た と思 わ れ,
さらに北面 には,「 南門」 に対 して「北門」 が開 くが,「 南 門」 の よ うに「角門」が見 えず,「北kE門 」 な る門が見 えてい る ことか ら,「 西宮」は「 北F]」 を理門 としてい た ことな どが推定
′9δ