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(1)薬 師寺 の創建 と食 堂 の歴 史

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Academic year: 2021

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(1)

食 堂 の歴 史 と既 往 の成 果

(1)薬 師寺 の創建 と食 堂 の歴 史

薬 師寺

 

薬 師寺 は 『日本書紀』 に よる と、天武天皇

9年

(680)に天皇が皇后 (のちの持統天皇

)の

病 気平癒 を祈願 して発願 した寺 院 とされ る。 これが藤原京の薬師寺 であ り、現在 は本薬師寺 と呼 ばれ、

橿 原市城殿 町 に東西両塔 お よび金 堂の土壇 を残 す。 その後、和銅

3年

(710)の 平城遷都 に ともなっ て薬師寺 も平城京右京六条二坊 に寺地 を移 し、以来現代 まで法灯が受 け継がれている。平城京の薬師 寺造営 に関 しては、長和

4年

(1015)に撰述 され、元弘

3年

(1333)に書写 された薬師寺本 F薬師寺縁 起』(以下 『縁起』 と略す

)に

、養老

2年

(718)に伽藍 を移す との記載が ある。 しか し1977年の発掘調 査 で、東僧房北側 の井戸 よ り霊亀

2年

(716)の 年紀 のあ る木簡 が本薬 師寺式 の瓦や奈 良時代初頭 の 土器 な どとともに出土 したことか ら(『薬師寺発掘調査報告』奈良国立文化財研究所1987、 以下『薬師寺報告』) 造営 自然 はそれ よ り以前 には始 まっていた らしい。堂塔 の建立 に関 しては、東塔のみ記録があ り、天 平

2年

(730)に建立 されたことが 『七大寺年表』 や 『扶桑略記」 な どにみ える。

食 堂

 

古代 にお ける食堂 は、僧侶 が一 同に会 して斎食 をす る建物 である。食堂の実態 は史料が乏 し く、不 明 な点が多 いが、そのほか に も、布 薩 に代表 され る仏教儀礼 や、年 中行事 な どがお こなわれ、

僧侶 の 日常 的活動 を支 える と同時 に儀礼 空 間で もあった とい う (吉川真司2010「古代の食堂」『律令国家 史論集』塙書房)。 薬師寺食堂の造営年代 に関 しては不 明だが、東塔 の年代 を手がか りにす る と、おそ

くとも奈良時代前半 には建 て られた とみ られ る。

F縁起』 には、「―

.食

堂一宇 九 間四面、東屋、長十 四丈、広五丈 四尺 五寸、柱 高二丈五寸、前九 間、後戸三間、左右脇 門。」とある。 この記述 に よると、食堂の規模 は桁行11間、梁行

4間

で、寄棟造、

建 物 の大 き さ は桁 行 140尺 、 梁 行54尺

5寸

と あ る。 また、扉 口 は正 面 に

9つ

、背 面 に

3つ

、 左右 には脇 門が1つず つ あ った と記 され て い る。 ただ し、屋 根 の形 や柱 の高 さに関す る記 述 は、薬 師寺本 にのみみ られ、建 永

2年

(1207) の醍醐 寺本 『諸寺縁 起 集』 や康永

4年

(1345) の護 国寺本 『諸寺縁 起 集』 に収録 され た F薬 師寺縁 起』 にはみ られ ない。

この食 堂 は、 天禄

4年

(973)に 北 方 に隣接 す る十 字廊 よ り出火 した火 災 に よ り焼 失 した

(『縁起』・『扶桑略記』)。 この火 災 は、 平城 京 の 薬 師寺 に とって創 建 以 来初 め て とな る大規模 な災 害 で、金 堂 と東 西両塔 以外 の主要 な伽 藍

}̲――一一―一―  ― ――

のほ とん どが焼失 している。その後、食堂 は 寛弘

2年

(1005)に再建 された ことが 『縁起』

にみ え る。 また、保廷

6年

(1140)に 大江 親 通 によって編 まれた 『七大寺巡礼私記』 によ れば、「食堂一宇九間四面瓦葺」 とあ り、F縁 第2図

 

『伽藍寺中弄阿弥陀山之図』

(2)

起」 と同 じ桁行11間、梁行

4間

の瓦葺建物 だったことわか る。以後 は食堂 に関す る文献史料 はみあた らず、いつ まで存続 したか は不 明だが、延宝

2〜 4年

(1674〜 1676)の 作 とされ る『伽藍寺 中井阿弥 陀 山之図』 や元禄

2年

(1689)の伽藍絵 図 な ど、江戸時代 の絵 図 には食堂が描 かれていない。代 わ り に食堂の位置 には、南北の参道が設 け られてい る。 したが って、遅 くともこの頃 までには廃絶 してい た と考 え られ る。 なお、 この南北 の参 道 は、1969〜 1974年の発掘調査 まで参道や生活用通路 と して 踏襲 されて きた。今 回の調査 で も、参道があった基壇 中央部 は基壇土の残存状況が よ く、路面 と考 え られ る固 く締 まった面 も土層で観察で きた。長年通路 として利用 されて きたため、後世の耕作 な どに ともな う削平 を免れた と考 え られる。

(2)既 往 の 調 査

食 堂 は、 1968年 か ら実 施 され た薬 師寺 伽 藍 復 興 計 画 に と もない、 1969年 (第623次)、 1970年 (第62‑

14、 69‑3次)、 1974年 (第8821次)の

4回

にわ た り部分 的 な発掘 調査 が お こなわれ てい る (『薬師寺報告』)。

これ らの調査 の なか で、 第

623次

6214次

693次

調 査 は薬 師寺 伽 藍 発 掘 調 査 回 の手 に よる もの で、

そ れ以 後 は奈 良 国立文化財研 究所 (2001年の独立行政法人化により奈良文化財研究所

)に

よる もので あ る。

遺構 は、 第

623次

調 査 で基 壇 東 南 隅 の 地 覆 石 の 一 部 を発 見 した の を皮 切 りに、 翌 年 の 第

6214次

調 査 で は南 面 の 中央 階段 部分 と講 堂 に向 けて南 に延 び る石敷 の参 道 が検 出 され た、 また、基壇 北 面西 寄 りの地 覆 石 、 お よび石 敷 や石 組 雨 落 溝 の一 部 が検 出 され、 部分 的 で はあ るが基 壇 とそ の周 辺 の状 況 が 明 らか に な っ た。 第

8821次

調 査 で は、 食 堂 西 側柱 列 の礎 石 下 地業 と礎 石 抜 取 穴 を検 出 し、 一 部 で は 礎 石 根 固 め石 も残 存 す る と報 告 され た。 これ らの調 査 成 果 か ら、 食 堂 は桁 行 11間 、 梁 行

4間

の礎 石建 物 で、 桁 行 総 長 は140尺 、 柱 聞寸 法 は 中央 間 の み 十 字廊 の柱 間 に合 わせ て15尺 、 そ の他 は12.5尺等 間、

梁 行 は総 長54尺 で 身舎

2間

14.5尺、 廂12.5尺と復 元 され、 F縁 起』 に記載 され た食 堂 の規模 にほぼ一 致 す る と され た。 また平 安 時代 の瓦 が 少 量 なが ら も出土 す る こ とか ら寛 弘

2年

(1005)に 再 建 され た 可 能性 が 高 い とされ てい るが、再建 を示 す 明確 な遺構 は確 認 され て い ない。

Q,821次´`      A

 

堂卵拗o次調査区

・Q I

   十   

一一 ︲     Q

第 3図

 

今回の調査区および既往の調査位置図 (1:500)

参照

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