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日韓宮殿 の設計思想 について

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(1)

日韓宮殿 の設計思想 について

内 田 和 伸

I.は

じめ に

.導

積擁壁 の設 計方法

Ⅲ。宮殿 の設計思想

.朝

鮮 半 島 にお ける宮殿 の設計思想

V。 平城宮 第一次大極殿 院の設計思想

Ⅵ。大極殿 院 と陰陽寮

.お

わ りに

 

  

平城宮第一次大極殿院は平城宮の中心部に位置 し、即位式や元日の朝賀などが行われたとこ ろである。大極殿を長大な回廊が取 り囲んでお り、その北1/31ま約2.4mの高台で、南2/3は 礫敷 きの広 場である。高台には大極殿・後殿が位置 し、広場から高台に登る斜路が東西にあ り、高台の正面と斜路 の側面には70度の角度で擦 (瓦質の煉瓦

)が

積 まれている。この部分を導積擁壁 と呼んでいる。その形 と各部の長さは不可解なものであったが、設計方法を検討 した結果、大極殿中心のやや北寄 りに中心を もつ同心3円 と、後殿前に中心をもつ l偏 心円の交点などを用いて設計・施工 していることがわかった。

この同心3円 と1偏 心円はキ トラ古墳の天文図のような宇宙の構造を意図している。始皇帝以来、宮殿 は宇宙を象るものであ り、F文選』などにその設計思想を窺 うことができる。古代 日本もそれを学び、

新羅 もおそ らく同様であって、現存する景福宮にも受け継がれる。大極殿院での遺構 。遺物の解釈の試 みを、今後さらに進展する韓国で遺構 。遺物の解釈に比較検討の材料として提示できれば幸いである。

キーワー ド

  

平城宮

 

大極殿

 

第一次大極殿院

 

導積擁壁

 

景福宮

 

設計思想

奈良文化財研究所

 

文化遺産部

(2)

I.は じめ に

大極殿 は即 位 式 や元 日の朝賀、外 国使節 との謁見 な ど国家 的 な儀礼 を行 う ときに天皇が 出御 した、最 も重 要 な建物 で あ る。宮城 の中心 部 に位 置す る最大 の建物 で、 それ を回廊 で 取 り囲 む 区画 を大 極殿 院 と呼 んでい る。礎石 に柱 が建 つ 中国風 の建築様式 を もつ大極殿 院 は藤原宮 で は じめ て造 られ、桓 武天皇 の長 岡宮 まで続 く。桓 武 天皇 の平安宮 で は南 門や南 面 回廊 が な くな り、南 にあ る朝堂 院 とい う区画 と一体 となる①

奈 良 時代 前 半 の平 城宮 第一次 大極殿 院 は朱雀 門 の北 に位 置 し、東西約

1770m、

南 北 約

3176mで

あ り、古代宮城 の大極殿 院の中で最 も大 きな規模 を持 つl。 当時 の

1尺

は0.295m前 後 で、 土 地 の測 量 に用 い た大尺 は この1,2倍で あって、 東西500大尺 (600尺)、 南北900大尺

(1080尺)2と な る。 そ の南寄 り

3分

2が

広場 で、北寄 り

3分

1が

大極殿 と後殿 の建 つ約2.4

mの

高台 となる。南 門か ら600大尺 の位置 にあ る高台 と、広場側 か ら高台へ登 る東西2つの 斜路 が大 きな特徴 であ る (第1・ 3・ 4図)。 その高台前面 お よび斜路側面の屈 曲す る擁壁 は長 方形 の導 (瓦質の煉瓦

)を

約70度 の勾 配 で積 んで化粧 してお り、 この部分 を導積 擁壁 (第8〜

13図)、 特 に正 面 の直線部 を辱積壇 と呼ぶ (第5・ 6図)。 導 積壇 中央 には掘立柱 の木 階 と考 え られ る遺構 が あ る (第7図)。 各直線部 の長 さは小尺 で も大尺 で も完数値 は得 られず、 なす角 度 も不可解 で、その平面形 は複雑 な様相 を呈す る (第2図)。

こ こで は、辱積擁 壁 の設計 方法 を手掛 か りに、 そ の背 景 にあ る宮殿 造営 にお ける設計思 想 を整 理 す る。次 に、近代 になって再建 された景福 宮 まで の朝鮮 半 島 にお け る宮殿 の設計 思想 を探 る。 さ らに、平城宮 第一次大極殿 院の施設配置や 出土遺物 を検討 し、8世紀 の 日本

における宮殿の造営思想の復元考察を試みる。これは今後明 らかになるであろう同時代の 新羅王宮等の遺構・遺物の検討に僅かなが らも比較検討の材料 を提供できるのではないか

と思うか らである。

Ⅱ。導積 擁壁 の設計方法

1.基 点からの計測と設計方法

導積擁壁 の設計方法 の検討 のために関連遺構 の位 置 と記号 を示 した (第1表・第14図)。 導 積 擁壁 の遺構 位置 の計浪1はそ の最下段 前面 とし、未検 出の屈 曲点

(w3)は

、 そ れ を挟 む二 直線 の延 長部交点 と した。導積擁壁 の対称部の長 さを比べ る と2尺を越 える差が あ り、重要 な儀式 の場所 と して は施工 実態が粗雑 にみ える。 これ は各部分 の左右対称 を重視 した設計 図 とそ れ に基 づ く施工 が行 われ なか った こ とを窺 わせ る。す なわ ち、

Elあ

るい は

Wlの

辱 積壇 両 端 等 か ら各部分 の長 さ と方 向 を測 り施工 したので はな く、 やや離 れた基準 となる点 か ら各点 までの距離 を測 って位 置 を定め、その点 同士 を結 んだ結果、対称部 に2尺程 の差 を

(3)

日韓宮殿の設計思想について

生 じた と考 え る方が 自然 であ る。 こう して想定 され る基準 となる点 (以下、基点

)は

、東西 で射 になる屈 曲す る各2辺の延長部の交点や、大極殿 や後殿 の 中心、 中軸線上 で地割 の基準 となる点、 あ るいはそれ らの付近 に想定 される近似点であ る。

2表

に各基 点 か ら測 った辱積擁壁 各点 間の距離、 それ を0.295で 除 した尺長、

0354で

除 した大尺 での尺 長 をそれぞれ記 した。対称部 の長 さの差 を参 考 に、以下 の検討 では許容施 工誤差 を2.0尺あ るい は1,7大尺 まで と した上 で、その尺長が10尺 あ るいは10大 尺 の倍数で許 容施工 誤 差 内 に収 まる場合 に下線 を付 した。対称部 の長 さ も同様 であ った場合 は計画値 と して の可 能性 が あ る と解 し、その数値 を次列 に記 した。 さ らに、 その数値 が小尺 な ら40尺 の、大尺 な ら30大尺 の何倍 であ るか を最後 に記 した。 なお、E41よ削 平 が著 し く、

E4と

各 基点 との距離 につ いては短 くなることが明 らか なため

W4と

各 基 点 との尺 長 のみが完数値 を 得 て い れ ば計 画値 の可能性 があ る もの と した。検 討 の結 果、擁 壁 各点 を決 め る二つ の設計 案 を考 え得 た。

設計案

A(第

15図)

手順 1

手順 2

手順 3

手順4

設計案

B

手順 1

手順 2 手順 3

手順 4

手順5

大極殿 心

DCか

ら半径200尺 (40尺×

5)の

円 を描 き、南 門心 か ら600大 尺 の東西基 準 線 との交点 をEl・

Wlと

す る。

高台側中軸線上、 Elと Wlか ら

240大

(30大

尺× 8)の 距離の点 Ⅱ 'を 求め、Ⅱ

'

か ら

270大

(30大

尺× 9)で 円を描 く。一方、中軸線上南から

700大

尺の点⑦から は

240尺 (40尺

× 6)で 円を描 き、それら

2円

の交点を

E2・

W2と する。

同様にⅡ 'か

300大

(30大

尺×

10)、

⑦から

280尺 (40尺

× 7)の 円を描 き、2円 の交点を E3'W3と する。

〇か ら

320尺 (40尺

× 8)の 円と、

E3・

W3を 通る南北線 との交点を

E4。

W4と す

る 。

(第16図)

大極殿 心

DCか

ら半径200尺 (40尺×

5)の

円 を描 き、南 門心 か ら600大 尺 の東西基 準 線 との交点 をEl・

Wlと

す る。

大極殿心 の北120尺 (40尺×

3)に

"を

設 ける。

Ⅱ "と

El・

Wlを 結ぶ南延長と、⑦から

240尺 (40尺

× 6)の 円の交点を

E2・

W2

とする。

Ⅱ "か

300大

(30大

尺×

10)〔 360尺 (40尺

×

9)〕

、⑦から

280尺 (40尺

× 7)の 円を

描 き、

2円

の交点を

E3・

W3と する。

⑦か ら

320尺 (40尺

× 8)の 円と、

E3・

W3を 通る南北線 との交点を

E4・

W4と す

る。

案 は、複雑 な設計手法 を踏み なが らも規則性が窺 える。 このいずれか を用 いて導 以 上 の 2

(4)

積擁壁 を設計・施工 した もの と考 えることがで きる。

2。 大 極 殿 院 に お け る大 極 殿 の 位 置

第一次大極殿院の場合、いずれの設計方法 にして も中軸線 と南 門心か ら700大尺の基準線 との交点⑦が同心 3円 の中心である。 ところが、 この点は大極殿の建物 中心

(DC)の

約 8尺 北 に位置する (第 1図)。 藤原宮大極殿院、奈良時代半ばの難波宮大極殿 院、奈良時代後半 の平城宮第二次大極殿 院で も大極殿 院における大極殿の位置 をみる と、東西方向の基準線

(その位置は順に中軸線を南からユ対1、 2対1、 2対 1に内分

)は

大極殿 中心ではな く、そのやや 北狽Jを通る (第17〜 19図)3。

̲方

、桓武天皇の長岡宮では南か ら

1対

1に 内分す る点は大極殿 中心の南側 を通 る (第20図)。 いずれに して も大極殿 の中心 は大極殿 院の中では半端 な位置 にあるのである。 こうした区画施設内における大極殿の配置 は、他の大 区画の中での中心 建物の配置原理 とは異 なることが指摘で きる。た とえば、平城宮第一次大極殿 院の東側 に 位置 し、第二次大極殿の下層で検 出された大安殿 と目される4建物遺構の中心 は、建物 を囲 む区画の中軸線 を南か ら

2対 1に

内分する点に一致 させているのである5(第21図)。

大極殿院における大極殿 の配置 と大極殿 内の柱配置 との関係 をみてみ よう。大極殿 は桁 行 7間 ・梁行 2間 の身舎 に四面廂が取 り付 き、全体で桁行9間 ・梁行 4間 の規模である。大 極殿 の柱位置 と回廊の位置が想定で きる平城宮の第一次大極殿6と明 らかになっている第二 次大極殿で検討す る と、大極殿 の南廂 を除いた北 3間 分の中心

(T)が

東西 の基準線 にほぼ 一致す ることがわかった (第22図)。 す なわち

Tは

、前者では南 門心か ら700大 尺の位置に、

後者では大極殿院の南北中軸線 を南門心か ら2対 1に 内分す る点に一致 させ るのである。大 極殿 の南廂 を除いた部分 の中心 を東西の基準線 に一致するように大極殿 を配置 しているた め、大極殿院の中で大極殿 の配置が変則的な位置 にあるようにみえたのである。大極殿 の 南廂が配置計画の上で異質 なのは、そ こが唐招提寺金堂の ように吹 き放 ちで、室内ではな かったか らではないか と思われる。 ソウルの孔廟の大成殿 (第23図

)の

ように、儒教建築で 正面

1間

のみ吹 き放ちとなっているものが見 られることとも関係す ると思われる。

『国史大辞典』に高御座 を見ると、大極殿内部の中央に置かれるとされ、それが一般的な 理解 となっているようである。 しか しなが ら、多 くの仏殿の須弥壇や中国・韓国に現存す る宮殿の玉座が建物 中心 よ りやや奥 にあ り、京都御所内の現高御座 (第24図

)も

紫震殿 中心 よりやや奥 にあるように、大極殿のやや奥 まった位置にあるこの点 こそ、天皇の玉座であ る高御座の中心である。第一次大極殿 院では大極殿 内の北寄 りに高御座 の位置 を定め、 こ れを南か ら700大尺 になるように大極殿 を配置 した。そ して、高御座心が導積擁壁の設計 に 関わる等差の同心 3円 の中心 なのである。

3.設

計 方 法 の 解 釈

等差の同心 3円 に

1偏

心 円が交差する設計案

Bの

構造は、

7世

紀終わ りか ら8世 紀初めに

(5)

日韓宮殿の設計思想について

造 られ た と考 え られてい るキ トラ古墳 の石室天丼 に描 かれた天文 図 (第25図

)を

連想 させ る。

この天文 図 は、天 の北極 を中心 に内規 (周極星の範囲)・ 天 の赤 道 。外 規 (観測地点における 南天の限界

)が

同心3円 と して、黄 道が 天 の赤 道 と同規模 の偏心 円 と してそれぞ れ描 か れ、

金箔 の丸点 で星が、 それ らを朱線 で結 んで星座が表 わ された ものであ る。大極殿 の「大極」

とは易の思想 でい う「太極」のことで、万物宇宙の根元である。その大極 は、天文 占星思 想では天帝 (太一または天皇大帝

)の

住む北極星周辺の星座である。高御座心

(T=⑦ )と

8尺

ずれる大極殿心

(DC)の

関係 は、天の北極 とこれ とわずかにずれる北極星であ り、同心

3円

(40尺 ×6、 7、 8)│よ内規・赤道・外規、偏心 円 (40尺×

9)は

責道 に対応するであろう。

大極殿前庭東寄 りに位置する井戸

SE7145(第

3図

)は

偏心 円上 に位置することか ら、黄道二 十八宿の星座「東井」 を思わせ る。導積擁壁 は設計案

Bを

用いて設計・施工 され、物的な宇 宙の構造 を具象的 に象 るのではなかろうか。なお、天の北極 は歳差 により1300年の間に位 置を変えているが、北極星 と天の北極が離れていたことには変わ りはない。

Ⅲ .宮 殿 の 設 計 思 想

1.古 代中国における宮殿の設計思想

始 皇帝以 来、宮殿 は宇宙 を象 る ものであった。 F史 記』 に よる と、始皇帝 はその二十七年

(B C 220)、 渭水 の南 に長信 宮 を造営 し、つ いで名 を極廟 と改 め、天 の中宮 を象 った。 また、

三十五年 (B C 212)に は阿房宮 か ら渭水 を渡 る復道 を造 り、 これ を成 陽 に連結 した。 これ は 天極星 (天の紫宮にある十七の星

)が

、 閣道 によって天の川 を横切 り、営室星 に至 る形 を象 っ た とす る。 一方 、始 皇帝 陵 (地下宮殿

)は

「上 は天文 を具 え、下 は地理 を具 う」 と記 され、

地 下宮殿 の天丼 に天文 が描 かれていた こ とも知 られ る。 もっ と も、宇宙 を象 るの は宮殿 ・ 陵墓 だけで はな く、都 城 ・陵墓 。庭 園・馬車

7,鏡

・ 祭祀 ・舞踊 な ども同様 であった。例 え ば、漢代 の禁 苑 で あ る上林 苑 の昆 明池 で も、池 を天の川 に見立 てて牽牛 ・織女 の石像物 が 両岸 に立 て られ てい る。 ここでは宮殿 に絞 って論 を進 めることと しよう。

ところで、推古 天皇 十二年 (604)制 定 の F十 七条憲法』や 『 日本書紀』、F万葉 集』 な ど 我 が 国の史書 文学 に多大 な影響 を及 ぼ した とされ る ものに 属文選』 が ある。『文選』 は周代 か ら南朝梁代 までの約千年 間 にわた る文章 ・詩・論文 な どを、梁 の昭明太子が編纂 した も のであ る。遅 くとも奈 良時代半 ばには下級官 人が これ を利用 し、教 養 を培 ってい た こ とが 平 城 宮跡 や秋 田城跡 出土 木簡 に よって知 られ る。 その 『文選

Jに

は、以下 の ように宮殿 の 設計思想が 明確 に記 され る部分があ る。

( )内

には通釈 を記 した。

① F文 選』班孟 堅作 「西都賦」8

「大漢命 を受 けて之 に都 す るに至 るに及 びて、仰 いで東井 の精 を悟 り、俯 して河 国の姦 に 協 ふ。(大漢が天命を受けここに都を定めるに当たって、天を仰げば、差州の分野を司る東井の星座が、

(6)

ここを都 とせよと示すを悟 り、地を見れば、黄河より現れ出た河図の霊妙なしるしにも、ここを都とす る希望にうまく合う。)」 (中略)「 其 の宮室 は、天地 に機象 り、 陰陽 を経緯 し、坤霊 の正位 に振 り、太紫 の回方 に放 ふ。 中天 の華 閲 を樹 て、冠 山の朱堂 を豊か に し、(その官室は、天と地の 形に象 り、陰陽の法に合わせて、南北、東西の方向を定め、坤の地勢の中正な位置を足場 として、祭政 一致の政事をする明堂を造営 し、星座太微の円形 と星座紫宮の方形どお りに作 り上げる。天に中する壮 麗な未央宮の宮門 東閉"と 北閉"とをうち建て、山上の冠のごとく朱塗 りの殿堂を壮麗に構築する。)」

漢 が 天命 を受 け、都 を造営 し、 そ の宮殿 は宇宙 を象 るこ とを述べ るので あ る。漢長安城 の未央宮 を取 り巻 く他の宮殿 に関 しては次の ように謳 う。

「狗 らすに離宮別寝 を以て し、承 るに崇 重 聞館 を以てす。換 として列宿 の紫宮 を是れ環 るが若 く、(この未央宮のそばに、離宮・別殿が輪になってめぐり、それに接するように高台やがら んとした大きな館が建っている。あたかももろもろの居並ぶ星座や紫微宮の星座が天帝の紫宮のまわり をめぐるがごとく、照 りかがやいている。)」 (中略)「周すに釣陳の位 を以て し、衛 るに巖更の署 を以て し、(星座釣陳の六つの星が紫微宮を守る位置にあるように、未央宮の周囲には、夜警の官署 を置いて護衛する。)」

この ように、宮殿 は北極星付近の星座紫微宮であ り、その配置はまさに星空 を擬 えてい たのである。

② F文選』張平子作「西京賦」O

げうけつ  しようかおヽ

「紫宮を未央に正 し、暁閉を間関に表 し、龍首を疏 して以て殿を抗げ、状象幾 として以 て麦業た り

(星

座紫微官に象り、未央宮の位置を正しく定め、高楼の門構を、紫微宮の天門、間間に 象って、宮殿の目標とし、龍首の山を切り開いて、その正殿を高々と造る

)」

。ここで も未央宮が紫 微宮を象ったとしている。

③『文選』王文考作「魯霊光殿賦」 Ю

「魯霊光殿賦」の序によると、魯の霊光殿は前漢武帝の皇子が建てたもので、長安の未 央宮 も建章宮 も破壊 されたが、霊光殿は無事であった。これは神々が漠王朝 を存続させよ うと守ったのではないかとある。 また、「然れども其の規矩制度、上は星宿に應ずるは、亦 永 く安 らかなる所以な り

(こ

の宮殿の設計自体が天の星座の定める建築の理に叶っていたことも永 く安泰いられた理由なのだろう

)。

」 とする。本文中、霊光殿内部の意匠を詳細 に見て讃えた部 分でも、「規矩天に應 じ、上は斉阪に憲る

(そ

の設計は、天理に則り、狩阪の星座

(二

十八宿の室 宿と壁宿 )に ならっている

)」

としている。

宮殿 は宇宙を象る "と いう設計思想は漢代以降も引き継がれる。東魏・北斉の邦都南 城にはじめて星座名を冠する文昌殿 という殿舎が建てられ、後に明帝がはじめて太極殿 を 造営 した

n。

また、

F水

経注』巻一六穀水注セに、魏の明帝が洛陽城南宮で漠の崇徳殿跡 に

「上天の太極に法って」太極殿 を建設 した。さらに、梁の大極殿に関しては『徐孝穆集』巻

(7)

日韓宮殿の設計思想について

入 「太極殿 銘序」 に「星象 に法 って王位 の尊厳 を増 し」「 日月星辰 と輝 きを等 しくして宇宙 に顕示 し、万 国の諸侯 を朝 会せ しめ る」 とあ るB。 その名、太極殿 は唐 の長安城太極官 の正 殿 へ も引 き継 がれ、 太

"と

"が

通用 されてH、 同時代 の飛 鳥浄御 原宮 や藤原宮 、平城 宮等へ と影響 を及 ぼす こ とになる。

奈 良 時代 の知識 人 た ちが学 んだ F文 選』が宮殿 に関す る事 実 を どこ まで伝 えてい るか、

文学 的強調 を差 し引 い て考 え る必要 はあ る。 しか し、 そ こには 宮 殿 は宇宙 を象 る

"と

う設計思想が実際 に記 されているのである。平城宮第一次大極殿 院の導積擁壁 の平面 プラ ンは高御座 を中心 に した同心3円 と、その北側 に中心 を持つ偏心円の交点を使い設計施工 さ れていることをみたが、 宮殿 は宇宙 を象 る

"も

のであるため、設計案

Bを

用いて物的な宇 宙の構造 を具象的に象 る ものであった といえる。詩文か らす ると、 これは天理 に叶 ったこ とであ り、宮殿が永 く安泰であるために必要だったのである。宮殿 を宇宙に擬 える考えは、

確実 に古代 日本の宮殿 の設計思想 に取 り入れ られた もの と指摘 で きよう。古代 日本の都城 が宇宙 を象 るとい うことについては、瀧川政次郎いが指摘 した研究が早 い例であるが、管見 の限 り、以後は実証的な研究はされてこなかった。

宮殿の造営では建物名が星や星座の名称であった り、建物配置が星座 を象 った り、施設 の平面形が宇宙の構造 を模 した りし、具象的に宇宙 を象る方法が行われた。明清時代の宮 城である紫禁城 (北京の故宮博物院

)は

その名が天の北極近 くの紫微星 に囚み、宮城内太和門 前 には天の川 を象 って蛇行す る金水河いが流れるのである (第26図)。 京都御所 の正殿紫度殿 も紫微星 に因む ものであ り、その設計思想 は忘れ られ ようとしているが、確か に遺例が現 存するのである。

2.天

命 思 想 と天 道 思 想

ではなぜ、宮殿 は宇宙 を象 るのであろうか。宮殿造営の背景 には、天命思想Vと天道思想 という「天の思想」が関わっている。

天命思想確立 に大 きな役割 を呆た したのが前漠の武帝 に徴用 された儒者童仲舒であった。

彼 は君主権の強化 によって専制国家体制の樹立 に尽力す ると同時 に、権力の強大化が秦の 始皇帝の ような専制君主の横暴 を招 き、王朝 を減亡 させ ることのない ようにす るため、儒 教 に陰陽五行説 と天人相 関思想 を結合 させた。儒教 は基本的には合理的な世界観 を もって いたが、国の統一原理 となるには不十分で、為政者 を神聖化するための脚色が必要であっ た。古代中国では、地上 の本来の統治者 は宇宙の統治者である畏天上帝すなわち天帝 と考 え られた。 しか し、人でない天帝が実際 に地上 を統治す ることはで きないため、天帝 は地 上の統括 と人民の化育 を行 う然るべ き有徳者 に天命 を下 し、受命 した者が天子 となる。天 子が徳 をもって地上 を統治 し (徳治)、 仁政 を行い、それが天帝の意志 にかなえば甘露が降 った り、めでたい動植物が出現 した りし、地上 にめでたい徴、祥瑞 を もた らす。一方、天

(8)

子 が徳 に欠 け、苛政 を行 い、天帝 の意志 にか なわ なけれ ば、天帝 は天子 の不徳 を責 め る咎 徴 と して 日食、 月食、火星 の逆 行 な どの天文 の異 変や、地震 ・千魃・水害 ・ イナ ゴの大発 生 な どの災害 を もた らす とされ た。 自然 と人事 は感応す る とい う考 え (天人相関・感

)が

あ ったため災害異変が起 きる と為政者 であ る天子 は 自身の不徳 を恥 じたのであ った。

また、宇宙 の森羅万象 は陰陽二気 とそ こか ら派生す る五行 か ら生 じ、陰陽二気 が 調和 を 失 して も災害が起 きる と考 え られ た。 この陰陽二気 の調和 不調和 も為政者 の徳不 徳 に反応 す る とい う帝王観 を内包 したので あ る。 このため天子 の不 徳が さ らに進 め ば天帝 は天命 を 革 め (革命)、 他 姓 の者 が 天子 とな っ て (姓を易えて

)王

朝 が交 替す る (易姓革命)。 干 支 の上 で は甲子 の年 は革令 の年、戊 辰 は革逗 、辛 酉 は革命 と言 われ、革命 の起 きる年 で あ った'。

日本 で は天武系 の皇統 か ら天智系 の皇統へ の王朝 の交替 を意識 した桓武天皇 の長 岡遷都 も 甲子 革令 にあた る。 これが天命思想 で あ る。

天子 は、天帝 か ら委託 を受 けた証 に天帝 の常居 で あ る北極星 の位 置 に宮殿 を営 み 、 天上 界 を地 上 の官殿 の 中 に再現 した。 これ に よって 自身 を権威 づ け、南 面 して政 治 を総悔 し、

天道 に基づ いた施政 を行 うので あ った。 天道 とは天 に象 り、天 に則 して行 うべ き帝 王 の道 であ る。

3.古

代 建 築 の 設 計 方 法 と事 例

官殿 の重要な建築 については、天道 に基づ く方法 として陰陽五行思想 と密接 な「月令図 式の宇宙論」(第27図

)と

呼 ばれ る設計理論が重要視 され、建築単体で も宇宙 を象 るのであ ったお。『淮南子』では時間のことを宙、空 間の ことを宇 といった ように、 ここでい う宇宙 とは時空のことである。

まず、陰陽五行思想 とは、陰陽説 と五行説が合わ さ り、易の思想の中核 をなす ものであ る。大極殿の名は F易』の太極 に由来 し、太極 は陰陽の分かれていない混沌 とした状況 (こ

れは『日本書紀』の冒頭にも記される)、 宇宙の根元のことである。世界の事物 は、陰 と陽の二 つの気 と、その陰陽の交感 より生 まれた木火土金水の五元素によってつ くられるとされる。

陰陽説 はすべ ての もの を陰陽の二元論 で捉 えるが、陰陽は同根 の もの として、交 感 ・交 合・循環す るとみるのである。陽には天・男・左・剛 。春 。東 。太陽 (日)。 奇数・仁・徳、

陰には地・女 。右・柔・秋 。西 。太陰 (月)・ 偶数・義・刑Юなどがある。五行 は万物 を構 成する木火土金水五つの要素 とその働 きのことをいい、時間 (季節

)と

空間 (方位)、 色、数 な ども五行 に配当された。易 はこれ らを組み込んで変化す る現象 を数 に変換 して思考 し、

宇宙の秩序法則 を理論付 けた。その原理 を用いて予測するのが易の占いである。儒 教教典 F易』は象 (現象のパターン

)と

数 とが宇宙 を構成す るとして、その原理 を説いた。 そ して、

F漢書』「律暦志

Jに

「天の終数の九 と地の終数十 を併せて十九 とな り、易 は窮 ま り終 われ ば変化する。故 にこれを閏法 とす る」 とあるように、易 と暦 は切 り離せ ない ものであった。

(9)

日韓宮殿の設計思想について

「律暦志」 には度量衡相互の関係が まとめ られ、その関係 を規定する数値は九・六 。人であ り、天 。地 。人 (三才

)と

い う宇宙の秩序か ら説 き起 こされた20。 中国の伝統文化では数は 哲理的な意味をもっていたのである。F周砕算経』 という数学書 は釣股弦の定理の証明か ら 始めて宇宙観測の前段 とし、その上で、天地の運動 を論 じ、 日月食 ・月齢 を推算、陰陽五 行説 に言及、す なわち、天道の理 を地上の暦・陰陽五行で解釈 して、儒教的論理で宇宙論 を説 く。すべての宇宙現象 を数字で説明す るを象数学 といい、算術 は暦法 を媒介に して天 の意志 を知 ることがで きるとされた閉。 このように易・暦・天文 。数学 は密接に関わってい たのである。天人相 関理論 に基づいて天意 として現れる現象 を解読す る知識体系 と未来を 予知する技術、それ らを用いた治世術 を術教 という22。 天下を治める為政者 は、天命 を受け た証 に宇宙 を象 る宮殿 を造営 し、個 々の建築物では治世のため天道 に基づ き、術教 を駆使 する必要があったのである。

さて、月令 とは古代 中国において一年十二 ヶ月の星座、気候、行事 、為政者の行いなど を記 した もので、儒教教典 F礼記』 にある。 この世の森羅万象 は季節・方位 に基づいて循 環 。調和・変化 し、時間 と空間は連携 した有機体 を構成 していると考 え られていた。その 考えに基づ き、「月令図式の宇宙論」では、建物が時空 と調和す るように計画す るのである① 具体的には、対 になる東西の問では日華門と月華門 (唐長安城宮城)、 日精橋 と月精橋 (慶州)、

迎春 門 と千秋門 (京都御所

)な

どと名付 けた。建築単体では柱 の数 を四季 や四方、十二支、

黄道二十八宿 などに因み、数字 を介 して、時空 という意味の象徴的な宇宙 を象るのである。

梁の建康宮の太極殿 については晋代 に

1年

の12箇月を象徴 し12間で建造 されたものであ ったが、梁の武帝の天監十二年 (513)二 月、 この旧材 を用いて明堂 を建造 し、太極殿 は関 月をも象徴 した13間に改め られたお。

唐の高宗の時、明堂 に関す る学説の対立があ り建設 には至 らなか ったが、その平面形や 規模、柱 などの数の意味が F旧唐書』巻二十二志第二礼儀二24に数多 く記 される。一部 を列 挙 しよう。「基人面、象人方」「又按周易、三為陽数、人為陰数。三人相乗、得三百四十尺。

又按漠書、九會之数四十、合為三百八十、所以基径三百八十尺。故以交通天地之和、錯綜 陰陽之数」「四柱以象四星。天有二十八宿、故二十八柱」「堂面九間、各廣一文九尺。核尚 書、地有九州、故立九間。又按周易、陰数十、故間別一丈九尺、所以規模厚地、準則陰陽、

法二気以通基、置九州於一宇」「四柱以象四星。有入節、人政、人風、人音、四人三十二柱。J

「下抑、七十二枚。按易緯、有七十二候、故置七十二枚。」「下層四象時、各随方色。中層法 十二辰、国蓋、蓋上盤九龍捧之。上層法二十四気、亦回蓋。」「結構準 陰陽之数」。いずれの 数字 も易や陰陽、時空 な どに関わるものを用いていることが確認で き、辱積擁壁の平面・

断面の設計施工 に用い られた尺長が見えることも注 目すべ きである。

高宗の皇后であった則天武后 は東都洛陽宮の中心建物、乾元殿 を毀 し、垂狭 四年 (688)

(10)

その跡 に古来、王者の徳治の象徴 と考 え られ、政教 を明 らかにするという明堂 を完成 させ た。三層で高 さ294尺、東西300尺 とい う規模 を誇 り、下層 は方角の色 を塗 り、中層 は円屋 根で、屋根の上 に九龍の献げる盤が置かれ、上層 もまた円屋根だった。万象神宮 と名付け、

載初元年 (690)に は国号 を周 と改めた。明堂では群 臣を饗 して「上は厳配の所、下 は布政 の居

Jと

い う明堂の理念 を顕現 した。証聖元年 (695)正 月に近接する天堂か ら失火、明堂 も類焼 したが、武后 は再建 に着手 し天冊万歳二年 (696)に は完成 させ、通天宮 と命名、万 歳通天 と改元 した25。「旧唐書」貝J天武后紀 に、万歳登封二年 (697)四月、明堂の前庭 での 儀式 に九鼎の鋳造が据え られた とあ り、F資治通鑑』の唐紀二十一では、 この二年前 に九鼎 と十二神像が鋳造 されていたことが知 られる。十二神 (天

)と

大地 を象徴す る九鼎 (地

)に

よって天円地方の宇宙構造が表明 され、天下全体の掌握 を象徴 したのである26。 なお、武后 譲位後は中宗が明堂で即位、 これが正殿の役割を果た した。

数字が宇宙 を象るこうした事例 を、現存する建築では北京の天壇 にある祈念殿 (第28図)、

ソウルの景福宮慶会楼 (第29図)、 慶州の謄星台 (第30図

)等

にみることがで きる。祈 念殿の 外側の28本の柱 は二十人宿、中間の12本の柱 は十二支、内側の4本 の龍井柱 は四神 を象ると ぃぅ?7。 祈念殿東側にある長廊 と呼ばれる72間の回廊 は、一年の 日数の概数360を 5日 ごとに 細分 した季節の七十二候 を象 る もの と思 われる。景福官勤政殿の北西の池中に建つ慶会楼 は桁行七間、梁間五間で柱 は48本 。内側か ら天地人の三オ、易の人多卜、十二 ヶ月、二十四 方位 な どを配当 している28。 新羅時代 の天文台の遺構 である謄星台は一年の 日数 を象 った 366の石材で構築 されている。

以上の ように中国・韓国 。日本 に現存す る宮殿 において も宇宙を象 ることを確認 で きる のである。

Ⅳ .朝 鮮 半 島 にお け る宮殿 の設 計思想

1.朝 鮮王朝以前

朝鮮半島では、二世紀末の後漢の時代 に楽浪郡 をは じめ とする四郡が置かれた。その後、

三国時代の高句麗 においては中国六朝時代の思想や文化が波及 したことは、 日月星辰や四 神 を描 く平壌の高句麗の古墳群 に明 らかである。

米田美代治は、「天文学の発生的理論 は、宇宙の生成の理論を基調 として発展 したのであ るか ら、之 を形の上で具体的な理論 とす るには、勢い数学 と其の図形 を以て解釈 されたの である。故 に数学 と天文学 は不可分 な関係 にあ り、吾 々が上代の建築 を取 り上げて表現形 態や造営計画等 を究明するに、其 の表現形式や応用数学に天文占星的関係 を見出され得 る とも、敢 えて不思議ではないであろ う。」 と述べ29、 古代朝鮮の建築が天文思想 に関 わるこ とを指摘 している。具体的には、仏教伝来初期の清岩里遺跡の建物配置では、人角堂 を中

(11)

日韓宮殿の設計思想について

心 に四方 に建物 が配置 され、 そ れ らの北方 に建物 が三棟並 ぶ配置 が想 定 されて い るが、 こ れ を米 田は『史記』天官書 が述 べ る、黄道 を付 近 に東宮、西宮 、南宮 、北 宮 、北 方 に中宮

(陰徳、天―等の三星座

)と

解 して い る。 そ の他 の寺 院跡 の建物 配置 につ いて も同様 の解釈 が な され て い る。 また、統 一新 羅 時代 の遺例 と して佛 国寺 と石 窟庵 をあ げて い る。特 に ドー ム型 の天丼 を もつ石窟庵 で は、「先ず、窟 開日 と窟平面 国の半径 の十二唐尺 は一 日十二刻 に 相 当 し、窟平面 の回周 は黄 道 の三六五 度即 ち一年 に相 当 し、 同一 国周上 に組 まれた る半球 面体 の弯窪 は悠久 なる天体 宇 宙 に相 当 し、偏見 に過 ぎるや も しれ ないが天 丼 中央 の蓮華文 と省隧 間の嵌石 は天空 に懸 る 日月星辰 に比定 され るのであ る。」 と指摘 して い る。本 人の補 遺 で の修 正 もあ る通 り、 これ らの指摘 がすべ て正鵠 を得 た もの とは思 わ な いが、建物単体 と しての石窟庵 の設計 寸法 にお いて は時空 に関わ る数字 を用 いてい る こ とは首肯 で きる と 思 う。

現時点では宮殿 の建物配置が星座の形 を象 るか を明 らかにすることはで きないが、星座 に関わる名称 をもつ建物 として 紫震殿

"を

『三回史記』に探す と、二 ヶ所 の記載 を確認 で きる。 しか しなが ら、いずれ も中国皇帝の所在宮 に関する記述である。一方、『三国遺事』

「原宗興法

 

厭慟減身」 において、元和年間 (唐の憲宗の年号で、806‑820年

)に

南澗寺の沙門 である一念が、むか し新羅の法興大王 (在位514‑540)が政事 をとったことに関する記事の中 に「昔法興大王垂快紫極之殿。」 と記 している30。 紫極之殿 は当然、紫微宮 中の北極 に因む 名称であるが、記載が約二百年後のことである。その20〜 30年前、『三国史記』巻第十

 

新 羅本紀第十の元聖王の四年 (788)春 条 には「始めて読書三品科 を定めて (官路に

)出

身で き るように した。春秋左氏伝 とか礼記・文選 を読んで文意に通 じ、あわせ て論語・孝経 に明 るい者 を上品 (上級

)と

し、曲礼 ・論語・孝経 を読破 した者 を中品 とし、 曲礼 ・孝経 を読破 した者 を下品とした。」飩とある。F文選』が普及 していたことが見 えるので、正殿の名称が 明 らかでな くとも元和年 間に紫極之殿 と記すだけの知識が普及 していたこ とは考え られる。

もっとも、法興王の在位 は514年 か ら540年、中国の南朝では梁の武帝、】ヒ朝 は北魏 の孝明 帝の時代である。梁の建康宮 の正殿 は太極殿 であ り、前述の通 り天監十二年 (513)二 月、

柱 間12間の太極殿 を13間に改 めている。一方、北魏孝明帝の先 々代孝文 帝 は大和 十八年 (494)に平城か ら洛陽へ遷都す るが、その直前 まで平城で建設事業 を続 けてお り、漠化政策 の一環で太華殿 を壊 し太極殿 を太和十六年 (492)に建設 しa2、 その太極殿 の名称 は北魏洛陽 城へ も継承 されてい く。法興王の時代の正殿名称 は天の北極 に擬 えた ものであった と考 え て よいのではないだろうか。

2.景

福 宮 にお け る建 物 配 置

時代 は降って李朝の宮殿 をみ よう⑤李成桂 (太祖

)は

、1392年に松都 (現在の開城

)に

あっ た高麗の王宮である寿 昌宮で即位 し、朝鮮王朝 を建国、太祖三年 (1394)に都 を漢陽に定め、

11

(12)

景福 宮 を造営 しは じめ るが、現段 階で は倉1建 当初 の景福 官 の規模 と配置形 式 を正確 に把握 す る こ とは難 しい。太祖 の即位 か ら二百年後 の宣祖二十五年 (1592)に 、景福宮 は秀 吉 の朝 鮮 出兵 (壬辰倭乱

)に

よ り全焼 し、 その後の270年 以上 は重建 されなかった。高宗二年 (1865)

に、高宗 の父 であ る興宣大 院君が重建 に着 手 し、高宗五年 (1868)に は正宮 を昌徳宮 か ら景 福 宮 に遷 してい る。やや長 くなるが 、 この時期 の建 物配置 の特徴 を F勤 政殿 実測調 査 報 告 書 』33から引用 してみ よう。

高宗代 に重建 された景福宮の配置計画上の特徴 は 《景福宮昌徳宮内上梁文》 (日立中央 図書館所蔵

)に

よると、次のようない くつかの事実がわかる。

一つ、清国の戴東原の著書である 《戴氏遺書考工記図》を参照 した。

二つ、昌徳宮 と慶熙宮の宮室制度を参照 した。

三つ、配置の思想的原理 として易象 (太極・四象・八軌

)を

取っている。

四つ、夜空の星座の中で太微垣 と紫微垣 に各 自所属 されている帝王星座の配置を真似 て いる。

すなわち、中国伝統の ̀三門三朝

'の

官室制度 をもとに、その時期の宮閲である昌徳 宮 と慶熙宮の建物及びその構成形式 を参照 したが、勤政殿 を始め交泰殿 までの中心一郭 は太極図説あるいは天文図の星座配置 を反映 した事実が知 られる。天文学は昔か ら帝王 学であったが、宮廷芸術 と密接 な関連 を持 って きた。それに天の北極星 を中心に天体 の 全ての星が運行 しているように、地つ ま り人間社会では王が中心であるとい う思考のた め、王は常 に北極星に比喩 された。宮 閉の正殿 を紫極殿、紫度殿 などと命名 したの もこ の理由か らである。それだけでな く中国をは じめ とする東洋社会では星座の命名 におい て宮閉をは じめ とする社会組織 を星座 に投影 した。結論的に言って、康寧殿一郭の

5軒

の建物は星座の五帝座に該当する。

また、太極図説 とは性理学的宇宙観 を図式的に要約 して描いた図として陰 と陽が分 け られる前の原初的な混沌状態 を大極 といい、 これが陰 と陽で分けられ全ての事物の構造 を形成す るようになるとい う思想 を描 いた図である。 これを景福宮配置に適用 してみ よ う。 まず、交泰殿 は王妃の寝殿 として王 と王妃が ここで居処 しなが ら息子 を得 ると、彼 が工世子の地位 を経て至極 な存在である王位 にあがるため ̀交泰 :太 極

'と

命名 したの である。交泰殿の正門 も陰陽を意味す る

 ̀両

儀'  と命名 したが、 この門の外か ら宇 宙す なわち世界が開 くことを意味す る。両儀 門の外 には王の寝殿である康寧殿 をは じめ

5軒

の建物が配置 され、宇宙萬物 を構成す る根本要素の五行 を象徴 している。康寧殿 の正 門 である縛五門の外 には便殿である思政殿・萬春殿・千秋殿など3軒 の建物があって、康寧 殿一郭の5軒 と合わせると8軒 にな り人多卜を象徴する。

堺上の内容 を要約すると重創 された景福官の核心部は正殿 〔北極星〕→便殿 3軒 〔三光之

(13)

日韓宮殿の設計思想について

庭〕→ 王寝殿5軒 〔五帝座〕順 に配置 され天文 図 の星座 を模 倣 した とい える。次 は方 向 を 反対 に して解釈す る と、王妃寝殿 〔太極〕→ 門 〔陰陽〕→ 王寝殿5軒 〔五行〕順 に配置 され て い て、太極 図説 とその まま一致 してい る と言 える。結 論 的 に言 って、重建 配置計画案 は易理 と陰 陽五行 な ど建築外 的思想 を もとに してい る点 で朝鮮 初期 以来 の伝統 を継承 し て い る と言 える。

第31図 は、太極 図 と景福宮 の建物配置 を示す図 (後掲書の武井一氏作成の図を横置きに直 した)

であ る。太極 図 は北宋 の周教 順 (周凍渓

10171073)が

F易』 の太極 、両 儀 の宇宙生成論 に五 行 を加 えて 図 に した もので あ る。 この図案 を建物 配置 に応用 してい る ことになる。『易』 に は無極 とは記 され ないが、太極 だけで は何 か物体 の よ うな もの に誤解 され る恐 れがあ るた め無極 を加 えた もの と考 え られてい る。宋学 を集大成 した南宋 の朱子 の注 には太極 の他 に 無極 が あ るわ けで はない と加 える34。 朱子学 は万物 の存在 を物理的根源 であ る気 と事物 のあ り方 を規 定 す る理 に よって説 明 し、宇宙 。社 会 。人性 を首尾 一貫 した理 論 で捉 えようと し た ところに特徴 があ り、高麗朝末期 に朝鮮 に伝 え られ、李朝 では官学 になっていた。

景福 宮 交泰殿 は、近代 に昌徳宮大造殿 と して移築 され た もので あ るが、元 は王 と王妃 の 寝殿 で あ り、 天 地 の 陰 陽が交 わって良い後継者 が誕生 す る こ とを願 った ものである。大棟 の ない特徴 も天地 の交合 を妨 げない もの と しての理解 が可 能であ り、 また、極 とは本来棟 木 の意 味 で あ るか ら、 太極 が無極 であ る と した こ とか ら大棟 を造 らな くなった とも考 え ら れ る。

そ の交泰殿 か ら生 じた「気」 は両儀 門を通過す る と康寧殿 とその まわ りの四棟 に達す る。

これ らは五行 に因んだ名称 がつ け られてお り、 そ こで響 きあった「気」 は五智 門か ら政事 の舞台へ と流 れてい くと考 え られている95。

以上の ように、19世紀後半 になってか らの朝鮮王朝の宮殿 において も宮殿 は宇宙 を象 る ものである とい う意識が受け継がれていたのである。王が天子ではある と信 じられている わけではないが、人間社会 を統制す る秩序 と宇宙現象 を統制する理法 を同一視 した。 この ため、その背景 にある儒教論理の概念図で宇宙観 を示す、太極図を宮殿の建物配置に再現 しているのである。

V.平 城 宮 第 一 次大極殿 院の設計 思想

Ⅱで指摘 した ように、平城宮第一次大極殿 院では高御座 は天の北極、大極殿は当時の北 極星であ り、導積擁壁 は設計案

Bを

用いることによって具象的に内規 。赤道 。外規・黄道 に よる宇宙の構造 を象 った もの と考えることがで きる。では、大極殿院で他 に具象的あるい は抽象的に象 る ものはないのだろうか。大極殿 院は天皇 と臣下が儒教的儀礼 により、その 君臣関係 を再確認す るところである。そこには術数 を駆使 した、天道に基づいた空間が計

(14)

画 されたはずである。以下、その解釈 を記す。

l。 大 極 殿 院 と朝 堂 院

(1)紫

微宮

藤原京の中心 に位置す るのが藤原宮大極殿 ではな く、大極殿 院南 門である。F三輔黄図』

36、「始皇第極奢修、築成 陽宮、因北陵管殿、端 門四達、以則紫宮、象帝居、渭水貫都、

以天漢、横橋南渡、以法牽牛」 とあ り、宮殿 を紫微宮、渭水 を銀河、橋 を牽牛にそれぞれ 見立て、始皇帝の成陽宮の端 問が四方に繋がっていると述べ る。大極殿 院南門は紫微宮 (第 33図

)の

端門にあたるため、四方八達の都の中心に位置 したのである。その藤原宮大極殿院 では東面回廊の中央、大極殿 の東 に門の遺構が桁行6間 検出され、

7間

の問が存在 した可能 性が高 まった37。 これは隣接す る東楼へ の区画の門 として必要なものであった。 ところが、

平城宮第一次大極殿 院では東西 に直接つ なが る区画はな く、東面 回廊 と西面回廊 について 回廊基壇幅が広が る部分 は確認で きないことか ら、

300mを

越 える南北 に長い区画であるに もかかわ らず、回廊基壇 よ り大 きい規模 をもつ ような問は設けなかった と考えるのが 自然 である。設けた として も通用 門だろうか。紫微宮は東西 を塀で囲まれていたため、紫微宮 を象 った第一次大極殿 院は東西 に問を設 ける理念上、機能上の必要はなかった と考えるこ とがで きる。それで も、回廊基壇幅 を変えないで軒 を上げるような門を想定するとすれば、

藤原宮大極殿院での門の位置関係 を踏襲 し、大極殿の東西の方が適当であろう。導積擁壁 よ り南で、臣下のために大極殿院に横か ら入 る門を想定 しに くいか らである。そのときは、

F礼記』月令で為政者が 日に擬 えた行為 をするように、天皇 自身が東門か ら入 り、西門か ら 出るとい うような 日に擬 えた天皇の動 きを想定する必要があると思 われ る。神武天皇の東 征神話の中では、天皇 は 日の神 の子孫であるのに 日に向かって敵 を討つのは天道に逆 らっ ていると考え、 日神の威光 を借 りて進軍することにしたとされているのである。

大極殿院自体が紫微官 を象 るが、天皇 自身は紫微宮 にいることが

8世

紀前半か ら中頃にか けて強 く意識 されてい る38。 平城遷都詔では「弄薄 き徳 を以て、紫宮 の尊 きに処 り」、養老 五年 (721)二 月十六 日条の詔では「身、紫宮に居れ ども心 は降首 に在 り」、天平宝字元年 (757)人 月十八 日条の詔では「五人数を双べて、宝寿の不惑 に応へ、 日月明を共にして、紫 宮永配に象れ り」 とある。

『続 日本紀』にある通 り、奈良時代半ば恭仁宮へ移築 されたのは第一次大極殿並 びに東 面 と西面の回廊 で、南面 回廊 と南門を残 したことは中央区朝堂院の景観 を変えないで利用 で きる意味で合理的である。 しか し、東西の回廊 に紫微宮の東垣 と西垣 を擬 えていた とす ると合理性だけで解釈することには躊躇せ ざるを得ない。

(2)太

微宮

日本古代の官城 中枢部 は発掘調査の進展 によって、大極殿 院、朝堂院、内裏 などの区画

(15)

日韓宮殿 の設計思想 について

の規模や位置関係が明 らかにな り、その特徴 は政治の実態 などと関連 して理解 されるよう になって きた。平城宮で朝堂院が中央区 と東区に二つ存在 した ことは大極殿 に求め られた 儀式 と政務の機能分離の試みに対応するものとして明解 に説明 されている99。 しか しなが ら、

中央 区の四朝堂 と東 区の十二朝堂の建物の数 となる と、各朝堂院に求め られる機能の数や 人省 な どの役所 の数 だけでは説明がつかない。 このため、建物の数 までは機能のみで計画 されたわけではないのだろう。必要な機能 と表象 との調整 を図 りつつ、区画の中の建物の 数などに意味を持 たせた もの と思われる。

F史記』天官書 では十二の星 は内を正 し外 を護 る藩屏の臣で、天の中宮 とともに紫宮 と される。『後漢書』志 第十の天文上では「紫宮為皇極之居、太微為五帝之廷①」40とぁるが、

十二諸侯府 については言及 しない。一方、『晋書』志第一の天文上 には「太微、天子庭也、

五帝之坐也、十二諸侯府也、其外春、九卿也。」41とぁ り、太微宮 (第34図

)は

天子の庭であ り、

五帝の座であ り、十二諸侯府 とされた。『晋書』天文志が同心円の解釈 に適 していることは 後でみるが、 ここで もその天文観 を具現 しているように思われる。

第一次大極殿 院南 門は年中行事 として一月十七 日に射礼 をみ るためなどに出御する空間 で、単 なる門ではな く四堂か らなる中央区朝堂院の正殿 ともなる。 このため、中央区朝堂 院は工つの堂宇か らなるとみることがで き、平城宮で五帝 の坐 を表現 した ものであろう。

平安宮では豊楽院 と して受け継がれる。一方、東区朝堂院は十二堂か らな り、十二諸侯府 を表現 した もの と思 われる。その数十二は藤原官か ら平城宮、平安宮 に受け継がれる。隋 代の洛陽城では宮城 を紫微城、皇城 を太微城 と呼んでいたのである42。 大極殿 院が宇宙 を象 ることは指摘 したが、平城宮全体か らみた場合 の平城宮第一次大極殿院は紫微官 に見立て られて、二つの朝堂院は太微宮 に見立て られ、皇城 としての二つの性格 を表す ように思わ れる。

(3)伊

勢神宮 との 関係

平 城 宮 の 第一 次大極殿 院 とそ の南 の東 西 に二 つ並 ぶ朝 堂 院 の構 造 は、天照 大神 を祀 り、

天帝す なわ ち太―が習合 される と考 え られている伊勢神宮 の荒祭宮43と その南 で繰 り返 され る式年遷宮 の東西 の敷 地 と配置 関係 が類似 してい る と思 われ る (第35図)。 式 年遷宮 は20年 ご とで定着 して い るが、藤 原宮 ・平城宮期 の 『諸雑事 記』 F二 所 太神宮儀式帳』 にみ ると、

持統 四年 (690)、 和 銅 二 年 (709)、 天平元年 (729)、 天平 十九年 (747)、 天平神護二年 (766)

に行 われてい る44。 平 均 す る と陽暦 と陰暦 の調和 す る19年 ご とに陽 と陰の宮が入 れ替 わって い るのであ る。平城宮 の二つの朝堂院は中央 と非 中央 で陽 と陰の関係 にあ り、神 の宮 (宗廟)

を も象 るこ とになろ うか。

2.同 心 3円 の 中心 と高御座 の位置 につ いて

導積擁壁の平面形設計には同心

3円

と偏心円の交点を用いていた。『晋書」志第一の天文

(16)

45に「天子気 、 内赤外 黄、 四方所発之庇営有王者」 とあ り、 内規 。赤道 ・外 規 と偏心 円の 黄 道 を描 くこ とは天子 の証 と解 せ る。 同心3円の 中心 、す なわ ち宇 宙 の 中心 にあ るのが、

天 日嗣

"の

高御座 であ る。太 陽 は一年 を通 して も宇宙 の中心 (天の北極

)に

行 くことはな く、

設計案

Bの

黄道 た る偏 心 円が 同心3円の 中心 たる天の北極 に重 なる こ ともないのに、何故 、 太 陽 (日神

)の

後 裔 で あ る天皇 の玉座 、高御座 が宇宙 の中心 に置か れ るのだ ろ うか。宇宙 の 構 造 、天 道 に整 合 しな くなるので あ る。 おそ ら くそれ は、『晋書 』志 第一 の天文上46に「北 極 五 星

,釣

陳六星

,皆

在 紫 宮 中。 北極

,北

辰 最尊者也

,其

紐 星

,天

之柾 也。(中略

)第

一 星 主 月

,太

子也。 第二星 主 日

,帝

王也 ;亦太 乙之坐

,謂

最赤明者也。」 とあ るこ とと関連す る。

北 極 五 星 の 内 の 第 二 星 が 日 を 司 る の で あ る。 この た め 、 地 上 に写 した 宇 宙 の 中心 に 天 日嗣

"の

高御座 が置 か れ る と考 え られ るのであ る。

3.偏

心 円 上 の 井 戸 につ い て

偏心 円上に位置する井戸SE71451ま、35m、 3.lmの隅丸方形の堀形で、深 さは2.5m。 井戸 枠は完全 に抜 き取 られてお り、版築で丁寧に埋め戻 されている47。

天水 を得 るには二つの方法があった。F文選』西都賦 によると、建章宮の北 には仙 山を浮 かべた太波池があ り、中央の蓬莱 山に漠の武帝は一射の銅柱 を立てさせ た。 これは仙人が 掌 を広 げて甘露 を受けるように した ものであった48。 これが一つの方法で、 もう一つ は井戸 を穿つ ものである。

小南一郎49によると、漢代 に編 まれた『河図括地象』には「1可の精がのぼ りて天漠 と為る」

とあ り、地上の黄河 と天上 の天 の河 は対応 していた。魏晋南北朝の頃にで きた道教教典

『元始無量度人上品妙経』 には「東井は天河の源な り」 とある。『抱朴子』の快文では天の 河は北極か ら分かれ、一方 は南 中を過 ぎ、他方は東井 を経て、いずれ も地平線か ら下は地 中を流れて見 えない南極で結合、環状 をなす と考え られていた とい う。 これ らを考 え合 わ せると、地上の水の源は天の河、 とりわけ東井 と考えられていたのである。

このため大極殿 院の庭では黄道 に擬 える偏心円上に東井を象る 東

"の

井戸SE7145を 設 けた。 この井戸のみが左右対称 に造営 されている大極殿 院で対称 を破 る施設であるか もし れない。西の対称位置 に丼戸があった とすれば、南方七宿の中では西 に位置する 東井"

の位置関係 を正確 に写すのか もしれない。今後の調査 に期待 したい。 こうした井戸は、『万 葉集』巻一の五十二番「藤原宮 の御井の歌」 に歌われる占地上の重要性 と井戸の神聖 さを 引 き継 ぎ、「天つ水」 を汲 むため に設けるのであろう。「天つ水」 は平安時代 に採録 された F中臣寿詞』では天皇の食膳 に献上す る聖なる水のことであ り、高天原の皇祖ネ申の呪言によ って祝福 された地中の聖泉の水のことである50。

天皇 による日本支配の正当性 を説明するために書かれたのが記紀である引。その記紀神話 では、天上界す なわち高天の原 には天の安の河原 (天の河

)が

流れ、近 くには天の真名井、

(17)

日韓宮殿の設計思想について

す なわ ち東井 が あ る。 天照大神 と素表鳴尊 の ウケ ヒの場 面 で は、 天 の安 の河原 で十握 の剣 と人坂竣 の曲玉 を交換 し、辺 にあ る天 の真名井 に降 り濯 いで、 それ らか ら神 々が生 まれる。

誓約 の場 が河原 であ る こ と、 その辺 に丼戸が あ るこ とは大極殿 院 の庭 を理解す るの に重要 だ と思 われ る。大極殿 院 は君 臣関係 を再確 認す る誓約 の場 であ り、天 の安の河原 を再現 し た もので あ るため、川 原石 が敷 き詰 め られてい る と考 える こ とが で きるのであ る。岩屋戸 に籠 もった天照大神 を招 きだそ うと神 々が祭 りを した場所 も天 の安 の河原であ り、大極殿 院の庭 で は天照大神 や 降臨 した瑣竣杵 尊 と重 ね合 わせ て天皇 が群 臣の前 に出御 す るのであ る。

4.尊

積 擁 壁 の 平 面 形 と句 配

キ トラ古墳 の天文図では黄道 は赤道 と同 じ半径で表 されたが、導積擁壁の設計に用いた 偏心 円たる黄道 は外規 よ り大 きく、宇宙の構造 を正 しく象 らず、天道に則 さないことにな る。 これをどの ように解釈で きようか。 また、導積擁壁 に用い られている勾配はいかなる 意味をもつのであろうか。 この節では、 日輪の中にいると考えられた三足鳥ジとの関係をみ てみよう。

(1)黄

道 と峰幡

大極殿前庭 に注 目してみ よう。その中軸線上 には鳥形憧 (第36図)、 その東に 日像憧 。青 龍幡・朱雀幡、西 に月像憧・ 白虎幡・玄武幡の七本の唾幡が中軸線 に直行 して東西に並ぶ

(第37図)。 大宝元年 (701)正 月朔 日、藤原宮大極殿 院の南門に立て られたのが初見である。

平城宮第一次大極殿 院では第3図 のSB7141と 記 された遺構が これに当たるが53、 第二次大極 殿 院での憧幡遺構 の検 出 を経 て、二列の峰幡遺構 と認識 され る ようになったものである。

長岡宮大極殿 院で も同様の憧幡遺構 の検出例がある。平安時代の儀式書 『内裏儀式』では 帷幡の立て られた位置 は大極殿南階か ら一六〇尺、F延喜式』で一五 四尺である。導積擁壁 前の二列の嵯幡跡の うち、北列 は大極殿基壇南辺か ら159.8尺、南列 は南面階段か ら約156.8 尺である (第38図)。 南階段が当初 はな く、後に増設 された もの と考 え られるようになったロ が、その増設 を考慮す る と、北列が先行するとみて よい ものであって、前庭東寄 りで東井 を象る井戸SE7145と ほぼ並ぶ ことになる。四神は四方各七宿 (二十八宿

)か

ら成 るものであ るため、 日月 と併せて、峰幡の列 は黄道付近の星座 。天体 を直線状かつ立体的に し、天皇 が宇宙に君臨す ることを前庭の臣下に顕示 した もの と思われる。同時に、黄 (金

)色

の烏形 嵯 は四色の四神幡 と合 わせて五行 を、月・ 日像唾で陰陽をそれぞれ表現 し、陰陽の調和 と 五行の循環により天地和 同を願ったと考えられる。

渡辺信一郎55に よると、中国では正殿前に鳥形が置かれた。南朝梁の大極殿前には東西に 大鐘が設置 され、その中間には宋の武帝が洛陽を平定 した とき手 に入れた、銅製の風見鳥 である相風ッ鳥が設置 された (『宮苑記』)。 また、前漠の霊台 (天文観測施設

)に

は、相風銅鳥

(18)

が あ り、千里 を渉 る風 が到 来す る と動 いた (『三輔黄図』巻5台4Bl)。 皇 帝 は世 界 の人方の極地 にあ る人極 の 門か ら発 す る人風 を統 御 し、全 世 界 に調和 を もた らす存 在 で あ るため、天 空 ・宇宙 の中心 を模 した太極殿 前 に相風 鳥が設置 され るの は、必然の ことであ った とい う。

なお、後世 の事 例 にな るが、清代 初 期 の盛 京皇宮 (現在の藩陽故宮

)の

中枢 部清 寧官 の庭 に

1よ「索 倫 竿」 とい う烏 の飛 来 を まつ 満州族伝 統 の牛があ る。清 朝初代 の太祖 となるヌルハ チの先祖 を烏が助 けた伝 説が あ るためであ る50。 王権 を正 当化す る庭 の本質 を伝 える事例 と

して興味深 い。

(2)三

足烏 と八麗烏

新 川登 亀男57による と、三足烏 は中国で は道教神 の西王母 の侍者、不 老長生 の具現、王者 慈 孝 の証 、 日之精 とされ、 天授 元年 (690)に則 天 武后 は「周 室嘉瑞 」 と した。 日本 で は、

玉 虫厨 子 の 日輪 に描 か れ た三足 鳥 を早 い例 と して挙 げ る こ とが で きる。 また、 白雉 元年 (650)に は三足烏が 出現 し、祥瑞 で あ るこ とが判 明 した と記 され るが、 この時点 ではその意 味が即座 にはわか らず、充分 には認 識 されてい なか った こ とが知 られ る。 なお、天武天皇 の頃 (十一年八月・十二年一月二 日および七 日

)に

は三足烏 な らぬ三足雀が祥瑞 としてみ える。

一方、人麗烏 (大きな鳥の意で、盤は周代の長さの単位

)は

記紀の神武天皇東征伝 説の中にみ え、天照大神が遣 わ した天皇 の先 導者 であ る。『古事記』で は「八麗鳥」、『 日本書紀』では

「頭八麗烏」 とされ るが、三足鳥 とは記 されていない。

現在、熊野本宮大社では人麗烏が祀 られ三本足で描かれるが、いつか ら人麗鳥が三足鳥 と同一視 されたか、三足烏の鳥形憧が大宝元年 (701)や霊亀元年 (715)まで遡 りうるのか も明 らかではない。憧幡中央 にある鳥形峰 (銅烏

)に

ついては、弘仁十四年 (823)の『淳和 天皇御即位記』に「立八麗烏 日月形」 と記 され58、 遅 くともこの時 までには憧幡の烏形帷の 鳥 を三足烏ではな く、人麗烏 としている。

ところで、藤原宮大極殿 の中軸線、す なわち藤原京中軸線の南延長部付近には天武持統 陵や考古学的に文武陵 ともされる中尾 山古墳、高松塚古墳、キ トラ古墳が位置 し、北延長 部の京都市山科 区には文武天皇三年 (699)に築造 した天智天皇陵が位置す ることはよく知 られている59。

̲方

、藤原宮内裏の真東約

12kmに

は慶雲二年 (705)九 月九 日、大和 国宇太 郡 に入麗鳥 を祀る社 (現在の八麗烏神社、奈良県宇陀市榛原区高塚

)が

置かれ、

 

この 日は天武天 皇の二十回忌、すなわち没後 ち ょうど十九年 (19年で1章という単位がある

)に

あたる。その 場所のさらに東方には伊勢神宮外宮が位置する。藤原京は F周礼』「考工記」 を参考に して 造営 された と考 えられているが、 これには「左祖右社」 とい う原則 も記 されている。 これ は伊勢神宮で皇祖神 を東 に祀 ることと無関係ではな く、律令では既存の伊勢神宮 を宗廟に 相当するもの として読み替えているのであ り。O、 実際、平安時代 には伊勢神宮等の神社 を廟 と称 していたことが知 られるa。『文選』左太沖作 「魏都賦」62には「釣組 の笙緒 を聞 き、二

(19)

日韓宮殿 の設計思想 につ いて

分 の 正 要 を承 く。 日星 を揆 り、 星 耀 を考 ふ 。 社 稜 を建 て 、 清 廟 を作 る。(コンパスや墨縄 を手 順に従 って用い、春分 と秋分 の太陽の位置 によって正 しい方位 を定め、太陽の位置、星の位置を計測 し、

土地の神、櫻物の神、そして先祖を祀る廟を建設した。)」 とある。藤原官 の東 に入麗鳥神社 と伊 勢神宮外宮が正 しく位置す ることもこの文脈か ら理解で きると思 う。皇祖神 を導 く八肥鳥 を藤原宮の手前 に置 き、春分・秋分 には太陽がそれ らを一直線 (たて経に

)に

なぞることに なる。人麗烏 とそれ を祀 る神社の位置 は、完成 をめざす律令国家の理念 と空間秩序 に関わ るのであろう。

(3)導

積擁壁の勾配の意味

導積擁壁の本来的な高 さは7尺 か8尺 と考えられる。その平面形の設計方法が解明で きて いなかった時点では、① 第一次大極殿院の形態に影響を与えたと考えられている唐長安城 大明宮含元殿の龍尾道 (広場から含元殿に至る通路

)が

七回屈曲 した と F談録』に記されるこ と、② 】ヒ斗七星 は古代中国では天文運行の基準 として、陰陽や五行 を正す もの として尊ば れたことな ど63から、七 に因んだ設計 を意図 し、高 さは

7尺

であろうと推測 した。 しか しな が ら、後述するように辱積擁壁が意識 しているのは日のイデオロギーの ようである。

導積擁壁 は約70度の勾配 をもつ。北練34.7度の余良において、夏至正午の太陽高度 は23.4 度 を加 えた78.1度、春分・秋分では55.3度である し、擁壁 は北 に転 んでいるため、太陽の高 度 とは関係 しないようである。

導積擁壁の勾配は

27尺

上が りの

1寸

転び (69度11分

)や

1尺

上が りの3.8寸転び に9度11分) とい うような勾配ではな く、施工にあたっては8尺 上が りの3尺 転び (69度26分

)で

設定 した と考えられる。現在 も高 さを断定することはで きないが、

8尺

は古代 中国において 日の影 を 用いて方位 を割 り出 した り、太陽高度 を測 るために立てた表 と呼ぶ棒 の長 さで もある。 ま た、前述 したように天地人は九・六 。人 に姑応 し、大極殿 院で南か ら600大尺の導積壇 を基 準 に、そこか ら上の900大 尺 までが天皇の独 占空間である「天」、導積壇 までが巨下の広場 で「地」a、 それ らの間にあるのは「人

Jで

あって、高さは

8尺

でなければな らないのである。

導積壇底の標高70.4m、 高 さを

8尺

とした場合、その天端の標高は

7276mと

な り、大極殿基 壇南北中央の復元地盤73.Omに近 くなる。

導積擁壁の転ぶ角度 に関わる3は 後述す る天地人三才の三である。 また、3と 8とい う数 は陰陽五行説で東 (日の正位

)に

配当されるもので、陰陽五行説の 日本での教科書 F五行大 義』巻第一。5には「本 は天 に在 りては三 と為 し、地 に在 りては人 と為 し、三八東 に合す。」

とある。

上述の通 り、人麗鳥 と三足烏の同一視が霊亀元年 (715)ま で遡 れ るかは確証がないが、

人肥鳥は 日神が遣わす烏であるか ら、この時 までには両者が同一視 されていたのではなか ろうか。東 (日の正位

)に

配当 される3と 8という天地の数 を用いて導積擁壁の勾配が造 られ

参照

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